やらなければいけないことは、それこそ山のようにあった。かつて、現代から振り返った時に中世と呼ばれる時代にはよく夜会などを開いたものだが、ここ数十年に渡ってそうした催しは途絶えていたからだ。特にローデリヒの住む大きな邸宅に人を呼んで、となると百年くらいはしていない。掃除から食材の手配から、人手の確保や打ち合わせなど、慣れていた当時でも大変だったことを一人で出来るわけもない。
その上ローデリヒは、特にそういった手配が苦手なのである。ごく自然な流れとして、エリザベータが中心となって準備を進めるのは、話が出た時から分かっていたことだった。そもそもなぜ、百年以上ぶりにローデリヒの邸宅で夜会を催すことになったのかと言えば、先日の会議まで話はさかのぼる。ヨーロッパの国々を集め、ドイツが主体となって進んだ会議が終わった後、ホテルはにわかに音楽祭を迎え入れた。
ホテルのフロント前、ラウンジにはグランドピアノがあり、それをローデリヒが弾いたのである。それだけならば妙なる演奏の一夜で終わっただろうが、それを祝祭にまで押し上げたのは二人の天使が居たからだ。イタリアの化身たるフェリシアーノとロヴィーノが、乞われてそうしたのか自主的に参加したのか誰にも明かさぬまま、奏でられる旋律に歌声を乗せたのである。七色に輝く、音楽の洪水がそこにはあった。
またとない一夜であっただろう。口々に感動を語る『国』に対して、それを聞けなかった者たちが抗議したのだ。なんだそれずるい、と言葉にしてしまえばそれだけの抗議を、特に声高に唱えたのはアントーニョだった。スペインの化身にして、ロヴィーノの育ての親。目に入れても痛くない、と胸を張って主張できるくらいにロヴィーノを溺愛してやまないアントーニョは、その時ちょうど意識を失っていたのである。
限りなく自業自得で愛し子の歌声を聞きそびれたアントーニョは、ロヴィーノが困り果て、さらにはフェリシアーノがどん引きするくらいに騒いだのだという。どうにも諦めてもらえないイタリア兄弟はローデリヒに相談し、なんのかんの、二人にもアントーニョにも甘くて弱い青年は、ため息交じりに再演を決定してやったのだった。とどのつまりはそういうことで、夜会というより、立食パーティーのついた演奏会なのだった。
準備期間は一週間。気が短いアントーニョが、それ以上待てないとごねたせいである。エリザベータは多忙を極めた。毎日深夜まで各方面と打ち合わせや手配を進め、イタリア兄弟と一緒に家の中を掃除して回る。三時のオヤツは決まってローデリヒの手作りトルテやクッキーなどがつけられ、食事はイタリア兄弟のどちらかが腕をふるう、極上のイタリアン。家中がピアノと歌声に満ち溢れた、幸福な一週間だった。
だからこそ。前日の日付が変わる直前まで働いてようやく準備を終えたエリザベータは、それまでずっと幸せで楽しくて、自覚できなかった疲労に飲み込まれてしまったのだった。ふ、と生温かい水の上に浮かび上がるように、意識が戻る。ぱちりと目を開けた瞬間、驚いて仰け反ったロヴィーノが、けれど騒ぐまいとして口に手を押し当てた。透き通った海に沈んだエメラルドを思わせる瞳が、せわしなく瞬く。
ロヴィちゃん、と名を呼び問いかけようとした声がかすれているのに気が付き、エリザベータは思わず眉を寄せた。ややあって落ち着いたロヴィーノは、紳士的な態度でエリザベータの背に腕をまわしてベットの上に体を起させ、用意してあった水差しからグラスに液体を注ぎ入れると無言で差し出した。エリザベータがグラスを受け取っても、ロヴィーノは女性の手ごと包み込むように指を添えて、離そうとはしなかった。
もしもグラスを落としてしまうことがあっても、そうしていればすぐ受け止めることができるし、割ることも、シーツを汚してしまうこともないだろう。神妙な顔つきで世話を焼くロヴィーノにくすぐったい気持を思えながら、エリザベータはグラスの中身を一息に飲み干し、体から力を抜いた。体中がやけに重たく、そして熱を持っていてだるかった。空のグラスをエリザベータの手から抜き取り、ロヴィーノは眉間にしわを寄せる。
なにか言いたそうな、それでいて口に出せないでいる様子に、エリザベータは特に言葉をかけるでもなく待ってやった。不器用で優しいこの青年の扱いを、心得てすでに久しい。柔らかく目を細めながら微笑んでやると、ロヴィーノはあのさ、と不機嫌にも見えてしまうであろう緊張した顔つきで、途切れ途切れに言葉を告げて行く。
「……悪かったな、アントの馬鹿が無理言って。そ、それだけじゃなくて、俺も……上手く掃除できなくて、手間、増やしただろうし。打ち合わせとか手配とか、フェリは手伝いしてたみたいだけど、俺はほとんどそういうの……しなかったし、よ」
だから、その、と。泣きそうにきゅぅ、と細まったエメラルドの瞳は、まっすぐにエリザベータを見つめていた。女性の体調不良を、己の力不足故だと思い込んでしまっているロヴィーノの、ごめんなさいすら素直に伝えられない内心の葛藤が、まなざしに乗る。思わずちいさく笑ってしまったエリザベータに、ロヴィーノはぱっと頬を赤くして俯いてしまった。
「笑うなよ……ちくしょう」
「ごめん、ごめん。でもロヴィちゃんったら可愛いんだもの」
「か、可愛いとか言うな、ちくしょー! あ……う、うぅっ」
反射的に叫んでから、相手が弱っているのだと思い当たったロヴィーノは、おろおろと呻いて口を閉ざしてしまう。その様がまた可愛らしくて、エリザベータは肩を震わせて笑った。すっかりむくれた様子で腕組みをするロヴィーノにごめんね、ともう一度囁いて、エリザベータは浮かんできた涙を指でぬぐう。そうしながらロヴィーノの姿をうかがうと、青年は清潔に整えられた白いワイシャツを着て、首には鎖をかけていた。
細い鎖は金色で、先端には十字架が揺れている。見れば薄く化粧もしているようで、抜けるような白い肌がまるみを帯びる横顔は、それだけで鑑賞の価値があった。ワイシャツのボタンは上二つが開けられていて、深い森の色をしたネクタイが緩く巻かれている。時折、ネクタイをさらに緩めたり、締めたりいじくる指先はマニュキアが塗られていて、艶やかなパールピンク。尖った唇には、ローズグロスが塗られていた。
「……訂正。ロヴィちゃん、今日はいつもよりぐっと綺麗よ!」
「嬉しくねぇよ……男に綺麗って、ばっかじゃねぇの」
言葉とは裏腹に安堵して揺れる瞳と、ゆるく微笑む口元がいじらしかった。整髪料で撫でつけた髪は後ろに流されていて、端正な顔立ちが強調されている。だから格好良くもあるのだけれど、それでもロヴィーノはとびきり綺麗だった。うふふ、と笑うエリザベータから、ロヴィーノはぷいと視線を反らしてしまう。はずかしまぎれにもじもじと動く手のひらに視線を落とし、エリザベータは思わず目を瞬かせて沈黙した。
芸術品として作り上げられたようなロヴィーノの手に、指輪があったからだ。それも、左手の薬指である。一緒に掃除をしていたから手を見る機会は何度もあって、だからこそしていなかった筈だ、とエリザベータは記憶をたどって頷いた。簡素な指輪だった。高価なものでもなく、どこにでもあるような、天然石を指輪の形にしたものである。ネクタイ以外がきっちり整えられた今の格好には、少々安っぽくも見えてしまう。
美とファッションに関しては、これでロヴィーノはかなり気を配る。上手く合わせられないことなど分かっているだろうに、それでもあえて、指輪を付けたのだろう。半透明の石で作られた、なんの飾りもない指輪は赤かった。沈む夕日のきらめきを写し取ったかのようであり、朝焼けの鮮烈さを閉じ込めたようでもある。鮮烈で儚く、それでいて尊い色だった。エリザベータの視線に気が付き、ロヴィーノは顔を赤くする。
「こ、これは……! これは、その、別にっ……!」
ぱっと胸に抱いて唇を噛む、その仕草でエリザベータには分かった。アントーニョに関連したものなのだ。贈られたか、一緒に出かけた折にでも買ったのか、一人で見かけて色に重ねたのかは分からないけれど。ひたむきに、無垢に純粋に想う姿に、エリザベータは息苦しさを感じて目を細める。その性格故に、言葉に出して伝えることは少ないだろうけれど、まっすぐに好意を表すその姿は、とても眩しいものだった。
気がついてくれると良いわね、と告げると、ロヴィーノはこくん、と幼く頷いた。
「今日のことなんだけど……エリザは休んでいなさい、って。無理をして起き上がることもありませんから、眠っていなさい、だとよ。……ホント、ごめんな。準備してくれたのに、こんな」
苦しげにローデリヒの言葉を伝え、ロヴィーノは熱で赤らむエリザベータの頬に指を伸ばした。高熱とまでは行かないが、頬は熱かった。一週間分の疲れでダウンしてしまっている体は、こうして会話しているだけでも辛いだろう。なにか食べたいか、と問う言葉にエリザベータが首をふると、ロヴィーノはじゃあ寝て、と申し訳なさそうに告げた。起こした時同様にゆっくりと肩を押して体を倒させると、青年は顔を寄せる。
ちゅ、と。ごく軽く頬に触れて離れた唇が『おやすみのキス』だと気がついて、エリザベータの胸は温かなものでいっぱいになる。優しい子だ。責任を感じてしまって、どうしようもないだろう。すっかり着替えてしまった姿でもエリザベータについていたのがその証拠で、眠ろうとする今も、傍を離れる気配はない。エリザベータは時計に目を移し、それからロヴィーノに微笑みかけた。いいのよ、と宥めるように声をかける。
「ロヴィちゃんのせいじゃないわ。私がちゃんと休んでいなかっただけ。過信しちゃったのね。……いいから、アントーニョたちのお迎えに行ってらっしゃい? そうでなくともリハーサルもあるし、ロヴィちゃんがやることもあるでしょう?」
「……まだ大丈夫だ」
時計の針は、午後一時をすこし過ぎた所だった。夜会は夕方から人を迎え、陽がすっかり暮れてから開催される。だからまだ平気、とごねるロヴィーノに苦笑して、エリザベータは目を閉じた。優しくも頑固なロヴィーノを部屋から出してしまうには、それが一番早いだろうから。起きるのを待っている間ならともかく、ロヴィーノは眠った女性の寝室に、長く留まることはしない。午後の柔らかな光が、部屋を満たしていた。
見渡す限りの草原に、人影はなかった。遠く遠く、視認できる限度の距離に旗が風に揺れるのが見えるだけで、近づいてくる者はない。日差しの強い真昼である以上に、『国』の化身たる存在に有事以外に近づく者は滅多にないからだ。幼子の姿をしているからかそれなりに可愛がられるものの、どこか腫れものを扱うように、それでいて神聖ななにかを前にしているように、民はマジャルと距離を置くのが常だった。
荒くれ者や騎士たちに囲まれているマリアと比べて、同じ化身でもこれ程までに扱いが違うものか、と時には思う。マリアもマジャルと同じく、人に『マリア修道会』の化身として認識されているから、神聖なものに対する目を向けられることが多い。けれどマリアはそれだけではなく、もっと素直に可愛がられているのが常だった。マリアはいつも騎士たちにもみくちゃにされながら頭を撫でられ、ひょいと抱き上げられる。
マリアを肩に腰かけさせて歩く騎士はその一月を幸福に過ごせる、なんて噂もあるくらいだから、最近では自力で移動することが少ないくらいだ。最も、そんなジンクスがなかったとて、マリアは騎士や荒くれたちに大事に庇護されるのだろうが。からりと晴れ切った青空を見上げて息を吐き、マジャルは草原の小高い丘を登っていく。丘の上には、大きな木がある。風の吹く木陰は、昼寝をするには絶好の場所だった。
背の高い草が足の下でさわさわと鳴り、靴音をわずかに隠してくれた。ほっと息を吐きながら丘を登り切れば、木の幹に背を預けて眠る、先客のあどけない寝顔が見える。すう、と気持ちよさそうな寝息が、ぼさぼさに乱れた銀の髪を揺らしていた。起きていればこの晴れ空のように鮮やかな青の瞳は、瞼の裏に隠れてしまって見えない。すこし残念に思いながら歩を進めて、マジャルはマリアの隣に腰を下ろした。
うん、とマリアからむずがるような声が上がる。起こしてしまったかと慌てて目を向ければ、深く眠っているようで、身じろぎをしただけだった。思わず口元を和ませて、マジャルはマリアに手を伸ばす。サラサラの銀髪は、マジャルの指をすり抜けて風に踊った。マリアは目覚めない。寝ようと思ったものの眠気が訪れないので、マジャルはそのまま、マリアを見つめていた。すこし陽に焼けた肌に、濃い影が落ちている。
それが覗きこんでいる己の影だと気がついた瞬間、マジャルの胸が甘く締め付けられた。泣きだしそうで、それでいて笑みも浮かんでくるような不思議な胸の感覚は、最近よく感じるものだった。それは決まってマリアに対してで、こうして眠っているのを見た時や、騎士たちの肩に座っていてマジャルに気がつかず通り過ぎられた時、または嬉しそうに笑いかけられた時などによく起きる。はじめてのことだった。
だからマジャルは、大人になるとか、男になるっていうのはこういうことなんだろうな、と思うのだ。最近、まだ生えてないことを告げてからというものの、どうもマリアの様子がおかしいのが気がかりだが、多分一足先に『男』になっているからだろう、とマジャルは思う。可愛い顔と名前をしておいて、マリアはあくまで少年なのだった。それがマジャルにはなんとなく悔しくて、悲しくて、胸が痛むほど切ないことがある。
同じ、なのに。これからマジャルも成長するにつれ、きちんと『男』になるのだというのに。意味の分からない不安が胸を刺して、時々泣きそうになるのだった。いつか、別々の場所に行かなければいけないような気がしてしまう。背中を合わせて戦って、転がりまわって遊んで、体を寄せ合って眠りにつく。その当たり前の日々がもうすぐ、来てしまう気がして。不安をふりはらうように、マジャルはマリアの顔を覗きこんだ。
「……ずっと一緒だからな、マリア」
大丈夫、と目を和ませて笑って、マジャルは思う。『マリア修道会』が戦いで傷ついた民を守り、マリアがそれらを守護する者なのであれば。戦う者であるマジャルは、マリアを守ろう、と。傷ついて帰ってくる騎士たちを、どうしようもなく死に向かってしまう者たちを、時に怒り、時に泣きながら抱きしめて治療し、魂の安息を神に願うマリア。時代は戦乱へと向かっている。国中が、民の意思がゆっくりと争いに走っている。
『国』は、化身は、民の意思に逆らいきれない。マリアもいずれ、手に剣を持つことになるのかも知れなかった。もしそんな日が来てしまえば、マリアは泣くだろう。純粋な祈りと守護の意思によって生まれたマリアは、人を傷つけられるようになどできていないのだから。もしそれを強要されてしまえば、マリアの魂は変質するだろう。民が戦わなくてはならないのなら、化身もそれにふさわしくあらなければいけない。
遠からず、その日はやってくる。叶うならその日まで、それ以降も。マジャルがマジャルである限り、こうしてマリアの傍で守れればいいのだけれど。想いをこめて見つめても、マリアは目覚める気配を見せなかった。疲れきって眠りこんでいるというより、安心しきっているのだろう。いつの間にかマジャルのマントは掴まれていて、身動きをとることはできるものの、立ちあがって場を去ることが叶わなくなっていた。
ぎゅぅ、と。離れることを恐れるようにマントを握る手のひらに、マジャルは息が苦しくなる。
「……っくしょう。なんだよ、これ」
ズキズキと痛む胸とは、また違う苦しさだった。前者は成長痛に似たむずがゆい痛みであるのに対して、息苦しさはもっと甘く、もっと切ない。その苦しさから逃れる方法を、マジャルの体は知っていた。静かに、眠るマリアの顔に手で触れて、薄く開いていた唇を重ね合わせる。んっ、と鼻にかかった声をあげて、マリアがゆっくり目を開いた。眠りから醒めきらない青の瞳が、そっと唇を離したマジャルを映し出す。
「……マジャル?」
「マリア。……マリア」
名前を呼んで。もっとたくさん、呼んで。心が悲鳴をあげてどうしようもなく、マジャルは瞬きをするマリアの唇を奪った。目を見開いて驚くマリアの腕を掴んで、抵抗できないように引きずり倒す。起き上がろうとする動きを許したくなくて、腕が痛むと理解していて、マジャルはマリアの手首を草原に押さえつけた。腹に馬乗りになるようにして動きを封じ込めて、マジャルはマリアに口付ける。何度も、何度も。
「マリア、暴れるな。……別に痛くないだろ、腕以外」
「腕が痛いって分かってるなら離せよ!?」
「嫌だ。離したら逃げられる」
信じられない、と強く睨んでくる青の瞳を、ぞくぞく背筋を震わせながら見下ろして。柔らかな頬に顔をこすりつけ、マジャルは満足そうに微笑んだ。腕の中、守れる範囲に、自由になる場所にマリアが居る。ひどく、心が満たされた。
「マリア、俺は……」
腕を掴む手を離しても、マリアはもう暴れなかった。ただ泣くのを必死にこらえた表情で、マジャルのことを見上げている。自由になった腕は持ち上げられ、優しくマジャルの頭を抱く。傷ついた者に対する庇護の仕草に、マジャルは悔しく目を細めた。そんな風に、誰にも与える優しさが欲しいわけではない。勢いよくマリアの顔の横に両手をついて、腕で囲むようにしながら体を起こす。向ける視線は、冷たかった。
「俺はお前を逃がしてやるつもりなんか、ないんだ。俺の、マリア」
「……マジャル。お前は……でも、お前は」
最近、よく口にする中途半端な呼びかけをして、マリアは迷うように口をつぐんで目を伏せた。一体何だと言うのか。いつもマリアはマジャルになにかを言いかけては、悲しげに眉を寄せて黙り込んでしまう。それは胸の内の事実を悲しんでいるようであり、否定したがっているようでもあった。己に対してどうこうではなく、それがマリアを苦しませている、そのことがマジャルには許せない。ぐっ、と顔を寄せる。
「俺のことなんてどうでもいい」
「マジャル」
そのまま唇を重ねれば、戸惑いに瞳を潤ませながら赤い顔で睨まれた。クス、と喉を鳴らして、マジャルは告げる。
「……可愛い」
「マジャルっ!」
「可愛い。俺のマリア」
真っ赤になって怒鳴るマリアの唇を奪えば、抵抗はすぐ消えてしまう。は、と息継ぎで動く喉のかたちが愛しくて、マジャルは首にもそぅっと唇を押し当てた。マジャル、とマリアは泣きそうな声で名を呼んでくる。もっと、とマジャルは思う。もっともっと、呼んでほしかった。口付けるたびに甘い抗議として名を呼ぶのなら、胸が満たされるまで繰り返せば良いだけのこと。涙をたたえた青い瞳にも、マジャルは唇を寄せる。
食らいついてしまいたい。その衝動が恋だなんて、知らなかった。
じっと覗きこんでくる瞳は赤く、ルビーのようだった。晴れ渡った草原の青空とはまるで違う色だったが、エリザベータはその目の持ち主を間違えたりはしない。マリア、と囁くと、眉間にしわが寄せられた。
「お前……寝ぼけてんな? 誰がマリアだ、誰が」
「……マリア、だったことあるんだからいいじゃない。今だってギルベルト・マリア・バイルシュミットでしょ?」
「そうだけど。お前に呼ばれるのだと意味が違う」
全く、と苦笑してギルベルトはエリザベータに額をくっつけた。熱を計る幼い仕草だと分かっていて、視線が唇に行ってしまうのは先ほどまで見ていた夢のせいだろう。まだすこし熱があることに眉を寄せながら顔を離しかけた所で視線に気が付き、ギルベルトは軽く息を吐く。
「エリザ」
「……な、なに」
「他意はない。だから動くなよ?」
耳の傍に手がつかれて、ベットがきしむ音が響く。見開いた草色の瞳がまぶたで隠れるより早く、ギルベルトはエリザベータと唇を重ねた。一度目は触れるだけですぐ離れて、二度目は、絡んだ視線に互いが引き寄せられるようにして。緩んだ唇から、ふ、と吐息がもれて行く。ぼんやりと目を半分とじたエリザベータを優しく見つめ、ギルベルトは三度目の口付けをおろす。唇が触れ合うだけの、挨拶より親密なキス。
ゆっくり体を起こしたギルベルトは、軍人の武骨な指先を女性の額に押し当てる。
「……よし、下がったな。体、どうだ?」
「さっきよりずっと楽……でも、まだだるいわ」
先の会議でフランシスがからかった言葉を、ギルベルトは否定しなかった。エリザベータに口付けられて元気になったのか、ということを。実際に唇を重ねた時は『マジャル』だったのだが、意識がどうであるかはさほど関係ないらしい。唇を重ねることによって、二人はある程度、生きる為の力を相手に分け与えることができるのだった。それはどの『国』であっても可能であることではなく、二人だけのものらしい。
エリザベータはローデリヒに、ギルベルトはルートヴィヒに、それぞれ切実に祈りながら口付けを施したことがあるのだが、それは情を伝えるもの以上にはならず、今日まで来ているのである。なにかを訴えて見上げてくるエリザベータに、ギルベルトは溜息をつきながら身をかがめた。ちょん、と小鳥が水をついばむように唇を重ねれば、エリザベータの頬に熱ではない赤みがさした。く、とギルベルトは喉で笑う。
笑いながら頬にも唇を押し当てて、元気んなったな、とささやいた。
「起き上がれそうか?」
「ええ。……そういえばギルベルト? 私の部屋でなにしてるのよ」
気がつけば部屋の中は薄暗く、夕日は地平線に沈んでしまった後のようだった。耳を澄ませば遠くでざわざわと、人々が笑いあう声が聞こえる。夜会ははじまっているのだろう。ざわついているので、演奏会にはまだ時間があるようだったが。なにって、とギルベルトは不機嫌そうな顔つきになり、どっかりと音を立てて椅子に腰かけた。
「ロヴィちゃんがお前の体調が悪いって言うから。様子見に来たんだろうが」
「そうじゃなくて……夜会、はじまってるじゃないの。行きなさいよ。私はもう、大丈夫だから」
辛くて横になっていることしかできない状態は、ギルベルトのおかげで脱している。ありがとう、と微笑んで送り出そうとすれば、薄闇の中でギルベルトが呆れかえった顔つきになった。よくよく見ればギルベルトはきちっとしたタキシード姿で、前髪がすこし乱れてしまっているものの、普段とは違うオールバックだった。それなのにギルベルトはいいんだよ、と諦めた風でもなく告げ、エリザベータに笑う。
「そんなことより、汗かいて気持ち悪いだろ? シャワーでも浴びてこいよ」
「ちょっと……! なに考えてるのよ!」
「ば、ばかお前っ! 邪推すんなよっ! 休むにしても起きるにしても、ベタベタして嫌だろってだけだっ!」
思わずシーツを胸に抱き寄せて叫ぶエリザベータに、ギルベルトも赤い顔をして怒鳴り返した。それでも疑わしげな目を向けられてしまったので、ギルベルトは降参の形に軽く手をあげ、なんもしねぇよ、と告げる。
「そういうことは、しない。……誓ってもいいぜ、エリザベータ・ヘーデルヴァーリ?」
「……分かったわ。疑って悪かった」
からかい交じりの真剣な声に、エリザベータは罪悪感すら感じながら頷いた。ベットから起き上がって浴室へ向かおうとするのに手を伸ばし、ギルベルトはくしゃくしゃと汗ばんだ髪を撫でてやる。女なら警戒して当然だ、と告げる声はすこしだけ、悲しさを秘めていて。それが警戒されたことに対してではないからこそ、エリザベータは息を吸う。もし、もしも。『マジャル』が男であったなら。今の距離は違っただろうか。
中途半端な好意を互いに交わすだけで、想いを示す言葉も口には出さず。過去を引きずって依存しあって、まっすぐに伝えあえないことにはならなかったのだろうか。もしも、性別が同じであったのなら。押し黙ってしまったエリザベータから手を離し、ギルベルトはそっと背を押しやって告げる。待ってるから行ってこいよ、と。夜会に行かないでこの部屋に居る、という、ただそれだけのことが無性に嬉しくて。
エリザベータは涙をこらえて、ちいさく頷いた。