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 蜂蜜みたいな髪の色、とフランシスは思った。俯いて必死に嗚咽を堪えているであろうフェリシアーノの、短く整えられた髪が、しゃくりあげる呼吸のたびに揺れるのを見て、なんとなくそう思う。舐めたら甘そうだと思いながらも実行しないのは、そこまで頭が困っている訳ではないからだった。アントーニョがロヴィーノの眠りを守る部屋の前、その扉に背を預けて全てを耳にしたフェリシアーノは、ひっ、と幼くしゃくりあげる。
 それがあまりに昔のままで、フランシスはつい笑ってしまった。辛くて、辛くて仕方が無くて、けれど大声で泣き喚くことが出来ない時の泣き方だった。馬鹿だなぁ、と思いながら肩に手を伸ばしてそっと叩き、背を抱き寄せてやると、フェリシアーノは素直に体を預けてくる。それだけで抱きついてこないのは、そんな甘えを己に許したくないからだろう。ひぅ、と歪んだ喉を揺らす奇妙な音を立て、フェリシアーノは泣いていた。
 忘れてしまう、というのは最大の逃げだった。覚えていない、というのは最悪の言いわけの一つだった。傷つきすぎた心が己を守ろうとする自己防衛の本能は、それでも『国』に許されることではなかったからだ。ごめんね、とフェリシアーノは涙をこぼしながら呟いた。ごめんね、ごめんね、忘れていてごめんね、思い出せなくてごめんね。逃げさせてごめんね、背負わせてしまってごめんね、気が付けなくてごめんね。
 にいちゃん。ロヴィーノに対する愛が深くあるからこそ、フェリシアーノは兄を呼んで涙を流す。その存在から受けていた優しさを忘れてしまったことに対する罪悪が、フェリシアーノの胸を締め付ける。言われたのに、聞こえたのに、思い出せないよ。なんで、なんで、とむずがるように言うフェリシアーノの声は、己の内側にこそ答えを探し求めていて。決してフランシスの声を求めてはいなかったのだけれど。溜息を、ついて。
 フランシスはフェリシアーノの頭を撫でながら、そっと口を開いた。
「そんなに自分を責めるもんじゃない。……ロヴィーノはお前に笑っていて欲しくて、それだけで、『国』の本能にすら逆らったんだ」
「どうして……フランシス兄ちゃんも、俺を怒らないの」
 逃げてるんだよ、とフェリシアーノは泣きながら首を振った。今この時ですら、思い出せずに。フェリシアーノは悲しみから逃げてしまっているというのに。怒って欲しがるフェリシアーノに苦笑し、フランシスは詩歌を紡ぎ出すような流暢な声で、お兄さんにはできないなぁ、と言った。涙をいっぱいに目元で揺らしながら見上げてくるフェリシアーノに、フランシスは囁きを落とす。だってお兄さんもそうして逃げたこと、あるもの。
 誰とも言わず、なにとも告げない言葉に、フェリシアーノはハッと目を見開いた。その一言が、思わずこぼれ落ちて行く。
「聖女……?」
「……お兄さんとお前は違うけどね、状態。でも、すこしは分かるつもりだよ」
 いつ記憶から消えてしまったのかすら思い出せず、ただ『忘れてしまっている』ことだけを思い出して自覚した瞬間の気持ちは、言葉にならなかった。よしよし、とフェリシアーノを撫でながら、見つめてくる視線に笑い返してフランシスは囁く。
「どうしたいのか、考えてごらん。フェリシアーノ。聞いての通り、あまり時間はやれないけどね」
 即日連れて帰るように、という上からの命令を、すでに二人は無視していた。見つからなかっただの、抵抗しているだの言いわけを付けても、引きのばせる日数はそう長くない。フランシスたちにも監視が付けられていない訳がないので、接触した事実だけは、もう伝わってしまっただろう。時々フランシスは、ひとと同じ姿をして存在する『国』というものが、ひどく憂鬱に思えてくる。なぜ、神は『国』をひとと同じ形にしたのか。
 全く別だと分かりやすい外見をしていれば、もうすこし互いに楽だったろうに。『国』は人のように思い悩み、泣き笑い、誰かを愛して誰かに傷つく。零れる涙の生温い熱さえ、おなじもの。指先を伸ばして、届かなくてすり抜けてしまった瞬間の絶望すら。同じように感じ、覚えている。
「どうしたい、のかなんて……俺は決まってるよ」
 あの日に、差し出されたてのひらは小さくて。重ねて共に行くことの出来なかった想いを鮮明に、覚えている。『国』でなければ、一緒に行けた。『国』でなければ、出会うことすら叶わなかった。神聖ローマ。失われた亡国。あの瞬間からずっとずっと、フェリシアーノの答えは定まっていた。どんなに逃げても、どんなに弱くても。『国』として生きることを、もう決めていた。涙をぬぐって顔をあげ、フェリシアーノは息を吸う。
「思い出して……じゃないかな。覚えていて、それで、帰る」
「なんの為に?」
 試すような響きを帯びて、意地悪くフランシスは問いかける。きっと強気に睨み返し、フェリシアーノは決まってる、と言い切った。
「俺の愛するイタリアの為に! 俺は『国』だから。俺を愛してくれる人たちの為にも、俺は『国』に戻らなきゃ」
「……そうか」
「それに……俺はなにも失ってなんかいないんだよ。今、やっと、それにも気が付けた」
 はらり、瞬きで零れた涙を一筋、頬に伝わせながら。胸に満ちた幸福感に微笑み、フェリシアーノは囁いた。戦いの中で傷ついたなにかが、癒えて行く。銃弾の音と恐怖に削れてしまった愛しさが、光を浴びて蘇って行く草木のように。胸の中で、咲く。
「俺ね、戦っててずっと怖かった。戦うのも嫌だったし、怖かったし、それ自体も嫌だったんだけど、それだけじゃなくて。人が、死んで行くじゃない。俺の愛した、俺の国民が、俺を愛しながら死んでいくじゃない。そのことがすごく怖くて、すごく悲しくて、すごく……悔しくて。ひとり、ひとり、俺を……俺たちを、かな。イタリアという国を守る為に戦って、それで死んで行くのが、悲しくて。守りきれないことが、悔しくて仕方なかった」
「……ああ」
「それで、それと同じくらい、俺は『国』が消えて行くのが怖かった」
 戦うこと。戦争をすること。それは国が国を攻撃するということで、『国』が『国』と争いに行くことだ。互いの消滅の危険性すら孕み、戦争が終わる瞬間まで対峙し続けるということだ。不思議だよねぇ、とフェリシアーノは、ゆるく首を傾げながら笑う。
「戦争。大きなのも、何回も経験してるんだよ、俺。それなのにそのたび、必ず怖くて。今回は……いつになく、ものすごく怖かった。あのね、責めてる訳じゃないんだよ? でもね、なんであんなに怖かったのかなって思ったら、ちゃんと分かったんだ。だってね、いつもと違うのは……兄ちゃんが、居なかったんだよ。一緒に暮らせるようになった日から、俺と兄ちゃんはもうずぅっと一緒だったのに、兄ちゃんが居なかったんだよ」
 俺は兄ちゃんを殺す所だったかも知れないんだよ、と。言葉にならなかった声を、フランシスは聞いた気がした。一国を二人で背負う二人だからこそ、起こってしまった悲劇だった。もし『イタリア』が一人であったなら、身を引き裂かれるような苦痛を堪えるだけで住んだだろう。あるいは一次的に『もう一人』が向こう側に現れたか、一つの体で二つの心がせめぎ合ったか。けれど『イタリア』は最初から二人でしかなかった。
「でも兄ちゃんは、今、そこに居てくれてるよね」
「ああ」
「……目を閉じるとね、俺は神聖ローマに会えるんだ」
 ナイショだよ。この時だけで忘れてね、と口元だけで微笑んで。フェリシアーノは限りない幸福を胸に抱いた者の表情で、晴れやかに華やかに笑って告げた。その奥底に、確かに喜びを抱いているのだと。そういう風に、胸に手を押し当てて。
「夜の闇の中を、探しに行かなくても……俺は神聖ローマに会えるんだよ、フランシス兄ちゃん」
「……フェリシアーノ、それは」
「でも。……神聖ローマばっかり見てると、兄ちゃんに会えないんだね」
 暗い、暗い、夜の果て。目を閉じて眠れば安らいでも、傍らで微笑む人の顔は見られない。泣きそうな表情で微笑み、フェリシアーノは分かってるよ、と囁いた。もう居ないって、知ってるよ。神聖ローマが居る場所にロヴィーノは居ないし、ロヴィーノの居る世界に神聖ローマは存在しない。フェリシアーノが生きる世界は、ロヴィーノが待っていてくれる場所なのだった。二人の逃げた優しい世界は、もう終わらなければいけない。
 彼らは、『国』なのだから。



 撃鉄を起こす音が闇の中、生々しく響き渡る。反射的に両腕を上にあげて制止しながら、アントーニョはそっと口を開き、親分やでー、と言った。灯るひかりの一つもなく、月明かり、星明りさえ締め出されたぶ厚いカーテンの内側では、いくら瞳が慣れていようと視認に限界があるからだ。銃口をひたと合わせたままでロヴィーノは緩く微笑み、知ってる、とだけ呟きを返す。銃が下げられる気配はなく、しんと静まり返っている。
 明り灯すよ、と言ったのはアントーニョの背に隠れていたフランシスだった。ロヴィーノは舌打ちを響かせただけで言葉に出さず、動きを止めようともしなかった。手探りで持って居たランプに火を入れれば、炎の揺らめきが虹のように広がっていく。文明的な明りに頼っても良かったのだが、遠くに潮騒だけが響く静寂の中には、炎の明りがちょうど良いように思われた。優しい揺らめきに、ロヴィーノも肩の力を抜いたらしい。
 ベッドの上で片手をフェリシアーノに与えながら、もう片方で銃を握り締め、標準を合わせた姿勢のままで、瞳がゆるりと和んで行く。下ろしてくれないの、と苦笑するフランシスに、ロヴィーノは馬鹿にするように鼻を鳴らした。見せつけるような仕草で、銃口が下げられる。安全装置をかけ直した銃をぽい、とばかり無造作にベッドに放って、ロヴィーノは寝室に侵入しようとした二人を睨みつけた。マナー違反、とでも言うように。
 客なら素直に寝てろよ、とばかり寄せられた眉の形を愛おしく眺め、アントーニョはすいっと闇を泳ぐように足を進める。フランシスは後ろ手に寝室の扉を閉め、ランプを手近な棚の上に置いて、やはりベッドに歩み寄った。
「……なんだよ」
「んー。ええの、ええの。ロヴィは気にせんといてな」
 警戒を張りつけた視線で睨まれても、アントーニョは苦笑するばかりで真面目に受け取ろうとはしない。いつもと同じように泣きながら眠るフェリシアーノを覗き込むようにして見つめた後、アントーニョは二人がしっかりと繋ぐ手のひらに視線を落とした。イタリアを二分する兄弟の手は、どちらも力を込めていて、かたく強く握り締められていた。
「いつも?」
 ぽつりと呟かれた問いかけに、ロヴィーノは口をつぐんだままで頷いた。いつも繋いでいるし、いつもこれくらいの力加減だ。痛い程ではないが、長時間なので手が疲れてしまう。それでも、朝は遠かった。ひくひく、しゃくりあげながら涙をこぼすフェリシアーノに身を屈め、ロヴィーノは唇で涙を拭ってやる。宥める為の幼いキスに、ハンカチの役目を持たせただけの仕草。同じく覗き込むように見ていたフランシスが、苦笑した。
「ロヴィーノ。わざと?」
「コイツはもっと、俺に危機感を持てばいい」
 べえ、とばかりに軽く舌を出しながらの台詞に、なにもかもを理解した仕草でフランシスが肩をすくめる。アントーニョは僅かばかり不満を増しただけの表情で沈黙し、意味が分からない、と言う風に首を傾けた。だからお前はダメなんだよ、という二対の視線に、アントーニョがうっと身を引く。フランシスだけではなく、なぜロヴィーノからもそんな視線で見られなければいけないのか。不服そうな顔つきに、ロヴィーノは笑った。
 くす、と。ごく自然に浮かんで来た笑みだった。間近でそれを見たアントーニョは穏やかに目を細め、まあいいかな、と機嫌を上向かせてロヴィーノに手を伸ばす。前からそっと抱きしめるように背に手を回し、ベッドに腰かけてひょい、と体を持ち上げた。斧を振り回して戦うこともできるアントーニョにとって、ロヴィーノの体は不安になるくらいに軽い。体の重みはきちんとあるのだけれど、折れそうな不安が残るのだった。
 動きだけは唐突に、それでいてごく慎重にアントーニョに抱きこまれるよう体勢を移動させられて、ロヴィーノは目を彷徨わせながら口を開く。おい、と言ったきり続かない言葉の先を読み取って、フランシスもベッドに腰を下ろしながら口を開く。大丈夫だよ、と言い聞かせるような囁きは、緊張も虚勢も不安をもぐずぐずと溶かしてしまうような、麻薬めいた甘さに満ちていた。大丈夫、大丈夫、と囁いて、フランシスは笑う。
「寝な、ロヴィーノ。お前の変わり、お兄さんがフェリを見といてあげるから」
「でも……フェリが呼ぶの、は。俺、だし」
 腕の中に深く抱きこまれた姿勢で、ロヴィーノはすでに眠気に襲われているらしい。揺れて途切れがちになる言葉をなんとか紡ぎながら、ロヴィーノはむっとした視線をアントーニョに向ける。後頭部を胸に押し付けて視線だけを持ち上げた仕草に、アントーニョは満足げに笑いながら、ロヴィーノの額に口付けを落とす。おやすみなー、と笑いながら告げると、ロヴィーノの瞳がさらにとろん、とした。もはや反射に近いのだろう。
 抱っこして寝かしつけるクセ付けさせといてほんま良かったわー、とにこにこしているアントーニョにあえてなにも言わず、フランシスは泣きながら眠るフェリシアーノを見つめていた。刺すような冷たい視線が突き刺さるのは、ロヴィーノが弟を誰かに託したくなく、かつ、他の存在を呼ばれるのが嫌だからだった。可愛らしい兄弟の独占欲に肩を震わせ、フランシスは大丈夫じゃない、と嫌がるロヴィーノにウインクを送る。
「手を繋いでやってるのはあくまでロヴィーノなんだし、間違えることはないでしょう」
「……でも、泣くし」
「ロヴィが寝不足さんやと、親分が泣いてしまうでー」
 おやすみちゃーん、おやすみ良い子ちゃーん、と頭にすりすりと懐いてくるアントーニョに、とてもとても迷惑かつ嫌そうな表情を作ってもたれかかり、ロヴィーノは穏やかな溜息を唇から吐き出した。眠たくて仕方が無い視線が、ちらりとフェリシアーノを見つめる。フェリー、とぼんやり呼びかけた声に、フェリシアーノはふわりと微笑んだ。涙も不思議に、引いてしまったようだ。安堵に体の力を抜いて、ロヴィーノはあくびをする。
「ん……大丈夫かも。……あんな、フランシス?」
「うん? なあに、ロヴィーノ」
 眠すぎてアントーニョの口調がうつっているのも、気がつかないのだろう。可愛らしさに身もだえているアントーニョからなるべく視線を外しながら、フランシスは目をこしこし擦っているロヴィーノに問いかける。ごく幼い様子で見つめ返しながら、ロヴィーノはこてりと首を傾げた。
「あんな、フェリに、なんか言ったか?」
「うん。すこしだけお話したよ。どうして?」
「……泣くけど、あんま呼ばないから。俺が居るって、分かってんの、かな」
 泣くのは、もう仕方が無いことで。神聖ローマが居なくなってから、ずっと今まで続いて来たことで。そしてこれからも、続いてしまうことで。それをロヴィーノは切ないと感じても、どうにかしてやりたい、とは思っていないのだ。喪失の痛みごと抱きしめて、フェリシアーノは神聖ローマを想っている。流れる涙こそが想いなら、止めることなど望まない。にいちゃん、と切なく求めるのではなく、確認する響きで声が囁かれる。
 うん、とだけ返して、ロヴィーノは唐突に意識を手放した。がくっと腕の中に落ちて来た重みを受け止めて、アントーニョは深々と息を吐く。眠たさんなロヴィ可愛すぎてダメかも知れん、と赤い顔で呟くアントーニョに、フランシスはやや白い目を向けた。
「なんでお前ら付き合ってないの? お兄さんにはそこが理解できない」
「え、えー。だってロヴィ、好き好き言うても口先だけだなって鼻で笑うんよ……信じてくれないんやもん」
 目を閉じて待ってたのに空気読めないからキスされなかった時の、俺の気持ちを思い知れ、と輝く笑顔でロヴィーノが言っていたのを思い出し、フランシスは無言で頷いた。アントーニョが多少アレなのは知っていたが、驚異的な察しの悪さだ。好き、の言葉と唇へのキス一つくらいあれば、ロヴィーノはあっさり受け入れてくれるだろうに。ロヴィーノは本当に、信じて待つことのできる存在なのだった。なににしても。
 会話が途切れて、不思議に温かな静寂が降りてくる。繋がれた手を見つめながら、フランシスは大丈夫じゃないかな、と呟いた。フェリシアーノは目を覚ますことはなかったけれど、瞼を下ろしたままだったけれど、伝わる熱に兄の存在を感じ取り。ロヴィーノはそんなフェリシアーノの様子を見て、守護を託して眠りに落ちて行った。不安な夜はあるかも知れない。全てが上向いた訳ではないのだろう。それでも、二人は眠る。
 手を繋ぎ合せて。見守られ、抱きしめられながらも、二人は眠っていた。朝が来るまで、きっと目覚めはしないのだろう。愛し子の眠りに、フランシスとアントーニョは顔を見合わせ、くすくすと肩を震わせて笑った。



 コットンキャンディの雲に、ミルキーブルーの空。おとぎ話に出てくる森は視界の端に遠く、足元には花畑が広がっていた。ゆらゆらと、笑うように揺れる花の色は淡いピンク。妖精が踊りだしそうな花園だった。フェリシアーノはその中心に立ちながら、じっと空を見上げていた。柔らかい色のペンキを塗りたくったような空。見つめても見つめても、雲は浮かぶだけで流れない。背伸びをすれば、届きそうな高さの世界だった。
「……行くのか?」
「うん」
 記憶の中から拾い上げて、作りだした声と存在。分かっていても胸が締め付けられて、フェリシアーノはきゅぅと目を細めた。息を吸い込んで視線を下におろせば、冴えたアイスブルーの瞳が和やかに迎える。ルートヴィヒの青に良く似た、それでいて燦然と冷たく輝く瞳。見慣れた色を水平に眺めるには背伸びをしなければいけないのに、記憶にだけあるその色彩は、しゃがみ込まなければよく見ることさえ叶わない。
 時の中に取り残された古い装束を身にまとい、神聖ローマはそこに居た。フェリシアーノの足元に咲き乱れる花より、ほんのすこしだけ高い身長で。手と顔以外を覆っている黒い衣装の意味を、フェリシアーノはずっと後になって知った。失った後に知った。流れる血の色が目立たないように、隠して平気だと微笑む為に、彼はずっと黒い服を着て、黒いマントをはおり、黒い帽子をぽんと乗せ、背を伸ばして歩いていたのだ。
「ねえ、神聖ローマ」
「なんだ?」
 幼い頃、フェリシアーノはまだその名を持っていなかった。イタリア。あるいはイタリア・ヴェネチアーノと呼ばれるのではなく、フェリシアーノ・ヴァルガスと人の名前を抱くようになったのは、別れた時より背が伸びて、幼子から少年、青年に変化していく最中でのことだった。だからもしあったとしても、フェリシアーノは神聖ローマの人としての名前を知らない。呼び合う名はたった一つ。神聖ローマ。唇が慣れたその動きだけ。
「俺、君が怖くて逃げていたことがあったよね」
「あったな」
「でも、怖くなくなって、一緒に遊んだり、絵を描いたりしたことも、あったよね」
 あったな、と柔らかに声が返される。声変わりもしていない、少年の声。無性に切なくなって、フェリシアーノは神聖ローマの傍らにしゃがみこんだ。不公平な程に傾いていた視線が、平行になる。痛いほどまっすぐに向けられる瞳が、昔の『イタリア』には怖くて苦手で、どうしていいか分からなかったから逃げたのだけれど。今のフェリシアーノはそれを、見つめ返せばいいのだと知っていて。だからしっかり、視線を合わせた。
「君が居なくなって、俺は恋を知ったよ」
「……そうか」
「うん。居なくなって初めて、俺は君に恋してたって気がついたんだ」
 寝ても覚めても思う暇などなく、一緒に居た時間が終わって初めて。それが恋だったと。確かに恋だったのだと、フェリシアーノは気がついた。そうか、と言葉少なく返す神聖ローマの強い瞳が、かすかに揺れる。照れてる、とくすくす笑うと、幼い頬にさっと朱が散った。可愛い、と。愛しい、を同時に想って。フェリシアーノは歯を強く噛みしめ、こみあげてくる涙をどうにか堪えた。夢だと、分かっている。夢だ、と知っている。
 それでも信じられない。もう、『彼』が居ないだなんて。だって居るのに。こんなにもここに、居てくれるのに。目覚めた世界で探しても、巡り合うことだけが出来ない。
「……恋しいよ」
「うん」
「君に、会いたいよ……!」
 時の流れる人の世界で、同じ視線の高さで生きて行きたい。大きくなったことは分かっていた。けれどこんなにも、すれ違う成長など想像もしていなかった。会いたいよ、と繰り返すフェリシアーノの目から、堪え切れない涙がこぼれて行く。ちいさな手がそれを拭えば、ますます嗚咽がもれて行った。神聖ローマが腕をいっぱいに広げても、フェリシアーノの頭を抱きこんでやるのが精一杯だった。時と、大人とこどもの差だった。
「会いに来れば良い。俺は、ここで待ってる」
「俺だって……俺だって、君を待ってるんだよ、神聖ローマ。君が、来るのを、ずっとずっとっ!」
「フェリシアーノ」
 夢は優しく、残酷だった。知らぬ筈の名を、どうして神聖ローマが口に出来ると言うのか。それはフェリシアーノの心が作り上げた存在だからで、本当は誰より、それを知っていたのだけれど。優しく呼ばれた名の響きに、涙がこぼれて落ちて行く。
「行く、と決めたのだろう」
「うん……。うん」
「俺は、お前の傍に居る。誰より近く、お前の傍に居る。だから」
 目を覚まして、待っている人を探してやれ、と。告げられ、フェリシアーノはこくりと頷いた。しゃがみ込み続けたがる体を叱咤して、ふらつきながら立ち上がる。彼方に見える森を目に映せば、神聖ローマがその向こうを指差した。花園と森の向こう。優しい世界の終わり、その果てへ。花を踏みしめて、フェリシアーノは一歩を踏み出す。さく、さく、と音を立てながらゆっくり歩いて行く背に、神聖ローマはイタリア、と声をかけた。
「……目が、覚めたら、空を見てくれ」
「っ!」
「贈り物、だ」
 振り返る一瞬の動きを、許さないと言うように。世界が暗転する。そしてフェリシアーノは、目を覚ました。



 なにか、夢を見ていた気がする。とても大切で、とても愛しくて、とても悲しくて、とても温かな。忘れたくない夢を見ていた気が、する。顔にかかる日差しの温かさを感じながらまぶたを持ち上げ、フェリシアーノはふぁ、とあくびをした。そのまま何度も瞬きをしたのは、目の前にある光景がにわかには信じられなかったからだ。かたく繋がれた手もそのままに、ロヴィーノが眠り込んでいた。アントーニョに抱きしめられたままで。
 アントーニョが兄にくっついている、それ自体は特に妙な光景ではない。見慣れたものだった。しかし朝、目覚めた瞬間にそれを見ることも今まで無く、フェリシアーノが起きる時間にロヴィーノがまだ寝ていることも珍しい。なにが起きているのだろう。体を起こしながら時計を見ると、まだ六時になる前だった。やけに明るい気がするのはカーテンが開けられているせいなのか、それともふわりと漂う良い香りのせいなのか。
 耳を澄ませば、まな板を包丁が叩くリズミカルな音が聞こえて来る。この家に居る筈なのに部屋に居ないもう一人の存在を思い出し、フェリシアーノは口元を綻ばせた。今日の朝食はフランス風のなにか、に違いない。ヴェ、と期待に嬉しく鳴きながら、フェリシアーノはそーっと繋いでいた手を離し、珍しく着ていたパジャマの袖をいじくりながら、カーテンの開かれた窓に歩み寄った。差し込む光に誘われたのかも知れない。
 そうしなければいけないのだと、なぜだか思えたからかも知れなかった。理由も分からない期待と不安に震える指先をおかしく思いながら、フェリシアーノは冷たい硝子に触れ、窓を押し開く。急激に吹いた風が、頬を叩くように室内に侵入する。ベッドの上で驚いた声をあげ、ロヴィーノが飛び起きた。
「さむっ! ちょ、なっ……んだ、フェリ? どうし」
「兄ちゃん」
 立ちつくす背は、逆光で黒く塗りつぶされていたのだろう。目を細めながら訝しげに問いかけてくるロヴィーノを振り返り、フェリシアーノは胸一杯に、朝の清涼な空気を吸い込んだ。今日は風が強い。恐ろしい程の早さで過ぎ去っていく雲が、白く輝いて太陽の光を揺らしている。
「空、見て」
「……あ?」
「いいから、早く。見て!」
 窓辺から動くこともなく呼ぶフェリシアーノに、ロヴィーノはしぶしぶ立ちあがって歩み寄って行く。なんだよ、と眉を寄せているロヴィーノに、フェリシアーノは無言で空を指差した。指し示す方角を目で追ったロヴィーノが、ハッと息を吸い込む。ああ現実なんだ、とフェリシアーノはようやく思って、立ちつくす兄にしがみつく。ぎこちなくとも優しく、ロヴィーノはフェリシアーノを撫でてやった。
「……虹見て、泣くことなんかねぇだろ。ばーか」
「でも、でもなんか……分かんないけど、嬉しくて涙出てくるんだよ」
「なんだそれ。お前本当ばか……意味分かんねえし」
 寝起きでハッキリとしない声でぶつぶつと呟きながらも、ロヴィーノの手つきは優しかった。嬉しいんだよー、泣いちゃうんだよー、と涙を流すフェリシアーノの髪を丹念に撫でつけ、呆れた風にでも見守ってやっている。ベッドの上でようやく目を覚ましたアントーニョが、どないしたん、と首を傾げた。大丈夫だからほっとけ、と言う代わりに手を振るロヴィーノの視線の先で、虹はうっすら消えて行く。役目を終えた、とでもいうように。
 ハッと顔をあげたフェリシアーノが見守る中、空にかかった七色は幻のように揺らめいて消えてしまった。温かな気持ちだけが、胸に残る。すーっと息を吸い込んで、フェリシアーノは兄を見つめた。ようやく目が覚めて来た表情で眉を寄せたロヴィーノは、フェリシアーノにやや不安げな目を向けてくる。大丈夫だろうか、と心配されていることに、フェリシアーノはようやく気がついた。この家に来て初めて、その想いに気がつく。
 ずっと心配されていたのだ。ずっと、見守られていたのだ。その事実にようやく気がついて、フェリシアーノは穏やかに微笑んだ。ずっと、傍に居てくれたのだった。手を伸ばせば触れられる距離で、目を向ければ見える範囲に。ロヴィーノは居て、フェリシアーノを待ってくれていた。だから弾むような声で、フェリシアーノは言う。ねえ兄ちゃん、と。不安が胸に残っていても、恐怖が消えていなくても。ようやく、笑うことができる。
「朝ご飯食べたらさ、おうちに戻ろうねー」
「……はあ?」
「フランシス兄ちゃんも、アントーニョ兄ちゃんも、俺も、兄ちゃんも、戻らなきゃ! だって俺たち、『国』じゃない。……わー、ものすごーくサボっちゃったから、やっぱりお仕事大変だよねえ。……うん。兄ちゃん、俺、頑張るね! だから兄ちゃんも一緒に、頑張ろうね!」
 笑いながら言うフェリシアーノの瞳は、しっかりとロヴィーノを見つめていて。その存在がそこにあり続けるのだと、信じていた。呼吸の為に開いていた唇から息を吸い込み、ロヴィーノは視線を俯かせた。
「そ……う、だな」
「うん!」
「帰っ……なきゃ、いけないよな!」
 笑おうとして、こみあげてくる喜びに失敗して。ぼろぼろと涙をこぼしながら叫んだロヴィーノは、手をあげていたフェリシアーノとそれを音高く打ち合わせ、よし帰るぞバカヤロウっ、と言い放った。フェリシアーノは明るく笑いながら帰ろ帰ろ、と歌のように言葉を響かせて。明るい光の中、兄弟は手を繋ぎ合せて空を見上げる。虹はもう、どこにもなかった。雲が風に吹かれて流れて行き、薄い色合いの空を太陽が照らし出す。
 夢からさめる、朝だった。

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