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 11 愛しいだけの恋なら

 乱暴に扉が開閉する。ただいまの声もなかった。普通なら居間に顔を覗かせてから二階の自室へと向かうのにそれもなく、規則正しい足取りで階段を上って行く音が響き渡る。びっくりして、反射的に両手を上にあげた姿で動けなくなりながら、フェリシアーノは恐る恐る視線を動かした。額に指先を押し当てて沈黙するベルンハルトと、嫌な予感を覚えて渋い顔をするルートヴィヒを見つめる。えと、と言って後が続かない。
 なんとなく問いかけたいことはあるのだが、いくつか胸に浮かんでいるだけで、どれも言葉の形を取ってくれなかった。静まり返った居間に、時計の秒針の音が響く。カチ、コチ。カチ。二十まで数えて気持ちを落ち着かせ、深呼吸してフェリシアーノは気持ちを落ち着かせる。すると、もやもやしていた疑問が言葉になって浮かんできてくれた。よかったぁ、と安心しながらフェリシアーノは首を傾げて問いかけた。手も下ろす。
「今の、ギルベルトだよねー? エリザさんとデートだった筈だ、よ……ヴェ」
 えええちょっと待ってなにそれっ、と自分の発言にショックを受けて涙ぐむフェリシアーノに、ベルンハルトが溜息をつきながら手を伸ばす。手近な椅子に座らせてから胸に頭を抱き寄せれば、もふ、と額が押し付けられてぐりぐり甘えて来た。ヴェヴェ、と特殊な鳴き声が響くが、普段のそれとは違って悲しげな音だった。よしよし、と頭を撫でてやるベルンハルトの腰に腕を巻きつけて抱きしめ、フェリシアーノは声をあげる。
「け、喧嘩かなぁっ! ギル、エリザさんと喧嘩しちゃったのかなぁ……俺、そんなの嫌だよぅっ! どうしようっ。ね、ベルノ! どうしようどうしよう、どうし……俺と喧嘩しないでね、ベルンハルト。怒っても良いから、喧嘩しないでね。喧嘩しないようにしようね。そんなの俺嫌だよ」
 ギルベルトとエリザベータが喧嘩したかも知れない、という懸念から発生した混乱のあまり、フェリシアーノはどこかで思考を取り違えて来たらしい。しない、と言い聞かせて頭を撫でてやるベルンハルトに、フェリシアーノはヴェ、と嬉しげに鳴く。くるんをハートマークにしてご機嫌にふよふよ揺らしながら、フェリシアーノはあれ、と呟いて目を瞬かせた。喧嘩しない約束はそれはそれは嬉しいのだが、なにか違う気がする。
 あれ、ともう一度呟いた所で階段を下りてくる音が響き、フェリシアーノの背が緊張でぴっと伸びる。そうだ。そうだった。ギルベルトが喧嘩して来たのかも知れないのだ。だってデートなのに。恋人とのデートだった筈なのに。喧嘩して帰って来ちゃっただなんて、そんなの。そんなの、悲しすぎる。じわぁ、と涙ぐんで黙り込むフェリシアーノにベルンハルトが溜息をついていると、居間の扉が普段よりも勢いよく開かれた。
 顔を覗かせたギルベルトは、やはり不機嫌そうだった。それでいて当たり散らす様子もなく歩いてくると、沈黙を守るルートヴィヒの手のひらにことりをぽんと置き、こちらも無言で身をひるがえす。椅子に座るフェリシアーノが涙ぐんでいるのを見て、ギルベルトはすこし苦笑した。しょうがねぇなぁ、と甘やかすような笑みなのは、地中海の天使が涙を浮かべる理由を正確に把握しているからだろう。ただ、悲しいのだ。
 他者の痛みを己のもののように受け止めてしまう柔らかな心は、かけがえのない宝石で、とにかく愛おしい。むっとして睨んでくるベルンハルトには、ごめんなさい兄上許してください俺も泣かせたいんじゃないんです、と視線を反らした横顔だけで語り、ギルベルトはフェリシアーノの前にしゃがみ込む。ぐずぐず鼻を鳴らしながら視線を合わせてくるフェリシアーノに手を伸ばし、頬を撫で、髪をくしゃっと乱して笑いかける。
「なあ、フェリちゃん。俺様、ちょっとイタリア行ってくるぜ。だからな、入国許可くれ」
 現在イタリアは、『国』という存在限定で鎖国中である。フェリシアーノの兄であるロヴィーノたっての願いでアントーニョを締め出しているのだが、一人だけ限定で入国を禁止する措置を取るのが難しかった為だ。『国』である二人が協力して個人的に行っていることなので、もちろん国際的な交流はそのまま、人は普通に行き気できる。しかし『国』は事前に許可が必要で、メールや口頭で頼まなければいけないのだった。
 お願いな、と笑いかけてくるギルベルトの瞳をじっと見て、フェリシアーノはこくりと頷いた。逃げる為なら、許可はしなかった。いいよ、と呟くとギルベルトは嬉しそうに笑い、フェリシアーノの頬にキスしてダンケ、と言葉を落とす。弟がじゃれつくくらいならば文句を言わない長兄は、すこしばかり息を吐き出し、ギルベルトを呆れの目で見やった。『また喧嘩ばかりして』と言いたげな視線は、明らかに慣れを含んだものだ。
 フェリシアーノの動揺が分からないわけではないのだが、ベルンハルトに取って二人が喧嘩するのはそうおかしいことでもないのだ。出会った頃は仲が良いとは言い難かったし、それからしばらくは『マジャル』は『マリア』の構い方が分からなくて苛めて泣かせて、怒らせてばかりいた。意識が途絶える前でも、ギルベルトとエリザベータはこの世の誰より仲が悪い幼馴染で犬猿の仲で敵対していて、喧嘩ばかりしていた。
 想い合っていたのは確かなので恋人同士であると告げられても驚きはしないが、今更、喧嘩の一つや二つ、どうということでもないのである。ベルンハルトの落ち着き払った態度に、フェリシアーノも元々の二人の不和を思い出したのだろう。みるみるうちに落ち着きを取り戻すと、気まずげな、恥ずかしそうな、それでいて呆れの入り混じった表情を浮かべて目を半眼にする。そういえば、そうだった。仲が悪かったのだ。
 それでもフェリシアーノの気分は、完全には落ち着かなかった。確かに、すこし前まで本当によく喧嘩する二人だったのだ。昔からそうだった。普通ならばその一歩手前で言葉も感情も止まる所を軽やかに飛び越えて、即戦闘態勢に入る二人だったのだ。言葉で罵倒しあうより、フライパンと拳、あるいは本の角、もしくは手近な所にあった置物や花瓶など、とにかくすぐ武力行使で相手を黙らせようとする二人だった。
 今もよく見れば、ギルベルトの頬がわずかに赤い。察するに、平手打ちかなにかだろう。拳ならもうとうに腫れている筈だ。眉を寄せて不安感をぬぐいきれない顔つきで黙るフェリシアーノに、ギルベルトは兄に視線を向けてから立ち上がった。この場は任せる、とそういうことだった。去り際、ぽんぽんとフェリシアーノの頭を撫でて、ギルベルトはことりの世話頼んだからなー、とルートヴィヒに言い残して居間を出ていく。
 すぐに、玄関の開閉音が響く。荷物の用意があったようにも思えないので、本当に最低限だけで出ていったのだろう。すこし散歩しに行くでもないのに。時間に厳しいたちであるのに、いつ帰るかも言い残さなかった。きゅうぅ、と眉を寄せて口をつぐんでしまうフェリシアーノの手を、ベルンハルトは握り締める。大丈夫、と言葉にすることもなく。強めに握ってぬくもりを与えてくれることが、フェリシアーノは嬉しかった。
 兄とフェリシアーノの様子を眺め、ルートヴィヒは大丈夫そうだと胸をなで下ろして電話を取った。番号は、なにも見ないでも覚えている。軽やかに指先でボタンを打てば、きっかり三コールで相手が出た。
『はい。ローデリヒ・エーデルシュタイン。……どうしました? ルートヴィヒ』
 最近の電話は、相手に番号が通知されるようになっているから、分かって取ったのだろう。一応、形式に則って名乗ってから笑うような声で問いかけてくるローデリヒに、ルートヴィヒは緊張がぐずぐずと崩れていくのを感じた。冷静なつもりでも、ただならぬギルベルトの様子に心のどこかが張り詰めていたのだろう。やけに冷静に分析しながら、ルートヴィヒはいぶかしげに声をかけてくるローデリヒに用件を告げた。
「今から恐らく、エリザベータがそちらに行く。できれば理由を聞いて、宥めてやってくれないか。そして夕食を振る舞うなりして、泊めてやってくれ。明日になったら俺もそちらへ向かう」
『……今日はデートの筈ですが』
 電話越しに、手帳をめくる音が響く。外出すれば迷う悪癖の持ち主である為、助けを求めて迎えに来てもらえる者たちの予定を正確に把握しているのだった。無駄に優秀な情報収集能力である。そこに裂く暇があるなら地図の読み方なり、方向音痴を直す努力をすればいいものを。慣れたことながら脱力しつつ、俺もデートだと聞いていた、と言えばローデリヒは黙り込む。ややあって、納得しきった溜息がもれた。
『了解しました、と言いたい所ですが……なぜ私の所へ? 来るとは限りませんよ』
「いや、必ず行く筈だ。相手が兄貴だし、なにより、彼女は『エリザベータ』だ」
 いくつもの意味を込めた呼称に、ローデリヒから返る言葉はない。続きを、と求められているのを察してルートヴィヒは口を開いた。それはごく当たり前のことで、そして簡単なことだった。
「なぜなら、彼女がこの世で最も尊敬し、敬愛し、己の心を捧げ、慈しみ、守護し、大切にする存在がローデリヒ、お前だからだ。エリザベータに取ってのそれが、個人としてのローデリヒだからだ。兄さんに取ってのそれが、俺であるのと同じ理由で、な」
『……難儀ですね』
 かすかな笑い声と共に吐き出された言葉に頷いて、ルートヴィヒはああ、と言った。その通りだった。とてつもなく難儀だ。それなのに愛されていない、だなんて冗談のようだ。もちろん『愛されて』はいるのだけれど、恋ではない。純粋な愛情だ。それ程の存在を持っていながらも、その存在ではない、他の誰かを『愛して』いるのだ。片方だけなら嫉妬すれば終わりそうな問題が、二人ともに同じなのだから難儀なのである。
 その想いを喜び、甘んじて受け入れている辺り同罪なのかも知れないが。共犯者たちが想いを分かち合う忍び笑いを響かせていると、電話の向こうで玄関のチャイムが鳴る。来ましたね、と苦笑するローデリヒによろしく頼む、と告げて、ルートヴィヒは通話を終えようとしたのだが。ボタンを押す前に、ひっそりとした問いかけが響いた。
『ルートヴィヒ。一つだけ。……ギルベルトは、どこへ』
 言葉の端々から、バイルシュミット家に居ないことを見抜いたのだろう。鋭く向けられた問いにいっそ関心しながら、ルートヴィヒは素直に教えてやった。
「イタリア。ロヴィーノの所に行ったのだと思う。携帯は持っている」
 関係者全てを着信拒否にするような性格でもないので、捕まえようとすれば捕まえられるだろう。後でメールを送っておきます、と言い残してローデリヒは電話を切り、ルートヴィヒも受話器を元に戻した。迷惑をかけなければいいのだが、とそればかりを思った。心配しだせばきりがないので、勤めてそれだけを考える。眉間にシワが寄ってしまったのだろう。ヴェ、と鳴き声と共に、ごく軽やかな足音が響き渡った。
「こら、ルートー。ダメだろ? シワ寄せちゃダーメでありますっ! だぁいじょうぶだよ、兄ちゃん、それは確かに今不機嫌さんだけど、ギルをぽいってしたりしないよ。兄ちゃんとギルねー、仲良しさんなんだよー。兄ちゃん同盟なんだって。だからね、ギルも大丈夫だよー」
 だからルートも大丈夫して待ってなきゃダメなんだよ、と言ってフェリシアーノはルートヴィヒに向かって両手を差し出した。手のひらの中にはギルベルトのことりが居て、ふるふるしながらルートヴィヒを見上げている。電話をかけようとした時に、落としてしまったらしい。すまなかった、とごく真面目にことりに謝って、ルートヴィヒは手のひらを差し出す。ころん、と受け渡されたことりは、ぴよよよ、とすこし不安げに鳴いた。
 主の不在を、知っているようだった。



 官邸の一角にロヴィーノの仕事場はあるのだが、そこに来ることは稀らしい。イタリア上司の秘書に教えてもらったギルベルトは、らしいと苦笑しながらロヴィーノの別荘へ向かった。イタリアの中心にヴァルガス兄弟の家はあるのだが、フェリシアーノがドイツに来ている以上、ロヴィーノがその家に居ることはまずない。仕事に打ち込んでいるのなら、可能性は皆無にまで下がる。よって、向かったのはイタリア南部である。
 ごつごつしたブロック煉瓦が埋め込まれた素朴な道を足取りも軽く歩き、商店街を通り抜けて住宅地へと入る。海の臨める小高い丘のうち一軒。小ぢんまりとした、イタリアというよりはスペインの影響を多分に受けているであろう、くすんだオレンジの壁と緑に塗られた木製の窓枠。屋根の煉瓦は陽に焼け褪せて色が沈み込んだ、赤とオレンジの中間のような色合いで、玄関前には鉢植えの花が咲き乱れている。
 その鉢の一つは、プチトマトだった。なんともいえず、ロヴィーノの家らしい。赤く熟れたプチトマトを一つ、勝手に収穫してぽんと口に放り込み、ギルベルトは半開きになっている扉を押しあけた。中は静まり返っていて、意外に空気が冷えている。差し込む日差しの眩さと影の濃さはモノクロの美しさで、ギルベルトはわずかに息を吸い込んだ。人里に迷い込んでしまった聖域のようだった。けれど、歌声がかすかに響く。
 ロヴィーノの声だった。たいして機嫌がよさそうにも聞こえないが、口がさみしくて歌っているのだろう。お仕事中は書類に火が付いたら困るから兄ちゃんタバコ吸わないの、とフェリシアーノが自慢げに言っていたことを思い出し、くつりと口元に笑みがこぼれる。ならば飴でも含んでいれば良い物を、歌を選びとるのがロヴィーノだった。歌声は途切れ途切れに聞こえ、すこしの間でもめまぐるしく曲調を入れ替えていく。
 これを聞くのが海風だけだとしたら、なんという芸術の損失か。基本的に仕事が終わった時にしか上司に連絡しないロヴィーノは、当たり前のように手伝いの人間を傍に寄りつけない。良くてフェリシアーノが傍に居るくらいで、あとは全部一人なのである。ギルベルトのように一人楽しすぎる性格でもあるまいに、本当に妙な所でだけ気遣い屋なのだ。光と影のコントラストに目を細めながら、家の中に足を進める。
 キッチンの前を通るだけでふわりと良い匂いがしたのは、さすがとしか言いようがない。寄り道したくなるのをぐっと堪えて二階に上り、一番奥にある部屋まで進む。やはり部屋の扉は、空いていた。歌声はいつの間にかやんでいて、ロヴィーノは真剣なまなざしを書類にのみ注いでいる。来たことなど知っているだろうに、顔をあげないから小憎たらしい。ようロヴィちゃんと声をかけると、剣呑な視線がゆっくりと持ちあがる。
 殺意すら滲ませるエメラルドの瞳は、薄いガラスに阻まれていた。赤い色した、細いフレームのメガネをかけているからだ。ストライプのシャツに、濃い緑のネクタイ。下は黒にさえ近い色合いの焦げ茶のズボン。たったそれだけなのに、恐ろしいほど格好良く見える。不機嫌な表情は元々の美貌をさらに鋭利に研ぎ澄ませることしかせず、ギルベルトは苦笑して目の毒、と胸の内で呟いた。言葉に出す勇気はない。
 発砲しかねないからだった。仕事机の上には黒光りする銃が置いてあって、それはもちろん、ロヴィーノ愛用の品なのだった。銃の隣に置いてあるイタリア国旗柄の携帯電話は、ストラップがフェリシアーノとおそろいのもの。日常と非日常が本当に隣り合わせのデスクの向こうで、ロヴィーノは大きく溜息をついた。睨んでも怖がったりせず、逃げかえりもしない相手に、それを続けるのは労力の無駄だと諦めたようだった。
「なんの用事だよ、ギル。見ての通り、俺は忙しいんだが」
「ロヴィちゃんほど、忙しいが似合わない相手も珍しいぜ……」
「頭でいいか? 心臓がお好みか?」
 にっこりと満面の笑みを浮かべたロヴィーノは、ごく自然な動きで銃を取り、残弾を確認して構えてみせた。半ばポーズだが、それでも半ば本気なのだろう。目が笑っていない。即座に両手を上にあげたギルベルトに舌打ちを響かせ、ロヴィーノは銃を机に転がした。それから椅子に踏ん反りがえり、ドン、と足を机の上に乗せてしまう。ばさばさと音を立てて書類が落ちていくが、ロヴィーノはちらりと見もしなかった。
 『国』というより、マフィアの若頭にしか見えない。これ見たらアントーニョがむせび泣くだろうなぁ、と思いながらそろそろ手を下げ、ギルベルトはロヴィーノの様子を伺った。不機嫌極まりない南イタリアは、とりあえず追い返す気だけは無いらしい。なんだよコノヤロー、とぶすくれた様子で言葉を吐き捨て、あごをしゃくってギルベルトを呼び寄せる。距離があるので話にくいらしい。寄っていい、と許可する高慢な仕草だった。
 惚れ惚れするくらい、似合っている。お前『国』止めて女王に就職できるんじゃねぇの、と呟くギルベルトを、ロヴィーノは鼻で笑い飛ばした。
「くっだらねーこと言ってんじゃねぇよ。喧嘩して来たくせに」
 つまり、訪れることから知っていたということだ。その上で無視して仕事をしていたのだから、ロヴィーノも良い性格である。ちなみに誰から聞いた、と否定せず尋ねるギルベルトをじっと見つつ、ロヴィーノは素直に教えてやった。
「上司の秘書から携帯に電話があって、お前が来るって言うから。来る理由が分からなくてフェリに電話して聞いた」
「フェリちゃん、なんか言ってたか?」
「ことりさんは俺がちゃぁんと面倒みてるからねっ! 心配しなくて大丈夫だよ、ギルっ……だとよ」
 突然口真似をされると、聞きわけができないくらいにそっくりだからこそ心臓に悪い。びっくりしたぜ、と胸を手で押さえるギルベルトに、ロヴィーノはしれっとした態度でわざとに決まってんだろうバカ、と言って。じっとギルベルトの目を見つめたまま、頭の上に手を伸ばした。ぽん、と手が乗せられる。振り払われないのを確認して、ぽん、ぽん、とゆっくり撫でられた。視線はどちらも外さない。見つめ合ったままだった。
 ぽん、と手を乗せて、ロヴィーノが口を開く。
「……しんどいか?」
「どう、だろうな。どう見えてる」
「泣く場所、探してるように」
 頭の上に乗っていた手が肩に下りて、ゆるく引き寄せられる。ロヴィーノは椅子に座ったままだったから、ギルベルトはその前にしゃがみこむようにして上半身を倒した。薄いシャツの下で、動きながら鼓動を刻む心臓の音が聞こえた。ぎゅぅ、とすがりつくように腕を回してきたギルベルトを、ロヴィーノは無言で許容してやる。力が強いのですこし痛いが、息苦しい程でもない。それに、そんなこと、今はなんでもなかった。
 僅かに汗ばんだ、艶のない銀髪を撫でる。短い髪はすぐ指の間から逃げていって、留まりもしなかった。
「……ことり、置いてきたのか」
 こく、とギルベルトは頷いた。声もない。その代わり、泣いている様子でもなかった。ぽんぽん、と頭を撫でてやりながらロヴィーノは思う。置いてきたのはきっと、そこまで意識を向けられないからだ。他のものに気持ちを向けることができないくらい、ギルベルトは追い詰められている。理由を、聞くべきなのか。聞かない方がいいのか。聞いたとして、聞きだせるほど親しい仲というわけでもない。ただ、分かり合えるだけだ。
 国を弟と二つに分けて背負っているからこそ、その選択をしたからこそ。ギルベルトの気持ちをロヴィーノは理解できるし、理解されていた。世界中を巻き込んだ戦争の時、ロヴィーノの選択を受け入れてくれたのはギルベルトだけだった。怒りもせず、非難もせず。ギルベルトは、ただ納得したのだ。理解したのだ。最後の最後、弟を守る為ならば、どんなことでもすると。どんな選択も、汚名も、苦痛も、甘んじて受けると。
 ロヴィーノがそうしたからこそ、ギルベルトはドイツの『東』を背負い、北の大国の元に行ったのだ。イタリアは生き残り、プロイセンはオストとなり、『国』として留まっている。彼らの弟も、今は笑っている。満足だった。こんなに苦しい想いをしても、その続きならば喜びと誇りが胸に満ちていく。ぽんぽん、と撫でる手を捕まえて、ギルベルトは弱く息をはく。
「泣かねぇぞ」
「好きにしろ。今日の俺の仕事はたった今終わった。もうすこししたら夕食の材料買いに街に行く」
 ついてこい、とロヴィーノは言った。荷物持ちに指名してやる、と。あくまで遠回しな言葉に、ギルベルトはケセ、と笑って目を閉じた。ロヴィーノの体温は、すこし高めだ。胸が切なくなるくらいに、安心できる。ぽんぽん、と変わらぬ仕草で頭を撫でる手を心地よく受け入れながら、ギルベルトはしばらく居る、と呟く。ロヴィーノは溜息をつきながら、買い物の荷物は持たせるからな、と言って。その滞在をそっと、受け入れた。
「なんか食べたいもの、あるか」
「ロヴィちゃん作ってくれんの?」
「お前に任せといたらじゃがいもとヴルストとじゃがいもとヴルストとじゃがいもとヴルストとじゃがいもとヴルストになる」
 そんな食卓は俺の家に居る限り許さなねぇぞコノヤロウ覚悟しろ、と言われてギルベルトは瞼を持ち上げ、視線を彷徨わせた。いくらなんでも、そこまで偏った食卓にするつもりはないのだが、バイルシュミット家の夕食を見た瞬間のフェリシアーノの、形容できないくらい微妙な表情と沈黙が忘れられない。それからフェリシアーノが来ている時は、食事はお任せになった。キッチンに立ち入らせてくれない、とも言う。
 確実にバイルシュミット家はフェリシアーノに乗っ取られているが、長男がごく幸せそう、かつ次男と末っ子に文句の一つも言わせないので、諦めるべきだった。ドイツ国内は、とりあえず平和だ。オムレツとか、ある、ともそもそ呟いたギルベルトに、ロヴィーノの目が光る。
「それ、『ギルが作るハーブのオムレツふわとろほわーんなんだよー』か?」
「……フェリちゃんがそう言うんなら、そうなんじゃね?」
「よし分かった。それは食卓に乗せることを許可する。ありがたく思えコノヤロー」
 ハーブなら俺の持って来た鉢植えにもあるからなんとかなるだろ、と言うロヴィーノに、ギルベルトは思わず頷いてしまった。了承したというよりは、園芸に手をかけるロヴィーノなのに、鉢植えを飾ってある理由に納得したからである。こちらは、あくまで別荘だ。地植えしてしまっては管理が大変なので、移動できるように本宅で育てているものだったらしい。生活の彩と美食に関して、ロヴィーノは一切手を抜かない。
 兄ちゃんは仕事を俺に任せて、お家でガーデニングと農業してご飯作って時々観光のお手伝いしてればそれでいい、とフェリシアーノが言いきるくらいだ。お家帰って兄ちゃんのご飯のにおいすると俺幸せなんだよー、と言っているのを聞いた時はそれはなんの新婚プレイだ、と思ったのだが。これくらい本気で手を抜かないのであれば、フェリシアーノの言い分もなんとなくは理解できる。たまには、仕事もするようだし。
 ロヴィーノが仕事に打ち込む理由を思い出して顔をあげたギルベルトは、先程までの礼だ、と言うように手を伸ばして頭を撫でてやる。くしゃくしゃに髪を乱されても、ロヴィーノは苦笑しただけだった。つまりは、互いに弱っているのだ。軽く笑いあって椅子から立ち上がったロヴィーノは、凝り固まった体をぐぅ、と伸ばす。それから、じゃあ買い物行くぞ、と差し出された手をじっと見つめて。ギルベルトは、そっと手を重ねた。
 あたかかった。

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