一日や二日の不在ならば単に出かけていると思い、三日を超えれば泊まりに行っている、と思う。一週間なら旅行と思うのだが、十日を過ぎれば感覚はなぜか家出されている、にすり替わるのだから不思議だ。定期的に連絡は来るし居場所はしっかり把握しているのだから失踪を伴う家出ではないことは確かなのだが、それでも感覚的にそうなのである。ギルベルトが家から姿を消して、実に十五日が経過していた。
半月である。その間に開かれた会議の場では当然姿もなく、ドイツの仕事場にも顔を見せることのなかったギルベルトは、聞けばロヴィーノの家でごろごろしながら小間使いのようなことをしていたらしい。主に市場での荷物持ちを命じられ、時には使い終わった食器を洗ったりシエスタの為にベットメイキングをしたり、シーツを洗って庭に干したり取り込んだり。一緒にトマトの収穫に出かけ、イタリア料理を教わったり。
実に充実した半月を送っていたことは、日に三回は確実に入る定期連絡メールの文面からも想像にたやすかった。また、ギルベルトの不在から十日過ぎた頃、合わせてドイツに滞在を伸ばしていたフェリシアーノも、いい加減戻って仕事しろ、とロヴィーノに怒鳴られて国に戻っている。それからは『俺様、両手に楽園だぜ……!』とメールが来るようになったので、ギルベルトの機嫌はとりあえず回復したらしかった。
そもそもの『家出』原因となったエリザベータとの喧嘩も、とりあえずは一段落してことなきを得たという。そして『明日帰るぜー』とメールが来たのが『家出』から十四日目のこと。ぴったり半月の不在は偶然かも知れないが、それ以上伸ばすこともギルベルトは良しとしなかったのだろう。在るべき人が無いのは、寂しいものなのだ。久しぶりの兄をぴかぴかの家で迎えるべく、ルートヴィヒは朝から大掃除を始めていた。
しかし掃除用具を手に慌ただしく動きまわっているのはルートヴィヒのみで、兄であるベルンハルトは居間のソファに座りっぱなしだった。手の届く範囲の小物を整えて置いたくらいで、朝食からこちら、ソファの上から動いていない。もちろんベルンハルトは手伝おう、と言ったのだが、他ならぬルートヴィヒによって拒否され、ソファに座らされてしまったのである。目の前には、彼の弟が用意した十時のオヤツまである。
冷めないようにティーコージーに包まれたポットにはミルクココアがたっぷり入れられていて、甘みを調節できるように角砂糖がいくつか、小皿に盛られて置かれていた。両手で包んで持つ大きさのマグカップには、そのココアがホイップクリームつきで用意されている。ひまわりのように黄色い皿には一口サイズにカットされたバウムクーヘンが山と盛られており、手が汚れず食べられるように小さなフォークも置いてあった。
長兄にオヤツをサーブした末っ子は、さて、と頷いてはやくも掃除に戻ろうとしている。当たり前のように、ルートヴィヒの分の用意はなかった。まあ待て、とソファにゆったりと腰掛けながら腕を組み、ベルンハルトはやや不満げに眉をよせ、これ見よがしに首を傾げてみせた。
「もちろん、これを食べたら掃除を手伝って良いんだな?」
問われたルートヴィヒは、なにか恐ろしいものを目の当たりにするような顔つきで振り返った。二人の視線が出会い、そして沈黙が下りてくる。数秒間見つめ合ってから溜息をつき、ルートヴィヒは嘆かわしげに首を左右に振りながら、きっぱりとした口調で言い放った。
「Reich(帝国)我らがライヒ。あなたを働かせるだなんて、とんでもない! 良いから座っていてくれ」
「……Deutschland. 我らが民の千年の夢にしてその結晶、その化身。それはこっちの台詞なのだが」
お前が動いてなぜ休めという、と明らかな不満声に、ルートヴィヒは一理あるものの従おうとしなかった。長男は敬い休ませる存在であり、次男は好きに動かしておく存在である、と教育されていたからだ。もちろん、自由に動き回る次男の手によって。教え込まれた以上にそれを受け入れ、尊重しているルートヴィヒは大きく溜息をつき、机の上に置いたバウムクーヘンを指差した。卵色の生地に、木の幹色の焦げ目。
ふうわりと甘い香りが空気に漂うそれは、一級の手作り品だった。そしてルートヴィヒは、それを長兄が逆らえぬ武器に仕立て上げる術をよく心得ていたので、ためらいなく実行する。
「それはフェリシアーノが焼いたバウムクーヘンの、最後のものなのだが」
ぐ、とベルンハルトが言葉につまる。フェリシアーノに甘すぎるほど甘く、かつその好意を無下にすることなどは夢のまた夢でしかないベルンハルトは、それをしっかりと自覚していた。末っ子に、その意識を利用されているというのも。卑怯だぞ、と悔しげに睨みつけてくる恐ろしいほど冴えたアイスブルーの瞳に、ルートヴィヒはしれ、とした態度でどうとでも、と頷いた。とにかく、ベルンハルトを動かさないのが大事なのだ。
その為ならば汚名の一つや二つ、甘んじて受け入れよう。還って来た神聖ローマを敬い、尊ぶ気持ちならルートヴィヒもギルベルトに負けないくらい持っているのである。どうあっても折れそうにないルートヴィヒを気が済むまで睨んだベルンハルトは、溜息をついてバウムクーヘンに手を伸ばした。どうあっても聞かないなら、掃除に行かせる前にすることがある。フォークを持ってちいさく切られたクーヘンを刺し、差し出す。
「ルートヴィヒ」
ほら、と差し出されたそれを、ルートヴィヒはやや諦めの表情で口にした。あー、と口を開けてぱくりと食いつき、一流店のそれにも負けないであろうバウムクーヘンを味わう。出来たての温かなそれも格別の美味しさだったが、数日が経過した生地はしっとりとして、それでいて舌の上でほろりと崩れて溶けていく。甘さはちょうど良く、口に余韻を残すのに決してしつこいものではなかった。美味いな、と頷くともう一度。
ほら食べろ、と親鳥がひな鳥にそうするようにフォークにクーヘンを刺して差し出され、ルートヴィヒは心底フェリシアーノが帰っていてよかった、と思った。ずるいずるいと大騒ぎしかねない。もっとも、フェリシアーノが同じ場に存在する限りは弟たちに向ける愛情は残らない、と公言するような人なので、その場合はこうされない可能性が高かったのだが。三つ食べさせられた所で、もういいとルートヴィヒは立ち上がる。
「では、兄上はここでゆっくりしているように。用事があったら呼び鈴を鳴らしてくれ。来客があれば俺が対応するから問題はない。もし外に出たくなったら、中庭までなら声をかけなくてもかまわないが、敷地から出るなら必ず声をかけてくれ。場合によっては同行する」
「ルートヴィヒ。兄は、お前の兄であるから兄と呼ばれるのだが」
「ああ、あと兄さんのことりを頼む」
ベルンハルトの遠回しな非難をさらりと受け流し、ルートヴィヒは肩の上で静かにしていたことりを机の上にそっと置いた。陶器の呼び鈴の隣にころころと転がって行ったことりは、ルートヴィヒを見てベルンハルトを見て、ぴよ、と心得たように鳴く。うむ、と真面目にことりに頷き返し、では、と言い残してルートヴィヒは居間を出て行った。溜息をついて見送り、ベルンハルトはミルクココアを飲みながらことりに目を向ける。
丸っこい輪郭のことりは、元気がないようだった。机に落ちてしまったバウムクーヘンの欠片をつつくでもなく、しょんぼりとしてまぁるくなっている。時々ベルンハルトを見てぴょぴょ、と鳴く声もすこし悲しげだ。飼い主であるギルベルトの不在が一週間を超えた頃から元気のないことりは、昨日からとうとうエサも満足に食べなくなってしまった。常にルートヴィヒかベルンハルトにくっついて居て、窓の外を見ては悲しく鳴く。
ギルベルトが甘やかし放題で頭の上を定位置にしているからか、ことりはそう長距離を飛ぶことに慣れていない。飼い主の元に飛んでいくことも、難しいのだろう。今日帰ってくるからな、と呟きながら撫でてやると、ことりは言っていることが分かるように羽根をぱたつかせた。ぴょっ、とわずかばかり嬉しげに鳴くものだから、ベルンハルトはふわりと目を和ませて笑う。
「仕方がないヤツだな、アイツも……。こんなに心配させて」
帰ったら半月の不在をすこしばかり叱る決意をして、ベルンハルトはバウムクーヘンを口にいれた。もぐもぐと口を動かしてココアを飲み、ゆるりと息を吐き出す。なにもしないで居る、というのも結構な苦痛である。掃除がしたかったのにソファから動くな、と暗に言われている状態ではなおのことだ。幸か不幸か読みかけの方が手の届く本棚にあるので、読書でもしていようか。そう思い、腰を浮かせたとほぼ同時だった。
来客を告げるチャイムの音が響き、ベルンハルトはぴたりと動きを止める。出ようか、とも思うが来客の対応はすると言われてしまったのだ。そもそもギルベルトの帰宅なら鍵を開けて入ってくる筈なので、そうでない以上は出迎えに行くのも怒られるだろうし。ううむ、と悩んでいるうちに二階から駆け降りて来たルートヴィヒが玄関まで辿りついたらしい。鍵を開ける音が響き、はきとは分からないものの声が聞こえてくる。
その声に覚えがあったのでおや、と思っていると扉の閉まる音がした。ルートヴィヒは掃除に戻るらしく階段を上る音がするが、それとは別に、落ち着いた足音が居間に向かって歩いてくる。遠慮しているような、恐れているような足取り。ちら、と居間の出入り口に視線を向ければ、草色の瞳とちょうど視線があった。ぎく、と思わず体を強張らせたらしいエリザベータに向かって、ベルンハルトは手をひらつかせる。
「大丈夫だ、取って食いはしない。それより手伝ってくれないか。一人では多いんだ」
それで昼食を食べなければ心配されるし大変なんだ、と苦笑するベルンハルトにそっと歩み寄り、エリザベータは山と盛られたバウムクーヘンと、大きなふくらみを持つティーコージーを見て沈黙した。大事にされちゃってまあ、と呆れ交じりの視線に応えず、ベルンハルトは立ち上がってキッチンへ向かう。さすがにこれくらいの移動はいい筈だ、としなくて良い言いわけを胸の内で響かせながらフォークとマグを持ってくる。
フォークをエリザベータが取りやすいように皿に立てかけて置き、マグカップに波々とミルクココアを注ぎ入れて渡してからソファに座りなおす。二人掛けのソファは、しかしベルンハルト専用のものだったので、エリザベータはその正面の三人掛けに腰かける。この家の兄弟はそろって長男を甘やかし過ぎではないかと思うのだが、本人たちがしたくてしているのだから、エリザベータがどうこう言っても直らないだろう。
角砂糖を二つ入れてかき混ぜ、ココアを飲むと体からふわっと力が抜けて行く。おいし、と呟くとルートヴィヒが淹れてくれたからな、と長男は誇らしげに胸を張り、それから優美な獣のようにきゅぅと目を細めてエリザベータを見た。居心地悪く、マグカップを両手で持って顔を隠すように飲むエリザベータに、ベルンハルトはくつくつと笑いながら問いかける。
「それで。したのか? 仲直り」
「……やぁね、大きくなっちゃって。ローデリヒさんの家に居た頃は、あんなに小さくて可愛かったのに」
いつのまに人の恋路になにか言えるように育っちゃったのかしら、と嘆かわしく息を吐くエリザベータの言葉を、ベルンハルトは先程己がそうされたように、さらりと風が流れて行くがごとく黙殺した。大体、幼い頃の話を持ち出して来るなら自分はどうなのか。今はギルベルトが時折呼ぶきりの、かつての名前を知る帝国は唇を静かに緩めて微笑んだ。姿が幼くとも、とうに潰えた存在だとて、彼は確かに帝国だった。
その名を切り刻まれ、史学家に徹底的な非難を受けたとしても。形骸化する『体』に、朽ち果てるように一度時を終えた存在だとしても。それでも彼は『帝国』の名を冠して生きた『国』であり、プロイセン王国が騎士として仕えるに相応しい者だった。かの条約から、神聖ローマ帝国が歴史にその名を完全に終わらせられるまで、その姿をハンガリーは見ていない。どう消えたのかも、どれくらいの外見年齢であったのかも。
もしかしたら成長期に入る直前の、少年の姿であったのかも知れない、とエリザベータは思う。十六くらいに見えるベルンハルトは、消え去った瞬間の姿を選んで戻ってきたのかも知れない、とも。それは聞けることではなく、想像するのも踏みこんではいけない領域である気がして。なにも告げられず、エリザベータはただ息を吸い込んだ。それから問いかけられたことを胸の中で転がし、じっくり考えながら口を開く。
「……そうね。直ってないわよ。仲直り、してないわ。ただ私はもうすこし待つ気持ちになって、ギルは……ギルのことはギルに聞いて。今日帰ってくるんだから」
今日の帰宅を知っていることを、ベルンハルトは問いかけなかった。だからエリザベータは来たのだし、ルートヴィヒは迎え入れたのだろう。それで十分だった。むくれた様子でクーヘンを口に運ぶエリザベータを眺め、ベルンハルトは溜息をつく。お前たちは昔からそうだ、と溜息をつけばエリザベータの眉が寄る。
「なにそれ。どういう意味かしら」
「そのままだ。出会った頃から喧嘩ばかりしている、という意味でもある」
つついて泣かせて、泣きやまなくてお前まで泣く、と。本当にちいさな、エリザベータにしてみれば記憶している一番最初の頃の出来事を持ちだされ、思わず声が出なくなる。恥ずかしいというか、もうその気持ちを通り越していたたまれない。外見の年齢を途中で追い越しただけで、相手はそもそも年下ではないのだ。その頃のことは言わないで、と精神的に瀕死の重傷を負った声で求められるも、さらりと言い募られる。
「そもそもお前たちは、似すぎてるんだ。考え方や、心の在り方。精神の立ち位置。俺たち『国』にもその存在がが許されているのだとしたら、魂の……ある場所が、近すぎる。だから似ていて、言葉がなくとも分かり合える。分かり合えるから、実は相手のことを全く理解できていない……理解できない一面があることを、いつまで経っても認識できない。そして、それが当たり前のことだというのも、お互いに分かってない」
分かっている、という言葉は喉の途中でひっかかって、どうしても声に出すことができなかった。ミルクココアの甘さが、急に重くべたつくものになった気がして、エリザベータはマグカップを机に置いた。すると顔を隠すものがなくなってしまって、ベルンハルトの視線と正面から向き合う。苦しげに眉を寄せるエリザベータに、ベルンハルトはとつとつと言葉を重ねて行く。投げるでもなく、向けるでもなく、表すだけの声の色。
「自分のことですら百パーセントの理解はできないものだ。心をあるがまま覗きこめる己ですら、見えない部分を持っている。そうだろう? 自分ですらそうなのだから、他人を理解しきることなどあるわけがないし、そもそも分かる訳がない。……それでも、理解を望んで手を伸ばすなら。分かりたいと、分かって欲しいと心が望んでどうしようもないなら。話すべきなんだ、エリザベータ。だから、『言葉』は生まれたのだから」
「ロヴィちゃんにも、言われたわ。言葉にしなきゃ、伝わらないって」
「……ただ、無理に告げる言葉を本音とは呼ばないし、引きずり出した心を本心とも呼ばないからな」
奥に隠された心は、隠されたいと思ったからこそ、そこに眠るもので。眠りを無理に呼び覚ましはするな、と告げるベルンハルトに、エリザベータは静かに頷いた。言えないことも、言わないでいることも、胸の中には眠っていて。それはきっと、ギルベルトも同じことで。けれど伝わって欲しくても、伝えていなかった言葉もたくさんあるから。それを言えるようになればいいと、思って。エリザベータは、ゆっくり息を吐きだした。
「ねえ、ベルンハルト」
「なんだ」
「ベルンちゃんは、フェリちゃんと上手く行ってるの?」
問いかけは、絶妙のタイミングだったらしい。クーヘンを喉に詰まらせかけて咳き込んだベルンハルトは、慌ててカップを傾けて中身を飲み干すと、だんっ、と音を立てて机に戻す。肩で大きく息をしながら、ベルンハルトはにっこり笑うエリザベータを、思い切り睨みつけた。
「それを聞いて、どうするつもりだ」
「どうもしないわ。ただ……えっちしたのかな、と」
ロヴィちゃんがなんか言ってたし、と呟いた内容に、心当たりは十分すぎたらしい。発作的に咳き込んだベルンハルトは、ことりが心配そうな目を向けてくるのになんとかなんでもない、と頷いてから顔をあげる。咳き込み過ぎて涙の浮かんだ顔は、真っ赤だった。口をぱくぱくさせながら努力して息を吸い込み、ベルンハルトはソファの上で、やや逃げ腰になりながら叫ぶ。
「はっ、はしたないぞ! エリザベータ!」
した反応ではないな、とエリザベータはベルンハルトをじっくり見つめて判断して、なんだと息を吐く。安心半分、つまらなさ半分である。先を越されるのはとてつもなく面白くないが、二人を本当にちいさい頃から見守ってきた者としては、はやく進展すればいいのに、とも思う。自分の恋で思い悩んでいようとも、恋の話は蜜の味なのだ。複雑な心を持て余すエリザベータの前で、ベルンハルトはぶんぶん頭を振っている。
「か、考えられ……想像も、しないっ。しないからな……! ……っ、あー! あー! わーっ! おっ、俺のことはどうでもいいだろうっ! これ以上聞くなっ! 絶対聞くなっ! 言わんっ!」
「……照れちゃって」
「黙れー!」
顔に血が集まり過ぎて貧血になりそうなベルンハルトは、ソファの上で立ちあがって叫び、そのままばったりと倒れた。クッションをぎゅぅ、と抱きしめて動かなくなってしまったので、相当大変らしい。うつぶせになったまま、ついに素数を数えだしたベルンハルトを止めるか放置しておくかエリザベータが悩んでいると、居間の扉が開かれる。呆れ顔で姿を現したのはルートヴィヒで、掃除は一段落したらしかった。
掃除用具を専用の入れ物に手早くしまい、ルートヴィヒは頭から煙を出しそうな勢いで動かなくなっている長兄を見やり、長々と溜息をついた。声はかけずに歩み寄り、ソファの前にしゃがみ込む。座るスペースは空いているのだが、あくまで二人掛けソファはベルンハルトの領地であるらしい。許可を取らずに腰かけることをせず、ルートヴィヒはベルンハルトを呼んだ。
「兄上。呼吸はしていますか」
「……なんとか」
「安心しました。……エリザベータ。俺は兄上が居間に居るから話し相手になってくれないか、とは言ったがな。兄上で遊んで良いとは言っていないだろうが。やめてくれ。兄上は繊細なんだ」
責め口調での言葉にエリザベータは素直に謝ったが、庇われた当人のお気に召すものではなかったらしい。もぞっと動いた手が拳を作り、末っ子の頭をぽかりと叩いて力なくソファに落下した。うぅ、と呻きながらもぞもぞ体を起こしたベルンハルトは、いつの間にか残り一つになっていたバウムクーヘンをフォークで刺し、無言でルートヴィヒに差し出した。なんだか恨めしげな目つきだが、それは単に機嫌が悪いからだろう。
はいはい、と苦笑しながら食べさせてもらうと、ベルンハルトの機嫌が上向いて行く。じわり、滲むように喜びを表す長兄の瞳が、ルートヴィヒは好きだった。座って良い、と言われたので控えめにベルンハルトのソファに腰を下ろし、ルートヴィヒは額に手を押し当てているエリザベータを見る。言いたいことは分かるが言わないでいてくれ、と視線で求められたので、エリザベータは仕方なく、仕方なく頷いてやった。
「……仲がいいのは良いことだから」
「ああ……ありがとう。……兄さんも、はやく帰って来ればいいものを」
昼食に間にあうように帰る、とメールでは言っていたのでそろそろだろう。三人は無意識に時計を見て、それから二名の視線が交差した。きら、と輝いたのは対抗心か、好奇心か。ふふ、とごく自然に浮かんで来る笑みを唇に乗せながら、エリザベータとルートヴィヒはやおら、睨みあう。暇そうなことりを手に乗せて遊んでやりながら、ベルンハルトはルートヴィヒを見て、エリザベータを見て、窓の外を見て遠い目をした。
末っ子と、次男の婿とも言える嫁の争いに巻き込まれてもなにも楽しくない。なぜここで仲良く待てない、と思うベルンハルトの様子に気が付いた風もなく、エリザベータはにっこり笑った。
「誰でしょうね。この中で、ギルが一番最初に名前を呼ぶの」
「残念だが勝負にならないな。昔から兄さんは、十日以上家をあけると、なにをも優先して俺の所に来るんだ」
「あら、でも昔のことでしょう? 今は違うんじゃないかしら」
ふふ、ははは、とごく和やかに響く笑い声とは裏腹に、ベルンハルトの手のひらの中では、怯えたことりが毛を逆立ててまんまるくなっている。お前の気持ちは十分分かる、と頷いて、ベルンハルトはごく控えめに視線を持ち上げて提案した。
「部屋に戻っても?」
「駄目だ。兄上は、ぜひともここに居てもらわなければ……!」
「そうよ、ベルンちゃん。居ていいのよ? 証人も必要だもの」
二人の間では、そもそもベルンハルトが一番であるという選択肢がないらしい。それはそれで、失礼な話だ。溜息をつきながらも逃げられなくなったベルンハルトの手の中から、いっしょうけんめい羽ばたいたことりがふよふよと浮き上がり、居間から逃げ出していく。ぴよよよ、と声がだんだん遠くなっていくのに、墜落しなければいいのだが、とベルンハルトは溜息をついた。ぴよっ、と声が響く。玄関の開閉音がした。
「おー! ことりちゃんっ! 出迎え? なあなあ、俺様の出迎えかよーっ?」
部屋に訪れたのは、氷河期だった。沈黙など生易しいくらい、空気が崩壊していく。ぎ、ぎぎ、とぎこちない動きで二人の視線がことりが居た筈の机の上に向けられ、それから玄関の方向に向けられた。一番手、ことり。大穴にも程があるだろうっ、と二人が仲の良さを伺わせるそっくりな動きで頭を抱えると、上機嫌なギルベルトの声が近づいてる。
「おー、なんだよなんだよ。くすぐってぇよ、こら……! ん。なんだことりちゃん、ちょっと軽くなったか? 毛艶もあんま良くねぇな。体調悪いか? どした? ……よしよし、ごめんなー。留守が長かったもんな。ん、今日はずっと一緒にいような。頭の上で寝てていいぜー」
俺の弟は、そういえば自ら窮地に追い込まれるのも得意だった、とベルンハルトは思う。どんどん体感気温が下がっている居間から逃げることもできず、沈黙するしかないベルンハルトの元に、その時ようやくギルベルトが到着した。兄にも弟にも、恋人にも出迎えてもらえなかったギルベルトは、それでもことりを頭に乗せて機嫌よさげにひょこりと顔を覗かせ、室内の惨状を見やって、よく分からない風に首を傾げた。
「ただいまー……? ……兄上、なんかあったのか?」
「……そうだな。たった今、お前が俺を呼んだことで止めを刺したな」
「俺が? ……二人とも、ギルベルト様のお帰りだぞー。ただいまー。なあなあ、ただいまって言ってんだろー?」
いまいち状況が分かっていないギルベルトは、トドメの上にさらに息の根を止めたいらしかった。どちらの名前も呼ばず、二人、にしたのはある意味被害を拡大させたくない無意識なのかも知れないが、ベルンハルトには戦いのはじまるゴングの音にしか聞こえない。つまり引き分けなのだから、もう一勝負すればいいだけの話である。一気に己を取り戻したルートヴィヒとエリザベータは、同時にソファから立ちあがった。
引っ張り合いになるか、それとも抱きしめあって離さないか。ベルンハルトの、いいから逃げろ、という言葉は恐らく間にあわないだろう。え、え、と戸惑いながら駆け寄ってくる二人を見比べるギルベルトの頭の上で、ぷすー、と寝息を立てて眠ることりだけが幸せそうだった。