会議開始五分前に滑り込むように戻ってきたハンガリーは、ドイツにプロイセンは私の泊まる部屋で寝かせて来ましたから、と告げた。会議場はホテルのワンフロアを借り切って行われる為、呼び集められた国々は、宿泊用にそれぞれ部屋を持っている。その、ハンガリーに割り当てられた部屋に置いてきたのだとこともなげに言った女性に、ドイツはそうか、と頷きかけて。意味を悟り、かぁ、と顔を赤くしてしまった。
部屋に寝かせる。それ自体に深い意味などないのだろう。体調が悪い相手がせめてゆっくり休めるようにと、女性らしい気遣いで清潔なベットのある場所を選んだにすぎないのかも知れない。引っ張っていく動きは強引でそして唐突だったから、ハンガリーは宿泊用に確保してある部屋の内、使われないで余っているものの存在も知らなかっただろうし。しかし、女性の部屋、なのである。まずいのではないだろうか。
伝えたいのに言葉にならず、そ、そうか、とぎこちなく頷いて視線をさまよわせるドイツに、ハンガリーは不思議そうに首を傾げた。髪の一部分だけをバレッタで留めてあとは流したままの焼け焦げた土のような、深い色合いの髪がさらりと揺れる。一本一本が細く透き通っているようでもある、しなやかで綺麗な髪だった。香り立つような女性的な仕草に、ドイツは結局なにも言えずに視線をそらし、息を吐き出した。
それが本当にまずいのであれば、ドイツが言うまでもなく、オーストリアがたしなめるからだ。案の定、オーストリアを挟むようにしてドイツの二つ隣に座ったハンガリーに、なんとも言い難い視線が向けられる。会議開始まで、もう数分。ドイツの号令に従って次々と着席の音が響く中、オーストリアは低くたしなめる響きでハンガリーの名を呼んだ。
「部屋に……プロイセンを寝かせて来た、と聞こえたのですが。本当ですか?」
「はい。あのまま放っておくと、振り切って会議に出てきちゃいそうでしたので。内側に鍵のない部屋なら、閉じ込められてもっと安心だったんですけれど、大丈夫かな……。うーん、睡眠薬があったら飲ませて来たんだけど、鎮痛剤しかなかったのよね」
一応飲ませて来たから、すこしは効くでしょうけれど、と。軽く眉を寄せて自分の思考にこもった呟きを発し、ハンガリーはそうではなく、ともの言いたげなオーストリアに微笑んだ。男たちの言いたいことや動揺を知っていてさらりと交わす、頭の良い女性の表情だった。
「大丈夫です、オーストリアさん。なんにも悪いこと、ありませんから」
ね、と甘く笑われてしまえば、それ以上オーストリアは詰め寄ることができない。結果として、諦め交じりにそうですか、と呟けば、ハンガリーは嬉しそうに頷いて椅子の上で姿勢を正す。待っていたかのようなタイミングで、ドイツが開会を宣言した。すこし前のハンガリーとプロイセンの騒ぎで、普段は輪を乱しがちな者たちの空気は戸惑っていたのだが、号令によって引き締まる。まずまずのスタートだった。
三時間の話し合いの後、三十分の休憩が取られた。開始こそスムーズに進んだもののやはり話し合いは難航していて、予定の六割近くしか消化できていなかった。三割に届かないひどい日もあることを考えれば、今日はまだ進んだ方なのだが。ふぅ、と肩の荷をすこし下ろして椅子に深く座り、息を吐くドイツに、小走りに寄って来たのはイタリアだった。ヴぇー、と特徴的な鳴き声と、軽やかな足音が響く。
とたとた、近寄って来た足音は直前でたん、と床を踏み切り、イタリアは椅子ごとドイツに抱きついた。
「ドイツー! ねーねードイツードイツー! なんでプロイセンいないのー?」
今日は来るっていうから、俺も楽しみにしてたのにー、と幼く頬を膨らませてむくれるイタリアに、思わずドイツは黙ってしまった。そういえばイタリアは会議に遅れて来たので、開催前の騒ぎなど当然知らないのだった。その発言によってぎくりと、空気は妙な緊張を孕むのだが、イタリアは気にしないし、気に出来ない。空気は吸うものであって、読むものではないからだ。なぁんで、と可愛らしい笑みで問いが重なる。
なんでと言われても、とドイツは視線を椅子二つ分ずらすのだが、すでにハンガリーの姿はなかった。彼女の手によってまとめられた三時間分の会議内容を流し読みしながら、オーストリアが涼しげな声ですぐに出て行きましたが、と告げる。いつものように読みやすい字で、わずかな乱れも狂いもなく、簡素で分かりやすく正確にまとめられたオーストリア用レジュメは、あまりに普段通りすぎて、逆に怖かった。
ドイツは、ハンガリーとプロイセンの関係を表す言葉を持たない。幼馴染だと言われればそうかと頷くし、腐れ縁だと告げられても納得するだろう。もちろん、プロイセンがハンガリーに淡い想いを抱いていることくらいは知っているし、あまり相手にされていないことも、同じくらい理解しているのだが。なにをどう告げていいのか分からない表情で口を閉ざしたドイツに、イタリアはふよふよとくるんを揺らして待っている。
どーいーつー、と間延びした呼びかけで促されて、ドイツはとりあえず、プロイセンがこのホテル内に来てはいることだけでも伝えようと、口を開いて息を吸い込んだのだが。あのな、と口火を切るより早く、すさまじい音を立てて会議場の扉が開かれる。まさかテロかっ、と各国が素早く警戒態勢に入り、そして瞬時に硬直した。飛び込んできたのが、ハンガリーだったからだ。ただし、とても目がすわっている。
真剣に、本気で不機嫌なのだと分かる荒れた輝きで瞳がきらめき、走ってきたのか、下ろされた髪はぐしゃぐしゃに乱れてしまっていた。それなのになぜか、息が乱れていないから恐ろしい。ヴぇ、ヴぇー、とよく分からないながらも困惑と恐怖に鳴き声を上げるイタリアを、守るようにドイツは立ちあがった。そして、反射的に銃を構えてスペインをかばうように立っているイタリア兄からも守るように、近寄っていく。
「ハンガリー、その、どうし……」
た、という言葉は永遠に響かなかった。そもそもハンガリーがプロイセンの様子を見に行ったことなど、事情を知るものであれば簡単に察しが付くので、あまりに間の抜けた問いであったことだろう。勢いよく顔をあげたハンガリーの顔に表情はなく、思わず足を引いて逃げかけたドイツを責める者は一人としていなかった。
「……逃げた」
誰が、とも。そうか、とも。ドイツは言わなかった。その二つはさすがに地雷すぎると、数秒の間で理解していたからだ。ドイツは触れれば切れるような眼差しを向けてくるハンガリーに慎重に頷き、どうすればいい、と問いかける。探しに行くことはあまりにたやすい。だからこそ一度戻ってきたのであれば、ハンガリーはなにかしら要求を持っている筈なのだ。言ってくれ、と乞われてハンガリーは息を吸い込んだ。
己の心を落ち着かせるような、深い、深い呼吸だった。
「ホテルの中には……いると思うの。すこし出るって、書置きがあったし……ドイツの家に帰っちゃうとか、どこか行っちゃうとか、そういうんじゃなくて。部屋に戻ってくるとは、思うの。空気を吸いに行ったとか、そういうのだとは思うのよ。でも」
でも、部屋には、いなくて。途方に暮れた呟きが落とされ、それきりハンガリーは口を開かなかった。落ち着こうとはしているのだろう。震えながら握りしめられた拳の白さが、心を物語っていた。正直ドイツは、なぜそこまでハンガリーがプロイセンを追うかが理解できないでいる。体調が良くなさそうだったのは分かるのだが、それでも悪い、と言ってしまえる程の不調ではない筈なのだ。国内も落ち着いている。
プロイセンとして調子を崩す要因もなければ、ギルベルト個人が元気をなくす理由も見当たらなかった。けれど、そんなことは。終わってから聞けば良いのだ。二人は幼馴染だという。プロイセンが一番最初に見知った『国』はハンガリーで、ハンガリーはオーストリアに出会う前にプロイセンと共に居たのだ、と。それを、いつかドイツはプロイセンから語られたことを覚えていた。懐かしそうな、優しい瞳と声だった。
探す理由は、それだけでも十分だ。それにドイツとて、心配していないわけではないのだし。うん、と自分の納得を抱いた呟きを発し、ドイツはそういうことだ、と振り返りながら会議場に残っていた国々に言う。
「個人的な事情で大変申し訳ないが、休憩時間を延長して兄貴を探してくれないだろうか……と、言うか、だな。うん」
頼んでいる間に膨れ上がった殺気に似た気配に、ドイツは若干青ざめた顔になりながら付け加えた。後ろは、すこしも振り返らなかった。
「探せ! 答えはja、のみだ!」
理解したら逃げろ、という前にイタリア兄がスペインを掴み、脱兎のごとくかけて行く。その後をフランスやイギリスも追い、あっと言う間に会議場はほぼ無人となった。そうしてから恐る恐る振り返ると、残っていたのは優雅に腰掛けるオーストリアのみで。いついかなる時でも貴族の気品を失わない男は、優美に眉を寄せて立ち上がると、さて、と伸びをした。
「私たちも行きますよ、ドイツ」
ちなみにハンガリーはとうに居なくなりましたので安心していいですよ、とくすくす笑いながら教えられて。怖かったんだぞ、と言いながら、ドイツは胸を撫でおろした。
探し始めて一時間。客室もそれに続いていく廊下も、ラウンジもティールームも、各階テナントもくまなく探しまわった各国からドイツに寄せられた報告は一律同じ『見つかりません』だった。しらみつぶしにとまでは行かないが、人手を割いての大捜索である。ホテルをくまなく探しまわって見つけられないというのは、単に相手が隠密行動も得意なたちで、加えて動き回っているから、というだけでは弱い理由だった。
ハンガリーはホテルの中に入ると思うと言っていたが、外に出てしまった可能性が高いだろう。再集合した会議室でぐったりと頭を抱え、ドイツは考えたくもない事態に目をつむった。国土のないことを仮に『引退した』とするならば、『国』として存在するプロイセンの国際的利用価値は低い。たとえ『国』の化身としてある者たちの取引材料として有効としても、国際情勢を左右する政治においては切り捨てられてしまう。
たとえば人質になったり誘拐された場合は、たとえ『東ドイツ』という特例だとしても、最優先で救出されるかといえば難しかった。思考がどんどん最悪の方向に走りかけているドイツを小突き、オーストリアはため息交じりに落ち着きなさいお馬鹿さん、と普段通りに笑みを浮かべる。焦りと不安で苛烈に揺れるまなざしをさらりと受け流すあたりが、オーストリアも、さすが長きに渡る戦いを乗り越えて来た『国』だった。
ただその思考は、ドイツに負けず劣らず混乱していたのだが。ふ、と勝気な様子で微笑をふりまき、オーストリアはこともなげに言う。
「プロイセンは軍国。民間人が巻き込まれていればそうとは言えませんが、身に降りかかる災難程度、笑いながら振り払えるでしょうとも」
「ドイツ、オーストリアさんも。プロイセンがなにかに巻き込まれたの前提で考えるのやめなよ……。うん、そうだ! きっとオヤツ食べに行ったんだよ! 美味しそうなお店がたーくさんあったじゃない」
体調悪い時って、食欲無くても寝て起きるとお腹空いてるものだし、と美食国家らしい発言を響かせながら、イタリアはもぐもぐと口を動かしていた。会議室でなに食べてるんだ、と呆れたドイツが見やるのにも構わず、イタリアはにこにこと、いかにも美味しそうにパニーニを頬張っている。表面にオリーブオイルを塗って色も香りも良く焼き上げたフォカッチャは、それだけちぎって食べてももちろん美味しいだろう。
具は水牛のモッツアレラに、太陽をたっぷり浴びて育った完熟トマト。じっくり熟成させたアンチョビに、薄く切ったプロシュートは贅沢に入れて。取り立てだとすぐ分かる瑞々しいレタスは歯触りも良く、噛むとじゅわっと水分が口に広がっていく。ウチの国民のお店がホテルの外にあったんだよー、と内部捜索を命じていたのにも関わらずなされた報告に、ドイツは完全に脱力しながらそうか、と頷いた。
ちょうど正午から始めた会議だから、時刻はもう四時を過ぎている。唐突に空腹を自覚したドイツの隣で、オーストリアも溜息をついた。腹が減っては戦ができぬ、とはよく言ったものだ。そもそも三十分の休憩もかすかな食欲を満たす為のものでもあったから、なにも口にしていなければ、胃が騒ぎ出すのも道理だった。なにか軽食を、と立ち上がるかけるドイツの視界を遮るように、ずい、と紙袋がつきだされた。
反射的に受け取るとヴェ、と満足げな鳴き声が響く。
「イタリア……これは」
「俺と店員さんオススメサンドであります! ドイツとオーストリアさんのだよ。そっちがパニーニ、こっちがフレッシュジュース。ピンクのストローがブラッド・オレンジで、黄色のストローがレモンとオレンジのミックスだよ。こっちは俺の、カフェラッテ」
もうひとつ持っていた紙袋からプラスチックのボトルをひょいとつまみだして、イタリアはそれをオーストリアに手渡した。飲み物はどれも使い捨てのプラスチックや紙カップではなく、エコロジーに配慮してなのかスタイリッシュなデザインのタンブラーだ。飲み口からカラフルなストローが生えている点のみが、テイクアウトの名残を残していた。タンブラーの飲み口を傾けて、イタリアはおいし、と幸せそうに笑う。
「大丈夫だよー、ギルだもん。帰巣本能とかつよーいギルだもん。待ってれば戻ってくるよー。そんな心配しないで、ゆっくりしてよ?」
「き……帰巣本能って……フェリシアーノ、俺の兄貴は犬じゃ」
「あ、うん。そうだね! ギルベルト、小鳥さんだもんねっ!」
ひきつった表情でドイツが否定しきる前に、イタリアはさっさと訂正して納得してしまった。あの頭にのっけてる小鳥さんとかすごく可愛いもんねー、と笑顔で言われて、ドイツは訂正を諦めて紙袋に手を突っ込み、パニーニを取り出してかぶりつく。すぐに口いっぱいにオリーブオイルの香りとモッツアレラのミルクとチーズの優しい風味が広がり、トマトが甘くさっぱりとうるおして行った。わずかな塩味はアンチョビだろう。
うまいな、と呟けばフェリシアーノはこの世の幸福を表現したがるような笑みを浮かべて、誇らしげにでしょう、と囁く。それからすこし背伸びをして、フェリシアーノはルートヴィヒの頭を撫でた。筆を持ち、カンバスに色の洪水をあふれさせる指先が、そっと髪に触れて行く。愛おしげに、優しく。あやすように。大丈夫だよー、と子守唄のように柔らかく紡がれる声に、ルートヴィヒの不安が解けて行く。
息を吐き出して安堵すれば空腹をより強く感じて、はずかしまぎれに大きく食らいついた。くすくす笑いながら前髪を撫でて指先を離し、フェリシアーノは無言でパニーニを口にするローデリヒに、味の感想を求める視線を向ける。もぐもぐ、ゆっくり噛んで飲み込んだローデリヒは、悪くありませんね、とひねくれた答えを返して微笑んだ。それでも十分伝わるのだろう。ヴェ、とごく嬉しそうに鳴いて、笑顔の花が咲いた。
その花を散らしたがるように、溜息とともにフェリシアーノの頬が指でつままれる。びくぅっと驚きに背をはねさせたフェリシアーノの耳元で、ばぁか、とごく不機嫌そうな声が奏でられた。にいちゃん、と反射的な呼びかけに、翠玉の瞳があざやかに光る。
「なぁにサボってんだよ、フェリ。じゃがいも、お前も指揮取るならサボってんじゃねぇよ」
「えー、だって兄ちゃん。俺お腹空いちゃったんだよー。お腹空いたら動けないんだよー」
「腹が減るまで仕事なんかしてんじゃねぇよ大ボケっ! シエスタは? したのか?」
してないなら眠いだろ、と不機嫌に眉を寄せたロヴィーノの指先が、フェリシアーノに伸ばされる。軽く乱れてしまった髪を整える指の動きはごく優しいもので、フェリシアーノは気持ちよさそうに目を細めて笑った。怒ってんのに笑うな、と指の背で額を小突かれ、フェリシアーノはごめんにいちゃんー、と甘やかに笑う。そのまま兄ちゃん心配性なんだからー、とじゃれつくフェリシアーノのくるんは、ご機嫌に揺れている。
きゃっきゃと笑いながら抱きついてくる弟を半ば本気でひきはがしながら、ロヴィーノは生ぬるい視線で眺めてくるローデリヒに、ほぼ八つ当たりの声を投げた。
「オイ貴族っ! お前も優雅に食ってねぇで働けよっ!」
「貴族は働かないものですよ、お馬鹿さんが」
「ねーねー兄ちゃんはご飯どうしたのー。ねーねー兄ちゃんはシエスタしたのー。ねーねー兄ちゃん、兄ちゃんー」
お前俺が話してる時は話しかけてくんなあぁっ、と雷を落とされて、フェリシアーノはぎゅぅうっとロヴィーノに抱きついた。ごめん怒っちゃいやーっ、と必死に叫ばれて、ロヴィーノも本当はまんざらでもないのだろう。はいはいと背を撫でてあやす仕草は『兄』そのもので、フェリシアーノは子猫よろしくロヴィーノにすり寄って笑っている。アントーニョが居なくて本当によかった、とルートヴィヒは思う。確かにこれは楽園だ。
そこでようやくロヴィーノが単独行動であることに気が付き、ルートヴィヒの眉が寄る。
「ロヴィーノ、アントーニョはどうしたんだ?」
「あ? ロビーに置いてきた」
ちょいちょい、と人差し指で会議室の床を指さして言いながら、ロヴィーノはのんびりとした声で報告忘れてたけど、と続けた。
「居たぜ。ロビーに。エリザさんも一緒。だから今、アントとフランシスが様子見してる」
「それをどうして早く言わないんだっ!」
「忘れてた以上の意味なんてねぇよ」
はんっ、と鼻で笑い飛ばすロヴィーノは無駄に格好よかったので、フェリシアーノの機嫌がさらに良くなった。もう俺兄ちゃん大好きー、とじゃれるフェリシアーノを置き去りに、ルートヴィヒは走り出す。その背にのんびりと、馬に蹴られて死ぬなよじゃがいもー、と声がかけられた。その言葉の意味を、ロビーについてすぐ、ルートヴィヒは知ることになる。天井が吹き抜けになった解放感溢れるロビーは、人が多かった。
『国』の会議で使用していると言えども、一般の宿泊客が居るせいだ。加えて出入りの激しい時間帯である。兄の姿を探して視線を彷徨わせるルートヴィヒの姿は、本人が思う以上によく目立ったのだろう。こら、と潜めた声が間近で響き、気がついた時にはすでに身柄が引きづり込まれた後だった。植え込みの陰で不自然に縮こまるアントーニョとフランシスに、ルートヴィヒは目を険しくして口を開く。
「なんだっ! 俺は今っ」
「あー、あー。分かるけどな、落ち着くんやでー。ふそそそそー、してやるからなー。だからちょっと、もちょっと待ってぇな。今行ったらちょっといくらなんでもアレっちゅーか、親分やって空気読めるんだっつーねん。な、フランシス。俺、KYちゃうよなー?」
「あはは。あそこに行ったらKYっていうかフラググラッシャーっていうか、もう一生恋愛する資格、ないよ?」
にこ、と華やかな笑みを浮かべて言い放ち、フランシスは優美な仕草で目を細めて見せた。大丈夫だから落ち着けな、と低音の囁きに、ルートヴィヒは仕方なく頷いた。『国』としてではなく個人としての意識が強くなるこんな時、どうしてもルートヴィヒは、彼らに勝てないのだった。とりあえずでも頷いたルートヴィヒによしよしと満足げに微笑んで、フランシスは悪友の弟分を手招いた。そこからは見えない、と言って。
つまり覗き見しているのか、とまなじりをつりあげるのに肩をすくめ、フランシスはあんなの直視できないでしょうか、と笑った。そして空を泳ぐ蝶のように綺麗に、曲線を描いて指示された場所で繰り広げられていたことに。ルートヴィヒはロヴィーノの言葉を、まざまざと思い出していた。
彼らは人ごみにひっそりと、溶け込んでしまうようにしてそこにあった。決して目立ってはいない。静かに息を殺すように存在していて、決して人目をひきつけはしないのだ。けれどそれは、ふとした瞬間に『気がついて』しまうまでのこと。視界の端にでも捕えてしまえばもう、意識を惹きつけてやまない。見ずにはいられない。見つめずには、おれない。そんな風にして、彼らはロビーの端、オープンラウンジに居た。
臙脂色の滑らかなソファは一人掛けで、座っているのはギルベルトだ。どうにもしがたい表情を持て余すように軽く眉を寄せては、捕えられた両手に視線を落とし、時折息を吐いている。一人だけが腰掛けるソファの前に、エリザベータは居た。ギルベルトの両手を引き寄せて胸に抱くようにしながら、片膝をついて俯いている。ギルベルトが居心地悪く身じろぎをしても、エリザベータは動かない。まぶたも閉じている。
眠っている訳ではないのだろう。じっと見ていると時々エリザベータは目を開けて、視線をわずか上向かせ、そこにギルベルトが居ることを確認している。明るい、草色の瞳。すこし前にドイツたちに叩きつけられた怒りは嘘のように消え去り、どこかぼんやりと、うっとりと安心に身を任せてギルベルトを映し出す。そして弱く、やわらかく、留めおけない儚いもののように、エリザベータは微笑むのだ。なにも言わずに。
そしてまた目を伏せ、ギルベルトの手を抱いて動かなくなってしまう。吹き抜けの、高い所にある天井を見上げたギルベルトが、あー、と意味のない声を出した。
「……起きてるかー、エリザー。エリザベーター。そろそろ会議なんじゃないのかー。っつかもうはじまってんだろコラああぁ……せめてドイツに連絡だけはしろよ。な? お前まで戻ってこなかったら心配するだろ? お坊ちゃんが探してきますとか言いだして出歩かれたら、最終的に一番困るのはお前だろ? ……おい、エリザ。エーリーザー? 聞こえてんのか、聞いてんのか? エーリーザーベーター?」
別に力いっぱい両手を握られている訳でもないらしく、ギルベルトはするりと右手を抜き出すと、それをエリザベータの頭に置いた。幼子をあやすように一定のリズムでぽん、ぽんと叩かれながら重ねられていく柔らかな響きの言葉にも、エリザベータは反応しない。あああああ、と心底、形容しがたい感情でうめいたギルベルトは、軽く眉を寄せてから辺りを見回した。知り合いが居ないか確かめているようだった。
ドイツたちはすこし離れた場所で気配を消して隠れていた為、動揺しているギルベルトには見つけることが出来なかったようだ。よし、と気合を入れたギルベルトはなにかを確かめるように、試すように、ちいさく震えながら唇を開く。大丈夫だよ、ごめんな、と言葉が落とされた。
「悪かった……『マジャル』」
心配してくれたのに、書置きだけで居なくなって、本当に、と。素直な謝罪の言葉に、そこでようやくエリザベータが反応する。常になく張りつめた色の瞳は、草原にはえる草の色をしていながらも、深く濃い色合いだ。ハンガリーのそれは日の光に照らされた輝きであるなら、今の色は真夜中の草原。触れれば切れるような静寂に満ちた月明かりの中、風に揺れ動く草の色。はぁ、とギルベルトが溜息をついた。
「そんな心配するなよ。今日だってちょっと……昔の夢見て、気分が落ち込んでたくらいなんだからさ。確かに体調悪くはあったけどよ、それだって別に」
「なんの夢」
つらつらと言いわけを重ねられるのに我慢がならないと、そう言うように鋭く問いかけた『マジャル』に、ギルベルトは口元をひきつらせた。完全にスイッチが入ってしまっている。柔らかさの欠片もない口調が、その証拠だった。コイツ元に戻さねぇと会議に送り返せない、と内心でうめくギルベルトに、静かな笑みが向けられた。頭に置いていた手は、頬に押しつけてすり寄られる。うっとりと、穏やかな笑みが浮かんだ。
「どんな夢。教えて、ギルベルト。……教えて、俺のマリア」
「……俺はお前の『マリア』じゃない。プロイセンで、ギルベルトだ」
「分かってる、知ってる。でも……教えて、ギル」
知りたい、教えて、聞かせて、と。比類なき好意で甘く響く声で求められてしまえば、ギルベルトには断れない。ああもうっと顔を赤くして叫び、言ったら『ハンガリー』でエリザベータにちゃんと切り替えろよ、と目を細める。それにあっさりと笑顔で頷いて、『マジャル』は早く、と言った。ギルベルトはそこはかとなくげっそりしながら、昔の夢、と投げやりに言う。
「まだ『ハンガリー』が『マジャル』で、『プロイセン』が『マリア』だった頃の……夢、だよ。それだけだ。他にはない」
「それだけ?」
「それだけ、だ。……なんだよその顔」
にこにこ、にこにこと。普段のハンガリーを彷彿とさせるような笑顔を浮かべる『マジャル』に、ギルベルトはひきつった表情でやや仰け反る。言ったんだから早く切り替えて会議行けよ、と追いやられるのに、『マジャル』はまるで聞き流して呟く。それだけで、と。
「それだけで、精神的に不安定になるなんて……可愛いね、ギル」
「おま……お前、最低! 最悪!」
「顔が赤いと可愛いだけだよ、ギル。……ギル、ギルベルト。マリア」
歌うように名を囁いて、『マジャル』はすい、と体を立てる。中途半端に立ちあがった姿勢で顔を近くして、『マジャル』はゆるりと首を傾けた。かすかに、ごくかすかに『マジャル』の唇が動く。音にはならなかった言葉を読み取って、ギルベルトは深く、息を吐き。ゆっくりと、唇を重ねた。
ぐ、と肩を押して離れたのは、すでにハンガリーだった。明るい草色の瞳が、羞恥と後悔に揺れている。事故だろ事故、と言い聞かせるとハンガリーはぎこちなく頷き、それからぽこりと、力の入らない拳でプロイセンを叩く。甘んじて受けたプロイセンは、ため息交じりにごめん、と素直に謝った。急にいなくなったりしてごめんな、と。本当よね、とわざとらしい怒りが込められたハンガリーは、ぱっと幼馴染から離れて。
背を向けたままで。会議行かなきゃ、と呟き、小走りに駆けて行った。エレベーターに乗る直前で振り返ったハンガリーは、部屋で休んでなさいよ馬鹿っ、とプロイセンに向かって叫ぶ。ひらりと振られた手のひらは、確かに了解の証だった。