どこまでも続いていくような石畳の廊下は、吹き抜けていく風を素直に通していた。母屋から聖堂へ渡る目的だけで作られた渡り廊下だからか、石柱はごく単純な彫りこみ装飾しかされておらず、だからこそ優しい色合いの白さで目を楽しませる。すこし、砂埃で汚れてしまっていた。立ち止まって指先で撫で、マリアはごくわずかに口元を緩めた。今日は風がよく吹く日だ。空は眩しいほど青く、雲はひどく遠かった。
生えたばかりの萌黄色の草に、濃く深い影が落ちている。木の上では小鳥が鳴き、なにも音のしない空間によく響いた。強く、風が吹く。ばたばたと音を立ててたなびくマントを手で押さえ、マリアは溜息をついた。頭まですっぽり覆うローブをかぶりなおし、乱れて出てしまった銀髪をしまいなおす。マリアの衣服は布がたっぷりと使われていて、足元や指先まで覆う長さだ。露出は顔と、そして手のひらだけになる。
それでも今日は手袋をしていないので、温かな空気をいつもより多く、肌で感じ取れた。太陽の位置は真上から、わずかに移動したようだった。急ぐ理由もないのにその事実に気がせいてしまって、顔の前に手をかざして日差しを避けながら苦笑する。一日の、ほんの数時間が終わったからとて、何ということもないのに。『国』としての時間は無限に近く、だからこそ限りある世界にながれる時は、今だけ遠かった。
人が居ないからだ。戦場も近くないから、風が悲鳴や血のにおいを運んでくることもない。聖堂に続くこの廊下は人の住む家とも離れているから、有限を駆け抜けるように生きる者たちの気配がひどく遠い。トン、と靴を石畳に鳴らして歩き、マリアは弾む気持ちに唇を和ませる。分かっている、これが逃げだということくらい。知っている、こうして逃げることが無駄な抵抗だということくらい。逃げ続けられないことくらい。
それでも、それでも。それでも。一歩を踏み出すごとに聖域は近くなり、混乱を極めようとする人の世界が遠くなる。人の意思によって生まれた修道会の化身がそれから遠ざかりたがるなど、愚の骨頂だと囁く心の声を聞きながら。それでも逃げたくて、今だけは目を閉じていたくて。トントン、トン、と踊るように足を踏み出しながらわずかに汚れた石畳の廊下を渡りきり、古臭い木と鉄によって作られた扉に手をかける。
きしむ音を立てながらも、施錠されていない扉はあっけなく開いた。足を踏み入れると、見なれた光景が飛び込んでくる。擦り切れた薄い、赤い布が引かれた床。左右一列づつ、等間隔に置かれた横長の椅子は三人がけ。天井は高く高く、組み合わされた複雑な形の木が目に楽しい。最奥には大きな十字架が置かれ、光を得る為につくられたいくつもの窓から差し込むきらめきを受けて、鈍くも気高く輝いている。
窓の複雑な色硝子は、物語の一幕を切り取って描く役目も果たしていた。なんの為にか揺れる光は七色を帯び、擦り切れた赤い布をぼんやりと彩っている。空気がややカビ臭いのは、換気をきちんと行わなかったせいだろう。軽く眉を寄せながらも胸いっぱいに息を吸い込んで、マリアは椅子の間を歩いて行く。十字架の前に進み出て膝を折り、両手を組み合わせて目を閉じる。かみさま、と胸の中で呟いた。
そこにいらっしゃいますか。そこで、私を見ていてくださるのでしょうか。何回も、何十回も何百回も、何千回も何万回も繰り返した問いかけに、答えるのは遠く吹く風の音だけで。それでも満ちた気持ちで目を開き、マリアはゆっくりと立ち上がった。十字架を捧げ見るように目を細めて、静寂を聞く。呼吸の為に薄く開いた唇がわななき、きゅぅ、と閉じられる。握りしめられた手も震えていて、感情が胸から零れていく。
愛おしい、と声がする。愛している、と心が囁く。荒れ狂う感情は嗚咽に代わり、頬を伝う涙となってこぼれおちていく。震える体で自らを支えることができなくなり、マリアはその場に膝を折って倒れこんだ。愛しているのに。こんなにも、こんなにも愛して、ひたすらにそれだけなのに。人を守りたいだけなのに。だけだったのに。歯を食いしばって震える体に、別の意思が宿り始めている。時代が、人が、変化する。
守護を絶えなく祈るのと同じ強さで、殺せ、と声がする。守る為に殺せ、生き残る為に奪え。もはや平穏に生きることは叶わず、続けていく為には剣を取るしかないのだと。嗚咽と共に息も押し殺しながら、マリアは十字架を睨みつけるようにして顔をあげる。頬を転がって行く涙の雫が、擦り切れた布を赤黒く染めた。前髪まで全て覆い隠していたフードが外れ、柔らかく肩に落ちる。現れたのは銀嶺の髪に赤い瞳。
流れる血の色は、人への守護とは真逆に進む存在に下された罰のようだった。かつて晴れ渡った空の色をしていた瞳が、夕日を写し取った色彩に代わった日の想いは絶対に忘れないに違いない。かみさま、と唇が救いと糾弾を込めて主の名を呼ぶ。答える響きは、やはりなかった。ローブから伸びた白く細い腕が振りかぶられ、握りこぶしが床に叩きつけられる。骨まで痛みが走るような、強く悲しい嘆きだった。
やがて、一人きりの聖堂に静寂が戻ってくる。乱れ舞う光の中で、マリアはゆっくりと立ち上がった。顔をさらしているだけで、その立ち姿は少年めいたしなやかさをあらわにする。肩から背を流れて揺れるマントは、力なく朽ち果てた翼でもあるようだった。空から叩き落とされて地を歩く、その痛みを知る鳥のように、少年はぼんやりと天を見つめていた。ごう、と逆巻いて吹く風が遠くで鳴っていた。窓が大きく揺れる。
怯えるように揺れた光の帯を泣き出しそうに見つめてから、マリアは目を閉じておおきく息を吸い込んだ。反らされた喉の白さが、無防備にさらされる。ゆるゆると持ち上げられた瞼の下に、宿っていたのは悲壮でありながらも慈母の愛を感じさせる柔らかなひかり。この世の愛を歌う、ただそれだけの。ぱち、と瞬きをしてうっとりと微笑み、空気を抱いたマントごと両腕を上に持ち上げる。抱きしめようとするようだった。
ばさ、と音がしてマントが揺れる。腕を広げて背をわずかに反らし、その場でくるりとターンした。指先は五指がぴんと揃えられていて、それだけで美しい。爪先だけで立った足は、かすかな音すら立てずに床を踏みきった。戦勝祈願の舞いであり、神に捧ぐ清らかな想いの舞いだった。音楽も歌声すらなく、無音の中に降り注ぐ、七色の光だけが満ちている。歯を食いしばって泣きながら、マリアはくるくると舞い続けた。
かみさま、かみさま。かみさま。何度も何度も呼ぶそれが、十字架の先に居る誰かとも思えずに。振りほどこうとしても浮かんでくる、たった一人の存在を強く意識しながら、無音の中で舞いを奉納し続けた。救いは求めない。誰にも。どこにも。己にさえ、救われたいとは思わない。これから進む血染めの道を行く為の、これは決意であり、決別でしかないのだから。泣きたくない。泣かない強さが欲しい。どうすれば。
停止した体に、マントがまとわりついてくる。その布を引きよせて体を包むように立ちつくし、マリアは涙でぐしゃぐしゃになった顔を手で隠した。泣きむし、と親愛を滲ませたからかいが耳の奥に響く。マリアは泣きむしだから、それで目が赤くなっちゃったんだ、と。分かりやすい嘘をついて、慰めてくれた柔らかな声。ひくっ、と喉を震わせてしゃくりあげ、マリアは『かみさま』ではなくその名を呼んだ。マジャル。マジャル。
ごう、と風が吹く。求める声は、響かなかった。
玄関先に花が咲いたようだった、と。言葉にすれば笑われてしまうような感想を真剣に抱きながら、ルートヴィヒはしげしげと来訪者を見つめてしまった。鮮やかなオレンジ色のワンピースは清楚な膝丈の長さで、裾は精緻な花模様のレースが縫い付けられている。素材は麻か木綿だろうか。柔らかそうな生地は高級なそれではなく、どこかさっぱりとしていて清潔感があり、好ましい。可愛らしい印象の装いだった。
それなのに、思わず見とれてしまうのは綺麗だと思うからだ。甘くふわふわした可愛らしさを持ちながらも、それを着る人はどこか眩く美しい。沈黙して動かないルートヴィヒを、妙だと思ったのだろう。そぅっと首を傾げたエリザベータの手が、ひらひらと眼前で振られる。おーい、と意識を戻すように呼びかけられて正気に返り、ルートヴィヒは思わず息をつめて視線を逸らしてしまった。綺麗なひとだとは、知っていた。
けれど、こんなに美しいひとだとは知らなかった。しどろもどろになりながら、いらっしゃい、と告げるルートヴィヒの真意を分からずとも、歓迎されていないわけではないというので良しとしたのだろう。ふふ、とかすかに空気を揺らして笑って、エリザベータはスカートの裾をつまみ上げ、ひどく優雅に一礼した。おじゃまします。花色の唇からこぼれおちる言葉すら別物のように耳に届き、ルートヴィヒは頭を抱えた。
「……恋をすると、女性は綺麗になると言うが。本当だったのか……!」
俗説の証明を目の当たりにして呻くルートヴィヒに首を傾げながら玄関をくぐり、扉を閉めてエリザベータは立ち止まった。中、入っていいの、と一応確認すると、ルートヴィヒはようやく客人を放って悩んでいるわけにはいかない、ということに気がついたらしい。改めて慌てた仕草で頷くと、軽くエスコートするようにエリザベータを居間へと連れて行った。女性が訪問した目的、約束の主は居間のソファに居るからだった。
「ギルベルト? 来てやったわよ……あら?」
ひょい、と顔だけ先に出して居間をぐるりと見回し、エリザベータはソファで目を留めて声をあげた。それが別段、怒っている風でもなかったから安心して胸を撫でおろし、ルートヴィヒは声をひそめて説明する。
「朝から、あまり体調が良くないようで……十分前までは、起きてはいたんだが」
だんだん眠そうになって、そのまま、と告げたルートヴィヒに頷きだけを返して、エリザベータは無言でギルベルトを見つめていた。大きめのソファに横になって眠るギルベルトは、枕の代わりに四角いクッションを頭の下に敷いている。胸の半ばから足先までは薄いタオルケットがかけられていて、規則正しい呼吸が繰り返されるたび、ごくわずかに揺れ動く。やわらかな影が落ちる部屋の中でも、顔色は悪かった。
二人は居間の出入り口に立ちつくし、どちらともなく息を吐く。はじめに声を取り戻したのは、エリザベータだった。
「どうして、良くならないのかしらね……体調」
ギルベルトの体調は、決して悪い訳ではない。病院に行く程でもないし、病気とするくらいにもならない。ただ、健康とは遠いだけで。一日の多くを寝て過ごす日も珍しくはなく、顔色が良い日は稀だった。元々恰幅がいい訳でもない体は、まだ筋肉のしなやかさを持ってはいるが、それでも最盛期と比べてずいぶんと細い。すこし頼りないと感じる、その一歩手前で踏みとどまっているのは、鍛錬のたまものだろう。
難しい顔つきでこぼすエリザベータに、ルートヴィヒは真剣な表情で口を開いた。
「ちょっとサボってるだけだから、気にすることないぜ、と。兄さんは言っていたのだが」
「……サボってるって、なにを。健康を? 元気を?」
信じられないくらい馬鹿な発言なんだけど、と呆れかえるエリザベータに、男の弟は心底同感だと言わんばかりに頷いた。それが本気なのだとしても、ごまかしているつもりなのだとしても、頭が良いものとは思えない。どちらともなく脱力の息を吐き出して、二人はギルベルトの心配を、とりあえず置いておくことにした。飲み物を作ってくる、とキッチンへ向かうルートヴィヒを見送って、エリザベータも足を踏み出す。
もの一つ落ちていない床は、これで以外に掃除好きのギルベルトと、几帳面なルートヴィヒの合作だろう。散らかす時にはやたら散らかすが、掃除する時には徹底的に気が済むまで掃除するのがギルベルトで、常にきちんと整えておかなければ気がすまないのがルートヴィヒだった。そんな二人の家だからホテルのように綺麗かと思いきや、そうではない。整えられて清潔で、その上で家にはぬくもりが宿っていた。
やさしい気持ちになれる部屋だった。いいな、となんとはなしに思いながらギルベルトの傍まで寄って、ソファではなく、顔の前にしゃがみこむ。手を伸ばして頬と額に触れれば、生ぬるい体温が伝わった。やや低め、だろうか。とりたて温かくはないが、熱くもなかった。手をずらして首に触れれば、とくとく血の流れが伝わってくる。安心して微笑しながらも、ゆるくなったなぁ、とエリザベータは呆れ交じりに呟いていた。
首に手を当てられて目覚めないだなんて、戦士の名折れも良いところだった。少なくともこの国に『壁』があった頃のギルベルトであれば、絶対にそんな無防備にはならなかっただろう。それほど安心しているのか、と思うと温かな気持ちになりながらも、すこしだけ寂しくなるのは多分、ギルベルトの体調が良くないからだった。く、っと指先に力を入れてみても、ギルベルトは目覚めない。深く、夢に沈んだままだった。
くうくう眠るギルベルトの寝顔を見つめていると、不意に胸が甘くうずくのを感じる。触りたい。首に手を置いたまま身を屈めて頬に唇を押しあてれば、さすがにくすぐったくはあったのだろう。きゅぅ、と笑みを浮かべたギルベルトと額を重ねて、エリザベータはおやすみなさい、と囁いた。約束して会いに来たのは確かだが、別に果たすべき用事があったわけでもない。眠りたいなら、寝かせておいてあげよう、と思った。
ごほん、とわざとらしい咳払いに振り返れば、顔を赤くして視線を彷徨わせるルートヴィヒが立っていた。数秒間考えて、現在位置と状況を正しく把握したエリザベータは、うわ、と声をあげてギルベルトから離れた。口元を手で覆う。鏡がなくても熱かったから、顔が真っ赤になっているのは分かった。互いに恥ずかしさで動けなくなり、二人の間に奇妙な静寂が降りてくる。先程とは違い、どちらもそのまま動けなかった。
きっかけになったのは、ルートヴィヒが持つグラスから奏でられた音。溶けた氷が硝子に当たって、涼しげな音を立てた。それでようやく硬直から抜け出し、エリザベータはその場にぺたりと座りこむ。上目づかいでごめんね、というと、ルートヴィヒはぎこちなく頷いた。
「ああ。いや、まあ、その……なんだ、兄さんとは恋人同士でもあるのだし、良いのではないかとは、思うのだが」
「そ、そうよねっ! というかおやすみのキス、おやすみのキスだからっ!」
そうなのよ、そうなの、と大慌てで頷きながら、エリザベータはちらりとルートヴィヒに視線を向ける。誤魔化されてくれたかなぁ、という意思が分かりやす過ぎる視線に苦笑して、ルートヴィヒは持っていたグラスをとりあえずテーブルに置いた。ふわ、とコーヒーの香りが漂う。それだけではなく、チョコレートも甘いにおいも。わ、とこどものように目を輝かせるエリザベータは、甘いものの予感に胸をときめかせた。
「なに? チョココーヒー?」
「いや……おいしいクランベリーが手に入ったから。好きかと思って作ってみた」
どうぞ、と進められるのに誘われて、エリザベータは立ち上がり、テーブルとソファの隙間に座りなおした。ソファに腰かければいいとは思いつつも、その殆どをギルベルトが占領してしまっているので、ずらすのもどうかと思ったせいだ。顔が見えるように正面に座ればいいとも思うのだが、背で感じる寝息がこそばゆくも心地よく、嬉しいので気にならない。ルートヴィヒも分かっているのか、苦笑してそれを受け入れた。
細いシャンパングラスは、白い線で花や植物のツタが描かれていて可愛らしい。透明なマドラーが差し込まれていて、細かく砕かれた氷を好きに混ぜられるようになっていた。よく見ればグラスの底、全体の五分の一程度だろうか。赤黒いジャムに似たものがあって、クランベリーだと分かる。冷えた液体からはチョコレートの香りが強く、クランベリーはまだ底に沈んでしまっていた。くるくると混ぜて、一口、飲む。
基本的には、カフェモカの味だった。ミルクで割られて柔らかくなったコーヒーの苦みに、くるくると絡みつくようにチョコレートの甘みが混じる。舌にどこかざらりと広がる液体を飲み込めば、喉の奥からクランベリーの香りが立ち上った。口の中にも、果実独特の甘みと苦みが後味として残る。おいしい、と零れた言葉は飾り気のないものだったが、ルートヴィヒは十分嬉しかったらしい。よかった、と和んだ風に微笑まれる。
「前にカフェで、兄さんが『エリザ好きそうな味』と言っていたから……当たりだな」
思わずむせなかった自分を、エリザベータは心の中で褒め称えた。ごくん、とやや大げさな動きで飲み込んで、それはいつの話なのかしら、とさりげなさを装って問いかける。そんな恥ずかしい発言を、日常の中で響かせていただなんて初めて知った。というかルートヴィヒもどうして覚えているのか。追及したいことはたくさんあったが、恥ずかしさで倒れそうな予感があったので、エリザベータは一つだけを問いかけた。
ルートヴィヒは女性の動揺に気がついた風もなく、軽く眉を寄せて唇を開く。
「いつ、と言われても。……枢軸の時あたりだったと思うのだが」
正確な日時はすぐには思い出せない、すまない、と生真面目に言ってくるのに笑顔でおうように頷き、エリザベータは精神的な眩暈をやり過ごした。それはどう考えても、『最近』と言えないくらい前の出来事である。知ってたわ、知ってたけどっ、と息をつめながらくるりと振り返って、エリザベータは眠るギルベルトの頬をつまむ。ぷに、と柔らかなのに、また腹が立った。ちょっと、もう、と軽く声を荒げて言い放つ。
「ギルベルトっ! アンタ、ちょっと私のことが好きすぎるわよ……!」
「……いまさら」
「なにか言ったかしら、ルートヴィヒ? お姉さん、聞こえなかったわ」
呆れて響いた幼い呟きに、エリザベータはぎらりと瞳を輝かせて問い返す。思い切り、顔ごとそむけて視線を合わせようとしないまま、ルートヴィヒはなんでも、と呟いた。なんでもない反応ではないのだが、聞こえていて問い返したのでエリザベータもそれ以上は追及しない。ぐい、とグラスをあおって甘い液体を飲み干し、ごちそうさま、と笑って告げる。大人げない反応に苦笑しながら、ルートヴィヒは軽く頷いた。
それから空のグラスを持って立ち上がり、時計に目をやってすこし考えるそぶりを見せる。
「ふむ。……エリザベータ、買い物に行って来ても構わないだろうか」
「買い物?」
「そうだな、二時間くらいで戻ろうと思う」
なにを買いに行く、とも。どこへ買いに行く、とも言わず。それだけ告げるルートヴィヒに、エリザベータは苦笑した。
「いいのよ? 別に、二人にしてくれようとしなくても」
「俺が居心地が悪いんだ」
ちっともそう思っていない表情でさらりと言われてしまえば、エリザベータは降参、と返すしかなくなる。ジャケットをはおって車のキーを手にするのに、ローデリヒさんによろしくね、と告げればルートヴィヒの表情がなんとも言えない風に変化した。なにかを迷う沈黙の後、気持ちが落ち着かないので聞くことにしたのだろう。不可解な表情をしながら、ルートヴィヒはエリザベータを見つめた。
「行き先を、告げた覚えがないのだが」
「ええ、聞いた覚えがないわ。でも、ローデリヒさんの所に行くんでしょう? 可愛いルート」
ギルベルトの口調を真似てくすくすと笑いながら言うと、ルートヴィヒの眉が拗ねた風にむぅ、と寄る。
「貴方たちは、俺のどこを見て可愛いと言うんだ。理解できない」
「全部?」
「俺に聞かないでくれ……! どうして疑問形なんだ……!」
ぶんぶん首を振って言葉との事実関係を否定したがりながら、ルートヴィヒは行ってきます、と呟いて居間を出て行った。そこで一々、きちんと挨拶をする礼儀正しさがとてつもなく可愛い、と言ったらどうするだろうか。細かい笑いに肩を震わせていると、玄関の開閉音、ついで鍵のかかる音がして、しばらくすると車が走り去って行く音が響いた。すると不思議なことに、とたんに部屋が静かになってしまう。
本でも持ってくればよかったなぁ、と思いながらも本棚をあさる気にもなれず、エリザベータは背を倒してソファにもたれかかった。すぐ耳元にギルベルトの顔が来て、すぅ、と寝息が頭の奥まで響いてくる。くすぐったくて、けれど、それが嬉しかった。顔をすこし傾けて至近距離からギルベルトを見つめて、エリザベータは目を和ませる。かたく閉じているまぶたが開けば、色は赤いだろうか。それとも、青いのだろうか。
体調が悪くて眠り込んでいる分、かつての青さに戻ってしまっている可能性は高かった。どうしてギルベルトが、そういう風になったのか、エリザベータは知らない。知らなくとも、愛おしさは募った。そっと手を伸ばして頬を包むように触れ、ふふ、と吐息を揺らして笑う。
「ギルベルト……ギル、ギル」
眠ってる、と指先を動かして肌を撫でて、エリザベータは問いかける。
「どんな夢、見てるの? なんの夢? ……そこに、私はいるかしら」
居ればいい、と思う。居ないよりは、居る方がずっと良い、と思う。さみしがり屋で泣きむしのギルベルト。夢の中で一人だと、悲しがっていなければ良い。ギル、と何度目かのあえかな囁きに、ふと瞼が揺れ動く。それまで体に沿って落ちていたギルベルトの腕がゆっくりと持ち上げられて、エリザベータの服を弱くつまんだ。ん、とちいさく声が揺れ、まぶたが持ち上がる。瞳の色は、晴れ渡った日の透き通る青。
夢に、彷徨って。ぼんやりとまどう瞳を覗き、エリザベータは静かにささやいた。
「マリア……?」
ゆるゆると、まぶたが降りていく。声にもならず動いた唇は、エリザベータを『マジャル』と呼んだ。指先がひっかかる程度の弱さでつまんでいた服が、するりと抜けていく。代わりに繋いだ手を、夢の中でどう感じ取ったのだろう。きゅうぅ、と幼子がすがるように強く握り締められて、エリザべータはギルベルトの額に口付けた。愛しかった。