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 窓から差し込む月の光が、部屋を青白く彩っていた。遠くから聞こえてくるピアノの旋律とかすかな歌声は、その光景に神聖な静けさを与えていた。温度のない光が部屋中に満ち溢れ、それでいて光と影の境界があいまいな世界。扉を開けたきり息をつめて立ち止まってしまったエリザベータに、待っていたギルベルトは気がつかない。窓枠に腰を下ろして手には本を持ち、月明かりの元、一心に文字を追っている。
 普段は文学とかけ離れた粗野な振る舞いが多い男だが、それでいて読書家であるということをエリザベータは知っていた。なにを読んでいるのだろうか。不意に知りたくなって足を踏み出せば、ギルベルトが顔をあげた。ふ、と、硬く閉鎖していたなにかが、脆く崩れるように微笑まれる。待っていたのだ、と手を差し伸べられずとも、言葉に出されなくとも、その笑み一つで物語る表情だった。旋律と歌声が、遠くなる。
 じわじわと頬や耳が熱を持って行くのを自覚しても、エリザベータにはどうすることも出来なかった。ずるい、と思う。ひどい、とも思う。そんな顔で笑うなんて。そんな風に見るなんて。そんな風に、待っているだなんて。わずかばかりの抵抗として視線を足元に落とせば、ギルベルトは本を閉じて立ち上がり、コツコツと靴音を響かせて歩んでくる。明りの灯されない部屋の中、磨き上げられた黒靴が目の前で止まった。
 直後、もこもこのタオルを頭に被せられ、エリザベータは反射的に目を閉じた。気にすることなくわしゃわしゃと手を動かして濡れた髪を拭うギルベルトは、笑みの滲んだ優しい声を響かせた。
「だろうと思ったぜ。お前、昔から髪拭って出てこないもんなー。体調良くない時くらい、ちゃんと乾かしてこいよ」
 ほら、もう毛先冷たい、と悪戯に一筋をすくい上げる指先を、うすく開いた目でエリザベータは睨む。予測されていたことも、その通りの行動をしてしまったことも、悔しくて腹が立った。ちょっと、と苛立った声をあげて髪をかきまわす腕を掴み、エリザベータは言う。
「あんまり女性扱いしないで。……こんなこと、しなくていい」
「ばぁか」
 ふん、と鼻を鳴らして笑われて、腕から手のひらが外される。痛みを与えることなんて考えたことのない、穏やかな仕草。手首の辺りを包まれるように持たれて、エリザベータは泣きそうになる。昔、ずっと昔、こういう風に相手の甘い抵抗を封じていたのはこちらの方なのに。あまりよくない種類の感情が、胸に落ちてはたまっていく。ぎゅぅ、と唇をかたく閉じて堪えるエリザベータに、ギルベルトは無言で身を屈めた。
 触れるだけ、かすめて離れた口付けは贈りもののようだった。リボンを解くようにあっけなく、暗い思考が停止する。なに、と不機嫌に零れて行った呟きに苦く笑い、ギルベルトはもう一度ばぁか、と告げた。
「こんなこと、ルートにだってしてやったことねぇよ」
 それが先程の、女性扱いに対する返事だと悟った時には、タオルごと手のひらは離れていた。上手く言葉を返せもせず、エリザベータはあっけにとられて瞬きをする。水気の殆どない生乾きの髪を手にとって、ギルベルトはこんなもんかな、と呟いた。トン、と肩を押してエリザベータを椅子に座らせ、手のひらにドライヤーを押し付ける。要求は分かりやすい。乾かせ、ということだろう。溜息をついてスイッチを入れる。
 髪を乾かしながら、エリザベータはさて、と考える。シャワーを浴びて髪を洗ってスッキリした所で、体調は全快したとも言えない状態だった。もちろん、起き上がっているのに支障はないのだが、動き回るとなると別である。切れ切れに聞こえてくる、恐らくは公開リハーサルの音を耳にしながら、エリザベータはつまらない気持ちで息を吐きだした。中途半端に元気が出たものだから、寝ているのは暇なのである。
 ドライヤーの電源をオフにして膝の上に転がし、エリザベータはすっきりした気持ちで息を吐く。これで眠るのは本当にもったいない。しかし、我慢しなければ。よし、と気合を入れて立ち上がったとたん、右手を取られて引き寄せられる。反射的にちいさな悲鳴をあげてしまえば、返って来たのは笑い声と、上質な布の手触りだった。引いて伸ばされた腕に、ドレスがかけられている。淡く深い、新緑色のパーティードレス。
 一番上は真昼の草原に落ちた濃く深い影の色をしていて、下に行くにつれ、どんどん明るく鮮やかになっていく。一番色の明るい先端は、目覚めたばかりの若葉のようだった。布をたっぷり使った全円スカートは元々柔らかなパニエが縫い付けられているようで、空気を抱いて綺麗に膨らんでいる。大げさな程ではなく、それでいて最低限の動きを妨げない絶妙な膨らみ具合だ。エリザベータは、思わず目を丸くする。
「な……なにこれ、すごい」
「そりゃあ、フェリちゃんとロヴィちゃんの合作だからな。生地の指定と染色がロヴィちゃん、縫製と仕上げがフェリちゃん。サイズの横流しその他は俺。気に行ったか? じゃ、着てみろ」
 立て板に水のごとく説明されて、エリザベータは操られるように頷いてしまった。しかし服に手をかけた所で正気にかえり、ハッとしてギルベルトを見上げる。今この男は、なんと言った。
「合作……? フェリちゃんとロヴィちゃんと……アンタの?」
「俺は大したことしてねぇよ。サイズ流して、染色に軽く口出して、完成品を持ってきただけだ」
「……アンタ、なんで私のサイズなんて知ってるのよ」
 ごく当たり前のことながら、サイズが筒抜けになるような関係に陥ったことはない筈だ。わざとらしい警戒の表情で身を抱けば、ギルベルトはちょっと面白いくらいに慌ててちげぇよっ、と弁解を始めた。なにが違うのか聞いてやろうじゃないの、と半眼で耳を傾けるエリザベータに、ギルベルトは真っ赤な顔で視線を彷徨わせる。
「ふ……服贈りたい女の、サイズくらい知ってなきゃおかしいだろうが」
「……え?」
「調べたんだよ! 悪かったなっ!」
 怒りたきゃ怒れよっ、と赤い顔で怒鳴るギルベルトに、エリザベータはドレスがしわになってしまうことも気がつかず、胸に強く抱き寄せる。指先までむずむずして、どうしたって落ち着かない。そっと視線をあげればバツの悪そうな視線とぶつかってしまい、エリザベータは逃げられなくなった。ひどい、ひどい、と胸の中だけで繰り返す。こんな好意。こんな、恋の相手に捧げるような贈り物をされて。嬉しくない、訳がない。
「……ありがとう、ギルベルト」
 本当は『マリア』とも呼んで告げたかったのだけれど、ギルベルトが嫌がるだろうから、エリザベータは唇だけを動かして言葉にはしなかった。好意を向けるのは名前じゃない。ただその存在に対してなのだと、胸が軋むほど自覚してしまう。それでも呼びかける名には明確な意味があって、エリザベータは静かな気持ちでギルベルトを呼ぶ。ギル、ギル、と掠れた声の囁きに、透き通るルビー・アイが向けられた。
 ぱち、と不思議そうな瞬きの後になんだよ、と問いかけられて、エリザベータは無言で首を振った。意味はない。呼びたかっただけだ。着替えるね、と告げて背を向けて服を脱げば、ぎくりと気配が緊張するのを感じ取る。けれどそれだけでギルベルトは部屋を出て行こうとはしなかったし、エリザベータもそれを求めようとは思わなかった。背中に、火傷するほど熱い視線を感じて息が苦しくなる。見ないで、とも言えない。
 触れて、なんて言葉は、涙に代わって零れていく。望んでいいのかも、分からなかった。互いに無言のままに着替えは終わり、エリザベータはぎこちなく振り返る。どうかな、と軽くお辞儀をして笑えば、ギルベルトは目を細めて満足げに頷く。綺麗だと、お世辞でも褒めない男だ。知っていたけれどそれはそれ、不満で眉を寄せる。苦笑したギルベルトは、隠し持っていたティアラをそっとエリザベータの髪に差し入れた。
 それから、ドレスと同じ生地で出来た靴を、跪くようにして足元に置く。促されるままに足を置けば、驚くくらいにぴったりだった。ヒールはやや高めだが、しっかりと安定感があるので動きやすい。ほぅ、と思わず感動の息を吐き出せば、一歩離れた所からエリザベータを眺めていたギルベルトが、ゆるりと目を細める。
「見せに行くの止めさせたくなって来た」
 でもまあ、行くかと一人ごちて、ギルベルトはエリザベータに覆いかぶさるように腕を伸ばした。拒否する間もなく抱きあげられて、エリザベータはあまりの恥ずかしさに息をのむ。いわゆるお姫様抱っこだったからだ。ちょっと、と本日何度目になるのかも分からない呟きと共に手足をばたつかせれば、ギルベルトは落とさねぇよ、とまるで見当違いに眉を寄せる。部屋を出ようとする足取りは軽く、踊るようだった。
 違うのに。そんなことではないのに。響く靴音があまりに綺麗だったから、エリザベータは顔を両手で隠して諦めてしまう。体調が悪くて歩くのが負担だと、思うからこその気づかいなのだ。体を全部預けてしまって胸に顔を押し付ければ、かすかに甘くさわやかな、男ものの香水が香る。安心して頭を胸に寄せると、寝るなよ、と呆れと心配の混じった声がすぐ傍から響く。寝ないわよ、とエリザベータは言わなかった。
 普段よりずっと早いであろう鼓動に、耳を澄ませるので精一杯だった。まるで平気な顔をしているのに。足運びに乱れた所など、なにもないのに。抱き上げる腕は優しいだけで、ただ安心をくれるのに。鼓動だけが裏切っていて。気がつかれたことに、ギルベルトは舌打ちをした。
「かっこわりぃ……」
「……ううん。可愛い」
 可愛い、ギルベルト、と甘くにじむ声でエリザベータは笑う。がつ、と妙な音が響いてギルベルトが立ち止まったのは、恐らく衝撃でどこかにつまづきかけたからだ。それでもすこしふらつくだけで、エリザベータは不安を感じることさえなかった。この腕は決して、エリザベータを傷つけない。知っていれば怖がることなど、なにひとつなかった。顔赤いよ、と笑いながら囁けば、薄闇の中から赤い瞳が不機嫌に睨む。
 二人の密かな息以外、なんの音も響かない廊下だった。作りは立派で幅も広く、天井も高く作られているのだが、今日は夜会なので使う場所を制限してある。一々細かく告げずとも、今日の招待客は全てが『国』だった。一般人が混じっているならばともかく、その状況で、誰かが間違えて歩いてくることもないだろう。しんと静まり返った夜の空気に、部屋よりは大きく、けれどまだ遠くで音楽が鳴っている。
 切ないくらい、苦しいくらいに二人きりの空間で、見つめ合えばごまかしが利かなかった。愛おしいのは君だった。大切なのは一つだった。どうして分からなくなってしまったのだろう。名前を代え、性別が二人をわけたくらいのことで。どうして、分からなくなってしまったのだろう。求めて手を伸ばしたのは最初から最後まで、ただ一人だったのに。敵同士剣を向けあうことがあっても、心傾ける宝石のような人が出来ても。
 最後に、この場所に戻っていく。
「……今からキスするけど」
 かるく首を傾けて、エリザベータの明るい草色の瞳を覗きこみながら。ギルベルトは、静かに言い切った。
「嫌なら怒れよ。二度としない」
 空気が、揺れる。触れたぬくもりはすぐに離れて、熱い吐息が唇にかかった。ギルベルトはエリザベータと額を重ね合わせて、困り切った声で尋ねる。
「……なんで泣くんだよ」
「嬉しいからよ、分かりなさい……」
 指でぬぐわれる涙の温かさを感じながら、エリザベータはみっともないくらいの独占欲に言葉が出なくなる。涙を流させたのは、ただ歓喜だった。ずっとずっと、欲しかったのだ。ずっと、草原を駆けまわっていたあの日から。己の性別の真実も知らなかった、昔から。ずっと、この存在が欲しかった。あの日、失ってしまったものが戻ってくる。そしてもう二度と、離れることはない。それが嬉しくて、痛いほど胸を貫く。
「……アンタは私のよ、ギルベルト」
 首にしっかり腕を回しなおし、エリザベータはギルベルトを抱きしめる。姫君のように抱きあげられた姿で、それは甘えてしがみついている風にも見えてしまうのだけれど。苦笑しながらエリザベータを抱きしめなおし、ギルベルトは素直に女性の腕に収まった。いいよ、と笑みが吐息に乗せて零れていく。じわじわと胸に沁みこんでいく喜びに、エリザベータは悲鳴に似た声で告げる。私のものなんだからね、と。
 うん、と。ギルベルトは中々聞きわけない幼子をあやすように優しく、そう言った。うん、分かってる。
「いいよ。俺はお前のだ、エリザベータ……マジャル」
「欲しかった。……ずっと、ずっとよ。ずっと、欲しかった」
 アンタがこの腕の中に居れば、他のものなど欲しくなかった。ぎゅっとしがみつきながら言うエリザベータの背をそっと撫でて、ギルベルトは苦く笑って告げる。知ってる、知ってた。ずっと、と。長い長い時を生きて。二人が二人に分かれてしまってから、敵同士として憎み合いすらしながら、生き続けて。戦場で幾度となく剣を交わし、睨みあいながら、その瞳の奥にある渇望と怒りを知っていた。気がついていた。
 どうして、と心が叫んでいた、血を吐くような声を知っている。ようやく手に入れた、とエリザベータは泣いた。その涙をぬぐいながら、ギルベルトはうっとりと目を閉じる。ようやく、ようやく、取り戻した。離れて行ってしまったもの、遠くに行ってしまったもの、その全てを。ようやくこの腕の中に取り戻したのだ。知らないのはエリザベータの方だ。戦場で剣を交わし睨みあい、憎しみあうたび、瞳の奥に気がつくたびに。
 どれほど、苦しかったなんて。知らないだろう、とギルベルトは笑う。その渇望、血を吐くほどの心の叫びや、怒りを向けられるたびに。嬉しかったことなど。喜んでいたことなど。執着が決して薄れていないことを、奥にしまいこまれ、押さえつけられているだけなのだと知るたびに、ギルベルトは嬉しくて仕方がなかった。どうすることも出来ないからただ待って、待って待ち焦がれて、そしてようやく取り戻したのだ。
 満ち足りた吐息をこぼし、ギルベルトは笑った。
「嬉しすぎるぜー」
 ふわふわで洗いたての髪は、あの日の草原の香りがした。愛おしく髪に口付けてからエリザベータを抱えなおし、ギルベルトはゆっくりと足を進めていく。すりすりと首筋に懐いてから体を離し、エリザベータも体制を整えなおす。さすがに強く抱きしめあった状態で、夜会の場に現れたくなかった。無言でずれたティアラを整えなおすエリザベータに、ギルベルトは口元だけで笑う。二人きりの廊下が、終わりを告げた。
 エリザベータを抱き上げたまま、ギルベルトは器用に扉を開けて中に滑り込んでしまう。使われない筈の扉が開いたことで、主催たちは不審がったのだろう。ピアノを弾く手を止めていたローデリヒと、それぞれ喉の調子を整えていた二人の天使の視線が向けられた。そしてすぐ、歓声があがる。さざ波のように夜会中を駆け巡った歓声は、やがて静かに終息し、音もなく静まり返った。コツ、と靴音がやけに響く。
 夜会中の視線を集めてしまっていることに、二人はまだ気がつかない。ギルベルトは丁寧な仕草でエリザベータの足を下ろし、背を支えながら立ちあがらせた。ゆるく風でも吹いたかのように、空気を抱いてドレスが揺れる。わずかに乱れたスカートを、撫でて整えたのはギルベルトの手のひらで。それを恥ずかしそうに視線で追いながら、エリザベータは微笑んでいた。二人は完成された一対のように、そこにあった。
 ローデリヒとエリザベータが並んだならばそれは調和となり、ギルベルトとルートヴィヒが共にあれば双璧だっただろう。その二組はそれぞれに似通った所を持っていて、だからこそ相反することなく寄り添える。対してギルベルトとエリザベータは、まるで違う存在だった。違うからこそ、完成した一対でもあった。二人は一輪の花とそれを守護する剣であり、互いが互いの花であり、傷つけ守護する剣だった。
「……んぁ?」
 え、なんでこんな静か、と呟きながら顔をあげて、ギルベルトは向けられていた視線に理解不能の呟きを発した。ぎこちなく首を傾げ、それからすぅ、と息を吸い込んで。音が立つほど勢いよく顔を赤くして、ギルベルトは絶句した。まさか見られているとは思わなかったらしい。エリザベータも似たような反応だったが、さすがに女性は立ち直りが早かった。主催たる三人に対して、スカートをつまんで一礼する。
「こんばんは、ローデリヒさん。フェリちゃん、ロヴィちゃん。遅れてしまってごめんなさい。ほら、ギル」
「あ……う、あ。え、えと……遅れて、悪かった。っつーかお前ら! こっち見んな!」
 いっぱいいっぱいの謝罪が限界だったのだろう。主にニヤニヤが止まらない悪友二人に向かって叫んだギルベルトに、祝福よりは冷やかしが強い口笛が飛ぶ。それが無駄に上手いものだから、ギルベルトの顔はますます赤くなった。ちくしょう覚えてやがれ、と呻くギルベルトの顔を見ず、エリザベータは男に手を伸ばした。軽く指先を絡めるだけの繋ぎ方で触れ合い、もうちょっと静かにしてなさいよ、と叱りつける。
 ぐ、と押し黙った所で、硬直がとけたフェリシアーノとロヴィーノが駆け寄ってきた。
「エリザさん! ギル、エリザさんの体調大丈夫なのっ?」
「起き上がれるくらいには、だな。大丈夫。無理させねぇよ……それより、ドレス。着せたぜ?」
「あぁっ、そうだよ俺ってば! エリザさん、着ててどこか違和感あったりしない? とっても似合ってるよ! まるで夢見てるみたいっ。もちろんいつものエリザさんも素敵だけど、今夜は一段と輝いてるね。やっぱり女の人を綺麗にするのは愛情と恋なのかな。俺がお相手じゃないのは正直悔しい気もするけど、幸せそうなエリザさんを見られて嬉しいよ」
 はしゃぎながらもとつとつとエリザベータを褒め称えて口説き、フェリシアーノはやや屈みこむと頬に口付けを落とした。ハグハグーっ、と抱きつくのを怒るわけにもいかず、エリザベータはくすぐったそうに笑いながらフェリシアーノを抱き返す。しっぽを振って喜んでいそうな青年をあきれ顔で引きはがしたのは、その兄だった。お前喜びすぎ、と弟をいさめたロヴィーノはしばし無言でエリザベータを見つめ、静かに微笑む。
「似合ってる。……すごく、綺麗だ」
「ありがとう。ロヴィちゃんが染めてくれたって聞いたんだけど」
「ん、ああ。既製品だと、イメージに合わなかったから。体調、大丈夫なのかよ。無理して着てくれなくても」
 また、次回を楽しみにするからよかったのだ、と。その意思を受け取れない者が聞けば冷たくも響く言葉に笑顔を返して、エリザベータはロヴィーノの手を取った。口元に引き寄せて、手の甲に唇を押し当てる。料理はともかく、いつまで経っても掃除が上手くならないこの手で、ドレスに必要な分の布を染め上げるのはどれほど手間だっただろう。決して、簡単だとは思えなかった。ありがとうね、とエリザベータは笑う。
「大丈夫よ、倒れたりしないわ……ドレス、本当にありがとう。草原の色ね」
「そういう注文だったから」
 色を決めたのは俺の手柄じゃない、と恥ずかしがって手をとり返しながら、ロヴィーノはギルベルトを睨むように見た。目つきが悪いだけで他意はないと知っているから、ギルベルトは視線をそらしただけでなにも言わない。うん、と頷いて笑いながら、エリザベータは口を開く。
「フェリちゃんも忙しかったでしょうに、ありがとう。……ギル?」
「なんだよ」
「どうしてそこで拗ねるのよ……アンタにも感謝してるわ。この色、好きよ」
 スカートをつまみながら言うエリザベータに、ギルベルトは耳を赤くしながら知ってる、と頷いた。だからその色にしてもらったのだ、と。草原の色。命の色。二人の、はじまりの色。そう、とエリザベータは笑った。
「ありがとう、ギルベルト」
「どういたしまして……体調、すこしでもおかしくなったらすぐ言えよ?」
 いまさら、ギルベルトはエリザベータを夜会につれて来たことを後悔しているらしい。見せびらかすんじゃなかった、もったいない、と不機嫌そうにゆがめられた瞳が語っている。くすくすと肩を震わせて笑って見なかったことにして、エリザベータは二人の天使をピアノの方へと促した。この二人の歌声と、ローデリヒの旋律こそが今夜の主役そのものだ。リハーサル中でもあったのだし、長く引き留める訳にもいかない。
 聞いてるからね、と送り出すと、不意に呼ばれた気がしてエリザベータは顔をあげる。見つめていたのは、ローデリヒだった。糊のきいた燕尾服に身を包み、ピアノの前においた椅子に腰かけたまま二人を見つめている。ローデリヒは、エリザベータの宝玉だった。なんとしても守らなければならない存在であり、淡い憧れそのものだった。二重帝国としてこの世にあった時の誇らしさも、胸の高揚もハッキリと覚えている。
 恋をしていたのかと聞かれれば、答えはイエスだろう。二重帝国の成立と同時に成就した恋は、綺麗な花園のように胸の奥に広がっていた。音楽を愛する綺麗なひと。その人に恋をしたことも、想いを返されたことも、エリザベータの誇りだった。どうですか、とドレスの出来栄えを自慢するように笑いかければ、ローデリヒは目を細め慈しむように笑う。愛おしい者を、大切な者を見守る眼差しは、けれど恋ではなかった。
 愛おしさを、恋ではなく向けられることこそ誇らしい。とても良くお似合いですよ、と唇の動きだけで伝えたローデリヒは、眉間にしわを寄せているギルベルトに目を向ける。ゆっくり、音楽家の唇は動いた。読み取って目を見開くギルベルトに挑発的な笑みを向け、ローデリヒはピアノに向き直ってしまう。なに、と視線で問うエリザベータに、ギルベルトはぼそぼそと告げる。おめでとう、って、言われたんだけど、と。
 予期せぬ祝福に本気で戸惑いながら嬉しがっているギルベルトが可愛くて、エリザベータは笑いながら首を傾け、背を伸ばして唇に触れた。

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