国際会議の場に、当たり前のようにギルベルトの姿はなかった。ドイツの『東』を背負っているとはいえ、ギルベルトの意識は『プロイセン』である。ドイツそのものはルートヴィヒであるので、そうそう会議に出てくる訳ではない。そんなことはハンガリーも知っている。それでも期待していたのは確かで、開会を告げられても姿を現す気配のないことに、落胆と怒りを思えたのは確かだった。心の準備も、出来ていないのに。
もし顔を合わせたとしても、平静に対応できる自信がなかった。数日前のデート中に起こったささいな、けれど分かり合えずに決裂した不和は心を痛め続けていて、まともに会話ができるとも思えない。それでも、遠目に顔を見るだけでも、できると思っていたのに。期待していたのに。許せない。やるせない。悔しい。悲しい。それでも、会いたい。会いたい。会いたかった。机の下で強く握り締めた手に、爪が食い込む。
綺麗に整えられた爪はパールピンクのマニキュアが塗られていて、どこにでもある色だったけれど、それでもハンガリーのお気に入りでとっておきだった。想いを伝えあって、付き合って欲しいとお互いに言いあって、それから『初めて』のデートで買ったものだからだ。ギルベルトが覚えているとは思わない。買ってとねだった訳でもなく、贈り物として渡されたものでもなく、ふらりと立ち寄った店で購入したものだからだ。
一人だけで決めたジンクス。とっておきのおまじない。爪を塗るごとに込めた願いが、今はもう思い出せない。ぎゅぅ、と手を握って俯いたままのハンガリーに、心配そうな視線がいくつも投げかけられる。気が付いているからこそ、顔をあげることができなかった。見ないで。放っておいて、と叫べもしない心がささくれだって行く。波立った感情の逃げ場がなく、呼吸を繰り返すだけでもすこし苦しい。息が、上手くできない。
ぎゅぅう、とますます身を縮こませてしまったハンガリーを救ったのは、隣に腰かけていたオーストリアだった。仕方がない、と甘くも叱責する息がゆるりと空気を揺らし、手のひらがそっとぬくもりに包まれる。震えるほどに硬く握り締められていた手のひらを、オーストリアは己の膝の上にまで移動させた。会議を無視してハンガリーに体を向け、オーストリアはごく穏やかに微笑んでいる。トン、と指先が手の甲を打った。
強く、強く。血が通わずに白くなった手のひらを、指先を、無理に解かせようとすることもなく。視線を合わせることもなく、オーストリアは優しい眼差しを女性の手のひらにだけ触れさせていて。トン、トン、と鍵盤を叩くより優しく跳ねる指先で、強張った意思をも解きほぐしていく。言葉はなにも響かない。ハンガリーに向けられる視線は、増えるばかりで減りもしない。会議は戸惑いながらも進んでいき、取り残されていく。
それなのに、先程まで感じていた突き落とされるような孤独感は消えていた。追い詰められてどうしようもなくなった意識が、解かれて行く。ふ、と突然体から力が抜けた。どうしようもなくなってゆるく体を倒せば、オーストリアはなにも言わず、ハンガリーの頭を肩に抱き寄せる。手の甲を叩いていた指先が離れ、背に置かれて強めに抱きしめられた。慰めの言葉の、一つも響かない。胸が熱くなるほど、嬉しかった。
「……オーストリアさん」
「はい」
なんですか、とも。どうしましたか、とも続かないのは、存在を確かめる為の呼びかけだと分かっているからだろう。戦場で背を預けられるのに似た全幅の信頼と誇りを、不意に思い出して泣きたくなった。呼吸をするのもいつの間にか楽になっていて、胸いっぱいに息を吸い込む。オーストリアさん、と呟けば、笑い交じりに呼び返される。ハンガリー。きらきら振ってくる光の欠片の、一番綺麗で温かい所を集めたような声。
この世界で一番、守りたいと思うもの。かつて、この存在に恋をしていた。それは確かに恋で、苦しくも温かく楽しいものだった。思い返すだけで喜びと、誇りで胸がいっぱいになる。嬉しい、嬉しいと心が歌う。愛している。愛していた。それでも今は純粋に、愛情だけを感じている。恋が終わったわけではない。過去に置き去りにした訳でも、二重帝国の終わりと共に無くなってしまった訳ではない。こんなにも大切で。
二度と針を動かさない時計のように、胸の奥にひっそりと飾られている。宝物の恋だった。なににも代えがたい恋だった。恋である時間が終わってしまっただけなのだ。二度と開かない、舞台の幕が下りたように。
「オーストリアさん……会議、いいんですか? 参加しなくて」
「せめて肩から離れてからおっしゃい。いいのですよ、たまには」
響かない声で交わされた会話は、どちらも互いの耳にしか届かなかった。くすくす、と密やかに肩を震わせて笑い、ハンガリーはオーストリアの肩に額を押し当て、目を閉じたままで囁く。たまには、でもないじゃないですか。いつも聞いてませんよね、と落とされた声はとろりと甘く眠たげで、オーストリアは苦笑しながらトントン、と指先で背を叩いてやった。
「そんな風に言えるようなら、もう大丈夫ですね。ハンガリー?」
「はい。でも、もうすこしだけ。……甘やかしてください」
そういえば私、最近甘やかしてばかりで甘えていませんでした、と思い出したかのように告げるハンガリーは、相手の名前を告げなかった。かすかに声が震えたのを感じ取れなかったふりをして、オーストリアは仕方ないですね、ともたれかかる体を受け止めてやる。ごく穏やかに停止する時が、二人を取り巻いていた。会議進行役のイギリスはとうとう呆れ果てて諦めた表情になり、全体に一時間の休憩を言い渡す。
予定にはなかったが、どの国からも文句は出なかった。ガタガタと椅子を引いて立ち上がる音が響き、とたんに会議室が騒がしくなる。顔をしかめる程のざわめきは、しかしすぐ遠くなっていった。足音は次第に遠ざかって行き、やがて、最後の一人が扉を閉める音だけが響く。二人きり会議室に置き去りにされて、なぜだかそれが、とても面白いことのように思えて。ハンガリーは、顔を伏せたままで笑い出してしまう。
時折吹き出しながら笑っていると、楽しい気持ちが伝染したのだろう。オーストリアも口元に軽く手を押し当てて肩を震わせ、やがて二人は顔を見合わせてクスクスと笑いだす。追い出しちゃいましたね、そうですね、と囁き合って柔らかく目を細める。心は不思議な程に穏やかで、落ち着いていて、どうしてか相手も同じ気持ちであると理解できた。じっと目を覗きこんだまま、ハンガリーはぽつりと呟いた。大好きです。
知っています、と言葉はすぐに返された。
「……大切なんです。苦しいです……どうしたらいいのか、分からないんです」
ぽつり、ぽつりと言葉は落とされて行って。そのどれもを、オーストリアは静かに聞いていた。分かります、とだけ言葉は返される。貴女が今どんな気持ちであるか、それだけは理解しています、と。囁かれた声にちいさく頷き、ハンガリーは震える唇で息を吸いこんだ。苦しいです。
「ギルもっ……私と、同じくらい苦しい筈で……ちゃんと、誰かの傍に居るでしょうか」
「……ロヴィーノの所に行ったと聞いていますよ。大丈夫」
ふらりと、ローデリヒの屋敷に現れて、そのまま滞在して数日。初めて零れたギルベルトの名を行き先を問う言葉に、ローデリヒは確かに安心しながら言ってやった。自然に浮かぶ微笑みに、エリザベータはすがるように問いを重ねた。
「ちゃんと、ロヴィちゃんに……抱きしめてもらえた、でしょうか。ギル、そういう時、泣けなくてっ」
「ええ。そうですね。……そうですね。でも、大丈夫。ロヴィーノは聡い子ですから」
「寂しくて。寂しいって言えないくらい寂しくて、苦しくなる、のに……知ってて私、放りだして来たんです」
どうしよう、と途方に暮れた呟きが、大粒の涙を零していく。指先で拭ってやりながら、ローデリヒは良いのですよ、と囁いた。
「抱え込めなくなったのなら逃げなさい。傷つけて、傷ついてしまった時にも抱きしめようとするのは苦しいだけです」
「二人の世界で完結する恋なら、それでいいと思うけどな」
反射的になにかを言い返そうとしたエリザベータの唇が、止まる。声をした方向に視線をやれば、立っていたのはロヴィーノだった。フェリシアーノに代わって会議に出席していたので居てもおかしくはないが、不自然に二人だけ残された会議室に現れる理由が掴めない。どうして、と問いかけたエリザベータの言葉に答えず、ロヴィーノは片手に紙コップの乗ったトレンチを乗せ、ウェーターのような動きで歩み寄ってくる。
トレンチは机の上に置かれ、ロヴィーノの手によって紙コップが持ち上げられる。ほら、と差し出されたのは二人に対してで、中身は紅茶のように見えた。ふわっと湯気が立ち上り、温かな香りが広がって行く。砂糖とミルクは好みで入れろよ、と指差された先、トレンチには砂糖壺とミルクピッチャーが用意されていた。それが英国製のきちんとした陶器であることを見てとったローデリヒは、なにも告げずに苦笑した。
どうやら本日の議長に、思いのほか心配をかけていたらしい。紙コップでサーブされたのは、彼なりの素直ではない気遣いだろう。一口飲んで首を傾げたエリザベータも、自動販売機の味ではないと気が付いたらしい。さらりと流れるほんのりとした甘みと、どこまでも広がって行く香りは、インスタントではありえない。アーサーの、と人名で呟いたことで、気持ちが公から個人に戻っていることに気が付いたのだろう。
ロヴィーノはなにか考え込むようにエリザベータを見つめ、静かに口を開いた。
「紅茶ベースのカモミールティー。主な効能はリラックス。大英帝国のおまじないつき、だ。……落ち着いたかよコノヤロー」
「ええ。ありがとうね、ロヴィちゃん。アーサーにもお礼を言わないと」
どうせ、お前の為じゃなくて俺の為なんだからなっ、とはねのけられるに違いないのだが。かつて海の覇権を握った島国の、全く素直ではない気遣いも慣れれば可愛らしいものだ。ふー、と細くゆっくりと息を吐き出したエリザベータにやや鋭い視線を向けて、ロヴィーノは腕を組む。椅子に座らず、机に体重を預けるように姿勢を傾けたまま、ロヴィーノはゆっくり言葉を紡いだ。
「ギルは、俺んちで元気にやってるぞ」
「……そう」
うっかり不満そうな呟きになってしまったのは、別に体調崩せと呪っていたからではない。元気でいることに越したことはない。しかし、喧嘩しているのに他の誰かの元で元気でいると言われてしまえば、それだけで面白くはないのだ。目を細めて呟くエリザベータに、ロヴィーノは仕方ないな、と珍しく甘く苦笑するような表情を見せて。それからゆっくり、視線を柔らかく和ませた。
「で、喧嘩の原因はなんなんだ? 教えてもらうぞ。俺も巻き込まれてんだから」
「ギルから聞いてないの?」
「喧嘩した時の、男の言い分を聞き入れる理由がないな。まず性別からしてあり得ない」
さらりと言い放ったロヴィーノはごく真面目で、そして本気のようだった。それでいて全く知らないのではないことを、エリザベータに向ける落ち着いた態度が物語っている。ギルベルトからも、きちんと理由を聞いてきたのだろう。大きく食い違ってはいない筈だと思いながら、エリザベータはハッキリとは言わず、ロヴィーノの目を見つめ返して呟いた。
「ロヴィちゃんなら、分かると思うわ。……アントーニョ、本当はまだ入国禁止なんでしょう?」
「お前ら、同じこと言うのな」
というか今の発言で怒らないだけ俺は大人になってると思う、と腕を組みながらしみじみ呟くロヴィーノに、幼少を知るローデリヒからはささやかな拍手が送られた。全く嬉しくもなさそうに祝福を受け入れ、ロヴィーノは溜息をついて天井を仰ぐ。
「確かに分かるけど……俺は、怒っても待ってるぜ? これでも。入国禁止しようが、会議中に話しかけられて聞こえないふりしようが、どうなさいましたかスペインさんとか、言い訳するなら口を開かないでくださいアントーニョ・ヘルナンデス・カリエドさん、とか言っても。別に見捨てた訳でも見放した訳でも、諦めた訳でもなんでもなくて、まだ怒ってるだけだし」
地味に効果抜群の嫌がらせだった。休憩時間と共に涙の海に沈んで動かなくなったアントーニョを、フランシスが無理矢理引っ張って行ったのをローデリヒは見ている。その後も、ここにロヴィーノが居るということは相手にしてやらなかったのだろう。反抗期にしても程があるわぁ、と本気泣きでヘコんでいた太陽の沈まなかった帝国を思い出し、ローデリヒは溜息をついた。深刻になっていない分、こちらの方がややこしい。
「そろそろ許して差し上げなさい。あまり追い詰めると、なにをしでかすか分かりませんよ?」
「追い詰めて追い詰めて、なにかしでかすのを待ってんだよ」
本気ってそういうことだろ、とロヴィーノは首を傾げる。
「俺が欲しいのは、アントーニョの本気。ロヴィが足りなくて親分死んでまうわー、とか言ってるうちはまだ甘いんだよ。言葉にする余裕があるってことじゃねぇか。良い機会だから、とことん追い詰めてやろうと思って。死ぬ寸前まで枯渇すれば、なりふり構わず本気にもなんだろ」
ほら闘牛得意だし、とけろりとした態度で言い放つロヴィーノに、ローデリヒは大きな溜息を送る。これでも心配しているのですよ、と告げてやるとエメラルドの瞳にふわりと光が灯り、知ってる、と優しく微笑まれた。かつてのロヴィーノはそんな表情を知りもしなかった。恋をして花開くように芽生えた感情が、ここまで育ったのだから良しとするべきなのかも知れない。最近周りの嫁入りが激しい、とローデリヒは眉を寄せた。
「あまり、苛めるのではありませんよ? 分かりましたね」
「はいはい。分かってるぞコノヤロー。安心してろよ、恋愛ごとは得意な方だ」
その割に未だ成果が出ていないのは、相手が悪いとしか言いようがない。頑張りなさい、とエールを送ればロヴィーノはこくりと頷いて、離していた視線をエリザベータへと戻す。二人の会話を聞くともなしに耳にしていたエリザベータは、困惑の強い表情でロヴィーノと向き合った。視線をそらさず結びながら、だから、俺は待ってる、とロヴィーノが告げる。
「もう百年以上待ってる。もうすこし待つくらい、どってことない。……俺が待った以上に、エリザは待ったと思うけど。もう、待てないのか?」
責めるでも、なく。悲しくでも、なく。問いかけられた言葉に、エリザベータは上手く言葉を返せなかった。はい、も。いいえ、も。二種類の言葉が胸の中にあって、混乱している。眉を寄せて黙り込んでしまったエリザベータに、ロヴィーノは静かに告げた。
「言うのって、大事だと思うぜ。言わなきゃ伝わらない。思ってるだけじゃ分かり合えない。言葉にしないで通じ合うなんて幻想で、そんなこと、長く生きてる俺たちなら人よりずっと分かってる筈だ……つーかフェリ見習えよ。アイツ、ベルンハルトになんて言ったと思う? 『ねーねーベルノー、えっちする時はどっちが上になるー? 俺はベルノとえっちできるならどっちでもいいから、好きな方決めて良いよー』だぜ?」
その時だけフェリシアーノが降臨したかのような、恐ろしいほどそっくりな口真似だった。だからこそ思わず咳き込み、ローデリヒとエリザベータは、フェリシアーノの元保護者として頭を抱え込む。そんなコに育てた覚えはありませんよっ、と叫びたいが、いつの間にかそう育ってしまったからどうしようもない。ちなみにアイツはソファに倒れ込んで動かなくなったそうだ、と告げたロヴィーノの声は、憐れんでいるようでもあった。
三人はほぼ同時にベルンハルトの魂の安息を祈り、それから現実世界に戻ってくる。それはまた極端ではないですか、と口元を引きつらせるローデリヒに、俺もそう思うけど、と前置き付きでロヴィーノも苦笑した。
「でも、大事なことだろ? そんなあけっぴろげに聞けとは言わないけど、せめてちゃんと話しあえよ。そういうことだろ? ……そういうんで、喧嘩したんだろ? ギルはそう言ってた。エリザは、違うのか?」
今更それでどうこうなる訳でもないのだが、男性二人を前にして頷きにくい問いかけだった。しばらく悩んでけれど逃げられないことを悟り、エリザベータは最後の抵抗として、言葉には出さずに頷くに留める。だよな、とため息交じりに安堵の声を響かせて、ロヴィーノはおもむろに腕を組み直した。
「つーか、ギルさ。根っこが『修道会』だったんだろ? なら、俺は今の状態でもかなりギルは頑張ってると思うぜ」
「……え?」
寝耳に水のような言葉だった。突き放された感ではなく、ただ距離を取って見つめたら、新しいものを発見してしまったような。ざわめいても不安にはならない不思議な感覚が下りてくる。きょとん、とするエリザベータにロヴィーノは身の内にヴァチカンを抱く者らしく、敬遠なものを感じさせる声で言い放った。
「カトリックにおいて聖職者の結婚は認められていない。性行為も同じく。ギルの大元が『修道会』である以上、思想や意識がその影響を強く受けてると思ってまず間違いない。その上で、ギルは行為に対してしたいとも言ったし、その意思もあると言った。……すごいと思う。俺は」
「……それ、って」
「愛情にも、性愛を伴わないものはある。恋によって繋がれた男女間であっても、時折そういう愛が生まれる」
でもギルはそうじゃないとは言っていた、とロヴィーノは語る。
「ただ、気持ちが想いに追いつかないから、今はまだ難しいだけなんだよ。……求める愛を、知らなかったんだ」
一番初めは、野戦病院として生まれおちて。幾多の命を見送り、死をその腕いっぱいに抱きしめて。名を与えられてからは修道会として、また騎士として生きて来たギルベルトの、胸にあった愛情は神に捧げるものだった。ルートヴィヒを得てからそれは与えるものにもなり、その愛は神のみにではなく弟にして王である存在や、そして民にも、上司にも向けられたのだけれど。あくまで『捧げ』、そして『与える』もので。
相手を『求める』愛であったことがなかったのだと、ギルベルトは告げた。一度だけ。もしかして一度だけそう育ちかけた想いは、幸せになって欲しかったから眠らせたのだと、ギルベルトの言葉をロヴィーノは伝えない。それが誰に向けた想いで、なぜ眠らせたのか、理解してしまったからだ。想いを向ける相手はどんな時でもたった一人でしかなく、かつてギルベルトは、彼女の恋が実って行くさまを見届けたのだ。
告げても痛みしか与えないことならば、閉ざして置く方が良い真実もある。
「……エリザにはもどかしいくらいかも知れないけど、ギルは、はじめて、そうやって求める愛情を育ててるトコだから」
「……うん」
「待ってるのが苦しくなったら、それもギルに言ってやればいい。どうしてって、怒っても良い。ただ……だから、お願いだから、本当は好きじゃないとか、愛してないとか、そういうのは……言わないで、やってくれないか。なるべくで構わないんだ」
恋した女性の言葉で傷つくのも男の三大義務の一つだ、と主張するロヴィーノはあくまで本気だった。三大義務がその時々で入れ換わることだけを知っているエリザベータは、くすくすと笑ってちいさく頷く。うん、とだけ言葉を響かせて、ごめんと告げるのはぐっと堪えた。それを伝えるのは、ロヴィーノにではない。会いたいよ、と思う。今すぐに。先程よりずっとずっと強く、泣きそうなくらいの気持ちで会いたい、と思った。
きゅぅ、と眉を寄せて唇をかむエリザベータを見やり、ロヴィーノは腕時計に視線を落とす。時刻は午後の三時過ぎ。フェリはシエスタだな、と思いながらあくびをかみ殺し、ロヴィーノは告げた。
「午後五時、スペイン広場」
待ってるって伝言、とロヴィーノが言い終わるより早く、泣きだす寸前の表情でエリザベータは立ち上がった。今すぐにでも走り出しそうな様子に苦笑して、ロヴィーノは笑えよ、と言う。
「笑ってた方が綺麗だ」
「どうしても集中できない事情があり、彼女は早退しました、と言っておいて差し上げますから。お行きなさい」
「アーサーも理解してくれんだろ。シェイクスピアの国だしな」
言葉によって、走り出す背を押して。二人は、風のように駆けて行ったエリザベータを見送り、窓の外に目をやった。愛を告げるには、最適の快晴である。大きく伸びをして、ロヴィーノは息を吐く。
「よかったよな。今日の会議がローマで」
「……よかった、今日の会議をローマにして、ではなく?」
「アントーニョの入国を会議だから許可せざるを得なかった、俺の敗北感を思い知れコノヤロー」
それでも、大切に思う者がいつまでも沈んだ顔をしているよりはずっと良いのである。薄々の事情は伝え聞いていたのだろう。なにも聞かずに議場を急遽移動させてくれたアーサーには、どんなお礼をすればいいのだろうか。とりあえずティータームに誘われたら絶対に俺の家に招こう、イギリスにだけは渡らない、とかたく決意してロヴィーノは眠たくあくびした。この会議が終わる頃、二人が笑顔で居れば良いと思った。
ローマの休日で世界的に有名になった広場は、今日も観光客でごった返していた。正式な会議用のビジネススーツを着たエリザベータはどうしても目立ってしまうが、恥ずかしがっている気持ちの余裕もない。時計に目を落とせば五時よりはすこし前だが、それでもギルベルトは居るだろう。待ちあわせよりほんのすこし先に来て、待っているのが楽しいと言っていたことを思い出し、事実、今まで遅れたことはないのだ。
必死に視線を巡らせて探すが、人が多すぎて見つからない。特徴的な銀髪は真昼の光の下では輝きにまぎれてしまって、目立つものではなくなってしまうのだ。時間だけが過ぎていく。息を切らして走り回りながら、エリザベータは階段の上に立って息を整えた。ヘプバーンがアイスクリームを食べながら駆け降りた階段。肩を大きく上下させながら息を吸い込み、エリザベータはその階段を下りかけ、途中で足を止める。
夕陽より鮮やかな赤の瞳が、エリザベータより先に相手の姿を見つけていた。エリザベータは階段の上に立ち、ギルベルトは下から登ろうと足をかけていた。思えば伝言に待ちあわせ場所の大まかな指定しかなかったので、ギルベルトも同じように探していたのかも知れない。そういう、妙な所が決めきれなくて抜けているのがギルベルトだった。すとん、と胸の中に落ち着きが落ちてくる。あ、ギルベルトだ、と思った。
予想していた感情はどれも浮かばず、エリザベータは不思議な気持ちでギルベルトを見つめる。うるさいくらいのざわめきの中で、ギルベルトの声だけが耳に届いた。まっすぐ、まっすぐ見つめてくる赤い瞳。
「……どうすれば、お前が望むように愛してやれるのか、考えてた」
「私は……どうすればいいのか考えてた」
「そっか。なんか名案浮かんだか?」
ややおどけるように尋ねたギルベルトに、エリザベエータは首を横に振る。なにも。なに一つとして、浮かびはしなかった。今も、どんどん分からなくなってくる。どうしよう、と困って息を吸い込むエリザベータに向かって、ギルベルトが階段を上がる。トン、と一段。
「俺も、上手いこと思い浮かばなかったから……聞くことにした」
トン、と一段。また一段。ゆっくり、距離が縮まって行く。
「聞くって、なにを」
見つめ合う視線が、近くなっていく。
「どうすんのが良いのか、だよ。言えよ。言う通りにしてやるぜ?」
ゆっくり、ゆっくり。距離が、戻って行く。
「……触ってよ」
互いの、揺れるまなざしや、掠れた声や。
「どういう風に」
震える手や、噛み締められて赤くなった唇が。
「キス、して」
近く、なる。
「愛してるって、言って……!」
ふわ、と空気が動いた。ギルベルトの姿が視界からかき消えて、揺れる髪が下の方に見える。ごく真剣な顔をして、ギルベルトはエリザベータの前に跪いていた。物語の中で、騎士が愛する姫君にそうするように。そっと、そっとエリザベータの手のひらを引き寄せ、指先に口付ける。堪え切れずに、涙がこぼれた。ひぅ、と嗚咽を堪えてしゃくりあげると、手の甲にも口付けられる。それから、立ちあがって額にも頬にも。
視線を合わせたまま髪を指で引き寄せて口付けられ、唇が重なる。
「……愛してる」
「足りない……足りないっ! もっと!」
「愛してる、愛してる……愛してんだよ、エリザ。泣くな」
ああ、神様。愛しいのに。こんなにも愛しいのに、同じくらいに苦しい恋なのです。神様。でも、神様。この恋がいいのです。この恋が、いいのです。この人がいいのです。この人を、愛で満たしてやりたいのです。神様、神様。神様。
「待ってるから……私、待ってやるんだから! 感謝しなさいよ、馬鹿ギルっ!」
「おう、感謝する。ありがとうな、エリザ。……ありがとな」
泣きながら怒るエリザベータを、強く抱きしめて。ギルベルトはただ一心に、愛しい人の幸福を祈っていた。