七日間に及ぶ国際会議が、ようやく終わった。与えられた椅子の背もたれに体を預けながら、エリザベータはぐっと腕を上に持ち上げる。息をつめながら体を伸ばし、脱力すると共に呼吸を外に逃がした。ふ、と全身から力が抜け、同時に疲れも逃げていくようだ。凝り固まった肩を腕を回すことでほぐそうとしながら、エリザベータは目の前の机に重ねられた、十数枚の紙を見る。国にまつわる、たくさんのことが書かれた書類。
会議中は重要な意味を持つそれは、終了と共に価値を失い、数時間後にはシュレッダーにかけられる定めだった。国に持ち帰って上司に手渡す『国』もあるだろうが、エリザベータはハンガリー政府にそれを求められたことはなく、たいがいは口頭で結果を告げるに留まっている。『国』によって執り行われる国際会議は、終了と共に彼らの手を離れる。ありとあらゆる意味で、その瞬間、国の政治はひとの手の中に宿るのだ。
そして国はひとによって動かされ、ひとの為の政治が紡がれる。『国』はその結果を受け止めるだけ。時々エリザベータは、自分のしていることが分からなくなる。近代から現代においては特に、『国』は最終的な判断をゆだねられることもなく、出た結果を肯定することだけを求められる。こうして議論を戦わせた会議の結果も、まるで国政に反映されないことも少なくなかった。世界は、国は、あくまでひとが動かすひとのものだった。
ほんのすこしの寂寥感と疑問を苦笑することで消し去り、エリザベータは書類を手にすることなく椅子から立ち上がった。それでも『国』はひとと国民を愛しているし、こうして会議を繰り広げることだって、全く無駄という程でもない。『国』は国民の為、そして国の為できることがあるのだ。それが誇らしく、なにより嬉しかった。会議終了後独特の浮足立ったざわめきに耳を傾けながら、エリザベータは導かれるように視線を動かした。
今回の国際会議は、オーストリアにて執り行われた。当然ホストは『オーストリア』で、芸術家気質の彼の国は、会議の準備にも開催中のスケジュール進行にも己に妥協を許すことはなく、ひどく神経をすり減らしながら七日間を過ごしていた筈だ。エリザベータの予想通り、ローデリヒは椅子から立ち上がることさえしていなかった。無様に机に突っ伏すことだけは、男の矜持が拒否したのだろう。机に肘をついて、目を伏せている。
鍵盤と踊る繊細な指先は額に強く押しあてられ、頭痛を堪えているようにも、凝りをほぐしているようにも見えた。エリザベータは夜会の人混みを抜けていくような足取りでローデリヒに近付いて行き、男が視線をあげるより早く、優しく響くようにと願いながら唇を開く。音楽家の鼓膜に触れる音は、いつでも柔らかなものであればいいと、そんなことを思った。
「おつかれさまです、ローデリヒさん。……なにか飲み物を持って来ましょうか?」
「……ああ、エリザベータ」
問いかけにはゆるく首を振ることでいらないと答え、ローデリヒは溜息をつきながら顔をあげた。そっと唇に乗せられた名前はやはり疲れた響きで、エリザベータは思わず眉を寄せてしまう。ローデリヒがこんな風に弱ったところを見せるのはごく稀なことで、だからこそ、その疲労の深さをうかがわせた。立てますか、とそっと響く問いかけにローデリヒは馬鹿にするのではありません、と言うものの、椅子の上でぐったりしたままだ。
身動きをする気配もなく、立ち上がれそうな風でもなかった。
「……すこし休めば、平気ですから」
抱き上げて医務室か、ホテルの部屋にお連れした方が良いのかしら、と考える元妻の思考を呼んだのだろう。ため息交じりにそう告げられて、エリザベータはしぶしぶ頷いた。これが戦時中や警戒中ならば無理にでも連れていくのだが、今現在は、とりあえず平和なのである。では立ち上がれるまでお付き合いしますね、と笑いながら隣の椅子を引いて腰掛けたエリザベータに、ローデリヒは視線を向けて穏やかに笑う。
すみれ色に透明な、穏やかな瞳。嬉しげに微笑みかけられて、エリザベータは温かな気持ちでにっこりと笑った。好きだな、と思う。こんな風に、なんでもない瞬間に視線を重ねて笑われると、エリザベータは本当にローデリヒが好きだと思う。穏やかに。ただ、大切だと思う。エリザベータの至宝。傍にありたいと願い、一度はそれを許され、共に戦い、そして守った相手。大好きだった。だからこそおかしくて、すこしだけ笑う。
恋は、どこに行ってしまったのだろう。ローデリヒとの恋が終わった瞬間はもう思い出せず、それでいて確かに、エリザベータの胸の中で眠っていた。笑うエリザベータに不思議そうな眼差しを向け、ローデリヒは腕を持ち上げる。そっと頬に触れる手は温かく、エリザベータはやんわりと目を細めた。どうしたのですか、と音楽家が囁く。エリザベータ。名を呼ぶ響きは愛情に満ちて優しく、それでいて恋の欠片は含まれていなかった。
そのことが、エリザベータには嬉しい。恋ではなく、恋愛ではなく、ただ愛情を持って繋がっていられることが誇らしい。なんでも、とエリザベータは笑った。なんでもありません、ローデリヒさん。ただ、と言葉を切ってエリザベータは息を吸い込む。胸一杯に満ちた空気が、そのまま幸せになるようだった。言葉は、そのまま出てこない。けれど、それでも十分なようだった。すみれ色の透明な瞳が、くすりと笑って輝きを滲ませる。
その透明な視線が、すいと空を泳いだ。誰かを呼びよせるような、それでいてなんの意味も持たないような仕草だった。思わず視線を同じ方向に向けると、ヴェッ、と嬉しそうな鳴き声が弾ける。とたたたたっ、と可愛らしい足音を立てて走り寄って来たフェリシアーノは、二人の間にずぼっとばかり体を突っ込むと、にこにこ笑いながら首を傾げた。
「ローデリヒさん、エリザさんも、なにしてるの? 帰らないのー?」
「もうすこししたら帰りますよ。……ロヴィーノはどこです」
幼い息子の片割れが姿を見せず、心配している母親のような声だった。太陽のような明るい笑顔で大きく頷いたフェリシアーノは、にいちゃんあっちーっ、と無邪気な声で『イタリア』に割り当てられていた席の方角を指差してみせる。珍しく兄弟二人で出席していたから、そこに『イタリア』の席はふたつある筈だった。当然のごとく、ひとつは空席。もうひとつに腰を下ろし、イタリアの片割れにして兄、南イタリアの化身はそこに居た。
ロヴィーノは珍しくもスーツを着崩すことなく椅子に座っていて、さらに珍しいことに、真剣な顔で会議の資料と向き合っていた。手に持たれたペンは止まることなく動かされ、資料に文字を書き加えている。ローデリヒとエリザベータは、思わず無言になった。ロヴィーノが仕事をする、それ自体は大いに歓迎するべきことだ。しかし青年が真面目に仕事をする時は八割九割、精神的に追い詰められている時なのである。ストレス解消の手段として『国』の仕事を真剣に執り行うロヴィーノだからこそ、二人はなんともいえない気持ちで顔を引きつらせ、フェリシアーノに目を向けた。
ロヴィーノが逃避手段として仕事をすることを、誰より知っているのがフェリシアーノだ。だからこその視線に、フェリシアーノはくすくすと肩を震わせて明るく笑う。ちがうよちがうよ、と天使の甘いささやきが空気を震わせる。
「今日はね、違うの。だから大丈夫だよー。あれ、対抗意識だから」
「……対抗意識?」
「うん、あのね」
ギルがね、と慣れた風に天使がその名を呟くのを、エリザベータは不思議な気持ちで耳にした。思わず、目を瞬かせてしまう。
「……ギルベルト、が、なに?」
その名をまさか、この時に聞くことになるとは思わなかった。そう言わんばかりにエリザベータは口にし、誰に対するでもなくだって、と言葉を続けていく。だって今日、アイツ。空軍演習の予定が入っていた筈だ、とエリザベータは頭の中にスケジュールを呼びだして確認し、唇に指を押し当てた。ギルベルト・バイルシュミット。『ドイツ』の暫定的なもうひとりであり、かつての『プロイセン』である男は、ドイツの空軍に籍を置いている。
それは大戦前からのもので、己から望んでそうしたのだという。陸で戦い続けた男、時代を経て『ドイツ』に全てを受け渡すと、繋ぎとめるものが無くなってしまったような空虚さで空にあがったのだ。天と地の狭間、どちらとも呼べない空間に己を重ねたのかも知れなかった。あるいは天を染める青さを恋しがったのかも知れず、その傍に行きたかったのかも知れない。未だ理由を告げぬ男の真意は、今も、誰も知らないままだった。
空へと舞い上がるその姿は糸の切れた風船のようであり、風に身をまかせて旅に出たがる眠った綿毛のようであり、ゆるゆるとくゆりながら立ち上って行く煙のようでもあった。存在しているのに希薄な、不安定な状態は第二次世界大戦の終わりを経て『ドイツ』の東を己のものとし、壁の崩壊と東西の統一、完全なるひとつの『ドイツ』復活を成し遂げて、ようやく今、安定しているのだった。ギルベルトは、あくまで『プロイセン』だ。
それでも最近はもうひとつ、『東ドイツ』としての名を持って存在を安定させ、『国』として国の為に、国民に混じって生活をしている。『国』が軍に所属する必要はどこにもない。それなのにギルベルトが未だ持って空軍に所属しているのは、ただ単純に本人の趣味である、ということで周囲の見解は一致していた。今日の演習も、特に『国』の参加は必要のないものである。近隣の市民に向けたパフォーマンスのひとつであるらしい。
最新鋭の機体による、エースたちのアクロバット飛行。ギルベルトはそれに、あくまで『ドイツ』の片割れではなく、『ギルベルト・バイルシュミット』として参加しているのだった。俺様の類まれなる腕を披露してやるぜ、と自作の格好良いポーズを決めながら言ったギルベルトからは、戦中に覚えていた不吉な予感を受けることもなく、エリザベータは呆れながら男を送りだしたのだった。ようやく、安心して飛ばしてやれるようになった。
空にのぼったまま、風の中に消えてしまうのではないか。あの青さに溶け込んでしまうのではないか、なんて、根拠のない不安と戦わなくて良くなった。今はもう、安心してギルベルトを空に送り出してやれる。男の愛したもの、求めるものが全てではなくとも地上にあり、そのことをギルベルトも知っている。そう、分かったからだ。エリザベータがここで待っている限り、ギルベルトは戻って来てくれる。ただいま、とごく普通に笑って。
だからこそ。今日がアクロバット飛行演習当日だと知っていても、エリザベータはなんの心配もすることなく、その名を出されるまで所在すら思い出さない程安心していたのだが。かすかな不安を覚えた顔つきで沈黙してしまったエリザベータに、フェリシアーノは申し訳なさそうに苦笑し、それでいてわずかに浮き立つ声で、大丈夫なんだよー、と囁く。
「あのね、演習、二時間開始が早まったんだって。こっちはそんな気しないけど、航空演習する方はなんかあんまり天気が良くないらしくって、空高くは風も強くて回復しなさそうだから、飛べるうちにやっちゃおうって。でね、ギルは一番に飛んで終わりにしちゃって、そのまま会議の警備に混じって遊んでたんだよ。閉会一時間前の休憩、あったでしょ? その時に、警備のひとたちとひたすら『あっちむいてホイ』だっけ? してた」
一人だけドイツ空軍の軍服だったし色は目立つからすぐ分かったんだよ、と笑うフェリシアーノは、一応、ロヴィーノにも確認を取ったらしい。表面的に友情が深いとも見えにくいが、ロヴィーノとギルベルトはなぜか仲がいい。ギルだよね、なんでここに居るのかなぁ、と不思議がって尋ねたフェリシアーノに、ロヴィーノは無言で携帯電話の画面を見せてくれたのだという。メール画面が表示された画面の、送り主はギルベルト。
早く終わったからそっち行くぜー、と連絡を受けたのはロヴィーノだけであるらしく、『南イタリア』の化身も、ちゃんとそれを把握していた。あ、やっぱりギルだった、と頷く弟に兄はほとほと呆れた様子で、うるさい保護者に怒られたくないから隠れてるんだろ、と溜息をついたらしい。うるさい保護者のうち二人、エリザベータとローデリヒはなんだと、とばかりひきつった表情で、痛む額に指先を押し当てる。文句の言葉も出てこない。
ギルベルトがワーカーホリックなのは、本人以外の周知の事実だ。あれはワーカーホリック気味、などという可愛らしいものではなく、完全なるワーカーホリックなのである。いったん仕事を始めると体力が付き果ててぱったり行くまで立ち止まらず、休まず仕事をし続ける。その状態がなぜか楽しくて仕方がないので、あまり立ち止まりたくないのだ、というのが本人の弁である。馬鹿だ、と一言で表現して、エリザベータは息を吐く。
ギルベルトがロヴィーノにしか連絡を入れなかったのは、こっちに来て何をするつもりか把握されても、怒られない相手だからである。一人にでも連絡をしておけば無断でやってきたことにはならないし、面倒事に巻き込まれるのが嫌な一心で、ロヴィーノはそれを積極的にふれまわったりしない。なによりロヴィーノは、ロヴィーノなりのやり方で、時々ギルベルトを甘やかす。そのことを、ギルベルトもちゃんと知っているのだった。
「ば……ばか! ばか、ばか、ばかっ!」
「……なに騒いでんだよ」
「アンタのことよっ、アンタの!」
息を吐きだし、叫んだタイミングで舞い降りた声に、エリザベータがそれを誰か確認もせずに言い放った。振り返った先、不思議そうな顔つきをしながら歩み寄ってくるギルベルトには、憎らしげに睨みつけてくるエリザベータの視線の意味も、額に指先を押し当てたまま動かないローデリヒの仕草も、苦笑するフェリシアーノの表情の意味も分からないらしい。支給品らしいブーツの硬い靴底が、ゴツゴツと音を立て歩み寄り、止まる。
「なんだよ、エリザ?」
ひょい、と身を屈めて目を覗きこむようにして、ギルベルトは尋ねてくる。瞬きの間に見え隠れする瞳は、押し花にされた赤い薔薇の花弁を想わせた。しっとりと曇っているように見えるのは、意識が高揚していても、ギルベルトの身体が疲れている証拠だろう。精神的な要因で痛む頭を抱えながら、エリザベータはなんだよじゃないわよ、とそう言おうとして息を吸い込み。けれど、隣をすり抜けた存在に、そのまま息を吐き出した。
ローデリヒさん、と不思議そうな声で女性が名を呼ぶより早く動いた音楽家は、きょとんと見てくるギルベルトに、素直な動きで両手を伸ばした。ふわ、と空気が動く。べちん、と音を立ててギルベルトの頬を両手で挟んだローデリヒは、目を白黒させるギルベルトに対し、ごく華やかに微笑んだ。なんとなく機嫌が良さそう、にも見える表情だった。
「お空は楽しかったですか? お馬鹿さん」
「お……お、おう」
「よろしい。では地上も満喫なさることですね。こちらが本日の買い物メモです」
さあ買ってらっしゃい、とにっこり笑って取り出した紙片を顔に押し付けるローデリヒに、ためらいは見られなかった。ちょっ、と慌てた声をあげて反射的に紙片を受け取ってしまいながら、ギルベルトは頬に押し付けられたままの手に、居心地悪く身じろぎをする。痛みはもう、なかった。
「え、っと……いや、こら待てローデ」
「はい、なんです? ギルベルト。私は雑用を押し付けようというのではなく、自力ではなぜか休めもしないお馬鹿さんの望む通りに、仕事を差し上げようというのです。感謝なさい。買ってくるのは気に入りの市場でも、どこかのスーパーマーケットでもかまいませんよ。本日の夕食に間に合うように買って来るのであれば、それで」
流れる口調で有無を告げさせず言い放ち、ローデリヒはにっこりと笑った。頬を挟みこむ手は、変わらずそのまま置かれている。ギルベルトは視線をうろつかせて考え、どこか幼い仕草で首を右に傾けた。
「なあ、ローデ」
「なんですか、お馬鹿」
「怒るなよ。帰ったらちゃんと寝る。お前らに会いたかっただけだし」
だから今回はちゃんと、警備に混じって仕事してたとかじゃなくて、遊んで暇つぶししてた、とけろっとした表情で言うギルベルトに、ローデリヒは深々と溜息をついた。なんというか、根本的な認識から話し合いの必要性を感じる。以前に比べて格段の進歩はしているものの、ローデリヒの希望としては、そもそも休んでいて欲しいのである。起きているのではなく、遊んでいるのではなく、暇つぶしでこちらまで赴くのでもなくて。
だって会いたくなったんだからしょうがねーじゃねぇかよー、と唇を尖らせて抗議するギルベルトにもう一度溜息をついて、ローデリヒは頬からてのひらを外してやった。去り際、指先でトン、と額を押しやる。
「……夕食は、あなたの食べたいものを作りましょう。好きなものをいくつか、買っておいでなさい」
「ん、楽しみだぜ!」
「エリザベータ」
声をかけるタイミングも、怒る気もすっかり失ってしまったエリザベータは、呼びかけられてはっと背を正した。二人の視線が向けられるうち、女性は音楽家のものだけを選んで受け止める。謹んで指示を受け入れる気持ちで待てば、ローデリヒはふわりと、ごく穏やかに微笑んだ。
「よろしくお願いしますね」
「はい。……え、なにをですか?」
「買い物、ですよ。ギルベルトと一緒に」
さもないとじゃがいもとヴルストとビールしか並ばない食卓になりそうですから、と言うローデリヒから、ギルベルトは視線を明後日の方向に逃がして沈黙している。図星であるらしい。ダメだコイツ本当どうしようもない、と心底思いながらエリザベータは頷き、フェリシアーノを伴って立ち去るローデリヒを見送った。じゃあまた後でね、と明るく笑い、フェリシアーノはローデリヒの腕にじゃれて絡みつきながら、軽い足取りで去って行く。
二人はこれからルートヴィヒを探し、兄さんを説教する、と言いだすのを宥めて『家』に帰るのだろう。一足先に。誰も何も言わなかったが、誰もがなんとなく、暗黙の了解としてひとつの家に帰ることを知っていた。まるで、家族のようだ。くすくすと温かな気持ちで肩を震わせて笑い、エリザベータはギルベルトを見る。女性と同じく、立ち去って行く音楽家と天使を見送っていたギルベルトは、気まずげな表情でエリザベータを見た。
エリザベータは僅かばかり笑みを深めてギルベルトを見つめ、ようやく、ふたりの視線がきちんと出会う。
「……おかえり」
なんとなく、そう言いたくなって呟けば、ギルベルトは意外そうに軽く目を見開いた。別に、言葉は返されなくてもよかった。だから気にしないで良い、とゆるく首を振ったのだが、そうするとギルベルトの眉間にきゅぅ、と皺が寄ってしまう。え、と瞬きするエリザベータに、ギルベルトはすこし怒った声で言葉を落とした。
「ただいま」
「……うん」
「ただいま、エリザ。……あと、会議お疲れ」
お前も疲れた顔してんぞ、と言いながらぽんと頭を撫でて離れていく手を、引き留めたくなる気持ちをエリザベータは押し込めた。そのまま頭を撫でていて欲しい、だなんて、思ったとしても絶対言葉には出したくないし、言ってやりたくない。負ける気がした。なにかに。ぐーっと唇を噛んでうん、と頷くだけのエリザベータに不思議そうにしつつも問いかけはせず、それにしても、とギルベルトは音楽家が出ていった扉を遠目に呟く。
「休まなきゃいけないのは、アイツもじゃねぇのかよ。会議のホストだったんだろ? あの完璧主義者、絶対疲れ果ててるぜ?」
「そうね。……今夜は皆で、ゆっくり休みましょう?」
美味しいものを食べて、おいしいねって言い合って、笑って、たくさん笑って、温かくしてゆっくりと眠るの。提案に、ギルベルトはじわりと熱を感じたかのように、あたたかく緩んだ表情で頷いた。おう、と言葉が返る。気が付けば、周囲に残っている者も少なくなっていた。時間はまだ十二時を回って幾許も経過していない。エリザベータは十一時の休憩で軽食を口にしたので食事をする程の腹具合でなく、ギルベルトも同じらしい。
二人はちらりと視線を交わし合って意思を確認すると、同時に部屋の扉に向かって足を踏み出した。
「着替えてくるから、すこしだけ待っててくれない?」
「着替え?」
会議室から、廊下に出る。光に溢れた明るい空間をエレベーターホールに向かって歩きながら、エリザベータは己の足元を指差した。
「じゃがいも買いに行くのに、フォーマルスーツにヒールで出歩けって言うの?」
よく見なさい、と足元を指差して言うエリザベータに、ギルベルトは女性の足元に視線を落とし、深々と頷いて呟いた。お前、脚のライン本当に綺麗だよな。思わずギルベルトの腹に膝蹴りを叩きこみ、エリザベータは赤らんだ顔を隠す為、視線を明後日の方向に投げ捨てた。
「と……とにかく! 着替えてくるから、ロビーで待ってなさい!」
国際会議が開かれるのは、大型のホテル内であることが多い。会議用の多部屋が確保しやすい為と、セキュリティの関係、そして各『国』の宿泊施設確保が容易な為だ。実際に会議を行う場所を他に確保することも多いのだが、今回は同じ建物の中に、一週間の部屋がある。シャワーを浴びて服を選んで化粧を直すのに急いでも本当は一時間は欲しいが、ギルベルトは嫌な顔をするだろう。三十分、とエリザベータは言った。
「三十分後。ホテルのラウンジで待ち合わせ。いいわね?」
「……了解。なんだよ、褒めたのに」
「足元を見なさいって言ったのよ。脚を見てとは言わなかったわ」
さっと歩き去りながら聞こえた言葉にそう返せば、ギルベルトはむくれた気配を隠そうともせず、待ち合わせには遅れんだよ、とだけ言って来た。それに頷きだけを返してエレベーターのスイッチを押す。す、と気配が遠ざかったのを感じて思わず振り向けば、ギルベルトは階段を使おうと、その方向へ向かっているようだった。なんという運動バカ。呆れに目を細めながら、エレベーターの停止表示機に、焦る気持ちで視線を向ける。
数秒悩んで、エリザベータはギルベルトを追いかけた。エレベーターを待つより、多少疲れても脚が痛くなっても、階段を使った方が早そうだという判断だからだ。それだけだ。すこしでも一緒に居たいだなんて、絶対にそんなことはない。足音を聞いて、ギルベルトが振り返る。そして苦笑交じりに差し出された手に、エリザベータは、勢いよくてのひらを叩きつけた。