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 9 いとしさのありか

 例えば、決まった仕草や視線のやり取り。あらかじめの詳しい打ち合わせ。そんなものは、必要ではないのだろう。大切なのはその瞬間を逃さない、ただそれだけで。会議終了後のややざわついた議場、換気の為に菊が窓を開けたのがはじまりの合図であったに違いない。荷物をまとめて後は帰るだけのルートヴィヒの隣で、目をキラリと輝かせてギルベルトが立ちあがった。大げさな仕草ではない。無音の動きだ。
 見ていれば立ち上がることに気が付き、そうでなければ空気が揺れたとしか思えない程度の仕草。第六感が告げたのだろう。嫌な予感にルートヴィヒが兄の腕を掴むより早く、ギルベルトは机の上に片手を置いて身軽く飛び越え、あっと言う間に開け放たれた窓に向かって駆けだして行く。本日の会議は運の悪いことにホテルの高層階ではなく、公的な建物の一角で行われていた。現在位置は、地上三階である。
 察した菊が無言で窓を閉めようとするより早く、辿りついたギルベルトは窓枠に足をかけ、室内を振り返ってにぃ、と笑う。悪戯を思いついてしまったから実行するしかない、という意味の分からない使命感に駆られたこどもの表情だった。兄さんっ、と怒れるルートヴィヒの叫びさえ微風だと言わんばかり小首を傾げ、ギルベルトは身軽く窓枠を踏み切った。
「飛び立てっ! ことりのようなおれさまー!」
「やーだわー、もー。ギルちゃんったら、言ってみたかったのねー」
 けらけらと危機感もなく笑うフランシスに見送られ、ギルベルトは面白くて仕方がないという、奇声に近い笑い声をあげて地上三階から飛び降りた。ことりを真似して羽根のように広げられた腕の先、手がぴよぴよと動かされていたのは何らかのこだわりなのだろう。場内の国々が唖然、もしくは愕然とした表情で動きを止めてしまう中、動いていたのはフランシスだけだった。足音も軽やかに、フランシスは歩いていて。
 誰もが気が付いた時にはフランシスは手に三人分の仕事用鞄を持って、にこやかな笑顔で窓枠に足をかけていた。もちろん、ギルベルトが鳥人間もかくやな勢いで飛び降りた窓と同じである。凍りついている菊に至近距離から投げキスを一つ送り、フランシスはじゃあね、とあくまで華やかに窓枠を蹴って外に飛ぶ。誰もが耳を澄ませてしまった沈黙と静寂の中、だんっ、と強く大地を踏みしめて着地する音が響いた。
 いぇーい、と声をあげてハイタッチする音もかすかに聞こえて来たので、フランシスもギルベルトも無傷で着地しているようだった。恐ろしくて誰も窓に近寄ったり、下を覗いたりしていないので、確実なことではなかったのだが。えええ、とようやく衝撃から復帰しかけた菊の肩を、温かな手が包み込む。ぽんぽん、と慰めるように叩かれて、見ればそこに立っていたのはアントーニョだった。それだけで、誰もが理解する。
 フランシスが持っていた鞄は三つ。一つが自分のもの、もう一つがギルベルトのもの。そして最後の一つがアントーニョのものである。アントーニョは鞄の代わりに、大きめの紙袋を三つ持っていた。袋から覗くのは普通の服で、靴も入っているようだった。まさか、とつい見守ってしまう視線を受けながら、アントーニョは特に気負う様子もなく窓枠に足をかけ、室内を振り返ってにっこりと笑う。ひらひら、と手が振られた。
「じゃ、おつかれさんやでー」
 トン、と踏み切る音もかろやかに、アントーニョも空中の人となった。先程と同じく重たく響く着地音が風に乗って聞こえ、それからまたハイタッチでもしたのだろう。べちべちと痛そうな音がこだまして、それからどぉっと笑い声があがる。そこでようやく己を取り戻したルートヴィヒは、窓まで駆けより、身を乗り出して外を見た。しかし予想した地点に三人の姿はすでになく、軽やかに爆走する背を遠くに見送ることとなる。
 なにが楽しいのかすら見失ったような三人分の馬鹿笑いが、爽やかな午後の風に乗って届けられた。あっと言う間に見えなくなってしまった姿を、追いかけることは不可能に近いだろう。やられた。完全に出し抜かれた。数日前まで微熱が出ていたギルベルトは、大事を取って家の中で静養させたいたのだが、恐らくはそれがいけなかったのだろう。ギルベルトの性質は炎や風のように形を持たず、なによりも自由だ。
 閉じ込められること。閉ざされること。それらはなによりストレスになり、時折、こうした暴走行為に駆り立てる。それでも普段は、兆候を見せた時点で未然に防ぐことができるのだが。その身一つで飛び出して行ったギルベルトを追って、重要書類と身の回りのものを持ったフランシスが行き、周到に着替え一式を用意したアントーニョも続いてしまった以上、どんな奇跡が起こったとしても素直に戻って来ることはない。
 一人が飛んだ所で窓を閉めていれば、二人は続くのを諦め、ギルベルトも散歩程度で戻ってきたかも知れないが。がくりと脱力して座り込むルートヴィヒの頭上で、はぁ、と溜息が洩れる。それが呆れというよりは感嘆に近いものだった為、ルートヴィヒはどんよりと問いかけた。
「なんだ、どうかしたのか? 本田」
「ああ、いえ。その……実に見事で鮮やかな脱走劇だったな、と思いまして」
 三人は恐らく綿密な打ち合わせの計画上で動いていたのではなく、その場を見て臨機応変にしかしなかった筈だ。ギルベルトが脱走するのが第一条件だから、本人がまず真っ先に逃走する。脱出路を確保するまでの動きは静かにして大胆、そして素早いものだった。確実に逃げられると踏んでからは派手に、とにかく楽しげに振る舞って周囲の注目と視線を集めて動けなくさせ、その間にフランシスが次を考える。
 そしてそつなく鞄を回収したフランシスが立ちまわっている間に、どこかに隠しておきでもしたのだろう。アントーニョが三人分の着替えを取ってきて、二人の後を追ったのだ。着替えを用意しているあたり、事前にギルベルトがメールかなにかで遊びたいから協力しろ、くらいの連絡はしたのだろう。どうりで三人とも、会議中比較的静かだった筈だ。体力を温存していたに違いなく、数百年を生きた者とは思えなかった。
 いつまで経ってもお師匠様は童心を忘れない方で居らっしゃる、としみじみ関心して頷けば、ルートヴィヒが恥ずかしそうに視線を彷徨わせた。褒めたのですが、と言い添えた菊に、ルートヴィヒは分かっている、と頷いた。嬉しくもなく、誇らしくもなく、身内として恥ずかしいだけで。
「……まあ、良い天気です。遊びに行きたくなる気持ちも、分からなくはないですよ」
 慰め調子で告げた菊が指差したのは、真っ白な雲がいくつか浮かぶだけの青空で。まだ午後をすこし回っただけの会議終了に、遊びたくなる気持ちは誰にでもあるだろう。これからどうなさいますか、と遠回しに外出を誘っているような菊の言葉にすこし考え、ルートヴィヒは申し訳なさそうな顔つきで立ちあがった。腹いせもかねて遊びに出かけてしまいたい気持ちは山々だったが、あいにくと着替えの用意がない。
 それに、ルートヴィヒにはまだ重要な使命が残されているのだ。家に帰って夕食を作らなければ、と言ったルートヴィヒに菊はおやおやと目を細めて笑い、素直に頷いて見送る姿勢を取る。それではまた次の会議の時にでも、と言われるのに頷いて、ルートヴィヒはため息交じりに、もう一度だけ空を見上げた。憎たらしくなるほど、鮮やかな青空だった。



 街は活気にあふれていた。人波と雑踏の中を楽しげに歩いていくギルベルトとアントーニョの足取りは早く、二人を追う形になって歩きながら、フランシスはゆったりと苦笑する。場所や時間を決めて遊びに出掛ける訳ではないのだ。目的地もないただの散策なのだから、もうすこし落ち着けばいいものを。フランシスの視線の先で、二人は笑顔を辺りに撒き散らしてはしゃぎまわっている。初めて来た場所でもないのに。
 色が青から赤に変わった信号機を指差してアントーニョが笑うと、視線を追ったギルベルトも体を二つにまげて大爆笑を繰り広げた。無言で同じ信号機を見るが、フランシスの目には特に変わったものには思えなかった。いたって普通の信号機だ。笑う所などなにもない。だが二人は互いの体を平手で叩きながら、げほげほ咳き込んでまで笑っている。恐らく今の二人なら、目の前を箸が転がって行くだけで笑うだろう。
 もー、なにそんなにはしゃいじゃってるの、と思いながらもフランシスまでだんだん楽しくなって来て、開いていた距離を小走りに詰める。そのまま咳き込んで笑う二人に腕を広げてダイブすれば、爆笑しながら出迎えられた。しばらくもみくちゃに抱きしめあったり、頬や額にキスしてみたり、背中を叩いてみたり足を蹴飛ばしてみたりじゃれあって、三人は同時に深呼吸をした。びっと人差し指で天をさし、アントーニョは良い天気やなぁ、とにこにこ笑う。ギルベルトは青空が綺麗すぎるぜっ、とぶんぶん手を振り回して笑い、フランシスは二人の頭に手を置いた。
 ぽんぽん、と撫でてやれば二人は同じように驚いた顔つきになった後、くすぐったそうに首をすくめ、また笑う。なんやのー、こども扱いするんじゃねぇぜー、とぷりぷり抗議されるのを軽く流して、フランシスは華やかな笑顔で問いかけた。
「で、アントにギルちゃん。どこ行ってなにすんの?」
「そんなん知らんわ。どっか行ってなんかすんのでいいやろ? なあ、ギル」
「だよな。どっか行ってなんかすんのでいいじゃん。とりあえずあっち行こうぜっ!」
 意気揚々とギルベルトが指差したのは、ただ単に進行方向だった。会議場から出てなんとなく道を選び、なんとなく進んでいた延長線を、もうすこし伸ばすつもりらしい。私生活では恐ろしいほど規律に則った一面もあるというのに、ギルベルトはこういう時ばかり大雑把だった。それに付き合ってやるのも大変だと思いながら、フランシスは浮足立って歩き出すギルベルトの後を追い、アントーニョもゆったりと二人に続く。
 大通りをのんびり行きながら、フランシスは私服に着替えた己の格好と、二人の姿を見比べて優しく目を細める。今日の悪友コンセプトは『誰かに選んでもらった服で!』なので、当然、相手の趣味によって着せられている状態だ。フランシスの服はいつか仕方がなくイギリスが選んだ一揃いで、ただ遊びに出かける服装であるのに、どこかフォーマルな印象を持たせている。着崩すと、とたんにだらしなくなる服だ。
 その点、アントーニョの服装は、さすがにロヴィーノのチョイスだった。遊び心があって華やかな色合いと印象の服であるのに、ジャケットの一枚でも羽織れば内輪の会議程度なら通用してしまう。ギルベルトの服は、エリザベータが選んだものだという。アントーニョと同じくロヴィーノに選んでもらった一揃えも持っているらしいが、下手にエリザベータの目のある所で着たくないらしい。エリザ怖かった、と半泣きだった。
 ギルベルトの服の傾向は、アントーニョよりもフランシスに近い。ごく淡い薄藤色のワイシャツに黒いネクタイを締めて、綺麗な緑の飾り石が付いたネクタイピンで止めている。下はなんの変哲もない黒のズボンなので、スーツの時よりは色が遊んでいるが、会議帰りに見えなくもなかった。もしくは完全な私服を悪友二人に見せたくないが為のセレクトなのかも知れないが。多分そっちだろうな、とフランシスは頷いた。
 じっと服装を見ていると、ペットショップのショーケースに張り付いて騒いでいた二人が顔をあげる。アントーニョを場に残して小走りにかけて来たギルベルトは、どしたの、と笑うフランシスの腕を引っ張って犬、と言った。
「子犬だぜ、子犬! すっげ可愛いっ! だから俺見るよりも子犬を見ろ」
「あー、それがねえ。お兄さん、今、猫ちゃん派なんだよね。子犬ブームは十年待って」
「なんなん? また拾ったん?」
 ほんまペット飼うん好きやねぇ、とアントーニョに呆れられる程、フランシスは生き物を家に入れることが多い。それは観賞用の小さな魚であったり、子犬であったり子猫であったり小鳥であったりさまざまだが、その八割をフランシスは拾ってくるのだった。いわく、街を歩いてたら一目惚れされちゃったんだお兄さんの魅力は種族を超えるね、らしいが悪友は半分も信じていない。可愛くて連れてきてしまったに違いない。
 すこし前まではハムスターだった筈だが、猫に代わったということは天に召されてしまったのだろう。フランシスは決して二種の動物を一緒に飼うことはしなかったし、大体が猫とネズミだ。組み合わせるには危険すぎる。家に帰ると玄関に座って待ってにゃって鳴くんだよ、とでれでれした顔で愛猫の可愛らしさを語るフランシスを、へーそうなん、の一言で切って捨て、アントーニョはギルベルトの手を引いて歩きだした。
「お腹すいてしもたわー。なんか食べへん? なあフランシス。オススメのカフェにでも連れてって」
「お前、そんなんだからいつまで経っても……いいや、すぐそこ。その角曲がって二件目の、オープンテラスついてるトコのパン類が絶品。甘いパンも食事パンも全部店で焼いてて、運が良ければ焼き立てで出してくれる。アレンジコーヒーがメニューに多いけど、ギルちゃんが好きなブラックでもホント美味しいと思うよ。アントの好きなケーキも常時五種類と、プラス季節のオススメケーキもある。そこでどう? 休む?」
「フランシス、本当に良い店知ってるよなぁ」
 アントーニョに手を引っ張られながら感心したように言うギルベルトに、フランシスは苦笑しながら告げた。
「食に対する愛の差だろ? お兄さんはどんな時でも美味しいものが食べたい」
「贅沢者。食べ物あるだけで十分じゃねぇか」
 俺だって美味しいほうがいいけど、と言ってくるギルベルトの頭を軽く撫でて、フランシスはすでにテラス席に座っているアントーニョの隣に腰かけた。さほど納得していない表情でギルベルトも座り、けれどそれ以上を口に出すことなくメニューに目を落とす。素早く三人分の注文をすませると、すぐに飲み物が運ばれて来た。ギルベルトはコーヒー、フランシスはカフェオレ、アントーニョはカプチーノで、それぞれ乾杯する。
 カフェオレボウルを両手で包むようにして口を付け、フランシスはケーキを三つも前にしてキラキラ輝いているアントーニョと、見てるだけで口が甘い、と引きつった表情でサンドイッチを食べているギルベルトを見つめた。二人は先程と同じように同時に顔をあげて気が付き、もの言いたげな、不思議そうな顔つきになってフランシスに視線をやる。二種類のなに、が響く前に、フランシスは落ち着いた口調で問いかけた。
「で、二人とも。最近はどんな感じよ」
「どんなて、なにが? 体調? 経済? それともロヴィーノ?」
「分かってんじゃねーか」
 絶妙なボケツッコミを披露した二人に、その自覚は無いのだろう。三人が集まればこの会話テンポはいつものことで、一々突っ込む気もなければ、気にすることもないのである。ロヴィーノのこと、とわざわざ口に出して言ってやれば、アントーニョは木苺の甘酸っぱいケーキをもぐもぐしながら、ごく僅か嫌そうに眉を寄せた。
「最近、ロヴィ口説くにはまずフェリちゃんと仲良うしないといけない気がしてきた」
「……なにしたんだよ」
 正確には、まだなにもしてなかったのかよ、とギルベルトは言いたかったに違いない。呆れとかすかな苛立ちを持って告げられた言葉に、アントーニョはフォークを口にくわえたままでへにゃん、と情けない顔つきになった。デートに誘ったんよ、と言葉が落とされる。わりとすごい進歩である。おお、と驚くギルベルトとフランシスに俺かて頑張ってんのや、と言い、アントーニョは深々と溜息をつき、ケーキを食べた。
「んでな? 映画見ようと思うやん? そういえばロヴィこれ見たいって言ってたやろー、親分と一緒に行こかー、って言ったらこうや。『もうフェリと行った。遅い』って怒られてん。新しくできたレストランもケーキ屋さんも同じでな、花贈ろうにもフェリちゃん、よく仕事帰りに『兄ちゃんにお花ちゃん』いうて買ってくるんやて。靴もそうや、服なんてフェリちゃんと色違いのペアルックでロヴィも満更じゃなさそうや……楽園やんなあ」
 かつて、こんなにどんよりした重苦しい『楽園やんなあ』を聞いたことはなかった。あるにはあるが、過去最高の落ち込み具合である。お前それフェリちゃん絶対怒ってるぞ、とヴァルガス兄弟を俺の天使たち、と言ってはばからないギルベルトが呟けば、フランシスも深々と頷いて同意する。恐らく、フェリシアーノに悪意はない。純粋にアントーニョの邪魔をしようと思って行動しているだけで、悪意ではなく、兄への愛だ。
 過去何度か、アントーニョはロヴィーノとのあまりの進展のなさについて、フェリシアーノに怒られている。大体十年から二十年くらいの周期で発生する現象であるので、珍しいことでもないのだった。俺もそう思う、と二個目のケーキを食べ終えて三個目にフォークを突き刺しながら、アントーニョは溜息をつく。
「ロヴィーノは俺のお花ちゃんやのに、フェリちゃんにはベルンハルト、やったっけ。神聖ローマが居るのになぁ」
「ベルンハルト、であってるぞ、兄上の名前。……今日もそういや来るっつってたな、フェリちゃん」
 バイルシュミット家の長男は、亡国である次男よりなお会議などに出てこない。たまに弟たちの出迎えやフェリシアーノに呼び出されて顔を見にくるくらいで、普段はまさしく自宅警備員なのだ。おかげで、フェリシアーノがバイルシュミット家に来る日がどんどん増えている。俺ん家が今楽園、と頷いたギルベルトに、アントーニョからすごく恨めしげな目が向けられた。その状況であれば、ロヴィーノも一緒だからである。
 楽園やんなぁ、と涙声で鬱々と呟かれて、ギルベルトは若干引きながら目でフランシスに助けを求めた。フランシスはもちろん心得てはいるがにっこりと笑い、ギルちゃんは、と問いかける。へ、と瞬きしたギルベルトに、フランシスはエリザベータとどうなってんの、と笑う。
「二人とも、って言ったでしょう。ギルちゃんもお兄さんにお話ししてごらん? そしたら助けてあげる」
「……特に困ってることねーし」
「困ってなくてもいいよ。ギルが幸せなら、幸せなことを教えてくれると嬉しいな。アントーニョは自業自得。フェリシアーノに謝ってロヴィーノに会う許可もらって、まあそこからだね」
 簡単に許可くれるとは思えないけど、と苦笑するフランシスの頭の中で、まさしく天使のように愛らしい笑みを浮かべたフェリシアーノがヴェ、と鳴いた。ヘタレなようでいて、恋愛方面には異常に強いのがヴァルガス兄弟だ。もしかしたらフェリシアーノの行動も含めてロヴィーノの手の中なのかも知れないが、それならそれで転がされてやるべきだ、ともフランシスは思う。アントーニョは溜息をついて、ケーキを食べた。
 四個目を注文しているアントーニョを尻目に、フランシスは困った顔つきで沈黙するギルベルトに目を戻す。ギルベルトは視線をうろうろと彷徨わせたあげく、やや頬を赤くして口を開いた。
「……エリザさ、可愛いんだよ」
「うん。知ってる。エリザちゃん可愛いよね。ギルは俺のもの、って宣言してたけど」
「そやな。エリザちゃんは可愛い。ギルは俺の嫁だから、って主張してたけど」
 お前なにしてんの、とギルベルトは思わなかった。つい先程まで行っていた会議の開会前に、悪友にじゃれつかれるギルベルトを見てむっとしたエリザベータが言っておきますけど、とつい昔の口調で叫んだせいだ。そのせいでギルベルトの精神疲労がさらに加算した気がしなくもない。可愛くてでも男前だよね、と言ってくるフランシスに諦め気味の表情でこくりと頷き、ギルベルトは続けていく。
「髪とかふわふわで猫っ毛で良い匂いとかするし、腰とか細いのに胸でかくてふにふにだしほよほよしてるし、抱きしめるとやーらかいし、なんか笑うと綺麗ってか、綺麗なこともあるけどやっぱ可愛いし……俺より体つきも華奢だし、一回りちょいは小さいし、とにかく可愛いんだよ」
「ベタ惚れやね、ギル。知ってたけど」
「俺も知ってたけど、エリザちゃん好きだねぇ、ギル」
 二人から同時に言われたギルベルトは、うるせ、とむくれた声で抗議しただけで否定はしなかった。それに気が付いて、フランシスは本当によかったねぇ、と目を細めてギルベルトを可愛がる。すこし前までなら、この後に『あんな女』だの『好きじゃねえけど』だの、ひねくれた言葉が付いてしまうものだったのに。恋は人を変えるのだ。良いようにも、悪いようにも。にこにこ笑うフランシスに、ギルベルトは軽く眉を寄せた。
「けど、なんか」
「うん?」
「ぎゅーとか、ちゅーとか。できれば俺、なんかそれでいいんだけど」
 あれか押し倒され慣れて押し倒す気がなくなったとか、と冗談めかして苦笑するギルベルトに、フランシスは静かな表情で苦笑した。す、と手を伸ばす。前髪を指で巻くようにくしゃっと撫でてやれば、ギルベルトは目を細めてなんだよ、と笑う。それに柔らかく微笑み返して、焦るのやめなね、とフランシスは告げた。ぴたりと動きを止めたギルベルトに、フランシスは俺たちもそう若いわけじゃない、と冗談めかして言う。
「つーかお前らはね、想った期間が長すぎたのも理由の一つだと思うよ。平和に過ぎた時間もあったけど、今みたいにボケるくらいじゃなかったしね……いいんだよ、ギル。焦らなくて、いいんだ。大丈夫。エリザちゃんはそこに居てくれるだろ? キスで満たされるなら、それでいいじゃん。エリザちゃんがその先を望むなら、ちょっと一回話し合うのも必要だと思うけど、嫌なわけじゃないんだろ? したくないとかでもないし」
「そりゃ、したいけど」
「うん。じゃ、ありきたりだけど、そのうち絶対したいって思うようになるって。……一緒にシャワーとかどうよ」
 実際見て触ればそういう気持ちになることもあるし、と笑うフランシスに、ギルベルトはこくんと頷いた。よしよし、と頭を撫でて、フランシスはアントーニョに目を向ける。四個目のケーキを食べ終わったアントーニョは、ちょうどカプチーノを飲み干す所だった。二人のカップにも、飲み物は殆ど残っていない。行こっか、と笑うフランシスに頷き、二人も椅子から立ち上がる。んー、と大きく伸びをして、ギルベルトは笑った。
「やべ、エリザに会いたくなった」
「俺もロヴィーノに会いたいわぁ……。今日はもう解散せぇへん?」
「はいはい。お兄さんも愛猫に会いたくなったから帰りますよ」
 そういうことで今日の勘定は誰が持つかジャンケンの時間です、と重々しく告げたフランシスに、ギルベルトとアントーニョはごく真剣な顔をして頷いた。



 居間はずいぶん騒がしかった。アントーニョとフェリシアーノと、ロヴィーノとベルンハルトが、よく分からない四角関係に巻き込まれているせいだ。嫁姑争いに近いものがあるかも知れない。ルートヴィヒは早々に諦めてキッチンにこもり、大人数の夕食準備をしている。本当はギルベルトはそれを手伝おうとも思うのだが、大騒ぎの中で誰にも気がつかれないようにエリザベータの腕を取り、廊下へと連れ出した。
 ぱたん、と背後で扉が閉まる。大騒ぎの中だというのに、その音はやけに廊下に響いた。どうしたの、と問いかけてくるエリザベータに手を伸ばし、ぎゅぅ、と抱きしめる。柔らかな体はちょうど良くギルベルトの腕の中に収まって、腕の強さに身じろぎをした。痛い、という程でなくとも息苦しいのだろう。ちょっと、と吐息に乗せて軽く文句を言うだけで背に腕を回してくれたのは、ギルベルトがすこし泣きそうだからだ。
 ぽんぽん、と背を撫でながらエリザベータの優しい声が問いかける。どうしたの。嫌なことがあったの、怒られたの、それとも落ち込むことがあったの。そのどれもに首を横に振って、ギルベルトはただぎゅぅ、とエリザベータを抱きしめた。エリザ、と名を呼ぶ。なに、と声が返されると、すぐにもう一度。エリザ。なに。エリザ。なによ。えりざ。なに。エーリーザー。なーにー。途中から、どちらも笑い交じりの声だった。
 くすくすと笑いあいながら、ギルベルトはエリザベータの肩に甘えて額を擦りつけた。
「……エリザ」
「なに、ギル」
「可愛くて可愛くて仕方ないんだけど」
 すぐには、なにを言われたのか分からなかったのだろう。時間を置いてじわじわと恥ずかしくなって来たらしいエリザベータの顔を間近で見つめて、ギルベルトはごく優しく目を細めて微笑んだ。可愛い、と思うままもう一度呟けば、アンタ絶対熱出てるわよ、とかわいくない返事が返ってくる。ケセセ、と肩を震わせて笑い、ギルベルトは改めてエリザベータを抱きしめた。すぐにぎゅぅ、と抱きしめ返されて、胸が熱くなる。
 この存在こそ、愛しさの在処。いつもどんな時も、必ずここへ戻ってくる。想いは、必ず、ここへ還る。じーっと見ていると、戸惑いながらもエリザベータはギルベルトと視線を重ねてくる。なによ、と勝気に見返され、ギルベルトはケセケセ笑ってべつにぃ、とからかい口調で言った。恋をしていると。恋しいと告げたらどれだけ可愛くなるだろうか。そう思いながら言葉を告げる為に、ギルベルトは口を開いた。

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