会議開催中の休憩時間というものは、通常、そう多くは取られない。ヨーロッパやアジアなど、一地域のみの会議なら例外はあるが、全国が集合して行うような大規模会議であるならば、十五分か三十分の休憩がいつものことだ。うっかり一時間など取ろうものなら、シエスタで帰ってこない国がいくつもあり、時間があるからと気晴らしに出かけて返ってこられなくなった国があり、とロクなことにならないからである。
人間は失敗に学ぶいきものである。『国』もまたしかり、ではあるのだ。十五分の休憩が宣言された議場を後に、ドイツは足早に休憩室へと向かっていた。誰よりもはやく飛び出して行ったドイツを、事情を知らない国々が異変を目の当たりにした表情で見送る。それもその筈だろう。三十分の休憩ならともかく、十五分の短さであるなら、普段のドイツは議場から出ない。資料に目を遠し、伸びでもするのが通常だ。
それなのに誰より早く、ドイツは休憩室へと向かって行った。事情を知るオーストリアとハンガリーのみが顔を見合わせ、甘くもくすぐったそうに笑いあって肩をすくめる。心配なのだ、と知っていたからだ。今日の会議に、ドイツは補佐役としてプロイセンを伴っていた。しかし会議場にその姿はなく、問いかけたハンガリーにドイツは言葉短く告げていたのだ。休憩室で寝かせて来た、起きないだろうから心配するな、と。
すこし前にヨーロッパのみで行った会議においても、同じことがあった。その時の不調を見抜いたのはハンガリーだったが、今回はドイツにもそうと知られてしまったらしい。それ程に不調が強く現れていたのか、それともドイツの勘がさえわたったのか。どちらにしろプロイセンは会議の欠席を余儀なくされ、それ故に、ドイツは急いで兄の様子を見に行ったのだった。さざめく二国の笑い声を背に受けて、ドイツは進む。
人通りもない廊下をまっすぐに進んでいけば、観音開きの扉が見えてくる。木製の扉は静かに沈黙していて、鍵はかかっていなくとも、どこか他者を隔絶する雰囲気を持っていた。だからこそ、休憩室にも使われるのだろう。ためらいもなく扉を押し開いて、ドイツは声を響かせる為に息を吸い込んだ。兄さん、と呼びかけようとした息が吐きだされることなく止まる。休憩室は広く、大きなソファが部屋の隅に置かれている。
いくつかは荷物置き場にされていて、堅実な男物のビジネスバックの間に、華やかな女物の鞄が慎ましやかに置かれていた。部屋の中央には机がいくつも置かれ、飲み物や軽食の用意がされている。ちょっとした、立食パーティーの様式だった。しかし部屋は静まり返り、なにものにも空気が動く様子はない。無人の静寂。ドイツがプロイセンを寝かせたソファには、肩からかけてやった筈の布すら残っていなかった。
目の前が真っ白に染まる。ぐらぐらと意識が揺れるのは、現状がうまく理解できないせいだった。なんで居ないのだろう。どうして、どうして。確かに眠っていた筈なのに。起きる様子すらなかったのに。無意識に歯を食いしばるドイツの耳に、軽やかにかけてくる足音が届いた。ワルツを踊るように規則正しく優美な足音は、たん、と小気味よい音を残して一瞬だけ途絶える。いつものように、踏み切って飛んだのだ。
「ドイツー、ドイツー! ねー、ねー! ドイツってばぁっ!」
立ったままでなにしてるんだよーっ、と首にじゃれつきながら尋ねてくるイタリア・ヴェネチアーノに、ドイツの意識が戻ってくる。脳に血液が回りだすような錯覚。す、と息を吸い込んで、ドイツは扉から茫然と手を離した。ぱたぱたと瞬きをしながら、イタリアはどうも妙な盟友に首を傾げる。んん、と呟きながら休憩室に視線を向け、ドイツに戻して口を開いた。
「んと。ぎ……プロイセン?」
休憩中であっても、会議の開催中だ。通例に従って個人名ではなく国名を囁きかけた北イタリアに、ドイツはこくりと頷いた。鈍い動きしかしてくれない頭の中で、ああ先日のハンガリーもこんな気持ちだったのだな、と思う。恐ろしいほどの空白感が心に生まれ、次いでわきあがってくるのは焦燥と怒り。信じていたものが、そこにない。当たり前だと思っていたことが、違ってしまった。そのことに対する、苦しい気持ち。
ぎゅぅ、と眉間にしわを寄せて黙り込んでしまったドイツに、北イタリアの手が伸びる。繊細に動く指先はちょいちょい、と眉間をくすぐって、わはー、と花がふよふよ漂うような声で笑う。
「大丈夫だよ、ドイツー。また皆で探せばいいよー。ねー?」
「あ……ああ、そうだな。今度こそ誘拐の可能性も捨てきれん。早急な対応と対策、情報の収集を」
「その可能性は低いと思います。会議が始まる一時間前から今に至るまで、このフロアに『国』以外が出入りした記録はありませんから。その代わり、お師匠様……失礼、プロイセンさんらしき方が出て行った目撃証言が一件あります。エレベーター係の証言ですので、信じるに値するのではないかと思いますよ、ドイツさん?」
落ち着きなさい、大丈夫。きっと、あなたの力になりますからね。そう、押し付けるような強さはなく、けれどしなやかに響く声が二人のすこし背後から響き渡った。はっとして目を向けると、そこに立っていたのはなにもかもを知るような微笑を浮かべ、口元を手で覆い隠して微笑する日本の姿があって。登場にほっと緊張が抜けていくのは、場にある三人のかつての繋がり、そして今も続く友情と信頼関係故だろう。
いつの間に、と呟くドイツに、日本は目元を和ませて穏やかに笑った。
「イタリア君と一緒だったのですが、抱きついた辺りでなにかおかしいと思いましたので。差し出がましいような真似とは思いつつ、先に聞きこみをすませておきました」
ドイツの問いはいつの間に傍に居たのか、というものだったのだが、日本はあえてそこから一歩進み、なぜ情報の受け渡しが出来たのか、までを話してしまう。幸いなことに休憩室はエレベータのすぐ近くにあり、十歩も歩けばスイッチが押せることだろう。動揺するドイツをイタリアにまかせた日本は、先にそちらに向かってエレベーターガールを呼び出し尋ねたのだった。お散歩ではないようでした、と日本は告げる。
悪戯に不安がらせることを良しとしない声が、それでもはきと言い放った。
「ご自分の意思で出て行かれたようです。ただ、ぼんやりとしていたようで、頭から薄い布のような……タオルケットかなにかをかぶって居たようで、あまり普通の状態ではなかったように見えた、とも聞きました。お師……プロイセンさんに、なにか異変が起きたのは確かなことだと思います。一刻も早く見つけて差し上げなくては。とりあえずフロントに連絡して、問答無用でホテルの立ち入りを禁止して頂きましたので」
ご安心くださいね、とにっこり笑う日本の行動力に、正直ドイツは戦慄が走った。なんでもない風に見えて、日本はかなり怒っている。怒っていないにしても、動揺しているのは確かだ。普段の日本であるならばそこまでアクティブに情報収集に努めたりはしないし、加えて強制手段としてホテルを閉鎖状態にさせたりはしない。笑顔には命令は必ず成し遂げられたはずだという、確信と喜びにも似たなにかがあった。
折り畳み式の携帯電話を一度開け、ちらりと画面を見てからぱちんと閉じた日本は、にこ、と笑って首を傾げてくる。もう休憩時間の残りはわずかだった。延長して頂きましょうね、と言ってくる日本に気圧されるように頷きながら、ドイツはそっと口を開く。いち早く異変を察知したイタリアは、ドイツの背中にへばりついたまま、神に祈る言葉を延々と呟いていた。相当怖いらしい。正直羨ましく思いながら、問いかける。
「その……日本? なにか怒っているようにも見えるのだが、なぜだろうか」
「会議前。所要があって部屋の前を通りすがった私は、お師匠様が眠ってらっしゃるのを発見しました」
よどみなく告げられる言葉に、ドイツはこくりと頷いた。珍しく会議開始直前に日本が部屋に入ってきた理由に、納得したからだ。二人はせわしない足取りで会議室へ戻りながら、視線がどんどん険しくなっているのを自覚しつつも前を向く。イタリアはドイツに引きずられるように、会議室に向かっていた。神様この二人怖いですそして俺には無理だよ助けて兄ちゃん、と鼻をぐずぐず鳴らしながらの泣き声が物悲しい。
普段は率先して慰めるそれを右から左に投げ捨てて、日本は艶やかな笑みの元で告げていく。
「うなされていたようでしたので、失礼して一度起こしました。お師匠様はぼんやりしていて、すこしは様子が分からないようでしたが、すぐに把握なさったのでしょう。『会議じゃないのか、菊。行って来い』などと可愛くないことを仰るものですから、ちゃんと寝ていてくださいね、休み時間になったら様子を見に来ますからくれぐれも安静にしていなければいけませんよ、と言い聞かせたのですがあのすっとこどっこいっ!」
あんぽんたんっ、と怒り心頭の様子で叫び、日本はだんっと強く足を踏みならした。同じく会議場に戻ろうと廊下を歩いていた事情を全く知らない国々が、日本の乱心に青ざめた顔つきで視線をよこしてくる。アジア勢が一斉に中国を呼びに走るのを尻目に、ドイツはそうか、と深々と頷いた。『国』としても『個人』としても、日本とプロイセンの付き合いは長い。近代では親しい友、師弟関係として、交流も深いという。
怒りにぶるぶる震える日本は、プロイセンが言いつけを破っていなくなったことに相当腹を立てているらしい。
「人には『休むのも仕事のうち』だとか言うくせに! お師匠様の馬鹿っ! 小鳥のようにかっこいい俺様だから気にしなくていいとかなんなんですか意味分からないんですよちょっとっ! アレですか小鳥のように可愛いの間違いなんじゃないですかっ! どうなんですっ!」
「よし。よし分かった、日本。深呼吸だ。落ち着け」
「私は十二分に落ち着いておりますよっ! 落ち着きなく歩きまわってるのはお師匠様ですっ!」
もはや普段呼びの『お師匠様』を『プロイセン』に訂正することもしないのは、十分落ち着けていない証だとは思うのだが。ぽこぽこ怒りながら荒れている日本を上手く宥める自信もないドイツは、そうか、と頷くだけで留めてやった。そうしているうちに会議室に到着し、二人とイタリアに対していっせいに視線が向けられる。あきれ果てた様子で静かに近づいて来る中国とは反対に、アメリカはゆるりと腕組みをしていた。
で、なんの騒ぎだい、とでも言いたげな態度は、おぼろげに予測していても事情は分からないからなのだろう。ほれほれ落ち着くアルよー、と日本の頭をそっと撫でて宥める中国をちらりと見た後、ドイツは視線をアメリカではなく、すでに着席しているオーストリアとハンガリーに向けた。こんな時でも優雅に楽譜を眺めているオーストリアは、なぜか勤めて視線をあげていないように見受けられた。賢明な判断だろう。
椅子から音もなく、ハンガリーが立ちあがる。鋭く細められた瞳は、すでに狩人のそれだった。先日の騒ぎを知るヨーロッパ組が、悲鳴を上げそうな仕草で頭を抱え、座り込む。つまり、そういうことだ。先日の騒ぎを知る者たちには頷き一つで説明に変えて、ドイツは溜息をつきながらアメリカに視線をやった。休憩時間の延長を申し入れる、と告げたドイツに、アメリカは腕組みをしたままOK、と流暢な発音で告げる。
「良いけど、何があったのかくらいは聞かせてくれないかい?」
「兄貴が……プロイセンが姿を消した。ホテル内部には居ると思うので、人手を借りて探したい」
「またかあああぁっ!?」
つんざくような泣き叫び声で突っ込んだのは南イタリアだった。それまでスペインの隣で半ば眠りの世界に漂っていたイタリアの化身の片割れは、それでも発言を聞くともなしに耳にしていたらしい。がばりと身を起して立ち上がると、素早い仕草でかけてきて、ドイツの背からイタリア片割れ、弟の身を引きはがす。べりっとばかりにイタリア・ヴェネチアーノを回収して、イタリア・ロマーノは鋭い視線をドイツに向けた。
「お前の兄貴は失踪しすぎだ! 首輪でも付けてどっかつないどけっ!」
「怖かったよー兄ちゃんー。でも俺頑張ったんだよ、兄ちゃんー。でもドイツも日本もすごく怖かったんだよ、兄ちゃんー。兄ちゃんはなにしてたのー? おやつー? シエスター? 甘い匂いがするでありますっ。ねーねー兄ちゃん、チュロス食べたのー? ねえねえ兄ちゃんー」
「お前は俺が話してる時に黙る習慣を身につけろーっ!」
特大の雷を落としたイタリア・ロマーノに、イタリア・ヴェネチアーノはべええええっ、とすでに泣いている声をあげて両手ですがりついた。兄ちゃん怒っちゃいやあああっ、と悲痛な声で抱きすがられて、怒りを持続させておくことこそ難しい。懐いてくる弟を渾身の力で引きはがそうとしながら、イタリア・ロマーノは呆れた目を向けてくる諸国らを威嚇するように睨みつけた。見るなーっ、と絶叫が、会議室に響いていく。
相変わらず、仲が良いのか悪いのか分かりにくい兄弟だ。すこし落ち着いた気持ちでドイツが思っていると、その肩にぽん、と手が乗せられる。めまいがするのは、そこから血が抜けていくような錯覚があるからだ。ぎぎぎ、と油が抜けた機械人形のような動きで振り返ると、そこには優しく微笑むハンガリーの姿があって。いつの間に座っていた場所から移動したのかを誰にも悟らせないまま、女性は口をひらいた。
「さあ、探しに行くわよルートヴィヒ?」
まだ会議中、である。個人名ではなく国名を呼ぶのが望ましいのだが、ドイツはそれを決して口には出さなかった。ja、と告げて身をひるがえすと、その背をトコトコと可愛らしい足音がついてくる。振り返るとイタリア兄弟で、兄の方はややめんどうくさそうに、弟の方は晴れやかに笑って一緒でありますーっ、と言って来た。イタリア・ロマーノにはやる気が見られないので、ただ単に離れようとしない弟の付き合いだろう。
振り払って無視すればいいものを。嫌なことを隠そうともせず、けれど付き合ってやるのがイタリア兄の常だった。はぁ、と息を吐きながら憎々しげにドイツを見上げ、イタリア・ロマーノはさらりと告げる。早く見つけるぞ、と。それがなにより大切な言葉に思えて、ドイツはちいさく頷いた。普段どれだけ頼りなくとも、イタリア・ロマーノはイタリア・ヴェネチアーノの『兄』である。兄とは、弟の不安を見抜いてしまう存在らしい。
急に落ち着いてしまった気持ちに気恥ずかしそうにするドイツを、ハンガリーは微笑んで見ていた。
頭からすっぽりと布をかぶって出歩いた不審人物、ことプロイセンの足取りを辿るのは簡単で、あっけなかった。エレベーターでフロントのある一階に降りた途端、青ざめた顔つきの従業員たちに取り囲まれて、口々にどこで見た、どちらに行った、と証言されたせいだ。日本がどういう口調でどのように出入り口を閉鎖なさい、と命令したのか知る由もないが、相当怖かったのだろう、ということだけは推測できる。
あとで正気に返った時に、可哀想なくらい反省しなければいいのだが。人通りのほぼ無い廊下をチャペルに向かって歩きながら、ルートヴィヒは考える。これから会議に戻らなければいけないのに、思考回路がどうしてもギルベルトの弟としての存在、『個』としての想いに引きずられて定まらない。生真面目な『ドイツ』と違ってイタリア兄弟はすでに職務を投げ捨てて手放していて、呼びかけは先程から人名だった。
『ハンガリー』もそうなのだろう。やや険しい顔つきをしながら歩く女性は、ゆるく降りてくる『ドイツ』の視線に姉のような表情で微笑み返してくる。『国』同士であるなら、まず見ない類の笑みだ。しばらく迷って諦めて、ルートヴィヒはエリザベータに溜息をつく。
「その、すまない……。兄貴には、ちゃんと寝ておくように言っておいたのだが」
「いいわ。人の話を素直に聞き入れるギルなんて、そうそう存在していいものでもないから」
さらりとギルベルトの聞き入れの良さの、存在自体を全否定して、エリザベータは額に手を押し当てて息を吐く。従業員たちは口をそろえて、ギルベルトはチャペルの方向へ向かったと言った。結婚式場も併設したホテルだから、それなりに豪華できちんとした聖堂が備えられているのだ。はるか昔に作られたそれとは、比べ物になどならないだろうけれど。そこは神のおわす場所であり、神に一番近い場所だった。
ギルベルトの体調の悪さは、先日からのものだ。エリザベータも十分に知っていたし、意識が『マリア』に近いものになっていることは、他の者には分からないというのに。きちんと、見ておくべきだったのだ。すくなくとも、一人で寝かせておくべきではなかった。あなたが悪い訳ではないの、と首を振ってルートヴィヒの罪悪感を宥め、エリザベータは苦しげに眉を寄せる。しいて言えば、会議に出ようとした方が悪いのだ。
自分の体調不良も、精神状態も、本人が一番よく分かっているだろうに。なにをのこのこ出歩いているのか、とエリザベータは言いたい。多分『マジャル』に会いたくて、会えないにしても傍にはいたくて。エリザベータの居る場所の近くに、行きたかったのだろうけれど。してしまいそうになる舌打ちを堪えて、エリザベータはチャペルの扉に手を置いた。行きたくない、のではない。見せたくない気持ちと、すこし戦う。
好奇心旺盛なヴァルガス兄弟と、兄想いのルートヴィヒに『良いから待っていて』と告げるのは忍びなく、そして難しい事だった。激しい葛藤に数秒間でけりをつけ、エリザベータは中に入らないのか、と不思議そうな顔を向けてくる三人を振り返った。仕方がない。緊急事態、のようなものだ。うん、頑張れわたし、と言い聞かせながらエリザベータは息を吸う。
「お願いが、二つあるの。聞いて」
「なんだ?」
返事をしたのは、意外にもロヴィーノだった。視線は扉を透かして聖堂の中に向いていて、そこにあるであろう十字架を敬遠な表情で見つめようとしている。身にまとう空気は普段の騒々しいものとは一変していて、歌声を響かせる時に似ていた。深く、なにかに集中しようとしていロヴィーノの横顔を見つめて、エリザベータは見ないで、と告げた。
「ギルの目を見ないで。なるべく視線を合わさないで、覗きこまないで。それと、名前を……覚えないで」
聞かれるのはもうどうしようもなく、仕方がないから、と息を吐いて。
「私が呼ぶ名前で、決して呼び掛けないで。私が呼ばれる名前で、私のことを呼ばないで。いい?」
すい、となにもない空を横切ってエリザベータにあわされた濡れるエメラルドの視線は、なにか呆れているようでもあった。しかしロヴィーノはなにも告げずに頷き、戸惑うヴェネチアーノの手を強く握り締める。ややあって、ヴェネチアーノもこくりと頷いた。分かったよー、とのんびりした声で了解されて、エリザベータの視線がルートヴィヒにめぐってくる。
「誓おう」
約束を守る。そう言い放ったルートヴィヒに、エリザベータはかすかに口元を緩めて微笑した。そしてゆっくりと、聖堂の扉が開かれる。目的の人物は、すぐに見つかった。三人掛けの椅子が両側に等間隔で並ぶ、バージンロードのその先に。ギルベルトは殆ど倒れこむようにして居た。ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの光が、姿を覆い隠すタオルケットに鮮やかな影を落としている。振り返っては、くれなかった。
誰よりもはやく、エリザベータが歩き出す。カツカツと足音高くバージンロードを突き進み、エリザベータは覚悟して口を開いた。ギルベルト、と呼んでも振り返らないことは、姿を見た瞬間に悟っていたから、改めて諦めていた。
「『マリア』」
タオルケットに隠された肩が、ぴくんと動く。ああ、やっぱり。溜息をつきたい気持ちをぐっとこらえて、背に突き刺さる問いかけの視線をあえて無視して、エリザベータはそっと『マリア』の傍らに腰を下ろした。
「迎えに来た。帰ろう? ……ここに居ちゃいけないよ、『マリア』」
エリザベータの意識は、未だ切り替わってはいない。すこし前にギルベルトを恋人として得ることが出来た為に、以前と比べれば格段に安定しているせいだった。片方の意識がそうなっただけで、やすやすと引きずられはしない。それでも口調をすこし硬くしながら、エリザベータは『マリア』に手を伸ばした。視線が伏せられたままの顔に手を添えて、屈んで額に口付ける。びく、と怯えたように『マリア』が震えた。
「ま……マジャル。なんで、ここ、に」
「言ったろ? 居なければ、探しに行くって。迎えに来たんだよ……熱は? 体に痛い所はある?」
額に唇を押し当てたまま問うエリザベータに、『マリア』はかすかに身をよじる仕草で不調を否定したがった。けれどわずかに、体が熱い。聖堂の床は冷たく、身を守るのは薄い服とタオルケット一枚。ただでさえ体調がすぐれない時にそんな姿で床にくっついて居れば、それはすこしは発熱するだろう。怒鳴りつけたい気持ちをぐっと堪え、エリザベータは『マリア』の脇の下に手を入れ、やや気合を入れて抱き寄せた。
昔は、別になんのことでもない仕草だったのに。軍属で鍛え上げられた細身の体を抱き上げてしまうには、エリザベータはあまりに女性すぎた。意識がある意味『マジャル』に乗っ取られていれば、割とどんなことでもすんなりできるのだが。今は無理だ。重い体を抱き寄せて背をぽんぽん、と撫で、エリザベータは優しく言い聞かせる。
「どうしたの。心配するひとを残して、居なくなるなんて」
「……だ、って」
耳元で紡がれた声が、震えていた。おかしい、とエリザベータは直感的に思う。迎えに来たのに精神状態が落ち着いていないことがおかしいが、こんなに泣きそうなのはもっと変だった。思わず肩を掴んで顔を覗きこんだエリザベータは、ハッとして息をのむ。七色の光が零れ差す薄暗い聖堂の中で、あの日の草原の青がゆらゆらと揺れていた。普段のルビーに似た瞳の色は消え、予想通りの青さがそこにある。
マリア。囁き呼びかけるエリザベータに、マリアはむずがるように顔をくしゃくしゃにした。
「かみさま……かみさまが、神様、がっ」
「……神様?」
「届かない……っ!」
こんなに、あいしているのに。幼くこぼれおちた言葉に、恐ろしいほど胸が騒ぐのをエリザベータは自覚する。神に捧げる愛は、あくまで献身のそれだ。恋愛とは全く違うもので、それはあくまで神聖な想いでしかない。それなのに。十分に分かっている筈なのに。言うな、と叫びたい気持ちを堪えて言葉を告げなくなってしまったエリザベータの代わりとばかり、その傍らにしゃがみこむ者があった。不機嫌な息の音。
それでも紡がれる声は、勤めて優しくされたものだった。なにが、とロヴィーノは聞く。
「なにが、届かないんだ。……なんで、届かないって、思うんだ?」
「……声が出ない。歌えない。音が、高くて、紡げない」
「それ、お前が歌わないといけないのか?」
幼子にするように、けれど気安い仕草でぽんぽん、とマリアの頭を撫でてロヴィーノは尋ねた。意味が分からない風に首を傾げられるのに、青年はだから、と苦笑しながら言いなおす。
「俺が歌ってやるよ。それじゃ、ダメか?」
「ダメじゃない、けど……でも」
「分かってる。大丈夫。惜しみなく与え、だろ? ……大丈夫だ。愛することなら、俺も知ってる」
もう一度、ぽんぽん、と頭を撫でて。理解できないまでも悔しげに見つめてくるエリザベータに苦笑して、ロヴィーノはそっと女性の耳元に唇を寄せた。俺に理解できるのはすこしだけだ、と声が告げる。
「ただの代償行為。もしくは自家中毒。俺にも覚えがあるから分かる」
「……なにが?」
「愛おしすぎて、どうしようもなくてこうなる」
すっと体を起こしたロヴィーノは、フェリシアーノを手招きながらやけに男くさい顔で笑った。
「気持ちが強すぎて、溢れだしそうでどうしようもなくて、体の中で渦をまく。愛おしくて、大切で、その全てがどうしても言葉にできなくて……相手に、上手く伝えられなくて。心の内側にどんどん、そういうの溜まって行って。苦しくて、でも愛していて。愛して、愛して……この愛情を、相手に全部注いだりしたら、壊れるんじゃないかって怖くなる。嫌われるんじゃないかって、思う。だから遥かな、天に、想いを返すんだ」
「……にいちゃん?」
「ん、今はそんなことねぇよ。それよりフェリシアーノ、聖歌だ。歌うぞ」
俺が高音、お前が低音。普段とは逆のパートわけをさっさと言い放って、ロヴィーノは息を吸い込んだ。頭の上にクエスチョンマークを大量生産しながらも同じく息を吸い込み、フェリシアーノは歌声を響かせる。愛を、祈りを。そのまま形にしたような歌声に、ロヴィーノは臆することなく声を重ねた。それは桁外れの高音。女性ですら発声するのが難しいような、ハイ・ソプラノ。天空まで軽々と駆け上って行く、旋律だった。
ふ、とエリザベータの腕の中でマリアが息を吐く。ゆるゆると力の抜けていく体は安堵しているようでもあり、泣きつかれて眠りにつくようでもあった。ぎゅ、とすがりついてくる腕は、確かにエリザベータを求めていて。しょうがないなぁ、と思いながら、エリザベータは銀色の髪に鼻先をうずめる。泣きだしそうな気持ちは、嬉しいからなのか、悲しいからなのか。分からなくて、けれど口元には笑みが浮かんでいた。
「ばか。大丈夫。……大丈夫よ、大丈夫。怖がることなんて、なにもないからね」
戻っておいで、とエリザベータは囁きかける。壊れたりしないから、嫌ったりなんてもっとしないから。だから、神様になんかあげないで。腕の中の体から、すぅっと力が抜け落ちる。眠りについたギルベルトを確かめて、エリザベータは人騒がせ、とぺちりと頭を叩いてやった。歌声が消える。大丈夫、大丈夫、とぞれぞれに覗きこんでくるイタリア兄弟に微笑みを返して、エリザベータはルートヴィヒを呼び寄せた。
どうしようもなく傍観していたルートヴィヒは複雑そうに、それでもようやく役目が出来たことで喜ばしく歩み寄り、意識を失ったギルベルトを抱き上げる。それじゃ戻りましょう、と現実を見据えた呟きを落として、エリザベータは眠るギルベルトの頬に口付けた。目覚めればもう、瞳の色は赤いだろう。三人を先に向かわせて、聖堂の扉を閉めながら、エリザベータは十字架を睨みつけた。神様にあげる分など、ないのだ。
扉を閉めて小走りに、エリザベータは三人の後を追う。そうしながら胸の内で、おいでおいで、と囁いた。戻っておいで、ここにおいで。私はここよ、ここに居るわ。だから。だから、ここに。おいで、私の恋。