幼少期にがっちり植え付けられた、トラウマに似た服従意識をぎりぎり踏みつけられながら微笑みかけられ、ギルベルトは浮かんで来る涙を堪え、鼻をすすりあげた。その、泣きそうな様すらいたく可愛らしい、とばかりエリザベータの笑顔がうっとりとしたものになる。ダメだこれ。相当ダメだ。痛みを与えないように加減されているとはいえ肩を押さえ付けられた状態で、ギルベルトはありとあらゆる全てを諦め、溜息をついた。
ごめんなさい、と口にする。
「……『マジャル』」
「うん?」
古い呼称に、エリザベータは愛おしく目を細めて首を傾げてみせた。それはもう、互い以外には誰も知らない名前だった。エリザベータが、まだ『少年』であった頃の。そしてギルベルトが、まだ『修道会』であった頃の。今はもう二人だけが知る、二人だけの呼び名だった。名を呼んだものの口ごもってしまうギルベルトの頬を撫で、エリザベータはしっとりとその『名』を口にする。
「なあに、『マリア』」
きゅう、と。ギルベルトはなにかを堪えるように瞳を細め、苦しげに喉で息をつめる。エリザベータはくすりと笑い、ギルベルトに指先を伸ばすと、禁欲的に締められていた襟元の紐を解き放った。柔らかく、首に唇を落とす。びく、と怯えるように震えたのを見下ろし、エリザベータは熱っぽい額にも唇を寄せた。ちゅ、と軽く音を立ててから離して、額を重ね合わせる。至近距離で覗きこんだ瞳が、揺れていた。鮮やかな、朝焼けの色。
「『マリア』」
その、朝焼けを見つめながら。エリザベータは手を差し伸べるような気持ちで、『それ』を呼ぶ。
「おいで」
瞬間、朝焼けの赤が劇的な侵食を受ける。あお。青。蒼。藍。それは水に落とされた油のようにさっと拡散し、表面に膜を張るかのごとく瞳の色を塗り替えていく。朝焼けが、時に従って青く染まるように。澄み渡る祈りの青が、ギルベルトの瞳に呼び戻されていく。混乱の為か、他の感情のせいなのか、泣きそうなのだろう。ぐっと歯を噛んで嗚咽をこらえる様に微笑み、エリザベータはそっと、唇を寄せてまぶたの上に口付けた。
愛しさが、胸の中で花を咲かせる。庇護欲に一番良く似た独占欲だった。幼子が人形をそうするように、腕を伸ばして抱きしめる。満ち足りた気分で溜息をつけば、ギルベルトはややうんざりした様子で嘆かわしく目を細めた。
「見舞いに来た、って。なんだよ」
「なんだよ、じゃなくて。どうしたの教えて、って可愛く言えたら教えてやるよ」
「……どうしたんだよ教えろよ」
そして腕を離してちょっと退けよ、と力の入らない手で肩を押しやりながらの可愛くない言葉に、エリザベータは眉を寄せて不愉快を表明した。言えば教えてやる、と言ったのに。コラ『マリア』、と叱りつけるように呟くと、本能的な反射なのだろう。びくっと肩を震わせて怯える様が、従順でとても可愛らしいが、それでいて神経を逆なでした。怯えるとは何事だ。額をごちりと重ね合わせ、エリザベータは彷徨う視線を間近で捕らえる。
青い瞳。晴れ渡る空の色。野に咲く花の色。静まり返った教会の、手の届かない位置にあるステンドグラス。白いローブの裾に縫いつけられた、模様を描く刺繍糸。穏やかに愛おしいもの。その全て。マリア、と『マジャル』は呟く。怖がるな、なにもしない、と囁けば、甚だ疑わしいと言わんばかりの瞳で睨み返される。それが敵意に満ちたものではなく、全く拗ねたものであったからこそ、エリザベータは肩を震わせあえかに笑った。
腹の上に圧し掛かるようにしてベッドに膝を立て、肩を手で押さえ付けて自由を奪っている状況で、なにが『なにもしない』なのか、と言いたいのだろう。思うだけで口に出さないことも、敵意ではなくなぜか拗ねている感情も、エリザベータの心をゆるりと甘く溶かして行く。ほら、と額を重ね、心の奥深くを覗きこむように視線を合わせながら、エリザベータは囁く。ほら、言ってごらん。良いコだから。ね、と笑えば、青い瞳が諦めた。
熱で疲弊し、だるそうな唇がのたのたと動いて行く。
「ど……うし、たのか、教えて。マジャル」
「ふふ。……よくできました」
うんそうだあれだ騎士団のヤツらに見つかったり知られたりしたら記憶を無くすまで殴るかさもなくば俺が舌を噛めばいいんだ、と遠い目で考えるギルベルトを見下ろし、エリザベータは華やかな少女の微笑で満足げだ。言ったんだから答えろよ、あと俺の上から退け、と涙目で呟くギルベルトの言葉の、後半を鮮やかに無視して。エリザベータは少年の肩に置いた手にぐっと体重をかけ、服ごしに伝わる熱っぽい体温を味わった。
「言っただろ? 見舞いに来た。……体調悪いって聞いた」
どうしたの、マリア。柔らかに響く声は心配しているというよりも愛しげで、ギルベルトは困ったように目を伏せる。どうしたの、と言われても答えは一つだ。『国』として受ける、国土の状態悪化のフィードバック。ポーランド・リトアニア連合軍との敗戦で受けた打撃に加え、騎士団内部に広がる不安、情勢の不安定さがギルベルトの足場を崩してしまった。それだけのことだった。別に、無理を重ねて倒れてしまった訳ではない。
また、一つの予感、一つの予兆がギルベルトの体を内部から食い荒らしていた。それは人の身に起こる、成長痛に似た変化だ。『国』の身が変わろうとしている。成長しようとしている。少年から、青年へ。幼さを脱ぎ捨て、大人の男へ。体が変わって行こうとしている。それはプロイセンの反映を意味し、この情勢においては戦乱の幕開けをも意味した。戦いによって成長し、育って行く体と精神。置き去りの心だけが、己のもの。
「微熱が続いてて……ここ数週間で悪化して、寝込んでただけだから。怪我じゃ、ない」
「……怪我の後遺症、とかは?」
「たぶん……ちがう、と、おもう」
ぼんやりと言葉が揺れるのは、絶対に違う、と言いきれないからだろう。困ったように揺れる瞳が相手への報復を恐れていたから、エリザベータは無言でギルベルトの頭を撫でてやった。昔ならいざ知らず、今はそんなことはしない。『国』としての意識が意識が確立する以前だからこそ許されたことで、『修道会』ではなくなった今の『マリア』に加担することは、そのまま『ハンガリー』という『国』が、『他国』の為に動くことを意味した。
たとえ、どれだけ個人的な感情で、個人的な動きだと訴えようと。それを人は、きっと受け入れない。
「……痛い?」
問いかければ、迷った挙句にこくりと頷かれる。痛い。痛い、いたい。たどたどしく言葉が繰り返され、やがてギルベルトの腕がそろりと持ち上がった。きゅぅ、と困ったように眉が寄っている。その表情のままでエリザベータの背に腕を回し、ギルベルトは弱い力で少女の体を抱き寄せた。熱で、本当に力が入らないのだろう。すがりつくような力で抱かれた背で、指先が震えている。そっと、甘えるように肩に額が擦りつけられた。
「……い、たい」
「うん」
「あ……」
引きつった音を立てて、ギルベルトの声が掠れた。震えて消え去った言葉が聞き取れず、エリザベータは首を傾げる。胸がかすかに震えた。聞いておかなければいけないような気がした。こんなに近くに居るのに、聞き取れないようなちいさな、ちいさな声で。落とされた言葉は、なんなのだろう。ギルベルト、とエリザベータは呼ぶ。マリア、とマジャルが名を変えて囁いた。なに、と問いかけられて、青い瞳が苦しげに揺れた。
「……い、た」
ぶわ、と涙が瞳に幕を張る。深く透き通った湖面が、そこに現れたようだった。
「か……った……。あい、た、かっ……!」
「マリア」
「会いたかった……マジャル、に、会いたかったっ」
どこへ行っていたの。どうして傍に居てくれなかったの。震える指がなにより雄弁に言葉を語り、涙が頬に零れ落ちていく。
「……時々は、会いに来てただろ?」
「っ……っ!」
「別に、全然連絡しなかった訳でも……泣くな。ほら、泣くなよ」
言葉を否定したがって首を振る態度は頑なで、マジャルは困ったように少年の体を抱きしめて撫でてやった。鼓動が、やけに早い。興奮しきった小動物のように、心臓が音を立てて抗議している。
「……会えなかった!」
「そん」
「そんなことある! 会えなかった!」
『エリザベータ』には会えても、『マリア』は、『マジャル』には会えなかった。心の深くに眠ってしまっていて、もう二度と会えないかと思った。もう一度だけで良いから触れて覚えていたかったのに、もう絶対無理だと思って諦めた。泣き叫ぶように、言葉が重ねられていく。意思がすれ違って、どうしても出会えない。焦りが募った。
「忘れてたくせに……!」
「落ち着け……分かった。悪かった。ちょっと落ち着け。な?」
「もう、このまま、忘れていくくせに……」
はあ、と呼吸がこぼれていく。暴れかけて力が入っていた体から緊張が抜け落ち、ギルベルトはぐったりとした様子でまぶたを閉じてしまった。音を立てて腕がベッドの上に落ち、そのまま動かず投げ出された。
「ごめん……」
色を失った少年の唇が、弱く言葉を繋いで行く。
「ごめん。なんか、変なこと言った。……気に、しないで、いい」
息を吸い込んで、吐き出す。なにか言葉にしたかったのに、なにも声にならなかった。呼ぶ名前が分からない。いくつも、いくつも、『彼』を表す名ならば知っているのに。息をつめて言葉を探す少女の視線の先で、少年の瞼が開かれる。隠されていた瞳は、もう朝焼けの色を取り戻していた。ギルベルトはエリザベータと視線を合わせ、穏やかに微笑する。
「なんて顔してんだよ、馬鹿。……熱で精神退行起こしてただけだ。幼児のワガママだ。気にすんな」
「……うん」
「つーか……分かってるけど一応確認するぞ? ちゃんと許可取って出てきたか?」
過去のお前の行いからして、その可能性はほぼゼロだって俺も分かってるけどな。苦笑しながら首を傾げられて、エリザベータはにこりと笑った。上手く笑えていればいい。そんな風に思った。
「許可なんて、どうして私が取ると思うの?」
「それはお前が『国』だからに決まってんだろ。こら、『ハンガリー』! それで後で怒られまくるのはなぜか俺とかいう珍事態に発展するから書きおきだけでも良いからしておけって前回言っ……。エリザベータ。視線をそらすな。笑ってごまかそうとすんな。してきたな? せめて書きおきくらいはしてきたんだよな? まーさーかそれすらもなくいきなり出てきたとか言わないよな? いいかお前それ失踪だぞ? 『国』が失踪とかっ!」
「ま、まあ……私が居なくなった場合、行き先はひとつだもの。いまさら慌てたりしないわ? きっと」
ハンガリー政府の主要関係者が、こぞって血の叫びをあげる声がギルベルトには聞こえた気がした。行き先がほぼ確定しているのは、喜ぶべきなのか、嘆くべきなのか。どちらにしろ、今回もギルベルトが怒られることは決まっているようだった。『他国』の失踪について、他国の中枢関係者から叱責を受ける『国』。もう意味が分からなくなりそうだったが、ギルベルトはふ、と遠い目をして諦めた。慣れた、といえば慣れた事態だ。
それに、少女に関して諦める事は慣れていた。あらゆる意味で。そして今もゆっくりと、ギルベルトは『少年』を諦めている。それを悟らせないようにしたまま、慎重に手を伸ばして、ギルベルトはエリザベータの頬に触れた。
「……たまには、ちゃんとお前も怒られろよ?」
「わ、分かってるわよ。……ねえ、もしかして熱、すこし下がった?」
さっきより指が温かくない、と呟いて、エリザベータはひょいと身を屈め、ギルベルトと額をくっつけた。少女は変わらずギルベルトの腹の上辺りに膝立ちで陣取っていて、そこから動いてくれる様子がない。熱を計る仕草をじっとして受け入れながら、ギルベルトは諦め口調で言ってみた。
「エリザ。俺の上から退いたりしねえ?」
「しないわよ。見下ろすの好き。……うん、熱引いてきてるわ」
よかった、と笑う表情は年頃の少女めいていて可愛いのに、言葉が全く可愛らしくない。どうしてこう育ったんだコイツ、と思いながらもその理由を知っているので口には出さずに溜息をつき、ギルベルトは少女の頬から手を離し、背に流れる長い髪に触れた。指の間をするりと抜けていく筈の髪が、ややゴワついている。しばらく考えて、ギルベルトは枕に頭を預けたまま、少女の全身にざっと視線を走らせた。旅の汚れはなさそうだ。
エリザベータが普段住まう屋敷からこの古城までは、馬でも数日かかる距離であった筈だ。
「……水浴びしてきたな?」
「気持ちよかったわよ。水が綺麗で」
「水浴びすんなって言ってるよな? 女なんだから外で全裸になるなって言い聞かせたよな? なんでお前俺の言うこと聞けねえの?」
なんでお前そういうトコだけ精神的な成長遅れてんの、と若干泣きそうなギルベルトに、エリザベータは笑顔で言い切った。どうして私がギルの言うこととか聞かなきゃいけないの。お前は俺限定反抗期かなにかなのか、と突っ込みしたい気分を堪え、ギルベルトはもぞもぞと体を動かして仰向けから左に寝がえりを打った。その動きまでをも制限するつもりはないようで、エリザベータは無感動にギルベルトを見ている。影が落ちる。
ぎし、とベッドが音を立てた。エリザベータはギルベルトの顔の横に両手をつき、極力体重の負担をかけないようにぺたりと身をくっつけてきた。まだ熱の虚脱感から抜け出せないギルベルトは、ほんのすこし困ったように少女を見つめ返す。
「……眠いか?」
「ううん。……痛い?」
痛くない、と言っても信じてはくれないのだろう。悲しそうな、苦しそうな瞳で見てくる少女と視線を合わせながら、ギルベルトはゆっくりと肺まで息を吸い込んだ。触れ合う熱が、意識を柔らかく溶かして行く。
「本当に……もう、そんな痛い訳じゃない。この夜が、明ければ……もう、大丈夫だ」
「うん」
「夜明けまで。だから」
太陽の光がこの地に満ちれば、導かれるように痛みも消えていく。大丈夫だと囁くギルベルトに体を寄せたまま、エリザベータは視線を伏せてうん、と頷いた。てのひらが動く。エリザベータはギルベルトの心臓がある辺りに服の上から手を押し当て、祈るような顔つきで息を吸い込んだ。
「夜明けまで……こうしてて、いい?」
「……寝ないのか?」
「うん。……寝起き、ぼーっとしちゃうから。夜が明けたら、すぐ帰らなきゃいけないし」
昼間にたっぷり休んで来たから、大丈夫。微笑んで告げるエリザベータに、そっか、と呟き。ギルベルトは疲れ切った様子で、ぱたりと瞼を下ろしてしまった。疲労感が全身を襲う。起きて居られそうにもなかった。ごめん、という囁きは、唇をかすめる熱に消えてしまう。おやすみ、わたしの。笑い声が呟いたのは、どちらの名だったのか。聞こえる前に、ギルベルトは意識を夢に旅立たせた。
地平線から、太陽が昇ってくる。目を細めてそれを見ながら、エリザベータは静かに歩み寄って来た軍馬の鼻先を撫でてやった。夜露にすこし、濡れたのだろう。しっとりとした毛並みは嫌なものではなかったので、エリザベータは微笑みながら振り返った。起き上がれるようになったギルベルトは、ちいさな木扉の鍵を閉めている所だった。鍵をエリザベータが発見した石の亀裂に押し込んでから、ゆったりとした仕草で振り返る。
まだ、俊敏な動きは出来ないのだろう。体を冷やさない為の外套代わりに肩からはおっているシーツは祈りの為のローブに似て、その瞳の色が赤であっても、エリザベータに少年の昔を思い起こさせた。ゆるりと目を和ませた微笑みに、なにを考えているのか気が付いたのだろう。ギルベルトは溜息をつきながら歩み寄り、エリザベータと数歩距離を取って立ち止まった。うっかり近付き過ぎると、馬に乗せて誘拐されかねない。
過去何度かやられているので、体調が良くなく満足に抵抗できない現在、普段よりも警戒を強めているようだった。連れていかないって、とくすくす笑いながら、エリザベータは肩幅ぴったりになった長袖を朝日に照らさせ、大きく伸びをした。少女の体つきと服のサイズがあっていないことに気が付いたギルベルトが、自分のものを一枚、提供したのだった。日常着にしているものの一つなので、気にしないで持って帰って良い、と。
普段、少年が着ている服が体にぴったり合うという事実に、エリザベータは心を弾ませる。少年と少女の、性別の違いによる体格差は大きい。それでもまだ、同じように成長しているという事実が、嬉しかった。エリザベータは身軽な仕草で馬にまたがり、手綱を操ってギルベルトに近付く。ギルベルトは、眩しいものを見つめるようにエリザベータを見ていた。その姿を目の奥に焼きつけ、記憶しようとしているようだった。
「じゃあな。また来る」
「……許可取るか、さもなくば書き置きしてこい。まずそこからだ」
「分かった、待ってる、だろ? 全く、見送りの時くらい可愛くしてくれたっていいのに」
お前は俺に求めるものを根本的に間違えているという事実にとっとと気が付いてくれ、とギルベルトの笑みが深まるが、エリザベータは当然のように、それを綺麗に無視してみせた。じゃあ、また来るから、と呟いて、エリザベータは馬上からギルベルトに手を伸ばす。その手を、取ることが出来れば。どこまでも、駆け抜けていくことが出来れば。一瞬の切なる願いは交差する前に消え去り、少女のてのひらが、少年の頬に触れる。
熱が完全に引いたことを確かめ、少女の指先が少年から離れた。代わりに、ギルベルトは両腕を持ち上げた。祈りごと抱きしめるように背伸びして、馬上の少女を穏やかに抱擁する。ぽん、と背を撫でて体を離す。触れ合ったぬくもりの隙間に、囁くように。ギルベルトは、そっと告げた。
「エリザベータ」
「ん」
「……さよなら、だ」
朝日が、二人の間に影を落とす。ギルベルトは光に眩しく目を細め、エリザベータは逆光の中で華やかに笑う。
「ああ、またな!」
そのまま、二人は別れた。走り去っていく姿は、すぐに森の木立の中へと消える。足音も、葉を揺らす風にまぎれて分からなくなってしまった。ギルベルトは視線を足元に落とし、唇をきゅ、と噛んではおっていたシーツを握り締める。鳥が飛び立つのに似た音を立ててシーツを体からはぎとり、一瞬、強く吹いた風にそれを流してしまう。白い、白い、祈りの色。見送って、ギルベルトは腰に下げていた剣の柄に、てのひらを乗せた。
握り締めて、抜こうとする。けれどカタカタと細かく震えるてのひらは、冷たい刃を引き抜かせはしなかった。息を吸い込む。言葉は浮かんでこなかった。ただ、感情だけが胸に残っている。かなしいのだ。そう思った。
帰って来たエリザベータを出迎えたのは、説教の嵐、それのみだった。二時間にも及んだ上司の小言を右から左に聞き流し、ごめんなさい反省していますもうしません、の後に心の中で『きっと』を付け加える事で乗り切ったエリザベータは、廊下を歩いて自室に辿りつくまでの道のりで、怒られた内容自体を捨てて来てしまった。怒られた認識だけは残っているが、どういった言葉でどんなお説教を受けたかは、記憶の彼方だ。
ふあ、とあくびをしながら部屋の扉を開ける。留守にした間、換気だけで清掃しなかったという室内は、エリザベータが出ていった時と全く同じ状態だった。ベッドに向かって歩きながら床に落ちていた髪飾りを拾い上げ、ベッドに投げて行った服を拾い上げる。くしゃくしゃに皺がついてしまった服を見て、エリザベータは溜息をついた。たたんでから出かければよかった。服は洗濯を頼むことにして、髪飾りを手に鏡の前に座る。
思い出して男物の服を脱ぎ、さらしを解いて大きく息をする。着替えに取りだした柔らかな女物の服に、袖を通す。改めて鏡の中を見つめながら、ブラシを手に髪を櫛削って行く。数日の強行軍のせいで、髪は大分痛んでしまっていた。元通りになるまで、時間がかかるだろう。ふたたび溜息をつきたくなりながらも丁寧に梳り、エリザベータはぱちん、と音を立てて花飾りをつける。鮮やかな赤い花飾りが、髪を鮮やかに彩る。
その花の名前を、未だ知らない。