昼食を食べ終わったロヴィーノが、部屋から出てくるのは珍しい。洗い物を終えてキッチンから顔をのぞかせ、フェリシアーノはやけにめかし込んでいる兄の姿を見つめた。居間のソファに腰かけたロヴィーノは、見ようによっては無表情にも受け取れる真剣な顔つきで髪を撫でつけ、時計に目をやって立ちあがった所だった。小物が雑然と置かれているチェストに歩み寄るロヴィーノは、弟の視線に気が付いた風もない。
一番上の引き出しを開けてわずかばかり考え込み、手を突っ込んで取りだしたのはダイアモンドの形を模した香水瓶だった。手なれた仕草でふたを開け、指先を湿らせる程度に液を付け、ロヴィーノはそれを首の裏側と手首に擦りつけた。ふたを硬くしめなおして香水瓶を引きだしに放りこんだ所で、ロヴィーノはにこにこしながら視線を向ける弟の存在に気が付いたのだろう。恥ずかしそうに、目がすーっと細くなる。
「なに見てんだ、馬鹿弟」
「ヴェー。兄ちゃん、今日も格好良いねぇ。良い香りもする兄ちゃんなんて、嬉しくてハグでありますっ!」
嬉しさのあまり思い切り踏みきって飛び、フェリシアーノは殆ど体当たりに近い状態でロヴィーノに抱きついた。さすがに受け止めきれなかったのだろう。背に手を回してフェリシアーノを抱きとめ、ロマーノはそのまま床に倒れこんでしまった。がつ、と鈍い音が響く。痛みに顔をしかめるロマーノにすり寄って甘えながら、フェリシアーノはみじんも反省のない笑顔でわはー、と言った。洋梨とシクラメンの、甘い香りがする。
「兄ちゃん、お花さんの匂いがするねー。どしたのー。どこ行くのー。ナンパー?」
「来・客! 重い! 痛い! 退けっ!」
四つの単語の一番最初だけを聞き入れて、フェリシアーノはそれでかぁ、とロヴィーノの腹の上にまたがったままで頷いた。さわり心地の良いストレッチ素材の黒いズボンと、同じく黒いワイシャツは飾り気がなくごくシンプルなものだけれど、確かロヴィーノのお気に入りのひとつである。緩めに締められているネクタイは無地の赤で、ネクタイピンは可愛らしくもトマトのワンポイント。香水は花の香りがする『ウィッシュ』。
青年らしいスタイリッシュな装いにはやや似合わない女性用の香水だが、ロヴィーノがやるとしっくりくるから不思議である。兄ちゃん格好いいー、と自分の気が済むまでひとしきり体の上でごろごろと懐き、フェリシアーノはよいしょ、と声をあげて立ち上がった。はい、と笑顔で手を差し出すと、ロヴィーノは諦め気味の表情で手を繋ぎ、立ち上がる。まったく、とため息交じりに髪を指で整えるロヴィーノの声は柔らかい。
かすかに呆れても怒らないことが嬉しくて、フェリシアーノはロヴィーノの背にぴったりくっついて、ぎゅぅ、と体を抱きしめた。熱い、とすぐ文句が下されて手が叩かれるが、抵抗したり引きはがしたりする様子はない。俺兄ちゃんのそういうトコ大好きー、と猫が喉を鳴らすようなとろけた愛情の声で囁くと、ロヴィーノは聞えよがしに溜息をついてくる。頭が後ろに倒されて、フェリシアーノの肩にとん、と預けられた。
横目で軽く睨むようにして、ロヴィーノは馬鹿、と言い放つ。
「むやみに好き好き、言うんじゃねぇよ」
「えー。だって俺、兄ちゃん好きだもん。兄ちゃん大好きー。照れ隠しに睨んだりするトコもだいぶふっ」
最後まで言わせてもらえなかったフェリシアーノは、拳で黙らせてきた兄を恨めしげに睨む。ひら、と痛みを逃すべく手を振るロヴィーノは、しれっとした表情でお前が悪いと言いきった。ヴェ、とちょっぴり悲しい泣き声をあげて、フェリシアーノはロヴィーノの肩にすりすり懐く。
「兄ちゃんのそういうトコは、ちょっと嫌いであります……」
「はいはい。そうだな、知ってる。そろそろ離れろ、もう時間だから客が来る」
もう一度時計に目を向けながらの言葉に、フェリシアーノはしぶしぶ従った。それから背の後ろで手を組んで、ロヴィーノの前に出てひょい、と顔を覗きこむ。上から下までじっくり眺めて、うん、今日も俺の兄ちゃん格好いい、と頷き確かめてから問いかけた。
「誰が来るの? 女の子? 可愛い? 綺麗? 美人さん? それともアントーニョ兄ちゃん?」
「じゃがいも。ただしギルの方」
「ヴェ? ギルベルト?」
不思議がって問い返せば、ロヴィーノはそう言ったろ、と迷いなく頷いた。玄関のチャイムが鳴る。来た、と言ってずかずか部屋を横断して出迎えに行くロヴィーノの背を慌てて追いかけて、フェリシアーノは口を開く。
「兄ちゃん、ギルベルトと仲良しだったのっ?」
玄関に一直線に続く廊下で足を止めて、ロヴィーノが振り返る。泣き濡れたようなエメラルド色の瞳に宿っていたのは、弟に対する最高位の呆れ。お前、とぐったりした呟きを洩らして、ロヴィーノは首を傾げた。視線が動き、壁にかけられた何枚もの絵を辿って行く。有名な画家の絵などひとつもない。かかっていたのは全てフェリシアーノが描いたものばかりで、イタリアの風景を写し取った楽園のごとき美しさばかり。
こういうのは得意なのにどうして、と常日頃他者から思われている感情をそっくり胸に宿したロヴィーノは、きょと、と目を瞬かせているフェリシアーノに、冷静に良く考えてみろ、と言い放った。
「仲良いと思うか? 俺とギルが、お前とじゃがいも弟みたいな仲良しだと思うか気持ち悪い」
「え、えええー。じゃあなんで家にギルベルトが来るのさー。仲良しなんじゃないのかよー」
「兄ちゃん同士の付き合いだとでも思っとけ」
適当に流し、ロヴィーノは足早に玄関に向かった。鍵を開けて扉を開くと、すぐ嬉しそうな笑顔が飛び込んでくる。白いシャツとパーカーにジーンズ、足元はスニーカーのいで立ちでギルベルトは立っていた。頭に布製の帽子をかぶっているのは、おしゃれより移動中にことりが眠りやすい環境の為だろう。おでかけということで首に藍色のリボンを巻かれたことりが、ロヴィーノの視線を受けてぴよぴよ、と鳴いた。
よう、と片手をあげて挨拶するギルベルトに答えず、ロヴィーノは視線を険しくして言い放つ。
「不合格」
「……ロヴィちゃん厳しすぎるぜ」
「わはー! 本当にギルベルトだー! はぐー!」
気を取り直してかけてきたフェリシアーノが、兄の横をすり抜けてぴょい、とギルベルトに飛びつく。はいはい、と優しく笑いながら抱きとめたギルベルトは、そのままフェリシアーノを愛玩するように撫でてくる。髪の毛ぐしゃぐしゃにしないでねー、と言いながらフェリシアーノは兄をそうしたようにギルベルトを上から下まで眺めやり、ぴっかぴかの笑顔で頷いた。悪意がみじんもない代わりに、フォローも全くなかった。
「うん。兄ちゃんが正しいよ。もー、ギルベルトったらー、兄ちゃん見習ってよー!」
会議の時はちゃんと見栄えする格好してくるくせにー、と頬を膨らませるヴェネチアーノに、ギルベルトは多少困った顔つきになる。だって会議じゃないし、仕事でもないし、という言いわけは、ヴァルガス兄弟の耳を右から左に流れていく。家に居るとすれば着せ替え大会の開始だし、出かけるのであればロヴィーノと合うように見つくろうべきだろうなぁ、とフェリシアーノは思う。だって、着飾れば似合う相手なのだから。
放っておくのは、それだけで芸術の損失に他ならない。よし、と衣装をいくつか思い浮かべながらギルベルトの腕を引こうとしたフェリシアーノは、顔のすぐ横を通って行ったジャケットをあっけにとられた表情でみやった。当然投げたのはロヴィーノで、顔面で受け止めるハメになったのはギルベルトである。ぶは、と言いながら顔からジャケットをはぎとるギルベルトを冷たい目で見て、ロヴィーノは一言、着ろ、と言った。
「パーカー脱いで、フェリシアーノに預けてとりあえずそれを着ろ。服買いに行くぞ」
「服……?」
「今、お前が着る服に決まってんだろ? あと鈴とか無かったから、どのみち出なきゃいけねぇんだよ」
いいから早くしやがれ、と腕を組んで溜息をつくロヴィーノは、フェリシアーノに対して時々見せてくれるような『兄』の顔をしていた。わ、と嬉しく思いながらギルベルトの顔をこっそり見てみると、やはり同じような顔つきで。なんだか落ち着くような、すこし寂しくて切ないような不思議な気持ちを感じながら、フェリシアーノはギルベルトのパーカーを預かった。ぴよよよ、と鳴きながらことりがギルベルトの頭から振ってくる。
ほよん、とはねてパーカーに着地したので、フェリシアーノと留守番をしてくれるつもりらしかった。有能な護衛だな、と笑いながらギルベルトが指先でことりをつつき、ぽん、とフェリシアーノの頭を撫でて歩き出して行く。その後を追いかけながら、ロヴィーノも弟の頭をくしゃくしゃと撫でて、行ってくる、と言った。想われている。そのことがじわりと胸を温かくして、フェリシアーノはパーカーをぎゅっと抱きしめながら笑った。
「行ってらっしゃい……って、にいちゃーん! ギルー!」
足早に歩む二人は、すでに声の届くギリギリまで遠ざかっていた。気が付かないかも、と思うがギルベルトがすぐ振り返り、ロヴィーノも男の隣で立ち止まって顔を向けてくる。ヴェ、と思わず嬉しさにちょっぴり声を出しながら、フェリシアーノは手を筒にして口にくっつけた。
「ごはんはーっ? ゆーごはーん!」
ギルベルトとロヴィーノが、ちらりと視線を交わし合う。す、と息を吸い込んだのはロヴィーノだった。
「美味いイタリアン三人分!」
「よろしくなー! フェリシアーノちゃん!」
行ってきます、とそれぞれひらりと手を振って、兄役二人が歩き去って行く。わぁ、と頬を嬉しさで赤く染めながら息を吐き出して、ヴェネチアーノはうきうきと家の中へ戻って行った。頭の中で献立を組み立てて食材を考え、足りないものを指先を動かして空に書き出して行く。きちんとメモしなければ忘れてしまうだろうけれど、どうしてもそうせずには居られなかった。戻った居間はがらんとしていたけれど、寂しくなかった。
きっと、くるんはハートマークだ。
夕食を作る担当はフェリシアーノ担当、食べるのは三人で、後片付けはギルベルトの担当になった。ロヴィーノは珍しくもフェリシアーノの料理を『うまい』と褒めたので、それでなにもしなくて良いことになったらしい。なんだこの甘々兄弟、と羨ましさと呆れが半々になったギルベルトの呟きはあまりに小さく、誰にも拾われなかったのだが、聞かれていたら白い目で見られていたことだろう。もちろん、お前が言うな、である。
ドイツ人らしいきっちりと計算されて洗いあげられ、重ねられた食器はちょっとしたデザインのようで、フェリシアーノはスケッチブックを持ってきてクロッキーをすることにした。ざくざく線を引いて描かれて行く皿やグラスたちは最初こそ二人の兄の目を引いていたが、二分が経過した頃、飽きられたらしい。完成したら見せて、と離れて行った二人のことを思い出しながら、書き始めて七分。こんなもんかな、と首を傾げる。
なんの変哲もない、ただきちんと並べられただけの洗いあがった皿たちの絵。それでも三人で食事をしたから、普段よりずっと食器の数が多くて、それがなんとなく嬉しかった。にこぉ、とご機嫌の笑みを浮かべてキッチンから居間に出ていくと、兄二人はそれぞれ己の作業に没頭してしまっていた。ロヴィーノは古めかしい楽譜を手にとってソファに膝を抱えてしゃがみこみ、トントン、と指先を動かしてリズムを取っている。
口元がかすかに動いているので、歌詞もリズムに乗せているのだろう。歌ってくれないかなぁ、と期待を込めて十秒見つめたが反応してくれなかったので、フェリシアーノはしょんぼりしながらギルベルトに目をやった。ギルベルトは、テレビの前にクッションを抱きしめて座り込んでいた。ニュースが流れているものの、視線は画面ではなく、手に持つ携帯電話に落とされている。どうやら、メールを打っているらしかった。
どちらも、声をかけるのはなんとなくためらいがある。ヴェ、とうなだれたフェリシアーノはズボンのポケットから携帯電話を取り出して、見もせずに短縮の一番を押す。コールはいつもと同じ、きっかり三回。いかつい声で名を名乗られ、フェリシアーノは聞いてよーっ、と言った。
「聞いてよルート! 兄ちゃんたちが俺をかまってくれないんだよー!」
『……フェリシアーノ。外見上は何歳になった? 言ってみろ』
「俺はルートと同い年ー! だから、だいたい二十くらいであります!」
やけに優しく問いかけられて、フェリシアーノはびし、と手をあげながら答えた。当然、相手には見えないわけだが気分の問題である。電話口で魂が吐き出されそうな溜息が聞こえたので、フェリシアーノはどうしたのかなぁ、と首を傾げた。かまってくれないのはひどいよねー、とぽこぽこしながら文句を言うと、ルートヴィヒはそうだな、と抑揚のない声で返す。疲れてるのかな、と思いながらフェリシアーノは兄を見た。
さすがに電話して騒げば、気がついてはくれるらしい。思い切り顔をしかめたロヴィーノに、聞かれてもいないのにルートだよー、と電話の相手を教えてやると、無言で親指を首の前で動かされる。死ねばいいのに、ということだろう。兄ちゃんひどいっ、と涙声で騒げば、ルートヴィヒはどっちのだ、と溜息をつく。ためいきにかいめー、と思いながらフェリシアーノはぱちぱち瞬きをした。
「どっちって? 兄ちゃんだよ。ロヴィーノ兄ちゃんがね、ひどいんだよ」
「言いつけるな! 電話切れ馬鹿っ!」
「俺はルートとお話するんだよ兄ちゃんっ! 兄ちゃんが俺とおしゃべりしたりしないで、絵も見てくれないで楽譜読んでるのがいけないのであります! 俺の気が済むまで、兄ちゃんと口きいてあげないんだからねっ!」
生きて来た年月に見合った落ち着きは求めないから、せめて見かけにはふさわしくなれ、とルートヴィヒが溜息をつく。その向こうで、騒ぎが聞こえているのだろう。くすくすと女性的な忍び笑いが漏れ聞こえたので、フェリシアーノはばたばた手を振り回しながら喜んだ。
「エリザさんだ! ねえルート、エリザさんいるのっ? なんでいるの? 遊びに来てるのっ?」
『届け物をしに来て、一緒に夕食を食べて終わった所だ。遊びではない……質問は一回、ひとつまでにしろ』
「ヴェー。エリザさん、いまなにしてるのー? 俺はねー、ルートと電話してるんだよー」
知ってるわよー、と遠くから優しげな声が響く。代わろうか、と言ったルートヴィヒの申し出を断ったのだろう。代わりにフェリシアーノには聞き取れない声の大きさで言葉が託され、ルートヴィヒはよくわからない伝言ゲームに巻き込まれる。
『メールしてるの、だそうだ』
「誰とー? エリザさんのメール可愛いよねっ。顔文字とか記号とかいっぱいで、俺だーいすき!」
いつかのブログコメントの顔文字とかすごく可愛かった、とはしゃぐフェリシアーノに、電話口と居間から、ほぼ同時にメール相手の答えが告げられる。
「エリザとメールしてんの、俺だけど」
『ギルとだけど、だそうだ。……フェリシアーノ、用事がないなら電話を切るぞ?』
「あ、なんだギルだったんだー。用事はあるよー。俺とおしゃべりするんだよー」
今日の夕食は俺が作ったんだよー、と言いながらギルベルトの手元を見つめると、さすがに画面は分からないがメールを打っているようだった。先程からずっと打っているように思えたのだが、よく見ると連続しているだけらしい。ぽちぽち、と数文字打って送信し、すぐ受信して、また一言、二言だけを送る。お互いにそんな風にやりとりしているのだろう。メールを送るというより、使い方がチャットに近かった。
なにお話してるのー、と聞くとギルベルトはすこし視線をあげて苦笑する。
「ないしょだぜー」
「ヴェー……。あー、そうだよ聞いてよルート! 今日ね、兄ちゃんとギルが二人で買い物しに行ったんだけど、それでギルの服がさっすが兄ちゃん格好良い似合ってるだったんだけど、そうじゃなくて他になにしてたとかなに買ってきたとか教えてくれないんだよー。仲間はずれなんだよー。にいちゃん同盟を組まれちゃったんだよー。寂しいんだよー」
『兄さんと、ロヴィーノが? ……なんだそれは』
特に仲が良いようにも思えなかったのだが、というルートヴィヒに、フェリシアーノは深々と頷いた。俺とルートみたいじゃないけど、でも仲良しさんに見えるんだよー、と言うとエリザベータの忍び笑いがまた響く。確かにベタベタはしてないでしょうね、と言われるままにまた視線を二人へ向けると、先程の位置から全く動いていなかった。ロヴィーノはソファの上に座り、ギルベルトはその前辺りでクッションを抱いている。
お互いに見える場所には座ってるんでしょう、と囁くエリザベータに頷き、フェリシアーノは声をあげた。
「エリザさん、すごいね! どうして分かるの?」
『ギルのことですもの。さ、フェリちゃん? 電話はこれくらいにして、ロヴィちゃんとギルにかまってあげなさいな』
「ヴェ?」
ささやきの後、ルートヴィヒから電話を受け取ったのだろう。耳元でハッキリと響く女性の声に、フェリシアーノは首を傾げた。かまってもらえないの俺だよー、と文句を言うと、エリザベータは楽しくて仕方がない風に笑う。
『お兄ちゃんたちはね、弟がかまってくれないから仕方なく個人作業してるのよ。それに、ごめんなさいね。これから私、ルートとすこし話し合わなきゃいけないことがあるの』
だからこれくらいで電話は終わりにしてね、と頼みこんでくるエリザベータにこくこく頷いて通話終了ボタンを押す。最後になんの話かと聞いたら、所有権争い的な、と言われたのが気になるが、追及は止めていた。知らないで居た方が幸せに過ごせそうな気がしたからである。携帯電話を机の上に転がすように置いて、フェリシアーノはえい、と叫んでギルベルトに横合いから抱きついた。うわっ、と声があがる。
しかしそれだけで揺れも倒れもしなかったのは、さすがに元軍国だからだろう。いきなりだと危ないだろ、と注意しながらも頭を撫でてくるギルベルトに機嫌よく目を細め、フェリシアーノはうきうきと問いかけた。
「ギル、エリザさんとよくメールするの? 一日何通くらいするの?」
「その日によるな……。てか、俺ら送るの一言とかが多いから、受信も送信もすごい数になってるぜ?」
メールじゃなくてほぼ会話だしな、と言ってギルベルトが見せてくれた画面は、当たり障りのない所を選んだのだろう。『ごはんおいしい』『フェリちゃん』『パスタ。トマトの』とだけ書かれた三通の送信済みメッセージが表示されていて、エリザさんの返信もこういうのなんだろうな、とフェリシアーノは思った。問いかけは『誰が作ったの?』『なに食べてるの?』だろうか。本当に普通の会話だった。というか、会話だった。
「電話すればいいのにー」
「ああ、俺ら電話はあんましねぇんだ。声聞くと会いたくなるから」
今日明日はどのみち会えるスケジュールじゃないから電話しないぜ、とにっこり告げられて、フェリシアーノはノロケだー、とほにゃりと笑った。全力で気が抜ける微笑みに、ギルベルトはフェリちゃん可愛らしすぎるぜー、と腕を伸ばして抱きしめてくる。きゃあきゃあ笑いながら抱きしめられて、フェリシアーノは顔をあげてまだ楽譜に目を落としているロヴィーノを見る。にいちゃーん、と呼べば視線だけが向けられた。
「んだよ。……ギル、セクハラ」
「ちげぇよ愛情表現だよ。フェリちゃん、嫌がってないだろ?」
嫌がらなけりゃセクハラになんねーの、とケセケセ笑うギルベルトに、ものすごく上手な舌打ちが披露された。じゃがいも食い過ぎておへそから芽出しやがれコノヤロー、と呪詛めいた呟きにギルベルトは身を震わせて、さっと腹のあたりに手を押し当てる。想像してしまったらしい。勝ち誇った笑みで鼻を鳴らすロヴィーノを睨みつけ、ギルベルトは低い声でぼそりと呟く。トマトが全部じゃがいも味になればいいのに。
お前が悪魔か、という涙目で睨んでくるロヴィーノに、ギルベルトは高笑いを響かせた。ちょうど二人の間にぺたりと座り込み、フェリシアーノはヴェ、と納得の呟きをもらす。
「兄ちゃんとギル、仲良しさんだー。わはー」
「フェリちゃんの結論と認識は間違っていると言わざるを得ない。ロヴィちゃん、どうにかしろ」
「無理」
すぱん、と切って捨てたロヴィーノに不満げな視線が向けられる。普段なら怖がりもするそれを余裕の微笑みで受け流すロヴィーノは、アントーニョが見たらやれば出来るのになぁ、と溜息をつくことだろう。やればできるのである。やらないだけで。楽譜をぱたぱた仰がせて顔に風を送り、ロヴィーノは恐らく今日明日だけ有効な決定打を言い放った。
「俺が楽譜読んでんのは誰の為だと思ってやがるコノヤロウ」
くるん、と気まずそうにギルベルトの視線が円を描いた。くるくると迷うように定まらない視線は、不思議そうなフェリシアーノをちら、と見て床に落とされる。溜息の後に降参とばかりあげられたギルベルトの両手に、ロヴィーノはよろしい、と頷いた。極めて偉そうな仕草だった。
「フェリ、あんまギルと話すなよ。ムキムキが感染したら泣かれるぞ」
「感染しねぇよ!」
「うー、兄ちゃん? ねえねえ兄ちゃん。兄ちゃんたち、なにかするの?」
歌うとかそういう準備で出かけてたの、とへんにゃり眉を寄せて問いかけるフェリシアーノを、兄同盟の視線がながめやる。ギルベルトは困ったように唇に指を押し当て、ロヴィーノに判断をゆだねた。ロヴィーノは再び楽譜に目を落とし、指でリズムを取りながらそっけなく言う。
「ないしょ」
「うわあああああああんっ!」
俺、一人でシャワー浴びちゃうんだからっ、と言い放ってばたばたと居間を出て行ったフェリシアーノを見送り、ギルベルトは赤い顔で楽譜に突っ伏しているロヴィーノを見た。その横顔もなにもかもが、質問するな、と言っていたのだがギルベルトは息を吸い込む。
「一緒に浴びてんのか?」
「……エコロジーだぞバカヤロー」
なんでお前らそんな可愛いの、と呟きに、ロヴィーノは答えなかった。代わりに足元で眠っていたことりを掴んで、ギルベルトに向かってぶん投げる。コントロールばっちりに顔面で受け止めたギルベルトは、涙目で睨んできた。それに楽譜をひらりと振って、誰の、と言うとギルベルトはぐっと言葉につまる。悔しさというよりは恥ずかしさに視線を彷徨わせながら、ギルベルトはお前だって、とちいさく呟いた。
「フェリちゃんの為だから歌うくせに」
しばらく、答えは返されなかった。ぱら、と楽譜をめくる無機質な音が響き、彼方からはすでに機嫌を回復したフェリシアーノの鼻歌が響いてくる。心地よく目を細めて聞き入るギルベルトの耳に、雨だれのように声が落ちて来た。幸せで笑って欲しいからだ、と。告げられた言葉にギルベルトは頷いて、ただ明日を想った。