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 3 会議の後は

 元々設定していた会議予定終了時刻から、遅れること一時間。議題のおおよそ九割以上を終了して、会議は閉会となった。前半の遅延具合を考えると脅威というよりは奇跡に近い終了時刻であり、内容なのだが、それには当然理由があった。戻ってきたハンガリーが、それはもう綺麗な笑顔で『会議進行の邪魔をした国は、合法的にフライパンの強度実験にお付き合いしてもらいます』と言ったからである。
 なにをどうすれば合法的になるのかも定かではなかったが、それに意見を告げる勇気のある『国』など、どこにもなく。また、唯一止められるであろうプロイセンも不在のままだった為に、いつにない緊張感の中で発言は多彩に交わされ、つつがなく終了を迎えることができたのだった。一時間オーバーになったのは、ただ単に行方不明になったプロイセンの捜索時間の分長引いただけなのだから、すさまじい。
 いつもこれくらいであればいいのだが、と肩の荷を下ろしながらトン、と書類を整え、ドイツは隣に座っていたオーストリアに視線を落とす。張り詰めた空気の中でも一人変わらずマイペースだったオーストリアは、順調に暗譜を終えていたらしい。会議中の視線を一人占めしていた楽譜は脇に伏せられ、今は涼しげな顔で机の上を指が踊っている。トン、トトン、と軽やかに机を打つ指先はひどく楽しげで、優雅だった。
 思わず見ていたくなる気持ちをぐっと堪え、ドイツはオーストリアの手首を掴み、ぐいと上に引き上げて制止させる。指も手も、手首も腕も、ピアニストの命だ。当然の反応として冷やかな睨みを向けられるのに、しかし憮然として、ドイツは叩くのならば鍵盤を、とため息交じりに告げる。指を置いた分、鍵盤は沈む。その当然の動きがない机で動きだけを練習しても、常にない衝撃は慣れない手首を痛めるだけだ。
 そんなことくらい、当然オーストリアは知っている。知っていて我慢できなくて動かしていたので、表情は悪戯を咎められてむくれる、幼子のそれだ。普段なら連写モードのシャッター音が響く所なのだがそれがなく、ドイツとオーストリアは無言で見つめあった後、恐る恐るハンガリーを見つめた。濃く焼け焦げた土色の髪をふわりとなびかせ、ハンガリーはまだ椅子に座っていた。横顔は真剣そのものである。
 会議終了に気が付いていない、ということではなさそうだった。すこしばかり猫背で机に向かう姿が緊張の緩和を示していたし、一心不乱に書いているのは意見書や要望書ではなく、オーストリア専用の議事録なのだから。予定よりも早いペースで会議が進んだ結果、どうにもまとめきることができなかったらしい。関心するくらいの勢いで書きしめされて行く内容を見る分に、あと十分くらいはかかるだろう。
 さすがに良心が痛んだのか視線を彷徨わせるオーストリアに、気配に気が付いたらしいハンガリーがぱっと顔をあげた。反射的に謝罪しようとするオーストリアと、手伝いを申し出ようとするドイツの先制を期して、ハンガリーはふふ、となんだか嬉しそうに笑う。
「いいのよ、好きでやってるんだから。それよりオーストリアさん、今日はこのままお泊りでしたよね? フロント前のラウンジに、グランドピアノがありました。学生さんなんかにも無料で貸し出して弾いてもらってるようなので、断れば、演奏の予定がない限りは自由に弾いていいようです。後で聞かせてくださると嬉しいのですが」
「ええ、ハンガリー。貴女の為なら何曲でも」
 罪悪感を感じさせない為でもある申し出を、オーストリアはほっと胸を撫でおろしながら受けおった。得意なことで恩返しとは言わずとも、喜んでもらえるのであれば、それに勝ることはない。それではさっそく練習に、と会議場を出て行くオーストリアを、イタリア兄弟が大慌てで追っていく。一人で行ったら辿りつけないよぅーっ、この馬鹿貴族ーっ、と騒がしく叫ばれるのに、オーストリアは満更でもなさそうに笑っていた。
 二人の天使の先導でロビーへ向かったオーストリアを安心した風に眺めやり、ハンガリーは落ち着いた仕草で議事録の作成に戻る。手持ちぶさたに隣の椅子に腰かけ、ドイツはなんとなく、その仕事を見守った。解散が宣言された会議場は、それぞれ勝手な会話とざわめきに満ちていて、ぼんやりと時を過ごすのにはちょうどいい空気だ。疲れた体を伸ばしたりしているドイツに、ハンガリーはくすりと笑う。
「いいのよ、別に。お付き合いしてくれなくても……あなたも今日は疲れたでしょう、ルートヴィヒ」
 ふわりと。優しく伸ばされた手の先で乱れた前髪をちょいちょい、と整えられ、ルートヴィヒは思わず頬を赤らめて沈黙する。親しい血縁に対するような、年の離れた弟を愛でる態度をこそばゆく想いながらも、振り払えないのは古い記憶があるからだ。まだドイツが帝国として成立していなかった時代。『軍国』プロイセンに育てられていた時代。『ハンガリー』は、『エリザベータ』は、事実年の離れた姉のようなものだった。
 今でこそルートヴィヒの身長はエリザベータより上だが、見上げなければ視線が合わない時期も長かったのだ。心底恥ずかしく思いながらも不意にそうしたくなって、ルートヴィヒは大きく息を吸ってから、エリザベータを見て『姉さん』と呼んだ。瞬く間に朱を掃いた頬に、武器を握ってなおたおやかな手が押し付けられる。見開かれた、明るい草原色した瞳をまっすぐに見て。ルートヴィヒは、こちらも照れながら呟いた。
「姉さんも……その、今日は疲れているだろう。あまり根を詰めるのは、その、よくないと思う」
「だ……大丈夫よ。エリザお姉さん、今のでもう一会議くらい乗り越えられそうなくらい元気でたから……っ!」
「なにしてんだよ。お花畑」
 呆れかえった声が落とされて、ルートヴィヒは勢いよく振り返った。はたしてそこに立っていたのは兄、その人で。思わず頭を抱えて、ルートヴィヒは忘れてくれ、と言い放った。ケセセ、と人の神経を逆なでるのに長けた笑い声を響かせて、ギルベルトはヤダね、と目を細めて笑う。
「あんな可愛いルート、忘れろっていう方が無理だぜ。あー、俺の弟は可愛いなーっ!」
「ちょっ、兄さん待てっ! ひ、人が見てるだろうっ!」
「俺様は人目なんか気にしないぜー!」
 言っている途中で耐えきれなくなったらしく、ギルベルトは両手を伸ばしてルートヴィヒの頭を抱え込み、わしゃわしゃと髪を乱して愛で始める。家ではわりあいよくあるスキンシップだが、あいにくとここはまだ会議場で、そして残っている『国』も多い。振りほどこうとしても対術に秀でたギルベルトの腕はがっちりと頭を抱え込んでいて外れず、言葉での抵抗もごくあっさりと、一言の元に却下されてしまった。
 によによ、微笑ましい視線ばかりが集まってきて、ルートヴィヒは意識を失いたくなった。もしくは場の全員の記憶を消去するにはどうしたらいいのか、ということについて真剣に考え出したルートヴィヒの救いは、意外な所から現れた。突如として奇声をあげながら飛びかかってきた二人がものの見事にギルベルトの両腕を掴み、ルートヴィヒから引き剥がしたのだ。あ、とギルベルトが不思議そうに呟き、瞬きをする。
 その腕をがっちりと抱え込んで逃げられないようにしながら、右からフランシスが、左からアントーニョが、によによ笑って口を開く。
「よーぅ、ぷーちゃん。お元気ー?」
「お兄さんたちとちょーっとお話せーへん?」
「しねぇよ、気持ち悪いなお前ら。離せよなんだよ」
 しない、と言っておきながら聞いてしまうのがギルベルトである。力ずくで振り払うことも不可能ではないのに、無抵抗で捕えられているのも、相手が悪友だからの気さくさなのだろうか。奪い返すことも出来ずに軽く眉を寄せながら椅子に座り、ルートヴィヒは口悪くじゃれあう三人を見守った。背後でエリザベータに気配が若干苛立ち、字を書く速度が速まったのは気のせいだ、ということにしておこうと思いつつ。
「体調はもう良くなったんー? ぷーちゃん一時期より細っこいから、親分は心配なんやでー」
「うっぜえええっ! 細くねぇよ目の錯覚だよ!」
「んー、朝より顔色はよさそうなのな。睡眠不足だったのか? それとも……」
 いかにも思わしげなフランシスの言葉に、ギルベルトの眉がつりあがる。アントーニョの頭をぐいぐい押しやって苛めながら、ギルベルトはなんだよ、と問いかけた。それを無視していられれば、からかわれることもないだろうに。内心でそう思いながら見守っているルートヴィヒにウインクを投げてよこして、フランシスはす、とギルベルトの耳元に口を寄せた。
「それとも、エリザちゃんとキスしたから元気になっちゃった?」
「っ! お前……な、なんで、なんでんなことっ!」
「あー、否定はせぇへんのな? そんなん、見てたからに決まっとるやないの。なー、ルート?」
 そこで俺に振るのだけは止めて欲しかった、と思いつつ、ルートヴィヒは動けない。嘘だよな、と肯定を求められるギルベルトの赤い瞳が、救いを求めて注がれていたからだ。しかし一心に見つめられていたからこそ、ルートヴィヒは嘘をつくことができず、また無視し続けることもできなかった。すまない、と遠回しに見ていたことを告白すれば、ギルベルトの顔がみるみるうちに赤くなり、目が泣きそうに潤みだした。
 ああ兄さん、その顔は性犯罪を誘発しかねないからどうにか隠してくれないか、と思うルートヴィヒの内心を知ってか知らずか、重ねられていた視線が外される。ふ、と喘ぐような呼吸がうなだれた喉からもれていくと、悪友二人がぎく、と体をこわばらせて喉を鳴らす。今のギルベルトの色気は、ちょっと異常なくらいだった。思わず目を奪われてしまいながらも、ルートヴィヒの背中に、ひとすじ、冷や汗が流れて行く。
 前門の虎、後門の狼、ということわざを思い出す。こういう状況のことを言うのだろう、とルートヴィヒは遠い目をして頷いた。現実を認識したくない。イタリア兄弟に任せず、後を追ってロビーに行ってしまえばよかったと思うのも、もう遅かった。ゆっくりと、ぎこちないくらいの遅さで持ち上げられたギルベルトの視線は、恥ずかしさで涙の幕を張っていた。まばたきでこぼれないのが不思議なほど、赤い瞳がうるんでいる。
「ど……こから、見てた」
 場所を訪ねているのか、場面から聞きたがっているのか定かではない問いかけに、三人の誰も答えられなかった。言葉を発することのできる状況ではなかったからである。普段はなんでもない艶なしの銀の髪が、ただ頬に散っているだけで艶めかしいのはどういうことなのか。呼吸の為に薄く開いた唇は恥ずかしさにきゅぅ、と噛まれて、いとけなくもどこか被虐的だ。揺れる瞳から涙がこぼれれば、美しいだろう。
 強気で勝気な表情が恥ずかしさに困り切っている様も、あまり見ないもので新鮮だった。甘やかしたくて仕方がない気持ちと、泣かせてしまいたい想いが胸の中でうずをまく。ルートヴィヒは大きく息を吸い込み、なんとか弟として兄の問いかけに答えた。視線は合わせなかった。
「ロビーの、植木の影あたりから。エリザベータがしゃがみこ……跪いて、なのかも知れないが。そうしている所から、なにかを話して、口付けて会議に戻るまでを。会話は聞こえなかったので、なにを言っていたのかは知らない」
「そうか。ルートヴィヒ? 他にも言うことあるだろう?」
「……ごめんなさい、兄さん。許して欲しい」
 問われて返した言葉は、求められていたのは違う言葉だったかもしれないと不安に揺れながら、見捨てられはしないかという恐怖にも満ちていた。ごめんなさい、と幼くもう一度繰り返して、ルートヴィヒは叱責を受け入れる態度で目を閉じた。はぁ、と呆れた溜息がギルベルトからもれる。悪友二人からなんなく腕をとり返して拘束から抜け出し、ギルベルトは腰に両手をあて、厳しい視線でルートヴィヒを睨みつけた。
「反省してるんだな? 兄さんを恥ずかしがらせたいとか、困らせたいとか、そういうことでやったんじゃないんだな?」
「当たり前だ! 恥ずかしくて困ってる兄さんはすごく綺麗で可愛いと思うが、わざとではないっ!」
「……そうか。兄さんはお前の性癖もどっかで教育しとくべきだったか、と海より深く落ち込みそうだぜ」
 はあぁ、と普段通りの表情で嘆かわしく首を振り、ギルベルトはぺち、とルートヴィヒの額を叩いた。全く痛みを与えない甘やかしの叱責に、ルートヴィヒは驚いてまぶたをあげる。こつ、と額が重なって、間近から優しく微笑みかけられた。
「じゃあ、いいよ。許してやるぜ、可愛いルート」
「Danke schon(ありがとう) 兄さん」
「でもお前らはまた別な」
 この隙に、とそぉーっと離れようとしていた悪友二人の背中を蹴飛ばして転がし、ギルベルトは目を細く、まなじりをつりあげた。仰向けになりかかった妙な状態で両手を体の前にあげ、フランシスは落ち着けよ、とひきつった表情で告げる。
「さっきまでの美人が台無しだぜ? お前もそう思うだろ? アントーニョ」
「おおっ、さっきまでのぷーちゃん、やったら綺麗やったなぁ。ロヴィの次くらいに! ドキドキしたわぁー」
 いついかなる時であっても『一番=ロヴィーノ』なアントーニョの発言に、ギルベルトはいささか呆れたが、それだけだった。いつも通りの反応を引き出して怒りをくじく為に、フランシスが話を向けたのだと見抜いていたからだ。姑息な真似してんじゃねぇよ、と強く睨みつければ、今度は誠実な表情で降参の形に手があげられる。ごめんね悪かったよ、と普段よりずっと静かで深い響きで、フランシスはささやく。
「でも、お前も悪いんだよ? 俺たちが必死になって探してたのに、あんな所で愛を確かめ合ってるなんて……さ」
「黙れ変態。あー、まあ……探させたのは悪かったと思ってる」
 それは俺も悪かった、と頷き、ギルベルトはしゃがみこみ、悪友たちと視線の高さを同じにした。三人はにっこりと友好的に笑いあい、しかしそれだけで、奇妙な沈黙が駆け抜けて行く。二十秒が経過し、あれぇ、とアントーニョが間の抜けた声を出したところで、ギルベルトの瞳がきらりと光る。やけに好戦的な、猛々しくもある光だった。ひっと悲鳴を漏らす二人に、ギルベルトはまあ俺は優しいからな、と言い放つ。
「謝れば許してやる、だなんてこと言わねぇよ。ただ、記憶を消してこい。要求はそれだけだ」
「いやいやぷーちゃん落ち着いて!? それのどこが優しいのかお兄さんにはちっとも分からないんだけどっ! というかそれ不可能っ! 素直に謝るから許してよっ、俺とお前の仲だろっ?」
「んー、記憶消さんと落ち着かんくらい、恥ずかしかってん?」
 真っ青になって言いつのるフランシスの横で、アントーニョはのんびりと首を傾げた。お前なに言っちゃってんのおおおっ、と涙声のフランシスの絶叫がなかったとて、ルートヴィヒは理解しただろう。今、地雷は踏みぬかれた、と。額に指先を押し当てて深呼吸を三回繰り返し、ギルベルトは不意に柔らかく微笑んだ。よし、と気合を入れる呟きと頷きののち、ギルベルトは手首を動かし肩を回し、拳を握りしめた。
「気絶するまで殴る。決定」
「ちょおおお待ちぃ! 謝る機会すら与えられへんのっ!?」
「たった今お前が潰したんだろうが馬鹿アントーニョー! ちょ、ま、ギル! 俺もっ?」
 俺は失言してないから謝罪したら受け入れられるんだよなっ、と必死に言うフランシスに、ギルベルトはにっこりと笑った。ああ、その笑みは見たことがあるな、とルートヴィヒは思う。主にキッチンで。上等な肉が手に入って、兄が手ずから捌く時などに。フランシスも、理解したのだろう。みるみるうちに血の気の引いた顔になり、自主的に忘れるからっ、と騒ぎ始める。ギルベルトは、不機嫌そうに舌打ちをした。
「うるせぇ。俺はもう決めたから殴るんだよ。早く意識が飛ぶように祈ってろ」
 とりあえず五十くらい殴ればなんとかなるだろ、と恐ろしい事を平然と言い切って、ギルベルトはフランシスをうつぶせにして背中を踏みつけ、体重をかけて逃げられないようにしてからアントーニョに手を伸ばした。怯えて動けないアントーニョの服を、ギルベルトの手が掴む、その一秒前に。ふわ、と風を抱いた柔らかな姿がその横を通り過ぎ、アントーニョの体が吹き飛んだ。あれ、とギルベルトが瞬きをする。
 綺麗な放射線を描いて墜落したアントーニョの姿を笑顔で見送り、片手にフライパンを持ったエリザベータは笑う。そして見上げて来たギルベルトと目を合わせると、女性は口調だけはごく優しく、フランシスの引き渡しを要求した。
「ギル、それも」
「なんか仕事してたんじゃねぇの?」
「終わったわ。だからすぐその上から退いて。私はギルより優しいから、一撃だけど」
 しかし、拳ではなくフライパンである。鉄製なのである。床にべしゃりと落ちているアントーニョは動く気配も見られず、完全にのされてしまっていた。おー、と気軽に返事をして背中からギルベルトが退いた瞬間、フランシスは白旗大好き国家並みの逃げ足を見せたのだが。ぺいっとばかりに足を引っ掛けられて転んでしまい、すぐエリザベータに掴まった。
「さあ、変態さん? 覚悟は良いかしら」
「……もしかして、拳であろうが足の下であろうが、ギルちゃんが俺らに触るのが嫌だからだったり」
 して、という仮定の言葉は、それなりの代償を持って返答に代えられた。容赦なくひざ蹴りをフランシスの腹に叩きこんだエリザベータは、衝撃で体がわずかに浮き上がった隙を見逃さず、全力でフライパンを振りかぶる。人体が発してはいけないような衝撃音が響き、フランシスはアントーニョよりよく飛ばされた。ルートヴィヒは無言で二人の魂の安息と、フランスとスペインの国土に影響が出ないことを祈った。
 口は真実、禍の元である。ルートヴィヒはしみじみとそう思った。



 陽の落ちた外とは違い、ラウンジは温かな光で満ちていた。闇を静かに包み込んでしまうオレンジは、それだけで熱を持つように空気の隅々にまで広がり、奏でられる音楽を彩る一つとなっている。エレベーターを降りるとすぐ広がっていた幻想的な空間に、エリザベータは思わず溜息をつき、ギルベルトは軽く眉を寄せたものの無言で聞き入って、ルートヴィヒは響く音で満ちるように、胸いっぱいに息を吸い込んだ。
 幾重にも向けられた照明で、虹色に似た影が絨毯に広がっている。それが絶え間なく動いているのは、ローデリヒが演奏の手を止めないからだった。厳しい訓練を受けている筈の従業員ですら、時折手を止めて魅入り、聞き入ってしまう妙なる旋律が指先から生まれおちて行く。ラウンジはすでに全席が埋まっていて、休憩の為に置かれているベンチもソファも、聴講の客でいっぱいだった。立っている者もある。
 ワンフロアに存在する全ての意識を引きつけながらも、ローデリヒに気負った様子は見られない。視線は愛おしくピアノにのみ注がれていて、指先は鍵盤と踊っている。楽譜はない。会議中、散々覚えた成果だった。身動きの音すら邪魔になってしまう空間に、軽やかな足音が二つ。それぞれ、喉をうるおす為になにかを飲んできたのだろう。唇を指先できゅ、と拭い、フェリシアーノとロヴィーノが人波から進み出た。
 二人はローデリヒを挟んで左右に立ち、背筋を伸ばしてそれぞれに口を開く。呼吸の為の間があり、フェリシアーノは吹き抜けの天井を晴れやかに見上げて、ロヴィーノは幾重にも揺れる床の影を優しく見下ろして。そうであることが当たり前であったように、歌声を旋律と重ね合わせた。羽ばたいて舞う、音の群れ。人にはどうしても叶わない長い時を生き抜いてきた『国』が紡ぐのは、尊き祈りと果てしない愛の歌。
 深く息を吸い込んで、ゆっくりと吐き出して。ルートヴィヒはなぜ今日に限って頑なに、ローデリヒが楽譜を覚えたかったのか、その理由を知った気がした。普段のローデリヒはもうすこし会議に協力的で、もうすこし、真面目に参加している。けれど今日は、歌わせたかったのだろう。ピアノを思うまま奏で、天の神に愛された二人の歌声を響かせたかったのだろう。そこに理由はない。そうしたかったというだけで十分だ。
 この歌声には、それだけの価値がある。
「……ローデリヒさん、楽しそう」
「憎たらしいくらい生き生きしてやがるな……」
 それぞれに、それぞれらしい呟きを発して。音楽の本流から一歩離れた場所に意識を抜けださせ、エリザベータとギルベルトは苦笑した。二人の指先がそっと絡んで、繋ぎあわされる。恥ずかしそうに頬を染め、ギルベルトはあのさ、と言った。視線は演奏家たちに向けられていて、エリザベータのもとへは降りてこない。だからこそ手に力を込めて、エリザベータはなに、と言った。えっと、と口ごもった呟き。
「その……な、なにか食べに行かないか。おごってやるよ」
「……テイクアウトの出来るお店で、なら。きっとあの三人、夢中でなにも食べてないわ」
 私たちがお世話してあげなくちゃ、とささやかれて、ギルベルトは息をつめて頷いた。それから勢いよくルートヴィヒを振り返り、お前は、と問いかけてくる。ルートヴィヒは行ってくると良い、と二人に向かって苦笑した。隣に居るだけで恥ずかしくなってくる二人と一緒に食事をするのも遠慮したいし、なにより、この二度とないような幸福の音楽を聞いていたいからだ。そか、とギルベルトは頷いて、歩き出した。
「なんにする? 希望があったら言ってみろよ」
「そうね。フランス料理とスペイン料理以外なら、なんでもいいわ。……でも、テイクアウトしても美味しい料理が良いから、日本料理とか、中国料理?」
「日本料理の店行くか? オベントウ、とかあるだろ」
 輝きの音に背を向けて、二人はホテルの外へと歩いていく。足取りは軽く、指先だけが絡んだ手は、それでもしっかりと繋がれていた。二人は悪戯を分かち合うようなとびきりの笑顔で視線を交わし合い、夜の街へと消えて行った。

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