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 6 揺り籠と子守唄

 痛みと吐き気が全身に広がって、もう息をするのも苦しかった。枯れ草の感触が頬を擦る。土の香りが口いっぱいに広がって、気持ち悪くて涙が滲んだ。胎児のように丸まって横たわる姿は無防備で、すぐ傍に剣を置いてあっても不安が胸を刺す。それにどうせ、今なにがあってもマジャルは動けない。痛い。鼓動が体をめぐるかすかな動きですら、一秒ごとに痛みは増して行く。分からないけど、たぶん死ぬと思った。
 辺りは暗い。普段使わない物置に逃げ込むだけで精一杯で、明りが用意できなかったからだ。不意に明るくなったりするのは、ひとつだけある窓から月光が差し込むからに過ぎない。涼しげになく虫の声が遠くに聞こえる。ぎゅぅ、と拳を握って体を丸め、マジャルは生ぬるい息を吸い込んだ。血の香りにむせて泣きそうになる。マジャルの体に、傷は一つもない。血は内側から流れてくるもので、押さえても止まらない。
 膨らみはじめた胸の痛みとは、比べることもできない痛みが下腹部に広がる。それが何なのか知ろうともせず過ごしてきたマジャルは、だからただ、死ぬのだと思った。悪い病気にかかって死んでしまうのだと。熱を持った体は痛みもあって上手く動かず、倒れこんだ姿のまま、立ち上がることが出来ない。人目を避けてここまで走ってきたから、マジャルがこんな物置の隅にいることも、きっと誰も知らないだろう。
 心細かった。不安だった。悲しかった。怖かった。痛くて痛くて、情けなくて、死んでしまいたかった。死んでしまいそうだった。大きく見開いた瞳から、大粒の涙がこぼれていく。ひっ、と喉がひきつった音を立ててぼたぼたと涙が落ち、その瞬間、また下腹部が痛んで気持ちが悪くなる。自分の体ではないようだった。何一つ思い通りにならないし、内側から血を流し続けるだなんて、そんな恐ろしいことは信じられない。
 ふと。遠くで、誰かを呼ぶ声がした。こちらへ向かって走ってくる足取りは荒く、相当急いでいることがうかがい知れる。誰かの名前を呼びながら、その存在を探しまわっているのだろう。一秒ごとに焦りだけが重ねられていく声は悲痛に響き、それはマジャルには聞き覚えのあるものだった。泣きそうな声。赤く変わってしまった瞳をいっぱいに見開いて、涙を必死にこらえながら走り回っている姿が見えるようだった。
 息を吸い込む。腹に力を入れて名を呼ぼうとすれば、激痛が走って言葉にならない。マリア、と呼びたいのに。泣くことはない、焦ることはない。ここにいる、と教えてあげたいのに。なにをそんなに急いでいるのだろう。ここに、いるのに。ぜい、と喉をきしませながら呼吸をして、マジャルは歯を食いしばった。足音はどんどん近付いてくる。呼び声はもう泣き叫んでいるようで、返事がどこからもないのを不安がっていた。
 マジャルは動けない。守護する民に会いたくなかったからこそ、痕跡を消してここまで歩き、物置の扉も何事もなかったかのように閉じてしまっている。それでもマリアは、気がつくだろうか。足音と一緒に、声がぴたりと止まった。トン、と中を伺うノックの音が響く。それだけで、マジャルがなんの反応もしないうちに、火をつけられたようにマリアが飛び込んでくる。なにもしなかったのに。マリアは、辿りついたのだ。
 両手いっぱいに抱えた毛布や包帯、薬草の瓶は貴重で大切なものだろうに、マリアはそれを全部落としてかけて来た。そして丸くなって横たわるマジャルの傍にしゃがみこむと、投げ出されたままの手を強く握り締める。かみさま。感謝を乗せて零れたマリアの言葉が気に入らなくて、マジャルは思い切り眉を寄せる。そこで呼ぶのは俺だろう、と言ってやりたい。それすら叶わない疲弊した体と、痛みが嫌だった。
 せめてもの想いをこめて目を向ければ、マリアは怒りすら感じさせる瞳でマジャルを睨む。ギラギラと強い光を宿した目は、見なれない赤でもルビーのように美しかった。乙女が好む月明かりなどより、こちらの方がよほど好ましい。マリア、と呼べば赤色の瞳が不安げに揺れる。やや荒れた唇が、困惑したように動いた。
「エリザ、ベータ……? お前……なに、言って」
「は、誰それ」
 なんだその女の名前、と吐き捨てたマジャルに、いよいよマリアは目を見開いた。強く風の吹く音が響いて、物置小屋の中が明るくなる。真昼と見まごうばかりの明るさの中、闇から浮かびあげられたのは少年と少女だった。やや薄汚れた白のローブをはおった少年が、男めいた服をまとう少女の手を握って茫然としている。それが、なによりの事実であるのに。プロイセンは信じられない気持で、ハンガリーを見る。
 初経を迎えた少女の体は、その衝撃と痛みに耐えられていないようだった。細い手足は枯れ草の上に投げ出されたままで動かず、柔らかそうな生地で作られたズボンは内側から流れる血そのままに、生々しく汚れてしまっている。握った手は冷たく、白く、血の気を失ってしまっていた。顔色も、ひどく悪い。意識が朦朧としてもいるのだろう。時折焦点を失ってぶれる草色の瞳は、それでも一心に『マリア』を見ていた。
 ハンガリーの化身『エリザベータ』であることを完全に否定し、『マジャル』として少女はそこに横たわっていた。時折走る鋭い痛みに身をよじる様は、まだ未成熟な体であってもひどく艶めかしいのに。少女から大人の女性として育っていく体が、人としてのそれと同じように初経を迎えさせたというのに。心が、置き去りにされてしまったのだ。受け入れたくなどなかったのだろう。認めたくなど、なかったのだろう。
 これでエリザベータは完全に『女』で、ギルベルトとは違うものになる。その事実を、受け止めきれなかったのだろう。時代の流れだけが早く、国は、民はどんどん成長していく。豊かになって行く。比例して育っていく体は、幼い『マジャル』が知らなかった性別の真実を明らかにした。いつまでも、どこまでも、二人で肩を並べて駆け抜けていけると信じていた。エリザベータと名を変えた日に、少女はそう言って泣いた。
 人の身にしてしまえば、その日からは長い時が過ぎている。マジャルはエリザベータと呼ばれることに慣れ、マリアはギルベルトとして戦うことを受け入れた。それが当たり前の日常になるくらい、時間は流れていた。心をどこかに置き去りにしたことなど、自覚がなかったに違いない。知っていたら、ギルベルトは必ず気がついた。気がついてみせた。こんな風になどさせなかった。決して、こんな風には泣かさなかった。
 力の入らない手を握り締めて、ギルベルトはそれを額に押し当てる。祈りが、届かないことは知っていた。ぎゅぅ、と目を閉じて息を詰めることしかできないギルベルトに、声変わりを果たした柔らかな声が囁く。
「なあ、マリア。俺……どうしたのかな。やっぱ、死ぬのかな」
「死なない。……大丈夫、大丈夫だからな。俺が、傍に、居るから。痛いなら、薬も……持って来た、から」
「治んの? これ」
 問いかけるマジャルに、なんと答えれば良いのだろうか。たまらなくなって、ギルベルトは少女の体を抱きしめた。切ないほど柔らかな、少女の体はギルベルトの腕の中にすっぽりと収まってしまう。体が起こされたことで、下腹部に痛みが走ったのだろう。呻いてぐったりと身を預けてくる少女の髪を手で梳いて、ギルベルトは立ち上がった。こんな場所に寝かせておくわけにはいかない。ここは寒く、寝るには硬い。
 温かなベットで横になるのが一番だ。歩き出そうとするギルベルトの腕を、弱い力で少女がひく。そう簡単に抱えあげている訳でもないギルベルトは、それだけの動きですこしよろけ、恨めしそうな目を向ける。なんだよ、と呟けば、少女は嫌だ、と言った。人の場所に戻るのは嫌だ、と。それは守護する民に見つかることで己の性を突き付けられるのが嫌だったのかも知れないし、単にうるささを避けたのかも知れない。
 『国』が体調不良である姿をさらしてはならないと、本能的に思ったのかも知れない。けれど、どの理由でもギルベルトの取る行動は一緒だっただろう。分かった、と呟いたギルベルトは、大きく脚を開いて座り込んだ。脚の間に少女の体をそっと下ろし、背をくっつけさせて抱き寄せ、下腹部の前でゆるく手を組む。幸い、投げ出した毛布と薬はすぐ傍にあったので、引き寄せて少女にかけてやる。浅い呼吸を繰り返して苦しげに、それでいて不思議そうに問いかけの目を向けて来た少女に、ギルベルトは行かない、と苦笑する。嫌なら、連れていかない、と。
「いいよ。気が済むまでここに居てやるぜ……ああ、薬は飲めよ。水も持って来た。痛み、引くから」
「……用意が、いい」
 皮肉るでもなく呟けば、ギルベルトはわずかに気まずそうな顔つきになって視線を彷徨わせた。やがて投げ捨てたような響きで、ギルベルトは知ってた、と呟く。なんとなく、それで居なくなったんだろうなっていうのが分かったんだ、と。言外に告げたギルベルトに、少女は目を瞑って息を吐き出した。体中に込めてしまっていた力が、ゆるゆると抜けていく。ん、と呟いてギルベルトは頭を撫でてくる。褒めるようだった。
 頑張ったな、と言葉以上に告げる仕草だった。結ばれていた心が、解かれて行く。死ぬと思ったんだ、と呟くと、抱きしめる力が強くなる。肩に額を擦りつけながら、うん、と言った少年の声は泣いているようだった。汗ばんだ髪に頬を擦りつけながら、少女もまた泣きそうに顔を歪めて息を吐く。体はこんなに近くにあるのに、心も触れ合えるくらいだと言うのに。遠くに来てしまったと、それだけを強く思っていた。
「薬、飲めるか?」
「……なあ、ギルベルト」
 そっと問いかける声に、返されたのは不安定な声だった。マジャルではなく、それでいてエリザベータにもなりきれていない声。それを不思議に思うでもなく受け入れて、ギルベルトはうん、と柔らかに問い返す。なまえ、と少女の声が闇の中で囁く。呼んで、と。ギルベルトは目を閉じて、少女の体に回していた腕に力を込めた。息を吸い込む。
「エリザベータ」
 ふ、ふ、と。断続的にもれる息に乗せていびつに笑い、エリザベータは首だけ振り返ってギルベルトを見つめる。その瞳に映る、己の姿を確認する。ぐしゃぐしゃに乱れた髪は長く、その顔を見た誰もがもう性別を間違えないだろう。ああ、と諦めと受け入れの囁きが漏れた。
「……マジャルは、もうダメ?」
 首を傾げて悪戯っぽく尋ねれば、ギルベルトは怒るようにぎゅぅ、と眉を寄せる。ダメもなにも無いだろうが、と叱りつける声の響き。
「マジャルも、エリザベータも……ハンガリーも、全部『お前』だろ」
「いいの?」
「いいじゃねぇか、それくらい。でも」
 でも、これまではそれが許されても、これからは。この世界はきっと、その不安定さを許しはしないのだ。世界が揺れている。戦いに、成長に。繁栄に、衰退に。揺れている。『国』は、生き残る為に全力を尽くさなければいけないだろう。分かってるよ、とエリザベータは笑う。
「ありがとうね、ギルベルト」
「なんだよ。いきなり」
「ふふ。探しに来てくれたお礼、言ってなかったでしょう?」
 見つけてくれて嬉しかったよ、と無防備に体を預けて告げるエリザベータに、ギルベルトは恥ずかしそうに視線を彷徨わせて頷く。それから薬の小瓶を拾い上げてエリザベータに渡し、鎮痛剤、と言葉短く中身を説明した。本当に、用意が良いことだ。感謝しながら中身を飲み干し、エリザベータは大きく息を吸い込んでまぶたを閉じる。そろそろ起きているのが辛いくらいになってきていて、疲労と痛みで全身が重い。
 寝る、と言ったエリザベータにギルベルトは大きく溜息をついたものの、小言をいうつもりはないらしかった。ただ服を脱いでエリザベータに着せかけて来たので、本当は温かい場所で休んで欲しいのだろう。うとうと意識をまどろませるエリザベータの頭をゆっくり撫でながら、ギルベルトは大丈夫、と囁いた。傍に居てやるから、と。うん、と寝ぼけた声で返して、エリザベータは意識を手放した。もう、痛くはなかった。



 目を開いて、白いシーツを指先でなぞる。ぼーっとした頭でしばし考え、エリザベータはこれが『続き』ではなく、夢を見ていたのだと理解した。動きの鈍い思考を働かせながら上半身を起こし、大きく伸びをする。自然にあくびが口から出て行って、すると窓から差し込む光の角度で、もう昼に近いのだと理解した。それでもぼんやり頭が重たいのは、寝すぎなのか体調のせいなのか、どうにも判断がつかないことだ。
 懐かしいと思うのは鮮烈すぎた夢の名残が、胸に残る。もやもやした気持ちはそのまま不快感に直結しそうで、エリザベータは眉を寄せて考えるのを止めにした。まだすこし、頭がくらくらする。もう一度寝てしまうか起き上がるかを考えて、エリザベータは後者を選択した。なんのことはない。お腹が空いたからである。気持ち悪い、けれど空腹、でもなにも食べられそうにない、という矛盾を抱えながら立ち上がる。
 コットンワンピースの寝間着は、上に一枚羽織ってしまえば、人に合う予定のない日の家着に早変わりだ。なにか口にしたらちゃんと着替えよう、と思いながら階段を下りていくと、具合の悪い事にインターフォンが鳴る。エリザベータはなるべく音を立てないように玄関口まで行くと、覗き穴から外を見た。宅配便だったら申し訳ないが居留守を使わせてもらうし、仕事関連だったらすぐ部屋に戻って着替える為だ。
 訪問者は、そのどちらでもなかった。思わず扉を勢いよく開けると、ギルベルトは仰け反って驚き、それからすぐに顔を赤くした。
「ちょ、ま……お前っ! そ、そんな格好で出てく……っ! ああもうっ!」
 淡い水色のジャケットを脱ぎ、ギルベルトはそれをすぐにエリザベータに押し付けてくる。着ろ、とも言わないのは動揺しすぎているせいだろう。耳まで赤くなっているのにクスクスと笑いつつ、エリザベータはやや大きめのジャケットを素直に着てやった。話が進みそうにもないからである。袖口を折り返して手を出し、エリザベータはぽん、とギルベルトの肩を叩く。もう大丈夫よ、と告げてやれば涙に濡れた目があがる。
 泣くほど驚くことでもないだろうに。首を傾げるエリザベータに、ギルベルトは全身で脱力した息を吐く。
「……今起きたのか?」
 他に、どういうことも出来なかったのだろう。まだ若干視線を反らしながら問うギルベルトに、そんなにヘンかなぁ、と視線を自らの体に下ろしつつ、エリザベータは頷く。特に体のラインが見えてしまうこともなく、相手がギルベルトなら十分許容範囲だと思ったのだが。そう言えば昔から、女性の格好については妙に保守的だったことを思い出し、エリザベータは顔をあげた。そして横顔に指を伸ばし、頬を突っつく。
「なに、ギル。どきどきしちゃった?」
「お前……! なんでそういう……!」
 触んなっ、と指先を退けようとしたギルベルトの手が、ふと止まる。ん、と思いながら動かず見ていると、ギルベルトは深呼吸して気持ちを落ち着けた後、よし、と気合を入れてエリザベータの人差し指を掴んだ。目が合う。視線がそらされないまま、指がギルベルトの唇に引き寄せられた。ちゅ、と軽い音が響いたのは絶対にわざとだった。息をつめて手を取り返したエリザベータに、ギルベルトはにやにや笑う。
「なに、エリザ。どきどきしたのかよ」
「あ、あ……あんた最っ低! ばか! ホントばかっ!」
 わざと口調を真似て言うギルベルトに、エリザベータは噛みつかんばかりの勢いで叫ぶ。こういう時ばかりやけに落ち着いているエリザベータの幼馴染は、すこしばかり嬉しそうに目を細めて手を伸ばしてきた。大きな手が、頬をすべるように撫でる。思わず目をつぶってしまうと、耳元で笑みの滲む声が囁いた。
「顔が赤いぜ? エリザベータ・ヘーデルヴァーリ?」
 思わず。本当に思わずギルベルトに拳を叩きこんだエリザベータを、怒る者はその場に居なかった。肺の辺りを手で押さえながらしゃがみこみ、やたらと咳き込むギルベルトは涙目だった。その姿を見ることすらせず、エリザベータは真っ赤な頬を隠したがるように、両手を押し当てながら首をふる。
「やだ、もう……! って、そうだ。なにしに来たのよ、ギルベルト。約束してなかったわよね?」
「義理でいいから大丈夫? ごめんね? とか言えよ……」
「はいはい。それで?」
 どんなに殴られても踏まれても蹴られても、フライパンが歪もうとも、最大五分で復活を遂げる男のなにを心配しろというのか。こなれた笑顔で首を傾げてやると、ギルベルトは泣きそうな顔をして立ち上がった。殴られた個所を恨めしげに手でさすりながら、唇を尖らせる。
「俺が、お前に会いたいと思って。会いに来るのはそんなにヘンかよ」
「……一昨日、会ったばかりじゃないの」
 帰り道を送ってもらって、遅くなったから結局その日は泊まって行ったくらいなのに。それなのに、そんな、と目を瞬かせると、ギルベルトはますます拗ねたように唇を尖らせた。やだ、可愛い、と思って見つめるエリザベータに、ギルベルトはちえ、と言った。
「じゃあいい。帰る」
「え」
「……い、居て欲しいなら、居てやらないこともねぇぞ」
 無意識の呟きを聞いたギルベルトの意思転換は早かった。やや照れくさそうに胸を張ってふんぞり返るのを、エリザベータは目を瞬かせて見つめてしまう。数秒して、恥ずかしくなったのだろう。どうするんだよ、と催促してくるのに微笑んで、エリザベータは握手を求めるように手を差し出した。
「ギール。おいでー?」
 ほらほら、とひらひら手を泳がせながら呼びかけられて、ギルベルトの動きが凍る。止まる、というよりは凍りついたのは、予想外で衝撃が大きかったからだろう。ぎるぎる、と犬猫を呼びよせるような声で、エリザベータは楽しげに笑う。
「居て欲しい。だから」
 おいで、と吐息に乗せて囁かれた声に、ギルベルトは眩暈を感じているような表情で手を差し出す。ぽす、と重なった手は『お手』のそれにそっくりだ。なんだこの罰ゲーム、とどんよりした空気を背負いながらご機嫌のエリザベータに引かれて家の中に入り、扉を閉めて鍵をかけて、そこでギルベルトは違和感に気がつく。手が、やけに熱い。ちょっと待て、と目を向けると、振り返ったエリザベータは機嫌よく笑った。
「なぁに? どうしたの?」
「……どうしたも、こうしたも」
 分かった、と溜息をついてギルベルトが手のひらを押し当てた女性の額は、明らかに熱を持っていた。深々と息を吐き出して、ギルベルトは目を険しくする。
「体調。悪いのか?」
「べつに」
「起きたばっかりなんだろ? お前、朝はちゃんと起きるのにどうして……ああ、いい。もういい」
 問いを重ねるうちに焦れたのだろう。答えが返されるのを待たず、ギルベルトは繋いでいた手を振り払って、エリザベータを横抱きにした。そのまま足早に階段を上って行かれそうになって、エリザベータはギルベルトの顔を両手で押しのける。言葉よりなにより、制止にはそうした方が早かったからだ。案の定足を止めたギルベルトは、不機嫌そうな顔つきでエリザベータを睨みつける。寝ろ、と言葉が落とされた。
「いいから寝てろ。横になったら話を聞いてやる」
「嫌。私、お腹すいてるの。気持ち悪いの。居間に連れて行きなさい」
「……了解」
 矛盾したエリザベータの呟きに、ギルベルトは深々と息を吐き出して頷いた。溜息は呆れた風ではなく、なにかを理解して納得したようなものだった。なに、と首を傾げるエリザベータになんでも、とごまかして、ギルベルトは足早に居間に向かう。そして椅子ではなく柔らかなソファの上にエリザベータを下ろすと、リクエスト、と口にした。一々問わなくともそれだけで、意思の通じる相手だと言われているようで嬉しい。
 笑いながら紅茶、と言うと、お前それは食べ物じゃねぇだろ、と額を指で押されてしまう。クッションを取ってエリザベータに押しつけながら、ギルベルトはちょっとだけ待ってろ、と言ってキッチンに消えた。手持ちぶさたにクッションを抱きしめながら、エリザベータは見なれた居間をぼぅっと眺める。体調を問われてべつに、と返したものの、優れないのが事実だった。鼓動がやけに大きく、耳の奥で響いている。
 全身に血が流れているのを、巡っているのを感じる。気持ち、悪い。目をつよく閉じると頬に冷やりとしたものが押し付けられて、勢いよくまぶたをあげる。見れば小皿に苺が盛られていて、そういえば買っておいたな、と思いながらエリザベータはそれを両手で受け取った。
「紅茶」
「今淹れてる。いいから苺食べろ。それなら口に入れられるだろ?」
「……うん」
 昔からエリザベータは、食欲がない時に水分の多い果物を好んで食べる。中でも苺は好物で、出回っていない時期には悲しくも恋しく思うのが常だった。今はハウス栽培や空輸で、お値段に目をつぶりさえすれば一年中苺が手に入る。季節感を失ったことは悲しいが、それでも良い世界になったものだ。ヘタを取って口に運び、もぐもぐとそしゃくしながら想うエリザベータに、ギルベルトは安心したように笑みを緩める。
 ぽんぽんと頭を撫でた手は、すぐに離れていく。もうちょっと待ってろ、と言い残してまたキッチンへ消えて行った背中を、不思議にも見つめながらさびしく感じて、エリザベータは苺を飲み込んだ。甘い、甘いだけの苺。昔はもっと酸味が強くて、すっぱいと眉を寄せながらもたくさん食べた。季節がめぐって実を結ぶのを見るのが楽しかった。赤く色づいていくのをわくわく見守った。獣に食べられてしまって悲しかった。
 ジャムにして保存しておくのが楽しかった。そしてまた、実を結ぶのを待ったものだ。今は、そんな風には感じない。
「庭で育てようかなぁ……」
「じゃがいもを?」
「苺に決まってるでしょうが馬鹿」
 いつの間にか戻ってきていたギルベルトが、わくわくと問いかけてくるのを切って捨てる。自家製じゃがいも畑はもうあるでしょうが、と睨めば、ギルベルトはスプーンの入った皿を手に乗せながらえへんと胸を張る。
「俺様のじゃがいも! 今年も収穫は多そうだぜー!」
 ルートヴィヒとギルベルトが二人で住まう家のすぐ横に、じゃがいも畑はある。『おれさまの領土』と書かれた立て札が無造作に刺されているのを知っているエリザベータは、呆れと共によかったわね、と頷いてやった。ギルベルトは子供のように満面の笑みで頷いて、ソファの前にあるテーブルに持っていた皿を置いた。ちいさなスプーンの添えられた、すりりんごだった。皮も混じっていて、所々、鮮やかに赤い。
 見ているとすぐにガラス製のティーポットも運ばれてきて、カップとソーサーと共に横に置かれる。透き通るポットの中で、茶葉と一緒にりんごの皮が揺れていた。アップルティー、とぽつりと呟くエリザベータに、ギルベルトは満足げに頷く。
「好きだろ?」
 言いながらエリザベータの隣に座ったギルベルトの手には、マグカップがあった。インスタントだろう。中身はコーヒーだ。つまり紅茶もなにもかも、エリザベータの為だけに用意されたものなのである。アンタって、と呆れながら苺をもう一つ口に含み、エリザベータは脱力する。
「……ねえ、食べる? 苺」
「いらねぇ。いいからお前食べろよ」
「あんまり甘くなくておいしいよ? ほら」
 菓子については別としても、果物は甘すぎないのがギルベルトの好みだ。知っているからこそ告げた言葉に、そういうなら、とギルベルトは素直に口をあける。苺を放りこんでやると、口を動かしたギルベルトはすぐに眉を寄せた。
「……あんまり甘くないって、言わなかったか? エリザベータ」
「さっきよりは甘くない気がしたのよ。ごめんね?」
 にっこり笑って誤魔化してしまうと、ギルベルトはそれ以上なにも言わなかった。不審そうに眉を寄せてコーヒーを飲み、後は全部自分で食べろよ、と溜息をつく。多かったので食べさせた、と思われたらしい。警戒して見てくるのに笑い返して、エリザベータは苺を食べてしまう。お腹がすいていたのは本当なので、すりりんごもぱくぱく口にしていく。途中でギルベルトが注いでくれた紅茶は、やはり甘くなかった。
 ギルベルトのせいだ。スプーンを口にくわえたままで眉を寄せると、ぺし、と痛くもない力で頭を叩かれる。
「エリザ。行儀悪い」
「ローデリヒさんみたい。……ローデリヒさんの前で、こんなことしないけど。っていうかギルのせい」
「はぁ?」
 なにがだよ、と問われるのにスプーンを皿に投げ捨てるように置いて、エリザベータは身を屈める。かすめただけの唇は、苺よりリンゴより甘かった。
「ほら、やっぱり」
 ギルのせい、と。顔を真っ赤にして絶句するギルベルトに溜息をついて、エリザベータは呟いた。

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