細かな震えを発する体をもうどうすることも出来ずに、リヒテンシュタインは壁に両手をつき、もたれかかりながら廊下にしゃがみ込んだ。幸い、人通りの少ない廊下だ。赤い絨毯は眩い光に照らし出されるばかりで、少女以外の靴に踏まれることをしなかった。用事がない限り、あと数時間はその状態である筈だった。この廊下の先にあるのは邸宅の主が『鳥』を迎える為の部屋あり、そこは長く、閉鎖されている。オーストリアが許可した時にだけ足を踏み入れることの出来る場所に、今まで踏み込んだことがあるのはハンガリーくらいのものだろう。リヒテンシュタインにも、屋敷で働く者にもそれは許されず、通常、廊下を通るのはそれまでにある部屋の清掃をする者のみだった。
指先までが真っ赤に染まり、ちいさく、ちいさく震えている。体中に力を入れられないまま深呼吸をして、リヒテンシュタインは顔に両手を押しあてた。なんの為にか左右に振られた首元で、結ばれない髪がゆらゆらと揺れる。その髪を見ていられなくて、少女はぎゅっと目を閉じた。厳かな口付けを受けたのが、髪でよかった、と本当に思う。肌を掠めていたらきっと、息さえ出来なくなっていた。そう言えば手を捕らえるように握っていたのだという事実を思い出して、リヒテンシュタインはなんの感情にか泣きたくなった。もう二度と、あんな風に触れることはできない、と思った。ハンガリーがそれを許したとしても、全く同じように触れることはできない。
混乱する気持ちを持て余しながら、ぐるぐると意識を旋回させ、リヒテンシュタインは記憶を巡らせる。変なことを言ってしまった気がするし、変なことをしてしまった気がするし、なんだかとっても、変な顔でいてしまったような気がする。痛いくらいに鼓動が跳ねている。感情と衝動に言葉をつけられない。しっくり来る言葉を、見つけられない。憧れ、喜び、苦しさ、切なさ、恋慕。それはどれも当てはまるようで、一つとして少女の想いの形をしていなかった。どうしてしまったのだろう、とリヒテンシュタインは涙ぐみ、頬に両手を押し当てながら、肩を大きく上下させる。よく温められた空気を胸いっぱいに吸い込めば、ようやくすこし、気持ちが落ちついて行くようだった。
ふと、少女の体を光から奪うように、影が落ちる。
「……なにしてんだ? こんなトコで」
その言葉を告げなければならないのは、全くもってリヒテンシュタインであるべきなのだ。落ち着いた深呼吸を何度か繰り返し、少女はそろりと視線を持ち上げ、己を覗きこむ野苺色の瞳を見た。プロイセンさん。何処からともなく現れ、去って行く『国』の名を紡げば、男は肩を震わせてくつりと笑い、やや背後を振り返る。そこに誰か立っているようだった。
「居たぜ、リヒ。……叱るなよ?」
「どうもありがとうございます。ですが、甘やかす教育方針ではないのですが?」
「女の子は可愛がるものだろ? 甘やかせよ」
お前マジ分かってない、と苦笑する視線を背後に向けたまま差し出された手に、リヒテンシュタインはてのひらを滑り込ませるようにして捕まった。ぐ、と引っ張りあげられて立ち上がり、少女はプロイセンの肩越しに、邸宅の主の姿を見つけ出す。菫色の瞳をやや不機嫌に歪ませ、オーストリアはカツカツと靴音も高く歩み寄ってくる。プロイセンの手がぱっと離され、少女の肩を穏やかに押す。背に隠すようにして腕を組み、プロイセンはオーストリアに対し、ゆる、と首を傾げてみせた。
「大体、この家広すぎんだよ。引越ししろよ、引越し。間取りを覚えられるくらいの家なら、誰も迷ったりしねえだろ? お前を探す手間も省けるし」
「お黙りなさい。今日は探されていませんよ」
「今日は、だろ?」
もう諦めて家の見取り図持ちあるけよ、と溜息をつくプロイセンに、オーストリアは誇り高く言い放った。
「現在位置が分かるとお思いで?」
「……戦場とか、お前、どうしてんの?」
「なぜか読めるようになるんです。本能でしょうね」
にこりと微笑むオーストリアに、駄目すぎると言わんばかりプロイセンが首を振る。生存本能を最大限発揮する場でなければ地図も読めないと言い放つ男は、家の見取り図を持たせた所でヤギの餌になるのが落ちだろう。さいあく、と幾分幼い響きで言い放つプロイセンに、オーストリアは機嫌が上向いた様子でくすくすと笑い、音楽を奏でる繊細な指先を軍国の額に滑らせる。前髪をそっとかきわけ、撫でるようにしてから、オーストリアはおっとりと囁いた。
「迷子ならば仕方がありません。叱りませんから、出してください。用事があるのです」
「だってよ、リヒ」
よかったな、と囁いて、プロイセンが立ち位置を一歩横にずらした。おずおずとオーストリアを見上げる少女に、まず向けられたのは溜息。思わずびくりと身を震わせた所で、何より早く声が割り込んだ。
「オーストリア」
「……怒ってはいませんよ。どうしたのですか。朝はきちんと結んでいた筈ですが」
解けてしまった髪について、心配交じりの吐息であったらしい。リヒテンシュタインはどう答えるべきか悩みながらくちびるを開き、息を吸い込んで、くらりと眩暈を感じて声を閉ざした。髪を結んでいた革紐は、ハンガリーの手の中にあるに違いない。恥ずかしさと混乱で説明できなくなってしまった少女を二人の視線がじっと見守り、ややあって、無言のままに意思が交わされる。思春期だから男には話しにくいこともあるのかもしれない、でリヒテンシュタインの狼狽をかたずけてしまった二人は、それぞれに少女の肩と頭をぽんと撫で、怒っている訳ではない、という意思を伝える。少女はこくこくと一生懸命に頷き、胸に手を押し当てて息を吸い込んだ。
「あの……解かれて、しまったもの、で」
「……リヒ」
ごく真剣な音色で名を呼びやったのはプロイセンだった。優しく伸びてきた手が、少女の背をトンと押しやって腕の中に閉じ込める。いたわるようにぎゅぅと抱き締められて、リヒテンシュタインの混乱は最高潮になった。声も出せず硬直してしまった少女を守るように抱き締め、プロイセンは厳しい視線をオーストリアに向ける。憎々しげな色すら、瞳には灯っていた。
「だから警備整えろって言ったんだよ。犯人は見つけ次第俺に引き渡せ」
「指摘箇所は改善した筈ですが、甘かったようですね。申し訳ありません。……すぐにハンガリーを呼びましょう。『国』に触れた罪は重い」
女性の髪が解かれる意味を、男たちはそれと受け止めた。二人の視線が服の乱れや怪我の確認にさっと全身を走ったのを感じて、リヒテンシュタインは真っ赤な顔で違います、と否定の声をあげる。
「ふ、触れられた訳では……あの、違います! 襲われてしまったとか、では、なくて……違います」
男たちに告げるには重たい言葉だったが、言わなければ『国』を穢そうとした侵入者を探し、大規模な軍事作戦が展開されそうな気配だった。訝しげな視線を向けてくる二人に、リヒテンシュタインはとうとう、髪を解いた真犯人の名を告げた。
「……ハンガリーさんです」
なんとなく心当たりがありそうな表情で沈黙したのはプロイセン、額に指先を押し当てて溜息をついたのがオーストリアだった。安堵とはまた違う感情で空気がたわむのを感じながら、リヒテンシュタインはもぞりと、プロイセンの腕の中で身動きをする。彼は少女にとって兄か保護者、あるいは保護者の弟のようなものであったから、胸が弾むこともないし意識をすることもない。守られるまどろみの、心地よさがあるばかりだった。脱力する腕に、そっと指先で触れる。
「プロイセンさん」
「……勘違いして悪かった」
「いいえ。私も、言葉が足りませんでしたから……。プロイセンさんは、何時こちらに? オーストリアさん、探させてしまい、申し訳ありませんでした」
少女を庇護する腕は、閉じたままで開く気配を見せなかった。仕方がないと身を反転させてプロイセンに背中を預けて甘えれば、嬉しそうに頭に顎がくっつけられる気配がする。重たいです、と笑いながら咎めてやれば、甘く腕に力が込められる。だめ、と言わんばかりの仕草に諦めて、少女は菫色の瞳を覗きこむ。オーストリアはしみじみと呆れた様子で、息を吐いた。
「幸せ逃げすぎじゃね?」
「誰のせいです、このお馬鹿。……用事は、ええ、大切なものが一つありますが、それを告げる前に問うても? リヒテンシュタイン」
「はい」
絡んでくるんではありませんと言外に告げながら、オーストリアは素直な返事を返す少女ににっこりと、満足げな笑みを浮かべて頷いた。帝国である以上、支配下、あるいは傘下にある『国』を従わせる能力があって当たり前なのだが、教育方針だなんだと口に出すくらいである。元々においてこの『国』は世話焼きの躾好きなのだ、とプロイセンは思う。
「ハンガリーが、貴女になにかしましたか?」
問いかけはだからこそ、教師が優秀な生徒を褒めやすよりもゆるく穏やかに耳を打ち、答えを強制するものではなかった。遠目に二人が少女を発見した時、座り込んでいたからこそ、気になっただけなのである。もちろんオーストリアとて、ハンガリーの気性は知っている。危害を加えるようなことは決してすまい、と確信していてなお、問わずにおられないのは気がかりだからだった。その名を口に出すことを、リヒテンシュタインはなぜだかひどく、ためらった。それは少女がみせたこともない感情で、ハンガリーから与えられたなにかしらがそうさせたのだろう。
リヒテンシュタインは頭の上にプロイセンの顎を乗っけたまま、悔やむように悩むように、悲しむように、きゅぅと眉を寄せて、つぶやく。
「いいえ。なにも」
どうして残念そうなのか、と男たちは思ったが、口に出しはしなかった。聞けば言葉は返ってくるだろうが、理解できるものであるとは限らなかったし、可哀想に思ったからである。リヒテンシュタインの頭に頬を懐かせながら、よしよし、とプロイセンが慰めを口にする。オーストリアは苦く笑って、息を吸い込んだ。
「そうですか。……さて、リヒテンシュタイン。プロイセンがここに居る理由と、私が貴女に告げようとしていた用事は同じものです。私としては不本意な結果ですが、彼も努力した以上、諦めてあげてください」
「……あの?」
「一週間後に夜会が催されます。『国』としての出席を、お願いできますね?」
語尾は問いの形を持っていたが、オーストリアのそれは念押しだった。リヒテンシュタインはとっさに答えを返せず、けれども否定の形に首を振ろうとした。鈍くも動かなかったのは、頭が重たいからだった。プロイセンは溜息をついて少女を抱きなおし、悪いな、とやや落ち込んだ様子で囁く。
「リヒがあの場を嫌ってるのは俺も知ってる。気持ちもすごく、よく分かる。でも、今回は出て貰わなきゃいけねえんだよ。……出来るだけ、俺も傍に居るから」
我慢してくれないか、と願うプロイセンに、リヒテンシュタインは思わず声を荒げそうになった。そんなことを言っていても、どうせすぐに離されるに違いありません、と。言葉を叩きつけようとして、そうしなかったのは、正面に立つオーストリアが苦しげに菫色の瞳を歪ませていたからだった。不本意、と告げたのは彼の本心であるらしかった。当然のことだろう。リヒテンシュタインの夜会嫌いは、『国』の間では有名な事実だ。そうした外交が嫌なのではなく、その場で交わされる言葉と視線、品の無い噂が少女の心を打ちのめしたことがあるからだった。未だ少女が、正式な『国』ではない時代のことだった。
少女はその場では涙も見せず、蒼白にすらならず、くちびるを強張らせることもなく、ただ言葉少なく微笑むだけで耐えきった。戦うことを知る者であるなら、決闘を申し込んでも許されるような言葉だった。オーストリアならそうしただろう。プロイセンであるなら、有無を言わさず剣を抜いて居たかも知れない。ハンガリーであるなら、頬を打った上で言い返しただろう。微笑み一つを武器にして耐えた少女を『国』の誰もが誇りにすら思い評価したが、同時に、助けられなかったことも悔いていた。それは決して『国』に投げかけられていい言葉ではなかったからだ。
以来、リヒテンシュタインは一度も夜会に出席していない。外見が成熟していない少女であることを逆手に取り、一件を知った国の者たちはリヒテンシュタインをそうした場から遠ざけたし、自身も望みはしなかったからだ。どんな言葉で傷が付けられたのか、少女自身の記憶はあいまいだ。鈍い記憶の向こうには悪意だけが渦巻いていて、少女の気分を悪くさせた。
嫌です、とくちびるがそれだけを吐き出し、閉ざされてしまう。無理強いはしたくないのがオーストリアの本音であり、プロイセンの意思だった。
「リヒテンシュタイン」
それなのに、どうして言葉を告げねばならないのだろう。損な役回りだと内心嘆息しながら、オーストリアは意思の読めない少女の瞳を覗き込み、言った。
「私の上司が……どうしても、と望むのです」
「説得はしたんだが、リヒのこと見てみたいんだってよ。……お前はあんま表に出てこないからな」
どっかで見かけて、あんまり可愛いから着飾った所見てみたいんだろ、と呆れかえったプロイセンの呟きに、オーストリアが逃がしっぱなしの幸福をさらに一つ、投げ捨てた。
「なにも、権謀術数を巡らせて欲しい訳でも、一曲を踊って欲しい訳でもありません。ただ、すこし顔を見せて頂ければ、それだけで良いのです。……場に相応しい装いはして頂きますが、それだけです」
本当に、本当にそれだけなのです。一時間耐えてくだされば、帰っても構いません。小言は私とコレで引き受けます、と告げられて、プロイセンの表情があからさまにしかめられる。なんだそれ、俺説教嫌い、と呟くプロイセンの鼻をつねって捻り、オーストリアはにこやかに唇を和ませる。ぞっとした様子でごめんと告げたプロイセンに思わず笑いながら、リヒテンシュタインは諦めと受け入れに、薄く、くちびるを開いた。
「顔を見せるだけで、いいなら……」
「ええ、十分です。ありがとうございます」
心からの安堵に表情を緩ませるオーストリアに、リヒテンシュタインは頷きながら、心細く言葉を重ねた。約束が欲しかった。いくつでも、いくらでも。
「一時間、です」
「はい。お約束します。一時間きっかり。それ以上は決して頼みませんよ、リヒテンシュタイン」
それは駄々をこねるこどもの行為だ。分かっていた。分かっていても、急く心が不安を止めてくれない。オーストリアは少女の瞳を覗きこむのをやめ、腰を屈めて視線を水平から、やや見上げるようにしてくれた。花園の一番奥に揺れる、美しい色を宿す瞳。
「終わったら、帰ります……」
「ええ、もちろん。挨拶など気にしないで、お帰りなさい。次の日の朝は、ゆっくりで構いませんよ」
「……踊りも」
誰とも、しません。囁く少女にオーストリアは頷きかけたが、それを止めたのはプロイセンだった。プロイセンは変わらず少女を抱きしめたまま、今はちいさな体を支えるように腕を回している。リヒ、と呆れたような声が少女を呼んだ。
「その約束は止めとけよ。踊りたい時、約束が邪魔して動けなくなるのは嫌だろ? 俺は気にしないけど、リヒは自分が言ったことだからって思いそうだし」
「あなたはもう少し、口約束を守るようになさい」
「臨機応変って言うだろ?」
手のひらをぱたりぱたりと振りながら気にも留めないプロイセンに、オーストリアは嘆かわしげに首を振った。けれども、オーストリアも気を取り直してしまったらしい。それもそうですね、と呟き、少女の言葉を遠回しに却下した。リヒテンシュタインは文句を告げようとして、きゅっとくちびるを硬く閉ざしてしまう。誰とも踊らなければいいだけ。頑なな様子に苦笑しながら、プロイセンは大丈夫だって、と気楽な様子で少女の頭に再度顎を乗せ、もふもふと、髪の柔らかさを思う存分堪能した。
「出来る限り、傍に居てやるから」
「私も、目と耳を離さないようにします。……では、お願いできますね? リヒテンシュタイン」
あと、いい加減に離して差し上げなさい、とため息交じりに告げられて、プロイセンは苦笑しながら少女を開放してやった。リヒテンシュタインは妖精が踊るような足取りで身軽く、男たちから離れ、数歩距離を取ってくるりと身を反転させた。その動きをオーストリアは、眩しげに目を細めて見守る。勿体ない、と瞳が語っていた。踊らせればさぞ、存在が引き立つことだろうに。けれども注目を集めることこそを恐れる少女は、決して首を縦に振りはしないのだ。リヒテンシュタインはスカートの裾を楚々をして摘み、オーストリアに深々と頭を下げる。非の打ちどころのない、礼の仕草。夜会出席の、了承の合図だった。
リヒテンシュタイン、夜会出席の報を聞いて、心中穏やかになれなかったのはハンガリーだけではないだろう。少女が受け入れざるを得なかった『国』に対してのあまりの屈辱は、その場に居なかったとはいえ、ハンガリーの耳にも届いているのである。欧州で知らぬ『国』は無いかも知れなかった。だからこそ、リヒテンシュタインが『夜会に出ない』というのは暗黙の了解にすら近くなっていたのに、それを破ったのは敬愛するオーストリアなのだ。ちょっと感情をどこに持って行けば分からない、というのが第一感想である。最も、出ないというのは少女が正式に『国』として認められる前のことだ。『国』として国土を背負い、民を持った以上は逃げ伸びられることでもない。それを踏まえれば二人の保護者役を得ている今が、一番やり直しには良いのかも知れなかった。
落ち着かない気持ちを置き去りに、日々は確実に過ぎて行く。夜会まで残り二日となった夜、ハンガリーは眠れぬ体を持て余し、寝台の上でころりと寝がえりを打った。今夜は満月に近い。横になる前にカーテンを閉め忘れていたから、眠るのには強すぎる光が邪魔をしているのだと分かっていた。分かっていて、起き上がって閉めに行く気になれないのは、差し込む月明りがあまりに美しかったせいだ。真昼の光とは違い、夜を裂くそれは手に熱を宿さない。草原を眩く照らし出すばかりで、冷えた風と踊る光を見ているのが好きだった。今はもう、毛布だけを持ちだして、夜の光景を眺めることはしないのだけれど。
それが大人になったとか、淑女らしく、女性らしくなったことなのだとするなら、なんてつまらないのだろう。息を吐き出して頭を振り、ハンガリーは寝台に手をついて身を起こした。残念だけれどカーテンを閉めて、二日後の夜会のことを考えながら眠ってしまわなければ。明日も、明後日も、やるべきことはたくさんある。あの頃はその責務を知りながら、青白くも黄金に輝く月明りと、風に揺れる草原を見てはえも言えぬ喜びに胸を満たしたものだけれど。過去は何時でも甘く尊く、苦いものだ。砂金のような輝かしい思い出だけが重く黒い思い出の中で煌くから、胸が痛いだけなのだ。ハンガリーはカーテンを掴み、ひと思いに引いてしまおうとした。動きが止まったのは、過去に置き去りにしてきた黄金が培った目の良さのせいだ。
窓から見下ろす中庭の、花園の奥。ぽつんと置かれた椅子の上に、リヒテンシュタインが座っていた。少女の手にあるのは本ではなく、簡素な木枠に張られた白い布と、糸を通した針のようだった。糸の色まではさすがに分からないが、かすかな仕草から、なにをしているかは明白だ。それにしても、こんな時間に。ハンガリーはしばし考え、薄い羽織り物を掴んで部屋を飛び出した。点々と明りが揺れる廊下を疾走し、中庭へ続く渡り廊下へと飛び出す。ごう、と天の近くで吹く強い風の音は記憶を弾ませて、鈴鳴りのような感動をひとしずく、ハンガリーの胸に落とした。煌々と月明りの差し込む明るい夜だが、星一つなかったとて、恐怖など感じはしなかっただろう。夜はハンガリーの友だった。そして、今でも変わらず、そこにあった。
ざくざくと草を踏みながら歩いて行くと、静まり返った空気によく音が響く。少女がぴくんと肩を震わせて視線をあげるのは道理で、ハンガリーは表情に迷いながら、苦い笑みを浮かべてリヒテンシュタインと視線を合わせる。近くまで寄ると、少女がハンガリーの思うより薄着で居ないことが分かった。夜着にぶ厚めの羽織り物をきこみ、もこもこの靴下と、今は外されているが手袋もある。椅子の下には軽食の入ったバスケットがあり、果実の香りもすることから、実を絞った飲み物も用意していることが知れた。リヒテンシュタインは急いで出てきたハンガリーより余程温かそうな格好をして、驚いたというよりは単純によく分からないといった顔つきでぱちりと瞬きをし、針を手に持ったままで首を傾げる。
「……ハンガリーさん?」
ふわ、と花の香りが漂うように。甘く、可愛らしく響く声だった。この少女が声を荒げることもあるとハンガリーはもう知っているが、それでもきっと、この声は戦地で命令を下す響きにはならないのだろう。生まれ落ちて一度も、そうしたことはないのだろう。羨ましいと思うにはあまりに違いすぎるのだと、今更に、気がつく。自然に、笑みが浮かんだ。
「こんな夜更けに、なにしてるの? ……刺繍、したいなら昼間にすればいいのに」
あんまり健康的な行いじゃないかな、と優しく咎めれば、リヒテンシュタインは困ったように微笑み、そうですね、と同意の囁きをこぼした。視線はゆらゆらと少女の手元とハンガリーを往復して彷徨い、やがてはそれ以上の言葉を紡ぎたくないように、夜の庭へと向けられた。眩い月明りに誘われたように、寝ぼけて咲く花が風に揺れている。その様はただ、美しかった。
「……眠れなくて」
赤、黄、桃、青、白、緑。花と草は時折強く吹く風と共に踊りながら、眩い色を夜に投げ出していた。その隙間にそっと、そっと、声が落ちて行く。
「眠ろうと思って、でも、どうしても眠れなくて……なにかしたいと、思ったんです。もしかして、起こしてしまいましたか?」
厨房をお借りして、なるべく静かに作って来たのですが。申し訳なさそうに告げられて、ハンガリーは少女に視線を戻さないまま、首を否定の形に振った。心奪う光景は夜が来るたびに繰り返されているのだろうけれど、だからといって視線を外してしまうのが惜しかった。ごう、と風が吹いて、遠くで木の枝が揺れる。
「今夜は、とても明るいから……刺繍、しやすいです」
こっそりと耳元で秘密を明かすような囁きでも、答えを求めているものではないのだろう。言葉と視線を返さないハンガリーを気に病む様子もなく、リヒテンシュタインもまた、手を止めて夜の庭を眺めていた。ハンガリーは不思議な気持ちで夜を吸い込み、目を細めながらリヒテンシュタインを振り返る。ハンガリーが夜の庭を尊いと思うのは、そこに置き去りにしてきた過去の黄金を見るからだ。リヒテンシュタインは違う。同じように庭を眺めて視線を奪われていても、少女に取って、眼前の光景はかけがえのない現在だった。いつか、この夜を星明かりのような眩さで、少女は胸に宿すのだろうか。そうであればいい、と思った。