暖炉に燃える炎のように、鮮烈に赤い花だった。靴に踏まれたがらないように軒下に咲く花は、大粒の雨だれに打たれて揺れている。しゃがみ込んでそっと手を差し伸べてやれば、つかのま雨を避けられて、花はすこしばかり嬉しそうに背を伸ばした。見る間に手の甲を濡らして行く生温い雨を感じながら、ギルベルトは息を吐き出した。吐息は白く染まり、瞬く間に雨の間に消えて行く。手袋を置いて来たのは失敗だった。
傘を持つ指先はすでに赤くかじかんでいて、寒いと冷たいを通り越して痛いくらいだった。じんじんと鼓動に合わせて刻まれるむずがゆい痛みは、家に帰るまで取れることがないだろう。紙袋いっぱいに詰めた食料を抱えなおし、ギルベルトは花から手を引いてすっと立ち上がった。とたんに傘に跳ねる雨音が強くなった気がして、ギルベルトは天を仰ぎ見る。どんよりとした灰色の雲は、今日もぶ厚く重く、動きが鈍い。
これでは明日も晴れぬだろうと思うだけで、憂鬱な溜息が洩れて行く。その悩みがなんともいえず人間のようで、ギルベルトはくっと喉を鳴らして笑いながら雨の道を進んだ。靴に泥が跳ねてしまうが、気にせず大股で足を進める。雨のせいだけではなくしんと静まり返った道に、人影はまばらだ。街全体が重い病気にかかってしまったような、なまぬるい倦怠感が漂っている。明日が晴れでも、きっとこの空気は変わらない。
戦争中の、喪中かさもなくば葬式の最中のような空気と比べれば、息があるだけマシなのかも知れなかったが、ギルベルトはどうも喜ぶことが出来なかった。街の元気がないということは、『国』が元気である筈もないのだ。どうするか。どうしていくのが、一番良いのか。ここ最近ずっと頭を悩ませていることについて考えながら、ギルベルトは市場から家への道を辿って行く。考え込んでいても、足取りは正確で迷い無い。
というかなぜ、百回も二百回も往復した道であの男は迷えるのだろう。つまり道を覚えるということに対しては天性の馬鹿なんだな、という結論に達し、ギルベルトは胸をすっとさせて唇をつりあげた。ぱしゃん、と水たまりを踏んで歩く。通りの向こうで手を振って来たこどもに笑顔で手を振り返し、ギルベルトはバイルシュミットと書かれたプレートに手で触れる。水はけの良い石畳を庭を横目に進めば、玄関はすぐそこだった。
傘を畳んで水気を切り、傘立てに置いてから玄関を開ける。ただいま戻ってやったぜーっ、と威勢よく響かせようとした声は、第一声さえ響かせずに潰えてしまった。ただいまの『た』を言うべく大きく息を吸い込んだギルベルトの顔面を狙って、ふかふかのバスタオルが投げつけられたからだ。両手に荷物を抱えていたからこそ、避けることが出来ず。まともに正面からタオルを受けたギルベルトに、静かな声がかけられた。
「おかえりなさい、ギルベルト。荷物をお貸しなさい。運んで差し上げましょう」
「おま、え……なんか他に言うことあるんじゃねえの?」
「……反射神経が鈍りましたか?」
以前の貴方ならば首だけでも動かしてどうにか避けたでしょうに。そうしなければ避けられないことを計算の上、タオルを顔狙いで投げたことに対する反省など微塵も感じさせず、ローデリヒは涼しげな表情で言い放った。良いから髪を拭いて顔を拭いて靴を拭ってからおあがりなさい、と小言めいた言葉を響かせ、ローデリヒはギルベルトから紙袋を奪い取る。じゃがいもなど、根茎類を中心とした野菜が詰まった袋だった。
ギルベルトの予想に違わず重たげに眉を寄せて沈黙するローデリヒは、それでも足元に置いたりする気配を見せなかった。よろけながらもしっかりと袋を持ち、傘をさして出かけたにも関わらず、ずぶ濡れになって帰って来たギルベルトを見つめている。髪を拭き、顔を拭き、服も表面だけぱたぱたと叩いて水気を拭い、靴に付いた泥はねまで吹き取って、ギルベルトはまだ外されぬ視線に不満げに眉を寄せてみせた。
「なんだよ。言っとくが、反射神経の問題じゃねえぞ? 寒かったんだよ、外。指だってかじかんで痛いし、大体戦場でもないんだから、そんな体動く訳ねえだろ。……気を抜くくらい、いいだろうが。もう戦争は終わったんだ」
「……平和になりましたね」
すくなくとも戦争、そして戦争、また戦争を繰り返し領土を奪い合う時代と比べれば、その後の日常生活における精神の在り方というものは、恐ろしいほど穏やかになったのだった。私たちが争っていた頃なら、貴方は確実にタオルを避けていました、というローデリヒに、ギルベルトは無言で頷いた。確かにそうだった。良いことなのか悪いことなのかギルベルトには分からないが、ローデリヒも答えを持っている訳ではない。
こんな会話はただの惰性のようなもので、意味など一つもないのだった。ただいまと、おかえりなさいを素直に言い交わす気恥かしさを誤魔化す、それだけのもの。濡れて汚れたタオルと引き換えに再び紙袋を我が物とし、ギルベルトは視線をそらしながらただいま、と呟いた。おかえりなさい、と最初に響いた声より幾分柔らかな音で言いかえし、ローデリヒは先に立って歩きはじめる。ぱたぱた、スリッパの音が響いた。
家の中はしんと静まり返っていたが、外より随分温かかった。家全体が温められているのもそうだったが、何より人の気配とぬくもりがあったからだ。あったか、と目を細めて呟き、ギルベルトは居間に向かう。ローデリヒは洗濯籠にタオルをぽいと投げ込んで、暖炉の前に置かれた揺り椅子に腰かけた所だった。キッチンに向かいながらそれを見ようともせず視界に収め、ギルベルトはある意味当然の問いかけを唇に乗せた。
「ルートヴィヒは何処に居んだ? ……つーかお前はなにしてんだよ。楽譜書き? 新作か?」
「いえ、ただの写生ですよ。暖炉の火の動きと音を、楽譜に直しているだけですから」
そこにどんな喜びと発展があり、なおかつ、なぜそんなことをしようかと思ったのか説明させるべきかさせないべきか三秒悩み、ギルベルトは買って来た食料を貯蔵庫に正しくしまうことを優先させた。ギルベルトに音楽家の考えることが分かった試しがなかったし、説明されても理解できるのは五回に一回程度だったから、つまり時間の無駄なのである。ようするに、とジャガイモをごろごろ箱に移しながら、ギルベルトは思う。
精神的に暇なのだろう。一般的に考えて、奇行に走るくらいは。古いじゃがいもの中から芽が出かかっているのを選別して避けながら、ギルベルトはハッと気が付いた。ルートヴィヒの居場所を、教えてもらっていない。上手く誤魔化されてしまったが、それだけに、何処にどういう状態で居るかは明白だった。体調が悪すぎて、起きて居られなかったのだろう。ギルベルトを待って居られない程、寝かさなければならない程に。
戦争状態が終わって、『ドイツ』であるルートヴィヒの体調はがくんと悪くなった。なんとか持ちこたえていた崖の端から、背中を蹴り落とされたよりなお酷く崩れてしまったのである。敗戦国としてはよくあるパターンであり、『国』として存在している以上は仕方が無いことだった。ギルベルトも、何度も経験があることだ。だからこそ過剰な心配はしていないが、それでもふと心に暗い影がさす。不安だ、とギルベルトは思った。
なにか、得体の知れないなにかが忍び寄って来ている気がしてならなかった。それは人の言葉にすれば『時代の流れ』や、『歴史の変化』になるのかも知れない。なににせよ、ろくでもないこと。歓迎できそうにないことが、これから起きる。溜息をつくと幸せが逃げて行くんですよ、と笑いながら告げた極東の島国の言葉を不意に思い出し、ギルベルトは唇に指先を押し当ててそれを堪え、食料の収納を終えて立ち上がる。
湯を沸かす以外でそう使われないキッチンは、今日も整えられていて美しかった。たまには腕でも振るうべきか、と今日の献立を考えながら思い、ギルベルトはキッチンを出た。先程と全く同じ姿勢で居るローデリヒは、ちらりと視線をよこすばかりで立ちあがろうとしない。文学青年的な男の足元には、降り積もる淡雪のように楽譜の束が置かれている。新しいものも、古いものも混然一体として積み重ねられていた。
薪のはぜる音が穏やかに響く。炎、灰の匂い、木の焼けて行く香りと音。温められた空気はゆるく渦を巻き、部屋の中を巡っている。外は雨だからこそ音が閉ざされていて、部屋は奇妙なまでに穏やかだった。傍らにある、とするには抵抗のある距離を取って座り込み、ギルベルトは体を斜めにしてローデリヒの顔や、手元を覗きこもうと試みた。しかし意地悪な音楽家は楽譜をさっと胸元に寄せ、唇をつり上げ喉を震わせる。
「なんですか、ギルベルト。楽譜など見てもつまらない、と言うのは貴方の役目でしょうに。暇ならば、買って来た食材で夕食でもお作りなさい。あるいは軽食でも。貴方の作ったものならば、ルートヴィヒも口に運ぶでしょう」
「はぁ? アイツまた、なんも食ってないのかよ」
「食べましたよ。貴方も見ていたでしょう。……吐いただけです」
いつものことだった。朝食を共に食べただけで、昼食はローデリヒに任せて外に出ていたのでそう尋ねたのだが、返ってきたのは上手くごまかした言葉だけだった。昼食はほんの僅かか、さもなくば食べなかったに違いない。甘やかすな、と睨むギルベルトに、ローデリヒは眼差しを燃える炎に向けたままで告げる。私は、貴方のようには出来ませんから。か細い旋律のように告げられた真実は、二人の胸を同じように打つ。
近代化が進む世界に合わせ、薪ストーブを撤廃しようと言いだしたのはルートヴィヒで、反対したのがギルベルトとローデリヒだった。確かに手入れは大変だし、薪も高いし維持していくのは大変だ。けれど炎の揺れる美しい様を眺め、薪が焼けて行く音と香りを楽しむ贅沢は、なににも代えがたい価値を持っているのだと。二人は暗闇と炎の恐ろしさを知り、その恵みも知っている『国』だった。安らぐ贅沢を知る者だった。
ギルベルトは天井に視線を持ち上げて二階を眺め、ローデリヒもまた同じようにする。熱せられた空気はこの部屋と、あとは廊下をかすかに温めるだけで、二階の寝室までは届かない。こんなに温かな恵みを、二人ばかりが受け止めるのは申し訳なかった。清潔なシーツと眠るのに適した静かな環境は確かにルートヴィヒに必要なものではあったが、そこには木の香りも火の温かさもなく、なにより二人の存在がない。
しばし考え、ギルベルトは仕方ないよな、と頷きながら立ち上がった。もちろんですとも、と呟きの意味を違わず受け止め、ローデリヒは頷いた。不可抗力というものです、と笑うローデリヒに、真面目な表情でギルベルトは同意する。『国』の体調不良は、主に国内の状態が不安定なことに起因する。ひとのように風邪を引いて体調を崩すことが無いわけではないが、それはごくごく稀なことであり、今回は違うのだった。
だからこそ寝室で寝かしておくのではなく居間に連れてくる、ということについて無言のうちに通じ合った二人は、それぞれに役目を果たすべく動きかける。ギルベルトはルートヴィヒを連れてくる為に。ローデリヒは、家主を寝かせるソファを居心地良く整える為に。しかし二人の努力は、動かぬ前に終わりを告げさせられた。ギルベルトが肩をぐるりと回したのと同じタイミングで、前触れもなく居間の扉が開いたからである。
「兄さん……? ああ、やはり。おかえり、兄さん。ローデリヒ、兄さんが帰ったなら、俺に声をかけてくれても良いのではないか」
「申し訳ありません、ルートヴィヒ。眠っているかと思ったもので」
どこか幼い口調で告げられた咎めに、ローデリヒはさらりと言い返した。もちろん、起きてはいたと知っている上での言葉だ。鉄壁の笑みに阻まれて、ルートヴィヒはそれ以上の言葉を諦めたのだろう。パジャマにカーディガンをはおっただけの姿で居間に入ってくると、妙に機嫌が悪そうなギルベルトの前に立つ。兄さん、どうかしたのか、と不機嫌の理由を尋ねてくる弟に溜息をついて、ギルベルトは額に手を伸ばした。
寝乱れた前髪をそっと整えて、ぺたりと手のひらを額にくっつける。痛いほど冷えていた指先はもう温まっていたが、それでもルートヴィヒは冷えていて心地良い、とばかり息を吐き出して目を細めた。指先から伝わる熱の温度は高く、ルートヴィヒの頬は化粧でもしているかのように赤かった。朝見た姿より、予想していたより、ずっと体調は悪くなっている。昼過ぎから、急激に悪化したのだろう。ローデリヒも眉を寄せていた。
あるいは人気のない寝室が、ルートヴィヒの心を弱らせてしまったのかも知れない。寝ていろと言えば起こしに行くまでベッドで横になっている男が、自ら降りてくることは極めて稀だったからだ。てのひらをくっつけたまま、ギルベルトは弟にただいまを告げる。うっすらを目を開いて姿を確認し、ルートヴィヒは安堵したように頷いた。幼い頃そうしたように、手のひらに肌をこすりつける。おかえり、と告げた声はかすれていた。
「雨が、降っていたから……貴方は、傘をさすのが上手ではないし、濡れて帰ってくるだろうと思うと心配でならなかった」
「凍えはしねぇよ、安心しろ。大丈夫だ。……それより今は、自分の心配しろよ。暖炉の前、行くか? それともなんか飲むか? 甘くしたココアか、はちみつ入れたカフェオレか……お前が飲めそうなもんなら、なんでもいいけどな。言ってみろよ、可愛いルート。お前の為ならどんなものでも、どんなことでもしてやろう……我らがドイツ、俺の王」
うっとりとして、言葉は囁かれた。弟に対する愛情と、王に捧げる献身がどろどろに混ざり合い、甘やかしたくて言うことを聞きたくて仕方ないのだ、とそういう声だった。練乳を飲みこんだ表情で沈黙するローデリヒとは違い、告げられたルートヴィヒは慣れた風にくすくすと笑い、ギルベルトの肩に額を押し付けて囁く。
「では、あなたが俺の為にいれたいと思う飲み物を」
「よし! じゃあココアな!」
ぽんぽん、とルートヴィヒの背を叩き、ギルベルトはごく嬉しそうに笑みを深くした。暖炉の前で待っておいで、と言い聞かせられた言葉に頷いて体を離すと、ギルベルトはうきうきと跳ねるような足取りでキッチンへと消えて行く。見送ってから暖炉に視線を向けると、揺り椅子をずらして熱がちょうど良く当たるように調節していたローデリヒが、ことさら恭しい仕草でルートヴィヒを手招いた。苦笑しながら、ルートヴィヒは行く。
揺り椅子には、ふわふわの毛並みが心地よさそうなひざかけが背もたれに、腰を下ろす箇所にはクッションがいくつも置かれていた。ひな鳥の巣のようだった。恥ずかしく思いながらも腰を下ろすと、どこに持っていたのかローデリヒがラベンダー色のタオルケットを取り出し、ルートヴィヒの肩をくるむようにかけてくる。タオルケットからは、春の花園の匂いがした。温かい。目を細めていると、ずいとマグカップが差し出される。
「ほら、ココア。あまーくしておいてやったからな! お坊ちゃんは飲みたかったら勝手に持ってこい。まだ手鍋に入ってる」
マグを両手で受け取りながらダンケ、というルートヴィヒに頷きつつ、ギルベルトはローデリヒにはキッチンを指差した。そっけない態度だが、それでも一人分だけを作らなかったことは進歩なのである。重々承知の上で、ローデリヒは嘆かわしげに息を吐き出した。
「そういう時は気を利かせて初めから持ってくるものですよ、このお馬鹿」
「俺の気遣いはルートに捧げる分で品切れだ。再入荷の予定は今の所ない」
「昔からのことですから、当然知ってましたよ? 言ってみただけです」
保護者二人が頭上でくだらない会話を響かせるのを聞きながら、ルートヴィヒはココアをすすった。言われた通り、確かに甘い。ミルクとココアのコクが混ざり合って口いっぱいに広がり、喉を温めて胃に落ちて行く。荒れた臓腑を、じわりと熱で癒してくれるような味だった。おいしい、とぽそぽそ呟くと、ギルベルトの手が髪を乱していく。くしゃくしゃとかきまわすように撫でて手を離し、ギルベルトはやんわり目を和ませた。
飲めるか、と尋ねる。ルートヴィヒは素直な動きでこくりと頷いた。ゆっくりマグが傾けられ、そのたびに満ちた吐息がもれて行く。それがどれ程見守る者の心を穏やかにさせるか、恐らくルートヴィヒには分かるまい。内心の焦燥を、ギルベルトは決して表に出さない。心身共に弱ってしまっている弟に、これ以上の心配を与える訳にはいかないからだった。良くも悪くも長い付き合いで、ローデリヒには知られていても。
乱れた髪を嫌そうに整えるルートヴィヒにケセっと笑い、ギルベルトは首を傾げた。
「あと他に、なにか欲しいものは?」
「……ローデリヒのトルテ」
ぼそ、と呟かれたそれは、本人も意図せぬ反射であったに違いない。は、と呆けて呟いたギルベルトと軽く目を見開くローデリヒの視線の先、なんとかマグを取り落とさなかったルートヴィヒの顔が、みるみるうちに赤くなって行く。ただでさえ熱が出ているというのに、そこで照れたら体というか、もはや脳に悪いのではないか、と思うほどの勢いだった。思わず口元に手を押し当て、ギルベルトはぶふっ、と笑いに吹き出した。
お下品ですよギルベルト、と突っ込みを入れながら、ローデリヒも視線を明後日に反らして肩を震わせている。ルートヴィヒは己の口が信じられないようにぱくぱくと何度も動かし、羞恥のあまり震える体を持て余していた。もしも元気であったなら、脱兎のごとく逃げ出していただろう。ようやく言語機能が回復してきたのか、すぅ、と息を吸い込んだルートヴィヒが違う、と言いだしそうなのを見てギルベルトは口を開く。
もちろん、可愛い弟の可愛いワガママを叶えてやる為だった。
「よーしローデリヒ! 我らが王は菓子職人を御所望だ!」
「材料は当然、揃っているのでしょうね? ああ、まかせなさいルートヴィヒ。菓子職人は必ずや、王の為に腕をふるうでしょう」
二人の間で、妙なスイッチが入ったらしい。それぞれハイテンションで手を打ちあわせるのを涙目で睨み、ルートヴィヒは貴方たちは、と声を響かせる。知ってはいたが、貴方たちは時々すこぶる性格が悪い、と。言われてしまった二人は視線を交わして首を傾げ、違いますよ、違うよなぁ、と意思を共通のものにする。彼らは元気のない主君にすこしでも喜んでもらいたい、と願う、ごく良心的な臣下である筈なのだった。
すくなくとも、二人は心底そう思っていた。あ、それではさっそく始めることにしますね、とキッチンへ向かうローデリヒに手を振って、ギルベルトはおかしそうに笑う。多分キッチンは爆発するだろうし、色々壊れるだろうし、汚れるだろう。綺麗に整えられた状態に戻すまで、四日はかかるに違いない。けれどもたまには、そんな状態も悪くないのだった。真っ赤になって打ち震えるルートヴィヒを覗きこみ、ギルベルトは問いかける。
「あとお望みは? 我が君」
芝居がかった口調はこの上なく楽しげに、ルートヴィヒの神経を逆なでした。間近から王者の瞳に睨みつけられ、ギルベルトはけたけたと笑いながら両手を肩に付けて降参を表す。さっそくキッチンから爆発音が響く。器用に粉塵爆発を起こしたらしい。キッチンとその周辺の惨状を思い浮かべながら、ギルベルトは頭を抱える王に申し上げた。我が王、菓子職人は存分に腕をふるっているようです。どうぞ期待してお待ちを。
直後に告げられた命令はたった一言。黙れ。忠実な臣下はにやにやと笑いながら命令を受け入れ、おしゃべりな唇を閉じてやった。
相手をしてくれとしつこく迫ったら正確に眼球狙いの目潰しを食らわされかけたので諦め、ギルベルトはふかふかのソファに身を沈めて香り高い紅茶を口にしていた。精緻な薔薇が描かれたティーカップは値段を想像するのも恐ろしく、華奢な作りであるから取り扱いも慎重になった。そっとソーサーに戻して一息つくと、その動きが見えた訳でも見ていた訳でもあるまいに、忍び笑いが響いてくる。サインを書く音は途切れない。
いっそ呆れて視線を向けると、アーサーはやはり書面から視線すら上げていなかった。机に肘をついて若干行儀悪くしながらも、ちゃかちゃかとサインを書きこんではチェック済みの山を高くしている。あまりの早さにちゃんと読んでいるのかと疑いたくもなるが、一枚あたり五秒から十秒で処理して行くそれが、アーサーに取っての普通らしかった。死ぬ気でやれば二秒か三秒で行ける、と言ったアーサーの目は本気だった。
実際にそれくらいの速度で仕事をこなしたこともあるそうなので、どうもギルベルトとは頭の作りが同じとも思えない。文字を読む速度に関して、アーサーの右に出る『国』は存在しないのが事実なのだが。呆れ半分関心半分の気持ちで暇つぶしに作業を見つめていると、やはりアーサーは視線もあげずに微笑んだ。
「見てて楽しいか? ギルベルト」
「つまらなくはねえよ。……つーか、本当によくそれで仕事出来るよな。あやすくらいなら俺でも出来るぜ?」
それで、とギルベルトが現したのは、アーサーの膝上に置かれた存在のことだった。ギルベルトからは死角になっていて見えないが、『国』が発する独特の波長とも言うべき感覚がそこに居ると伝えてくるので間違いはない。一枚を仕上げて山に乗せながらようやく手を止め、アーサーは別に、と呟いた。重くないし、暴れないし、泣かないし、良い子にしてるから平気。言ってまたすぐに、アーサーは仕事を再開させてしまう。
相手の言葉を待たない無礼は、暗にその存在を傍から離したくないのだ、と告げていて。ソファにふんぞり返って、ギルベルトはぷすっと笑った。触らせたくないなら、素直にそう言えば良いものを。ティーカップを幾分粗雑な仕草で持ち上げ、ギルベルトはそれを目の高さにまであげる。新しい命、新しい存在に乾杯。無言でそう告げて紅茶を飲み干すギルベルトに、アーサーは何とも言えず複雑そうな表情になった。
ついにペンを投げ出して手を止め、アーサーは己の膝に視線を落とす。やわやわとした御包みにつつまれた、『国』の赤子がそこに居た。その『国』を誰が見たとて、アーサーに連なる者だと断言しただろう。まだ言葉も話せぬ幼い姿のその『国』は、ふとく立派な眉毛を持っていたからだ。ふくふくとしたまるい頬の可愛らしい赤子は、アーサーと全く同じ色合いの金髪に、光指す浅瀬のようなシーグリーンの瞳を持っていた。
赤子は、アーサーと目が合うと無垢な表情できゃぁ、と笑った。ぐらりと眩暈さえ感じながらアーサーは思う。この笑顔を前にして可愛いとか思わない存在は、いっそこの世界から消滅でもすれば良い。ああもう、無理。絶対無理。なにが無理なのか理論的に説明できない感情で思いながら、アーサーは御包みごと赤子を抱き寄せ、ぺたりと頬をくっつけた。きゃっきゃと笑う赤子を潰さないよう、アーサーは慎重に抱きしめる。
今にも『俺がパパなんだからな!』と言いだしそうなアーサーを面白がる視線で眺め、ギルベルトはつーかさー、と首を傾げて問いかけた。
「それ、どこの『国』だよ。つーか『国』?」
「あー……厳密に言えば違うっつか、香港と似たようなもんだな」
偶発的に産まれた、その土地、あるいは都市に芽生えた『国』と同じ意識のいきもの。もしくは、いずれそうなる存在。ああ、と納得した呟きと同時に頷いて、ギルベルトはソファから立ち上がった。部屋の奥、全面が硝子張りになっている見晴らしの良い窓の前に置かれた執務机まで歩み寄って、回り込むのではなく前から身を乗り出して赤子を覗きこむ。ギルベルトを見たのは、まだこの世のなにもかもを知らぬ無垢な瞳。
美しさも、醜さも、残酷さも、愛おしさも。なにも知らぬ、それは本当に、産まれたばかりの。知らぬ間に息を吐き出し、ギルベルトは赤子に向かって手を伸ばした。一瞬遠ざけようかと考えたアーサーは、ギルベルトの表情を見て思いなおす。敬遠な祈りによって育まれた、かつての『修道会』がそこに居た。無骨な軍人の、それでいて繊細に動く指が赤子のふくふくとした頬に触れ、すぅと額や瞼をなぞり、輪郭を辿っていく。
「……名前あんの?」
「いいや、まだ。……つか、多分あそこなんだろうなっていう場所の見当がついてるだけで、まだ『どこ』だって判明した訳じゃねぇし。俺の家のベッドに落ちてたのをメイドが見つけて、連絡して来たんだよ。『旦那様、お子様が産まれておりましたよ』って」
「お前んとこのメイド、マジ最高」
ぶっふはっ、と盛大に吹き出してケタケタ笑いながら、ギルベルトはそれに似合わぬ優しさで指先を引いた。それはそのままギルベルトの唇に持って行かれ、かすめるだけの口付けが、赤子に触れていたぬくもりに送られる。祝福を。産まれた命に、輝きを。響く言葉にはならなかった唇の動きを受け取り、アーサーはありがとな、と囁いた。ギルベルトはなんでもないという風に気取らず笑い、肩をすくめて口を開く。
「で? こっちで仕事してるお前んトコに届けられたって訳か。なんて言って渡されたんだ?」
「……俺の上司が手ずから俺に渡した訳なんだが」
つーかお前そんなことやってる暇ねえだろ国というかいっそ俺の為というかむしろ陛下の為に働いてこいよ、という愚痴を一息の元に滑らかに言い放ち、アーサーは紳士らしく口元に笑みを浮かべた。口元、だけに浮かべられた笑みに、ギルベルトは思わず一歩を退く。目が全く笑っていなかったからだ。好奇心は猫を殺す。分かっていながら怖々と続きを促したギルベルトに、アーサーはふふふ、と穏やかに肩を震わせる。
「産んだの? 産ませたの? って尋ねられた」
「お前それアレだろ。殴ったろ」
「そんな野蛮な真似を、俺がするわけないだろう?」
俺は紳士だからな、と。自分でも一ミリたりともそう思っていないであろうことを口にして、アーサーは赤子を慣れた手つきであやしてやる。胡散臭そうに見つめながら、ギルベルトは尋ね方を変えた。
「で。紳士的になにしたんだ?」
「紅茶を飲むと必ず舌を火傷する呪いかけといた。武力は行使しない。俺は紳士だからな」
「呪いかける紳士はねえよ。存在としてねえよ」
つかお前怒ると本当ろくなことしないよな、と白い目で見てくるギルベルトに、アーサーはきらりと輝かんばかりの笑みで首を傾げてみせた。なにを言っているのか、俺には全く理解ができないのだが、という仕草だ。嘘をつけ嘘を、と思いながらこみあげてくる笑いに吹き出して、ギルベルトは足取りも軽くソファに戻る。ぼっすん、と音を立てて座りこむとそれを合図に、アーサーは逆につかの間の休憩を終わりにしたらしい。
ふたたび紙がめくられ、ペンが走って行く音が室内に響いて行った。
「つーか」
「あ?」
「お前なにしに来たんだよ、ギルベルト」
自宅警備員はお終いにしたのか、とからかう言葉に、元からそんなんやってねぇし、とギルベルトは笑う。ようやく問われたと思うべきか、ようやく疑問に思われた、と思うべきなのか。『国』としての責務を果たし続けるアーサーに取って、旧知の不意の訪問は放置しておくものであり、意識に引っかかるものではなかったのだった。それを問いかけた、ということは、なにかしら『国』の意識にピンと来るものがあったのだろう。
冷めた紅茶をすすりながら、ギルベルトは別に、ととりあえず嘯いた。
「紅茶飲みに来ただけだぜ」
「嘘つけ珈琲党。……言っとくが、ルートヴィヒの体調不良はベルリンの分割占領が終わらない限りはどうもなんねぇぞ? 同じ『国』として心臓部である首都を四分割されてる現状には深く同情するし、その負荷は考えたくもないが……知っての通り、『国』にはどうもできない範囲だ」
「……知ってるぜ」
分かってる、と言わなかったのはささやかな抵抗だった。知っている、けれど、分かりたくない。受け入れたくない。なんの力にもなれず、誰もどうすることもできない状況を受け入れるのは、ルートヴィヒの不調を諦めることだった。できれば負担を減らしてやりたい。苦しめる全てから、守ってやりたかった。ギルベルトは己こそが打ちひしがれて疲れているように、ぐったりとソファに身を預けている。アーサーの視線が向いた。
「なあ、ギルベルト・バイルシュミット。……いや、『プロイセン』」
「あー?」
「前から思っていたことを聞く。お前、なんで消えないんだ?」
どういった条件下で『国』が生まれるかを、知る『国』は存在しない。彼らは気がつけばそこにあり、そして現在に至るまで一部の名を変えながら在り続けているからだ。だからこそ『国』が消える条件を、誰も明確には知らなかった。唯一それを知るのが『プロイセン』であり、そして唯一消える瞬間を見知っているのもその『国』だった。神聖ローマ帝国。その名を冠して存在していた『国』は、時の流れに消えて行った。
看取ったのは『プロイセン』だという。民を失い、国を失い、己を構成するなにもかもを失い、人がその解体を言い渡した瞬間、『神聖ローマ』は歴史から消え去った。その、長い長い道筋に足跡を刻むことが叶わなくなった。今は人の歴史の中に、『国』の記憶の中にだけ存在している。『国』は消える。それは確かな事実だった。国家の解体を契機として消えていなくなる筈なのに、『プロイセン』は未だ、この世に在った。
戦争が終わり、すでに三年。その間にすでに形骸化していた国家としてのプロイセンは完全に解体され、人の手によって歴史に幕を下ろされていた。神聖ローマの例を見るならば、『プロイセン』はそこで消えている筈なのである。それなのに血色もよくピンピンしているギルベルトを、アーサーはなんだかよくわからない謎のものを見る気持ちで見つめた。彼は確かに『国』である。意識としての名は『プロイセン』だ。
しかしすでにその名を持つ国はなく、民もなければ土地もない。全くの空位。空っぽの玉座なのだった。そもそもこの大陸に『ドイツ』という国家が樹立した時点で、彼を知る者たちはその存在の継続を危ぶんでいたのである。『プロイセン』は王国としての後継を育て、そして見事に王として継承させてみせたのだ。親は子を育て上げ、そして兄として弟を導いた。ギルベルトの役目は、もう一度は終わっているのである。
国家が解体されてなお存在が留まる理由は誰も知らず、ギルベルト自身も分かっていないようだった。なんでって言われも、と問いかけにどこかうんざりとした表情で溜息をつき、ギルベルトは呟きを落とす。
「俺が知りたい」
「俺も知りたい」
「お前より俺のがもっと知りたい。……消える気がしないんだよな。兄上の時は、兄上もご自分でもうすぐだって分かってらっしゃるようだった。俺は、そういう感覚しねえし……消える気がしない。でも俺には、自分で、その理由が分からない」
視線を合わせないまま会話だけでじゃれあって、ギルベルトはその言葉を宝物のように口にした。兄上、と呼ぶことさえ久しぶりだった。神聖ローマ。兄のように慕い、そしてそれを受け入れ、許してくれたひと。消えるって、すまないって言ってた、と。初めて聞く言葉に、アーサーは努めて感情を表さない声でそうか、とだけ呟いた。
「……まだ、必要なのかもな。お前。歴史に」
「なんだよ、それ」
「そう思っただけだよ。深い意味はない。……で? 本当にお前、なにしに来たんだよ」
俺の秘書をしたいとかそういうことなら受け入れてやる、と偉そうに頷くアーサーに笑顔を向けて、ギルベルトはきっぱりと言い切った。だが断る。それを断る。さらに断る。お互いにノリと対抗意識だけで展開していく断り合戦を終わらせたのは、二人以外の第三者だった。ものすごく適当なノックの音が響き、室内の声を待つことなく扉が開かれる。ひら、と赤い衣が舞った。
「チョリース。アーサー、追加の書類をお持ちしました。……なんで喧嘩してるんですか」
東洋を想わせる紅の衣をまとい、手に書類束を持って入ってきたのは『香港』だった。『香港』は執務机の奥の椅子と、ソファという絶妙な距離を保ったまま口論していた二人にそれ以上気を留める様子もなく、ばさりと音を立てて書類束を机に追加した。
「喧嘩じゃねぇよ良く見ろ香(カオル)! あとこれ以上の追加はいらない。髭の執務室にでもばらまいとけ!」
「それを後で拾いに行くの俺じゃないですか。ノーです、ノー。あ、いらっしゃいませ……ぎ……ギルットルさん」
「誰だよ! 誰のことだよ! 俺はギルベルト! ギルベルト・バイルシュミットっ!」
どうも思い出せなかった様子の『香港』ことカオル・カークランドは、それぞれから理由の違う猛烈な抗議を受けても反省した様子が無く、ひらひらと袖を振りながら言う。
「や、ギルベルトさんの聞き間違いですって。俺はちゃんとギルベルトって言いました。ですよね、アーサー」
「話しかけんな。俺は今、お前の教育をどこで間違えたか真剣に考えてるトコだ」
「間違えてないことに間違いを見出そうとするのは時間の無駄っすよ。タイム・イズ・マネーって、昔の偉いひとが言ってたじゃないですか。ってゆーかお客様が居るなら俺を呼べっていうんですよアーサー。お茶菓子大丈夫でしたか? 黒炭食べ……やっべ間違えた。じゃなくて。ちがくて。スコーン出されたりしなかったですか?」
本人を目の前に聞こえる距離で言い放ち、わざわざ訂正する所がすごい、とギルベルトは思った。説明するより見てもらった方が早いので、ギルベルトは無言でソファの前に置かれたテーブルを指差す。ひょい、と体を斜めにしてそちらを見やり、香は一言、懸命っすね、と呟く。テーブルに出ていたのはティーコージーのかけられたポットにティーカップとソーサー、砂糖つぼにミルクつぼだけで、菓子の類は無いのである。