光の色が違う。白銀に染まる朝だった。窓から差し込む光の煌めきはいっそ暴力的で、ギルベルトは昨夜、隙間が無い程ぴったりとカーテンを閉めて置かなかったことを後悔しながら、温かなベッドの中で目を覚ました。屋敷の外は人を殺してしまうほどの寒さであるが、とりあえずベッドの中は温かい。十分程度ぬくもりから感じられる幸せを堪能して、ギルベルトはベッドから起き上がり、ぶ厚い上着を寝間着にはおった。
朝の冷えた空気がそうさせているのか、ベッドからクローゼットに行く数歩の距離すら、上着を着なければギルベルトには耐えられないのだ。手の届く所に上着を一枚置いておかないと、アンタ明日の朝絶対起きてこられないわよ、と言った幼馴染の姿を思い浮かべ、ギルベルトはあくびを噛み殺す。記憶によればあちらも、そう寒さに強い性質ではなかった筈だ。なるほど経験則かとニヤつきながらクローゼットを開ける。
中に収められていたのは、茶褐色の軍服だった。まだ糊のきいた新品である。手に取って上から下までじっくり眺めながら、ギルベルトは家主に聞かれたら水道管で殴り倒されそうなことを、真剣に呟いた。ウチの軍服の方が、絶対格好良い。つかこれダサイ。動きやすさと保温性を最優先にされた軍服の生地はぶ厚く、どこかゴワついて肌に優しい風合いでもない。むっと唇を尖らせて考え、ギルベルトはやがて諦めた。
頭の中でこの服を着ない為の言いわけを百も千も作り上げようと、結局は無駄な抵抗になると分かってしまったからである。ここはソビエト連邦のロシアであって、ドイツではない。なんのかんのギルベルトに甘い身内はおらず、接する『国』はそう友好的な付き合いが多く在った訳ではない者たちばかりだ。幼馴染である女性も居るとはいえ、十人が十人仲が良いと言う仲でもなかった。悪い、という者の数の方が多いだろう。
ギルベルトがひっそりと抱く淡い想いはともかくとして、今現在のエリザベータとの仲は『仲のよくない幼馴染』であり、『腐れ縁』というものが一番に当てはまるのだった。幸いなのは、エリザベータがそれでもギルベルトにささやかな好意を与えていてくれる点だろう。本当にどうでもいい相手ならば、朝の冷えを見越したアドバイスを送ってはくれなかった筈だ。そう考えて心を弾ませ、ギルベルトはよし、と上着を脱ぎ捨てた。
民族衣装ならばともかく、軍服の着方など各国でそう違う筈もない。迷うそぶりも見せず手早く身につけて、ギルベルトはクロゼットに置かれていた帽子を、ぽんと頭の上に置いた。そうするとデザイン的に優秀に見えなかった軍服も、それなりに着られる代物である、と思えるから不思議である。クロゼットの扉の内側に打ちつけられている、三十センチの正方形に切られた簡素な鏡を覗き込みながら、ギルベルトは頷いた。
それからギルベルトはクロゼットの扉を閉め、カーテンを開ける為に窓辺に歩み寄りながらさて、と内心首を傾げる。起きて着替えたは良いものの、次にどうするべきか分からなかったからである。迎えが来るまで部屋で待っているべきなのか、それとも自由に屋敷を探索していいものか。昨夜ドイツからロシアに到着したばかりのギルベルトは、家主であるロシアに出迎えられ部屋に案内されて、すぐ就寝したのである。
本来ならばあるであろう、住人に対する挨拶の場もなかった。ドイツからの道中は特に事故もなかったものの、到着したのが深夜で、大きな屋敷に一緒に住んでいるであろう『国』はすでに眠っていた為だ。ロシアもギルベルトを出迎える為だけに起きていたようで、いらっしゃい、と笑顔で一言告げた後にすぐ眠りに行ってしまった。エリザベータも、ギルベルトに与えられていた部屋まで同行して、そこで限界だったのだろう。
早口で朝の上着に対するアドバイスとトイレの位置だけ告げて、目をこすりながらふらふらと廊下の彼方へと歩き去ってしまった。おかげでギルベルトは、エリザベータの部屋の位置も知らない。屋敷における自室の位置すらなんとなく把握しているだけで、それが正確である確証も持ててはいなかった。夜の暗闇の中で見えた屋敷は大きく全てを把握できなかったし、なにより強行軍で、ギルベルトも眠たかったのである。
カーテンを開けて部屋の中に光を呼び込み、ギルベルトは一面の雪原となっている中庭に目を細めた。中世の王族が住んでいた城のよう、とまでは行かないものの、この屋敷は貴族の別荘程度の中庭を持っているらしい。窓から見える雪景色は遠くに塀が見えるだけで、近くの建物などは一切視界に収めることが出来なかった。白く広大な空間で、迷ったらアウトだ。庭に出る時は気を付けよう、と思いながら体を伸ばす。
そう長く眠れていた感覚はなかったのだが、疲労はすっかり全身から抜け落ちていた。全く悪くない目覚めだ。ふと気がついて室内を見回すと時計がないことに気が付き、ギルベルトは眉を寄せて数秒考えた。予定を言い渡されている訳ではないのだから、時間を知ってそれにそう行動をしなければならない理由はない。しかし、今が何時も分からない状態で過ごすのはとても気持ちが悪い。よし、とギルベルトは頷いた。
室内待機を放棄して、外を出歩くことにしたのである。無論、屋敷の外に出るつもりはない。あくまで室内を探査ついでに歩くのであって、脱走したい訳でも、外の寒さに晒されたい訳でもなかったからだ。もこもこのフェイクファーで温かなスリッパから足を引きぬき、靴だけは己が連れて来たドイツ製の頑丈なブーツに履きかえる。靴ひもを固めに結ぶと、気分も引き締まるようだった。気分が急激に、昔にさかのぼって行く。
ギルベルトは今や亡国プロイセンの『国』ではなく、軍国『プロイセン』として蘇ったドイツの東側なのだった。なんとはなしにそう思い、ギルベルトはにぃ、と獰猛な笑みを口元に乗せる。口笛でも吹き出したくなるような、たまらなく愉快な気分だった。足取りも軽く部屋を出ようとして、ギルベルトはあ、と声をあげてベッドを振り返る。小走りに駆け寄って布団をめくりあげれば、『それ』はすぐ見つかった。たんぽぽ色の毛玉。
ふるふる震える毛玉そのものに見える、たんぽぽ色のひな鳥である。あいにく鳥類に詳しくないギルベルトは、それがなんのひな鳥なのかは分からない。それでも見かけで、生まれたてくらいかどうかの判別くらい付けられるのだった。うぶ毛に空気をたっぷり含んだまんまるい姿でふるえるひな鳥に、ギルベルトはちょっと首を傾げて問いかける。言葉が通じるかはどうかとして、拾った飼い主としての責任がそうさせた。
「あのさ、俺出かけてくるけど。ひな、お前どうする? ここで寝てるか?」
俺と来るならおいで、とギルベルトが差し出した手に、ひな鳥はよちよちと歩んで足を乗せた。ぴよ、と可愛らしく鳴いて手のひらに転がりこまれ、ギルベルトは目を瞬かせた後に笑み崩れる。言葉が、分かっているのだろうか。分からないにしても懐いてくれているのは明白で、こそばゆいくらいに可愛らしかった。一緒に行こうな、と囁きながら帽子をとり、ギルベルトはひなを頭の上に乗せた。その上から、帽子を乗せる。
別にひなを隠したのではなく、すこしでも寒さから守ってやりたかったからだ。数歩を歩いてはたと気が付き、ギルベルトは帽子を取ってひな鳥をつまみあげる。ひな鳥は不思議そうな目で、ギルベルトをじぃっと見上げた。ぴ、と声が響く。うんあのな、とごく真面目に、ギルベルトは問いかけた。
「頭の上より、胸んトコにでも居た方があったかい気がするんだが……どうする? ひな」
こっちが良いか、と早くも軍服の襟を緩めながら尋ねるギルベルトに、ひな鳥は羽根をぱた付かせてぴよぴよ鳴いた。頭の上戻る、とでも言いたげな仕草に苦笑して、ギルベルトはひなを頭の上に戻してやる。襟を正しながら歩き出すと、帽子の下から満足げな鳴き声が響く。よく分からないが、ひなは特別、ギルベルトの頭の上を気に入っているらしかった。まあお前がいいならいいけどよ、と笑って、部屋の扉をあける。
昨夜は気がつかなかったが、扉は特別ぶ厚い木で出来ているようだった。古い木材特有の擦り切れたような色合いと、落ち着いた香りが鼻腔をくすぐって心地良い。難点は重たいことだろうか。これ女子供には開け閉め繰り返すだけでキツいんじゃねえのか、と思いながら扉を閉め、ギルベルトは廊下の左右を見渡した。右にすぐ階段、左には広大な廊下が続いている。端は、走っても到着に時間がかかりそうだった。
廊下は鏡面のように磨きあげられていて、光を眩しく反射している。考えた後右に向かうことにして、ギルベルトは階段を上に登って行った。ギルベルトの部屋があるのは、二階である。一つ登って三階に到着したギルベルトは、ひょいと廊下を覗き込むようにして眺め、そこに立っていた人物に目を瞬かせる。長い廊下の中腹に、その『国』は立っていた。ギルベルトとは距離があるので、向こうは気が付いた様子もない。
感情を伝えない眼差しを懐中時計に落とし、溜息をついてふたをしめると顔をあげて扉を見つめている。なんとなく、困っていることだけは分かった。普段なら避けて通る所ではあるのだが、ギルベルトは不思議にそうしたい気持ちになって足を踏み出す。足音は響かずとも、ゆっくり歩み寄ってくる気配を察したのだろう。眩いほどの光に満ちた廊下の中で、ギルベルトの姿を捕らえた瞳は春摘み苺の葉の色だった。
どこか甘く、そして優しげに光に滲む瞳。一瞬の警戒を横切らせた後に浮かぶ親しげな微笑みは、あくまで礼義的なものだとギルベルトは知っていた。それくらい浅からぬ仲であり、すぐには警戒を解けぬ程、二人は互いに剣を交わすことが多かった。よう、と片手をあげて挨拶をしながら、ギルベルトは呼びかけるべき名を探してゆっくりと唇を開く。青年が背負う国の名は当然知っていたが、呼びかけるにはふさわしくない。
戦争は終わっていた。すくなくとも、この二国間においては完全に。
「よう、トーリス。……トーリス・ロリナイティス、だったよな?」
「ええ、あってますよ。おはようございます、ギルベルト・バイルシュミットさん。……それとも『東ドイツ』さん、とお呼びした方が良いのでしょうか。あるいは『プロイセン』と」
「ピリピリすんなよ『リトアニア』。俺が昨日から来てるってのは知ってただろ?」
秘められず眼差しや、声に現れてしまっていたのは悪意や敵意ではなく、純粋な戦意に近いものだった。反射的に『敵』だとみなし、戦おうとする本能的な戦闘意識が視線を鋭く、声を張り詰めたものにする。ギルベルトは努めてそれを受け流すよう苦笑しながら、軽く両手をあげて歩み寄り、首を傾げながら問いかけた。『リトアニア』であるトーリスは、そんなギルベルトから視線を外し、そっと溜息をついて体から力を抜く。
すみません、とちいさな声がもれ聞こえた。反射的な己の意思であったとはいえ、完全に本意ではなかったのだろう。反省し深く落ち込むような声に、ギルベルトは気にするな、と首を振る。ある程度は仕方のないことだった。互いに、互いの国に、それだけのことはしている。トーリスは顔をあげてそっと微笑むことで緊張を緩め、知っていました、と問いかけの答えを口にする。来るから、と言っていたので、と言葉が響く。
すいと泳ぐように移動した視線は目の前の閉ざされた扉に向けられていて、思わずギルベルトは同じく重厚なその木目に目を向けてしまう。互いにしばし無言で扉を眺めていると、ギルベルトの耳にちいさな金属音が届けられた。パチン、と響いた音に目をやると、トーリスが懐中時計のふたを開けて文字盤に目を落としている。そういえば、と部屋を抜け出した原因のひとつを思い出し、ギルベルトはあのさ、と問いかけた。
「今って、何時だ?」
「六時二十八分になりました。三十分になったらイヴァンさんを起こす予定です」
「……アイツは一人で起きられねぇのかよ」
感じた呆れを素直に言葉に直せば、トーリスの視線がまっすぐにギルベルトを向いた。視線を合わせると、にっこりと微笑まれる。優男風の麗しい微笑に、しかし危険なものを感じてギルベルトは目元を引くつかせた。なにがいけなかったのかは分からないが、ギルベルトはトーリスの地雷を踏んでしまったらしい。妙な緊張感を漂わせながらすぅ、と目を細め、トーリスは薄く開いた唇から息を吸い込んだ。
「言っておきますが、普段なら俺に申しつけられているのは『六時三十分になったら声をかける』ことまでです。俺は単なるタイマー代わりでしかありません。イヴァンさんがいくら朝弱くても、そこは『国』です。一人でちゃんと起きるに決まってるじゃないですか」
イヴァンは実は朝が弱い、という事実を無自覚に暴露しながら、トーリスは相手に身じろぎさえ許さないであろう冷たい視線で、とつとつと言葉を告げて行く。
「今日に限って『起こして』まで言われているのは、貴方のせいですよ」
「……俺?」
「そうです。全く、深夜に到着するんですから。イヴァンさんがどれだけ頑張って起きてたと思うんですか! あの人、本当は夜十時以降起きていられないのに。あなたに『いらっしゃい』の一言を言う為だけに起きていたんですから、それについてのアレコレを俺は許してあげませんよ?」
イヴァンは夜は十時に寝る、という事実も軽やかに披露しておいて、トーリスは腕組みをして首を傾げてみせた。謝るのなら今のうちだけ受け付けてあげますけれど、と言わんばかりの態度に反射的に悪かったと言いながら、ギルベルトはおかしい気分で肩をかすかに震わせる。トーリスの、イヴァンのスケジュール把握具合が半端ないのをおもしろがればいいのか、起床と就寝の時間が厳密なのを笑えばいいのか。
視線をそらしながらギルベルトが肩を震わせているのを嫌そうに眺め、トーリスは再び懐中時計に視線を落とした。六時三十分を針がさす。数秒待つが内側から扉が開かれないことを確認して、トーリスは懐中時計のふたをしめた。胸ポケットに時計を滑り込ませながら扉に歩み寄り、トーリスは慣れた仕草で扉を叩く。一回、二回、三回。頑丈な扉の内側までしっかり届くよう叩いて、トーリスは大きく息を吸い込んだ。
「イヴァンさん、起きてください。朝ですよ、朝! 時間になりましたよ!」
『……そんなサービスロシアにないよ』
「リトアニアにもありませんよ! 寝ぼけてないで、起きてくださいったら!」
ぐもっているわりにはハッキリと響く声が、ギルベルトの耳にまで届いた。それでいて室内からは、物音一つ響いてこない。イヴァンの声質が通る性質なのか、ぶ厚い扉が物音を消し去ってしまっているかは定かではなかったが、ナイショ話には向かなさそうだ、とギルベルトは思う。一歩離れた所でトーリスの背を見つめていると、青年は扉を叩きながら焦れた様子で声をかけ続ける。
「イヴァンさん! ここで起きないと後で大変になるのは貴方でしょうっ! ほらシャキっと起きて着替えて出てくる! それとも布団はがさなきゃ起きないで……なんで今日に限って鍵かけてるんですかー!」
『知らないよ。鍵がかかりたかったからじゃないの? ……朝ご飯にウォトカ出るなら起きるー』
「朝から飲んだら胃が死にます!」
らちがあかないと思ったのか扉に手をかけて開こうとするトーリスを、しっかりとかけられた内鍵が阻んだらしい。がたがた扉を揺らしながら絶叫するトーリスに、半分寝ぼけた声でイヴァンはのんびり応えている。えー、じゃあウォトカが飲めるお昼か夕方くらいまで寝てる、とぶちぶち文句が響くのにギルベルトは必死に笑いを堪えていたのだが、トーリスに取っては面白くもなんともなかったらしい。ぱ、と扉から手が離される。
扉から一歩分だけ下がって、木目を睨みつけるトーリスの横顔はやけに冷えていた。その怜悧な表情を、ギルベルトは見た覚えがある。戦場で幾度も顔を合わせ、睨みあった『リトアニア』はよくそういう顔つきをしていた。なにかするつもりなのだろう。変わらず距離を持ったまま見守るギルベルトの視線の先で、トーリスは扉に取りつけられたドアノブを見つめていた。十秒、十五秒、沈黙が重なる。廊下はしんと静まった。
中庭に降り積もった雪が、音という音を飲みこむ世界の静寂。心をやけに不安がらせるそれを嫌がるように、扉の中からトーリスの名を呼ぶ声が響く。それでも、ドアノブは動かない。扉は開かれなかった。腕組みをして困った風に溜息をつき、トーリスは微笑みながら口を開く。
「分かりました」
『え』
「ナターリヤちゃんを呼んで来ます」
その瞬間、巨躯が床に落ちる音がした。慌て過ぎてベッドの中で滑って転んで、そのまま落ちたのだろう。室内からはなにか小物が落ちる音と、イヴァンの恐慌をきたした叫び声が聞こえてくる。わーっ、わーっ、と暗闇に潜むおばけを振り払いたがるような声が上がっているのを聞いて、トーリスはにこやかに微笑みながら扉の前から離れる。何事もなかったかのように隣に並ぶのを見て、ギルベルトは小さく声をかけた。
「最終手段か……?」
「いえ、たまーにこれでもぐずる時がありますから、そういう時には本当に呼んで来ますよ?」
にこ、と浮かべられる笑みはまさしく『控えめな好青年』という出立ちだからこそ、ギルベルトは心底頷いた。コイツだけは敵に回すまい。国と国との軋轢によって戦う時以外の私生活において、仲良くしておくのが得策だった。室内からはまだイヴァンの叫び声と物音が聞こえていたが、どうやら着替えてはいるらしい。ボタンが取れてるっ、と半泣きの叫び声が聞こえるのに苦笑して、ギルベルトは視線を前に向けたまま言う。
「あのさ」
「ああ、言い忘れていました。ギルベルトさん」
声はほぼ重なって響いた。目を瞬かせて軽く挙動不審になるギルベルトに、トーリスは不思議そうな表情で首を傾げて微笑する。なにもしませんよ、という声の後、今は、という幻覚が聞こえたのは恐らく耳がおかしいからだ。恐怖に音を立てて鼓動を刻む心臓を落ち着かせながら、ギルベルトはひきつった表情でなんだよ、と言う。トーリスはゆるりと目を細め、穏やかな口調で呟いた。
「ようこそ、ソビエトへ。連邦の一員として、貴方の訪れを歓迎します」
「お……おう」
「……でも」
唇の前で手を握って人差し指だけを立て、トーリスは爪先に軽く音を立てて口付けた。厳かな、誓いを告げるような仕草だった。春摘み苺の葉の色をした、甘く穏やかな瞳にぞっとする程の憎悪が現れる。
「俺は、貴方たちが『ポーランド』にしたことを決して許しません。……『ポーランド』、いえ、フェリクスは、俺のこんな感情を笑うでしょう。俺がこんな気持ちになることはない、と言って。貴方に全ての責任があるとは思っていません。貴方の弟さんにも、同じように。けれど、責任が無いとも思っていません。国民の成したことは、須く我らの成したことでもある。俺たちは『国』で、そして『国』は……国民と共に、戦場をかける者だ」
「……フェリクス・ウカシェヴィチ。アイツは、今は……?」
「……先の大戦中に姿を消したきり、誰も見ていないそうです。国家主権が回復すれば、あるいは姿を見せてくれるかも知れませんが、それも確かなことじゃない。分かっているのは……今、信じることができるのは、共に『国』として在る身だからこそ、彼が消滅した訳ではないという感覚だけです。……俺は、彼の帰りを待っています」
必ず、あの『国』は蘇る。このまま消えていることはないのだと断じるトーリスの瞳は、熱病にかかった者のそれに似ていた。恐ろしいのに、決して視線がそらせない。国民が行った大きな罪を頷くことで受け入れ、ギルベルトはそうか、と言った。
「じゃあ、俺を恨め。……その影響を持たないとはいえ、俺は国民を止められなかった」
「はい。恨んでます。……知っていますか? ホロコースト、と言うそうです。オシフィエンチムの、貴方の言葉で言うならアウシュヴィッツで成された大量虐殺を表す言葉として、ひとが新しく作った言葉。ジェノザイド、ではとても表しきれるものではないと、ホロコースト、という言葉で……貴方たちの罪は、永遠に人の中に住み続ける」
満足だ。満ち足りた微笑みを浮かべながら、瞳にある氷は溶ける気配も見せなかった。寒々しいよりも痛みを感じさせる眼差しでギルベルトを見つめ、やがてトーリスはふっと口元を綻ばせて笑う。瞬き一つで、目の色が変わった。永久凍土に春が降り、優しい色の花が咲く。許しはしませんし、今言ったことは全て本心なんですけれど、とトーリスは苦笑して、困ったように肩をすくめる。
「残念なことに、俺は個人的には、貴方みたいなひと嫌いではないんです。……改めて、ようこそソビエトへ。そしてこれから、どうぞよろしく」
差し出された手を握らないことも、ギルベルトには出来た。優男風の顔つきからは想像できない、大きくしっかりとした手のひらを見つめ、ギルベルトはやがて握手を交わす。罪の意識が胸に在る。過去の諍いから来るわだかまりも、心に影を落としている。それが事実だ。二人はきっと許しあえないし、その奇跡は恐らく永遠に起こらない。分かり合えないことも多く、苛立つことも多いだろう。それでも、残念なことに。
ギルベルトは、トーリスのような相手が嫌いなわけではないのだった。よろしく、と言い返して強く手を握ると、トーリスはくすぐったそうにはにかんで笑った。その時ようやく、扉が開く。重たい扉をものともせず開き、イヴァンはマフラーを首に巻きながらトーリスを見て、そしてギルベルトを見て目を瞬かせた。物言わず、イヴァンはひょこ、と首を傾げる。分かりやすい問いかけの仕草に、ギルベルトは手を離しながら苦笑した。
「なんでもねえよ、ただの挨拶だ。……おはよう、イヴァン。目、覚めてるか?」
「んー……うん。起きてるよ、起きてるよー」
考えたのちに告げられた声はまだどこか宙に浮いていて、トーリスとギルベルトは視線を見交わして笑い合った。全く、体ばかりが大きなこどもだ。二人の認識は完璧に一致していて、だからこそギルベルトは無警戒にイヴァンに手を伸ばす。寝癖のついていた髪を手で梳いて整えてやって、ギルベルトは起きろ、と呟き苦笑した。
「今のお前は、階段の上り下りでもコケそうだ」
「うー、そんなことないよぉ……。でも眠くてくらくらする」
「あ、ナターリヤちゃん!」
猟犬がご主人さまを見つけたがごとき劇的な反応速度で、顔を満面の笑みにして廊下の端を振り返ったトーリスに対して、イヴァンの覚醒は早かった。イタリア兄弟の逃げ足もかくや、という動きでギルベルトの背中に回り込み、がしりと肩を掴んで人間盾にする。いくら体を丸めていようと縮こまっていようと、ギルベルトとイヴァンの間には結構な体格差が存在しているので、かなりはみ出て隠れる所でもないのだが。
それでも、イヴァンはギルベルトを離そうとしなかった。青ざめた表情で『しないっ! 結婚しないよ!』と叫んでいるのをひょいと覗き込み、トーリスはにこりと笑みを浮かべる。花びらが振りまかれるような、可愛らしい笑顔だった。ろくでもない笑顔だった。がくがく震えながら涙目で視線を合わせてくるイヴァンを見つめ、トーリスはけろりとした表情で見間違いでした、と言う。イヴァンは、ものすごく疑わしげな眼差しになった。
「君が、他でもないナターリヤを見間違えるなんて。ロシアの上に赤道が通ってるって言われた方がまだ信じるよ?」
「目が覚めたでしょう?」
「……あれ? 君、なんか怒ってない? どうしたの、トーリス」
容赦のない言葉に、イヴァンは初めてそれに気が付いたらしい。ギルベルトの背中に隠れたままでちょこ、と首を傾げられるのを、トーリスはぬるい目で眺めやった。非情な時は本当にどこまでも非情で残酷で手がつけられないのに、どうしてこうなのだろう、と思案している表情だった。全面的に同意したい気持ちになりながら、ギルベルトは肩に手を当ててイヴァンを引きはがし、くるりと身を反転させて正面から睨みつける。
ちょっと盾にしたくらいで怒らないでよー、とのほほんと言って来るイヴァンに、ギルベルトの頭でなにかが引きちぎられる音がした。怒るに決まってんだろっ、と空気をびりびりと振動させる大音量で、ギルベルトは肩幅に足を開き、腰に片手を当てながらイヴァンのことを指差した。
「良いか! 言っとくけどな、俺様を盾にして良いのはこの世で四人だけなんだよっ!」
「地味に多いね?」
「うるせっ! で、その四人の中にお前の名前はねぇから! つーか、あんな美人な妹に好かれて怯えるってお前贅沢っつーかちょっとおかしいんじゃね? 結婚迫られてて困る気持ちは分からんでもないけど、ようはアレだろ? 大きくなったらお兄ちゃんのお嫁さんになるの、の延長線上のワガママだろ? 可愛いもんじゃねえか。頭でも撫でて可愛がってやれよ」
俺は可愛いルートがそんなこと言いだしたら頭撫でまくって超可愛がるけどなっ、と胸を張って言い切ったギルベルトに、向けられた二つの視線に込められた感情は、実に様々だった。まず第一にギルベルトの言う『俺の可愛いルート』を、二人とも知っていたからこそ複雑だ。いかにもドイツ軍人らしい長身で、筋骨隆々としたいかつい青年であった筈なのである、ルートヴィヒは。間違っても可愛い、の形容詞では表せない。
身内の欲目、あるいは兄の盲目的な愛によって可愛いのかも知れないが、それにしてもなにを血迷ってもお兄ちゃんのお嫁さんになる、とは言いだしそうにもない。ごくごく幼い頃ならば、ともかくとして。それを差し置いても到底納得できる言葉ではなく、イヴァンは嘆かわしげに首を振りながら言った。君は実際見てないからそんなこと言えるんだよ、と言うイヴァンに、トーリスが真剣な表情で深々と頷き、全くですと同意する。
イヴァンはまた、ことナターリヤに関してのトーリスの神経も全く信頼していなかったので、君が口を開かなくて良いんだよ、と言ったのだが。恋は盲目すぎる想いを抱くトーリスは、ごく真剣な表情で言い放った。
「見てから言ってください。イヴァンさんを一生懸命追いかけるナターリヤちゃんは、確かにすこし怖い感じもありますが、ものすごく可愛らしくて綺麗でどうしようもないくらい美人なんですから」
「君の目がおかしいんだよ……!」
「じゃあ今度見てからもう一回判断してやるよ。イヴァン、ナターリヤに襲われたらすぐ呼べよ? 助けないけど」
明らかに呼ぶ意味がないギルベルトの求めに、イヴァンは君ちょっとどうかしてるんじゃないの、という恨めしげな目を向けて来た。助けるべきだろう、と無言の求めに肩をすくめ、ギルベルトは笑いながらあいにく、と言う。
「プロイセンにそんなサービスねえよ。……つか朝メシとか何処で食うんだ? 俺なんも分かんねぇんだけど」
「あ、そっか。昨日、なんにも説明しなかったもんね……とりあえず朝食は一階の部屋で、皆で食べるよ。詳しいことは食べ終わった後に説明してあげるけど……トーリス、今日のスケジュール」
「夜までイヴァンさんは自由です、お好きに過ごしてください。なにかあったら俺か、ライナさんへ」
確認程度の問いかけに、トーリスはなにかを見ることもなくすらすらと答えた。ギルベルトさんが迷ったりしないように案内してあげてくださいね、とトーリスの言葉に、イヴァンはなんだかとても嬉しそうな笑みで頷く。二人の先導に従って食堂に向かいながら、ギルベルトはその笑みの意味を考えた。純粋にソビエトメンバーが増えたことが嬉しいのか、あるいはギルベルト個人が来たことが嬉しいのか、別に理由があるのか。
分からないまま眉を寄せるギルベルトを、イヴァンは唐突に振り返る。にこにこと向けられる無垢な笑みに、ギルベルトは苦笑しながら問いかけてやった。
「なんだよ」
「言い忘れてたんだー。あのね、ギル君。ようこそソビエトへ。そしてロシアへ! 良い機会だから、僕の国を見て行ってよ」
「あのな、俺は観光に来たんじゃねぇんだぞ?」
あくまでもドイツの『東側』、あるいはロシアの領土となった『国』としてここへ来ているのだ、と告げるギルベルトに、ロシアは素直に頷いた。知ってるよ、と返す声が弾んでいる。本当に分かっているのかと眉を寄せるギルベルトに、ロシアはうっとりと目を細め、歌うように告げた。その眼差しはギルベルトを越して光溢れる外へ、降り積もる雪景色へと向けられていた。この国はとても寒いけど、とイヴァンは喜びの声で言う。
「でも、とても美しいんだ。君、ゆっくりロシアに来たことなかったでしょう?」
だから、君に見てもらいたいものがたくさん、たくさんあるんだよ。イヴァンはそう言ってくすくすと笑い、くるりと身をひるがえして食堂へと歩いて行く。言葉は喜びと誇りに溢れ、『国』として国民を愛し、国を愛していることをなにより告げてきていて。黙りこんでしまったギルベルトに苦笑を向け、軽く頭を下げてトーリスはイヴァンを追う。ギルベルトは廊下に立ち止まり、与えられた軍服に身を包んだ己の姿をじっと見下ろして。
「……やりずれぇ」
頭を抱えて、心の底から溜息をついた。