音楽室は、この邸宅の中でもっとも古くから場所を移さない一つだった。建てられた時から目的や用途に合わせて移動していない部屋は、こことローデリヒの私室、あとはリビングくらいのものだろう。それなのにギルベルトが導いて開かれた扉の先、静まり返る部屋は時を止めている印象がなかった。古臭い印象など、なに一つない部屋だった。広々とした空間は大きな窓がいくつもはめ込まれ、光にあふれている。
輝きの中心にあるのは、黒真珠のようなグランドピアノだった。柔らかな布で磨き上げられた外装は、弾き手の訪れを知って喜んでいるようにも見えた。ごく自然にギルベルトと手を離して、ローデリヒはピアノに歩み寄る。コツ、コツ、と硬質な足音が響くのは、この部屋の床がフローリングになっているからだ。この邸宅でもっとも手がかけられ、もっとも改装を繰り返し、もっとも金銭を注ぎ込まれているのがこの部屋だ。
埃が落ちればすぐ分かるから、という理由だけで絨毯を取り払って床材を木にしてしまった事実は、ギルベルトの記憶にも新しかった。それでいて楽譜がつまった棚に、インテリアの一部のようにして置かれているメトロノームは古く、動くかどうかもあやしく見える。大事に大事に手入れをして何度も修理しているものなので、動かないこともないのだろうが。呆れながらもギルベルトは部屋を見回し、扉の前に立っていた。
ローデリヒはギルベルトを振り返らずにピアノに触れ、ふたを開けて鍵盤に指を落とした。澄んでいて滑らか、それでいて重く響く音が空気を染めていく。今日も調子は良いようだった。ふむ、と口元を和ませながら椅子に腰かけ、ローデリヒはようやくギルベルトに視線を向けた。
「なにを突っ立っているのです、お馬鹿。こちらへおいでなさい」
たまには弟離れする時間を持つのも良いことですよ、と付け加えてやると、ギルベルトはむぅっと不愉快な顔つきになったものの、無言で部屋を横断してくる。部屋の端に楽譜を入れる棚がいくつか置かれ、中央にはピアノ。ピアノの前には演奏の為の椅子があり、後はなにもない部屋だった。なににも遮られることなく、ギルベルトはローデリヒを睨むようにして、まっすぐやってくる。たまらない優越感に、口元が緩んだ。
ぶすぅ、と頬を膨らませて唇を尖らせ、腕組みまでしてローデリヒを見下ろし、ギルベルトは不機嫌に問う。
「なに笑ってんだよ、お坊ちゃん。そんなに俺が、この部屋に居るの面白いか」
「ええ。嬉しいですね。貴方が一人でもこの部屋に来る、ということが」
音楽など似合わない者が、という意味を含めたギルベルトの言葉を、ローデリヒは目を細めながら否定してみせた。昔はそれこそ、ルートを連れてくるのに仕方なくでしか足を踏み入れなかったでしょう、と笑みで肩を震わせながら告げると、ギルベルトは目の端をうっすらと赤らめて視線をそらした。目を遊ばせるものすらない部屋の中では、見つめるものは自然と限られてしまう。ギルベルトはじっと、ピアノを見ていた。
弾かないのか、とギルベルトは呟く。静まり返った部屋に、会話以外の音を乞うような声だった。弾きますよ、と受け答えながらローデリヒはピアノの足元に置いてあったケースを屈みこんで持ち上げ、ギルベルトに向かって差し出す。
「ただし、貴方も一緒に」
素直に差し出された楽器ケースを受け取りながらも、ギルベルトの目には激しい動揺があった。なぜこれがこの場所に、と落ち着きなく楽器ケースとローデリヒを行き来する目を、下から覗きこむようにして笑う。
「昨夜の夜会で披露してくださるつもりだったのでしょう? 昨夜は機会がなかった。なら、今でも良い筈です」
「こ、これは、もしお前とか、俺の天使たちになんかあった時の為であって、別にそういうつもりで持ってきたんじゃ」
フルートの収納されている楽器ケースを胸に抱き、ギルベルトは羞恥に顔を赤くしながら言い募った。知っていますよ、とローデリヒは目を細めて微笑する。この、意外と気遣い屋で不測の事態を予測して備えなければ気が済まない男は、とにかく演奏会がダメになってはいけない、と思ったのだろう。こっそりと持ってきていた楽器ケースを見つけたのはロヴィーノだったが、取り上げて隠したのはローデリヒだった。
例えローデリヒがピアノを弾けなくなったとしても二人の歌があり、声が欠けても旋律があった。三つの要素が一つかけた程度で失敗に終わらせるような真似をローデリヒはするつもりがなかったし、何よりギルベルトのフルートを、そんな形で響かせるのが嫌だったのだ。幸いギルベルトはエリザベータの様子を見るのに意識が行ってしまっていたから、今まで楽器が軽い盗難に合っていたのも気がつかれなかった。
それだけ身の回りを警戒せず、注意を緩めてリラックスしていたのだろう。かつて争っていた時代には考えられない状況に、ローデリヒはギルベルトをじっと眺めた。音楽家に、知らせるつもりもなかった気遣いがバレていたことが、恥ずかしくていたたまれないのだろう。楽器ケースをぎゅぅっと抱きしめたままで俯いてしまったギルベルトに、ローデリヒは溜息を落とした。これではまるで、苛めているようではないか。
不本意だ。そんなつもりではない。ギルベルト、となるべく優しく名を紡ぎ、ローデリヒは楽器ケースを抱く指に触れる。指先は力の入れすぎで白くなっていたから、トントン、と軽くノックして脱力を促す。幼子を甘くあやすように、ローデリヒはギルベルトに語りかけた。
「貴方の音が聞きたい、と言っているのですよ。練習はして来ているのでしょう? なら、成果を披露してくれても良いではありませんか。……ほら、力を抜きなさい。指を痛めるでしょう」
「……聞いて馬鹿にするつもりだろう」
夜会の高揚感でごまかせてしまう場所ならともかく、ここは嫌だ、と首を振るギルベルトに、ローデリヒは思わず沈黙した。朝食での会話といい、この受け答えと反応といい、一体どのような認識をされているのか。平時より戦争中で敵対している時の方が会話が長く、多く成立していた間柄なので、まあすこしは仕方がないのかも知れないが。さすがに頭に来て、しませんよ、と吐き捨てれば至近距離で視線が絡む。
怒ったのかを慎重に見定めようとする瞳から逃げず、ローデリヒは告げる。
「私は、貴方の音が聞きたいだけですよ。このお馬鹿。……どうしてそう警戒するのですか」
「お、お前が俺のこと、バカバカ言うからに決まってんだろっ! いっつもそうやって……俺ばっかり」
そうやって、と悔しげに歪んだ瞳に、ローデリヒは嘆息した。確かにその通りではあるからだ。それでも、主張の全てを受け入れてやる気などさらさらない。今にも身を翻して出ていってもおかしくない様子のギルベルトの腕を強引につかみ、ローデリヒはさらに距離を近くする。前髪同士が触れ合う距離は、目を合わせにくい程で。秘めた吐息が肌をかすめるのを、どこか他人事のように、ローデリヒは感じていた。
驚きに見開いた赤い瞳が、ローデリヒだけを見ている。血の鮮烈さを失った、甘い果実色のギルベルトの瞳。
「……そう言えば貴方は、こちらを向いたでしょう」
悔しさか、羞恥にかは知らない。感情になど興味はなかった。ただ他者に向けられていた瞳が、強い意思を持って向くことだけが意味だった。一人が楽しいと笑うギルベルトの周囲には、言葉とは裏腹に常に誰かが居て。敵対することが多かったローデリヒは、笑うギルベルトを外側から眺めることしかできなかったのだ。こちらを向いてほしい、なんていう甘い感情は持たない。ただそれは、許せないことだった。
「気分を害して居たというなら謝りましょう、申し訳ありませんでした。もう、そのようには呼ばないと誓いましょうか……貴方が私を『お坊ちゃん』などとからかわなければ、の話ですが。どうしますか? ギルベルト・バイルシュミット」
「な、なんでお前、今日そんなに素直っていうか。ど、どうしたんだ、よ」
「いえ。エリザがようやく認めたようですので、私も素直になっておこうかと。それだけですが」
特に他意はありませんよ、と告げるローデリヒに、ギルベルトはほとほと呆れた表情で馬鹿が居る、と言い放った。ローデリヒは秀麗な眉をわずかに寄せただけでとりあえず反論せず、言葉をさらりと受け流してやった。その上で、大丈夫ですよ、とギルベルトに笑いかける。
「二重帝国のお相手はどちらがよろしいですか? などとは言いませんから」
「……貴族語理解できないぜー。助けてルート。お前のお兄ちゃんすげぇ泣きそう」
でもエリザは来なくていい、二重帝国の片割れだから。軽く涙を浮かべながら呟くギルベルトに、ローデリヒは妥当な判断でしょう、と胸中で頷いた。争うつもりなどない。奪い合うなどもってのほかだ。エリザベータには幸せになって欲しいし、その為ならローデリヒは助力を惜しまないだろう。しかし、それはそれ、これはこれ、である。ようやく平和になり、ギルベルトも落ち着いたのだ。付け込んでおくなら今だった。
こちらを見る、という習慣をつけさせなくてはいけない。ローデリヒはなるべく好意的に見えるような笑みを浮かべ、眩暈を堪える為に額に手を押し当てているギルベルトの名を呼んだ。若干怯えた風に見つめ返してくるのは、新鮮で心が弾む。さて、とローデリヒは問いかけた。
「それで、ギルベルト? 演奏してくださいますよね?」
問いかけを装った決定通知に、ギルベルトは逃げ道を探すように視線を彷徨わせたものの、諦めたらしい。一曲だけだからな、と溜息と共に了承されて、ローデリヒは頷いた。ルートヴィヒとエリザベータから引きはがして、音楽室につれて来たかいがあるというものだ。しょうがねぇなー、と言いながら慣れた手つきでフルートを組み立てるギルベルトに、ローデリヒは鍵盤に両手を乗せながら告げる。
「では、練習時間は三十分で。曲はなにを?」
「曲はなんでも良い。でも、一時間!」
三十分ってなんだよ短すぎだろっ、と騒ぐギルベルトに、ローデリヒは仕方がなく柱時計に目をやった。ギルベルトが中々手ごわかったせいで、すでに針は二時過ぎを示している。お茶の時間には戻ると言ったので、もう一時間も猶予がなかった。ギルベルトの主張は分からなくもないが、それでは遅刻してしまう。却下ですね、と静かに言い放ち、ローデリヒは譲歩してやった。
「四十分では? 休憩時間は差し上げられそうにもありませんので、そのまま合わせて頂きますが」
「分かった。じゃ、四十分で仕上げてやるから待ってろよ……ローデリヒ」
さっそくフルートに口をつけながら、ギルベルトはローデリヒに背を向けて言い放った。ローデリヒが男の名を呼ぶより、ギルベルトがそうする方が回数としては少ないだろう。気がついて目を和ませるローデリヒの気配を感じても、ギルベルトは振り返らなかった。代わりにやや赤くなった耳が、あえての呼びかけなのだと示している。言葉を重ねる代わりに鍵盤を指で叩いて、ローデリヒは音楽を奏ではじめた。
響く音楽は穏やかに、フルートの音色と混じり合った。
のんびりとしたティータイムを終えればすでに夕方で、邸宅を出る頃には日が暮れかけていた。足元には、夜の薄闇が忍び寄っている。背から伸びる影は長く、不安の欠片を抱かせた。送って行く、とギルベルトはエリザベータに申し出たのはその為で、決して下心あってのことではない。けれど、告げた途端に薔薇色に染まったエリザベータの頬は可愛らしく、すこしくらいは良いかな、と思わせるのに十分だった。
先に帰るからすこしゆっくり送って行けばいい、とやや不機嫌に言ったルートヴィヒはギルベルトから感謝のキスを額に送られ、満足げに目を細めてはにかんだ。またおいでなさい、と見送ったローデリヒには戯れに手をすくい上げ、指先にやはり口付ける。男のものにしては細く繊細な指先から唇を離すと、ギルベルトの髪がくしゃくしゃに撫でられた。くすぐったくて首をすくめるギルベルトに、ローデリヒは柔らかく笑む。
「さあ、エリザベータを送って行きなさい。あまり寄り道しすぎないように」
「夕食は家で食べるのだろう? 暗くなりすぎたら連絡をくれ」
「……まさか、ルートだけじゃなくてローデリヒさんまで、なんて。い、いいわ、私負けない。頑張れ、わたし!」
とりあえずデジカメを連写モードにしながらぶつぶつ呟くエリザベータに、この趣味だけは理解できない、とギルベルトはうろんな目で沈黙した。男が二人、仲良くしていることのなにが楽しいというのか。ほら帰るぞー、と呆れ交じりに腕をひくと、エリザベータは正気に返った顔つきで頷き、苦笑しきりのローデリヒとルートヴィヒに、それぞれ軽く頭を下げて歩き出す。夕暮れの街は、橙と薄闇が入り混じった色をしていた。
道行く人は様々だった。スーパーの袋を下げて早足に行く者や、のんびりと景色を見ながら歩いている者、すこしくたびれた様子で息を吐くスーツ姿の男や、笑いあいながら走って行く学生服の少女たち。寄り添って歩く恋人同士らしき男女は、手を繋いで仲睦まじい。思わず、いいなぁと見つめてしまった矢先、エリザベータの手がぬくもりに包まれる。ぱっと顔をあげると夕日より赤い、ギルベルトの顔があった。
「はぐれる」
繋いだ手に、力が込められた。ギルベルトの目は紅に染まった街並みをうろうろとするだけで、エリザベータの元へは戻ってこない。横顔は誰かを探しているようにも見えたし、古い記憶を思い出しているようにも見えた。それでも繋いだ手の温かさは、幻でもなくここにある。
「……買い物でもして行くか?」
遠くを。遠く、遠くを。街並みに阻まれて見ることのできない太陽や、それが沈んでいく地平線を、それでも彼方に見つめる表情のままで。不安定に揺れる声で紡がれた言葉に、エリザベータは首を振った。
「いいよ、いらない……それより、こっち向いて?」
ねえ、と手を引っ張られてぎくしゃくと、ギルベルトの顔がエリザベータを向く。困惑と羞恥で軽く眉を寄せながら、ギルベルトはなんだよ、と呟いた。目を合わせて、とエリザベータは囁く。
「ね……お願い」
きゅうぅ、とさらに眉が寄せられて、眉間のシワが深くなった。嫌がってる風ではない。ただ葛藤しているだけなのだろう。なんで街中でそんなこと、ともごもごと呟きながらギルベルトはそっと視線を動かし、エリザベータと目を合わせた。ぬるい風が吹き抜けて、夕闇が迫ってくる。はやく言葉を紡がなければ、夜に全てが攫われてしまう。エリザベータはギルベルトの視線を捕えたまま、悲しげに微笑して唇を開く。
「ばか、なんて顔してるのよ」
「エリ、ザ?」
「私は今、ここに居るわ。どこにも行ったりしない。……誰を探してるの? なにを見てるのよ。私はここよ。ここに居るわ、アンタの傍に。……ねえ、ギルベルト。アンタと手を繋いでるのは誰だと思う?」
怒らないから言ってごらん、と囁かれてギルベルトの目が不意に歪む。息することさえ苦しげに、言葉が落とされた。
「……エリザベータ。ハンガリー」
「うん。それで?」
手を背に回させ上体を傾けさせて、エリザベータはギルベルトの熱を計るように額をくっつけた。大丈夫、大丈夫、と唇を動かして語りかける。不安なら言ってしまえば良い。怖いなら、すがりつけばいい。二人で居るのは支え合う為で、一人で抱え込むのを見ている為ではないのだから。ほら言って、と促すエリザベータに、ギルベルトは掠れた声で問いかけた。マジャル、と。エリザベータは、微笑みながら頷いた。
「うん? なに、マリア」
「……今日さ、俺、すげぇ幸せだったんだけど」
そうっと片手がエリザベータの背に回され、力を込めて抱き寄せられる。肩に軽くあごを乗せる形で腕の中に収まり、エリザベータはうん、と頷いてやった。朝起きてから、邸宅を出るまで、ギルベルトがずっと浮足立っていたのを知っている。ほんの些細な好意を言葉にして伝えられるだけで、心に温かな灯をともす相手だと知っている。家族だと、ローデリヒが何気なく告げた言葉を、宝物にしたと知っている。
だからこそ分からないのは、ギルベルトが感じている不安感だった。黙って待つエリザベータに、ギルベルトは夢かな、と呟いた。
「俺が昔、あんまり……いつかこんな風に過ごしたいって思ってたから、夢見てんのかな」
朝起きたら、とギルベルトは囁く。朝起きたらお前が居ておはようって言って、リビング行ったらルートが居て俺を見て笑って。しばらくしたらローデリヒが起きてきて、四人で家族みたいにご飯食べて。時々、ローデリヒのピアノ聴きながら、演奏とか、して。平和で。なにも起きなくて。夕暮れ時の世界が、夜になる寸前の、空が紫に染まって綺麗なのを一緒に見上げて。笑いあって。そんな日を、いつか過ごしたいって。
「ずっと……見れんのかな、この夢」
「マリア。私の、マリア……ほら、顔をあげて。私を見て、ギル?」
ばかね、とエリザベータは笑った。
「夢じゃないわ。こんなの夢でも、なんでもない。今日は特別なことなんか何も起きなかった、普通の日よ」
「エリザ」
「今日も、明日も、明後日も。これからずーっと、私たちはこうやって過ごすのよ」
過ごしてきた年月が長く、『国』同士の軋轢の中で生まれてしまった不和は、現代になっても中々消えてはくれないのだけれど。それでも一歩一歩、歩み寄って行くことはできて。昨日は出来なかったことが、今日にはすんなり出来てしまったり。偶然やちいさな奇跡を、いくつも積み重ね、繰り返しながら。いつか望んで、強く願って、祈ってばかりいたことが。ただの日常になって、明日へとつながって行く。
大丈夫よ、とエリザベータは笑った。
「私はこれからずっと、アンタの傍に居るわ」
「……おう」
「さ、帰りましょう?」
もう、夜がそこまで来ている。明りのない夜をいくつも越えて来た二人は、人工的なものの中に生まれる暗闇など、怖くもなんともないのだけれど。それを恐れる人の子のように身をくっつけて寄せ合って、恥ずかしそうに笑い合った。不安も、恐怖も、喜びも、悲しみも。全部全部分け合って、楽しいことに変えてしまって。そんな風に、傍に居られればいい。遠い日に見た夢の日は、これから過ごす明日なのだから。