無理だよ。そう言って視線を反らしたアルフレッドの頭を踏みにじってやろうか、と耀(ヤオ)は無表情の裏側で考えた。静まり返った部屋の中に居るのは『国』二人だけで、慌ただしく廊下を行きかう足跡は過ぎ去っていくばかりだった。部屋の前で、立ち止まる気配すらない。夏を終えて秋も深まり、冬が手が届く季節になっていた。静まり返る部屋の空気は冷え冷えとしていて指先を痛め、長居を歓迎しないようでもある。
朝を迎えて間もない世界は清らかな光を差し入れていたが、それは室内の明暗を濃くする効果しかもたらさなかった。夜の静寂に守られたがるように、アルフレッドは薄闇の後ろ側に立ち、動こうとしない。舌打ちをしながら明るい光に目を細め、耀はもう一度同じ言葉を口にする。
「菊に会わせろ、と言ったある。無理、とはどういうことね」
「そのまんまの意味だよ。会えない、ってこと。分かってよ」
「……小僧。我は気の長い性質ではない」
苛々と、すでに半分は切れているような声で言い捨てる耀に、アルフレッドは疲れた様子で頷いた。うん、知ってる、と素直に溜息と共に認められて、耀は複雑な面持ちで首を傾げてみせた。なにも無理難題を押し付けている訳ではない。現在の日本はアメリカによって復興が進んでいる為、『国』である菊に面会する為には、『アメリカ』であるアルフレッドに、『国』は許可を取らなければならない。それは、規約ではない。
ただ形式に則った昔からの礼儀作法のようなもので、戦争が終われば国名で呼び合わず、与えられた人名によってコミュニケーションを取るという、いつからか決まっていた習慣の一つであるだけだ。強制ですらない。従わなければいけない義理は、どこにもなかった。黙りこんでしまったアルフレッドを軽く睨みつけ、耀はこれ以上は時間の無駄だと言うように身をひるがえした。菊が居る病院は、聞かないでも知っていた。
戦争が終わって二月と半分。ようやく、ようやく中国国内を『国』が出ても良い状況に落ち着かせて来たのだ。本当ならば日本の終戦が告げられたあの日、なにもかもを振り切ってこの地に足を踏み入れたかったくらいだと言うのに。国内の状況が、世界の情勢が、そして『国』という立場がそれを許さなかった。戦いの相手であったからこそ、なお許されることではなかった。国民の怒りと憎しみが、胸の中で渦巻いていた。
今もそれは消えることなく、耀の胸をざわつかせている。そしてその想いは『国』である以上、耀の意思一つでどうなるものでもなかった。中国国民が日本への悪感情を消せぬ限り、耀の中でもそれは留まり続ける定めだ。それでも、それはイコールではない。国民の感情が、耀の感情にはつながらない。戦争中『中国』として、『国』としてあった時ならば定かではないが、人として座す耀の気持ちは、また別の所にある。
会いたい、という気持ちを心の中で唱えれば、『国』として民に直結する想いがすこしだけ遠のいた。切り離すことはできない。『国』とは、そういう生き物だからだ。呼吸を整えながら立ち去ろうとする耀の背を、アルフレッドはじっと見つめていた。白く細く華奢にしか見えない男の手のひらが、扉を開けて出て行こうとする。その白さにこそ引きつけられたように、アルフレッドは口を開く。白人の白とは違う、アジアの肌の色。
「ワン・ヤオ。待っておくれよ」
「言った。我は気の長い性質ではない、と。我は許可を取りに来たのではなく、会いに来たことを伝えに来たのみある。我を引きとめられるのは我の上司のみ。お前ではない。見舞いが終わったらもう一度顔を見せに来るから、その時までに詫びの言葉でも考えておけ」
「違うんだってば! 無理っていうのはだからその……ダメって言ってるんじゃなくて、辿りつけないんだよ!」
年寄り連中はどうして俺の話を最後まで聞かないんだいっ、と悲鳴のような声に、耀は扉の前でくるりと体を反転させる。アルフレッドの言う『年寄り連中』が誰と誰を指すかは定かではなかったが、確実に耀とアーサーは含まれているだろう。華やかにして毒のある微笑みでにっこりと笑い、耀は静かな声でアルフレッド、と言った。びっくぅっ、とばかり体を震わせた青年が即座に両腕を上にあげるのを見て、耀は目を細める。
年下だから、まあ手加減くらいはしてやろう、と思っている慈愛のこもった表情だった。
「あれと一緒にするなあへん」
「君ら本当に、オフでも仲良くないよね……。はい、すみませんでした。もう言いません」
仲が良い理由があったら教えて欲しい、とばかり深まった微笑みに、アルフレッドは青ざめながら早口で謝った。耀もアーサーも、周囲に思われている程に仲が悪くない、のが本当だった。過去に色々あったが、それにしても互いに、道でばったり会ったからと言って即座に戦闘態勢に入るようなギスギスした時期は過ぎ去っている。取りたて仲良くする理由がないから、仲の良くないままで居るのが本当の現状だった。
あえて説明して回らないのは、互いにこう言った時、ひとつの切り札に出来るからだ。手札は多い方が良い。いつも。どんな時でも。不愉快そうな顔を笑みに崩して、耀はゆるりと目を和ませた。
「よろし。で? 辿りつけない、とはなんあるね。分かりやすく説明しろある」
「……菊の眠ってる病院の部屋に、辿りつけないんだ。同じ所をぐるぐる回らされて、気持ち悪くなるんだぞ。忍者迷路かい? それともカミカクシってヤツかい?」
アルフレッドの言葉はよく分からないなりに、耀に情報を伝えて来た。つまり、物理的に辿りつけないということなのだろう。それは忍者でも迷路でも神隠しでもない、大体神隠しの意味が違う、と額に指先を押し当てて思いながら、耀は呆れかえった表情でアルフレッドを見る。この戦争を終わらせたきっかけを思えば、それは十分予想できた事態だった。お前本当に、と何とも言えない気持ちで息を吐き、耀はぽつりと呟く。
「本当に、この国の『神』に嫌われたあるね……」
「どういうことだい?」
「……アーサーの『妖精さん』にものすごく嫌われて、『アーサーに会わせてなんてあげないんだからっ!』て邪魔されてるとでも思うよろし。それと同じある。菊も……そういう力に守られているだけのこと」
この国そのものに宿る万物の神が拒絶しているというのなら、アルフレッドに勝ち目などある訳もない。耀にもないのだから、絶対に無理に決まっていた。我はそこまで怒られてはいないと思いたいが、と遠い目になりながら、耀はよろりと扉にもたれかかるようにして退出しようとする。しかし再び呼びとめられてしまったので、耀は本当に面倒くさそうに振り返った。アルフレッドは薄闇の中、泣きそうな顔で立っている。
耀はそれを、ぼんやりとした気持ちで見つめた。若いのだな、と思う。『国』としても、そして自我も、アルフレッドはまだまだ若いのだった。嫌われることが、そんなにも悲しいのだろうか。どうした、と幼子に対するように問いかけてやれば、アルフレッドの顔がくしゃりと歪む。怒ってるのかな、と言葉が落ちた。それを拾い上げて投げ捨てるように、耀はきっぱりとした口調で言う。
「当たり前ある。あんなものを二発も落として、怒らない保護者が居たら見てみたいもんある」
「保護者? ……菊の?」
「そうあるよ。お前、菊の保護者に嫌われたある。言っておくが、俺がやったんじゃないのに、とは思っても言うな」
ぴ、と人差し指を立てて忠告してやれば、まさしくそう言おうとしていたアルフレッドの口が半開きで凍りつく。しかし止まったのは声だけで、瞳がありありと不満を物語っていた。原爆。恐ろしいあの兵器を、日本に落とすと決断したのも、それを実行したのもアルフレッドではないのだ。知らなかった、とは言わない。それを作っていたことも、落とす計画があることも、落とすと決めたことも、アルフレッドは全部知っていた。
知っていて、止められなかっただけだ。『国』はその決定権を持たない。ただ決められたことだけを知らされ、決まったのだからと許可を下すことを命じられるだけ。最終的に『国』の許可は必要であっても、拒否することは許されない、矛盾した命令事項。ぐっと手を握り締めて感情の荒れに耐えるアルフレッドを、耀は冷たい目で眺めやる。
「……お前がどう思っているかは知らないが、『国』はそういうもんあるよ。民が行ったことに対する責任を、民の代表である上司と一緒に背負うもんある。我らは責任を負い、責任を取る為にも存在するある。肝に銘じておくよろし」
「……分かってるよ」
「なら、胸を張っておけ。己を正義だと言うのなら、勝者としてそれは義務ある。アルフレッド、それでもお前は……『日本』を止めた。苦しいと思うのなら、『日本』に負け方を教えてやれなかった我も、ある意味同罪ある。頑なに戦うしか出来なかった菊を、相手にするのは怖かったろう」
頑張ったな、と。温かく響く声で労われて、アルフレッドは感情を処理しきれずに目を伏せた。扉を開く音が響き、ぱたりと閉じられる。足音が遠ざかって行ってようやく、アルフレッドは視線をあげた。静まり返った部屋に一人きりで、アルフレッドは残される。息を、吸い込んで。告げようとした言葉を、アルフレッドは思い出すことができなかった。
「保護者に……許してもらうって、どうすればいいのかな」
ちらり、と頭をかすめたアーサーの姿に全力で嫌そうな顔をして。アルフレッドは、机の上に置いてある電話をじっと見つめた。受話器を持ち上げれば、指が番号を覚えているから打てるだろう。繋いでもらうのも、緊急の用事だと言えば簡単だった。たとえ緊急でなくとも、よほどのことが無い限り、アーサーはアルフレッドの電話に出てくれる。保護者が怒ってるみたいなんだ、と言えば、恐らくアーサーは鼻で笑う。
ばぁか、と言って。それから一緒に、解決方法を探してくれるのだ。うー、と恥ずかしさと悔しさと愛おしさがごちゃごちゃになった感情で目に涙を浮かべ、アルフレッドは考える。数分後、アーサーへ。繋いだ電話口から聞こえてくる笑いは予想通りのもので、アルフレッドの耳を優しく揺らした。
まばたきをする、その一瞬の動作に違和感があった。なるほど、と思いながら足を止め、耀は周囲を見回した。病院というより、田舎の廃校になった小学校、という風情を持った木造りの建物はぬくもりと落ち着きを感じさせる和の風情に満ちていた。温められた木の香りがふうわりと漂い、ガタガタと風に軋む窓の表面を撫でて行く。天井も高めに作られ、廊下の幅は広く、三人が横に並んで歩いてもまだ余裕がある程だ。
床の木材は新築の艶こそ失って久しかったが、よく手入れがされているのだろう。乾いた表面に塵や埃が一つも落ちてはおらず、穏やかな清潔さを感じさせた。走り回るこどもの笑い声こそが似合う空間に、けれど人の気配は全くない。いくつも見える扉に下がるプレートは一つもなく、開ければがらんとした空間があるだけの、使われない部屋であることが分かるだろう。ここは廃棄された棟ではなく、隔離棟でもない。
病院の受付を過ぎて階段をのぼり、菊の眠る二階の離れへ向かおうとしてすぐのことだった。それまで機械の稼働音や人のざわめき、足音や呼吸音、笑い声などが混然一体となっていた空気と、耀は不意に引きはがされたのである。まばたき一つ分の暗闇を超え、目を開けばすでに世界は変貌していた。建物に変わりはない。ただそこから、人の気配が完全に消えていた。鏡一枚分、ずれた世界に迷い込まされたのだ。
辿りつけない、とはこういうことらしい。聞いていたからなお慌てはしない耀だったが、もし事前情報が無かったからと言って、驚き恐れることもなかっただろう。人の気配がない変わり、空間にはそれ以外の息吹が満ちていた。ふむ、と首を傾げながら一歩を踏み出し、耀は朱色の唇を開く。からくりが分かってしまった時点で、まやかしは耀の目を眩ませることは出来なかった。
「そりゃあ、アルフレッドは辿りつけねえあるな」
なにせあの若者は、『見えない』のである。感じ取るくらいなら出来るかも知れないが、何事にかけても大雑把な性質であるから、繊細な日本の『それ』を理解し、触れ合うことが出来るとも思えない。舞いを奉じるようなゆったりとした足取りで歩を進めながら、耀は弓を引絞る時のようにごく鋭く目を細めた。視界の端を、ちりっと音を立てながら紅い糸が過ぎ去っていく。それを無造作につまみ、くるりと指先に巻きつけた。
十センチ程の長さで切られた、絹糸だった。風もないのに宙を漂っていたそれは耀の指に巻かれた瞬間、意思を持った動きでキツく巻きついてくる。絹糸ではなく鉄線であれば、指が落とされていたであろう強さだった。くっと唇を噛んで痛みに耐える耀の見る先で、余った糸の先が波上に揺れる。やがてぴんっと一を描くように張った糸の先は、廊下の壁を指し示していた。無言で歩み寄り、耀はぺたぺたと壁に手で触れる。
握りこぶしで軽く叩くと、コツン、と硬質な音。視覚も、触角も、そこには木で作られた壁があると判断していた。それでも糸は、壁の向こうを指し示す。めんどうくさいと息を吐き、耀はぱたりとまぶたを閉じた。それからごく自然な動きで、壁に向かって足を踏み出す。目で見ていた物が本当ならば、足先は壁を叩く筈だった。体をしたたかにぶつける筈だった。しかし衝撃は訪れず、ずるり、となにかを通り抜ける感覚がある。
豆腐に指を突っ込んだような、奇妙な感覚。全身で味わいたいものではない。歯を噛んで気持ちの悪さを堪え、耀はまぶたの上を撫でて行く爽やかな風の感触に目を開いた。目に映る光景は、先程とほぼ一緒だった。明るく開放感のある木造りの広い廊下に、立っているのは耀一人だ。人の気配も遠く、遠く、耳を澄ませなければ存在することすら忘れてしまいそうになる。それでも人の気配が、隔絶されずに戻っていた。
そしてもう一つ、先程までとは違う存在が視界にはあって。廊下の一番奥にある病室の扉の前、降り注ぐ日差しの恩恵に、子犬がまあるくうずくまっていた。誰がどんなに探しても、『日本』の家のどこからも、姿を消していた存在だった。守っていたのだ。留守番を言い渡された家よりも、傷つき目覚めることの出来ないで居る主人を、守ろうとしていたのだ。ねじれた空間は、その存在の願いに神が応えた結果かも知れない。
驚かせないように歩み寄りながら、耀はその存在の名を呼ぶ。
「ぽち。……お前、ずっとここに居たあるか?」
ぴくん、と耳を動かして、ぽちは素早い動きで立ち上がる。そして病室へ近寄ってくる耀を睨むように顔を向けると、普段の温厚なありさまからは想像出来ない様子で牙をむき、低く唸った。耀のことを忘れている様子ではない。耀を、耀だと分かっているからこそ、許せずに近寄らせたくないのだろう。アルフレッドであれば、すでに襲われていても不思議ではない。そう思いながら距離を取り、耀は廊下にしゃがみ込む。
ぽちの望みに従って空間がねじれたのは、忠実な番犬から訪問者を守る意味もあったに違いない。神代の空間を抜け出る助けとなった糸をそのままに、耀はぽちに向かって手のひらを差し出した。
「……これは、お前がよこしたものではないあるか」
うなり続ける様子を見る分に、ぽちが訪問者に例外を認める意思はないようだった。それでは人ならぬ者を視認するに長けたアーサーでさえ、あのねじれた空間を脱出し、正規の場所に辿りつけたかどうか定かではない。助けの糸は、耀を選んで現れたのだ。はて、とぽちと見つめ合いながら考える耀の視界の端に、唐突にちいさな草履が現れる。赤い鼻緒の、可愛らしい草履。古めかしい無地の、朱い着物の裾。
耀が視線をあげるよりはやく、少女の声が空間に響く。
『ぽち。私がいれた』
「……座敷童子」
耀の呟きを肯定するように、座敷童子の少女は冷たい面持ちで視線を合わせ、ちいさく頷いてからぽちの隣にしゃがみこむ。両手に朱い糸で紡いだ手毬をしっかりと持っているから、ぽちの頭は撫でられない。それでもそっと触れられたかのごとく、警戒のうなり声はだんだんと静まって行った。やがてぱたりと、尻尾を揺らす音になる。座敷童子は口元を淡く緩めてぽちに微笑み、空を泳ぐように視線を耀へ移動させた。
友好的な瞳ではない。完全に耀を敵だとみなす視線の先は、つまらなさそうに朱い絹糸が巻かれた指を見つめていた。座敷童子の持つ手毬と、同じ色の糸。キリ、と締めつける力が強くなり、耀は痛みに眉を寄せた。
『……痛い?』
確認する風に呟き、座敷童子はくすくすと無邪気に体を震わせて笑った。糸を無理矢理解いて捨てることは可能だったが、耀はあえて指を締めつけるそれをそのままにする。代わりとばかり、耀の視線は座敷童子に向けられた。
「座敷童子と……家の守護神が、揃って離れて良いあるか」
『私とぽちの『家』は、あの家であると同時に『菊』だもの。家を出ると思って離れている訳でもないから、これくらい平気よ。……ね、指、痛くないの? それとも、痛みなんか感じないの?』
「ならいい。……痛えある。できるなら止めて欲しいある」
強い力で締めつけられた指先から、すでに血の気は引いていた。もうそろそろ皮膚の弾力限界も超えそうなので、血が出てもおかしくなさそうである。無感動に己の指先を見つめながら答える耀に、座敷童子は悔しそうに唇に力を込めた。ぎり、と糸が切れそうな程に張り詰め、さらに力が込められる。座敷童子の仕業であると、耀も分かっていた。分かっていても、止めろとも口にしない。問われれば、痛いと告げる。
それだけで、痛みを己から訴えようとはしなかった。座敷童子は手毬をぎゅっと抱きしめて俯き、もういい、と涙声で呟いた。ふっと糸から力が抜け、一人でに耀の指先から解けてすり抜けて行く。風に運ばれるように流れた先は、座敷童子の持つ手毬だった。瞬く間に同化してしまった糸を探し出すかのごとく手毬を見つめながら、耀はゆるく息を吐く。泣かせたい訳じゃないある、と優しい声に、座敷童子は顔をあげた。
『なにしに来たのよ』
「菊に、会いに来たある」
『……菊を傷付けたのはあなたたち』
それなのに、なぜ会いに来るなどと言えるのか。座敷童子の瞳は、苛烈な怒りを灯しながら問いかけていた。座敷童子とて、人とは異なる時を生きるものだ。幾多の戦いを見送り、戦争と平和が繰り返されるのを見据えていた。『国』が辿って行く道筋を、人より近くで見つめていた。だからこそそれが敵対した『国』の本位でなかったことも、知っているのだ。それでも言わずにおれないのは、菊が未だ目覚めないからだろう。
日本の息の根を止め、終戦の幕を引いた二発の銃弾は、『国』の身にすら重すぎた。どれほど苦しんだかを、耀は知らない。座敷童子はその様を、見つめていたのだろう。人のように激情を宿し、座敷童子は吐き捨てるように言う。
『あなたみたいに菊は、痛いも言わないで! 終戦を告げる声を聞くまで、一言も呻きすら漏らさないで……意識を、失ったのよ。痛いって、感じなかった訳じゃないのに。痛いって、ずっと、ずーっと思ってただろうに!』
「童子」
ため息まじりに吐き出された声は、座敷童子を怒るものではなかった。それなのに、感電でもしたかのように座敷童子が体を跳ねさせ、口を噤んだのは、そうせざるを得ない響きがあったからだ。耀はしゃがみこんだままで呆れたような顔つきになり、座敷童子とぽちに向き合っている。乱れた髪を直すてのひらの奥、ゆったりとした布に隠された手首に、引き裂かれひきつれた皮膚の、癒えきれぬ痕が見え隠れしていた。
ぱっと袖を振って傷跡を人目から隠し、耀はゆるりと穏やかに笑む。
「傷ついたのが、菊だけだと言うようなことは止めるあるよ。……菊は、たくさんを傷つけた。そしてその分、身にも跳ね返ってきた。それだけのことある。一方的に被害者ぶるのはやめるよろし。戦争とはそういうものあるよ」
『……『中国』』
「我の国も、我の民も、我も、散々傷ついた。それが事実ある。……座敷童子と、ぽちが怒る気持ちも十分理解してるあるよ? でもな、痛かったのは菊だけでなく、菊は多くを痛がらせた。菊だけがそうだったのでなく、我も、アルフレッドも、あの戦争に加担した者、あの戦争に巻き込まれた者、全てが等しく傷ついた。……だから許せ、とは言わねえある。我だって菊のしたことで許せねえことは、たーくさんあるしな」
謝罪など、出来る筈がない。国の為、民の為、各々の掲げた正義の為に、それはできる筈がないのだ。まして耀は『戦勝国』で、菊は『敗戦国』。両者の間に横たわる溝は長く深く、時が歴史と呼ぶようになったとしても、変わらず埋まらずあるだろう。全てはもう成され、そして結果を出して終わってしまった。ぎゅぅと手毬を握り締め言葉の出ない座敷童子を、耀は愛しげに見つめた。悲しいくらい、座敷童子が愛おしかった。
こんな風に身勝手に菊を想うことは、耀には叶わない。耀が『国』である限り、永遠にそれだけが叶わない。ふ、と浮かび上がってくる温かな気持ちに口元を緩めながら、耀は俯き黙りこむ座敷童子を見つめ、警戒を解こうとはせず見つめてくるぽちに親しく笑み返した。
「さあ、お願いある。我のことを通しておくれ。我は菊に会いにきたあるよ」
『……でも』
「なにもしないある」
なにも。なんにも。なぁんにも。恐れていることや怖がっているようなことは、なにひとつ。辛抱強く囁きかける耀に、やがて座敷童子は視線を持ち上げた。黒塗りの椀のように、艶光りする瞳が耀の姿を捕らえる。吸い込まれてしまいそうな漆黒にも、耀は微笑むだけだった。信じて欲しい、なんていう言葉は陳腐過ぎて使う気にもなれない。『国』と座敷童子はしばし無言で視線を交わし合い、やがて吐息が空気を揺らす。
手毬を耀にぽんと投げつけ、座敷童子はぽちを抱き上げた。避けもせずあたってやり、耀は手毬を座敷童子の足元に置く。病室の扉に手をかけながら、耀は座敷童子に問いかけた。
「一緒に入るか?」
その姿は菊に見えず、声が届くこともないだろうけれど。一目なりとも会わせてやりたい、と思う耀に、座敷童子はゆるく首を振った。ここで、誰かが来ないか見張っていなきゃならないから。ぽつりと零された声はある意味真実で、耀は座敷童子の頭に手をやった。くせのない黒髪は、いつか触れた覚えのある菊の髪と同じ感触で。そう告げた耀に、座敷童子は初めて笑う。悪意のない、純粋な喜びの微笑みだった。
『当たり前じゃない。菊と私は、ずっと一緒に居たんだもの』
「そうか」
『そうよ。……それでこれからも、ずっと一緒に、居るんだもの』
そうか、と耀は言った。そうよ、と座敷童子は誇らしげに返す。それきり、座敷童子の少女はぽちを抱いたまま、扉の前に座り込んでしまった。開閉の邪魔にならない場所に陣取って、人ならぬ存在は虚空に視線を投げかけている。アルフレッドをはじめとする『国』や、その他にも菊に会いに来ようとする日本の重鎮たちを、迷わせ追い返す為だろう。ほどほどにしておおき、と言う耀を見て、少女はにこ、と微笑んだ。
絶対に嫌、とでも言うような笑顔だった。
消毒液のアルコールと、血の匂いが空気中に漂う部屋だった。奇妙な清潔感があるのは、病室に寝台以外の家具が置かれていないからだろう。花瓶を置く台や、見舞客を想定した椅子すら置かれていない。がらんとした印象の部屋だった。大きな窓から差し込む光が眩いからこそ、なお簡素な印象を与えている。光が、ちょうど体全体を包み込むような位置に、寝台は置かれていた。点滴の台すら、置かれてはいない。
薄い布団を一枚かけて、菊は寝台の上に横たわっていた。仰向けになった胸が、見ていればかすかに上下している。血色は良いとも、悪いとも思えなかった。ただ耀が想像しているより、ずっと綺麗な体だった。布団の下に隠れた体の線は、どこも欠損していない。指は隠れていて見えないが、手も足も五指がそろっていることだろう。ゆるく安堵の息を吐き出しながら、耀は音を立てないように足を進め、寝台に近寄る。
多少の物音で起きるとも思えなかったが、眠り込む存在に近づくなら、それが礼儀のようにも思えたからだ。間近によって顔を覗きこめば、傷一つない顔が穏やかな寝顔を晒していた。その、頬のあどけない丸みに、耀は涙がこみ上げてくるのを感じる。生きていた。奇跡的に身体を損なうことなく、菊は生きてそこに眠っていた。『国』が人の体を持つ以上、四肢の欠損は起こりうる。国土に影響する為に、復元するだけで。
回復はゆるやかに行われる。植物の成長とは違い、それは一瞬の奇跡のように行われる。だから本当は、もしかしたら菊は一度、身体を損なっていたかも知れない。けれど座敷童子が菊の意識があった期限を終戦のその瞬間と告げた以上、意識の無い間の回復は、まずあり得なかった。損なわれなかったのだ。なにひとつ。口元に手を押し当てて落ち着けと己に命じ、耀は荒れ狂う歓喜と涙を己の内側に沈ませた。
喜んでばかりはいられない。血の匂いは濃厚だったからだ。傷は、あるのだ。意識の無い体を暴く罪悪感も、息を吸い込むことで押し込めて。耀はすまないと一言呟き、薄い布団を端からめくり上げた。ぶわっと血の匂いが立ち上る。声をあげなかったのは、予測して覚悟していたからだ。ばさ、と音を立てて布団を投げ捨て、耀は横たわり、動かない菊の体を見下ろした。傷はいくつもあり、特にひどいのが、二か所。
未だ血の止まらぬそれは、右の太ももから膝を越したあたりにまで広がるものと、腹部にあった。どちらも、布をじっとりと湿らせる程に溢れた血液が、国土と国民が受けたダメージを物語る。国民の悲鳴と驚愕、損なわれた命の多さを物語る。それらは全て『国』である体に跳ね返り、菊の心身を内側から焼いたのだ。座敷童子は耀に告げた。一声も洩らさなかったと。呻きすらあげなかったと。耐えきれる痛みではないのに。
耐えきれぬそれを、しかし耐え、受け入れ、菊は戦いの終焉を知ったのだ。体に纏う着物の裾を、めくり上げ暴くことはしなかった。耀は菊に覆いかぶさるように身を伏せ、触れはせず、その身を抱きしめる。どんなに痛かったろう。どんなに、苦しかったろう。核の炎に焼かれた民の呻きを、苦しみを、後に残された者の悲しみを、絶望を、一つの心、一つの体で受け止めて。目覚める訳がない。覚醒できる理由がない。
『国』はあくまで人では非ず、『国』である。しかしその身に感じる痛みは人のもの、その感情が発露する心も、人のものなのだ。同じ体と、同じ心で。ひとりが受け止めきれるものでは、ない。息がもれる。菊の顔の両側に付いた拳は、がくがくと震えていた。雨だれのように菊の頬に落ちて行くのは、耀の流した涙だった。呼吸すらままならない引きつった喉で、耀は菊の名を呼んだ。愛おしく、けれど憎悪と絶望を込めて。
「菊……菊、ああ、痛かったろう。苦しかったあるな。お前、一声もあげずに耐えきったと聞いたあるよ。偉い子、強い子あるね。優しい子あるね……誰にも心配をかけまいと、そうしたのだろう。我には分かるある。その時、その瞬間まで『日本』は、この国は大丈夫なのだと。耐えきると、まだ戦えると示す為に、微笑みすらしたろう。その瞬間にも戦い、死んでいく兵たちの魂を迎え、報いる為にそうしただろう……菊、菊っ!」
ねえ、にーに。くすくすと笑いながら、幼く甘く響く声を耀は聞く。かつて耀が菊の手を引いて歩いていた頃の記憶が、蘇る。あの頃から転んでひざをすりむいても、痛くないと言い張って頑なに我慢をしてしまう子だった。それでいて時々、そろりと耀を見上げて、菊はいうのだ。ねえ、にーに。菊は頑張っておりますよ、と。すこおし誇らしげに、すこおし、不安げに。そう言うことで不興を買いはしないかと、そういう顔つきで。
それでいて、褒めて欲しがって。頑張っておりますよ、といじらしく胸を張って告げるのだった。耀はそのたび菊を抱きしめ、抱き上げ、額を重ねて告げてやった。知っているよ。お前が頑張っていることを、にーにはちゃぁんと知っているよ。優しい子、強い子、頑張りやで頑なな、愛しい子、可愛い子。『国』として産まれ、『国』として育ち、『国』として民を愛することを知り、『国』としてその責任を負い、果たす術を知っていた子。
耀は腕を伏せて身を屈め、額と額を重ね合わせた。すり、と肌をこすりあわせ、優しく微笑んで告げる。
「……た、ある」
一度目は、はきとした言葉にならず。そんな己を情けないと思いながら、耀は何度か胸中でその言葉を転がし、息を吸い込んで告げる。かつては、幾度となく囁いた言葉。引きつった喉と舌でも、ころりと転がり落ちて行く。
「頑張ったある……菊は、頑張ったある。偉いある。よくやったあるよ。……我は誇りに思う。お前がそうすることのできる子であったことを、心から誇らしく、尊く思うある。嬉しいある」
答える声は、当然なかった。ただほんの僅か、菊の表情が和んだような気がして、耀は菊に頬を擦りつけた。体温は傷のせいか熱を持って高く、肌の下で炎が燃えているようだった。『国』に、人の薬は穏やかにしか効かない。体のつくりが本当は違うのかも知れないし、他になにか理由があるのかも知れなかったが、薬も毒も、『国』の体を救いはしないし殺しもしない。それでも僅かには、気休め程度にはなる筈だった。
座敷童子に選別された者しか病室に辿りつけないとするのであれば、菊が満足な治療を受けられているのかも疑わしい。大体点滴がない時点で、寝かされている以上の治療が加えられているとも思えなかった。座敷童子には一度、人の医療の大切さを説いて教えた方が良いのかも知れない。溜息をつきながら身を起して寝台の横に立ち、耀は菊の顔を撫でる。傷に触らない程度に、体を清めるくらい、してやりたかった。
すぐ戻るあるよ、と囁けば、ぴくんと眉が震えた気がして耀は口元を綻ばせた。己の希望が作りだした錯覚だと思いつつ、声に反応してくれることが嬉しかった。つつ、と指で体を辿り、耀は菊の手もなぞって行く。くすぐるように手のひらをなぞり、ぎゅ、と強く握って目を細めた。
「すぐ戻るある……待ってるよろし」
菊の指先に、わずかに力が込められた。そんな気がして微笑み、耀は衝動的に身を屈めていた。吐息が肌に触れるすぐ近くで菊の顔を見つめ、ごく柔らかに唇を触れさせる。かすめた唇は乾いていて、耀の胸を切なくさせた。一方的に繋いでいた手を離し、身を起して耀は病室の扉に向かう。温かい湯とそれを溜める為の桶、布が一枚あれば良い。どこで借りて来ようかと思いながら扉に手をかけ、耀は動きを留める。
すう、と意思を持った呼吸音が聞こえた気がした。本能に従って繰り返されるそれではなく、息を吸い込もうと思って動かされた喉と肺の奏でる音。まさか、と疑う暇すらなかった。勢いよく振り返った耀の目に映ったのは、そこにあった筈の手のひらを惜しむように硬く握りしめられたてのひらと、そして。震えながら重たげに持ち上がって行く、瞼。黒い瞳が、夢に彷徨うようにしながらも、ゆっくりと誰かを探して巡らされる。
ひた、と菊の瞳が耀の姿を映し出した。長い間持ち上げられなかった腕が、ぎこちなく上がって行く。手のひらが、離されてしまったことを悲しむように耀に向けられた。
「……にー、に」
「っ、菊! 菊!」
体力の限界を迎えた腕が寝台に叩きつけられるより早く、駆け寄った耀は菊の手を取った。ぜい、と荒い息を繰り返しながら菊は微笑み、痛いほど掴まれた手に夢見心地の視線を向けた。
「やっぱり……耀さん、だったの、です、ね。手を……繋いで、くれて、た、の」
「菊。良い、分かる。お前の言いたいことくらい、目を見れば我にはちゃんと伝わるある。苦しいなら無理して話すな。喉が痛むか? いや……乾いているあるな。すぐ水、いや湯でも持って来てやるある。それとも茶が飲みたいか? なんでも言うよろし」
「……耀さん」
いいから落ち着いてくださいよ、という言葉は、なにより表情に出たのだろう。耀は恥ずかしそうにクスリと喉を鳴らして笑い、菊に頬をくっつけてびっくりしたあるよ、と告げる。額も、また重ねられた。心配したある、驚いたある、もう落ち着いたある、と矢継ぎ早に言葉を落とされて、菊は胸いっぱいに息を吸い込んだ。自分の意思が、自力ではどうにもできない暗く深い淵に沈みこんでしまっていたことは、自覚していた。
意識があった訳ではない。ぼんやりとまどろみの中で、ずっと夢を見ていたような気もするが、一つも覚えていないので分からなかった。ただすこし前に急に、さっと光が差し込むような感覚があったのだ。遠くにあったそれはだんだんと近付いてきて、菊のすぐ近くまで来てくれた。懐かしい感覚だった。幼い頃はずっとそれに包まれ、守られていた気がした。幼い頃と同じような言葉を貰い、心が誇らしく喜びで満ちた。
「……やっぱり、あなただった」
「ん? なんある。教えるよろし」
「いいえ、なんでも。……それより耀さん、どうして、ここへ?」
戦争が終わったばかりの状況で国を離れて良いのですか、と問いかけた菊に、耀はまず沈黙を持って返した。複雑そうに見返して来る瞳に、なにか己の間違いを悟ったのだろう。ぎこちなく眉を寄せる菊に、耀はゆっくりとした口調で問い返す。
「菊。お前、どれくらい眠っていたと思ってるある」
「……その反応、ですと。長い間、でしょうか」
長くて一週間くらいだと思っていた、と告げる菊に、耀は大きく溜息を吐きだした。嘘をつくか本当を教えてやるべきなのか、迷うのは菊の性格故だ。戦後、二ヶ月半も寝込んで意識が無かったことを知れば、菊は即座に寝台から飛び起きて、政府庁舎に走って行きかねない。自分の体など二の次三の次、で国の現状を知ろうとし、民の為に全力を尽くそうとするだろう。よしよし、と落ち着かせる為に肩に手を置き、耀は言う。
「聞いても、お前が我が許すまでここで眠っている、脱走しない、抵抗しない、治療に専念する、騒がない、ワガママを言わない、くらいまで誓えたら教えてやらんこともねーある」
「善処します」
「返事は『はい、分かりました。にーにの仰る通りに致します』だけある」
お前が善処すると言って善処された記憶がねえあるからな、とにっこり微笑まれて、菊はつと目を反らした。これだから日本語の奥深い意味を知り尽くした兄は、操作しにくいと言うのだ。ち、と寝起きとは思えない流暢さで舌打ちを響かせる菊に、耀の笑みがごく穏やかに深まった。縛り付けて監禁して治療して欲しいならそう言え、とぞっとするほど甘い声で囁かれ、菊はびしっと背筋を伸ばし、敬礼までして言い放つ。
「わたくし、本田菊は耀さんの仰る通りに致します!」
「にーにと呼んでも良いあるよ。全く差支えないある」
「それこそ、全力で善処させて頂きますよ。耀さん」
にこー、にこー、と笑顔を交わし合って、菊と耀は数秒間沈黙した。この場合不利になるのは、体調の良い方である。あんまり起きていると眩暈がして脱走したくなります、と全くつながらない脅しをさらりと口にした菊の鼻をつまんでねじりながら、耀はほとほと呆れた息を吐き出した。
「その様子なら、回復も早いかも知れねえあるな。……二ヶ月半。それが、お前が寝てた時間あるね」
「……なっ」
「な?」
南蛮漬け食べたい、とかあるか。買って来てやるからちょっと待ってろある、とわざとらしく盛大なボケを口にする耀を、菊は強い視線で睨みつけた。はくはく、衝撃のあまり動きの鈍い口を何度か動かしなめらかにして、菊は大きく息を吸い込む。
「なんで起こしてくれなかったんですかーっ!」
「自分の寝坊を我のせいにするとはどういう了見あるか。そんな子に育てた覚えはねえある」
「育っちゃったんです諦めてください。うわぁ……アルフレッドさんも、どうして起こしてくださらないんですかっ」
終戦を終えた日本の面倒は、アメリカが見る。そこまでは何とか意識を保っていて、記憶として留めることが出来ていた。その後変更が無かったとするならば、今この国には『アメリカ』であるアルフレッドが来ている筈なのである。いくら忙しかろうと『国』である菊が寝ているのであれば、見舞いに来るくらいはしても良いのではないのだろうか。放置か、放置なのか、と恨めしげな顔になる菊に、耀はぷ、と笑いに吹き出した。
「ばぁか、んな訳ねえある。あの若造は、単にここまで来られなかっただけあるね」
「忙しくてですか?」
「物理的に、あるね。……お前の眠りは、お前を愛する者に守られていたあるよ」
すこしだけ、お待ち。そう言って耀は身をひるがえし、病室の扉を開けた。廊下にひょいと顔だけ出して手招けば、すぐにててて、と可愛らしい足音が聞こえてくる。ハッとして体を起こそうとした菊は痛みにそのまま寝台に逆戻りし、扉を閉めて戻ってきた耀に呆れ顔で見つめられる。お前、自分の状態くらい把握しておけ、と言われて遺憾ながらも仰る通りです、と頷き、菊は腹部になるべく力を込めず寝がえりを打った。
察した耀が腕を回して抱き起こしてくれたので、菊の視界は一気に広くなる。恐る恐る床に視線を下ろせば、ぱたぱた尻尾を揺らすぽちと目が合った。きゃうん、とものすごく嬉しそうに鳴かれて、菊の視界も滲んで行く。え、あ、わ、とオロオロしながら涙を拭う菊にクスリと笑い、耀はそっとぽちを抱き上げ、寝台の上に乗せてやる。ぽちは菊の体に触れないように足を進め、ちぎれんばかりに尻尾を揺らして頬を舐めて来た。
震える腕をいっぱいに伸ばし、菊はぽちを抱きしめた。
「ぽち君……ずっと、傍に居てくれたんですか?」
もちろん、と言わんばかりに鳴き声をあげ、ぽちは菊に体をこすりつけた。菊は満足に動かない体で精一杯ぽちを抱きしめ、その献身に深く感謝する。元気になったらお散歩に行きましょうね、と囁かれてきゃん、と鳴き、ぽちは視線を動かして、己が抱きあげられたあたりを見た。そこに居る座敷童子を、菊は視認することも、感じ取ることもできない。菊の不思議そうな目が通り過ぎるのを、座敷童子は笑って耐えた。
大丈夫。分かっていたもの、と手毬を抱きしめて俯く座敷童子に、耀もかける言葉を持たなかった。そもそも耀とて、近年は座敷童子を視認できる方が珍しい。今ハッキリと見えているのは、ひとえに指に巻きついていた朱い糸のおかげに他ならなかった。座敷童子の飛ばした糸は、辿りつく者の選別を行うのみならず、存在を認識する手助けにもなっていたのだろう。悲しそうに鳴くぽちに、菊も、分からずとも顔を曇らせた。
「なにか……いえ、誰か居るんですか? 耀さん」
「……お前が居ないと思うなら、我に告げてやることはできないある」
「……そこに」
誰かが、居る筈なのだった。耀は暗にそう言っていたし、菊の心が落ち着かなくざわめく。見えない。分からない。覚えもない。けれどたまらなく懐かしいなにか、誰かが、そこに。きゅ、と唇を噛んで目を細めるも、民が彼らの存在を認識しなくなっている『国』では、瞳に姿を映し出すことは難しい。一瞬、ゆらりと煙がくゆるように映像が歪んだがそれだけで、すぐになにもない床に戻ってしまった。悔しい、と菊は思う。
あなたを、悲しませたい訳ではないのに。その『あなた』がなんなのか、誰なのかすら、菊には思い出せなかった。忘れてしまっているのか、それはそもそも知っていたことなのか、ものなのかすら、分からない。息をつめて悲しく目をゆがませる菊を見つめて、座敷童子は手毬に視線を落とした。朱色の糸で組まれた手毬。それを座敷童子は、無言で耀に差し出した。あげないからね、と真剣な瞳が語っている。
あくまでちょっと貸すだけなのだ、と無言で主張する座敷童子から手毬を受け取り、耀はそれを菊の膝の上にぽん、と落としてやった。彼らの持ちものは、彼らの一部でもある。彼らの手を離れたからと言って実体化するものでもなければ、視認が容易になるものでもないのだけれど。菊はハッとして膝のあたりに視線を向けて、なにもない筈の空間を睨みつけた。あ、れ、と意図せず菊の唇は動き、手が差し伸べられる。
指先がそれに触れ、菊の目から涙がこぼれ落ちた。ぼたぼたと大粒の雨のように涙は溢れ、現れた朱色の手毬を歪ませる。見覚えがあるものあるか、と問いかける耀に、菊は何度も頷いた。差し上げました、と菊は呟く。誰に、と優しく問う耀に、菊はぶんぶんと首を振る。分からない。思い出せない。けれどこの手毬は、確かに菊が贈ったものだった。赤い草履に赤い着物、深い緑色の帯は水辺に広がる苔の色に似て。
幼くしゃくりあげて泣く菊の手に、座敷童子はそっと触れた。それすら伝わらないと覚悟した座敷童子の、目が見開かれる。指先が触れた個所を手繰り寄せるように、菊は泣きながら手の甲に唇を押し当てた。
「居るんですか……? そこに、居て……今、触れてくれましたか?」
『菊。……菊、分かるの?』
「……大事にしてくれているんですね。傍に、居てくれて……いたのですね」
菊の視線は手毬に注がれ、怯えたように後ずさる座敷童子に向くことはなかった。見えていない。思い出した訳でもないのだろう。けれど確かに、菊の心にそれは残っていたのだった。いっぱいに見開かれた座敷童子の瞳から、ころりと涙がこぼれ落ちる。膝を折って座敷童子を抱き寄せながら、耀はありがとうな、と言った。その言葉を、なぜ菊が告げてくれないのか。悔しくて、悲しくて、それでも溢れるくらい嬉しくて。
わあわあと幼子のように泣く座敷童子を、耀はかたく抱きしめていた。