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 カツ、と硬質な足音が響く。反射的に顔をあげたのは、その音を知っていたからだ。アルフレッドは半ば反射的に怯えを含んだ視線を扉に向け、そこに立っていた存在に目を瞬かせる。質の良さが一目で分かるダークブラウンのスーツに身を包み、ゆるく腕組みをした姿で壁に背を持たれているアーサーは、アルフレッドの方に視線を投げかけるでもなく、己の腕時計に目を落としていた。十分、と唇が動いて声が響く。
「お前、鈍くなったんじゃねえの? 平和ボケか? アルフレッド」
 叱る響きの声は、甘く空気に溶け込んで行った。本気で怒っている訳ではなく、ポーズとしての叱咤だからだろう。本当に無条件に、アーサーというひとはアルフレッドを甘やかすのだ。だからこそ積極的に反省してやる気にもなれず、アルフレッドは執務机に肘をつき、組んだ手に顎を乗せながら適当に答える。紳士だって言うならノックもせず、室内に侵入するのはどうなんだいアーサー。言葉に、緑の瞳がきゅぅと細くなる。
 もちろんアルフレッドは、アーサーが他人のそれも執務室に、ノックもせず体を滑り込ませる無礼を働くとは思っていない。ノックをして声もかけて、返事がなくて心配になって、もう一度ノックをして声をかけて、それからそっと扉を開けて中を覗き込んだのだろう。開いた扉に気がつく様子もなく、机の上に山となった書類に目を落とすでもなく思い悩む姿を見て、アーサーは呆れながら十分を待ってくれたに違いないのだった。
 アルフレッドがわざと聞いていることも、アーサーは知っている。ひくり、と口元を歪ませながら怒りも言葉も受け流し、アーサーは壁から背を離して立ち直す。背筋を伸ばした立ち姿は、さすがに英国紳士の『国』であるとアルフレッドに思わせた。その立ち姿一つで、なんとも言えぬ風格と穏やかさを表すひと。それでいて布一枚に覆い隠された獰猛さも併せ持つひと。アーサー・カークランド。アルフレッドの『元親』だった。
 扉から机の前までの数歩の距離を、アーサーは衣擦れの音すら立てずに歩く。殆ど無音で歩む仕草に、アルフレッドは内心で溜息をついた。そもそもアーサーが物音を立てる、だなんて『下品』な真似をすることは稀で、それはいつだって相手の注意を引く為に奏でられるのだ。足音も、咳払いの仕草も、指先でコツリと机を叩く動きさえ。特徴的な音律はいつでも硬質で、だからこそ聞いた瞬間に『誰』だか分かってしまう。
 うっとうしげな表情を作って出迎えたアルフレッドに、アーサーはおかしげな笑みで立ち止まった。
「なんだよ。せっかく来てやったのに、嬉しそうじゃねえな」
「嬉しいとか、ないから! 大体君、なにしに来たんだい。俺は元気だよ問題もなく大丈夫、だから早く、あの雨ばっかのじっとり湿った島国に帰って、紅茶でも飲んでると良いんだぞ。好きだろ? 紅茶」
 早口で紡がれた挑発的な言葉に、アーサーはふんと鼻を鳴らしただけで笑みを崩さなかった。いかにも、若者の動揺を見て楽しんでいると言った風なアーサーに、アルフレッドは言葉につまって視線をそらしてしまう。アルフレッドが電話を鳴らし、助けを求めてしまったのはもう数カ月は前のことだった。すぐに現れなかったアーサーを、情のない相手だとは思わない。『国』として、出来る限り急いで来てくれたのが、分かる。
 戦後、どの『国』も疲れているのは一緒だったが、アーサーの目の下にはうっすらとクマが見えていた。対外的な虚勢を、呆れるくらいに張り巡らせるひとだ。見て分かるような疲れを体に残してしまうくらい無理をして、万難を排して、日本までやって来てくれたのだろう。『国』がイギリスを離れて良いようにする為に、それも短期ではなくある程度の日数を可能にする為に、アーサーはとても努力して来たに違いなかった。
 それでも、アーサーはそれを口にしない。努力はあくまで己の為に行ったそれであり、アルフレッドが気負うことなど一切ない、と本気で思っているからだった。甘い、優しい、そして馬鹿、とアルフレッドはアーサーを想う。嬉しいけれど気恥かしくて、お礼のひとつも口に出来なかった。ああもう、と息を吐き出し、アルフレッドはアーサーを睨みつけるように視線を戻す。出迎えた森色の瞳は、深い愛情を湛えて穏やかだった。
「うん? なんだ、アルフ」
「別に。君が俺のことだーい好きで仕方が無いことなんて、とっくに知ってたから今更なんとも思わないんだぞ! ……ちょ、ばか! アーサーのばかっ! 笑わないでおくれよ!」
「お前可愛いなあ……ああ、はいはい。悪かった悪かった」
 強がりで甘えたな台詞につい吹き出して笑ってしまうと、アルフレッドは顔を真っ赤にして抗議してくる。それを手をひらつかせて受け流し、アーサーは肩を震わせながら深呼吸をする。日本の、乾いた空気が喉を刺した。軽く咳き込むアーサーを心底嫌そうな目で眺め、アルフレッドは本当にさあ、と涙声で呟く。
「君、なにしに来たんだい。嫌がらせかい?」
「違うよばぁか。つか、俺が自発的に来たっつーより……あ、来た」
 アルフレッドが分かりきった所で妙な意地を張るのは、どう考えてもこの育て親のせいだった。疲れた顔つきをしているのにそんなことを言って、アーサーは響いてくる足音に柔らかな笑みを浮かべる。ぱたぱたぱた、と小走りに駆けてくるそれを聞き、アルフレッドは不思議な気持ちで首を傾げた。アーサーのものと同じく、それもまた、聞いただけで正体が知れる音だった。のんびりとしていて、どこかふわふわもしている。
 長時間聞いていると安心と穏やかさを通り越して、全身を脱力させてしまうような愛おしさ。え、なんでマシューが居るんだい、とアルフレッドの呟きが終わらぬ間に、『アメリカ』の執務室の扉は忙しなくノックされた。どうぞ、と入室を促したのは、アルフレッドではなくアーサー。それなのになんの迷いも疑問もなく扉は開かれ、ふんわりとした空気を漂わせてマシューはひょこりと室内に入ってきた。ぱた、と扉が閉められる。
「遅くなりました。ごめんなさい……。やあ、アルフレッド。元気だった?」
「元気だったよ。君らが来る前まではね……」
 精神的に今、すごく疲れた、と脱力するアルフレッドに、マシューはほわほわとした仕草で首を傾げてみせた。浮かぶ笑みは悪意など全く感じられない、混じりけなしの穏やかさで。アルフレッドは思わず執務机に突っ伏して、あー、と無意味な声を響かせる。
「……マシューが来たいって言ったのかい?」
「厳密に言うとすこし違うな。マシュー、おいで。説明」
 最後の一単語は、ぴしと伸ばされた指先でアルフレッドを指しながらの、命令に等しいものだった。マシューは素直に頷くとアーサーのすぐ隣まで駆け寄り、軽く頭を下げることで英連邦の主に対する礼とする。くすくすと上機嫌に笑って『カナダ』の従順さを愛おしむアーサーに、マシューはごく甘やかな笑みを唇に乗せた。あなたが笑っていてくれる、そのことが本当に嬉しくてならない、と言葉より雄弁に物語る微笑み。
 砂糖より蜂蜜よりメイプルシロップより甘い空気が漂いかけたのを察して、アルフレッドはがばりと顔をあげた。放っておけば危険なことになるのが明白だったからだ。マシューの貞操的な意味合いで。ばんっと音を立てて机に手をつき、アルフレッドはマシューの名を呼んだ。
「マシュー! 説明しておくれよっ。君ら、なんで日本まで来たんだいっ!」
 君らだって各々忙しい筈だろう、とアルフレッドの台詞に、アーサーは聞こえるような舌打ちを響かせた。邪魔ばっかり、と言わんばかりの恨めしげな視線に、アルフレッドは泣きそうな気持ちで邪魔だってするさ、と思う。なにが悲しくて元親が兄弟を襲い受けする場面に遭遇しなければいけないのか。マシューはもうすこし危機感を持った方が良い。性的な意味で。心底思いながら、アルフレッドは大きく息を吸い込んだ。
「なにか、動かなきゃいけないことがあったのかい? そうじゃないだろう?」
「うん。大丈夫、そういうことじゃないよ。……四ヶ月くらい前、かな。アーサーさんから電話を頂いてね」
 その電話がもしたった一言の伝言だとしても、同じように喜んだだろう。そう思わせる表情で満ち足りた幸福に笑みながら、マシューはなめらかな口調で説明をはじめる。君がなんだかちょっと困ってるみたいだったから、と続けられて、アルフレッドは思わずアーサーを睨んでいた。確かに困っていたことは、認めてやらなくもない。菊の保護者を怒らせたから許してもらう為にはどうすればいいか、と言った覚えも、ある。
 しかしそれを、マシューにも伝える必要性が見えなかった。にっこりと笑顔で抗議の視線を受け流し、アーサーは良いからマシューの話聞いてろよ、と言わんばかりに目を細めてみせた。しぶしぶ聞く体勢を整えなおすアルフレッドに気が付いた様子もなく、マシューはとつとつと告げて行く。だからそれで、会いに行きたいなぁ、とは思ってたんだけどね。時間が取れなくて、でもそうしてたら君のトコから連絡が入って。
 アメリカ合衆国政府から、『カナダ』である存在の元へ。電話が来たのだと告げられて、『アメリカ』は眉を寄せながら首を傾げた。政府が自国ではなく、他国の『国』に直に連絡してくるなど、滅多にないことだ。なんなんだい、と不安げに、不満げに問いかけられ、マシューはくすりと笑みをこぼした。大丈夫、悪いことじゃないよ、と前置きをして、マシューはくすくす笑いに肩を震わせる。
「君がね、ここのところ……言ってしまえば終戦からこちら、ずっとピリピリしてるって。なにか悩んでいるようだけれど、私たちでは上手く聞きだすこともできないし、相談に乗ることもできない。ですから本当に申し訳ないのだけれど、僕に君の顔を見て来てくれないかってことだよ、アルフレッド。そう言うことなら、と思ってアーサーさんに電話して、一緒に行ってくださいって頼んだんだ。心配されてるよ、アルフレッド?」
 この時期、この状況で、国民にあまり心煩わせるものじゃないよ、と。穏やかに笑いながら諭すマシューに、アルフレッドはばたりと机に突っ伏した。合衆国政府、なんということを。ちょっとあの人たち俺のこと心配しすぎなんじゃないかいっ、と叫びながら顔をあげたアルフレッドを、アーサーの若干冷たい目が射抜く。仕方ねえだろ、と腕組みをして皮肉げに、アーサーは言い放つ。
「諦めろ、外見年齢十九歳。悔しかったら中身だけでも大人びるんだな」
「いいじゃない。そのおかげで僕は君に会いに来れたんだし、アーサーさんもようやく、こっちに来ることができたんだから。怒らないの。……四か月、ずっと君が心配だったよ。ずっとそればっかり考えてた訳じゃないけど、いつも心に引っかかってたよ。アルフレッド。どうしたの?」
 アーサーの物言いに波立った心が、マシューの言葉ですぅと平坦に癒されていく。伸ばされた手の先が前髪を整えてくれるのをくすぐったく受け入れ、アルフレッドはマシューをじっと見つめた。視線の意味を違えず、マシューははいはいと苦笑して机に手をつき、体をぐっと乗り出すようにした。額にそっと唇が触れ、かすかに笑いながら離れて行く。祝福のキス。言葉を告げる勇気をくれる、いつもの合図。いつもの、優しさ。
 よし、とにこにこ拳を握るアルフレッドを眺め、アーサーはぼそりと呟いた。
「お前ら兄弟がスキンシップ過多なのは、誰の影響なんだ……? ヒゲか? ヒゲなのか?」
「違うよ眉毛だよ、くたばれアーサー!」
「アール! こら、そんなこと言わない」
 びしっと指で額を弾かれ、アルフレッドは唇を尖らせて抗議した。ちょっと痛かったんだぞ、と言うと、痛くしたからね、とマシューが笑いかけてくる。兄弟はそのまま微妙な睨みあいを数秒間だけ続け、全く同じタイミングで笑いに吹き出した。けたけたと邪気なく笑い合う二人を眺め、アーサーは深く溜息をついた。楽園、だと思えば我慢できない気がしなくもない。見習うべきは太陽の沈まない時もあった、トマトの国だ。
 それ以外で見習いたい所など、一切ないのだが。まだ笑いあっている二人をべりっとばかり引きはがし、アーサーはさて、と気を取り直して問いかけた。
「……で? アル、お前なにを悩んでたんだ」
 仕事もこんなに溜めるほど、と告げる言葉は、叱責よりも心配を多く含んでいた。私生活ではだらしない面も多くあるアルフレッドは、仕事においては几帳面である。めんどくさい仕事に文句もつけるが、それでも期日までには着実に仕上げて終わらせるタイプなのである。普段ならば。書類仕事が滞るということは、それだけそちらに気を向けることが出来ない『なにか』があるということだった。四ヶ月も、解決しないなにか。
 合衆国からマシューに向けられた電話は、実際アルフレッドの精神を心配するものでもありながら、ヘルプコールでもあったのだ。お願いします仕事させるか、仕事できるくらいに回復させてあげてください、という。元親と兄弟の視線と感情に居たたまれない気持ちになりながら、アルフレッドは素直に口を開く。ここに来て意地を張る程ねじまがった性格は、持っていなかった。
「菊が……菊に、まだ会えないんだよ。耀は会えてるっていうのにさ!」
 つまる所、それが全ての原因なのだった。四ヶ月前、ふらりと現れた耀は菊と面会出来たことを告げ、それからも度々訪れては顔を合わせて帰っているらしい。アルフレッドは未だに、病室の前にさえ辿りつけないにも関わらず、だ。何度行っても何度挑戦しても、人気のない奇妙な病棟に迷い込まされ彷徨うだけで、今日はもう行かない、と諦めを心に持つまで脱出することも適わない。ねじれた空間に、迷いこまされるのだ。
 ごく簡単な説明を受けて、アーサーはふむ、と頷いた。そういうことなら、アーサーが役に立てそうだ。どんな原理で空間がねじられているかは現場に行かないと分からないが、行けばアルフレッドより多くを、アーサーは視認することができるのである。俺が一緒に行く、と言ったアーサーに、アルフレッドは不安げな表情で頷き、立ちあがった。大丈夫だよ怖くないから、と幼子を歯医者に送り出すように、マシューは笑う。
「それより、僕はお留守番してるけど……アルフレッド、この書類、ちょっと触るよ? 重要なのは見ないで避けとくから」
「いいけど……マシュー?」
「重要度分類だけ、しといてあげる。読むのもサインするのも、帰ってきたら自分でやりなね」
 はい、退いて退いて、と執務用の椅子からアルフレッドを追い出して代わりに座り、マシューはナイショ、と言うように唇に指を押し当てた。いわゆる国家機密に属する書類は封筒に入っているか、出されていても上部に赤いスタンプが押されている。それだけはまとめて避けて、書類整理だけ終わらせといてあげる、と告げたマシューは、元からそのつもりでやってきたのだろう。胸ポケットから眼鏡を取り出し、かけている。
 いってらっしゃいと二人に手を振って、マシューはああ、と言葉を添えた。
「アーサーさん、アルフレッドをよろしくお願いしますね」
「ああ、分かった。マシュー、眼精疲労には気を付けろよ?」
「はい。……アルフレッド、いい? くれぐれもアーサーさんに迷惑かけないようにしてね? 間違っても怪我なんてさせないように。万一、なにかあったら君が本国から持ち込んでるアイス、全部持って帰るからね」
 笑顔で告げられた絶対的な脅しに、アルフレッドは背筋を伸ばして軍隊式に了承の声をあげた。よろしい、とばかりに頷き、マシューは山と積まれた書類の、一枚目に手を伸ばす。デスクワークが似合う姿をしばしに眺め、アルフレッドは早く、と促すアーサーの背を追った。執務室の扉をくぐると、行ってらっしゃい、と再度優しい声が背を押した。うん、と頷いて扉を閉め、アルフレッドは歩き出す。気持ちが軽くなっていた。
 今ならなにもかも、上手く行く。そんな気がした。



 眼前に広がるのどかな木造病棟に、アーサーは視線を巡らせ沈黙した。アルフレッドの言うとおり、階段を上りきって廊下を曲がると同時にまばたき一つ分の違和感に襲われ、ハッと気が付いた瞬間にはもう人の気配が消失していた。よく使いこまれた木の気配に満ち、光が明るく空間を照らし出している。天井は高く解放感があり、窓を叩いて風が過ぎ去って行く。なるほど、とアーサーは頷いた。よく出来ている。
 人の気配は全くなく、それでいて、耳を痛めるような絶対の静寂がある訳でもない。恐ろしい程の暗闇に支配された空間ではなく、光で目を焼かれるようなこともない。のどかな場所だった。ただ空間の始まりと終わりが綺麗に閉じていて、決して目的の場所には辿りつけないだけで、害意ある場所ではないのだった。切り離された世界の繋ぎ目は精巧な技術によって隠されていて、アーサーの目を持ってしても分からない。
 窓からは空が見えるが、空以外のなにかを覗くことは適わなかった。視線を下げても当然あるべき大地や風景に辿りつくことができず、遠くの空だけが映写されている。それでいて手に触れる光は太陽の熱を宿していて、作りものではないようだった。どんな仕組みになっているのか、全く分からない。感心しながら辺りを見回し、触れたり扉を開けて室内を覗きこんだりしているアーサーをアルフレッドは苛々と見つめた。
 未知の現象を前に目を輝かせているアーサーは、アルフレッドの目から見て遊んでいるようにしか見えなかった。アーサー本人は好奇心を満たしつつ注意深く辺りを探って考えているのだが、空間に対して慣れてしまったアルフレッドの目には、特に異変もない所を物珍しがっているようにしか映らないのだった。アーサー、と不満いっぱいに腕組みをして名を呼べば、森の瞳はちらりとアルフレッドに戻り、一瞬だけ留まった。
 しかしそれだけで、アーサーは待っていろとも言わず、周囲の観察へと戻ってしまう。数えて五回目のすげー、がアーサーの口から零れたのを聞いて、アルフレッドは頭の片隅でなにかが引きちぎられる音を聞く。我慢するのは苦手だった。苦手な上に、ものすごく嫌いなことだった。
「ちょっとアーサー! 遊んでないで真面目にやっておくれよっ! 俺は絶対、菊の所に行かなきゃ」
「アルフレッド」
 静かに。弧を描く唇に指先を押し当てる仕草で注意されて、アルフレッドは思わず黙り込んでしまった。有無を言わさぬ強制があった訳ではない。ただその仕草は蠱惑的にアルフレッドの目に映り、たまらなく胸をざわめかせた。照れくさいのを誤魔化す為に頬を膨らませてむくれれば、アーサーは目を細めてかすかに笑う。そういう表情、ちいさい頃と全く一緒。くすりと笑って告げられて、アルフレッドの頬に朱が散った。
 反射的に言い返そうとする目を見つめ、アーサーは良いから待ってろよ、と言い聞かせる響きの声で告げる。
「遊んでないで、ちゃんと探してるトコだから。良い子で待ってろ、アルフレッド」
「……君って本当、俺のこども扱いを止めようとしないよね」
「じゃ、大人扱いしてやる。アル、手に持ってる書類を熟読したらどうだ?」
 渡されたきり、中身は呼んでいないだろう、と。すいと滑らかに動く指先で指し示され、アルフレッドは勝てないことを思い知る。溜息をつきながら手の中に視線を落とし、アルフレッドはよれてしまった書類を直しつつ、目の高さに持ち上げた。どうも気持ちを落ち着かせて待てないのは、この数枚の紙のせいだった。マシューに任せて出て行こうとしたアルフレッドを呼びとめた政府の人間が、出来たてです、と渡したそれ。
 ハンバーガーでもあるまいに、出来たてと言われてもなにも嬉しさを感じなかったアルフレッドが、それでも書類を持って来たのには理由があった。政府の人間は高揚した表情で『国』に書類を手渡し、興奮を抑えきれない様子で告げたのだ。頑張ります、ですからどうぞこれを、この日本の『国』のもとへ持って行ってください、と。お見舞い代わりになりますよ、と告げられた書類に目を落とし、アルフレッドは文章を読んだ。
「……ねえ、アーサー」
「なんだ? 分からない単語があったらアルファベットを読みあげろ。イギリス英語で教えてやるよ」
「君は本当、俺の感傷を打ち砕く天才だよね! 違うよ!」
 書類をばっさばっさ動かしながらの抗議が、無視できないくらいうるさかったのだろう。とても迷惑、と感じていることがありありと分かる表情で振り返ったアーサーに、アルフレッドは息を吸う。他ならぬアーサーだからこそ、問いかけるのには勇気が必要で。けれど他の『国』には、聞こうとも思えないこと。ねえアーサー、と仕切り直すように呼びかけて、アルフレッドは目を細める。胸が痛い程にざわめいて、涙が出そうだった。
「俺は、俺の国の民を……国民を本当に誇りに思うよ。それを菊に言ったら、菊、怒ると思うかい?」
「その草案を手にしたお前が、お前の国民を誇りに思わなければ、俺が今ここでお前を怒る」
 ハッキリとした宣言だった。『国』として、『国』に向き合っていることが伝わってくる、気持ちのこもった言葉だった。ずしりと鉛のような重みを持って心に打ち込まれた言葉を、アルフレッドは胸に手を当てて受け止める。人と同じ鼓動が繰り返され、人と同じ体温が体には宿っている。それでいて『国』は、人の気持ちを心に宿す。国民の、人の、果てしない愛情を『国』は知る。黙りこんだアルフレッドに、アーサーは笑った。
「俺なら、嬉しいと思うよ」
「……本当かい?」
「本当だ。……さあアル。アルフレッド。顔をあげて、いつもみたいに笑ってろ。菊に会いに行くぞ」
 今ので切れ目がなんとなく分かった、と悪どく笑うアーサーの顔を見て、アルフレッドは数秒間の沈黙の後、なにも言わずに視線をそらして溜息をついた。どうして、どうして本当に素直に感謝できる時に限って、そういうことをさせてくれないひとなのか。あと五秒でいいからその表情を待っててくれればよかったのに、と視線を向けるアルフレッドに、アーサーはきょとりと目を開いて首を傾げた。どことなく、幼い仕草だった。
「なんだ?」
「なん、でも、ない! いいから、早く行くんだぞ!」
 君本当に色々間違えてるっ、と騒ぐアルフレッドに理解不能の目を向けて、アーサーはとりあえず目先の作業に集中することにした。アルフレッドの言動が理解できないことは、別に今始まったことではないからである。相互理解への道を大きく踏み外しながら、アーサーは準備運動でもするように手首を動かした。ん、と呟きながら目を細め、アーサーは手の中にブリタニアエンジェルのステッキを呼びこんだ。一瞬の召喚。
 なにをするつもりかと凝視していたアルフレッドが、どん引きの表情で一歩後ずさる。え、着替えるの、と呟きが聞こえて、アーサーは羞恥に頬を染めながら振り返った。
「ばか! 一々着替えねえよ! これはその、あれだ……集中力アップアイテムだ!」
「いいからこっちに杖の先を向けないでおくれよ! 変態が感染したらどうしてくれるんだい、国民に申し訳が立たないじゃないかっ! ……で? それでどうするんだって? ほぁた?」
 じりじり距離を取りながら聞いてくるアルフレッドに、アーサーは大変心外であるという顔をして、それから無言で杖を壁に押し当てた。湖面に石を投げ込んだよりも劇的に、壁がたわんで空間が歪みだす。唇をにっと歪めて、アーサーはアルフレッドに手を伸ばす。入り口は、ここだ。さあおいで、とひらつく手を捕らえて握り締め、アルフレッドはあらゆるものに対して後悔しているような表情で、心の底から溜息をついた。
「無事に連れてっておくれよ? アーサー」
「もちろん。アリスのように迷わせたりはしねえよ……目は閉じてろ」
 ヘタに視認すると意識がやられる、とそっと囁く声に従い、アルフレッドは瞼を下ろした。しっかりと目を閉じたことを確認し、アーサーはアルフレッドの手を引いて壁の中に身を沈める。ぐずぐずとした、悪くなったリンゴにナイフを刺すような不快感が全身を駆け抜ける。思わずつめていた息を吐き出すと、辺りを包んでいた空気が変わった。ただ温かな静寂から、緊張に冷えはらんだものに変化し、アルフレッドは目を開ける。
『あああ、ちょっとー!』
 鼓膜を直接刺激するように暴力的に響く声は、アルフレッドとアーサーの前方から響いた。ごく幼い少女の声を不思議に思ったアルフレッドが顔を向けると、アーサーが素早い動きで前方に割り込む。ちょっと、と抗議の声は、直後に響いた鈍い音にかき消された。アーサーに叩き落とされた手毬を素早く駆け寄って拾い上げ、座敷童子は憎々しい睨みを二人に向ける。アーサーはひらりと手を振って、座敷童子を見返した。
 アルフレッドの顔面を直に狙って投げられた手毬は、当たったからと言って呪詛が込められていた訳でもない。痛いくらいですんだかもしれないが、妖精をはじめとした『人ならぬ者』との親和性が限りなく低いのがアルフレッドである。ねじられた空間から出たばかりの身でそれを受けては、なにか妙な具合に作用するとも限らなかった。過保護に対峙するアーサーの背からひょこりと顔を出し、アルフレッドは首を傾げる。
「ねえ、アーサー?」
「緊急の用事でなければちょっと黙ってろ」
「一流に緊急の用事だから言うことにするよ。ねえ、そのコが菊の保護者?」
 随分幼いように見えるんだけど、とアルフレッドが指差したのは、まぎれもなく座敷童子だった。アーサーは思わず目を瞬かせてへ、と気の抜けた声を出し、座敷童子自身もぱちぱちとまばたきをして首を傾げる。アルフレッドはよく菊の家に遊びに来ていたが、座敷童子の姿を見たことは一度として無かった筈だ。それなのにアルフレッドの指先は幼子の姿を指し、視線はしっかりと座敷童子のまあるい瞳を捕らえていた。
『わ……私が……見えるの?』
「……君、普通は見えないのかい?」
「ええと……普段のお前なら見えないと思うんだけどな?」
 三者三様のどうしようもなくぎこちない沈黙を挟み、侵入者と守護者はそれぞれ動けないでいた。静寂を打ち破ったのは、廊下の端にある病室の内側から出て来た存在だった。なんか物音したけどなにかあったあるか、と言いながら顔を覗かせた耀は、茫然とした面持ちで立つアルフレッドとアーサー、座敷童子を見てああ、と納得した風に頷いた。それからちょいちょい、と手首から先だけを動かし、座敷童子を呼び寄せる。
 無言で駆け寄った座敷童子を病室の中に入れ、耀はよし、とばかり頷いて扉を閉めた。ばんっ、と派手な音が立つ程に力強い仕草だった。閉めんなばかぁっ、と叫びながら駆け寄ったアーサーに、耀の小馬鹿にした声が扉越しに向けられる。
「あいやー。なにやら幻聴が聞こえるあるよ。困ったものある。なあ、童子?」
『……耀、あれ嫌いなの?』
「好きとか嫌いでいうなら、眉毛削げろ。くらいしか思ってねえあるよー」
 のほほんと会話を響かせながら、耀は力いっぱい内側から扉を押さえているのだろう。開けようとするアーサーと力は完全に拮抗していて、扉は細かく震えたままで一ミリも開く気配を見せなかった。アーサーを連れて来たのは、もしかしてものすごく間違いだったのかも知れない。ぎゃあぎゃあと大騒ぎしながら口論を始めた元親の背を眺め、アルフレッドはしみじみとそう思った。
『……え? 耀さん、なにをしてらっしゃる』
『ああ、菊。起きたか。気にしなくて良いあるよ。ちょっと閉めだしてるだけある』
「閉めだしてる自覚はあんのかよこのばかぁっ! 菊、俺だ! アーサーだ! アルも居る!」
 だから耀をどうにかしろっ、と渾身の叫びに、深々とした溜息が響き渡る。耀さん、とかけられる声に『にーにじゃないと受け付けないあるっ』と即座に叫びが返されているので、騒ぎは収まる気配を見せなかった。なんて面倒くさいひとたちなんだ、と思いながらアルフレッドはアーサーの背から腕を回し、扉に触れた。耀、と声はかけておく。怪我人を増やすつもりはなかったが、結果としてそうなるかも知れないからだ。
 指先を扉に触れさせて、力を込める。アルフレッドにしてみればそれだけで、あっけなく扉は吹き飛んだ。バカ力っ、と毒づいたのは耀だ。耀は座敷童子を抱き上げるようにして後方に飛び、外れた扉の被害から逃れる。お願いだから病室を壊さないでください、と菊の呆れの視線が全方面に向けられる中、アルフレッドは悠々と病室に足を進める。寝台以外なにもない部屋で、菊が置きあがってアルフレッドを見ていた。
 視線は、まっすぐに向けられていた。僅かな緊張が空気を澄ませ、アルフレッドの背筋を伸ばさせる。菊はやや好意的な笑みで持って年若い『国』を出迎え、寝台の上でゆっくりとお辞儀をした。
「こんにちは、アルフレッドさん。アーサーさんも、お久しぶりです。耀さんが大変失礼致しました」
「……なにしに来たある。そんなに待てないのか?」
 微笑みを浮かべる菊とは違い、耀の表情は苦々しさを前面に出したものだった。アーサーがなぜこの場に居るのかを深く訝しみ、アルフレッドが病室に訪れたことに不快感を隠しもせず表明している。険悪な空気で押し黙る来訪者二人に、耀は口元に袖を当てて目を細くした。
「全く。菊は今日退院するある。あと数時間がなぜ待てない」
「……えええっ!」
「そうか……書類か」
 現在の状況で、アルフレッドの元にその連絡が入っていない訳がない。政府庁舎で忙しく動き回る者の全てがそれを知っている訳ではないにしろ、『アメリカ』であるアルフレッドの元に連絡が来ない理由がなかった。訝しむ耀と知らないと叫ぶアルフレッドの隣で、アーサーは一人、理解に頷いた。知らせは来ていた筈だ。ただ、アルフレッドがそれを見ていなかっただけで。最重要観覧書類であっても、見なかっただけで。
 自業自得この上ない事態に、アーサーはアルフレッドに目を向けて首を傾げる。さあ、なにか言うことは。穏やかに促す眼差しに、アルフレッドはしおしおとしょんぼりしながら耀と、微笑む菊を見た。菊は、なるほど今日が退院というだけあって元気そうだった。傷も、もう動ける程度には回復したのだろう。肩を揺らして笑いながら草履をはく仕草は流れる水のように洗練されていて、戦争の傷跡をつかの間忘れさせる。
 ごめん、と反射的に口走りそうになった己の意識を叱咤して、アルフレッドは一歩を踏み出した。刺し貫く強さで耀から視線を向けられるのにも負けず、アルフレッドは菊の前に歩み寄る。菊は、ごく穏やかな笑みでもってアルフレッドを出迎えた。なにもかもを受け入れる、殉教者のような感情の見えない笑みだった。かける言葉に迷いながら、アルフレッドは息を吸い込む。淀んだ室内の空気に、血の匂いは無かった。
「菊……もう、いいのかい?」
「はい、おかげさまで。わざわざご足労をおかけして、申し訳ありません、アルフレッドさん。アーサーさんも、お時間のある身ではないでしょうに……もっと知らせがきちんと出来ていればよかったのですが。本当に、もうここを出たらすぐ、貴方に会いに行く予定でした」
 まっすぐ、背を伸ばして。菊は戦前と同じようにして、そこにあった。瞳にある輝きもそのままに、強くしなやかな日本刀のような印象を辺りに与えながら佇んでいる。強く打てば折れてしまいそうな、それでいて触れるだけでも切れてしまいそうな、あいまいで不思議な印象だった。アルフレッドの知る、菊がそこに立っていた。長の戦乱、終結の強大な衝撃にも耐えきったしなやかな精神。折れも、歪みも、していない。
 アルフレッドは言葉を返す代わりに幼く頷き、ぎゅぅ、と手に持ったままの書類を握り締める。気がついて視線を向けてくる菊に、アルフレッドはくしゃくしゃになってしまったそれを差し出した。拝見します、と差し出された手の上でぎこちなく指を開けば、紙はぱさりと音を立てて移動する。口があるのだからしゃべるよろし、と呆れた目を向けてくる耀をまあまあと穏やかにいなしながら、菊は渡された紙のしわを伸ばした。
「これは……?」
「俺は、君にどうしてもそれを見せたかったんだ。数時間を待てないとしたら、理由はそれだよ」
「……憲法」
 紙を持つ菊の手は震えていた。血の気を失った、青年の手だった。アルフレッドよりずいぶん華奢な作りの手の甲を、顔を見る勇気が無く青年は見つめる。菊のお見舞いに行こうとするアルフレッドを引きとめた政府庁舎の人間は、興奮したようすで早口に語った。憲法をつくるのです、と。この国に、新しく。どこの国にも無いような、全く新しい憲法をつくるのです。世界中の国にある法律、憲法、風習、希望をかき集めて。
「俺の国のチームが、この国の新しい憲法をつくるよ、菊。今日、それが決まった。今頃……皆、走り回って資料をかき集めて、必死になって読んで、どうするか議論を戦わせている頃だと思う」
「アルフレッドさん……でも、これは」
「俺の国が、この国を支配してしまうようなものは作らないよ!」
 俺の国民は決してそんなことはしない、と誇らしげに。国民を愛し、人間を愛しながら、その残虐性を誰より目の当たりにもしながら。誇って、愛して、アルフレッドは胸を張って言い放った。ごめんなさい、と言いたい気持ちも、涙も全部我慢して。
「ねえ菊、読んでよ! 俺の国のチームが作り上げようとしてるのは、人間から人間への、今を生きる人が未来に存在する人類へ送る、壮大なラブレターさ! 人という存在が持つ理想、人という存在が願う希望の形を、彼らはきっと言葉にしてくれる。人が……殺し合うことも、憎しみ合うことも、裏切りを重ねることもあるけど、それだけじゃなくて、人は確かに! 人を、国籍も国境も人種も性別も関係なく、愛せるんだよ!」
「……『日本国である方へ』」
 くしゃくしゃになった紙の、一枚目に読みやすい字で記された言葉を、菊はそっと読みあげた。夜道に落ちていた小石を広い、月に掲げて眺めるような気持ちで。言葉を拾い上げて、唇に乗せて行く。
「『ふたたび、戦争の惨禍が起こることのないように。深く、深く願いをこめて』」
「……平和を祈らぬ国民が、一人も無くなる訳がないだろうに。なぜ、戦争なんて起きるのだか」
「利己的な生き物だからな、人間は。争い、奪い合うのも本能だ」
 憂いに満ちた表情で耀が吐息と共に囁き、アーサーが皮肉げに言葉を繋ぐ。アルフレッドは重たい空気を吹き飛ばすように、顔をあげて満面の笑みを浮かべた。
「その通り! でも、誰かを愛するのも人間の本能さ! 命を次へ繋いで行くのもね!」
「この方々がいくら努力しようとも、我が民は相当添削するでしょうねぇ……」
 人類の理想を掲げればかかげるほど、大日本帝国として抱いて来た憲法とはずれが生じ、この島国に生きる者たちの意識に沿うのは難しくなるだろう。良くも悪くも、閉ざされた独自の文化を持って日本人は生きて来た。世界中の理想は、この国には広すぎる。そっと苦笑して首を傾げた『国』の言葉に、アルフレッドもまた頷いた。君に似て頑固な国民ばかりだ、と言われて誇らしげに、日本はうっとりと微笑みを浮かべる。
「まあ、仕方がありません。それは彼らに任せましょう。元より我らは手出しできぬ身ですからね」
「いいのかい?」
「良いも悪いも、私たちにはどうしようもないでしょう。……それにね、アルフレッドさん」
 本当に、良いのですよ、とくすりくすりと穏やかに笑んで。菊は、人から『国』に託されたラブレターを、大切そうに胸に抱く。
「この事実は、消えません。人が、人に対してそういう気持ちを抱いて推し進めたこと、努力したこと、そうしようとしたことは……いくら書面を添削しようと、消せるものではないのです。大丈夫。想いは必ず、次代に届きますよ」
「……そうかなあ」
「そうです。『国』である私たちが信じなくてどうします? ……ありがとうございます、アルフレッドさん。この想いを確かに、届けてくださったこと。心から感謝申し上げます」
 まあ、それで私の体に風穴開けたことを許してあげるかと言えば、全くそんなことないのですけれどね。にっこりと輝く笑みで告げられて、アルフレッドは口元を引くつかせた。全く島国ときたら、揃いもそろってアルフレッドに優しい想いを抱かせ続けてはくれないのである。君ら本当にどうしようもないよねっ、と涙ぐんで叫ぶアルフレッドに、ひとくくりにされた島国たちは顔を見合わせて首を傾げ。耀は、のんびりとあくびをした。



 慌ただしく駆け回る人の気配がなぜだか懐かしく、菊は肩を震わせて笑っていた。呆れ顔でぽかりと頭を叩き、耀は落ち着け、と菊に言い聞かせる。退院後、一度家に寄って着替えた菊は、着物ではなく軍服を身にまとっていた。戦争は終わったが、さりとて全てが終わっている訳でもない。病後だとよりいっそう気合が入りますよね、と笑いながら己の纏う衣装を見下ろす菊に、耀は複雑そうな顔で頷いてやった。
 二人の前には、扉があった。アルフレッドの執務室へ続いて行く扉で、それを開けることは菊に取って新しい第一歩となる。先程会ったにも関わらず、その先にある顔はどれも新鮮な気持ちで見ることになるだろう。緊張しますね、と首元に手をやって息をする菊に、耀はかすかに、もう一度だけ頷いて。す、と一歩だけ足を引いて距離を取る。菊は覚悟を決めた表情で、その動きを受け入れた。この場所が、二人の最後だ。
 菊の傷は癒え、これからはまた『国』として動きまわる忙しい時間が始まる。そうなった以上は耀も中国へと戻り、『国』として動くことが義務付けられていた。二人の国は争った。中国が勝ち、日本は負けた。これから公の場で会う時、二人は国を背負った『国』として、時には激しく言葉を叩き付けなければならないだろう。耀は無言で菊に手を差し出し、菊はしっかりと耀の手を取った。かたく、かたく握手を交わす。
「……頑張れ、菊。我は、お前を見てるあるよ」
「はい。……ありがとうございました、耀さん」
「無理はし過ぎぬように。寝食を忘れるなどもってのほかあるよ。……ああ、そう。笑っておいで」
 幼子を送り出すかのような言葉に、菊は思わず微笑んでいた。それを見た耀が本当に嬉しそうに囁くので、菊は言葉につまってしまう。あ、と言葉がもれた。胸がかぁっと熱くなり、我慢もできずに涙がこぼれて行く。くす、と苦笑しながら耀は菊を抱き寄せ、背中をとんとん、と指先で撫で叩いた。泣くんじゃないあるよ。囁かれる声は震えて掠れていて、菊は耀さんこそ、と呟いて胸に顔をうずめ、肺の奥まで息を吸い込んだ。
「……ねえ、耀さん。お願いがあります」
「なんだ?」
「終わったら……色々終わって、落ち着いて、時間が取れるようになったら。一緒にお月見でも如何でしょうか。貴方と共に飲む酒は、とても美味しい気がするのです」
 流れて行く時の中で。消えてしまう、時間の中で。ほんのひと時、寄り添って。同じものを見て、同じものを口にして。そうして、二人で笑い合おう。どうですか、と首を傾げて問いかける菊の額にそっと口付け、耀は良いよ、と言ってやる。
「お前と見る月は、さぞ美しいことだろうよ……ではな、菊。その時まで」
「はい。その時まで、耀さん。どうぞ……どうぞお元気で」
 重ねられていた体が離され、耀は菊に背を向けて歩き出した。ゆっくり、ゆっくり歩み去って行く背は、一度たりとも振り返らない。廊下の角を曲がって行く時に一度だけ腕が持ち上げられ、ひらりと手が振られる。それが、最後だった。揺れる布さえ消えてしまって、菊はすぅ、と息を吸い込む。一人きりで、扉に向き合う。腕を持ち上げて、ノックした。いいよ、と声が響く。失礼します、と言いながら扉を開けて、足を踏み出し。
 菊は、その部屋の中へと入って行った。

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