雨が通りすぎた後の、土の匂いがする。窓に下げられた日除けの布の隙間、きらびやかに地平線を引く砂漠からは、水の気配を抱く風が吹き込んでくる。空はすっきりとした青い色をしていて、千切れ流れていく雲は半透明の白。リトリアは寝台の上でのそのそと着替えをしながら、ふぁ、とあくびをして。景色を見て、首を傾げて、いい天気ですけど、と傍らに視線を流した。
「とぉっても! 移動びよりだと、思うんですけど」
「はい。残念ですね」
微笑と共に伸ばされた手が、頬に触れ、首筋で鼓動を確かめ、耳元をくすぐってから額に押し当てられる。ほんの僅か汗ばんだ肌に、眉が寄せられた。リトリアはもう、と頬を膨らませ、男の手を両手で包み握りこんでから抗議する。
「熱は下がったでしょう……?」
「ええ。いまは。……今日いちにちは様子を見ましょうね」
いうことをきけますね、と微笑むラーヴェには、いいえ、という選択肢を受ける意思がないように感じられた。リトリアは無言で伸びをして、全身の隅々にまで楽に自分の意思が伝わることを、力が満ちることを確かめ、楽な気持ちで息を吸い、吐き出す。
「大丈夫なのに……」
だいたい、体調不良で熱を出したのではないのだ。魔力の荒れでも、こちら側の空気が毒として身を蝕んだのでもない。呼吸のたびに喉が焼けるようなくるしさを、気がつけば感じることはなくなっていた。ふつうに、息をすることができる。ほんとうに久しぶりに。地に脚をつけて、立つ、ということができる。どこにも居場所がないような不安を覚えることはない。リトリアはつんと唇を尖らせて、寝台の横に椅子を引き、そこに腰掛ける美丈夫を見た。
「あのね、ラーヴェさん?」
「はい」
「私、ソキちゃんより、うーんと、ずーっと、丈夫なんですよ?」
ソキ、丈夫なんでぇ、転んでも怪我しないんですよ。すごいでしょうえらいでしょう、えへへん、とふんぞりかえって自慢するソキが頭の片隅に現れ、ろぜあちゃんだっこだっこぉ、ときゃぁんやぁんしながらてちてち何処へ消えていく。ソキにはそもそも、ふつうはそんなに転ばない、という観点が存在しない。思わず視線を泳がせたリトリアに、ラーヴェは言葉から同じ印象を受けた者の表情で、穏やかに穏やかに笑みを深め、頷いた。
「そうですね。丈夫ですね。……それでは、今日はお手入れの日にしましょうか」
「き、昨日しました、よね……?」
ゆっくりお風呂に入れられて肌を磨かれて、髪を結われてお化粧されて服を着せ替えさせられて。ああでもないこうでもない、と吟味されているうちに午前中が終わり、食事を取って再開し、お昼寝させられ起きたら夕方で。市へ連れ出されてあれこれ買われ貢がれ、食事をして宿に戻って、色々考えたら熱が出ただけなのである。一晩寝ればすっきり引いていく程度の、疲労故ですらない、悩みすぎの不調だ。リトリアは自分でそれを分かっている。それを証拠に、ぺたっと触れた頬は未だすべすべで、荒れてもいなくて、髪も自分でまとめるのに苦労するくらいサラサラのつやつやだ。だから、しなくていいです、と慣れないことを拒否しようとするリトリアに、ラーヴェはゆっくりと目を細めて微笑した。
いつくしむものを見る。体温をすこしあげて、息をくるしくする、微笑み。
「難しく考えて熱を出さないように。あなたはもっと、大事にされなさい」
リトリアがなにに悩んで考えて、熱を出したか、完全に理解されている。頬を染めてくちびるを尖らせ、手をもじもじとさせながら視線をそぅっと持ち上げて。リトリアはちょんっと首を傾げ、ようやく、そのことを口に出して言った。
「だって、あの……も、もしかして、なんだけど。か、勘違いだったら恥ずかしいし、悲しいし、私もう頑張れなくなっちゃいそうなんだけど、でも、あのっ」
「はい」
「……ストルさんと、ツフィアは、あの、もしかして」
恋の熱に酔うように、瞳を蕩かせて。リトリアはちいさく、ちいさく、囁き歌うように。
「わたしのことがすきなの……?」
「おふたりが聞いたら頭を抱えますよ」
「……間違ってて?」
叱られたこどものように情けない顔で落ち込むリトリアに、ラーヴェは笑いながら手を伸ばした。改善しかけているのに、どうしてそっちの方向へ向かうのか。ううぅ、とぐずる頬を両側からもにもに押しつぶして、男はしっかりとした声で囁きかける。あなたは大切にされている。そのことをもっと、分からなければいけませんよ。リトリアは半泣きの、半信半疑の声で、だってぇ、と呟いて鼻をすすった。
広々とした室内には書き物机がことりと置かれ、床には幾重にも薄い布が敷いてある。座り心地は柔らかい。強い日差しを遮る為に、窓には透き通る布が下ろされ、ほのかな淡い明るさを室内に満たしていた。宿の中の一室。はい、それでは思い出せる分で構いませんから、そのお二方から貢がれもとい頂いたものを書き出してみましょうね、と朝食後に囁かれて部屋まで連れてこられたので、リトリアはいまひとつ納得できない気持ちでいながらも、万年筆を手に取った。ちなみに、上手に思い出して書いたり説明したりできたら、午後からは市に買い物に行ったり、散歩に出たりしても良いとのことだ。ソキちゃん方式しないでください、というリトリアの訴えは、今日も笑顔で聞かなかったことにされた。
蝶よ花よとすくすく育てる老後の楽しみ実践中を公言してはばからない男は、わりと常に、うきうきとした楽しげな笑みを浮かべたままでいる。今も、リトリアの飲み物や、指先でちょいとつまんで口に運べるような菓子類を細々と用意しながら、ラーヴェはふんわりとした笑顔を絶やさない。その横顔をじーっと見つめ、やっぱりソキちゃんたらお父さん似な気がする雰囲気とかそういうのが、と口に出さないで思い、リトリアはしぶしぶ、用意された紙の一枚を引き寄せた。遠く、過去に向かって手紙を書くように。記憶を辿りながら、思い出をつづっていく。
一枚目を半分埋めた所で首を傾げ、リトリアは視線を持ち上げた。
「これ、卒業してからでいいの……?」
「在学中も。分かるものは全部にしましょうか。……なにか?」
万年筆と紙を見比べる動きをいぶかしんだのだろう。微笑を絶やさず穏やかに問うラーヴェに、リトリアは困ったような、恥ずかしがるような表情で、ぽそぽそと告げた。あのね。紙がね。
「足りるかな、って……文字、ちいさく、書く?」
「分かりました。筆記用の帳面を用意しましょう。一冊でよろしいですか?」
「ん、んんと……えっと、じゃあ、ストルさんのと、ツフィアのと。陛下の」
やさしく、かつ、生ぬるく笑みを深め、ラーヴェの手がぽむぽむとリトリアの頭を撫でた。
「その方々の他には貢がれておられない?」
「み……みつがれて、ないもん。違うんです。いいですか、違うんです……!」
ストルとツフィアの真意は分からないが、楽音の陛下に関してならば、服だの靴だの装飾品だのを送ってくるのは、純粋な愉快犯的犯行型の趣味である。時には、あなたが仕える王の命令が聞けないのですかと告げてまで押し付けてくるので、貢がれるとかいうそんな恐ろしい事実ではないのだった。だから陛下は違うんです、あっでもふたりのも違うんです、と訴えたリトリアに、ラーヴェはにっこりと頷いた。
「はい、違うんですね。……では、四冊用意致します。お待ちください」
「……四冊目にはラーヴェさんにもらったもの書けばいいんですか」
「私のものは覚えていますから、結構です」
そもそもリトリアは旅途中で財布をラーヴェに預かられ、今に至るまで返してもらっていないのである。万年筆も、インクも、飲み物も菓子も、今日の服上から下まで一式全ても、つまりリトリアが対価を支払って用意したのではないのだった。なるべく頑張って覚えていてあとでお返ししなきゃ、と決意を深めるリトリアの口に、はい、と焼き菓子が差し出される。ひとくち大の小麦色のクッキー。あむ、と反射的に口にして、リトリアは力なく、机に上半身を伏せた。
「……また食べたことのない味がする。おいしいです……!」
「それはよかった」
「もう! いつ買ってきちゃうんですか!」
昨日は確かに部屋から追い出して以後、終わるまで姿を見てはいないのだが。帰り道では買われなかった筈である。ただし、リトリアがちょっと目を離すと決まって物が増えていたので、確実とはいえない。ラーヴェは部屋の隅に置かれた箱を開けて在庫を確認し、細工物のようにうつくしく彩色された花の絵が描かれた帳面を四冊取り出しながら、照れくさそうな笑みを浮かべた。
「作りました。お口にあったようでなによりです」
「……ラーヴェさんが?」
「買ったものですと抵抗があるようでしたので」
はにかんだ笑みで、時間があるのなら服なども私がご用意させて頂きたいのですが移動中ですし、と帳面を差し出しながら告げられ、リトリアは思い出していた。そういえば最初に逗留していた家で着ていた服は、なんだかそんなことを言っていた気がする。作ったとか。縫ったとか。布地がどうとかこうとか。先日の『学園』に戻れない事件の最中、ソキが寮長から渡された『ロゼアちゃんの手作りおやつ。ソキ専用』の自慢を思い出し、リトリアは遠くを眺める表情になった。ソキ、ロゼアちゃんにてまひまかけてもらうのだぁいすきっ、とぺかぺかした笑顔付の幻聴が聞こえた気がした。
寮の四階。ソキの居室として用意された部屋は、すっかりただの物置である。一応、緊急避難的に寝台は使えるように整えられているし、週に一度はロゼアが空気を入れ替え、掃除もしているので使えないこともないのだが、生活感などまるでなかった。壁に設えられた棚には本が整頓され並べられ、服や靴や装飾品の類が、それぞれ分かりやすく札がつけられ分類された状態で押し込められている。くるくると巻かれた絨毯は、季節ごとに適した素材や色で分けられ、開いた空間に立てかけられていたり、山と詰まれていたりした。
やることもないから、と『お屋敷』から届いた定期便の箱を手に掃除に来たロゼアと、くっついてきたソキと、見学に来たナリアンとメーシャは、それぞれの笑みで沈黙した。自慢げな顔でにこにこしているのは、ソキひとりである。室内にさっと視線を走らせたのち、メーシャはしみじみと関心した。
「増えたね」
「でっしょおおぉ! あっ、ロゼアちゃん。今日はなにが来たの? めぅちゃんのお靴? それともぉ、ユーラのお服? きゃぁあんでもでもぉ! おてがみ、お手紙がある筈ですからぁ、ソキにちょうだいちょうだいです!」
「んー……」
それ自体が飾り物としての価値があるような、白地に鮮やかに彩色された蔦模様と花が描かれた箱をぱこりと開き、ロゼアはそこへ視線を落として沈黙した。その横顔があまり気乗りしないものだったので、ナリアンはロゼアの足元でぴこぴこしながらはやくはやくぅ、と手を伸ばしているソキをなだめつつ、横からひょいと箱の中身を覗き込む。一番最初に手紙が見えた。達筆な文字で、ロゼアへ、と書かれている。名の横にも一行、文字が書き加えられていた。
『開けたらすぐ読め。メグミカ』
「……ソキ。アスル日光浴させたいって言ってたろ。日当たりのいい所を探さなくていいの?」
「あっ、そうでした! あするぅ、ソキがきもちー! ところで、ころころさせてあげるですからね! あっちかな? あっちですぅ?」
とてちてちてちっ、とこころもち早足で窓辺へ向かうソキにメーシャが付き添ってくれたのを確認したのち、ロゼアは指先の動きだけで手紙を開封し、視線を落とした。前置きや挨拶などはなく、用件だけが書かれていた。
『ソキさまから世話役とハドゥルさんたちにまでロゼアちゃんめろめろにするにはどうすればいいか教えてください! ロゼアちゃんには内緒です! の手紙が来てたわよアンタなにしてんのラギさんが笑いすぎて呼吸困難になったじゃない』
若き当主の笑い上戸の右腕がツボにはまり過ぎて呼吸困難になった責任を求められても困る、というか関係ない。だいたいからして彼の人は、場合によっては手紙を書いていた万年筆のインクが切れたことで爆笑する猛者である。特に精神的に疲れているだとかいうことは、ない。ないのだ。半眼で沈黙するロゼアのもとに、ソキがメーシャと手を繋いで、てちてち戻ってくる。アスルはうすー、に置いてきたです、これでばっちりです、と自慢げなソキの隣でメーシャが笑いを堪えていた。えっ、なにそれみたい、と目を輝かせるナリアンにいいですよ、と頷き、ソキはきょとんとロゼアを見上げた。
「ロゼアちゃん? どうしたの? 頭が痛そうです。なでなでする?」
「……ソキ。メグミカたちにお手紙書いたの? なんて書いたんだ?」
「やん! ロゼアちゃんには、ないしょー、なんですよ? 内緒のロゼアちゃんめろめろ計画、というやつですから、もうちょっとだけ待っててくださいです。あっ、めろめろ計画のお返事、きた? ソキ、ロゼアちゃんのすきすきな匂いですとか、食べ物ですとか、お胸のおおきさを聞いておいたです!」
内緒ってどういうことだっけ、ナリアン。うんと、原本を見せないってことなんじゃないかな、メーシャくん。そっかぁ、そうだよ、とほのぼのと頷きあうふたりに息を吐き、ロゼアはソキをひょいと抱き上げた。ぎゅうぅ、と強めに抱き、脱力気味の息を吐く。
「俺に聞けばいいだろ、ソキ」
「……ロゼアちゃん、ソキにめろめろ?」
「うん。ソキはかわいいな。かわいいかわいいソキ。俺のお花さん。……だから、メグミカに手紙で聞くのはやめような……!」
メーシャとナリアンが聞いた中でも、過去最高に力がこもり、かつ感情のこもったやめような、だった。ソキもそう感じたのだろう。ロゼアの腕の中で目をぱちくりさせ、首に腕をくるんと回して体をくっつけながら、あどけなく首を傾げる。
「メグちゃん、どうしたの? ロゼアちゃんがすきすきなお胸のおおきさ教えてくれたです?」
よりにもよってメグミカにそれを聞いたのか、という遠い目を一瞬したのち、ロゼアはソキの頭に頬をくっつけた。深々と息を吐く。
「ソキは今のままが一番かわいいよ」
「……ほんと?」
「うん。だから、メグミカに聞くのは、やめような」
二回目である。しっかりと感情がこもっていた。ソキはいまひとつよく分かっていない表情でこくりと頷き、ひょい、と箱の中を覗き込んで目を輝かせる。
「あ! はちみつデーツがあるですううぅ! ソキこれだいすき!」
「ところで毎月なにが届いてるの? ロゼア」
「最近はソキの好きなお菓子が多いよ。あとは服とか靴とか鞄とか、手紙とか」
己の世話する『花嫁』に貢ぎ続けられる。しかも『運営』の口出しなどもなく自由に、かつのびのびと、という類稀なる幸運に恵まれた一同は、毎月せっせと贈り物を寄越してくるのだった。月に一度纏まって届くのは、『お屋敷』の給料日の関係であるらしい。お金がなかったとかそういう話ではなく、単純に生活費その他必要最低限を残して使える幅を確定させてから、それを惜しみなくつぎ込む為の日付設定である。貢がれる本人曰く、ソキましょーのおんな、というやつなんでぇ、皆贈り物をいっぱいくれるです。ろぜあちゃんたらすごいでしょう、とのことである。貢がせすぎて破産させるなよ、と砂漠の王には注意されたらしい。ご安心ください『お屋敷』の施す世話役たちへの教育には貢ぎ方も含まれますと言ったロゼアに、王が向けた視線は意味不明のそれであった。
とはいえ、だいたいの服飾に関しては、ソキ専門家であるロゼアが共にあるのを誰もが知っているので。最近は星降では手に入らない品に絞られてきているらしい。ソキが特に好む甘味だとか。おやつおやつ、とうきうきしながらロゼアの腕から滑り降り、ソキはナリアンの手を握ってアスルはうすー、はこっちです、と窓辺にてちてち歩いていく。ロゼアはそれを見送って、書き物机の椅子を引き、腰掛けた。机に中身を取り出して並べ、点検しながら、無言で眉を寄せる。恐らく、ソキが開封する可能性を考えてのことだろう。二重底の仕掛けを外すと、ぱらぱらと手紙がふってきた。ロゼアあての手紙である。その表情があまりに微妙そうだったので、メーシャは無言でぽんぽん、と肩を叩き、友人の苦労をねぎらった。
ストルからの贈り物を記して行ったら帳面が一冊埋まって終わらなかったところで、リトリアは机に突っ伏して、みつがれていたかもしれませんごめんなさい、と半泣きで反省した。ラーヴェはうっとりするような微笑みで、頂いたものをよく覚えていらっしゃる、偉いですね、と褒めてくれた。あまり嬉しくない。
「う、うぅ……ストルさんはなんでこんなにくれちゃったの……」
「物を与える、というのは。対外的にも分かりやすい好意の表れでもありますよ」
在学中は週末ごとに。卒業してからは一月ごと、次第に季節ごとに、と間隔は開き内容も変化して行ったが、それが途絶えてしまうことは一度もなかった。在学中の品々は、他愛ないものであることが多かった。例えば、筆記具。愛らしい小鳥の絵が書かれた万年筆はいまでもリトリアのお気に入りで、手紙を書く時にはだいたいそれを選んで使っている。例えば、お茶の時間に口にする甘いもの。昔から十時と三時にはおなかがすいてしまうリトリアの為に、焼き菓子や飴は絶えず用意され、都度与えられるものだった。成長していく体に合わせ、買い換えなければいけない服や靴。自分でお財布を持って買いに行った記憶は、数回程度しかなかった。
卒業し、会うことが叶わなくなってからのそれは無記名だった。それでも、ずっとそうされていたから、送り主を間違ったことは一度もない。ツフィアからのものであっても、同じこと。でも、それがあまりに日常的であったから。『学園』の生活の延長線のようであったから。習慣的にしていること、と思い込んでしまっていた。反省します、と顔を赤くして膝を抱えるリトリアを微笑ましく見つめ、ちなみに、とラーヴェはさらさらと紙に文字列を書き込んでいく。平均的になりますが、と前置きの上で。
「こちらが、『砂漠の花嫁』が一度に頂く贈り物の品書きになっております。参考に」
「……ソキちゃんもこんな感じだったの?」
「ロゼアが詳しいですから、今度確認してみるといいですよ。……まあ」
ソキさまは『最優』であられましたので、この二倍か三倍程度であるとは思いますが、と苦笑するラーヴェから紙を受け取り、リトリアは視線で目録を何往復もした。のち、己の書き記した帳面を開き、ちらっ、と見て。再び恥ずかしそうに膝を抱え、しょんぼりと落ち込む。
「ストルさんが私にすごく貢いでた……。あ、あっ、でもツフィアはそんなでも……?」
「単純な物量ですと、そうなりますが」
いまとても楽しいです、と言わんばかりのうきうきした笑みで帳面を取り上げ、ラーヴェはツフィアから貰った本一覧、と題された箇所の、ひとつに指先で触れた。
「この本と……そうですね。ここから、ここまでが」
すい、と指先を動かして。ストルさんから貰ったお洋服一覧、の見開き。右も左も、上から下までを示し、撫で下ろす。
「同じ値段です」
「えっ! ……え、えっ。えっ?」
「希少価値の高い物語集です。『お屋敷』にも確か一冊ありましたが……よく見つけられたものだ」
一流の写本師にしか複製を許されていない品であり、流通は数年に一冊、あるかないか。だいたいは国立図書館が落札するが、写本師の死後、私的に蔵書していたものが市場に流通することがあり、それが人の手を渡り歩いているのだとラーヴェは告げた。つまり、上手くすれば一財産くらいにはなるものですよと微笑まれ、リトリアは頬を手で押さえ、涙ぐんだ。
「ツフィアはなんでそれを私にくれちゃったの……? ……も、もしかして、知らなかったとか! たまたま、えっと、なにかで、えっと、手に入って、くれたとか……!」
「いえ。明らかに選定された上で送られておりますね。ここまでのものは……もうあと二冊程しかありませんが」
「みっつもあるのっ?」
ツフィアから送られてくる本はどれも面白くて、何度も読み返しては大事に本棚にしまってあるのだが。読み途中で机の上に出しっぱなしにしている本もあるのだった。えと、えっと、どれ、と尋ねたリトリアに、ラーヴェは無言で題名の横に赤い丸を書き入れてくれた。その一冊にとても覚えがあったので、リトリアは思わず無言で頷いた。帰ったらなにをするよりまっさきに、しおり代わりにおいてきた紅茶の缶を上から退けよう。
「それにしても……不安なようでしたら、貢物教育の講習をおすすめします。外部受講者も受け入れていた筈ですから、これからの為にも良いでしょう」
「みつぎものきょういくのこうしゅう……」
もうなんだかいっぱいいっぱいで、言葉の意味やらなんやらがリトリアにはよく分からない。とりあえず復唱するだけしてみたリトリアに、ラーヴェは苦笑して、そっと肩を撫でてくれた。
「一度、休憩しましょうか」
「う、ううぅ……えっと、それってなにをするんですか……?」
「ん? そうですね。貴人に対する贈り物の仕方を学びます」
贈り物の価格、頻度、総量の適切な考え方から、季節ごとの品の選び方。渡し方や一筆添える際の例文集など、事細かに教えてくれるらしい。『お屋敷』では、いざ『花嫁』に対面する前に実施される、必須の座学のひとつであるとのことだった。ソキちゃんの実家やっぱりよく分からない、と思いながら、リトリアはこくりと頷いた。
「……えっ? ラーヴェさんは、その、いま、適切な範囲内なんですか……?」
「私はもう『お屋敷』を辞した身ですので」
あの方、ちょっと自由なんですの。諦めと微笑ましさと達観の入り混じった表情で、昨日幾度となく告げられた言葉を思い出し、リトリアはふるふると体を震わせた。
「い……」
「い?」
「いけないんだ! ラーヴェさん、いけないんだ……!」
もう、とリトリアは怒ったのに。向けられたのはこちらがむずがゆくなるような、うっとりした微笑とまなざしのみである。そうですね、と穏やかに響く声に肌がざわりとして、落ち着かない。
「ですが、おふたりも相当なものですので、私など可愛いものですよ」
「帰ったらもう物くれちゃだめですって言う……! 絶対言うもの。決めたもの……!」
「いけませんよ。楽しみを奪っては」
やんわり叱られたので、リトリアはくちびるを尖らせて首をかしげた。いいですか、とラーヴェは耳障りの良い声で語り聞かせてくる。
「心配でしたら、ロゼアに言って講習を受けて頂ければいいのです。もしくは、あらかじめ上手におねだりなさい。昨日お教えしたでしょう?」
貰う前に、買ってもらえばいいのだとラーヴェは言う。なんだか根本的な問題がちっとも解決していない気がするし、おねだりの練習、というのは中々に恥ずかしいものがあったので、リトリアは深呼吸をし、胸に手を押し当てて宣言した。
「ロゼアくんに頼みます。あ、でも、私が受け取らなかったらいいんじゃ……!」
「その方々に贈り物をしたことは? ……受け取ってもらえない可能性について考えたことは?」
いけませんよ、と重ねて窘められて、リトリアは息苦しい気持ちで頷いた。去年の、新入生歓迎の夜会の折に。ふるえながら花飾りを託した気持ちを思い出す。はい、とちいさく返事をしたリトリアに、ラーヴェは明るく笑い声をこぼした。
「では、やはり上手なおねだりの仕方も頑張りましょうね」
双方が努力してこそ、適切な貢ぎ貢がれの関係性が保たれるのだという。そもそも貢がないでいいんです、というリトリアの主張は、砂漠出身者がおられる時点で諦めましょうね、と窘められた。砂漠の国民に対する教育について、リトリアはものすごく、王に物申したい。レディさんは特にそんなことがないから男性限定なのかしらと思い悩みつつも、おねだり、と呟き、リトリアは視線をさ迷わせる。
「ど……どうしても……? えっと、それも、あの、講習……?」
「講習に行かれてもいいですが、私がお教えしたほうが早く上手になれますよ」
昨日だって練習したでしょう、と囁かれ、リトリアは頬に両手を押し当ててぷるぷる震えた。ラーヴェの両手をきゅっと握って、顔を見上げて、あれが欲しいのおねがいね、と言わなければいけない状況というのは、リトリアにしてみれば結構な苦行である。昨日だってときめきが誤作動を起こしそうだったのに。あれを練習しなければいけないのだとしたら、恥ずかしくて心臓がもたない。誤作動する。絶対にする。間違いない。きゅっと手を握り締め、リトリアは決意した。
「帰って、ロゼアくんに講習のお願いをします……!」
「そうですか。では今日の夕方から、さっそく練習を致しましょうね」
「はい! ……え、と? あ、あれ? あれ、あれ、えっ……?」
はいと仰いましたよね、とうっとりするような笑顔で囁いてくるラーヴェに、リトリアは頑張って、もう一度訴えた。
「ロゼアくんに、たの」
頼みます、と言う筈だったのだが。頬を両手で包まれ額を重ねられて、至近距離で目を覗き込まれ。低く、穏やかな声であまく、囁きかけられた。
「練習。致しましょうね。大丈夫、きっと上手にできるようになりますよ」
「……ううぅ」
はなして、が。どう頑張っても言えない。
「分かり、ました……がんばります……」
「はい。よくできました」
老後の楽しみがうるおいます、とうきうきした笑顔で囁かれる。数秒後、もおおおおっ、と怒ったリトリアは、ラーヴェの腕をばしばし叩いて抗議したのだが。なぜかちっとも反省させることができなかった。