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 3 英連邦長兄の、彼に与えられた愛のこと

 フランシスさん、というひとは、愛を教えてくれた人です。変な意味じゃないですよ。愛情の、なんて言うんだろう。優しさ、とか。温かさ、とか。たとえば、家族と一緒に居る安らぎの愛や、眠る瞬間に聞く笑い交じりの名を呼ぶ響きの愛おしさや、寒い冬に手を繋ぐことの大切さ。そういうことを愛情だ、と教えてくれた人なんです。この世界の愛おしさ、この世界の綺麗さ。そんなものばかりを、僕は彼から教わりました。
 思えばあの人に取っての僕というのは、珠玉だったんじゃないかな、と思います。だって本当に大切にされていたんですよ。一人では、港に出迎えに行くことすら浮かない顔をされるくらいに。あの時、あの時代。海は恐ろしいものでした。そこを渡って行く船乗りは、気の良い、けれど荒くればかりでした。僕は、幼くとも国でした。彼らを怖いとも、本当の意味で恐ろしいとも感じたことはなかったけれど、不安だったのでしょう。
 彼に見つけられ、その手の元で育てられるようになってからは、必ず世話係の青年と一緒にフランシスさんを迎えに行ったものです。隣国の、僕の兄弟がそうであるように、僕は荒れた海が好きではありませんでした。海が荒れれば、フランシスさんの到着が遅れるからです。手紙にしたためられた今日行くよ、という言葉が明日になり、明後日になり、そして来るかも分からなくなる。来るなら待ちます、いつまででも。
 怖いのは。一番、怖かったのは船が沈むこと。あるいは、途中で引き返されて来ないこと。行けなくなったよ、という手紙を読む時の胸の苦しさは、今でもちょっと同じくらいのものが見当たりません。そうだな、アルフレッド、僕の兄弟が、その年収穫したメイプルシロップをドラム缶ごとひっくり返して一缶全部ダメにしてしまった時くらいでしょうか。もう声が出ないくらいの、言葉が全部消えてしまうくらいの苦しさと、怒りです。
 そう、怒りなんですよ。面白いことにね。ごめんな、ってわざわざ手紙まで書いて送ってまで謝ってくれているのに、それに対して感じるのは怒りだったんです。どうして、と思いました。こんなに待ってるのに、こんなに大好きなのに、どうして来てくれないの、と。そんなことばかり思って、だから次に手紙が来た時には嬉しかったのに、そう言う時は絶対に港に出迎えには行きませんでした。迎えに、行きたいんですけどね。
 拗ねてたんです。怒ってたんです。あんなに待って楽しみにして、それなのに来てくれなかったから、迎えになんて行ってあげない、って思ってたんです。ふふ、こどもでしょう。本当にこどもで、ワガママで、だからフランシスさんは怒って良い筈なのに。そのことで、結局、一度も怒られませんでした。いらっしゃい、って、とびきりの笑顔で迎えもしなかったのに。来てくれて嬉しい気持ちを、伝えもしなかったのに。あのひとは。
 港に僕の姿がないと分かると、あの人はすぐに船を飛び降りて走るのだそうです。フランシスさんの側近だと名乗る方が、ある時僕が一人の時を見計らって、そーっと教えてくれました。祖国の顔色は、面白いくらいに青白くなるんですよ、って。船から見下ろせる範囲全てに視線を走らせて、それであなたの姿が見えないと分かるとなると、止める言葉を全部無視して、陸橋が掛かる時間さえ惜しいというように飛び降りて。
 走って、走って、息せききって走って。いつもきちんとした身なりをして、髪も乱れる所がないように整えて現れるその人が、その時だけ。そう、その時だけなにもかもくしゃくしゃにして、乱れに乱れた息で僕の家の扉を乱暴に開いて、一目散に駆けてきて。むくれて視線をやりもしない僕を軽々と抱き上げて、痛いくらいにぎゅうぎゅうに抱きしめて、そうして言うんです。ごめんな、マシュー。会いたかった、愛してるよ、って。
 ハッキリ言います。断言します。あのね、あの人に、あんなに美しいあの人に、そんな風にされて許さない存在なんてこの世界には居ないんですよ。そんな風にされて動かされない心なんて、心とは呼ばないんですよ。僕はいつも、本当にいつもいつも、そこですごく後悔して悲しくなって、いつも泣いてしまいました。こんなに、こんなに愛してくれているのを知っているのに、どうして出迎えくらいしなかったんだろうって。
 フランシスさんが目の前にいれば、作らなくても笑顔なんて自然と浮かんできます。だって、大好きですから。特別なんですよ。本当に、大切なひとなんです。この、僕が『国』として存在を許されたこの世界の言葉に出来ない愛おしさを、存在ひとつで教えてくれた人だから。フランシスさんは、なにもかも愛するひとでした。すくなくとも僕が会った時にはすでにそういう人で、一昨日の会議で会った時も変わらず、そうでした。
 それでも、時々思います。フランシスさんはなにを諦め、なにを失ったのだろう、と。……一度だけ、たった一度だけ。あの人の庇護を離れ、イギリスの元に行くことになった時のことです。最後の一日でした。最後の、最後の夜でした。暖炉の温かな炎に照らされたあのひとの横顔を、僕は今でも忘れることができません。泣くかと、思ったんです。あのひとが。僕をこの地球を包む大気より遥かな愛で包んでくれた、あの人が。
 その時の僕には、恐らく、神にもひとしいひとでした。そのひとが、泣くだなんて。悲しませてしまうことは、ありました。怒られてしまうことも、よくありました。決して、決して不の感情を持たない人だとは思っていませんでした。けれど、泣くだなんて。あの美しいひとが、この世界の喜びに満ちた愛を教えてくれたひとが、まさか泣くだなんて。涙を流すだなんて、そんなこと、僕はその時まで想像したこともありませんでした。
 ……結局のところ、フランシスさんは僕の前では泣きませんでした。その時は、ね。もっとずーっと後、僕が大きくなって独立した時に、なんの折りかに涙が流れているのを見て、胸になにかがすとん、と落ちました。フランシスさんは、涙を流せるひとでした。悲しいことをきちんと、涙にして出してしまえるひとでした。けれど、泣けないひとなんだろうなって思って。その考えにひどく納得して、あの日の横顔を思い出しました。
 あの日、あの夜。風の強い夜でした。窓の外ではざわざわと、うるさいくらいに木の葉が鳴っていました。薪がはぜる暖炉の前で、僕を抱きしめるフランシスさんの手が、悲しいくらいに冷えていたことを覚えています。きっと泣きたかったのでしょう。泣けないことにも、泣きたかったのでしょう。細く伏せられたブルー・アメジストの瞳が恐ろしい程に冴えた色で、なにを思い出していたのか、僕は今でも知りません。

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