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 当面の食欲を満たされた体が欲したのは、当たり前のような休息だった。血が胃に集まっているから貧血気味なのか、ただ単に眠くなったのか今一判断のつかない意識の揺れは、そう心地いいものではない。意識が霞みながらぐらぐらと揺れるのに、エリザベータは軽く眉を寄せて唇を結ぶ。眠たいというか、こうなってくると半ば気持ちの悪さすら感じるのだった。舌打ちしたい気分で、クッションを強く抱きしめる。
 ソファに座って無言になるエリザベータにゆるく視線をやりながら、食器を洗い終えて濡れた手のギルベルトが歩み寄ってくる。生成り色したコットンエプロンで手を拭きながら心配そうに顔を曇らせる姿に、エリザベータは内心、お前は私の妻か、と突っ込みたくなった。それも多分、古女房ではなく新妻の部類だ。あ、いいかも知れない。そう思って口元を綻ばせたエリザベータに、ギルベルトは安心した風に笑う。
 力の抜けたへらりとした笑みに、エリザベータは微笑みを保ったまま内心で身悶えた。可愛い。なんだそれ、ものすごく可愛い。そんな無防備に心を預けてしまうような笑い方を、ごく普通にしないで欲しかった。嬉しさと愛おしさに、まだ慣れない。胸元をそっと押さえるエリザベータの指先に首を傾げながら、ギルベルトはエプロンを脱いで椅子の背もたれに適当にひっかけ、ソファに歩み寄って腰を下ろしてしまう。
 ごく自然に、エリザベータの隣に。こぶし一つ分の距離だけがある、遠くもなく、近すぎもしない距離感。なんだか涙ぐんできた己を自覚しながらも、エリザベータはそっとギルベルトに視線をやった。やっぱり体調がおかしくなったのか、と呆れと困惑と心配が、ちょうど等分になった表情でギルベルトはエリザベータを見ている。おい、と無骨に呼びかける声に答えようと口を開きかけて、エリザベータは突然気がついた。
 この人は、そういえば私のものだ。距離が近いとか、そういえば家の中で二人きりだとか、ごく自然に食事の世話と後片付けまでしてもらったとか、そういうことは全部どこかに吹き飛んでしまって後回しの状態で、エリザベータは息苦しい程に突然、それに気がつき、改めて自覚した。想いを受け取って、受け入れて、受け取ってもらって、受け入れてもらっている。それはつまり、目の前にあるひとは己のものなのだ。
 指先がじん、と甘くしびれる。胸がいっぱいになって温かく甘く切なく、鼻の奥が痛くなった。目を軽く見開いて動かなくなったエリザベータの額に、ぺたりと手がくっつけられる。熱を測る仕草に、エリザベータは大きく息を吸い込んだ。腕を取って額から剥がし、無防備な腕の中に体を滑り込ませる。ぎょっとした様子にかまわず抱きついて胸いっぱいに息を吸い込めば、ほのかに甘く爽やかな香水のにおいがあった。
 耐えきれない。無意識に喉を鳴らして肩を押しやれば、ギルベルトの体はあっけなく背からソファに沈んだ。肩にそれぞれ両手を添えながら見つめ合う、エリザベータの瞳には渇望と喜びがあり、ギルベルトの瞳には焦りと困惑があった。無意識に顔を寄せて目尻に口付けを送れば、ギルベルトの頬が朱に染まる。可愛い、とうっとり目を細めるエリザベータに、ギルベルトはややひきつった表情で待て、と言った。
「よし分かった。落ち着けエリザ。そして待て。いいから待て。あと気がつけ。なんか違う」
「大丈夫よ、ギル。ちゃんと優しくしてあげるから、ね?」
「……キスしてやるから言うこと聞けよー」
 甘く困り切ってため息交じりに言う台詞に、エリザベータは従ってやるつもりなどなかった。なぜならその台詞をギルベルトは言い慣れていたし、エリザベータには聞き覚えがあったからだ。言われ慣れている訳ではないのは、かつてその言葉を向けられたことがなかったからだ。弟をやんわり叱りつけて言うことを聞かせる時の、常套句なのだった。むっと眉を寄せるエリザベータの後頭部に、ぽんと手が触れる。
 重力に沿って引き寄せられるのに逆らわず、エリザベータはギルベルトと唇を重ねた。触れて、すぐ離れて、息を吸って重ねる。くすくすと笑いながら触れる唇に、エリザベータは悔しく眉を寄せた。大切で、大切で仕方がない相手への触れ方。熱ではない、ぬくもりを伝える触れ合いに、心が柔らかく緩んでいく。がくー、と脱力してギルベルトの首筋に頭を乗せてもたれかかり、エリザベータは深々と溜息をついた。
「覚えて起きなさいよ……次は見逃してあげないんだから」
「……これで見逃すくらい体調悪いことにいい加減気がつけよ、お前は」
 あとなんか根本的な疑問に気がついたりしないのか、と問われて、エリザベータはきっぱりと言い放った。無い、と。凛々しくさえ響いた断言に、ギルベルトは諦め気味にそうか、と頷いた。ぽんぽん、と頭を撫でていた大きな手が、ゆっくりと肩に降りてくる。その手が背中を辿って腰に触れても、ゆるく抱きしめてきても、エリザベータは心地よさに息を吐いただけだった。ひどく穏やかで、そして懐かしい気分だった。
 心音が一つに重なってしまう近くで、眠るのが幸せだった遠い日が戻ってくる。おかえり、と無意識に呟いたエリザベータに、ギルベルトはただいま、と返す。二人の気持ちが通じ合っているわけではなくとも、理解しないままでも、そう受け答えてくれることが嬉しい。ぼんやり意識をまどろませながら、髪を梳く指の感触を感じて、エリザベータは泣きだしたい気持ちになった。優しさが嬉しい。けれど、奪いたい。
 『元』の性質がそうさせるのか、エリザベータの想いは激しいものだ。それは十分自覚しているし、ギルベルトも理解しているのだろう。奪いたいと思い、食らいたいとさえ感じる衝動は、女性としての心を疲弊させ、消耗もさせる。はあぁ、と思い切り深く息を吐けば、全部理解した動きでギルベルトの指先が額を撫でてくる。乱れた前髪を耳にかける、それだけの仕草。お互いに想っていることは、きっと同じなのだ。
 恐らくギルベルトは、エリザベータと逆なのだ。奪いたいと思っているのと同じ強さで、ギルベルトは目隠しをされるような、閉ざされたい想いを持て余している。守りたい、慈しみたい、ひたすらに捧げる愛は、修道会のそれから来るもの。溢れて尽きることのない想いが、心に満ちてしまえば苦しくもあるだろう。互いになぜそんなに、かみ合わないのかが理解できない。どうしたらいいのかも、今一つ不明確だった。
 心の底から吐き出される溜息が、重なる。なんか疲れた、とエリザベータが呟けば、ギルベルトは頷くことで同意を示す。それになにか返そうとして、また朝からの不調を感じてしまったエリザベータの眉が寄る。ぽん、とエリザベータの腰に手を置きながら、ギルベルトが言った。
「寝れば?」
 それが一番、と言いたげな声だった。胸に乗せていた顔を動かさず視線をあげて、エリザベータはちょっと賛成できない風に目を細める。眠くない訳ではない。寝ることには賛成だ。しかしギルベルトの提案は、移動を前提としていない。
「ここで?」
 改めて問えば、ギルベルトは当然とばかり頷いてみせる。抱きしめる腕に力が込められたので、離すつもりもないらしかった。取り立てベットで眠りたい理由もないのだが、ソファでギルベルトを下敷きに休む理由も見つからない。なんで、と諦めながらも問いかけると、逆に不思議そうに瞬きをされた。だってお前、と確認の響きしか持たない声が告げる。
「こういう時は、ベットじゃない所のが落ち着いて休めるだろ」
 体じゃなくて、心が。そんな、当たり前の秘密を当たり前のこととして告げるギルベルトに、エリザベータは多分これからもずっと敵わない。どうして分かるのかと言えば、それは一番初めを知られているからだ。ふわふわのベット。清潔なシーツ。守られた場所。安らげる部屋で、温かく包まれたくない時もあるのだ。それを知っていて、許してくれて、付き合ってくれるのがギルベルトだった。最初から。そして、今も。
 愛を告げる言葉では、この想いに届かない。唇と頬にそれぞれおやすみのキスをして、エリザベータはギルベルトの胸を枕代わりにして頭を乗せる。凹凸がないので首が痛くなりそうだが、それに対しての文句は言うまい。仕方がないからそれは諦めよう、と思いながら目を閉じると、優しく髪が梳かれて行く。多分、そうして触れるのが好きなのだろう。髪を綺麗に整えておいてよかった、とエリザベータは思った。
 すぐ傍でされたあくびに、空気が揺れる。そんなことが嬉しくて笑うと、ギルベルトは誤魔化すように口を開いた。
「俺も寝るぜー。昨日、夜更かししてたら楽しすぎてよー……」
「日記? ブログ?」
「いや、フルート」
 久しぶりに何曲か練習してたら時計の針が恐ろしかったぜ、と呟くギルベルトに馬鹿、と笑ってエリザベータは意識をゆるく融かして行く。いくつか言葉を交わした気もするのだが、それはもう夢の入り口に入りかかった会話でしかなく。やがて、髪を撫でる手もソファに落ちた。



 激痛と吐き気を伴う痛みは、十分予想内だった。下腹部を手で押さえながらよろよろとソファから立ち上がり、壁に手をついてにぶい動きでトイレへと向かう。基本的にひとり暮らしの家だから、他の者に気兼ねなく、そういう用意を置いておけるのはありがたい。汚れた下着を軽くすすいでから洗濯かごに放りこみ、ナプキンを当てて居間に戻ってくると、当たり前の顔でコップに水がくまれ、机の上に置いてあった。
 薬草から白い錠剤へ。科学の進歩と共に姿を変えた鎮痛剤は、ドイツ人らしく成分表と諸注意を熟読したのちに手渡される。溜息をつきながら薬を受け取って倒れるようにソファに座り込み、コップを口元に持って行って、漂う消毒の匂いに短く息を吸い込んだ。気持ち悪い。耐えられない。この死に絶えた水を口に含んだら、それだけで吐きそうだった。無理、と首を振るエリザベータの手から、コップが取り上げられる。
 ちょっと待ってろ、と呟きを残して、ギルベルトは足早にキッチンに向かった。すぐ戻ってきた手に握られていたのは、常温のペットボトル。組み上げた水をそのままボトリングしたミネラルウォーターなら、今の状態でも口にできるだろう。キャップをひねって開けた状態で手渡され、エリザベータは今度は素直に口に水を含み、錠剤と共に飲み越した。それでも、二口が限界。もういいと首を振ると、手から重みが消える。
 エリザベータの手からペットボトルを取り上げてふたをしめ、ギルベルトはそれを手の届きやすい、ソファの前の机に置いた。それから無言でエリザベータの隣に腰を下ろし、痛みと不快感で動けない女性の体を抱き寄せる。背中が全部ギルベルトにくっつくように抱き寄せられて、エリザベータは遠慮なく体を預けてしまった。目を閉じて息を吐くと、それだけですこし楽になる。目から入る情報は、かなり多く負担だ。
 薬が痛みを取り払ってくれるまで、まだ時間がかかる。時折、鋭く痛むのを持て余していると、ギルベルトの手のひらが下腹部に乗せられた。さすがに身じろぎをするエリザベータを宥めるように、大きな手のひらは平手のまま押し当てられて、動かない。布を超えてじわじわ染み込んでくる体温は熱い程で、けれど心地いいものだった。ふ、と辛く息を吐き出しながらも、エリザベータはゆるゆると瞼を持ち上げる。
「……あったかい」
 治療することを『手当をする』とも、言う。手を患部に当てること。もっとも原始的な治療方法を、ギルベルトは知っているのだった。痛みがなくなった訳ではない。耐えがたいものから、なんとか耐えられるくらいにしかならないが、それでも十分だった。あとは薬が効いてくるのを待てばいい。体から力を抜き、安堵した息を吐くエリザベータにギルベルトの忍び笑いが響く。なに、と睨むと意味ありげに赤い瞳が細まった。
「いいや? ……ただ、ローデリヒの家に居た時はどうしてたのかと思ってよ」
 教えるつもりはないのだろう。上手く誤魔化してしまったそれを、体力と精神的な問題で追及する気にならず、エリザベータはぐったりしながら教えてやった。案外過ごしやすかったわ、と。
「最初の何回かは、あっちも慣れないし驚いてたけど……ローデリヒさんは、距離の測り方が上手だから。傍に居て欲しい気持ちの時は、なんとなく同じ部屋に居てくれるし、そうじゃなければ居なかったし、声が聞きたいときは話しかけてくれるし、静かにして欲しい時は本を読んでいてくれたり、そーっとピアノを弾いてくれたりもしたわ。それで、『食べられるものはなんですか? エリザベータ』って聞いてくれるの」
 なにが食べたいですか、と聞かないのは『食べたい』気持ちにもなれないのだと、ローデリヒが見抜いていてくれたからだろう。女性の扱いに長けていたり、慣れていたりする印象はなかったのだが、それでもローデリヒは全てに対して洗練されていて、スマートだった。へぇ、と感心した呟きがギルベルトの口から零れると、エリザベータは誇らしい気持ちになって言葉を続けていく。
「フェリちゃんもそういうの上手だったなぁ……。気がきいてる、っていうのかな。全部さりげないの。さりげないんだけど、なにも足りないことがない状態にいつの間にかしてくれてるのよ。水とか、薬とか、毛布とか」
 だろうなぁ、とギルベルトは頷いた。イタリア男云々は置いておいても、こと女性に関しての細やかな気遣いにおいて、フェリシアーノが抜けている所を見たことがないからである。ローデリヒとはタイプの違うスマートさだが、それでも二人は似た所があるのだろう。さすがだ、としきりに納得するギルベルトをよそに、思い出し笑いでエリザベータの肩が揺れる。
「ロヴィちゃんは一生懸命だったなぁ……。いつまで経ってもずーっとオロオロしてくれてね? 申し訳なかったっていうか、可愛かったっていうか。俺がついてるからなっ! って手を握ってくれたり、トマトいーっぱいの料理を作ってくれたり」
 ロヴィーノが進んで厨房に立つのは、エリザベータを心配してか、さもなくばよほど気の向いた時だけである。おかげでアントーニョにはずいぶん恨めしい視線で見られたこともあるが、そのたびにローデリヒとフェリシアーノに叱りつけられてしょげていた。アントーニョは、なぜかやけにそう言った時の女性の扱いに長けていたので、君子危うきに近寄らず、とばかり妙に距離を保たれていたのが印象的なのだが。
 静かなこともあった。騒がしいこともあった。一人きりで耐えることだけが、なかった。穏やかな空気がいつも傍にあって、エリザベータを包んで守っていてくれた。だから結局、エリザベータがそれから逃げたのは、一番初めの数時間だけなのだった。後は全てギルベルトが傍にいてくれて、完全に袂を別っていた時期はローデリヒたちが居てくれて、そして今はまた元に戻っている。すこし、痛みが和らいできた。
 思考も、現実へと戻ってくる。ギルベルト、と呼ぶとすぐに返事が返ってきた。
「うん?」
「私、こども産めるのかしら」
 俺に聞かないでくださいお願いします、という気配が背からひしひしと伝わってくる。ある意味ギルベルトだから聞いたのだが、まあ、正論だろう。困った、と呟いて笑うとちょうどつむじのある辺りに顎が乗せられ、ぐりぐり体重をかけられた。
「知らねぇよ……。生理は来てんだから、機能は備わってんじゃねぇの? 違うのか?」
「だって、私は『国』よ?」
 人と同じ体を持ちながらも、それは全く別のいきものである。まず時の流れが老いとして現れない。それだけでも、命のサイクルから外れている存在であるのに。難しい顔つきで沈黙したギルベルトに、エリザベータはとつとつと告げていく。
「国の条件は通常、三つ。一つ、土地があること。二つ、人が居ること。三つ、統治能力がそこにあること。それだけ備わっていれば国になるし、『国』が現れる可能性としては十分。けど、私に命が宿ったとして、それらの条件は満たせない」
 『国』は当たり前のように世襲制ではない。その血を受け継ぐ者が現れたとして、もしもそれが『国』だとしたら、起きる現象はすでにプロイセンが体現済みだ。そうするといよいよプロイセン、ギルベルトの存在は規格外だが、人工物に非公認の『国』が現れたシーランドの例もあるので、いくつかの規格外のうち一つではあるのだろう。
「……私、なんの為にこのサイクルを組み込まれてるのかしら」
 女性であることを自覚させる為なら、もう十分な筈だ。性を自覚するのみならず、女性として男性を求めたことも、満たされたこともあるのである。命だけが宿らない。そこに仕組みも、器官も、存在しているのに。ギルベルトの手の上から手のひらを重ねて、エリザベータはぎゅぅ、と力を込めた。いらない、とは思わない。なくていい、とも、感じない。漠然とした不安や怖さだけが漂っていて、落ち着かないだけだった。
 なにが宿るのか。なにを宿すのか。そもそも、それが可能か不可能かも、知らず。月の満ち欠けに合わせて、体から血が流れていく。すぅ、と痛みが遠のいた。薬が効き始めたのだった。よし、これで動ける、と息を吐きながら立ち上がろうとしたエリザベータを、ギルベルトの腕がその場に繋ぎとめた。問いかけの目を向けると、ギルベルトはすこし言葉に迷うように視線を彷徨わせ、それから瞳を向けて口を開く。
「もしも」
 うん、とあいづちを打ちながら、エリザベータはギルベルトの目を見ていた。
「……こどもが出来たら、育てような」
 視線はそらされることなく、まっすぐに、まっすぐに向けられていて。心までまっすぐに届けられた言葉に、嘘偽りなど見つからなかった。息を吸う唇が震える。泣きそうな感情の名前は、なんだろう。
「可能性があるなら、考えとこうぜ」
 顔を手で覆ってしまったエリザベータの頭を優しく撫でて、ギルベルトは言っていく。
「こども。欲しいとか欲しくないとか、そういうのじゃなくてよ。なんか……その、別に、俺にはそういうの負担でもなんでもねぇし、どっちかって言うと負担かかるのお前の体だし、不安に思うことも……お前の方が、ずっと、ずっと多いだろうし、さ。傷つけたいわけじゃねぇから」
 言葉が、なにも見つからない。涙になって零れることもしないまま、胸の中にどんどん満ちていく。喜び。大きすぎる喜びで、エリザベータは思う。もしも、と。もしもこの体を与えられたことに、ひとつでも、意味があったのだとしたら。それはきっと、この嬉しさの為だった。痛くてわずらわしいばかりでも、それが訪れることを本気で嫌だと思ったことがなかったのは。最初に、ギルベルトが傍で救ってくれたからだった。
「ギル」
「んー?」
「……今日、会いに来てくれて、ありがとうね」
 どういたしまして、となんでもないことのように笑うギルベルトに、エリザベータはにっこりと微笑んだ。なにかしら嫌な予感を覚えたのだろう。ちょっと待て、と引き気味に呟くギルベルトに、もちろんエリザベータは遠慮などしなかった。そうね、とカレンダーに目をやりながら、まあ一週間後くらいかしら、と言い放つ。
「はじめてですもの、三日くらいでいいわ。休暇、取ってきてね?」
「……エリザ」
「なにかあっても責任は取ってくれるんでしょう?」
 痛みが消えているとはいえ身動きはとりにくいが、幸い、ソファは狭かった。二人で座り込むようにかけているのだから、当然逃げ場などない。追い詰められて、ギルベルトはちょっと泣きそうな顔つきになった。
「本気で?」
「もちろん」
「そういうことしたくないわけじゃねぇけど、さ。……しなくても、俺は、お前の傍に居るぞ?」
 所有権は、エリザベータの手の中にある。言外にそう告げるギルベルトに、エリザベータは仕方なく、もうすこしだけ猶予をあげることにした。腕を持ち上げて頬を包み込めば、意図をたがえることなく、唇が降りてくる。温かい唇は、まあもうすこし待ってあげてもいいかな、とエリザベータに思わせるには十分すぎるものだった。



 ただいま、と力なく響いた兄の声に、ルートヴィヒは読んでいた雑誌から顔をあげる。玄関の開く音で気がつけなかったのを不覚に思いながら立ち上がり、ルートヴィヒはなんだか疲れきっているギルベルトを出迎えた。軽くハグして体を離すと、珍しい事に、ギルベルトの頭が肩に懐いてくる。ぐりぐり額を押しつけられるのにくすぐったい、と抗議しながらもされるがままになっていると、ゆっくり視線が持ち上げられた。
「なあ、ルート」
「なんだ?」
 今日、ギルベルトは一日、家を空けていた。外はもうとっぷり暮れていて、夕食も終わっているような時間だ。ギルベルトがエリザベータの家に出かけてくる、と言った時点である程度予想のついた帰宅時間ではあるので文句は言わず、ルートヴィヒはやけに甘えたになっている兄の姿に首を傾げる。疲れているのだろうか、と思うが、それくらいで弟に懐くような人ではない。兄さん、と呼びかけると、瞳が揺れた。
「……今日は兄さんと一緒に寝ような、ルート」
 お前は俺と一緒に寝てもなにもしないもんな、と言いながら抱きついてくるのに若干視線を泳がせながらも頷いて、ルートヴィヒはギルベルトの背中をぽんぽん、と叩いてやった。なんとなく、なんとなく疲れている理由を把握して面白くないが、まあ分かっていたことだ。兄さん、と重々しく息を吐き出しながら、ルートヴィヒは一応それを問いかけた。確認は非常に重要だからである。
「なにか、されてきたのか?」
「……特になにも」
 今日は俺の体はキレイだぜー、となぜかしょげた声で言うギルベルトの体からは、朝出かけて行った時と変わらぬ、甘く爽やかな香水の香りがした。お風呂上がりにはラベンダーの香りに包まれるせいで、ギルベルトのベットは常にほのかに花畑めいている。とりあえずシャワーを浴びて着替えてくるといい、と促す声に頷いて、ギルベルトは大きく伸びをして居間を出て行った。

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