夜会を終えた日の朝は、ゆっくり始めるというのが長い間の習慣だった。久しぶりに行ったとはいえ体は正直で、ローデリヒが目覚めた時にはすでに世界は明るく、時計はそろそろ十一時になる所である。ちょっと寝すぎましたね、と思いながら着替えてリビングへ行くと、扉を開く前からなにやら騒がしい。限りなく昼食に近い朝食の準備は昨夜の高揚を残していて、静かとはほど遠い所にあるのが常だった。
懐かしい気持ちになりながら扉をあけると、温かいスープの匂いが部屋中に満ちていた。幸せの匂い。思わず口元を緩めて微笑むと、邸宅の主に気がついたエリザベータがキッチンから出てくる。リビングを洋風に改装して対面式キッチンにして良かったな、と思うのはこういう時だった。おいしそうな料理の匂いを漂わせながら小走りに近寄って来たエリザベータに、ローデリヒは落ち着いた声で挨拶をする。
「Grus Gott(おはようございます)エリザベータ」
「Jo reggelt kivanok!(おはようございます)ローデリヒさん」
それぞれの国の言葉で挨拶を交わして、二人は目を合わせて微笑みあった。腕に疲れはありませんか、と問われるのは、これも夜会や演奏会後の朝の恒例だった。あれくらいでどうともなりませんよ、と慣れた言葉を口に乗せると、思わず笑顔がこぼれていく。懐かしい日々の再現のような会話は、それでも今交わされるものだ。昔は感じなかったもの言いたげな視線に顔を向けると、赤い瞳と正面から出会う。
キッチンから出てくることはなく、それでいて戻るようすも見せずに拗ねた風に見てくるギルベルトに笑って、ローデリヒはわざとらしく首を傾げた。光に透けた銀髪は尊い絹の白さで、うさぎのように見える、とは思っても口にしない。
「どうしました、ギルベルト。挨拶なさい。覗き見なんてお下品ですよ?」
「……Guten Morgen(おはよ)ローデリヒ。俺が見てるんじゃねぇよ、お前がこっち向いてんだよ」
「なんで朝から拗ねてるんですか貴方という人は……GrusGott、ギルベルト。機嫌をなおしなさい」
唇を尖らせてむくれた表情は、どうひいきめに見ても拗ねた幼子のものだった。呆れ果てながら言うと拗ねてねぇよっとさらに怒られたので、ローデリヒはエリザベータに視線をやって苦笑する。どうします、とからかうような視線に顔を赤らめて、エリザベータはさっと身をひるがえした。ぱたぱたと小走りにキッチンに戻りながら、エリザベータはすれ違いざまギルベルトの頭を叩く。ぺし、と痛そうにも思えない音がした。
「馬鹿ギルっ! お鍋の火を見ておいてって言ったじゃないの」
「これ以上煮込むと煮詰まるから、火止めるぞって言っただろっ?」
「あらそう? じゃあ、器を出して。四人分よ? アンタにもちゃんと食べてもらいますからね?」
うえぇ、と気乗りしないギルベルトの呟きは、食欲がないからだろう。それでも素直に手伝いでキッチンに引っ込む姿に肩を震わせて笑い、ローデリヒは先に椅子に座って新聞を読んでいたルートヴィヒに近寄っていく。おはよう、とわずかに視線をあげて挨拶してきたルートヴィヒの手から新聞を奪い去り、ローデリヒは丁寧にたたんでしまう。不満そうな視線は無視して、ローデリヒは新聞を手の届かない場所に置いた。
「Grus Gott、ルートヴィヒ。食事の席に新聞を持ち込むのはお止めなさい」
「普段はしない。兄さんが怒るからな」
不機嫌に告げたルートヴィヒの視線は、理解を求めていた。ある一定の理解は示して差し上げますけども、とルートヴィヒの正面に腰をおろしながら告げ、ローデリヒは悪戯っぽく口元をつりあげる。
「素直に言えばいいでしょう。『兄さんがかまってくれないから、怒られるかと思いながら新聞を読んでみたりしたのに、注意もしてくれなかった』と。……ギルベルトの拗ね方は声にも顔に出ますから、とても分かりやすいものですが。貴方も中々、分かりやすくありますね」
「ルートヴィヒ! 可愛いヤツ! 安心しろ、お兄ちゃんはお前が大好きだ!」
違う、とルートヴィヒが反論するより早く、背後から伸びて来た腕ががっちりと体を抱え込む。それが手にスープのはいった器を持ったままだったものだから、テーブルクロスに赤い染みを作ってしまった。中身が全部零れてしまわなかったのは、飛んできたエリザベータが己の持っていた分を大慌てでテーブルに置き、こぼされる前にギルベルトから奪い取ったからだろう。ばかっ、とごく当然の怒鳴り声が響く。
怒られてもギルベルトには聞こえていないようで、どうも意識のすべてが赤い顔で抵抗するルートヴィヒを可愛がることに向けられているようだった。俺のヴェスト超可愛いーっ、と愛情でとろけた声が響き渡り、抱擁が力を増した。
「なんだお前、兄さんにかまって欲しかったのか! そうかそうか、そうだよなー。朝からあんまりベタベタしてやらなかったもんなー。安心しろヴェスト! もう朝食は作り終わったから、これからはハイパーお兄ちゃんタイムだぜ!」
「全力で却下する! み、妙な勘違いをしていないで、さっさと席につかんかっ!」
「ヴェストの好きなもん、ちゃんと作っといてやったからな! しっかり食べろよっ?」
そもそも人の話を聞かないギルベルトが、ルートヴィヒの照れ隠しの抗議など受け入れる訳がないのである。はいはい、と流すこともなく全無視して、ギルベルトはルートヴィヒの額に親愛を込めたキスを送り、上機嫌でキッチンへと戻って行った。朝食がスープだけの訳がないので、まだ運んでくるものがあるのだろう。恥ずかしそうに机に突っ伏しかけたルートヴィヒは、しかし無言で顔に手を伸ばされて硬直する。
白く華奢な、女性の手だった。武器を持って荒れてもなおしなやかなエリザベータの手のひらは、ごく穏やかな様子でギルベルトにぐしゃぐしゃにされた髪を整えてやる。すまない、もしくはありがとうと、気恥かしさを飲み込んでルートヴィヒが告げようとした時だった。ふと顔に影がかかる。先程ギルベルトが触れて行った額に、寸分たがわぬ位置に唇をかすめさせて、エリザベータは驚きに見開く瞳を覗きこんで笑った。
ごめんね、とささやきが落ちる。花の香に似た甘さを残して立ち去ったエリザベータも、キッチンへ消えていく。体中の力が抜けて椅子に沈んでしまったルートヴィヒを訳知り顔で眺め、ローデリヒは愛おしく目を細めた。
「可愛いものですね。彼女も、あなたも」
「……っ! に、にいさんの馬鹿っ!」
恥ずかしさのあまり上手く言葉を紡げないまま叫べば、数種類のドイツパンが入った網籠を持ってギルベルトがかけてくる。恐らくは怒られた直後なのだろう。だん、と音だけは派手に中身が飛びださないよう器用な仕草で、籠をテーブルに叩きつけるようにして置いたギルベルトは、思い切り非難を込めてローデリヒを睨む。
「なんで突然反抗期っ! ちょ、テメ、ローデリヒ! お前、俺の可愛いルートになに言ったっ!」
「兄さん冷静になって俺を見てくれ! そして可愛くないという事実に気がついてくれ!」
「いいからさっさと席に着きなさいっ!」
平手で頭をはたき倒されて、ギルベルトはだってルートが反抗期なんだっ、と間違った主張をした。思い切り顔に向けられた人差し指を丁寧に退けながら、反抗期などではない、とルートヴィヒも主張する。仲良く騒ぐドイツ兄弟を呆れた目で見比べて、エリザベータはゆるく腕を組んだ。ほかほかと湯気が立っていた筈のスープは、すでに冷め始めている。
「あなたたち、ローデリヒさんに冷めたスープを飲ませるつもりなのかしら?」
まさか、そんな筈が、ないわよね、と。芳純なる春を祝うがごとき柔らかな声でゆっくりとささやかれて、ルートヴィヒは思わず両手を高く上げた。徹底的な降伏宣言をした弟に裏切り者、となじるがごとき目を向けて、ギルベルトは微笑みながら答えを待つエリザベータに息を吐く。
「分かったよ……。じゃ、あと一分したら俺も来るから、先に食べてろ」
もう騒がないぜ、心身の安全の為にも、とぶつぶつ言いながら再度キッチンに消えてしまったギルベルトを見送り、エリザベータはルートヴィヒの斜め向かい、ローデリヒの隣に腰かけた。ようやく騒ぎが一段落した食卓に並ぶのは、ドイツとハンガリー国籍の料理たち。赤いスープはパプリカで色付けされたグヤーシュ。薄切り牛肉と人参、玉ねぎ、じゃがいもにニンニク、パプリカと粉末パプリカがたっぷり入っている。
ややスパイシーだが味付けはさっぱりとしており、野菜がたっぷりで食べでもあるので朝食の一品として、エリザベータがよく作るものだった。数種類のハムやチーズは今切り分けたもののようで、どれも瑞々しく柔らかそうだ。バターだけではなく、果物のジャムも三種類用意されていて、中でも苺の赤みが目を引いた。そうしているうちに、宣言された一分は過ぎていたらしい。トン、と音がして皿が置かれる。
ルートヴィヒの目の前に置かれたのは、いかにも作りたての湯気がたつオムレツだった。刻まれたハーブも入っている。バターの甘い匂いとハーブの爽やかな香りが混じり、ルートヴィヒの喉を鳴らさせた。すとん、とかすかな音のみでルートヴィヒの隣に腰を下ろし、ギルベルトはさあ褒めろ、と言わんばかりの笑顔を浮かべる。
「お前これ、好きだろう? ……機嫌なおせよー」
な、と言い聞かせるように告げて、ギルベルトはまたルートヴィヒの髪をぐしゃぐしゃに乱してしまった。その手をのけることも出来ず、ルートヴィヒはひたすら恥ずかしさに息をつめる。確かにギルベルトが作るハーブ入りのオムレツは好きだが、なぜ好きかと言われればきちんとした理由があって。恐らくは食欲がない時にでも自分で食べられる物を、とギルベルトが作るのがこれなので、これならば彼は口にするのだ。
だから好きなのは、ちゃんと食べ物を口にしているギルベルトが見られること、であって。思わず口元が綻んでしまうのは、食べていることが嬉しくて安心するからで。一度も告げたことがない故に信じ込んでしまっているギルベルトが、ルートヴィヒには恥ずかしくて仕方がない。決して悪い感情ではないのだけれど。胸が温かくていっぱいで、くすぐったくて言葉になどならないだけで。はぁ、と溜息がもれて行く。
「……ありがとう、兄さん」
想ってくれて。大切にしてくれて。言葉にせずお礼を言えば、ギルベルトはぴかぴかと輝きそうな笑顔で頷いた。では食べますよ、とそれまで我関せずと傍観していたローデリヒが、邸宅の主らしく声をかける。それぞれ椅子に座りなおし、四人はおごそかに日々の食事に対する感謝を口にした。それからようやく、食事がはじまる。時計の針はとうに十二時になっていて、誰もが胸の内で朝食を諦めた昼食だった。
いやに洗練されたフォークの動きでオムレツを奪いながら、ギルベルトはローデリヒに目を向ける。
「ところでさ、お坊ちゃん」
「なんです? お馬鹿」
お前らどうして仲良くできないんだ、と思いながらルートヴィヒが皿を兄の前に移動させようとすると、他ならぬギルベルトの手で止められた。奪い取って食べるから良いらしい。いついかなる時でもなぜかこどもっぽい部分を失わないギルベルトは、オムレツの出来栄えに満足そうに頷き、手のひらでくるくるとフォークを回した。
「珍しいな、フェリちゃんとロヴィちゃん帰すの。今日、なんか用事でもあったのか?」
昨夜、ヨーロッパ中の国々が集まっていたこの邸宅に、留まっているのは四人だけだった。歌声を披露したフェリシアーノとロヴィーノは、昨夜遅くにアントーニョに送らせて自国へ帰っている。恐らく、まだ寝ていることだろう。起きたよー、と夕方に電話がかかってきたとしても、誰も驚かないに違いなかった。泊めてやればよかったのに、と不思議がるギルベルトに、ローデリヒはコーヒーを一口飲んでから口を開く。
「ええ、用事があったのもそうですが……いつまでも子供ではないのですから、家に帰さなければいけないでしょう」
「俺とルートは?」
エリザベータをわざわざ問わなかったのは、彼女が泊まることに関して疑問の余地がないからである。この邸宅はエリザベータにしてみればかつての家そのものであり、今でも十分住めるくらい整えられた一部屋が確保されていた。馬鹿なことを聞くものですね、とローデリヒは腕を伸ばし、ルートヴィヒからオムレツをかすめ取った。
「家が別にあるとはいえ、家族を追い返す理由がないでしょう」
そのままなんの遠慮もなく口に入れたローデリヒを、ギルベルトはしばらく無言で見つめていた。エリザベータは涼しげな顔で食事を進めているものの、言葉を聞き逃すまいと意識を向けているのは明らかだ。ローデリヒはちらりと視線を向けただけで答えを促すこともなく、気に行ったのか身を乗り出してオムレツをすくいとって口にしている。こちらも皿自体を移動させることは、ギルベルトと同じように拒否した上で。
さすがに奪って食べるから美味しいなどとは口にしなかったのだが、向けられたルートヴィヒの視線は同じだった。三口目をローデリヒが飲み込んだ時点で、ギルベルトの瞳にじわりと羞恥が広がる。おや、と三人分の軽い驚きと観察の視線を密かに向けられたまま、ギルベルトは馬鹿じゃねぇのお前、と弱い口調で言った。
「ドイツはオーストリアを併合したことあるから、ルートは分かるけど……俺は、違うんじゃねぇの」
「お馬鹿さん。ルートヴィヒと私が家族なら、貴方と私もそうでしょう。先程、声高に主張していたではありませんか、ルートヴィヒの兄だと。ならば同じでいいじゃありませんか。そんなことより、ほら、食べなさい」
なにも減ってないじゃありませんか、と溜息をつかれるとギルベルトはちぇー、と唇を尖らせた。そんなこと、で終わりにされたのが悔しくて、そしてじわりと嬉しいらしい。そんなことって言った、とむくれて報告してくるギルベルトに、ルートヴィヒは苦笑を向ける。よかったじゃないか、と言ってやりたいのは山々だが拗ねるので我慢して、その代わりに手を伸ばして頭を撫でた。案外、撫でられるのが好きだと知っている。
ぽんぽん、と宥めるように二度、軽く叩いて手のひらを離せば、ギルベルトは飴玉を与えられた幼子のような顔つきで笑う。へへ、と喜びがにじんで仕方がない風に笑うと、ギルベルトは鼻歌を響かせながらスプーンを手に持った。そしてもう冷めてしまったエリザベータ作のスープを、ひとすくい、口に入れる。んん、と甘くゆるく、目が細められた。
「……久しぶりに食べたぜー」
それがスープのことなのか、食事のことなのか。あえて誰もが問いかけず、エリザベータだけが微笑みながら小さく頷いた。『国』は基本的に人と同じ外見をしているものの、餓えて死ぬことはない。けれど餓えはするし、弱りもするのだ。食べられるだけでいいからね、と優しく響いたエリザベータの声に、ギルベルトは無言で頷いた。ゆっくり、スープが口に運ばれて行く。やがて器が空になるまで、手は止まらなかった。
全員が食べ終わると、時計はすでに午後の一時半に差し掛かっていた。ややぐったりしているギルベルトを動かすことはせず、エリザベータはルートヴィヒに後片付けの手伝いを頼む。素直に手伝うルートヴィヒをぼんやり見つめるギルベルトの目は、穏やかで誇らしげですらあった。大きくなったなぁ、と横顔が幸福を語っていた。食後のコーヒーを飲み干したローデリヒは、眠ってしまいそうなギルベルトに手を伸ばす。
撫でるでもなく頬に指先を触れさせれば、不審げな目が向けられた。ローデリヒにとっては見なれたルビー・アイの瞳。戦地ではピジョン・ブラットを思わせる強さで爛々と輝いていた目は、今は瓶詰めの苺ジャムに似ていた。トントン、と指の背で額をノックして、ローデリヒは起きなさい、とささやく。ピアノを弾きに行くのでついて行きなさい、と言い放てば、いっそ尊敬に近い呆れの色が、眠たげな瞳によぎって消える。
昨夜あれだけ弾いてまだ足りないのかとため息交じりに言いながらも、ギルベルトは立ちあがってローデリヒの手を取った。たとえ慣れ親しんだ己の邸宅であろうとも、ごく稀に、迷って音楽室にたどりつけないことを知っていたからだ。手をひいてリビングの扉に向かいながら、ギルベルトはキッチンに向かって声をかける。
「エリザ、ルート。お坊ちゃんを音楽室に届けてくる」
「お茶の時間には戻ってきますので」
「はいはい、行ってらっしゃい。喧嘩しないようにね、ギル。ローデリヒさん、お茶はアッサムにします? それともセイロン? なにか希望があれば、買ってきますけれど」
茶棚を覗きこみながら尋ねるエリザベータに、ローデリヒはふむ、と口元に手を添えて考える。
「そうですね。では、ダージリンをアイスでお願いします。いいですね? ギルベルト」
「なんで俺に聞くんだよ」
「貴方、コーヒー派でしょう。紅茶も飲みはしますが、口に合わないと菓子もほぼ口にしないからですよ」
ダージリンはわりあい口に合うようですが、と問いかけられて、ギルベルトは美味いヤツならな、と頷いた。では美味しいものを、と笑いながらエリザベータに注文して、ローデリヒはギルベルトに手を引かれて部屋を出て行った。しばらくは軽快に言いあう二人の声が響いていたが、やがて自然に聞こえなくなってしまう。洗い物を終え水道を止めながら、ルートヴィヒはエリザベータに目を向けた。気になったのだ。
エリザベータはルートヴィヒが予想していたどの表情とも違う、くすぐったそうな笑みを浮かべて、二人が出て行った扉を見つめていた。その女性の横顔に、ルートヴィヒは覚えがあって息を止める。ずっと昔、まだルートヴィヒが『ドイツ』として存在できず、プロイセンたるギルベルトに育てられていた時。暇を見つけてはルートヴィヒを構いに来たエリザベータが、そっとギルベルトを盗み見てはしていた表情だった。
憧れや、喜び。甘い切なさや愛おしさ、だからこその苦しさを受け入れる、穏やかな笑み。ギルベルトは恐らく、この表情を知らない。エリザベータがそうして微笑むのは、決まってギルベルトがなにかに集中しきっていたり、もしくはその場に居ない時だけだからだ。水音や食器の音が響いていないことに、ふと気がついたのだろう。あ、と声をあげたエリザベータと目があって、ルートヴィヒが見ていたことを知られる。
すぐに困った風に眉を寄せ、エリザベータは息を吐き出した。
「……ね、ルートヴィヒ。お姉さんとすこし、お話しようか」
「お……お話、か?」
「うん。二人ともしばらく戻ってこないだろうし、二人がいると出来ないお話。今ならしてあげられるし……今だけしか、言いたくないことよ。できればずっと言わないでいおうと思ってたけど……見られてたなら仕方がないわ」
でもギルには内緒ね、と唇に指を押し当てながら告げるエリザベータに、ルートヴィヒは素直に頷いた。言っても信じないと思うが、秘密を求められて告げることはしない。浮かんでいた表情のことも、そして、これから話されるであろうことも。リビングのソファに促されて座りながら、ルートヴィヒはわずかな不安感に息を吸い込んだ。告げられるであろう内容に、予想がつかないといえば嘘になるからだった。
それを言われることを、ずっと昔からルートヴィヒは知っていた。そしてついに、やってきたのだ。にこにこと笑いながらルートヴィヒの隣に腰を下ろし、エリザベータは窓の外に目を向けた。
「私ね、ずっと昔からアイツのこと好きよ」
さらりと、なんの気負いもなく告げられた言葉に、ルートヴィヒは緊張しながら頷いた。そして知っていた、と呟けば、エリザベータは窓の外を見つめたままで頷き返す。知っていたことを知っていた、とエリザベータは態度で示し、ゆっくりとルートヴィヒに目を向けた。
「貴方はずっと、私のライバルだったわ。……これも?」
「知っていた。兄さんは一時期本当に、俺のことしか頭になかったから……かの王の時も、そうだったのか?」
「フリードリヒ王の時の方がひどかったわ。ただ、あの時は戦争中だったから……」
私情を表に出すことが出来なかっただけで、と息を吐くエリザベータに、ルートヴィヒは頷いた。『国』にとっての戦争というものは、単純で、それでいて複雑だ。人間が書類上、あるいは事実上でも『戦争』を開始した瞬間、『個人』と『国の化身』として二種類が奇妙に入り混じっている精神が、完全に『国』に固定されるのである。戦争中の『国』は、国民の意思が己の意思なのだ。争い合い、奪い合う狂気のままに。
もちろん『個人』としての意識、感情が消えてしまうわけではない。だがそれは完全に身の内で剥離し、隔離された状態になってしまって、肉体を動かす意識として表に持ってくるのは難しいのだった。不可能ではないが、可能には遠い。近年は平和でなによりだ、と息を吐くルートヴィヒに深々と頷いて、エリザベータは話を続けていく。
「だから……貴方は、私がそう思ってたのを知ってたから、言っておくけれど」
間違えないでね、と。向けられる瞳は、命の輝きを宿す草原の色だった。
「それでも私は一度も、貴方を嫌いになったことなんて、ないのよ。ルートヴィヒ。正直に……本当に正直に言っちゃうと、悔しいな、って思ったことはあるけど、でも、貴方の存在を否定的に思ったことなんて一度もない」
「……貴女に実は嫌われているのではないか、と思ったことは一度ならずあるが」
くす、と喉の奥で笑いながら、ルートヴィヒは思いだす。プロイセン王国があり、ギルベルトがまだ戦に明け暮れていた遠い日々。ギルベルトの帰りを待つ屋敷に、人目を忍ぶようにしてエリザベータはやってくる。不在が分かれば一瞬沈んだ顔をするものの、見つからなくて良かった、とも胸をなで下ろす安堵は幼くとも複雑さを感じさせた。特になにをするでもなく、エリザベータは屋敷で時を過ごし、去って行く。
たまにルートヴィヒに伸ばされる手は気まぐれの優しさで、けれど慈しみにも満ちていた。それでいて必死に悲しさや、悔しさを堪えているようでもあった。痛みを、訴える代わりに抱きしめるような人だとも、ルートヴィヒは思っていて。今なら、その理由が分かる。想う相手がなにより大切にしている存在を、同じように心から慈しめないことこそを、エリザベータは悲しく、悔しくも思ったのだ。愛おしくも、思いはしても。
「貴方は、俺が笑えば笑い返してくれたから……そうではないのだと」
「まあ……最終的にはギルが悪いのよね。なんだかんだ、今でもルート大好き、ルート一番! なんですもの」
仕方がないヤツ、と苦笑するエリザベータは、文句を言いながらどうするつもりもないようだった。言葉にはどこか安らぎが混じっていて、いつの日か感じた渇望や怒りは消えてしまっている。よかった、と事情は知らずとも胸をなで下ろして、ルートヴィヒはある事に気がついて眉を寄せる。エリザベータ、と真面目に呼びかけられた女性は、不思議そうに首を傾げた。エリザベータにしてみれば、話は終わりだからだ。
なあに、と穏やかに問いかけられ、ルートヴィヒは重々しく口を開く。
「ライバル、だった……? 過去形に聞こえるのだが」
「過去形ですもの」
暗に今は違うのだと告げるエリザベータの笑みは深く、そして艶やかだった。これだけは譲れない、という意思にも満ちていた。荒らぶる鷹を前にしているような気持ちで、ルートヴィヒは息を飲む。けれど、ここで引き下がるわけにはいかなかった。極めて重要だからだ。見えない火花を散らしながら、ルートヴィヒは認めない、とばかりに言い放つ。
「残念だが、兄さんの最優先事項は俺だ。挨拶のキスだって、俺が一番に貰った」
「さっき、ローデリヒさんを送って行く時。名前を呼ばれたのは私の方が先だったわ」
「兄さんは俺の為にオムレツを作ってくれた。俺の為、だけに」
信じ込んでいる勘違いを訂正しなくてよかった、とルートヴィヒは心から思った。そしてこれからも、なにがあっても訂正しないでおこう、と。ぐっと言葉に詰まったエリザベータを優越感を持って見つめ、ルートヴィヒは堂々と宣言する。過去形にするには早いと思うぞ、と。草色の瞳に悔しさと、怒りがよぎる。二人は無言のままで睨みあい、どちらも口を開こうとはしなかった。時刻は二時前。戦いは始まったばかりだった。