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 首都の外れで荷物を預け、駱駝から馬車に乗り換える。もちもちうさぎとも、ここでいったんお別れである。足がついて辿られないように送りますので時間がかかりますが、落ち着いた頃には楽音に到着します。ですから長く寂しくはさせませんよと微笑むラーヴェを、リトリアは顔を赤くしてべしべしと叩いた。けれども。名残惜しくてぎゅむぎゅむもちっと抱きおさめをするリトリアに、向けられたラーヴェの視線には気がつかなかったことにした。さびしくなんてないのである。箱につめた荷物に、リトリアが用意した旅道具はもうひとつもなく。全部新しいものに入れ替わっていたことも、努めて考えないことにした。言っても言っても聞いてくれなかったので、もうリトリアの責任ではないのである。
 服、靴、下着に夜着に髪飾り。通過した都市の案内図には、どこでなにをしたか、日記代わりに書き込んだ文字が綴られている。それは移動を重ねるごと、多くなっていた。どこへ行ったか。なにをしたか。どう思ったか。笑われて怒ったこと。言っても聞いてもらえなくて髪飾りを買われてしまったこと。口に放り込まれた甘味がおいしかったこと。お手入れの為の櫛と髪油一式を揃えてもらった。香りにあう髪飾り。服に合わせて、靴に合わせて、全体の色味や飾りの調整の為にも、いくつも、いくつも。髪飾りも、耳に揺れる飾りもたくさん。化粧品。肌の手入れの仕方。それを書き留めた帳面とインク。万年筆。
 きれいになること。きれいにすること。自分を、大事にしている気持ちになる。それが嬉しくて、どきどきしたこと。大切にできること。大切だと、思われて。ちゃんとそれを、受け止めること。穏やかに。あいされていることを、知る。しあわせの欠片と喜び。やわらかな記憶だけで満ちている。それを先に楽音まで送る。やがてリトリアを追いかけ、それは戻ってくるものだ。届けられるものだ。失われてしまうものではない。繋がれた手の熱がひととき消えてしまうだけ。その記憶は、なくなってしまうものでは、ない。今度こそ、それを覚えていられる。
 馬車は殊更ゆっくりと道を進んだ。すこしの振動も感じることなく恭しく運ばれ、リトリアは首都の中心地、城の近くで手を引かれ、馬車から道に降りて立つ。城の発着場まで行きましょうか、とラーヴェは言わず。リトリアもそれを口に出して問わなかった。もう五分も歩けば、砂漠の城の正門へ辿り着く。人の行き来が多い大通り。ラーヴェは道の端までリトリアの手を引いて導き、立ち止まって問うた。
「歩いていけますか」
 くちびるが震えた。
「……リトリア?」
 ずるい、と詰ってしまいたい。ずっと、ずっと、きっと、呼ばないようにしていたのに。あなた、とか。君、とか。記憶にはその声しかないのに。息を吸い込んで、瞬きをして、待って、と声が掠れた。はい、とラーヴェは微笑んで、ゆるゆると手の先でリトリアの頬を撫でる。視線の高さは合わされない。ただ、導かれて顔をあげる。瞳を覗き込まれて、視線が重なった。
「リトリア」
 笑みを滲ませた、低く甘く響く声。体温と鼓動をすこしだけあげる声。頬を撫でる手は乾いていて、するすると肌を滑っていく。おとがいと、喉に指先が触れて熱が染み込んでいく。言葉を待たれている。きっと、いつまでだって、リトリアの言葉を待っていてくれる。息を吸い込むのを。意思を紡ぐのを。
「ひとりで」
「うん」
「歩いて、いくから……」
 でも。行かないで、と言ってしまいたい。望めば、どこまでだって連れて行ってくれるのだと思う。包み込んで隠して。うん、と微笑まれる。触れている手が離れるより先に、その手首に指先がすがる。触れて。目を閉じた。お願い、と呟く。泣き濡れた声にしかならない。
「歩いて、いきなさいって、言って……」
 太陽から姿を隠すように。体に影が落ちたのが分かった。
「……あなたは、ひとりでいけますよ」
「離して、はやく行きなさいって……怒って」
 ふふ、と。幸福のきらめきに満ちた声が、耳元で笑う。
「おいで」
 指先で。やんわり突き飛ばされるように、抱き寄せられる。ぎゅぅ、と目を閉じて、リトリアはしゃくりあげた。
「なん、でっ、ラーヴェさん……わたしの、はなし、きいてくれない、のぉっ……」
「頼み方は教えたでしょう?」
「やだ、やだ。できない。できないもの……」
 仕方のない方だ、と耳元で笑われる。吐息だけが肌に触れている。軟らかな輪を描いて回された腕は、閉じ込めてしまうだけで、リトリアのことを抱き締めはしなかった。そのことに。胸の奥がぐしゃぐしゃになって、甘く痛む。どんなにしあわせだっただろう。このひとの『花嫁』は。
「リトリア。……かわいいひと」
 爪の先がほんのすこし、耳の後ろをひっかいていく。くすくす、静かな笑い声。
「言ってごらん。どうして欲しいか」
「……もう、会えないの、は、いや」
「はい。……それから?」
 肌を撫でる吐息が笑っている。ざわざわして落ち着かない息を吸うだけで、指先までじんじんと痺れて痛んだ。話をしなかった。一度も。ここまで来たあとのこと。ここから先に、別れた後に。また会えるなんてことを。辿り着いたらそれで終わり。その先を話してくれることは、なかった。
「……お手紙、出したい」
「手紙だけでいい?」
「と、ときどき……顔、が、見たいの。時々で、いいの。たくさんじゃなくていいの。ちゃんと我慢する……」
 しなくていいよ、と吐息混じりにまた、笑われる。求められるだけ与えようとする、毒と紙一重の慈愛にすら似た。花の蜜のような。囁き。
「我慢、しなくていいから」
「……いなくならないで」
 目を開けて。手を伸ばして、胸に触れる。
「いなくならないで……一緒に、いたいの」
 ゆるく抱いていた腕が離れて、指を絡めて繋がれる。眩しげに、目を細めた微笑み。求められている気がして。息を吸い込んで、名前を呼んだ。
「ラーヴェさん。……ラーヴェさん、わたし、が……ろうごのたのしみ、だって、言うなら」
「……うん?」
 くすくす笑いながら、絡んだ指で手の甲を撫でられる。リトリアはゆるく眉を寄せて言った。
「まだ大事にしなきゃだめ……わ、わかったっ? だめ。だめなんだから……!」
「はい」
 よくできました、と吐息に紛れて囁かれる。うっとりと喜びにまどろむ新緑の瞳。にこにこ、しあわせそうに笑われる。リトリアは顔を赤くし、肌を撫でる悪戯な指先をぎゅっと握り締めた。
「ラーヴェさん……!」
「はい?」
 ふふ、とほんとうに、あまりに満たされきった風にはにかんで微笑まれたので、ついうっかり絆されてしまいそうになりながら。リトリアは手をぎゅううっと握って、もう、と一生懸命に怒った。
「だ……だました! 騙したでしょう!」
「騙したなど、人聞きの悪い。私が、なにを、どう、あなたを欺いたと仰るのです」
「だってだってなんか言わされた気がするもの……!」
 する、と片手だけほどかれる。そのまま、ふくれる頬をもにもにと楽しげに押しつぶされ、リトリアは眉間にしわを寄せて抗議した。
「あそばないで!」
「遊んでなどおりませんよ。でも、そうだな……じゃあ、どうして欲しい?」
「やぁああもうその手には乗らない……! 乗らないんだから……! だめ! だめっ、もう!」
 お肌がすべすべになりましたね、とリトリアの頬を弄んで嬉しそうに笑っているラーヴェは、いまひとつ、話を聞いてくれているいる気がしない。もおぉっ、とリトリアは半泣きの声で、ほわほわとした喜びに微笑んでいるラーヴェに言い放った。
「いじわる!」
「……いじわる、されたい?」
 ゆる、と目を細めて首を傾げる。ほの甘く、鈍く、瞳の奥に火のような熱がある。それに背を撫でられるような気持ちで息を吸い込み、リトリアは勢いよく首を振った。
「されたくないです! だめっ! 大事にしてくれなきゃだめっ!」
「はい。じゃあ、大事にします」
「ん……んん……あれ。あれ……?」
 はー、老後の楽しみから許可が出たことですから、全力でめいっぱい大事にしなければいけませんねなんと言っても許可が出たことですから、と淡い笑みを深めるラーヴェに、リトリアは数秒間沈黙し。はたっ、と気が付き、ラーヴェの腕をばしばしと手で叩いた。
「ま、また騙した……! 騙したでしょう!」
「騙してない、騙してない。こら、叩くんじゃありません。手を痛くするでしょう。……リトリア」
「ひっ」
 耳に吐息を触れさせるように、甘くあまく囁かれる。硬直して真っ赤になるリトリアに、いいこですね、と告げ。指の背で頬を名残惜しそうに幾度も撫でてから、ラーヴェはリトリアから手を引いた。ううぅ、と心臓をなだめるように胸に両手を押し当て、深呼吸をして、リトリアはようやく足に力を入れ直した。背を伸ばす。ひとりで立って。歩いて行けるだけの気持ちを、もう心の奥に持っていた。
「行きます」
「はい。……行ってらっしゃい」
 見上げて。視線を重ねて。リトリアは振り返るように城を向き、足を踏み出した。立ち去るその背に、ああ、と呟きが零れ、手が伸ばされる。
「忘れていました。すこしだけ、動かないで」
「え……え、と? ラーヴェさん」
「落ち着いたら『お屋敷』を尋ねなさい。誰でもいいですが……そうですね、ハドゥルに。これを見せれば分かります。私の名前は伝えても、伏せても……どちらでも」
 すこしだけ、冷たい、細く連なった銀の鎖がリトリアの首元へ送られる。揺れる飾りは、ひとひらの、白い花弁を模していた。指で触れると、材質は石のようにも、貝細工のようにも感じられる。
「ハドゥル、さん……ていうひとに? アーシェラさんだと、だめなの?」
「アーシェラよりは、ハドゥルの方が専門ですので。まあ、それを持って尋ねる意味を、『お屋敷』の者なら誰でも知っておりますから。ご安心ください」
「これ、なぁに?」
 訝しく問うリトリアに、ラーヴェは悪戯っぽく笑って見せた。背をかがめ、少女のくちびるの前まで、すいっと人差し指を近づける。
「しー……内緒です」
 帰ったら忘れないうちにソキちゃんかロゼアくんに聞こう絶対に聞こうぜったいぜったい聞こう、と思いながら、リトリアは両手で、ラーヴェをぐいぐい押しやった。近くてどきどきするからもうだめなの、行くの、私はもう行くの、と訴えると、名残惜しそうに微笑まれる。またそういう、とリトリアが膨れようとした瞬間だった。指が絡めて引き寄せられる。触れたのは伏せた眼差しと、吐息。吐息の熱だけが、爪に触れて、離れた。くちづけよりも淡く。微笑んで指先を離し、ラーヴェは行ってらっしゃい、ともう一度だけ囁いた。
「お気をつけて。わたしの……かわいいひと」
「もおおおおすぐそうやってそうやってそういうことおおおお!」
 大事にせよとの仰せですから、と満足げなラーヴェに、腕を伸ばして。ぎゅっ、と抱きついてすぐに離れ、リトリアは身を翻して走り出した。息が切れても、振り返らなかった。別れても。離れても。不思議と、もう、寂しくはなかった。



 ごめんなさい、と聞き覚えのある声が囁いた。そこから数秒、フィオーレは記憶が途切れている。夢から覚める直前のまどろみのような、瞬きをしただけで意識が眠りに落ちてしまったような。それはあまりにあっけない途絶であり、息をするように自然な復活だった。は、とあっけに取られた声が零れて、己のもとに意識が戻ってきていることを知る。砂漠の王宮の一角。人通りの少ない廊下を進んだ先にある、王の私室のすぐ手前で、リトリアはフィオーレの手を引いて立ち止まっていた。
 白魔法使いの記憶が確かなら、午前は執務室で書類に目を通す予定になっていた筈であるから、そこにいる筈もない。だから単純に、人がいない場所を選んで、引いてきただけだったのかも知れない。張り詰めた雰囲気で、リトリアはフィオーレに背を向けたまま、動かないでいる。視線は開かない王の私室に向けられていて、その先にいる誰かを警戒しているようにも見えた。きれいに編みこまれ、白い藤の髪飾りが揺れるのを見つめながら、フィオーレはいないよ、と言ってやった。
「陛下、仕事中。だから、そこにはいないよ、リトリア」
 硝子のこすれる繊細な音。髪飾りを揺らして、ぱっと振り返ったリトリアを見て、フィオーレは思わず瞬きをした。髪も、やけにきちんと編みこんで飾っているな、とは思ったのだが。うっすらと化粧をしているのが見て分かる上に、予想していた顔色の悪さがまったくない。やんわりとした印象を感じさせる面差しに、透き通る肌。泣いたように目元がうっすらと赤いが、艶やかなくちびるの色とあいまって、妙に落ち着きのない気分にさせられる。え、と声をこぼして、フィオーレは動揺した。見知った魔術師のリトリア、であるのだが。かわいい女の子が立っている。
「……ど……どこでなにしてたのかちょっとお兄さんとお話しようか……っ? え、え……え? リトリア? リトリアだよねうんそれは見て俺もちゃんと分かってるんだけどね? あのなんていうか、えっと……どうしたのちょーかわいいね。ほんとすっごいかわいいねどうしたのええええどうしてたのなにしてたの……かわいいね……」
「えっと、えっと……うん。ありがとう……」
 頬を赤く染めて手をもじもじと組みかえる仕草こそフィオーレの見知った少女のそれであるが、いつもならばそこで少しほっとしたり、否定したりするのだが。その雰囲気が、一切感じられない。ええぇ、とよろけて立ちなおし、フィオーレはまじまじとリトリアを見直した。まず、服装の印象も違う。普段のリトリアは、主に楽音の王やストルの趣味で、やや短めスカートのふわひらした服を着ていて、首元も見えている。別に出したくて肌を出している訳ではないだろうが、右へ左へ移動するたびにひらひら動く短めのスカートは、太ももまでの長い靴下と合わされていることが殆どなので、ほんとストル好きだよなそういうの、と思わせるに十分なのだが。
 淡いクリーム色の薄い生地で作られたワンピースは、幾重にも布を重ねた作りになっていて、それ自体が花のようだった。腰からふんわりと広がり、足元までゆるりとなびく布は動きやすさを備えた上で体の線を完全に隠している。首元も、花の形に細工された貝釦のシャツが、一番上まできっちりと留められていた。銀の細い鎖が、胸元に花の飾りを揺らしている。よく見れば爪の先までぴかぴかに磨かれ、うっすらと色が塗られてもいるようだった。数秒間沈黙し、フィオーレは我慢できず、頭を抱えてその場にしゃがみこんだ。え、え、とおろおろするリトリアに、絞り出した声で問いかける。
「ちょーかわいいんだけどほんとどこでなにしてたの……?」
「あの、それは……それは、その」
 言いよどむのは、フィオーレの知るリトリアそのままである。ようやくすこし安心した気持ちで顔をあげたフィオーレは、己の判断を心から悔いた。見たことのない表情をしている。恥じらい、頬を染めて、目を涙にうるませて。そっと頬に両手をあて、息を吐き出して。リトリアは照れるようにちいさく、くちびるを動かし囁いた。
「ないしょ……に、したいの」
 ふっと意識が遠くなる。フィオーレは廊下に両手をついてくずおれた。え、えっと心配そうに覗き込まれているのは分かっても返事ができず、フィオーレは震えながら叫んだ。思わず叫んだ。
「ちょおおおおえええええええ俺! 今! 泣きそう! えっこれストルちゃん大丈夫なヤツ? だめだよね? とばっちり食らったレディしなない? というか巻き込まれ事故で俺もヤバくない? ええええ奇跡的になんていうかツフィアの趣味にはあってる気がするからなんとかな……る気が! しない! 全然しない! ねえリトリア俺さぁ言ったよねちーさい時にさぁしらないひとに優しくされたからってそうほいほいついてっちゃだめだって言ったけど言ったけどぎゃああああそうだったもしかしなくてもそれ覚えてないねまずいこれ俺も責任取ってストルと戦わないといけないヤツじゃないのかな弱点からついてけば魔力切れ狙って持久戦でいけるかなっ?」
「し、しー! フィオーレ、そんなに大きな声はだめ……! みつかっちゃう……!」
 リトリアにとってはごく幸いなことに、フィオーレが廊下でうずくまってぎゃんぎゃん騒いでいるのは、砂漠ではわりとよく見られることである。だいたいは王が折檻しているか、同僚に襲撃された結果であるので、人気のない場所でそうしていることは珍しいのだが。現象事態はよくあることなので、リトリアが危惧したような、誰かが走り寄ってくるようなことはなかった。それ所か。すすすっ、とざわめきや気配が遠ざかった気がしたので。リトリアは眉を寄せてしゃがみこみ、涙ぐんでぐずっているフィオーレを、心配そうに覗き込んだ。
「あの……フィー、砂漠でちょっといじめられているの……?」
「その結論に至った理由は分かるけど違うから安心してくれていいよ……」
「そうなの? ……あんまり騒いだら、だめよ?」
 それが現在の状況を踏まえて、というよりも、普段の素行をそっと窘めるものであったので、フィオーレは落ち込みながら頷いた。砂漠の皆様にご迷惑おかけしないようにね、という意思は隠れもしていなかったので、でも今のリトリアには言われたくなかった、と白魔法使いは息を吐く。
「自分は逃亡しといてさぁ……。というか、え、ほんとに逃亡してたんだよな……?」
「ん、んんっと……」
 なんで頬を染めてもじもじされるんだろう俺ちょう泣きそう、という視線を受けながらも、リトリアは言葉に迷い。右に首をかしげ、左に首をかしげて。ううぅ、と困った声を零れさせた。
「途中までは……?」
「その、途中からがお兄ちゃんはすんごい知りたいなぁ……!」
「だめ。だめだめ、だめ! ないしょ!」
 陛下のご命令でどうしてもっていうならそっとお教えするけど、フィーはだめっ、と言い切られ、フィオーレは胸を押さえてうずくまった。ちょっと会えないうちにリトリアが反抗期に突入してる、これまではだいたいのことなら教えてくれたのに、と涙声で呟くと、少女はだって、と恥ずかしそうに視線を伏せた。
「そっそれはともかく……!」
「ともかくしたくない」
「もおおフィオーレもそうやって私のおはなし聞いてくれないんだから! おはなしきいて!」
 他に誰が聞いてくれなかったのか教えてくれたら聞く気になるかも知んない、と主張するフィオーレに、リトリアはいやいやだめだめないしょなのっ、とむずがった。それにふっ、と既視感があり、あれでもロゼアはずっと学園にいたし、と考えた時だった。もう、もうっ、と怒るリトリアに、きゅっと手を握られる。やわやわですべすべの手と、指だった。あれえええこれなんだか覚えがあるんだけどあれええっ、と混乱するフィオーレに、リトリアは涙ぐみ。恥ずかしさにふるふると震えながら言い放った。
「い、言うこと、聞いてくれないと、だめなんだから……! ……あっ、だ、だめじゃな、あ、え、えっと……えっと、えっと。言うこと、聞いてくれないの、いや、よ?」
 あっ俺ストルにころされるわもうこれは絶対確実だ俺はしぬ、と思いながら、フィオーレは意地だけで、ぎこちなくリトリアから視線を外した。
「……フィオーレ?」
「……なに」
「お願いきいて?」
 引き寄せた手に、ぺたっ、と頬をくっつけてねだられる。ねえ、と拗ねて怒ったような、恥ずかしさでいっぱいの声で促されて、フィオーレは握られた手に力を込めた。ちいさく息を飲んでびくっと体を震わせられるのに、反射的に怒りすら感じて目眩を覚えながら、フィオーレは努めてゆっくりと息を吸い込み、半ば睨むようにリトリアを見た。
「あのな……。これでも怖いくらいだったら、こんなことするんじゃない。俺だから、なにもしないけど。ああ、もう……! いいよ! わかった! なにっ?」
「怒ったぁ……!」
 なんで、なんでぇっ、と混乱して涙ぐむリトリアの肩を、強く掴んで引き寄せてしまわないよう苦心しながら。両手で触れて、フィオーレは当たり前だろ、とまなじりを険しくして言った。
「怒るよおこだよお兄ちゃんは! あのねリィ、世の中には怖いひとと変なひとが思ってる以上にいっぱいいるから、こういうさぁ……! くっそかわいい……! 誰だよリィにこんなん仕込みやがったのは……! あとね、リトリア、あのね本当ならねこんなこと俺は言いたくないんだけどね、お前の泣き顔とか怯えた顔とか恥ずかしそうにしてるのとかはね、なんていうか最高にこう、そういう趣味もってる輩には大変なご褒美ですっていうか、あっいじめよっ、みたいな気持ちに相手をさせちゃうからなんていうかこうちょっと今すぐ俺を殴れ」
「いじわる、やだぁ……!」
「だからぁああああっ!」
 これでなんで今まで無事だったのかとフィオーレは心底泣きたくなったが、鉄壁の楽音防衛と組み合わせ、遠方であってもストルとツフィアがいたからであり、一定期間は『学園』で成長していたからである。『魔術師』のたまごの中にも妙な気持ちにさせられる者は多かっただろうが、基本的に『学園』に在籍しているということは、魔術的に未熟という証であり、つまり教員の徹底的な管理の元に多忙を運命づけられているということで、それ所ではなかったのだろう。なにより、在学時代の多くの期間、リトリアの傍にはストルとツフィアがいた。ソキにする、ロゼアと同じような親しさで。つまりは防波堤である。ソキにロゼアをくっつけておくというのは、安全上、もしかしてとても大切で必要なことではないのだろうか。それと同じことで、リトリアの傍にはあの二人が必要だったのではないのだろうか。
 いやでも楽音に戻せば陛下と楽音組が手厚く危ないのを葬ってくれる筈だからとりあえず俺は今泣くか壁を殴るかどっちかしたい、しないけど、と混乱するフィオーレに、おずおずと声がかけられる。
「……いじわる、しない? おねがい、聞いてくれる……?」
「リトリアはもう自分の身の安全の為に、いじわる、とかいう単語の発音をやめた方がいいと思う」
 フィオーレはもしかして最近お仕事が忙しくってとてもお疲れではないのかしら、という視線を向けられたので、白魔法使いはゆるりと微笑んだ。無防備な少女の頬に手を伸ばし、つまんでひっぱっる。ふわっとしていた。すべすべのふにふにで気持ちよくて、やぁっ、と半泣きの声で抵抗された。心底後悔する。
「……リトリア。俺がうんもうこの新しい扉あける? あけちゃう? っていう誘惑に屈する前にさっさとお願い言って」
「き……記憶、消したの、元に戻して?」
「失踪したって聞いた時からさぁー! そんなことじゃないかなと思ってたけどさー! あー! やだー! やだあぁあああー!」
 ぎこちなく頬から指を外したのち、叫んで廊下に倒れ伏しごろごろと左右に転がるフィオーレを見て、リトリアはとても残念な顔つきになって息を吐いた。フィオーレは、身綺麗にして黙って立っていれば必ず誰かに声をかけられるくらいの、やんわり誘因する雰囲気を持った青年である。うつくしい、とか、格好いい、という言葉は当てはめにくく、きれい、という表現が一番しっくりくる男なのだ。ちょっと挙動が残念なだけで。だだをこねる三歳児がごとく、やだやだと言い張って床をごろごろするフィオーレをしばし眺め、リトリアは手を伸ばして、青年のわき腹をつっついた。
「おねがい。聞いてくれるって、言った。ね、はやく。はやく」
「お前はなんで俺が記憶消したと思ってんの……」
 抱えたままでは生きていけない傷なら、目を逸らしていてもいい。立ち向かうだけが方法じゃない。逃げることは悪ではない。生きて行く為なら。息が、できないくらいの。生きて、いきたいと、思えないくらいの。胸を押しつぶすくるしさを知っている。それをリトリアが抱え込んでいたことを。少女は、かつて幼く。幼い故に、その重みで壊れて、立ち上がれなくなってしまった。目隠しをした。耳を塞いだ。なくていいよ、と言い聞かせた。暴走する、あの一瞬で。いいんだよ、と言った。魔術師としての目覚めは、祝福であるという。リトリアもかつて、その祈りを身に受けた。それは確かに祝福であった。世界からの愛であり、存在そのものに対する言祝ぎであった。だからこそ。だからこそリトリアは、それまで目を逸らし続けていた痛みから逃れられなくなって、崩壊したのだ。
 一心に愛を求めた。両親からの愛を、どうしても欲しがって。手放され、王たちのもとで大事に育てられてからも、それを求めるこころを諦めきれなかった。もしかして、事情があって傍にいられないだけで。預けられただけで。いいこにしていれば。いつか、迎えに来てくれるかもしれない。いつか、大事にしてもらえるかもしれない。いつか、愛してくれるかもしれない。いいこにしていれば。いいこでさえあれば。そうして過ごしていたリトリアに遣わされたのは、世界からの迎え。魔術師としての目覚め。愛という言祝ぎ。望まれていたことを知る。世界からの愛を知る。そうであるからこそ。リトリアは、愛無きことを知り。愛ではなかったことを知り、突き付けられて。おとうさん、おかあさん、と呼んで。泣いた。
 お前には無理だよ、とフィオーレは言った。記憶を失ってなお、愛されることを求めて。ストルとツフィアを求めて。両親の代替えのように。それでいて、心砕くほど求めた運命のように、手を伸ばして。いつのまにか、あいされていないと、向けられる想いからも目を逸らして俯いた幼子は、フィオーレが封じ込めた時のままのように見えた。また壊れるだけだ。だから、お前には無理だよ、と繰り返し告げるフィオーレに、リトリアは息を吸い込んで。大丈夫、と言って笑った。震えながら蕾が花開く。ようやく。綻んで、咲く。
「もう、大丈夫だから。あのひとたちが、わたしを……あのひとたちは、わたしを、愛しても、大事にも、してくれなかったけど……」
 でも、愛されていた。大事にされていた。そうしていてくれたひとたちがいた。そのことをようやく、理解する。息を吸い込むことができる。
「私は、それでも……それでも、私を、自分を、ちゃんと大事にしていいんだって、分かったから」
 だから、かえして、とリトリアは言った。フィオーレは心底気乗りのしない様子でもそもそと体を起こし、リトリアを見つめてから、分かったよ、と言った。手を出して、と求められる。リトリアは、まだ想い出が、ラーヴェの体温の記憶を残している手を、かすかに震えながら差し出して、白魔法使いと繋ぐ。魔力が接続される。
「……『終わり』」
 目隠しは取り払われて。七年の。こころを砕いた記憶が、ひといきに蘇った。



 そして、その一瞬。
 魔力ある者、誰もがそれを見た。



 足元からたちのぼるうつくしい魔力の欠片。夥しく満ちる、とうめいな煌めき。咲き誇る硝子の睡蓮。ふわりと舞い上がった欠片は、あまやかな芳香さえ感じさせる藤の花を形作った。一瞬の幻影。砕け散る音を立てて、瞬きよりはやくそれは消え去った。知る者は息を止め、忘我のまま。リトリア、と名を呼んだ。五国の魔術師、『学園』にある者、妖精たちも等しく。それを見た。産声より、それは悲鳴じみた。断末魔に似ていた。

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