恐ろしいほど、雲の流れが早い。天と地の狭間になにも存在していないかのように、空気は澄み切って透明だった。嵐が来るかも知れない。顔の前に手を出して光を避けながら空を眺め、フランシスはぼんやりとそんなことを思った。またひとつ、雲が視界の端へ流れ去って行く。ふわりと頬を撫でていく風にゆるく目を細め、フランシスは目の高さを街並みへと戻した。腕時計に視線を走らせれば、午後の四時のすこし前だ。
枯れ葉が足元でくるくると踊る。さすがパリの木の葉、枯れてなお優美だ。イギリスはきっとこうは行かないだろう、と思いながら道を歩いて行く。もうすこし時間をつぶして、家に戻るつもりだった。外出の目的はなく、家に帰る理由もない。特に今は、家に戻っても出迎えてくれる可愛いペットは居ないのだし。落ち込みそうになる意識を溜息で押さえて、フランシスは己の一部でもある街並みに、のんびり視線を走らせる。
もしもこの街のどこかに出会いが落ちているのなら、そういう時はすぐに分かるのだ。胸がざわついてどうしようもなく、吹き抜けて行く風がそっと耳元で騒ぐのだ。居るよ、と。ここに居るよ、すぐそこに居るよ。すぐそこで、あなたのことを待ってるよ。ちいさな命はフランシスの手を頼る為だけに生まれて来たように、路地の片隅やショーウインドウの前や、あるいは公園の遊具の影にうずくまっているのが常だった。
そういう存在を見つけるたび、フランシスは喜んで家に連れて帰りたくなる。捨て猫や捨て犬、あるいはちいさな魚や鳥や、イタチのような獣だったこともあるが、それらはどれも温かかった。人よりすこし高い体温でフランシスの指先にすり寄り、嬉しそうに一声鳴いてくれるのだ。今度は、もしかしたらペットショップで待っているのかも知れない。俺の可愛いこちゃんに次会えるのは何時かねぇ、と思いながら溜息をついて。
踏み出した足が、ぴたりと止まった。自分でもあれ、と困惑するくらい、前に進んで行く気持ちになれない。一歩たりとも、前に進めなかった。片足を持ち上げて、前に置く。それだけの動作なのに、出来なくなってしまう。あれぇ、と思いながら苦笑して、フランシスは息を吸い込んだ。清涼な空気を肺いっぱいに満たせば、瞬間、おびただしい程の予感が胸に満ちて行く。居る。居る、居る、居る。居る。そこに居る。すぐそこに。
息を吸い込む動きすら惜しく勢いよく振り返れば、フランシスの背を突き飛ばすように強い風が吹いた。どこか遠くで、木の葉が揺れる。ざわざわと響く木の葉の音楽が、刻を告げる鐘の音を重たく運んだ。くるくると回転しながら、枯れた葉がフランシスの足元をすり抜けて飛んでいく。そして視線を投げたその先に、一枚の葉が音もなく、落ちた。彼女は、そんなことにも気が付いていないだろう。見られている、ことさえ。
天からまっすぐに光の帯が下りていた。鐘の音が鳴る協会に向かって跪き、両手を組み合わせて祈る少女を世界から隔絶したがるように。光は少女を包み込み、眩しさ故か祈りの為か、まぶたを下ろさせ瞳を覗かせていなかった。フランシスは息をのむ。その光景と、そして少女の姿に息を吐き出せなくなった。不思議に道行く『人』は、二人に気がつかないようだった。『国』がそこに在ることも、そして少女の存在にも。
鐘の音が鳴る。祝福か、あるいは断罪を重たく乗せた鐘の音が。鳴り響き、そして少女はまぶたを開いた。輝く光の粒子の中に、少女の瞳が晒される。現れたのは、豊かな実りに恵まれた稲穂色の黄金。いつか、いつか、争いが終わったら少女が戻ると告げた地の。
「……嘘だ」
呼びかける名を持つことこそを恐れるような低い囁きに、立ちあがった少女がフランシスを振り返った。神の祝福そのもののような瞳がフランシスを映し、きゅぅ、と愛しく細められる。たったそれだけで、世界が変わった。こんなに、世界は眩いものだったのだろうか。こんなにも、光に溢れていたのだろうか。街並みの全てが彩度をあげ、空に祈りが戻ってくる。木の葉と踊る風は翡翠の粒子を宿し、笑いながら天へ抜けた。
少女が一歩を踏み出した。カツ、と石畳を踏む足音に胸がいっぱいになる。この音を聞いたことがあった。ずっとずっと昔、確かにこの国に、この音が響いていた。ゆっくり、少女はフランシスの目の前まで歩いて来た。立ち止まって、すこし困ったような、それでいて全てを受け入れるような独特の笑みでフランシスの顔を下から覗きこんでくる。白いシャツに、黒のジーンズ。踵のすこしだけある、シンプルな黒い革の靴。
ひどく簡素ないでたちで立つ少女を、フランシスは目を細くして見つめた。
「……夢だろう?」
「触ってみます?」
くすくす、笑いが満ちて行く。腕を持ち上げて指先を伸ばせば、みっともないくらい震えていて、フランシスは思わず苦笑した。それでも手は止めない。そっと、そっと指先を少女の頬に触れさせれば、温かかった。少女は目を細めて、ゆうるりと笑った。祖国。私の祖国。フランシス。溜息と共に言葉がささやかれ、フランシスの胸に落ちて行く。
「……あなたが、いつまで経っても寂しがりで、どうしようもないから」
恐ろしくて引こうとした手を引きとめるでもなく眺め、少女は困ったようにちいさく、ちいさく首を傾げた。
「神様に、お願いしました」
「……しまったな」
「なにがです?」
少女の華奢な指先が、フランシスの目元に伸ばされて涙をぬぐって行く。その指先が柔らかく、手のひらには傷ひとつない。剣を握ったこともなく、旗も握らないであろう、少女の手のひら。無性に愛しくて、涙が勝手に溢れて行った。
「神様は君が天国から逃げて来たって知ってるのかな? って言えない」
「言わなくて良いです」
ぴしりと、小枝で虫を払うような冷たい声に、今度は笑いが止まらなくなった。全く、なんてことだろう。肩を震わせながらゆるく引き寄せれば、少女の体はまっすぐにフランシスの胸の中に収まった。
「ジャンヌ」
「はい」
「俺に会いたいっていう願いは叶ったよ。さぁ、あと二つの願いは?」
ぽこり、と全く力の入っていない拳がフランシスの頭を叩いて行く。くすくすと笑いが胸の中から響いて、止まらなくなった。
「フランシス」
「なに」
「……あと二つの願いは、あなたに差し上げます」
私はもう、これで十分です。ひそりと囁く言葉に、フランシスは短く息を吸い込んだ。世界に光が咲き零れて行く。こんなにも、世界が喜びに満ちていたなんて、知らなかった。ぎゅうう、と華奢な体を抱きしめれば、しっかりとした存在感で痛いです、と文句があがる。額に口付けを送れば、ばか、と笑われて口を手で押しのけられた。その手を取ってまたキスを送って、フランシスはさてどうしようかな、と柔らかく微笑んだ。
もったいなくて、俺も十分だよ、とはいえなかった。