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 砂漠の首都へ到着するまで、蛇行し遠回りする道筋で、あと一週間。残り二つの都市と一つのちいさなオアシスを残し、リトリアはお風呂へ放り込まれていた。連続して移動すると熱を出すでしょう、と頑なに休養日をなくそうとしないラーヴェに、朝起きるなり今日はゆっくりお手入れをさせてくださいね、と告げられた為だ。確かリトリアは差し迫った危機の為に一刻も早く首都に到着しなければならず、その為に楽音から逃亡している筈なのだが。何回、どう考えても、その筈だったのだが。色とりどりの花びらがたっぷり浮かんだ、いいにおいのするお風呂に浮かびながら、リトリアはなんでこんなことになってるんだっけ、という、最近一日四回は考えている疑問に取り組んだ。ラーヴェの老後の楽しみのせいである。おおきくなりましょうね、と健康を願ってたっぷりの休養と食事を与えられているせいである。八割九割それである。ちょっとよくわからない。
 お風呂から出ると待ち構えていた女性たちにもみくちゃにされながら、リトリアは懸命にそれを訴えた。先を急いでいてこんなことしている場合じゃないんです、と告げた言葉をあれよあれよと転がされ、聞き出され、リトリアはいつの間にか暖かい薄荷湯をすすりながら、だってストルさんとツフィアはほんとうは私のことが好きじゃなかったんだもん、という所にまで辿りつかされていた。どういう道筋でそこまで聞き出されたのか全く思い出せないのだが、気がついたらそういう話になっていた。てきぱきとリトリアの髪を結い上げていた女性が、うぅん、と笑みをたっぷり含んだ声で笑う。
「勘違いですよ?」
 一言である。うんうん、と頷く世話役の女性たちに混じって、いつの間にかラーヴェの姿もあった。ものすごく微笑ましそうに笑っている。リトリアは、いいですか終わるまでは動かないでじっとしていてくださいね、と告げられた椅子の上でもちもちうさぎをぎゅうううぅっと抱きしめ、そんなことないです、と言った。
「えっと、えっと、私……私、予知魔術師っていう、えっと魔術師なんですけど……! 予知魔術師って、あの、やろうと思えばなんでもできて……!」
「はい。それはすごいですね」
「ラーヴェさんたら絶対信じてくださっていないでしょうー!」
 ソキ、なぁんでもひとりでできるんですよぉ、すごいでしょうえらいでしょう、えへへん、とふんぞり返るソキを褒めるロゼアと、同じ眼差しをしていた。ほ、ほんとうだもん、できるんだもん、といじけた声で抗議するリトリアに、ラーヴェは穏やかな声ではい、と言った。
「そうですね、できるんですよね。ちょっと魔術が苦手なだけで。……それで?」
「苦手でもないんですってばぁ……! ここ何日かは熱だしたり、眩暈したりとかもしてな」
「ここ何日かは?」
 ぱっ、とリトリアは口元を両手で押さえ、ラーヴェから視線を反らした。体調を崩すので勝手に魔術を使いません、という約束を療養中にさせられていたからである。リトリアはそれを忘れていた訳ではない。ただ、こっそり使って大丈夫だったので、以後も内緒にしていただけである。だって近くなってきたから心配で、ともそもそ言い訳をするリトリアに、深く息が吐き出される。
「あの熱は……それでか……」
「ご、ごめんなさい……。近くなってきたから心配だったの。最近はなんだか体調もすごく良いし、大丈夫かなって……」
「普段からあまり体調が良くおられない?」
 定期的に『学園』を訪れることさえできていれば、リトリアはソキよりずっと元気である。それを伝えるとラーヴェは輝かんばかりの笑みでよく分かりましたと告げ、今日はお手入れが終わったらお昼寝をしましょうね、と言った。もはや決定事項を通達する響きだった。ソキちゃんみたいに、あんなにたくさん寝なくても大丈夫なんです、という訴えは聞こえないふりで流される。
「それで? 魔術がどうされたんでしたっけ……?」
「も……もう勝手に使ったりしません……。ラーヴェさんがちゃんと隠してくれるって、もう分かったもの……」
「……はい。偉いですね」
 ようするにそれまで、本当には信頼していなかったということなのだが。信頼することができたので。もうしません、と告げたリトリアに、男はうっとりするほど甘く、柔らかく、嬉しそうに微笑した。実際、ラーヴェはリトリアを隠すのが上手かった。リトリアが魔術を使って行っていた視線や意識の誘導、かく乱を、立ち居振る舞いと、話術。微笑みひとつでやってのけた。各都市、様々な場所に知り合いがいる男は、その知名度の高さを利用して、注意や視線を己の身に集めたのだ。時に、旅装の中へリトリアをやんわり抱き寄せて隠して。私の老後の楽しみは恥ずかしがり屋なものでね、と囁かれるだけで、魔法のように人々はリトリアから意識を反らしてくれた。
 端整な顔の使い方を、ラーヴェは完璧に理解していてやっている。それなのに。
「……気分はどうですか?」
 赤くなったリトリアに触れて熱を探る手は、少女が己に照れたりどきどきしたりしている可能性ではなく、不意の体調不良を案ずるものだった。ソキちゃんの気持ちがすごくよく分かったと胸に手を押し当てて深呼吸し、リトリアはぐいぐいとラーヴェの腕を押しやった。
「あんまりたくさん触っちゃだめ……」
「ん? ……嫌になりました?」
「間違ってどきどきしちゃったらどうするんですかぁ……!」
 ストルは見る者の胸を男女関係なくときめかせるような綺麗な青年だが、ラーヴェのそれは、リトリアには種類が違うように思えた。あまく、やんわり、惑わされる。気がつけば虜になっている。そういう魅力がある美丈夫だった。だめですストルさんとツフィアひとすじだもの、ほんとだもの、と目をうるませて抗議するリトリアに、ラーヴェはひとすじとは、と言いたげな顔をしたものの、すぐに肩を震わせて楽しげに笑う。体温を。すこしだけあげるような、笑顔。
「どきどきするの?」
「聞いちゃだめえぇっ……! う、うぅ、ストルさんよりいじわる……! ……あれ? でもストルさんのほうがいじわる……?」
 系統が似ているような気がして、リトリアはじわわわわっと涙ぐみ、ふるふると首を振った。怖いから気がつかなかったことにして、ぎゅ、ともちもちうさぎを抱きなおし、気を上向かせる。ふふ、とラーヴェに笑われた。
「うさぎは気に入りました?」
「うううぅうぅ……!」
 真っ赤になって涙ぐんでラーヴェをぽかぽか叩いた後、リトリアは笑いをこらえていた髪結いの女性に、頬を膨らませて言いつける。
「いじわるをされます……!」
「ええ。いけない方ですわよねぇ……」
 溜息をつかれた。それだけだった。



 あの方ちょっと自由なのですわ、許してさしあげてね、とラーヴェを追い出した女性に囁かれ、リトリアはこくこくと頷いた。落ち着きをなくした心臓をなだめながら、リトリアはようやくゆっくり息をして、室内に視線を走らせる。天井の高く作られた、脱衣所めいた空間だった。棚には編み籠がいくつも置かれ、硝子戸で区切られた次の間は湯殿である。床はやわらかな布が幾重にも重ねられた作りで、椅子から降ろした足先をふわふわと受け止めた。転んでも痛くなさそう、とふと思う。
「さ。いじわるさんは追い出しましたし、お手入れの続き、致しましょうね!」
「……しないとだめ?」
「わたくしたちがするか、ラーヴェと交代するか、です」
 しない、ということにはどうしてもならないらしい。リトリアはくちびるを尖らせながら、ラーヴェの出て行った方角へ視線を投げかけた。
「ラーヴェさんもおていれ、できるの?」
「できると言うか……そうですねぇ。趣味と生きがいではあると思いますけれど、職にしようと思えば簡単なことですかしら」
 ですのでお望みとあらばすぐ呼んでまいりますと微笑む女性に、リトリアは頬を赤く染め、ふるふると勢い良く首を振った。ちょっと考えただけでも緊張と恥ずかしさで息が難しくなりそうなので、全力で遠慮しておきたい。うさぎをもぎゅもぎゅ押しつぶしていじめながら、リトリアは深く息を吐き出した。
「もしかしてラーヴェさんにもしちゃってるのかなぁ……」
「なにをですか?」
「……予知魔術師は、魅了ができるの」
 ストルさんとね、ツフィアにね、私はずっとしちゃってて。だからなの。それでなの。それでね、うんと注意しているんですけど、もしかしてラーヴェさんにもしちゃってるんじゃないのかと思うの。たどたどしく、やや涙ぐみ気落ちしながら呟くリトリアに、女性たちはあらあらまあまあ、と微笑ましく視線を交わし。のち、しっかりと頷いた。
「勘違いですよ?」
「えっ。で、でもでも、あのね?」
「いいですか、リトリアさま。わたくしどもが、こうして魔術師の方にお目にかかるのは、はじめてのことです。ですから、魔術を使ってどうこう、という専門家ではございません。ですが、こと、魅了、というものについて、わたくしどもは、よぉく知っておりますのよ」
 ひとことを大切に、受け渡すように。手の中にそっと包ませるように。穏やかに、やさしく、語りかけられる言葉だった。
「ご安心くださいね。ラーヴェは元が自由なだけですわ。あれは性格ですの。……困った方」
「それに、リトリアさまが仰る方々も。決してそんな風にはなっておりませんわ。ご自身の意思で、リトリアさまを大切にされているだけですのよ」
「……理由が、なくても?」
 いまひとつ腑に落ちないが、ラーヴェに関しては本人が老後の楽しみだと言ってはばからないので、もうそういうことにしておくとして。ストルとツフィアのそれを、信じられないでいる。信じるのが怖かった。疑っていることを、はじめて受け入れる。信じていないことを。愛情も、好意も、優しさも、すべて。信じたいと思う、と感じることで、もう本当は疑っていた。目隠しを続けたそれに、はじめて手を伸ばす。
「ふたりに好きになってもらえる理由なんて、なにひとつ、私は持っていないのに……?」
「では、リトリアさまの理由は?」
 おふたりをどんな理由で好きになられたの、と問う声は、リトリアを咎めていなかった。なにひとつ。責めずに、ただ、待っていてくれた。そんなの、とリトリアは涙の滲む想いで目を伏せる。出会いの記憶は宝石の欠片のよう。心の一番やわらかな場所に、眠らせながらそっと置いてある。いつでもそれに巡り合える。新緑。光が降り注いでいた。寮と学び舎を離れ、満ちた光の降り注ぐ場所で、リトリアはひとりで泣いていた。誰かを求めていたわけではない。呼んだつもりもなかった。けれど、足音がして。未だ知らぬ名を、呼びかける言葉を持たぬ声がして。振り返って、目が合った。ふたりに。その瞬間に、突き落とされるように恋に落ちた。
 運命だと、思った。ずっとそう思っていた。だから。
「わたしの、理由……」
 そんなものは存在さえしていない。理由があるとすれば、もし、あるとするのならば。はじめてめぐり合った時から、好きだと思った。第一印象からの、本能的な好意。それだけだった。
「理由、ないです……。好きなの。傍にいたいの。大好きなの。……好きに」
 なってほしかった。囁く望みの言葉をくちびるに力をいれることで殺し、リトリアは何度か瞬きをして、浮かんできた涙をもこらえきった。荒れた感情を深呼吸で押さえつける。内側にある魔力は水面を揺らすだけで、零れ落ちていく気配は感じ取れない。ほ、と息を吐いた所で、笑み交じりの声が囁いた。
「ね? 理由がなくても好きにはなれますでしょう?」
「でも……傍に、いてくれなく、なっちゃったの……。もう、いや、って」
 言われたのだろうか。本当にそれを言われたのだろうか。それを考えるたび、気持ちはそこで立ち止まる。違う、と思いたい。言われていない、と思っている。それなのにインク染みのように広がる記憶が、リトリアの気持ちを何度でも否定した。言われた記憶が、ある。リトリアに、それはあるのだ。ストルは言っていない、と言ったけれど。ツフィアの腕はリトリアを抱き返してはくれなかった。言葉魔術師は、予知魔術師の影響をある程度受けにくい。ある程度、までなら。深層に染み込んだ予知魔術、呪いじみた魅了に対する反発であるとするなら、それこそが答えだ。記憶が正か、想いが正か。正しいものを考える。否定をするものを。否定しなければいけないものを。
 なにが間違いなのかを。
「それから、ずっと会えなくて……会っちゃいけなくて……でも、会ったら、ストルさんは好きって。俺のリトリア、って、いうの。ずっと傍にいてって、わたし……私が、お願いした時、には、だめって。でも、そういうの。だから」
「お傍にいられない事情があったのではなくて? 例えば、どなたかからそうご命令されていた、ですとか。……会ってはいけない立場にならざるを得なかった、ですとか」
「……会ったら、いけないのは、だって」
 それはリトリアが選ばなかったからだ。ストルを殺し手として、ツフィアを己の守り手として。この世のなにもかもを退けてでも傍にいて欲しいと望む手を、ふたりに伸ばさなかったからだ。考え、口に出そうとして、リトリアはざっと血の気の引く音を聞く。会えなくなったのは、会ってはいけないと告げられたのは、いつだっただろうか。仮決定ではなく、ほんとうに、五王の許可の下に命令が下されたのは。ふたりの卒業が決まって、リトリアが呼び出されて、そして。意思確認をされた後。誰もなにも選ばなかった後のこと。リトリアの選択が、ツフィアとストルを今の立場に突き落とした。それをツフィアがうらまないでいると、どうして言えただろう。ストルがそれを、厭わないでいると。
 それで、どうして。好きでいてくれるだなんて思えたのだろう。
「だって?」
「……だって、やっぱり、魅了しちゃうからで……しちゃってるんだと思うの……」
 いじいじ、指先を擦り合わせながらかなしげな声で呟くリトリアに、女性たちはあらあらと視線を見合わせた。ひとりが問う。
「リトリアさま。ちなみに、会われなかった期間というのはどれくらいですの? 一週間? 半月ほど? それとも、まさか、一月以上?」
「ううん? えっと、えっと……二、三年、くらい」
「……そのおふたりに会われた時、正気でらした?」
 ひきつったような沈黙の後に重ねて問われて、リトリアは眉を寄せながら一応考え、こくりとばかり頷いた。ストルはちょっと怒ったり不機嫌だったり、目が怖かったりしたこともあるが、すこしすればいつもの、記憶にあるようなやさしい、甘い笑みでリトリアに手を伸ばしてくれたのだし。ツフィアも早足に立ち去ってしまった以外は、ふつう、であるように見えたからだ。切れ切れの言葉でなんとか説明すると、髪結いの女性はおおげさなまでの仕草で胸を撫で下ろし。全身全霊の気迫を込めて、しっかりと頷き、リトリアを見た。
「魅了されておりません。ご安心なさって?」
「え、えぇ……?」
「そんなに長期間正気を保っていられるのであれば、間違いはありません。よろしいですか? 無理です。まず無理、ではなく。決して、望みなどなく、不可能、という無理ですわ」
 リトリアはちらっと、『学園』に戻れなかった期間のソキのことを思い出した。たった数日でみるみるうちに体調を崩してやつれていく様は見ているだけでも切なかったが、それを語ったリトリアに、チェチェリアは達観しきった笑みで頷いた。離れていた間のロゼアのことを、チェチェリアはなぜか話そうとせず。深く息を吐いて、落ち着いているように見せかけている、のがこちらに分かるくらいの状態だった、とだけ言った。ロゼアくんもしかしてちょっと危なかったのではないかしら、と思い悩むリトリアの頬を、化粧筆がこしょこしょとなぞって行く。
「もう。どうしてそんなに魅了しているところから離れたがりませんの?」
「だ、だって、だってぇ……! ストルさん、私が言って欲しかったこととか、言ってくれるのに、だめって言ってもやめてくれなかったりするし……! えっとえっと、この間も、その、怖い? って聞いたのに教えてくれなくって、ツフィアにぎゅっとしたら、ふたりで何処かへ行っちゃったし……! ツフィアはほんとうに久しぶりに会ったのに……ぎゅっとして欲しかったのに……」
 昔はぎゅっとしてくれた気がするのに、と鼻をすすって呟くリトリアを囲みながら、女性たちは大まかに察した、というような笑みを交わして頷きあった。
「ツフィアさま、それは殴りに行かれたのではなくて?」
「そうよね……。大事に可愛がってた女の子が久しぶりに会ったら手篭めにされかけていたとすれば、それはもう殴りにも行きますわよね……。そして現場は絶対に見せない。分かる」
「リトリアさま? その、だめ、はどういう風に仰られたの? 私にそっと教えてくださる?」
 頭の上を飛び交う会話にいまひとつ納得しきれない顔をしながらも、リトリアは求められるまま、えっとえっと、と顔を赤らめて涙ぐみ、瞬きをした。
「い……息ができなくて、苦しいから……あんまり、たくさん、キスするの、だめ、って。言ったの。嬉しいけど、どきどきしちゃうし、苦しいから、だめって」
「……そうしたら?」
「嫌って言えたらやめてくれるって……」
 でもね、でもね、いやじゃないの。いやじゃないけど、だめなの。言ったのにやめてくれないの、と思い出して恥ずかしさのあまり涙ぐみながら訴えるリトリアに、女性陣の笑みが深くなった。リトリアさま、とすんすんしゃくりあげる少女に、囁きかける声はやさしい。
「それでやめる方は滅多におりませんわ」
 内容はともあれ。えっ、と目をぱちくりさせるリトリアに、目元に刷く色はどれにしましょうね、と悩みながら両手で肩が包まれた。
「ちなみにその、ストルさま? 出身はどちら?」
「出身? えっと、砂漠の……砂漠の、えっと」
 都市の名前をうろ覚えでもぽそぽそ呟けば、そうでしょうね、と深く頷かれる。なんでも、『お屋敷』を辞した元『傍付き』が、ちらほら居を構える都市のひとつであるらしい。それがなにを意味するか分からず、あいまいに首を傾げるリトリアに、鮮やかな紅が刷かれる。咲き初めの薔薇のいろ。
「方々の血の末であるならなおのこと、魅了には耐性がありましょう。……ご安心なさって、リトリアさま」
 まあ愛らしい、でもいくつか色を試させてくださいね、と告げられながら、両手を包んで囁かれる。
「その方、ちょっぴりいじわるさんなだけですわ。性格が」
「性格が……えっ、ストルさん? ストルさん、いじわる……?」
「お心当たりは?」
 ない、とは、絶対にいえない。頬を赤らめてもじもじ指先を組み替えたのち、ちょっとだけ、とごくごく控えめに述べたリトリアに、女性陣はなぜか気合の入った表情で頷きあった。それにぱちぱちと瞬きをして、唐突にそれを思い出したので、リトリアはあっと声をあげた。
「で、でもでも、ストルさんはツフィアが好きなのかもしれなくて……? ツフィアはストルさんが好きだったのかも知れないの……!」
「あのね、リトリアさま」
 ふわりと包み込む陽光のように、誰もが笑った。
「勘違いですわ」
 告げられる内容はともかくとして。なんだか今日はそればっかり言われてる気がする、あれ、えっと、と混乱するリトリアに、でもどうしてそう思うかは教えてくださいませね、と囁きが問いかけ。あれよあれよという間に事細かに話を聞きだされ、下された結論は。その日何度も繰り返された言葉と、全く同じものだった。



 待合室らしき広々とした空間に、笑い声が響いている。もっちもっちぎゅむぎゅむいじいじとうさぎを苛めながら、リトリアはかれこれ三分は爆笑しているラーヴェのことを、恨めしげに睨み付けた。うるうるつやつやふわふわに仕上げられたリトリアがようやっと女性陣に解放され、盛り上がっておいででしたね、と微笑むラーヴェにこんなことを言われました、と頬を膨らませて報告してから、ずっとこうである。それはまあ確かに、よく考えれば、ラーヴェを魅了してしまっていたかも知れないというのは思い上がっていたというか、勘違いというか、恥ずかしいので聞かなかったことにして欲しいので笑われるくらいならいいかな、と思えなくもないのだが。思えなくもないのだが、しかし。
 笑いすぎである。
「も、もおぉ……! 違うって分かったんですから、もう笑うの、だめ! だめぇっ!」
「誤解を……させておりましたね。可愛らしい方だ」
「もおおぉおそういうことばっかり言うからあぁあああっ!」
 そもそも、呼吸とか瞬きくらいの感覚で可愛いとかあれこれ褒めてくるのがいけないのである。そう訴えればにっこり笑って老後の楽しみですからと囁かれたので、なんでもそれ言えばいいと思ってーっ、とリトリアは怒った。それはもう怒ったのだが。うっとりするような微笑みで怒っているのを見守られ、リトリアはへなへなと力なく、長椅子に体を突っ伏した。
「お疲れですか?」
 誰のせいだと思っているのか。ごく自然に手を伸ばし、指にからめるように髪を撫でてくる男を睨み付け、リトリアは通りがかった髪結いの女性に、本日二度目の訴えをした。
「ラーヴェさんがいじわるします!」
「許してさしあげてね。その方とても自由ないじわるさんなの。……それでは、わたくしはこれで。またお声かけくださいませね。数日はいらっしゃるのでしょう?」
「え」
 声をあげたのはリトリアだった。髪結いの女性とラーヴェをきょろきょろ見比べて、数日、聞いてないです、と控えめに抗議する。そもそもリトリアは、逃亡中の身で、一刻も早く王宮まで辿り着かなければいけないのである。再三に渡るその訴えをうん、うん、と頷きながら聞き。ラーヴェはそっと、リトリアの体を引き寄せ、その頭を膝の上にくっつけた。
「さ、すこしお眠りになられなくては。おやすみなさい」
「……え、あ、あれっ? え、ちが、眠くてぐずっているとかそういうんじゃないです……やっ、やぁっ、寝かしつけられてる気がするの……! 自立が阻まれてる気がするの……!」
「気のせい、気のせい。こら、起きようとしない」
 やんわりと肩を押さえて横に寝転がる体勢を取らされ、ぽん、ぽん、と背を撫でられる。抜け出そうとしばらくもぞもぞしていたリトリアは、やがて意識を柔らかくまどろませ。ころん、とあっけなく、望まれた眠りへ落とされてしまった。



 膝枕があんまり気持ちいいからいけないので、リトリアの意思が弱いとか、くじけやすいという訳ではないのである。たぶん。昼寝から目覚め、膝にぐりぐり頬や頭をこすりつけながら拗ねきった声で訴えれば、やわらかな声はそうですね、と肯定してくれた。
「よくお眠りでしたね。顔色もいい」
「ううぅ……ソキちゃんになっちゃう……。自立! 自立します! おはようございます! ……もうなんですぐそうやって笑うのおぉっ!」
「あまりに可愛らしいものですから、つい」
 許してくださいね、と頬を大きな手で包んで指先で撫でられて、リトリアは顔を真っ赤にして涙ぐんだ。同じことをもしストルに言われたり、されたりしたら、きっとひたすらどきどきして、なんだかちょっぴり不安なような、怖いような、落ち着かない気持ちになってでも嬉しいと思うのだが。うううぅ、と呻きながら、リトリアはぐいぐい、ラーヴェの手を押しやった。
「あんまり触ったり撫でちゃうのだめ! 禁止!」
 恥ずかしくてこそばゆくて、溶けてしまいそうな気持ちになる。うーっ、と呻きながら力を込め、リトリアは半泣きでにこにこと笑うラーヴェを見た。
「なんで離してくれないんですかあぁ……!」
「ん? ああ、髪が寝乱れてしまいましたね。すこし直してから行きましょうか」
「おはなし聞いてえぇっ!」
 その後、もにもにもちっと頬がもてあそばれて、ようやっと開放される。ふふ、となんだかとても嬉しそうに笑われたので、リトリアはよろよろ椅子に座りながら、胸に手を当てて深呼吸した。
「帰ったらソキちゃんとロゼアくんに言いつけちゃうんだから……」
「やめて頂けますか」
「いじめられた! って! 言いつけちゃうんだからぁっ!」
 いいこだからやめましょうね、とやんわりした声でしっかり言い聞かせながら、ラーヴェは編み上げられていたリトリアの髪を解いていく。目の横辺りの髪から三つ編みを作っていく指先は慣れきっていて、痛かったり、引っ張られたりすることは一度もない。そう時間もかからず、はい、できましたよ、と言われたので、リトリアは立ち上がってラーヴェの手をきゅっと握り締めた。さあ宿に戻ろう、という気持ちになって、数秒考え、リトリアは顔をそらして笑いをこらえているラーヴェの背を、ぺしぺしと手で叩いた。
「ラーヴェさんが! だって! いつも! いつも手を繋ぐからだってえぇええっ!」
「はい。偉いですね。さ、戻りましょうか。うさぎはぎゅっとして行きましょうね。忘れないように。……帰りに市に行きましょうか。欲しいものは?」
「ないです。……ない、です! 買っちゃだめ!」
 息をするように褒めて貢いでくるのは、もうこの数日の旅路で分かりきっていたので。リトリアはきっぱりと、もうだめ、と言ったのだが。ラーヴェは聞き分けの悪いこどもを窘めるような微笑みで、そっと息を吐き出し、それでは、と言った。
「おねだりの仕方と、上手な拒否の仕方を学ばれましょうか。良い機会ですから」
「ラーヴェさんは私をどうしたいの……」
「すくすく育って頂きたい。それだけですよ」
 私はもう十六なんです、成長期は終わってるんです、でもおむねはこれからふっくらするんです、でもすくすく育ったりはしないんです、というリトリアの訴えは、ラーヴェの微笑みひとつで流された。はい、はい、そうですね、と言って、手を引いて連れ出される。振り払って走っていくこともできた。どうしても、それができない訳ではなかった。繋いだ手に込められるのはやわらかな力で、繋ぎとめておくには弱く。それでも、リトリアはとうとう、預けた指先を取り返すことも、振り払うこともできずに。穏やかな熱に、指先をゆだねていた。

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