はぁーい、と柔らかな声が甘く響く。その時点で予想はしていたのだが、バイルシュミット家の玄関を来客に向けて開け放ったのはフェリシアーノだった。フランシス兄ちゃんアントーニョ兄ちゃんいらっしゃい、とにこにこ笑うフェリシアーノは二人の来訪を家主から知らされていたのだろう。特に驚いた様子もなく出迎えると、機嫌良さげにくるんをふよふよさせていた。逆に、苦笑して動けないのがフランシスである。
ここバイルシュミット家やんなぁ、と不思議そうに家の外観を確認しているアントーニョを横目に、フランシスは不思議そうなフェリシアーノに、言葉を選んで口を開いた。
「……なにしてんの?」
チャイムを鳴らして来客を出迎えに来るのが、なぜ三兄弟の誰かではなくフェリシアーノなのか。平日で仕事もあるだろうに、フェリシアーノはイタリアではなくなぜドイツにいるのか。むしろバイルシュミット三兄弟は、フェリシアーノになにをさせているのか。尋ねたいことの全てを一言に凝縮させ、なおかつ的確な答えが返ってきそうな言葉を選んで問いかけたフランシスに、フェリシアーノはヴェヴェ、と嬉しそうに鳴いた。
「俺ねー。ご飯係なんだよ、フランシス兄ちゃん。あとねー、ルートがねー、後で二人が来るから出迎えを頼むって言われたんだよー。それでねー、俺はちゃんと仕事もぜぇんぶ終わらせて来てるから大丈夫なんだよ、って言うのも伝えておけって言われたんだよー。だから明後日くらいまでは帰らなくても大丈夫。それに今、兄ちゃんがお仕事してるから俺はお休みなの。アントーニョ兄ちゃんは俺ん家、立ち入り禁止ね」
フェリシアーノの兄、ロヴィーノが『イタリア』としての仕事をするのは至極稀なことである。フェリシアーノが一人では手が回らなくなって倒れかねないくらい忙しいか、どうしてもと上司から強制されて仕方なくか。さもなくば、ストレスが溜まっていて、その解消として仕事をし始めるのである。フェリシアーノが明後日分まで仕事を終わらせて出歩けるくらいなのだから、忙しくて目が回りそうであるとは考えられない。
アントーニョにイタリア国内立ち入り禁止を命じたところを見る分に、今回はロヴィーノが元宗主国に対して色々想うことがあってのことらしい。アントーニョがこの世の絶望に叩き落とされた顔つきでショックを受けるのに笑顔でヴェ、と鳴き、フェリシアーノはでも兄ちゃんから伝言があります、と告げた。なに、と希望に満ちた表情で顔をあげるアントーニョの前で、フェリシアーノはすぅ、と波が引くように感情を消し去った。
静かな夜の海を連想させる、冷たくも怜悧な表情だった。口元だけでゆるく微笑み、フェリシアーノは普段の明るさを投げ捨てて落ち着き払った低い声で、兄の想い人に言葉を告げる。
「『一昨日の夜、俺、起きてたから』」
さすが兄弟、と感心するくらいにロヴィーノそっくりの声だった。それも、特大の不機嫌声だ。フランシスの視線の先、アントーニョが貧血を起こしてしゃがみ込む。え、なにしたのお前、と問いかけるフランシスに答えず、アントーニョはそろそろと視線をあげてフェリシアーノを見た。顔はやや赤い。ホンマに、とか細い声で確認するアントーニョに、フェリシアーノは春の福音を歌うがごとき声で、にこっと笑いながら告げる。
「にいちゃん、すごーい不機嫌さんだから会ったらダメだよ? 俺も許さないよ、アントーニョ兄ちゃん?」
「フェリシアーノ。コイツ、なにしたの?」
「寝てるふり兄ちゃんにキスしたんだって。でも一回唇にしただけで、あとはなにもしないで添い寝なんだって」
冷たい目でアントーニョを睨むフェリシアーノに、フランシスは溜息をつきながら深々と頷いた。それはどう考えてもアントーニョが悪い。恐らくロヴィーノは落ち込んで、さらに不機嫌で帰って来てうっぷん晴らしに仕事を始めたのだろう。間近で見ていたフェリシアーノが、怒らないわけがない。二人して不機嫌で居るとウッカリ不毛な兄弟喧嘩をしかねないので、フェリシアーノがドイツに居るのは避難の意味もあるだろう。
兄の傍に居てやりたいのに、お互いに苛立っているからこそ触れられない。ヤマアラシのジレンマに似たどうしようもない感情の、八つ当たりも含んでいるに違いなかった。ロヴィーノも、あれで弟想いだ。お前のせいでフェリシアーノが傍に居ないじゃねぇかバカヤロウ、ときらきらした笑顔で毒を吐き捨てる姿を、フランシスはまざまざと思い浮かべることができた。よって、アントーニョはイタリア立ち入り禁止なのだろう。
お前本当どうしようもないね、と慰めもせずフランシスに呆れられたアントーニョは、よろよろと立ちあがってフェリシアーノを見つめた。バイルシュミット家の門番よろしく玄関に立つフェリシアーノは、見かけだけは普段と変わらない様子で、なぁに、と首を傾げてみせる。アントーニョはなにかを言いかけて口を開き、ゆるく首を振った。静かに息を吸い込んだ唇が、ぎこちなくも微笑する。フェリシアーノの目が、細くなった。
警戒とも、緊張とも違う張り詰めた空気の中、アントーニョはバイルシュミット家末っ子の在宅を問いかける。続く言葉を待つ沈黙を挟んで、溜息をついたフェリシアーノが尋ね返す。それでいいの、と。うん、と頷いたアントーニョが浮かべていたのは、温かくも困ったような笑み。
「今日は仕事もあって来とるから、ロヴィのことはそれが終わったら、や」
「……いつもそういう判断ができれば、兄ちゃんも色々怒らないと思うんだけどなぁ」
どうして分かってあげて欲しいトコは分からないんだろ、とむくれて唇を尖らせたフェリシアーノの頭に、フランシスがぽんと手を乗せる。それがアントーニョの悪くて良いトコだから、と慰められ、フェリシアーノは溜息をつく。それからフランシスの手を退かせ、フェリシアーノは瞬きをして気持ちを切り替えた。仕事も含めて来た相手に個人的な感情でいつまでも絡んでいることは、褒められたことではないと知っている。
「えーっと、ルートに用事なんだよね? でもルート、ちょっと手が離せそうもないから書類一式はギルに渡して、口頭で説明だけしておいてくれないか、だってさ。ギルは今呼んで来るから、二人とも上がって待っててよ。客間じゃなくて居間でいいよね? 珈琲と紅茶とどっちにする?」
「了解。どちらでも……次男と末っ子が書類仕事で、長男はなにしてるんだ?」
ギルが普通に家で仕事してるのも珍しいけど、と上がりながら呟くフランシスに、アントーニョも確かにと頷いた。国家として半ば引退してからこちら、ギルベルトは『国』としての仕事をルートヴィヒに任せきりにしている。手伝いもするがあくまで手伝いで、動くとしても軍事方面の訓練が主な筈だった。先日も『ちょっと遊びに行ってくる』と言い残して軍の野営演習に紛れ込み、長男に『ちょっとじゃない』と怒られたらしい。
その一件を思い出しながら不思議がるフランシスに、フェリシアーノは居間の扉を開きながら告げた。
「違うよ。ルートが普通に仕事してて、ベルナが手伝ってる。ギルは、今日は軍事演習帰りで一日寝てる予定だったんだけど、兄上と弟が忙しいのに俺が寝てるとか無い、って起きてるんだよね。手伝うのは、左右から怒られて諦めたみたい。さっきまで二階の掃除してたよ。そういう状況だから、俺が美味しいご飯係でお呼ばれしたの。エリザさん呼んだのは俺だけど。居れば、ギルがあんまり無茶しないからね」
ひょい、と居間に入らず入り口から顔を覗かせると、確かにエリザベータが居た。ソファに浅く腰かけて手に書類を持っているのを見ると、そう暇でもないらしい。眉間にしわを寄せながら考え込んでいたエリザベータは、溜息をついて書類を机の上に置き、立ち上がりながら居間の出入り口を振り返った。
「あら、いらっしゃい。フランシスにアントーニョ。悪いけど、今ちょっと忙しいからかまってあげられないわ……フェリちゃん、ギル呼んだ? アイツ、ベルンちゃんとルートが手伝いさせてくれないからって、拗ね交じりで本気で掃除してるから、呼ばないと多分気がつかないわよ」
「ヴェ。今呼んで来るよー。フランシス兄ちゃん、アントーニョ兄ちゃん、ソファか椅子か、適当に座っててー」
もー、ちょっとギルー、と笑い混じりに階段を駆け上がって行くフェリシアーノを見送り、二人は落ち着かない気分でエリザベータの前のソファに座った。机に書類を投げ出したエリザベータは、凝った体をほぐす為に立ち上がっただけらしい。手を組んでぐぅっと上に伸ばし、深呼吸をするとすぐにソファに腰かけて書類を手に取った。他国に見せられない重要書類ではないが、そう投げても居られない案件のようだ。
平日だけど、休日出勤は好きじゃないわ、とぼやくエリザベータに、フランシスとアントーニョは顔を見合わせて苦笑した。二人とも、似たり寄ったりの気持ちだからだ。即時処理を要求される仕事がない代わり、だらだらといつまでもなんとなく忙しいのである。どこも一緒か、と呟くフランシスの前で、ついにエリザベータが書類を投げ出した。もういい今日終わり、と呟いたエリザベータは、二人にちらりと目を向ける。
いらっしゃい、と出迎えておきながら『なんでここにこの二人が』という視線だった。ギルベルトが在宅している以上、悪友の来訪は歓迎できないらしい。邪魔、とでかでかと顔に書いているエリザベータに、フランシスが嘆かわしげな息を吐く。
「エリザちゃん。ギルちゃん独占したい気持ちは分かるけど、お兄さんたちも仕事なのよ」
「というか、バイルシュミット家なんなん? 俺、まだこの家の人に会ってないんやけど」
「いいじゃないの、長男のお嫁さんと次男のむ……お嫁さんが入り浸ってるだけだと思いなさい」
今絶対『婿』って言おうとしたよね、という二人分の疑惑の視線を、エリザベータはにこやかな笑顔で黙殺した。そうしているうちに、二階から慌ただしい足跡が居間に向かってかけてくる。やや慌てた様子で飛び込んできたのはギルベルトだが、視線はフランシスとアントーニョに定まらなかった。よう、とごく簡単に挨拶をしたきり、ギルベルトは落ち着かない態度で部屋の中を見回す。なにかを探しているようだった。
机の下や棚の上、椅子の上のクッションを見たりめくって覗きこんだりしているギルベルトに、エリザベータは溜息をついて。なにしてるの、とも聞かず、中庭に面している窓を指差した。
「ギル。窓の前の編み籠の中」
「あー!」
そうだったっ、と声をあげて窓に駆け寄ったギルベルトは、日当たりの良い場所を選んで置かれている果物籠を覗きこむ。そこにはフルーツは盛られておらず、代わりにふわふわのクッションが敷き詰められていた。その中心に、いつもギルベルトが頭の上で可愛がっていることりが眠っている。俺様のことりー、と心底安堵した呟きでもって眠ることりに頬を寄せるギルベルトを見て、アントーニョがうーん、と首を傾げた。
「なあフランシス? ギルちゃん、ことり探してるとか言った?」
「いや、俺にはなにか探してるかな、くらいしか分からなかった」
ずっと一緒に居て行動を観察していれば分かるのかも知れないが、それにしてもヒントなしの一撃である。二人が関心した視線をエリザベータに向けていると、ことりの居場所が分かって安心したらしいギルベルトが、不思議そうな顔で近づいてきた。その不思議さがエリザベータに向けてのものではないからこそ、フランシスとアントーニョは同時に溜息をつく。目の前でいちゃつかれた方が、まだ無視できるだろう。
なんだよ、と首を傾げてくるギルベルトになんでもないと首を振り、フランシスは鞄から書類の入った封筒を取り出した。アントーニョも同じように、書類入りの封筒をギルベルトに渡す。ん、と頷いて二人分のそれを受け取り、ギルベルトは上で聞く、と言った。居間は現在エリザベータの仮の執務室と化していて話を聞くのに適切ではなかったし、『ドイツ』に対しての仕事だ。『ハンガリー』の前で語れるものは、多くない。
頷いて立ち上がった二人を伴い、ギルベルトは居間を出て行こうとして。扉に手をかけた所で思い出したのか、あ、そうだ、と呟いてエリザベータを振り返る。おざなりに手を振って見送っていたエリザベータが、軽く首を傾げた。
「なに、ギル」
「あのさ、エリザ。兄上とルートにあれ持ってって。んで、俺のはここに置いといて」
「フェリちゃんに頼みなさいよ。上手に作ってくれるわよ?」
そういえばフェリちゃんは、と廊下の向こうに視線を向ける仕草をするエリザベータに、ギルベルトは無言で天井を指差した。思わず誰もが沈黙すると、はぐーっ、と元気よく響くフェリシアーノの声が聞こえてくる。手伝いに行ったのか、休憩させに行ったのか、はたまた邪魔をしに行ったのかは意見が分かれる所だった。納得して頷いたエリザベータは、軽く溜息をつきながら立ち上がり、髪を赤いゴムで一本に結ぶ。
そのまま部屋を横切り、エリザベータはエプロンを手に取ってキッチンに向かった。仕方ないなぁ、と言いながら、口元は穏やかに笑んでいる。楽しみにしてるぜ、と言って確認もせず二階へ向かおうとしたギルベルトの肩を、アントーニョとフランシスが掴む。左右それぞれを手で掴まれたギルベルトは、やや混乱した様子で悪友を振り返った。なんだよ、と問いかける表情が怯えているのは意味が分からないからだろう。
ギルベルトにしてみれば、二人がかりで肩を掴まれるようなことはしていないのだ。それに対し、お前が間違ってるから、と告げるような真顔で、フランシスが問いかける。今のなに、と。目をぱちぱちさせて首を傾げるギルベルトに、あんな、とアントーニョが補足した。
「エリザちゃんとギルちゃん、なんで会話が成立しとるん? 『あれ』しか言ってなかったように聞こえたんやけど、『あれ』ってなんなん?」
「ホットケーキ。俺様お腹すいたんだぜー」
「エリザちゃんとの間で、『あれ』って言うとホットケーキなの?」
そうして決めてあるのなら、別におかしいことでもない。淡い期待を込めて問いかけたフランシスに、ギルベルトはきょとん、とした顔でそんなわけねぇじゃん、と言った。『あれ』って言うたびにホットケーキ作られたらたまんねぇだろ、と言うギルベルトにそうなんだけどさぁ、と苦笑して、フランシスはお前らおかしい、とぐったりした。アントーニョも似たり寄ったりで、すでに仕事を続ける気力を奪われてしまっている。
肩に置いた手をそのままにギルベルトを引き寄せ、親分もうやっとれんわー、とぼやきながら背にのしかかっていた。階段を上りかけた微妙な体勢のまま、ギルベルトは重い、と不機嫌そうに眉を寄せる。フランシスは溜息をつきながらトントン、と階段を上り、アントーニョとギルベルトを挟み込むようにべたりとくっつく。温かい。意味分からないんだけどコイツら、とでも言いたげな表情で、ギルベルトが沈黙した。
そのまま離れるのを待っていたらしいギルベルトは、一分経っても二分過ぎても離れない悪友を引きはがすことにしたらしい。まず正面に居るフランシスの肩に手を置いて引きはがし、次に反転してアントーニョも同じようにする。しかし、背を向けた瞬間にフランシスに抱きこまれ、アントーニョにも腕に力を強めて抱きなおされ、ギルベルトはますます身動きが取れなくなってしまった。しかも、今度は剥がれない。
「重い……! 熱い、苦しい、あとちょっと痛い! 力を緩めろヒゲトマトっ!」
「やーだわーギルちゃんったら口が悪くなっちゃってもー。お兄さん悲しい。だから離さない」
「ヒゲトマトってなんやのー。なんでトマトヒゲやないんー? ギルちゃんはお馬鹿ちゃんやねー」
片手づつ前後にかけられた力では、フランシスもアントーニョもびくともしなかった。ギルベルトは元軍国だが、フランシスはヨーロッパの強国であるし、アントーニョも元太陽の沈まぬ帝国だったのだ。分散された力でどうなるものでもなく、やがて肩で息をしだしたギルベルトに、二人はすっかり悪戯っこの表情でによによと笑う。お前ら仕事しに来たんじゃねぇのか、という言葉を聞き流して、アントーニョが頭を倒す。
ギルちゃんちょっとぷにぷに、と顔で腹をもふもふされたギルベルトは、分かったお前死ね、と暴れかけるがフランシスの拘束が強くて満足に動くこともできない。フランシスは愛と芸術の国らしく、ギルベルトの背中を手のひらで撫であげて筋肉は綺麗についてるんだけどなぁ、と呟いていた。ぞわぁ、と体を震わせて、ギルベルトはもがもが抵抗しながらかすかに涙ぐんだ。今現在の状況が、嫌過ぎて理解できない。
なんで自宅の階段で、悪友にセクハラ三昧を受けなければいけないのか。しかも目と鼻の先の部屋、キッチンでは恋人が料理をしてくれている幸せな状況であると言うのに。もうやだ親父助けて、と天国に向かって呟き始めたギルベルトの頭をよしよし撫でながら、フランシスはそれにしてもなぁ、と息を吐く。
「お前ら、昔からそんなんだった? 確かに仲悪い時代も、なんだかんだ通じ合ってた気はするけどさ」
「せやな。そこで分かっちゃうから、さらに嫌なんやろうなぁって感じの仲悪さもあったもんなぁ」
険悪時代の二人は、まさしく犬猿の仲だったが、それでいて通じ合ってもいたのだった。相手の先を読み先を読み、裏をかきその裏をかいた壮絶にしてくだらなさすぎる嫌がらせ合戦の数々は、未だに古参ヨーロッパ組の真似したくない伝説の一つになっている。戦場で剣を交えて睨みあいながら、お前らそれ実は仲良いんじゃないの、と生温く笑いたくなるような内容で口喧嘩を繰り広げた回数は、数えられない。
どうして見ても会ってもいないのに、各々の行動が分かるのか。どうせ今日も寝台から落っこちて起きたくせにっ、どうせ今日も寝ぼけて花に水やって服をぬらしたくせにっ、と叫び合いののしり合いながら剣を交える姿は、絶対に周囲のやる気を削ぎまくっていた。祖国真面目にやってくださいっ、と涙ながら叫んでいた将軍の胃痛を考えるたびに、フランシスはシャンゼリゼ通りをスキップしながら走りたい気分になる。
「俺、そんなエリザにちゃんと言ってなかったか?」
セクハラが一段落してくっついているだけになったので、ギルベルトの気持ちも落ち着いたのだろう。へばりつかれるだけなら何時ものことなので、やや諦め気味の声ながらも普通に問いかけてくる。それに各々うん、と頷かれて、ギルベルトは多少遠い目になった。そうかな、と呟いている分、無自覚なのだろう。やってられんわー、としょんぼりした声を出して、アントーニョはギルベルトの腹に顔をもふもふした。
気に行ったらしい。くすぐったい気持ち悪い離れろ、と言われるのをさらりと無視して、アントーニョは溜息をついた。
「ロヴィに罵られるならいいんやけど、ギルちゃんだとあかんわー。胸がきゅんってせえへん」
「大変だフランシス。変態がいるぜ」
「なに言ってんのギルちゃん。知ってたでしょ?」
一連の会話は、三人に取って『空が青いね』『そうだね』と同じくらいの意味合いしかない。アントーニョもめげた様子もなく、ひどいわー、と笑い声でギルベルトの腹をもふもふしている。本当に気持ち悪いらしく腹筋に力を入れて嫌そうな顔をするギルベルトは、体重をフランシスに預けてなあ、と呼びかけた。ギルベルトからは、バイルシュミット家の前庭に咲くハーブの匂いがする。なに、とフランシスは微笑んだ。
それにごく穏やかな微笑を返し、ギルベルトはアントーニョを指差した。
「フランシス。これ、ぶん殴って良いか?」
「良いわけないやろ。俺をぶん殴って良いのはロヴィーノだけやねん。ギルちゃんはハーブのやわっこい匂いすんけどな、ロヴィーノはさわやかーなお花ちゃんの匂いがすんねん。甘くて綺麗なお花ちゃんやねん。……ロヴィーノに会いたい」
「もしかしてお前、またイタリア入国禁止令出されてんのか?」
もしかして、と言いながらもギルベルトの視線は確信を持っていた。こくりと腹に顔をうずめて頷いたアントーニョに、ギルベルトは軽く溜息をつく。それでこんな懐いて来てんのかよ、と言いながらもアントーニョの頭に置かれ、撫でる手は優しい。ばぁか、と落とされる言葉は辛辣でも親密だ。優しいねえ、とギルベルトの肩に額をくっつけてフランシスは笑う。
「そういえばギルちゃん。仕事どうすんの?」
「お前がそれ言うのかよ……。そう難しいもんでもないだろ? そのままルートに渡しとくぜ」
だからお前らホットケーキ食べてから帰れよ、とギルベルトが笑うと、空気を伝ってふわふわと甘い香りが漂ってくる。エリザ、お前らの分もちゃんと焼いてる筈だから、というギルベルトに、アントーニョとフランシスは顔を見合わせて苦笑した。ギルベルトの言う通り、エリザベータは本当に二人の分も含めてホットケーキを焼いていて。二人はぶん殴られた頭を手で押さえながら、甘いメイプルホットケーキを口にした。