心底安心した動きでこくこく頷き、香は胸を撫で下ろした。
「よかった。あ、ももまん蒸したっすけど、食います? 桃饅頭」
「いや、いらねえ。アーサーに食わすヤツだろ? 数があれば貰うけど」
香はじぃっとギルベルトを見つめた後、ふるふると首を横に振った。じゃあすみません、ナシで、と呟き、香はぐったりと机に突っ伏しているアーサーを、ごく不思議そうな瞳で眺めやった。このひとなんで倒れてんだろ、と思いながら見られているのに気がついたのか、すぐに顔をあげたアーサーは顔を赤くして香を睨む。
「俺はお前に、書類取ってこいと言った覚えはある。でも、ももまん作れとは言わなかったよな?」
「や、書類も取って来たじゃないすか。つーか仕事が忙しいのは、俺も手伝ってるんで分かりますけど、アーサーちゃんとご飯食べないし。ももまんなら片手で持って食えるし、アーサー好きじゃないですか? 今持ってくるんで、あったかいうちに食べてください」
お客さまの分はないので申し訳ないですけど、というのにもう帰るからと苦笑して、ギルベルトはてくてくマイペースな歩みで出て行く香を見送り、アーサーを振り返った。ギルベルトが来てからも殆ど手を止めなかったワーカーホリックは、ペンを取り落として机にぱたりと倒れている。耳まで真っ赤な様子を見やり、ギルベルトはぷすりと吹き出した。どこも、思うことは一緒だ。食べなければ心配で、すこしでも、と思う。
戻ってくる前に帰る方が気まずくないだろうと判断して、ギルベルトはソファから立ち上がった。
「じゃあな、アーサー。俺帰るから」
「あー……。ギル、あんまり気に病むなよ? お前は……上手く言えねえし、感覚的なことだから根拠もないけど。お前には、お前にしか出来ないことがある。お前が居るだけでルートヴィヒには救いになってる面もあるだろうし、早く帰ってやれ」
「分かってる。ありがとな、アーサー。メシ食えよ!」
いくら『国』が食べなくても生きられるからと言っても、体は人間なのである。弱るは弱るし、倒れもするのだ。食べなくても大丈夫というのは、人なら狂う程の飢餓を覚えても正気のまま生きることができる、という意味での究極状態でしかないのである。了解、とばかり苦笑されたのを見て、ギルベルトは身を翻して歩き出した。建物から出ると、冷たい風が過ぎ去って行く。街並みに目を向ければ、今日も人通りは少ない。
ベルリン。かつてはギルベルトのものでもあったドイツの首都は、未だしんと静まり返って活気がなかった。イギリス、フランス、アメリカ、ロシア。四カ国に分割占領されている現状が、住まうひとの心に不安を投げかけているのは明らかだ。ひとが不安であれば、活気はうまれるべくもない。そして『心臓部』がその状態ならばなお、『ドイツ』が生気を取り戻すことは夢のまた夢でしかなく。ギルベルトは、深く息を吐き出した。
己になにが出来るというのか。『国』としての基盤を失い、ただ存在だけが残ってしまっている抜けがらのような状態で。王であり弟である存在の為に、なにをしてやればいいのか。とりあえず、果物でも買って帰ろう。市場の方面に適当に足を進めて行くと、視界の端、遠くにブランデンブルグ門が見えた。かつてベルリンは、プロイセン王国の首都であった。門はその歴史を物語るように、現在まで同じ場所に残っている。
変わらないものが、ある。『国』としての名を歴史の中に失いながら、ギルベルトの身が存在しているように。その国の名を変えながらも、ブランデンブルグ門はそこに在った。堅牢なるその姿をじっと見つめ、ギルベルトはゆっくりと息を吸い込み、そして吐き出した。ベルリンが分割占領されていることが、ルートヴィヒの不調の主なる原因であることは、もう分かっていた。ならば、もし負担を肩代わりすることができれば。
かつてこの地は『プロイセン』だった。そしてギルベルトの『国』としての意識が、己は未だ『それ』であると告げていた。人が歴史に幕を引こうと、その名が今に繋がらなかろうと。その事実とその絆が、『プロイセン』を留めている。ベルリン。その名をギルベルトは口にし、舌に慣れた響きであることに笑みを深める。幾分か弾んだ足取りで歩きだし、ギルベルトは市場に向かうことなく帰路を辿って行く。もし、もしも可能ならば。
ルートヴィヒはそれを嫌がるだろう。『ドイツ』としても、拒否感のあることかも知れない。けれどそれがこの『国』の負担を減らすことになるのなら、ギルベルトは喜んで身を捧げよう。彼は王に仕える騎士であり、そして弟を持つ兄なのだ。ギルベルトは上機嫌に微笑みながら、灰色の雲の下を行く。風は冷たく吹き荒び、枯れた葉を一枚、何処へとも知らぬ地へ運んだ。
何百年も雨風に晒され、ボロボロに朽ち果てた旗だった。旗は白と黒の極めて単純な色だけが使われており、勇猛に描かれた黒鷲の部分にのみ金や赤、青など目を引く色彩が散りばめられていた。色を付けられた頃はかくも鮮やかであっただろう色は、しかしすっかり抜け落ちて掠れ、目に優しい風合いになってしまっていた。黒衣を纏った幼い姿の少年は、その旗を両腕で広げるようにすくいあげ、視線を落とす。
強い風に吹かれるだけでも一部がちぎれて飛んで行ってしまいそうな程、旗は無残に荒れ果てていた。少年は視線だけで旗を撫でるように慈しみ、口元に穏やかな笑みを浮かべる。よく、頑張ったな。目を伏せて囁く言葉に、返る声は一つもない。
「愛しい、俺の弟。……お前は本当に、よく頑張ってくれた」
俺は心から、お前という存在を誇りに思うよ。返る言葉が無いということは、相手に伝わっていないということだ。それを承知の上でかまわず、少年は朽ちた旗に向かって語りかける。旗とは国家を象徴するものであり、そして『国』の象徴でもあり、誇りだった。そのものの魂が宿る、鏡のようなものでもあった。旗とはすなわち『国』に宿る心のようなものであり、対外的な存在を示すものだった。だからこそ、少年は語りかける。
国家が消滅してなお、旗だけで姿を現さない『プロイセン』に向かって。
「お前の魂は、もうここに来てしまっている。それなのに……全く、仕方が無いヤツだ」
奇跡と呼ぶなら、そうなるのだろう。彼の魂はあくまで『プロイセン』でありながら、それを失ってなお現世に留まっているのだから。呼びかけ、呼び寄せることを少年はしない。留まりたいと願い、それを叶える『なにか』がそこにあるのなら、それで良いと思うからだ。己の身には叶わなかった奇跡だが、不思議に悔しいとも思わない。辛いばかりの道だろうに、と溜息が洩れて行くばかりで、少年は旗をそぅっと抱きしめる。
旗が、ぼろりと崩れて行く。砂で作られた城が風にさらわれて舞い上がるように、ざぁっと音を立てて光の粒子に分解される。形すら失った旗に、少年はなお手を差し伸べた。おいで。命令に等しい響きの声で、少年は朽ちた黒鷲を呼びつける。お前の主、お前の魂、お前の守護者、お前を誇りとして戦場に掲げたあの存在は、まだ諦めずに戦っている。だから、お前もおいで。光の粒子は喜ぶように、ゆら、と揺れた。
ステンドグラスから咲き零れてくる輝きのように、光は美しく明滅しながら少年の腕の中で漂った。少年はそれを柔らかく抱きしめるように腕を動かし、やがて手のひらを上向きに差し出した。おいで。もう一度少年は囁き、『彼』そのものであった光はその呼びかけに応えた。ぶわっと、熱風が吹き荒れるような感覚が過ぎ去り、手のひらに『存在』が生まれ落ちる。光の粒子が収束して出来たそれは、ひな鳥の形をしていた。
もこもこの産毛が黒いのは、国旗に描かれた黒鷲のせいだろう。これはこれで可愛らしいのだが、と少年は首を傾げ、ひなを手に乗せたまま花園にしゃがみ込む。視線が色彩を求めて彷徨い、やがて黄色い花を一輪積み上げた。少年はその花をそっとひなの上に置き、祈りを捧げるように目を閉じる。一秒か、二秒。そろそろと瞼を開けると黄色の花は消えていて、少年を見上げるひな鳥は、たんぽぽの花色になっていた。
よし、と少年は満足げに頷く。文句なしに可愛い。ころん、とひなを転がして遊び、少年はうっとりと目を細めて呟いた。
「これで……フェリシアーノにも可愛がってもらえるぞ、お前」
あれはきっと、黒よりも黄色やピンクといった、可愛らしい色合いが好きな筈だから。花園を構成する色彩や低い空、動かぬ雲は全てがパステルカラーで構成されているのだから、あながち少年の予想は間違っても居ないだろう。ころんころんと転がされながら、ひなはぴ、と呆れたように声を響かせた。少年はみるみるうちに顔を赤く染め、違うぞっ、と意気込んでひなに反論する。
「た、確かにその、黒の方がギルベルトには好みだったかも知れないが、俺は決してフェリシアーノを優先してなど……! 俺はただその、兄として、そう兄として! ギルベルトもたまにはだな、か、可愛らしい色のものを傍に置いても良いのではないかと、そういう兄心でだな!」
ひなはころころ転がりながら、大変疑わしそうにぴよ、と鳴いた。少年は熟れたトマトのように顔を赤くしながら深呼吸をして、誰も居ない花園で地団太を踏む。ひなは羽根をぱた付かせながらぴよぴよと鳴いて、少年の手のひらを突っついた。かすかな痛みに、ハッと正気に戻ったのだろう。少年はぜいぜいと肩を揺らしながら息を整え、こほん、と咳払いを響かせて視線を花園の終わりへ向けた。そこには森が広がっている。
その森の向こうへ少年は行けなかったが、ひなは超えて行けるだろう。飛べるのかこれ、と不安げな少年の視線に、ひなはぴよりと鳴き声を響かせ、自信満々にぶふーっと体をまあるく膨らませた。くす、と笑いながら少年は森に向かって手のひらを差し出し、ひなに方角を指し示す。飛べるにしても飛べないにしても、森を超えて行けるのはひなだけだ。お行き、と呟くとひなはふよふよと浮き上がり、のたくた宙を進んで行く。
たんぽぽの綿毛の方が、風に乗る分進みが早そうな動きだった。ものすごく心配になりながらも立ち止まって見送り、少年は森の彼方に目を細めた。ひなは弱々しく、けれど確実に森の方へと飛んで行く。まあ、大丈夫だろう。姿形は多少アレでも、元は『プロイセン』の黒鷲だ。一度や二度や三度、四度くらいは落下するかも知れないが、そのたび諦めず飛び上がり、主の元へと戻ることだろう。行っておあげ、と少年は呟く。
「プロイセン。お前の新しい道行きに……兄からの祝いだ」
黒鷲と共に、歴史の道をもう一度歩いていけ。お前ならばできるよ、と祈りを込めて囁き、神聖ローマは微笑した。たんぽぽ色のひなは、もう見える範囲にはおらず、森の向こうへ飛んで行ったようだった。
その時、『ドイツ』の大地がざわめいた。歓喜であったか拒絶であったか、本人にすら理解させないままに。二つあった鼓動は一つに、ぬくもりは同じものを分け合い、重たい衣をいくつかはぎ取って自由にして。心に圧し掛かっていた罪悪感すら消し去って、『ドイツ』の呼吸を楽にする。全身を侵していた毒のような熱からふと解放され、ルートヴィヒはなにが起きたのか分からないまま目を覚ました。息が、とても楽だった。
それまで鉛を飲みこんでしまっていたかのように重たく動いていた肺が、まるで軽やかに空気を吸い込む。瞬きすらうっとおしくなっていた、全身のだるさが消えていた。骨の奥底から湧き上がってくるような痺れる痛みも、殆ど感じないくらいに消え去っていた。なにが、起きたのだろう。薄暗い寝室では今が朝なのか夜なのかも分からず、どれくらい眠っていたのかも分からなかった。喉の痛みと渇きも、不思議に癒えている。
夢でも見ているとしか思えない不思議さで唇を開けば、心地よく冷えた空気が全身に染み込んで行く。呼吸とは、こんなに自然に行えるものだったか。責め苦から解放されたばかりのぼんやりとした意識でそう思い、ルートヴィヒは己の体を見下ろした。手のひらに、力を込める。まるで力の入らなかった指先は、確かな感触を持って握り締めることが出来た。ぞっとするほどの解放感。それでいて、なにかが遠かった。
それまで当たり前のように持っていた『なにか』が、知らぬ間にルートヴィヒの中から消えている。その存在をあえて意識したことなどなかったから、ルートヴィヒはすぐに知ることが出来なかった。ベッドの上に上半身を起こした姿で考え、考え、ルートヴィヒは息を飲みこむ。それは国土の感覚だった。己のもう一つの体とも言うべき国土の感覚が、半分消失している。存在しているのは分かっても、己のものとは思えなかった。
かつてないことだった。他国に占領されていると言っても、それは『己の国土』である。感覚があるからこそ体調を崩し苦しみ、動けない程の熱とだるさを感じるものだ。それなのに、ルートヴィヒは体の自由と引き換えに、己の命ともいえる『国土』の感覚を喪失していた。ぞっとして、ルートヴィヒは掛け布団を跳ね上げてベッドから出ようとする。なにが起きたのかは分からない。ただ、寝ている訳にはいかなかった。
大股で扉に歩み寄り、勢いよく開く。そのまま無我夢中で何処へと飛び出して行こうとする体を、差し出された腕が抱きとめた。ぐん、と強い力で体を引っ張られ、抱き寄せられる。背から半ば倒れこむようにしてぶつかり、ルートヴィヒは顔だけを後ろに振り向かせた。顔など見なくとも正体は知れていたが、今は無性に視線を合わせたくて仕方が無い。兄さん、と呼びかける。ギルベルトはケセ、と喉を震わせて笑った。
「よう、朝早いな。ルート。……体調はどうだ?」
「それが大変なんだ。だるくもないし、熱もないし、体が軽くて息が楽だ!」
「おーおー。それは良かった。無事に成功したってトコだな……ヴェスト」
西側。なにより親しい相手に対するように呼びかけられ、ルートヴィヒは反射的な眩暈を感じる。その呼び名はなんだ、どういうことだ、と聞きたいのに。不思議に思う気持ちと同じくらい強く、それは己のことだと意識が叫ぶ。西側。ドイツの西。『ヴェスト』。それこそ、今の己の名であると。『国』として生まれた意識、『国』として持つ感覚が痛いほど研ぎ澄まされてそれを告げていた。己は『ヴェスト』、西側。そしてもう一人。
目の前に立つ人が『オスト』、東側。信じられなかった。なにもかも信じられない気持ちでふらりと立ち直し、ルートヴィヒは目を見開いて廊下に立つ兄を見る。フードつきのパーカーにジーンズだけという至ってラフないつも通りの格好で、ギルベルトは朝の鮮烈な光の中に立っていた。銀色の髪が艶めいて、陽光に溶け滲むように輝いている。逆光の為に細められるルートヴィヒの目を、愛おしく見つめてくる瞳は夕陽色の赤。
花のように、それでいて血のように。鮮やかな赤だった。いつからか暗闇に閉じてしまっていた生気のない瞳に、今は恐ろしい程の輝きが満ちている。この世の果てまで照らし出す、それは登り始めた太陽にすら似て。泣きだしそうな気持ちになりながら、ルートヴィヒはくしゃりと顔を歪めて呟いた。兄さん。おう、と気安く応える声に腹立たしげな気持ちにすらなりつつ、ルートヴィヒは息を吸い込む。呼吸が楽にできる。
その事実に、もう心から喜べない。
「なにを……なにをしたんだ。なにを、したんだっ!」
「返してもらったんだよ、お前にやった俺の国。かつてプロイセン王国だった辺りをな。本当はベルリン丸ごと俺のにしたかったんだが、分割占領のせいなのかそこだけ上手く行かなくてな。ロシアの占領区域は俺になったけど、アメリカとイギリスとフランスの部分はお前みたいだな。……ベルリン部分だけ俺・イン・お前になってるけど、まあ気にすんな。そのうち慣れるし、俺に抱きしめられてるとでも思っとけば間違いない!」
ということでドイツ国内におけるロシア領は俺様のものーっ、と胸を張って大威張りするギルベルトに、ルートヴィヒは精神的な眩暈を感じて壁にもたれかかる。なぜだかこれと同じような台詞を、遠い遠い昔に聞いたことがある気がした。プルッツェンラントは俺のものー、だとか。シュレジェンは俺のものー、だとか。そのたびにギルベルトは誰かに殴られたり怒られたりしていた気が、うっすらとしてルートヴィヒは眉を寄せた。
なんとなく、それは己の記憶ではない気がしたのだ。誰か、なにか、別のものが混ざって溶け込んでしまっているような。ほんのかすかな、違和感だった。眉を寄せて黙りこんでしまったルートヴィヒに、ギルベルトは目を瞬かせて首を傾げた。それからそーっと顔を下から覗き込むようにし、ギルベルトはあのさ、と口を開く。
「もしかしてお前、怒ってる?」
「このっ、お馬鹿さんがー!」
ルートヴィヒがなにかを告げるより早く、横合いから放たれた叫びと一撃が、ギルベルトの体を吹き飛ばした。ごんっ、と聞くだけで痛いような殴打音が響き渡る。ルートヴィヒは数秒沈黙したのち、視線を倒れる兄とは反対側に向けた。立っていたのはローデリヒだった。音楽家は珍しく朝から大声をあげたので疲れているのか、ぜいぜいと肩を大きく上下させながらぐったりとしゃがみ込んでいる。貧血のようだった。
その両手にしっかりと握られたフライパンさえなければ、もうすこし真剣に心配もできるのだが。内臓を吐き出せるくらい深々と溜息をつき、ルートヴィヒはローデリヒに歩み寄る。ひょいと顔を覗き込んで、まずは朝の挨拶をした。
「……Guten Morgen(おはよう)ローデリヒ。その……フライパンは、どうしたんだ」
「Grus Gott(おはようございます)ルートヴィヒ。これですか? いざという時は私の代わりにお願いしますね、と言ってエリザベータが置いて行ったものですよ。有効活用できてなによりです」
一部がへこんで歪んでいるようにも見えるフライパンは、確かにエリザベータの所有物だった。持ち手に可愛らしい花模様が描かれている所だけが、女性めいていていっそ怖い。置いて行ったのか、とフライパンを見つめながら呟くルートヴィヒに、ローデリヒはすっかりくたびれた様子で頷く。自分は自分で新調したものを持ってロシアの家まで行っているようですが、と囁き、ローデリヒはようやく、殴り倒した男の方を向く。
痛みとあまりに予期していなかった衝撃のせいなのか、ギルベルトはまだ廊下に倒れ込んでいた。撲殺死体一歩手前の体をしげしげと眺めながら、ローデリヒは呆れた声を響かせる。
「やっぱり、体が鈍っているのではないですか? いつもなら貴方、二秒くらいで立ちあがって来ますのに」
「エリザのフライパンはあれで計算されて叩きこまれてるからなんだよ! ちくしょうテメ、ローデリヒ! 痛かった! マジ痛かった! 首がちぎれるかと思った絶対内出血して痣になんだろこれドアホーっ!」
「……人類なら死んでもおかしくはないが」
やはり『国』の回復能力というものは、恐ろしいものがあるな。やや現実逃避をしながら呟くルートヴィヒに、ローデリヒは頷いて同意した。全くよく死なないものだ、とすこし感心する。その上で首を押さえながら立ち上がったギルベルトに向かって、ローデリヒはさっとフライパンを構えなおした。音楽家の柔和な笑みと眼差しにそぐわない臨戦態勢に、なにか感じるものがあったのだろう。ぎく、とギルベルトの体が強張った。
「な、なんだよ……。どうかしたのかよ、お坊ちゃん?」
「どうしたもこうしたもありませんよ、このスットコお馬鹿! 馬鹿だ馬鹿だとは思っていましたし、事実そうであるとも知っていましたけれど! ここまでだとは思いませんでしたよっ……貴方は、貴方の『国』はもうないと言うのに、なにを背負ったのですか!」
引き裂かれた痛みの、悲鳴のような声だった。鮮血が滲む様すら見えそうな声にルートヴィヒは息を飲み、ギルベルトは不愉快げに眉を寄せた。そうした声を向けられることにギルベルトは慣れていて、だからこそすこし、こそばゆい気持ちも同時に抱く。それはいつも、怒りを乗せて叩きつけられるものだった。領土を奪い合い民を傷つけて争う『敵』に対して、許しはしないという裂帛の気合と共に投げつけられるものだった。
それなのに今、ローデリヒの薄藤色の瞳にはギルベルトへの心配だけが浮かんでいる。薄藤、あるいは菫色の、美しい紫の瞳。見れば薄く、涙の幕さえ張っているようだった。泣くなよ、とげっそりした声で言うギルベルトに、ローデリヒはぽこぽこと怒りながら言い放つ。
「泣くものですか! これはあんまり怒り過ぎて出た涙です!」
「ああ、そうかよ。……つーか話、聞いてたんだろ? 俺は先程、この『ドイツ』の東側と成った。元々は俺の土地だ。すこし返してもらっただけだから、東が俺で西がコイツだが、『ドイツ』という『国』は一人。たった一人、ルートヴィヒだけだ。これからも、この後も。フェリちゃんとロヴィちゃんとは違う。一国を二人で背負うのではなく、あくまでそれを負うのは『ドイツ』。俺は『プロイセン』で、そしてドイツの『東側』に過ぎない」
「……一地域、ということですか?」
この『国』を置き去りにして進められる会話を、ルートヴィヒは硝子を一枚隔てて眺めているような気持ちで耳にする。あまりに想像もしていなかった事態に、起きぬけの頭がついて行かない。情報を整理しきれていないが故に呆けてしまっているルートヴィヒを、ギルベルトはちらりと眺めたがなにも言いはしなかった。分かっていないなら今のうちに、全て畳みかけて終わらせてしまおうとしているのかも知れなかった。
ローデリヒの疑問に、ギルベルトは腕組みをして言った。無駄に偉そうな仕草だった。
「一地域っつーのは、まあ言い方の問題でもあるが違うな。正確に言えば肯定しつつ否定する、くらいの感じだけど。一部正しい、けど、大体違う。俺はあくまで『プロイセン』。その名である『国』だ。『ドイツ』の中に新たに生まれた『地域の具現としての存在』ではなく、あくまでドイツの『東側』を背負った『プロイセン』なんだよ。結果的に東側になったってだけだけど、な。……国土の所有権を主張して、認められただけだ」
「かつて……『プロイセン』であり、そして『ドイツ』となった土地の所有者は、彼ではなく己だと?」
「そういうこと。分かってんじゃん。で、結果として俺は俺の『国土』を、あくまで『ドイツ』として取り戻し、『東側』になった。でも俺の意識は『プロイセン』で、プロイセンという『国』だ。『ドイツ』じゃない。まあ、そうなるよな。昨日までドイツだった土地が、今日からいきなりプロイセンになりましたーってのは不可能だし、大体人間の決めごとの外で行われたことだから、『国』ではない存在に対しては何ら意味のない行いだ」
己の正しさを演説でもするように、決められた原稿を読み上げるように朗々と、ギルベルトは言葉を告げて行く。奇妙にねじれて矛盾した存在が、いかにして成立したのかを。万の聴衆を前にして語るかのように腕を広げて説明を終え、ギルベルトはついに一言も発さなかったルートヴィヒへと向き直る。にこ、と笑いかけられ、ルートヴィヒは反射的に身を固くした。微笑んでいるからといって、怒っていない相手ではないからだ。
血色の瞳に炎を燃やし、ギルベルトはにぃ、と唇をつり上げる。
「まあ、そういう訳だ。最近のお前、ほーんと体調悪そうだったし、このまま背負わせとくと潰れそうだったからな。……残念だが返してもらう。お前には西側で十分だ。そうだな? ヴェスト」
「っだ……大丈夫だ! 俺一人でも大丈夫、だから……だから返してくれ、兄さん!」
「やーだね。お前一人に任せておくには不安すぎんだよ。この国はお前には広すぎたか? 俺はお前を十分育てたつもりだった。けどな、最近のお前を見てるとどうもそう思えなくなって来たんだよ。……我が王、ドイツ。ルートヴィヒ。お前の手に、この国は、大きすぎる宝だった」
平気な、顔で。残酷な言葉を、言い切れと。ギルベルトは己に強く命じ、全くその通りに実行してみせた。ルートヴィヒの顔にゆっくりと絶望が広がって行き、瞳が見捨てられた幼子のそれになる。とっさに訂正を求めて声をあげかけるローデリヒを睨みつけることで制して、ギルベルトは己の王に嘲笑を向けた。愛するからこそ、大切に思うからこそ。護りたいと願うからこそ、今だけは傷つける。這い上がると、信じているから。
優しい言葉をかけて抱きしめてやりたくなる己を必死で律し、ギルベルトは息を吸い込む。
「お前一人に、この国を任せるのを終わりにした。……それだけだ」
「兄さん!」
「悔しいか」
掴みかからんばかりの絶叫を微風だとばかり受け流し、ギルベルトは涼しげな態度で問いかけた。当たり前だ、とルートヴィヒは『国』として告げる。領土を身勝手に奪われたような、激烈な怒りが胸の中で渦を巻いていた。兄として立つその人に対する戸惑いや悲しみがある半面、『国』としてのあまりに身勝手な振る舞いを、どうしても許容することができない。それなのにすでに、国土の感覚が奪われてしまっていた。
じわじわと奪われるなら、ルートヴィヒは何としても抵抗しただろう。全力を持って抗い、止めさせたことだろう。しかし全ては完了し、終わってしまっていた。悔しい、と憎しみさえ感じさせる声でルートヴィヒは告げる。その激しい感情と執着を、ギルベルトはまるで望んでいたかのようだった。ふわ、と花が綻ぶような柔らかな笑みが浮かべられる。それでこそ我が王、我が弟だと誇るように笑い、ギルベルトは頷いた。
「なら、俺が返して良いと思うようにしろよ。ヴェスト」
「……返して、くれる、のか?」
「今すぐじゃねえぞ? 俺がお前に、この国ぜーんぶ託して大丈夫だってもう一度思えるくらいになったら、お前に東側を返してやるよ。でもな、それまでは俺のだ。大丈夫、お前は出来るコだ、ルートヴィヒ。可愛いルート、俺の王。俺の弟。俺の半身。俺の片割れ。お前なら出来るさ」
だから俺様が安心して任せられると思えるように、まずはちゃあんと元気になろうな、と。囁かれてごく愛しげに頭を撫でられ、ルートヴィヒは唐突にその答えに辿りついた。ギルベルトが、具体的にどういった方法を用いて国土の支配権を移動させたのかは分からない。それがなぜ可能だったのかも、なぜ成功してしまったのかも。考えるべき大切なことは山のようにある筈だが、直感と愛情がそれらを全て吹き飛ばした。
確かにルートヴィヒはギルベルトに愛されていて、そのことだけはなにが起きても変わらない筈なのである。兄さん、と低くなった声に、ん、と首を傾げる仕草すら全く普段通りのもので。やっぱりかっ、と絶叫したくなる気分を堪え、ルートヴィヒはギルベルトの肩を両手で掴む。
「貴方は……貴方は俺のことが好きすぎる! 馬鹿じゃないのか!」
「ちょ、テメお兄様に向かって馬鹿とはなんだ馬鹿とは! あと話聞いてなかったのかよ! いーかルート、俺はお前に呆れてんの! どうしようもねぇなコイツって思ったから東側ぶん取って俺様のものー! にしたんだよっ。どこをどうしたら好きとかいう結論になるんだっ!」
「決まっている! 貴方が俺のことを好きだからだっ!」
いっそ見事だ、とローデリヒが思うくらいに会話がループした。人の話を聞けえええっ、と叫ぶギルベルトの言葉を全て無視して、ルートヴィヒは確かな想いを胸に言い放つ。貴方は、と。
「俺が……俺一人が戦争の責任を負い、苦しむのを見て居られなかった。そうだろう」
「……ドイツは負けた。『国』が民の傷跡を抱き、苦しむのは仕方が無いことだ」
「ああ、そうだ。俺はそう思っているし、受け入れている。けれど……それでも貴方は俺の苦しみを見ていられなかった。救いたいと思って、すこしでも楽にしてやりたいと思ってそうした。そうだろう。……違うのか?」
違う、と。たった一言を告げるのは簡単で、ギルベルトはぎこちなく息を吸い込んだ。言葉を頭の中で形作り、舌に乗せて声に出す。それだけで良い。ひたむきに向けられる視線を重ね合わせて、ギルベルトは唇を動かした。
「……っ、違うって言ったら……お前、信じるのかよ」
「信じない。それは兄さんの嘘だからだ」
「それ、問いかけの意味ねぇから! ちくしょう、この駄々っ子! 馬鹿! 兄さんの言うことは絶対って、ちゃんと教育しておいただろうがっ! それを今こそ思い出せ! 俺様の、言葉は、絶対!」
人差し指を突き付けて告げられる宣言に、ルートヴィヒは意外にも素直な態度で頷いた。そうだな、と囁かれ、ギルベルトはだったら、と言葉を繋ぐ。そんな想いで成されたのだと、思ってはならない。帝国が誇り高く復活する為に、兄に対する優しさなどはどこかに捨てておけ、と。お前は東側を取り戻すことだけを考えて行けばいいのだ、と告げられて、ルートヴィヒは目を細めて嫌だ、と言った。きっぱりとした否定。
思わず停止したギルベルトに、ルートヴィヒは言う。
「兄さんの言葉は絶対、だ。それは忘れてなどいない」
「だ……だよな? じゃあ」
「『俺はお前を、なにがあっても大切に思う。帝国を継ぐ者、俺の弟よ』と、兄さんは俺に言った。兄さんの言葉は絶対。よって俺は、その言葉を信じている。兄さんは俺に呆れたりするかも知れない。どうしようもないと、思うこともあるだろう。それでも、その言葉と想いが全てだ」
きっかり五秒、動きを止めて。やがてみるみるうちに赤くなって廊下にしゃがみ込んでしまったギルベルトを、ルートヴィヒは勝ち誇った表情で眺めやった。勝った、と弟は思い、負けた、と兄は痛感する。しょうがないだろー、と力を失った声が、朝の廊下にへなへなと響く。
「だってよく考えろよお前、ルートだぞ? ルートだぞルート、可愛い可愛い可愛い可愛い俺の弟! さらには俺の王であり、プロイセンの夢であったドイツとなった者! それが目の前で苦しんでみろよ! 助けるだろ! 助けたいと思うだろ! その為の手段があるとしたら実行するだろ! よし俺悪くないっ!」
「……貴方、ほんっとうにお馬鹿さんですよねえ」
それで彼が喜ぶと思ったのですか。呆れてしゃがみ込みながら問いかけたローデリヒに、ギルベルトはふるふると首を振った。怒ると、嫌がると分かっていた。でもやった。それだけのこと。目線の高さを同じにして、ローデリヒは溜息をつく。なにか、救いたいと思っていることは知っていた。けれどまさか、『国』を背負おうとするだなんて。母体となる国家がすでに存在していない『国』だからこそ可能の、一級の荒技だった。
本当にちゃんと『返せる』んでしょうね、と心配と呆れ交じりに問いかけられて、ギルベルトはこくりと頷いた。多分、という言葉は言わないでおいたのだが、付き合いの長さで伝わってしまったらしい。お馬鹿、と呟きと共にぽこりと頭を殴られて、ギルベルトは喉を震わせて笑う。全く痛くない拳だったからだ。貧弱ー、と笑うと、もちろん手加減して差し上げたに決まってるではないですか、とすぐに言葉が跳ね返って来て。
ギルベルトはゆるりと目を細め、満足そうに笑った。
「でな?」
「……え? あ、はい。なんです?」
まるで唐突な言葉に、ローデリヒは付いていけなかったらしい。とりあえず着替えてくる、と部屋に戻って行くルートヴィヒを見送りながら問いかけられて、一拍の間をおいて尋ねなおす。まだなにかあるのですか、と言われて、ギルベルトはにこりと笑みを深めてみせた。どことなく不安げな表情が、それは彼にも本意でなかったのだと告げている。極めつけに嫌な予感を覚えながら、ローデリヒはもう一度問いかけた。
「……なんですか?」
「……知っての通り、俺様は『プロイセン』ですが、国土はすでにありません」
知っています、と頷き、ローデリヒは気持ち悪がって眉を寄せる。なんですか、その敬語。いやただの気分。どうでもいい会話を挟み、ギルベルトは息を吸う。視線が若干、ここではない何処かへと流れていた。
「そういう訳なので、実は俺様は今『ドイツ』の『東側』というより、ロシア領『プロイセン』です」
「……は?」
「いや、なんかそういう気分っつーか。明確な土地が無い上で、うっかりロシアの占領区域を俺のものー! にした弊害っつーかなんてーか。ドイツ国内でロシアに占領されてるっていうより、ロシア領にされた『プロイセン』の意識なんだよ。『国』として」
だから『国』としての本能とかアレコレに従って、俺はこれからロシアの家に行こうと思う。青ざめた顔で嫌そうに告げたギルベルトに、ローデリヒはそうですか、と頷き。その頭にためらいなくフライパンを叩きつけ、自室に消えたルートヴィヒを大声で呼んだ。由々しき事態だった。
ロシア領『プロイセン』であるという意識から、あくまでドイツの中で『東側』を担う『プロイセン』である、とする意識の変換は、全く上手く行かなかった。『国』の本能的な判断を意思で覆すのが難しかったことに加え、ロシア領の意識の変化は『ロシア』であるイヴァンの元まで通じてしまっていたからだ。呆れ果てた文面で『とりあえず迎えに行かせるからこっちおいでよ。社会主義楽しいよ』と手紙が届いた時点で、諦めがつく。
ブランデンブルグ門。そこがイヴァンが指定した出迎えの者との待ち合わせ場所だった。ことがことなので、辺りはアーサーやフランシスらの手によって人払いがされている。冷えた空気だけがギルベルトに寄り添い、その時を静かに待っていた。ルートヴィヒとローデリヒは数メートル離れた場所に立っていて、ギルベルトの傍には居ない。堅牢な石の門を指先でなぞり、ギルベルトは意図せず息を吸い込んでいた。
「あら、緊張してるの?」
「まさか。俺を誰だと思ってんだよ」
不意にかけられた声に当たり前のように返して、ギルベルトは動きを凍りつかせた。柔らかく響く、女性の声だった。それは、あまりに聞き覚えがある声だ。ぎこちなく視線を向けると、ローデリヒとルートヴィヒは驚きに目を見開き、ギルベルトの背後を見つめている。息をつめながら振り返ったギルベルトに、微笑みかけたのは草色の瞳。良く晴れた草原の、輝きを閉じ込めた瞳だった。ふわふわの髪は、焦げた土の色。
髪につけられた髪飾りが、見慣れぬデザインの軍服を華やかにしている。エリザベータ。吸い込んだ息に驚愕を乗せて吐き出せば、戦争の終結を待たずロシアに占領されたが故にソビエトの一員となった『ハンガリー』は、ギルベルトをまっすぐに見つめ、くすりと微笑んだ。
「間抜け。こんな簡単に背後を取られるだなんて、アンタ本当にダメね」
「うるせ、ほっとけ。……つーか、なに。迎えってお前か?」
「そうよ。我らがソビエトの代表、『ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国』さま、ことイヴァンが、幼馴染なんだから君が行けば? って言いだしたから来てやったのよ。ありがたく思いなさい」
語られる口調こそありありと不満を表明していたが、向けられる視線は恐ろしい程真剣にギルベルトを見ていた。大丈夫なのか、となにより視線が告げていた。プロイセンは、すでに亡国である。その状態で『国』が留まっていることも異例ならば、その状態で『国』を新たに背負うことも異例。他国に占領されることも、なにもかも異例なのである。前例など、ひとつもない。なにが起きるのか、これからを誰も知らないのだ。
エリザベータは触れれば切れるような眼差しをギルベルトに向け、しばしその瞳を見つめていた。その色を確かめるように。その奥にある意思、感情を見つめたがるように。ギルベルトはやんわりと苦笑したまま視線を受け入れ、相手の気が済むまで待ってやる。やがて溜息をついたエリザベータは、ぷいと視線をそらして呟いた。アンタ、本当に馬鹿なんだから。お前の元旦那にも言われた、と呟けば肘で腹をえぐられる。
体を二つ折りにして咳き込むギルベルトを笑顔で見下ろし、エリザベータはびっと音がするような仕草で親指を地面に向かって振り下ろした。
「あら、ごめんなさい。肘が滑ったわ」
「肘は滑らねえよ!」
「……人の気も知らないで」
本気で苛立った舌打ちにまぎれて、エリザベータの呟きはギルベルトに届かなかった。なんか言ったかよ、と聞かれるのに首を振って、エリザベータはギルベルトに手を差し出す。
「さ、行くわよ。あんまり時間がある訳じゃないんだから。……お別れ、言って来たの?」
「ああ。……お前は、なんも言わなくていいのか」
ローデリヒに。静かに告げられた言葉は誠実で、だからこそエリザベータは微笑する。
「ねえ、ギル」
「ん?」
「ローデリヒさんは、元気で過ごしていた?」
視線は遠く、思い出を探すような温度で捧げられていた。ローデリヒと目を合わせて確かに微笑みあいながら、エリザベータはギルベルトに問いかける。元気だった、と頷くギルベルトに、エリザベータは満足げに頷いた。それが分かれば、十分。囁いて、エリザベータは見送りの二人に向かって深々と頭を下げた。連れて行きます。そして、いつか二人で帰ってきます。そういう気持ちを込めた、静かな静かな礼だった。
顔をあげたエリザベータに向かい、ルートヴィヒは敬礼を、ローデリヒは一礼を返す。それをしっかりと見てから、エリザベータはさて、と足を踏み出した。行くわよ、と促されるのについて行きながら、ギルベルトはふと気配を感じて空を見上げる。あ、と声を出す間もなかった。両手を掲げて走り出したギルベルトの後を追い、エリザベータはその先を見る。空から、なにか黄色いものがまっすぐに落ちてきていた。ひな鳥だ。
たんぽぽの花のような色をしたひな鳥が、まっさかさまに落ちてきている。受け止めなさいよっ、と叫ぶエリザベータに頷いて、ギルベルトはひな鳥が地面に叩きつけられる寸前、滑り込んで手のひらに受け止めた。はあぁ、と二人分の安堵の息が響き渡る。服の汚れを払いながら、ギルベルトは門を振り返った。ブランデンブルグ門はすでに遥か後方になっていて、いきなり走り出した二人を見送りはどう思っただろう。
まあ、再会して覚えていたら聞けば良いことだ。手のひらを見下ろし、ギルベルトはなんだこれ、と首を傾げる。たんぽぽ色のひな鳥は、手の中ですでに意識を取り戻していた。ぱたりぱたりと羽根を動かし、ギルベルトを見上げると嬉しげに鳴く。ぴよぴよ、と声が響くのに思わず微笑みながら、ギルベルトはひな鳥をぽんっと頭の上に乗せた。
「よし! じゃ、行こうぜエリザ」
「はぁ? え……え、なにそれ、連れてくの?」
「俺が拾った。だからこれは俺の」
寒い時に胸ポケットに入れとけば温かそうだし、と言って笑うギルベルトに、エリザベータは溜息をついて。それからなにか不思議なものを感じ、ギルベルトの頭の上でもぞもぞしているひな鳥に目を移した。ひな鳥はただ嬉しげにぴよぴよ、と鳴いている。どうやら、頭の上を気に入ったようだった。巣作りされるんじゃないわよ、と苦笑すると、ギルベルトは任せとけ、と笑って指先でひな鳥をつつく。ひな鳥は、ぴよ、と鳴いた。
満足げな鳴き声だった。