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 その聖堂は、手順を知らなければ目にすることもできない。当然、入ることなど不可能だ。厳重に鍵をかけて布をかぶせて覆い隠してある感じ、つまり誰もそこにあるのを知らない状態、と説明したロヴィーノに、ギルベルトが問いかけたのは一つだった。どうしてそんなことが可能なのか。ロヴィーノの答えは簡潔にして一言だけ。それが唯一受け継いだ、『ローマ』からの遺産だから。隠し方も、そして聖堂の存在も。
 アーサーならたぶんすんなり理解したんじゃねぇか、とロヴィーノは苦笑する。妖精を視認し友だと語る魔法使い国家なら、ロヴィーノの遺産の存在も不思議の一つだとして丸ごと受け入れることだろう。あいにくとギルベルトは目に見えるものを主に信じるので、気のない様子でふぅん、と相槌を打っただけだったのだが。興味がない相手の反応に鼻を鳴らすだけで許してやり、ロヴィーノは響かない声で手順を告げた。
 地元民と観光客が入り混じって込み合う大通りの、一番北の花屋から、最も南のジェラート屋まで。自分の鼓動と同じ速度で、足を踏み出し三往復。それから二店舗のちょうど中間にある靴屋の前で、左足を軸に一回ターン。それで隠す為の布は取り払われ、扉の鍵が開かれる。注意するのは足取りを鼓動に合わせて乱れさせないことと、ターンの時には目を閉じること。さもないと、どこにも辿りつけない迷子になる。
 日本で言う神隠し。英国で言う妖精の迷い。それらと違うのは、戻ってくることができないこと。なんでそんな危ない隠し方してるんだ、と文句を言ったギルベルトに、ロヴィーノは不機嫌そうに眉を寄せ、首を傾げて言いきった。スリルを優先してなにが悪い、と。ああそういえばコイツマフィアだった、すごくマフィアだった、と呆れでものが言えない状態で溜息をつくギルベルトの腕を取り、ロヴィーノは悠然と歩きだす。
 人波をするすると避け、一往復、二往復、三往復。四度目は中間地点までの片道で、靴屋の前で立ち止まって目を閉じる。口元だけで笑いながら、ロヴィーノはギルベルトの手を取った。硬く繋ぎ合せて、大丈夫だ、と囁く。
「さあ、行こうぜ。……神様が待ってる」
 ぐい、と強く腕が引かれて、左足だけを残して体が浮き上がる。ぐるん、と世界がパノラマのように回転する錯覚があり、直後にそれは来た。空気の温度が変わる。肌に触れる湿度が別物になる。ごった返す人の声が消え、食べ物の匂いが埃とカビ臭いそれになった。トン、と右足を地に下ろして響く音が、違う。石畳のそれは同じでありながら、響く純度が別物だった。恐ろしいほど澄み渡る音が、静寂を渡っていく。
 大きく息を吸い込むのと同時に、まぶたは自然と持ち上がった。辺りに広がっていたのは、濃い霧と中世の街並み。白亜の大理石がしっとりと佇む裏路地だった。は、と息を吐いて口を半開きにするギルベルトに、ロヴィーノは帰りはここまで歩いて来れば普通に戻れるから、と告げて歩き出す。さっさと進んでいくロヴィーノの背を慌てて追う、己の足元がスニーカーで落ち着かなかった。革靴が似合いそうな場所だ。
 薄く淀んだ風にも思える空気は、けれど清らかで清浄で。一歩を歩くたびに体を洗われているような錯覚に陥り、ギルベルトは己の身をぎゅぅっと抱いた。今来ているのは、昨日ロヴィーノが見立てた上下だ。首元がゆったりとあいた深いワイン色のシャツに、黒に見える濃紺のズボン。麻のジャケットは軽くはおれるものの、冷たい外気を遮るにはすこしだけ心もとない。さむい、と呟けば昨日と同じような黒の上下に淡い黄色のロングジャケットをはおり、首にストールを巻いた完全防備でロヴィーノが振り返る。だから言ったのに、とその瞳が語っていた。
「それじゃ寒いって言っただろーが。俺の言うこと聞かないからだぞこんちくしょ」
「だってせっかくロヴィちゃんが買ってくれたから、着なきゃと思ってよ」
「……いつでも着て来ればいいじゃねぇか。ああもう、これから動くのに体冷やすんじゃねぇよ」
 ため息交じりに告げながら、ロヴィーノは持っていた大きな紙袋に手を突っ込み、白いローブを取りだした。生成りの柔らかなクリーム色で作られたローブは、生地の端におびただしい量の鈴が縫い付けられている。ともすれば不協和音しか奏でないそれは、揺れると金属が千のささやきと歌声を発し、耳に麗しい。ほら、と押しつけられたそれをもそもそと着込み、ギルベルトはほっこりした笑みを浮かべて頷いた。
「あったか……寒い時のあったかさって、なんでこう無条件に幸せなんだろうな」
「寒いからだろ? いいからそれ以上体温下げんじゃねーぞ」
 現実を見据え切った一言でギルベルトのほわほわした幸せをぶった切り、ロヴィーノは手を伸ばしてローブの前を閉じてやった。首の前辺りに縫い付けた糸をボタンに簡単にひっかけて、ロヴィーノはギルベルトの姿を見る。手の甲まで覆い隠す長さの袖は、指に鈴がかかるくらいだ。見えているのは指先だけで、足元も鈴が石畳を擦るギリギリまで長くしてあった。ギルベルトは、かつてその長さに親しんでいる。
 ロヴィーノならこすって歩きそうな裾を時に大きくさばきながら、ふわり、ひらりと布を泳がせて歩いていく。足元は靴に覆われているから見えず、出ているのは本当に、指先と顔の一部だけだった。歩きながらフードで前髪も隠すようにかぶりなおしたギルベルトの、瞳の色だけがロヴィーノには見える。ラズベリー、クランベリー、ストロベリー。森に実る甘く酸味ある果実のような、宝石のように艶やかな赤だった。
 やがて、行く道も終わりを告げる。青銅の門を開いてまっすぐにひかれた回廊を進み、辿りついたのは古く黒ずんだ木の扉。鍵はかかっていないというロヴィーノの言葉の通り、手で強く押しやれば扉はすぐに開かれた。思わず、ギルベルトは息をのむ。濃霧に閉ざされた外より、聖堂の中は明るかったからだ。分厚い大気の覆いをすり抜けて、純金の細い光が窓から差し込んでいる。弱弱しく、けれどしなやかに。
 光の糸。光の帯は無音のままに清らかで、豪奢でいて俗を感じさせない聖堂を淡く照らし出していた。立ったまま口を半開きにして見つめるギルベルトの背を押してすこし中に進ませ、ロヴィーノは扉を閉め、持っていた紙袋を床に置いた。誰を招く目的もない異端の聖堂は、椅子もなくただ四角い空間をはらんでがらんとしている。擦り切れて色褪せ、それでもなお鮮やかに赤い薄布が、床にはひかれていた。
 天井は高く、十メートルは軽く超えるだろう。時を止めた大理石の柱は、複雑な彫刻が施されていた。物語を描かず、ただ色の洪水だけを閉じ込めた風のステンドグラスが、真円を示すように頭の上にある。知らずに止めていた息を、ゆっくりと吸い込む。かび臭くもほこりっぽくもなく、空気からは水を感じた。乾燥しきっていない空気は、喉を痛めない為の配慮に他ならない。ロヴィーノは、神に対して歌うのだから。
 ギルベルトが振り返ると、ロヴィーノはさっさと着替えを済ませた所だった。白い修道服に赤い肩布を腰辺りまで下げ、不機嫌にも見える無表情で立っている。柔らかそうな白いベレー帽を頭に乗せ、ロヴィーノはなんだよ、と眉を寄せながら紙袋をギルベルトに押し付けた。お前もさっさと着替えろ、ということだろう。用意してきた衣装を思って軽く溜息をつきながら、ギルベルトは頷いてローブを脱ぎ捨てた。
 かける場所もないので、足元に落としながら口を開く。ロヴィちゃん、と呼びかけると、いつの間にか目を閉じて集中し始めていたロヴィーノは、そのまままぶたをあげずに答える。なんだ、と無機質に響く声に、着替えを進めながらギルベルトは問いかけた。
「なんで……こんなトコ持ってんだ?」
 ロヴィーノの性格なら放っておくこともせず、遺産を放棄しそうなものである。この場所に辿りつく手順を考えるだけに、ロヴィーノが進んで遺産を相続していることが分かるからこそ不思議で、ギルベルトは首を傾げる。太陽の帝国に愛されたからこそ、ロヴィーノは一人や孤独をなにより嫌がる。誰もいない、なにもないこの場所は、ロヴィーノには似合わなかった。神聖であっても。神聖であるからこそ、一人きりは。
 ゆったりとした白いズボンをはき、足元まで伸びる腰布を巻く。靴は脱いで足元ははだしになり、上は同じく白い布で作られた長袖で、首元をすこし折り返して着るハイネックだ。だぼだぼした大きさなのでやぼったくも見えるが、体の線を出すのは外ならぬギルベルトが拒否したので仕方がないだろう。これに、先程のおびただしい量の鈴を縫い付けたローブを着て、首の前でひもを結べばギルベルトも完成である。
 動きやすさを確かめる為にその場で一度回転すると、布がふわりと動き広がって円を描き、しゃらしゃらと耳に心地よく鈴が鳴る。よし、と頷くとロヴィーノの口から溜息がもれ、ようやく言葉が返ってきた。
「……一人になりたいけど、一人っきりになりたくない時の為に。俺のとっときの場所だぞコノヤロー」
「すげぇ今更だけど聞いておく。俺が来てよかったのか?」
 そうするつもりはないのだけれど、ギルベルトは出入りの仕方も聖堂の場所も教えてもらっている。そんなに大切な場所なのに、他者が勝手に入るような可能性を作ってよかったのかと問いかけるギルベルトに、神子姿のロヴィーノは鼻を鳴らして高慢に笑う。嫌なくらい様になった仕草で、それでいて似合う笑みだった。馬鹿、と言ってロヴィーノは告げる。
「必要だから連れて来た。俺にはお前が必要だし、ギルには俺が必要じゃねぇか。目的を達成する為の手段がそれなら、俺はかまわねぇぞコノヤロー」
「……でもよ」
「黙れじゃがいも」
 にっこりと、どこか愛らしく。そういえばフェリシアーノの兄であったと誰もが再認識するであろうそっくりな可愛らしい笑みで、ロヴィーノはさらりと毒を吐いた。口元を引きつらせて黙るギルベルトにすいと歩み寄り、ロヴィーノは下から睨みあげるように瞳を覗きこむ。翠玉の瞳が、苛立ちに煌めいてギルベルトを見ていた。ロヴィーノはゆっくりと唇を動かし、響かずとも届く声で告げる。言いだしたのはお前だろう、と。
 その可能性を提示したのも。それについて協力を求めたのも。他ならぬお前で、そして応えたのは俺だから。ここまで来てぐだぐだ言うな体に風穴開けて返すぞ、と物騒なことを真顔で言ってくるロヴィーノは、どうやら怒っているらしかった。視線を彷徨わせて反省し、ギルベルトはちいさく息を吐いてロヴィーノの頭を撫でた。
「分かったぜ。ごめんな、ロヴィちゃん……ありがとな」
「……わかればいい。でも、意外だった」
 人の幸せを願えないヤツだと思ってる訳じゃねぇけど、と前置きをして、ロヴィーノは言う。
「自分が幸せだから、他のヤツもそうあって欲しいとか。言うタイプに見えねぇ。それともエリザベータかローデリヒがなんか言ったのか?」
「言わないぜ? エリザもローデリヒも、『アイツ』は消滅したと思ってるからな……フェリちゃんと同じく」
「消滅したんじゃなかったのか?」
 残酷な問いかけに、しかしギルベルトは苦笑しながら首を横に振った。事実上はそうかも知れないけど、厳密にいえば違うのだと。そう仕草で告げて、懐かしげに目を細めて口を開く。
「兄上は、神の御元にいらっしゃる。それは本当だ。……俺は兄上が戻れる条件が整うのを待ってた。条件も整ったし、約束も……今なら怒られはしないだろうし、良い時期かな、と」
「約束?」
「一つ、ルートヴィヒを大国へ育て上げること。一つ、フェリシアーノが笑顔で居ること。一つ、俺が幸せであること」
 ルートはドイツになったし、フェリちゃんは毎日仕事してても歌ってシエスタしてパスタ食べてにこにこしてるし、俺は幸せだし。ほらたぶん怒られない、とそれでも不安げに頷くギルベルトを、ロヴィーノはやや呆れた目で見やった。最初と最後は認めてやってもいいが、二番目の約束は、約束を交わした時点で無理がある。イタリアの片割れ、フェリシアーノの兄は離れて育ったからこそなお深く、その事実を知っていた。
 お前の兄貴馬鹿だろ、と言い放ち、ロヴィーノは首を傾げる。
「消滅したって聞いた時、フェリがどんだけ泣いて、今も時々泣いてるか教えてやりてぇ」
「……いいけど、あんまり乱暴は……兄上、細いから」
「殴らねぇよ。トマト投げたりトマト投げたり、あとはまあ、ちょっと撃つだけだ」
 撃つ時点で『ちょっと』じゃないっ、というギルベルトの猛抗議は、アントーニョを呼び出さないだけ良いと思え、とさらりと流されて終わってしまう。呼び出してなにをさせるというのか。悪友の顔を思い浮かべて、ギルベルトは数秒沈黙した。太陽の沈まない帝国であった男は、ロヴィーノの頼みならなんでもやるのである。相手が旧友であろうと、なんだろうと。せめてもの慈悲だと思おう、とギルベルトは顔をあげた。
 聖堂の高い、天井を見上げる。光の帯がたゆたうその先に、確かに、なにかの存在を感じた。その『なにか』に人は名前を付けて、いつしか『神』と呼んでいた。薄く開いた唇から息を吸い込み、ギルベルトは笑いながら頷く。なんの前触れもなく片足を踏み出せば、体は慣れたように身軽く動き始める。たっぷりの布と鈴の音が、その動きを追った。爪先から着地してくるくると回り、かすかに笑いながらフードを落とす。
 ぱさりと軽い音を立てて肩に落ちたフード部分にも鈴は付いているから、シャラシャラと歌声のように音色が響く。祝祭のように、ただ鈴は歌う。一瞬たりとも不快な音にならないのは、そうなる動きをギルベルトが選んでいるからだ。差し込む光や空気の動き、体の動きと布の揺れを全て計算して、無意識に指や足を動かして微調整をしながら舞っていく。これは神に届ける為の舞いであり祈り、言葉であり剣の輝き。
 人の言葉では届かぬ領域で挑む、無言語の戦。初めはただ動きに慣れる為、遊ぶように機嫌よく舞い踊るギルベルトをなんであんなに楽しそうなんだと呆れて眺めやり、ロヴィーノは足を肩幅に開いて息を吸い込んだ。胸で留めず、肺の奥深く、体中に染み込むよう意識して呼吸を繰り返す。目を閉じるのは、外界の情報を遮断してしまう為だ。視界から入る情報量は多すぎて、集中の海に沈んでしまうには邪魔だ。
 トン、と階段を下りて行くように。すこしの段差を飛び降りてしまうように。海の底に沈む貝殻を探しに行くように。深く、深く、己の望みが届く深くまで意識を研ぎ澄ませてから、ロヴィーノはゆっくりとまぶたを持ち上げた。視界が黒から抜け出しても、もう邪魔だとは思わない。目に映るのは慣れ親しんだ聖堂と、そこで舞う白装束のギルベルトの姿だけ。神に対し挑戦状を叩きつける、同士の唇がにぃ、と月を描いた。
 ふ、と笑い返して、唇を開く。喉をやや反らして、視線は一度天井へと高くあげた。そのまま、声のイメージを作る。どんな声で歌を響かせたいか。どんな色で、どんな質で、どんな温度で、どんな響きで。すっと喉に息を通して、第一音を響かせる。音符を声として形作って遊ぶように、空気と馴染ませるように奏でていく。シャラ、と鈴が鳴った。その音を編み込んでしまうように、ロヴィーノはどんどん声を大きくしていく。
 静かな曲調で紡がれる、高音域の歌だった。繊細で透き通るような歌声でありながら、それは叩きつける強さを持っていた。決して声が激しく発される訳ではない。荒々しく紡がれる訳でもない。けれど舞うギルベルトは、ビリビリと恐ろしい程振動する大気を肌で感じ取り、囚われてしまわないように腕を高く掲げた。見えない楽譜を絡めてしまうように、一時も動きを止めずに鈴の音を響かせ、踊り続ける。
 言葉だけでは届かぬ彼方で響かせる、歌声の解放。人が、人の存在として可能な二つの武器を使って、ギルベルトとロヴィーノは手を伸ばしていた。空に居るその存在に、舞いと歌声が届くように。届かせるように。それ以上そこに留めておくことは許さないと、絶対なる神に向かって不満を叩きつけて、呼ぶ。ここに。どうぞ、ここに。この場所に、この世界に。戻って。戻ってきて。その為の出入り口、道筋を今作る。
 くん、と指先がなにかに引っかかったように引きつって、ギルベルトは大きく息を吸い込んだ。足がもつれて倒れそうになるのを堪え、不安定な体制を立て直して舞い続ける。タン、と強く足をふみならした音がすると同時に、ロヴィーノもその存在を感じて天井に向かって手を伸ばす。呼び戻すのは禁忌だ。それくらい知っている。けれどギルベルトは言った。初めに不当に奪ったのは、消し去ったのはあちらなのだと。
 消滅は歴史に刻まれる運命だった。どうしても逃れられぬことだった。それでもギルベルトのように、国土や民を失いながらも『国』の片割れとして、存在している例外もいる。一国を二人で分かち合う、ロヴィーノとフェリシアーノが居る。フェリシアーノが交わした、約束がある。ならば、これは禁忌ではない。奪われたものを取り戻すだけ。相手が『神』であっても、許されないことだとしても。許されなくても、深く望む。
 意識が浮遊しかける。体から引きずり出される感覚は眩暈に似て、ロヴィーノは手を握り締めてそれを絶えた。こちらへ引っ張るのがギルベルトの役目なら、二人があちらへ引きずられないよう、耐えるのがロヴィーノの役目。ギルベルトはむずがる様な顔つきをして、ぎゅぅ、と目を閉じて舞っている。時折嫌がるように首を振るのは、手が離れてしまう感覚があるからだろう。いいから戻れよ、とロヴィーノは言いたい。
 その存在があって、初めて心から幸福に笑える者がある。ロヴィーノにとってのアントーニョのような、ギルベルトにとってのエリザベータやルートヴィヒのような。世界の色を変えてくれた、たったひとり。花がきれいだと教えてくれた、空の青さを喜んでくれた、鳥の鳴き声を美しいと言った。恋することを教えてくれた。フェリシアーノと約束をした、たった一人の。意識が引きずられて、がく、と足が折れて座り込む。
 肩で血の味がする息を繰り返しながら、ロヴィーノは手を伸ばした。瞳から涙があふれていく。ぼろぼろと零れて止まらない歪んだ視界の中、懐かしい誰かの服を掴んだ気がして。錯覚でも本当でも、どちらでもいいと思って。ロヴィーノは精一杯の願いを込めて、叫んだ。
「じいちゃん! じいちゃん、じいちゃん……たす、けてっ!」
「親父! フリッツ……! 兄上を、兄上をこっちに、戻して……っ! フェリちゃんが待ってるんだっ!」
 春が巡れば、窓の外を眺めて。家に続いていく道の果て、空の向こうをじっと眺めて。なんのお菓子を作ろうかな、と叶わぬ願いを口にして。もう永遠にその時が来ないと知っていて、それでも諦めきれなくて。誰もいない昼に部屋の片隅で、時々は深夜に兄の背中にくっついて。声もなく、言葉もなく、呼びかける相手も持たずに。ぽろぽろ涙をこぼしては幸福の時を思い出し、そんな風にフェリシアーノは待っている。
 神聖ローマ帝国。初恋と約束の相手を。
「じいちゃん……フェリが待ってんだよ」
 ぎゅぅ、と握りしめた手のひらに、大きなぬくもりが触れる。ハッとして顔をあげたロヴィーノは、遥か古に居なくなった祖父の、誇らしげな笑みを見た気がした。ぐら、と意識が揺れる。気が付けば床に激突寸前で、ロヴィーノはばっと手をついた腕立て伏せの要領で体を支えた。すぐにへしゃりと床に横になり、荒い息を吐く。成功したのか失敗したのか、よく分からない。今見えたものが現実なのか、幻覚なのかも。
 ダメかな。またフェリ泣くかな、と悲しく鼻をすすると、倒れるロヴィーノの傍らに疲れ切った様子でギルベルトが腰を下ろしてくる。シャラシャラなる鈴の音の合間に溜息を挟んで、ギルベルトはロヴィーノの頭をぐしゃぐしゃに撫でた。顔を見ようと視線をあげていくと、ギルベルトはなぜか片手を目のあたりに押し当てていて視線が合わせられない。不審に思って声をあげると、ギルベルトは恥ずかしそうな声を出した。
「気にすんな。これは、その……エリザ専用、っつーか」
「意味分からねぇよ」
「ちょっと俺様疲れてて、軽く目の色が違うから……エリザ以外に見せられねぇんだ。悪いな、ロヴィちゃん」
 疲れ切った頭では、ギルベルトの言葉を理解できない。おざなりに頷いて流し、ロヴィーノはよろよろと体を起して座りなおした。ふぅ、と息を吐き出して、ロヴィーノはギルベルトの方を見ないようにして着替え始める。歌う時以外で、この服はなるべく着ていたくないのだった。ためらいなく脱いで洋服にきなおしながら、ロヴィーノはそれで、と問いかけた。
「ダメだったのか? それとも、なんとかなったのか?」
「なんとかなった。今すぐから一年以内で、兄上が戻ってくる」
「幅広すぎだろうがコノヤロー!」
 思わず叫んだロヴィーノに、さもありなんとギルベルトが深々と頷く。さっさと着替え終えたロヴィーノと違って、こちらは舞装束のままだった。無言で携帯を取り出し、純粋な嫌がらせで何枚か写真を取ってやりながら、ロヴィーノは無言で脱力しているギルベルトを睨みつける。
「なんで一年もかかるんだよ。準備は終わってんだろ? あとはこっちに来させるだけだったじゃねぇか」
「やー……それはほら、兄上の心の準備があるじゃん? きっとそう。たぶんそう」
「……一月以上待たせてみろ。俺の家には一歩も入れないからなっ」
 お前の兄だろそう言っとけ、と告げられて、ギルベルトは複雑そうな顔をした。伝言を伝えてやりたい気持ちはあるが、そんなことを言われても、という所だろう。うー、と悩むギルベルトを見ていると、ロヴィーノの手の中で携帯が着信を告げる。見ると上司だった。うわ、と声をあげて電話にでたロヴィーノの顔つきが、どんどん嫌そうなものになっていく。弟にやらせろよ、と言いながら、ロヴィーノはギルベルトを見た。
 ジェスチャーだけで先に行ってるから、と告げ、ロヴィーノは聖堂を出ていく。一度だけ振り返って、出たトコの正面のカフェ、と叫んで行ったので、待っていろということだろう。了解、とため息交じりに告げて、ギルベルトはゆっくり立ち上がった。すこし膝が震えている。疲労感が激しすぎて、眩暈がした。

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