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 朝食だけは全員が揃うこと。それがソビエトとしてまとまった『国』のルールだ、とギルベルトはイヴァンから説明された。各々やることもあるので昼食と夕食は各自で済ませることが多いからこそ、せめて朝食だけは、他の『国』の様子を見る意味も含めて同じテーブルで取ることにしているのだという。そしてその朝食は当番制で、一日づつ作る『国』を決めてあるのだそうだ。来月からはギル君もね、と言われて素直に頷く。
 食事を取る部屋は、一際あかるい南側の部屋だった。雪の照り返しで目をやられない為にか、窓は繊細なレースで覆われていて、部屋全体に揺れる影模様を映し出している。長方形の大きなテーブルに、椅子が八つ向き合って並べられていた。ごく自然な動きで下座の席に座り、ギルベルトはあることに気がついて目を瞬かせた。部屋には食事時独特の、なんとも良い匂いが漂っている。その匂いに覚えがあったからだ。
「……エリザ?」
「なによ。文句があるなら、食べなくてもいいのよ?」
 思わずもれた呟きに答えがあったので、ギルベルトはびくっと肩を震わせて振り返る。するとそこには手にミトンをはめ、スープの入った鍋とレードルを持ったエリザベータが立っていて。何時の間に、と息を飲むギルベルトに、エリザベータはほとほと呆れた様子で眉を寄せた。
「アンタねえ……寝ぼけてるんじゃなかったら、本当に鈍ってるわよ?」
「……あんま反論できないぜ」
 目覚めてすぐは、恐ろしい程に感覚が研ぎ澄まされていたのが自覚できるくらいだったのだが。今は、それこそぶ厚いミトンに阻まれて鍋の熱が手に伝わらないように、それは薄くぼんやりとしたものに変動していた。まだ『国』として、ある意味蘇ったことに体が慣れていないのかも知れない。かすかな不安を深く考えないようにして、ギルベルトはゆるく息を吐き出した。気を付ける、とだけ言い返し、エリザベータを見つめる。
「で、今日の食事当番お前なんだな? グヤーシュ?」
「そうよ。後はパンとハムとチーズ、ヨーグルト。……アンタがそんな顔すると思ったから、ちゃんとジャガイモ料理も作ってやったわよ。あんまり時間がなかったから、ローズマリーポテトだけど」
 茹でたじゃがいもにローズマリーを加え、塩コショウで味を調えただけの前菜である。それでも十分、ギルベルトにとっては嬉しかった。いもーっ、と両手をあげて喜ぶのを生温い目で眺め、エリザベータはぺちりとギルベルトの頭を叩く。なんだよ、と睨んでくるのに唇をつり上げ、エリザベータはわざとらしく首を傾げてみせた。
「配膳、手伝いたくならない?」
「……手伝わせて頂きます」
 素直に頼めよ、と言いながらも立ち上がり、ギルベルトは頭に乗せていた帽子を机の上に置いた。ギルベルトにしては珍しい無作法に軽く目を見開いたエリザベータだが、すぐに理由を察して淡く微笑む。頭に手をやってひな鳥をつまみ上げたギルベルトが、帽子の中にころんと投げいれたからだ。ひな鳥は羽根をぱたぱたさせながらぴよ、と鳴き、主人をじぃっと見上げて動かないでいる。よろしい、とばかり主人は頷いた。
「そこで待ってろよ、ひな。間違って鍋に落ちたら食われるからな」
「名前付けてあげなさいよ」
「いいんだよ。な、ひな。もうすこし大きくなったらことりって呼ぶからな!」
 それでいいだろ、とばかり笑うギルベルトに、ひな鳥としては文句がないらしい。さかんに羽根をぱた付かせてぴよぴよ鳴く様を、ギルベルトは唇を和らげて見守った。そうしているうちに、食堂に『国』が集まってくる。誰も彼も見覚えのある顔ばかりだったが新鮮な気持ちで眺めつつ、ギルベルトはエリザベータの指示に従って皿を並べ、コップに水をついだりと動き回った。トーリスとイヴァンは笑うばかりで、何も言わない。
 席についた『国』もそれぞれなにか言いたげな笑みをギルベルトに向けるばかりで、特に言葉を発したりはしなかった。奇妙な沈黙の中で手際よく準備を終え、エリザベータとギルベルトも朝食の席につく。湯気を立てるスープを前にして、イヴァンが幸せそうに目を和ませた。じゃあ、と声がかかる。各々が一斉に動き、各国の言葉と宗教に従って食前の祈りは厳かに捧げられた。ひな鳥も、その時ばかりはじっとしている。
 祈りを終え、ギルベルトは赤いスープをひとさじ、口に運んだ。温かさが舌から喉を伝ってじわりと全身に広がり、なんともいえず心地良い。そして、懐かしい味がした。いつ口にしたかもハッキリとは思い出せない程昔だが、食べた覚えのある、エリザベータの手料理の味だ。正面からやけにそわそわした視線を送られ、ギルベルトは苦笑しながら美味いぜ、と言ってやる。軽い瞬きのあと、エリザベータは花のように笑った。
 当然でしょうとも、当たり前でしょうとも言いたげな自信を秘めながら、その実、とても安心していることがギルベルトには分かってしまう。付き合いの長さは相当だからだ。思わず笑いに吹き出せば、エリザベータは目元を赤くしてギルベルトを睨んでくる。即座にテーブルの下で脚が蹴飛ばされ、ギルベルトは痛みに絶句した。机に拳をついて痛みを堪えるその様を、エリザベータはいたく満足げに眺めやり、鼻を鳴らす。
 一連の動きを呆れ果てた目で眺め、イヴァンは全員の意思を代表した呟きを落とした。
「君たち……実はすごーく仲良いね?」
「よくねえよどう考えても俺が虐げられてるんだろうがっ!」
「ちょっと、変なこと言わないでちょうだい? あと虐げてもないので黙れギル」
 早口で言い放たれたエリザベータの言葉はやけに威圧感のある笑みも伴っていたので、ギルベルトはフライパン的な身の危険を感じてさっと顔の前に両手を掲げた。視線を明後日の方向に逃がしながら俺の気のせいでした、と囁くとエリザベータは満足げな笑みでおうように頷く。そのやりとりすら、二人以外にしてみれば仲良くじゃれあっているとしか思えない。イヴァンはパンにハムを挟みながら、朗らかに首を傾げた。
「仲良く喧嘩してるようにしか見えないんだけどなぁ……そうだよね、ライヴィス。エドヴァルド?」
 席の並びはイヴァン、ライヴィス、エドヴァルド、エリザベータ。ライナ、ナターリヤ、トーリス、ギルベルトである。不幸にもイヴァンの隣が定位置となっている『ラトビア』ことライヴィスは、雨に打たれた小動物のように体を震わせ、無言でこくこくと頷いた。ライヴィスの名を全力で叫びやりたい衝動にかられながらも必死に己を律し、エドヴァルドもまたイヴァンに同意する。そのように見えますが、と胃の痛そうな声が響いた。
 バルト三国のうち、二国の同意を取り付けたイヴァンが次に見たのは、当たり前のように残りの一国だった。トーリスはナターリヤに手を掴まれて指の関節を可動限界外に折り曲げられながらも痛がるそぶりを見せず、あ、はい、とごく素直に同意する。そしてイヴァンの姉妹は、その意見に逆らうそぶりすら見せなかった。ライナはおっとりとした微笑みでイヴァンちゃんが言うならそうよねえ、とスープを飲みつつ同意している。
 最後の一人にこそ、望みを託すのは全く愚かなことだった。ナターリヤは『兄さんが話しかけてくれたこれは結婚へのチャンスだとしか思わない兄さん結婚結婚結婚』と思っているのが丸分かりのキラキラぎらぎらした目で、兄さんの意見に異論などある筈もありませんだから、まで言ってイヴァンに必死に言葉を遮られている。味方は何処にもいないらしい。ぐったりするギルベルトに、ひな鳥だけが慰めるようにぴよりと鳴いた。
「……ひな。お前だけが俺様の味方だぜー」
「鳥さん、連れて来たの?」
「ん、ここに来る時にな。空から落っこちて来たの拾ったんだよ」
 パンをちぎって差し出しながら、ギルベルトはひな鳥を見つめたままでイヴァンに答える。ふぅんと気のない返事を響かせながらもひな鳥を見つめる視線を感じたが、ギルベルトはあえて目を合わせず、それを無視した。パン屑をついばむひな鳥は、もこもこの産毛を揺らして可愛らしく鳴く。目を細めて指先でひな鳥を撫で、ギルベルトは食事を平らげてしまうことに集中した。ごく自然に、誰もが同じようにして食事を取った。
 やがて満ち足りた吐息がいくつも空気を揺らし、朝食が終わったことを物語る。いつの間にか部屋に入って来ていたメイドから紅茶を受け取って飲み、イヴァンはさて、と考えるようにしながら告げて行く。
「ライヴィスはいつも通りに部屋の掃除、それが終わったらライナ姉さんの所に顔を出して書類整理を手伝ってね。エドヴァルドは庁舎に出かけて会談だったっけ。頑張って? エリザベータはライヴィスと一緒に掃除した後、ナターリヤと一緒に買い物。ナターリヤはエリザベータが声をかけに来るまで好きにしててい……止めよう。運動でもしておいで、良い子だから。ライナ姉さんは、今日は書類仕事が一人になっちゃうけど」
「いいわよ。大丈夫。それよりもギルちゃんが迷わないように、家の中と周辺の様子をちゃんと説明してあげてね? イヴァンちゃんも、夜までゆっくり休むように。お姉ちゃんに任せなさい!」
「……兄さんの後を付けられないならば、運動などしないで姉さんを手伝うことにするわ」
 舌打ちを一つ響かせて言い添えたナターリヤ以外、イヴァンの言葉に異論のある者はないようだった。メイドたちの手によって次々と下げられていく食器を眺め、ギルベルトは片付けは食事当番の役目に含まれていないんだな、とそんなことを考える。指示を得た『国』が次々と席を立ちあがって食堂を出て行き、エリザベータも去り際、べぇとこどもっぽく舌を出して嫌がらせをしたのち、ライヴィスの後を小走りに追って行く。
 悔しいよりは仕草の可愛らしさが印象として深く残り、ギルベルトは口元を手で押さえて視線を彷徨わせた。
「っ……俺の気も知らないで。可愛いんだよっ」
「うんうん、あのねギル君。声に出てるよー?」
「忘れろ」
 実に微笑ましく笑いながら顔を覗き込んでくるイヴァンから視線をそらし、ギルベルトは赤い顔を隠しながら立ち上がった。いつの間にか部屋は二人が残るばかりで、メイドたちの姿も無くなっている。朝食を食べたばかりにも関わらず、一日の半分以上を終えたかのような疲労感を感じ、ギルベルトは額に指先を押し当てて深く息を吐く。イヴァンは肩を震わせて笑いながら、ぽん、とギルベルトの背を叩いた。
「さ、ギル君ついてきて。案内するよ」
「おう。……ひな、おいで」
 帽子の中でころころ転がっていたひな鳥に手を差し出すと、すかさずぴょん、と飛び乗られる。そのまますでに定位置になっている頭の上にひな鳥を乗せて帽子をかぶると、イヴァンは不思議そうな視線をギルベルトの頭の上に向けていた。酸欠とかは大丈夫だと思うぞ、と言うギルベルトに頷いて、イヴァンはあのさあ、とのんびりした口調で呟いた。
「その小鳥って……なに?」
「空から落っこちて来た俺様のひな、だぜ。可愛いだろ?」
「うん。可愛いけど……まあ、ギル君がそう言うなら」
 飼い主が特に疑問にも問題にも思っていないのなら、それで良いことにしたのだろう。なにかを納得しきれない表情になりながら、イヴァンは早足で部屋の扉に向かって歩いて行く。地図とか見取り図はないから歩いて説明してるうちに位置とか覚えてね、というイヴァンに頷き、ギルベルトは己の頭に手をやった。帽子のすきまから手を入れ、ひな鳥を指先で突っつく。ひな鳥は決して傷を付けない仕草で、指先を突き返した。



 他国の宮殿を案内される心地に似ている。イヴァンに連れられ、ソビエトの『国』が住む広大な屋敷の中を歩き回りながら、ギルベルトはずっとその感想を持ち続けていた。内装が華美であるということではない。屋敷の内装は落ち着いていて品の良いものばかりで、華やかさよりは落ち着きと安らぎを重視しているようだった。新しいものがごく少なく、古いものに修理を加えながら大事に使っているのが特に目を引きつけた。
 肖像画は部屋の中に廊下にとたくさん飾られていたが、ごてごてと飾り付けられた印象ではなく、柔らかな日常を切り取って来た穏やかな印象をギルベルトに与える。イヴァンの上司の絵ばかりなのだろう。肖像画の前を通り過ぎるたび、イヴァンが切なげに目を細めたり、愛おしく微笑む様は恐らく無意識で、ギルベルトは廊下のモザイクを設計した職人についての説明を聞き流しながら、冬の大国の横顔を見つめていた。
 廊下は解放感にあふれ、光を多く取り入れる作りになっているものばかりだった。影になると寒いからね、と言った後、イヴァンはギルベルトの目をじっと見ながら言い添える。でも君の部屋は南側の、一番に温かい部屋を選んだんだよ。ギルベルトはその目をまっすぐに見返して、口元を僅かに緩めて答えた。ありがとう、と。それ以外を詳しく伝えなかったものの、イヴァンはでも寒いよねえ、と苦笑して視線をそらす。
 二人はそうして噛みあわないちぐはぐさの中で、不思議に気まずくなることはなく、宮殿めいた屋敷を静かに歩いて行った。一階に食堂や各『国』の執務室、書庫や倉庫や談話室、居間があり、二階と三階は居住空間として使われていた。もちろん広い屋敷だからこそ住まう部屋だけでなく、武器をしまい込んである部屋や国家機密を取り扱う部屋、思い出の物をしまいこんだ部屋もあったが、イヴァンは扉の前を通り過ぎる。
 この部屋は、と指差して問えば困った風に笑うか、さもなくば一言、二言の簡単な説明で中を見せず、イヴァンは廊下を歩いて行く。信頼されていないというより、イヴァンの中でギルベルトは客人なのだろう。丁寧にもてなすべきお客様に、見せて良い場所と見せたくない場所をしっかりと分けているのだった。不愉快に思うこともなく、ギルベルトは不意に立ち止まり、廊下の窓から中庭を見下ろした。白銀の雪景色。
 広く輝かしく白いばかりで生き物の影さえ見当たらず、足跡も残っていないようだった。どうしたの、とかけられた声はやや距離が離れていて、ギルベルトは視線を向けても上手く言葉を返せなかった。屋敷は静まり返っている。動いている人数が、本当に少ないからだった。この屋敷に居るのはソビエト連邦に属する『国』と、そして彼らの身の回りの世話を補佐するメイドたち。メイドを統率する数人と、政府の人間が数人。
 十名は居ても、二十名以上が存在するとは思えなかった。しんと静まり返った空気は光に温められてなお冷たく、ギルベルトの胸に落ちて行く。どうしたの、と問う声は先程よりずっと近くから聞こえて、ギルベルトはイヴァンと視線を合わせた。
「……なんでこの屋敷、こんなに人が居ねえんだ?」
 見せられない、見せたくない部屋の扉を指差し尋ねた時のように、イヴァンは困った微笑みで口をつぐんだ。視線が外され、命の気配のない中庭へと向かう。美しいばかりの、静寂の雪。その白さを悲しむように目を細め、イヴァンはあんまり人が寄りつかないんだよね、と言った。何度も希望を持ち、その度に諦めて来た声だった。寄りつかないって、と言葉を繰り返して問うギルベルトに、イヴァンはきゅぅと眉を寄せる。
 寂しげだった。泣き出しそうにも、見えた。息を吸い込み、イヴァンは静かに囁いて行く。
「君の国はどうだか知らないけど、ね。僕の国民は……なんだか、僕を、あんまり好きで居てくれてないみたいなんだ。怖いって、思うのか……気持ち悪いと思うのかは分からないけど、この屋敷が活気にあふれるってことは、ないよ」
 仕方が無いのかも知れないけどね、とイヴァンは困ったように微笑する。そういう存在であると知っていても、何年が経過しても外見に殆ど変動の無い『国』が多数住まう屋敷は怖いだろう。僕は皆のこと大好きなんだけどね、とイヴァンは優しげな声で言う。
「難しいなぁ……ギル君は、国民には慕われる方?」
「おう。俺様くらい自国の民に好かれる『国』も、そうないと思うぜ!」
「ムカつくなー。そこは嘘でもいいから、そんなことないぜ、くらいに留めとくトコじゃないの?」
 眉を寄せたまま言いつつも、イヴァンの声は笑っていた。ギルベルトがそう答えることも、事実そうであったことも、初めから知っていたようだった。ギルベルトは胸を張って笑いながら、でもお前だって本当はそうだろ、と告げる。
「上司には愛されてたし、お前も愛してた。そうなんじゃねぇの?」
「……どうかな。よく分からないよ」
 微笑みを作る表情の中で、瞳だけが悲しげにゆらりと揺れる。白く立ち上る陽炎のようだった。空に咲き誇るオーロラの輝きを閉じ込めた紫の瞳が、もしギルベルトの頭の上で静かにしているひな鳥のようなたんぽぽ色や、もしくはイヴァンが愛してならないひまわりの色を写し取っていれば、この『国』はもっと素直に全てを愛することが出来ただろうか。ゆらゆら揺れる悲しみを見つめながらそう考えて、ギルベルトは息を吐く。
「他にまだ、案内する部屋あんのか?」
 一階も、二階も、三階も、廊下であれば頭の中で完璧に地図がつくれるくらいに歩き回った後だった。二人が今いるのはギルベルトの部屋にほど近い廊下の中程で、なにか勘違いをしていなければ屋根裏と、あとは広大な中庭くらいしか残っていない筈だった。イヴァンは話題を変えてくれたギルベルトに感謝するような微笑をみせ、使ってない屋根裏と遭難しそうなお庭くらいだよ、と言う。ギルベルトはそうか、と頷いた。
「じゃあ、もう俺は大丈夫だ。『国』として近寄ったらマズそうな所は把握できたし、屋敷の中でも迷うことはねぇよ……で? 俺はこの後、なにすればいいんだ?」
 朝食後の指示の出し具合を見ていて、分かっていることが二つあった。一つは『ロシア』こそがソビエトの完全なる代表であり、その指示に従って属する『国』が一日を動いていること。もう一つは、一日のスケジュールがそれなりの厳密さで決められている、ということだった。不意の上司からの指令でも動けるよう、それぞれ余裕を持った予定組みにはしてあるようだが、この屋敷の中で指示なく動けるのはイヴァンだけだ。
 そのイヴァンも厳密にいえば上司の指示で動く身だというのは、ギルベルトも同じ『国』の身であるから理解できる。けれどこの屋敷はあまりに広く、ひとも少なく、外の音も届かずに孤立していて。上の指示が届くとも、思えなかった。だからこそ、ギルベルトはこの屋敷を宮殿のようだと思う。王が不在の見捨てられた宮。あるいは王冠はイヴァンの頭上にあるのかも知れないが、悲しみと寂しさが自覚させていないようだった。
 感情をあまり感じさせない表情で尋ねてくるギルベルトに、イヴァンは申し訳なさそうにも見える複雑そうな微笑みを浮かべてみせた。もうすこし隠しておきたかったのか、あるいは客人として『国』の枠の外に置いておきたかったのかは分からないものの、諸手をあげて歓迎しているようにも思えなかった。おい、と眉を寄せて毒づくギルベルトに、イヴァンはゆるく息を吐き出して囁く。そんなつもりで呼んだんじゃないんだよ、と。
 それが『共産主義楽しいよ』というどの『国』からも全力で正気を疑われるであろう一文で締めくくられていた呼び出し状についてのことだと理解し、ギルベルトは思わず沈黙した。『国』が『属国』を呼びだすのに、他にどんな理由があると言うのかギルベルトには理解できない。従わせるか、使い捨てるか、滅ぼすか。あるいは寵愛でもするか。『国』が『国』を支配下に置いた以上の選択肢は、非常に限られている筈だった。
 すくなくとも『プロイセン』として知るギルベルトの知識はそうなっていて、内心を読んだイヴァンに白い目で眺めやられる。僕がいうことでもないと思うけどさぁ、と藍色の溜息が、冷え切った廊下の空気をさわりと動かした。
「君の『国』としての常識は、ちょっとおかしいというか前時代的に過ぎない?」
「本気でお前にだけは言われなくなかったぜ……。……ドイツ成立くらいで止まってるのは認めてやらんでもないが」
 ドイツという国を華々しく成立させた時点で、『プロイセン』はすでに歴史の影に引いているのである。第一線を退いた、というのが『国』にも当てはまるとするのなら、先の戦争が始まるまでのギルベルトがまさにそれだった。大きな戦いにおいて前線に立つと決めたその瞬間まで、完全に気分は退役軍人だったのである。戦いが終わってからは自宅警備員とからかわれ、今は『国』の片割れとして戻った微妙な意識と立場。
 本人すら未だに意識の置き場所を決めかねているのだから、他の『国』がギルベルトをどう扱って良いのか分からなくなるのは、ある意味明白なことだった。イヴァンは少なくとも、ギルベルトを『国』として使うべく手元に呼び寄せたのではないらしい。混乱しかける意識をその事実ひとつで引き留めて、ギルベルトはじゃあ、とため息交じりに問いかける。じゃあ、なんで俺をここまで呼んだんだ、お前は。どんな理由があって。
 中庭に、雪が落ちて行く音がする。さらさらと耳触りの良い音は、木に降り積もった雪が大地に落ちているからだろう。雨より優しく、風より穏やかな、それでいて不安をあおる音。こく、とイヴァンの喉が動き、ギルベルトに言葉を告げて行く。
「聞きたいことがあって、君に」
「俺に。なにを?」
「……ここで、今、言わなきゃダメかな」
 できれば言いたくはないのだと、表情が告げていた。迷子の幼子が見捨てられないかと怯えながら、それでも必死に己の意思を頼みこんでくる表情。庇護しなければ、と感じさせるそんな顔つきに、ギルベルトは弱い。唇を噛んで目を閉じ、息を吸い込む。冷えた空気は肺を痛めるように喉を乾かし、乾いた咳を伴って出て行った。イヴァン・ブランギスキ。冷たくも温かくもなく呼びやられた名に、『ロシア』が背を正して笑う。
「なに、ギル君」
「これだけ答えろ。俺に、俺を呼んだ理由を教える気があるのか、ないのか」
 イヴァンはそうっと眉を寄せ、言葉にしてはなにも告げずに困った風に微笑した。つまりそれは、ない、ということだ。少なくともイヴァンはギルベルトにそれを教えてやるつもりがなく、時を重ねたとて告げてやる気もないのだろう。言葉に表さないのは確定を避ける、ただそれだけの意味しか含まない。頭痛を堪える為に額に指先を押し当て、ギルベルトは相手を殴って聞きだすべきか、ドイツに帰国すべきかをしばらく考えた。
 ギルベルトとしては、いっそ帰国してしまいたい所だ。しかしロシアの属国として現状を認識している『国』の意識が、統べる者の傍らにあれと『プロイセン』に命令している。選択肢は最初から、用意されていないのだ。殴るとしたら顔か腹か、さもなくば背中を蹴るか、と考えながら視線を向けると、イヴァンは笑いながらトン、とギルベルトから一歩退く。ダメだよ、と艶やかさを感じさせる微笑は、『国』としてのものだった。
「いいから。……いいから、そんな難しく考えないで。食客に来たとでも思って、君はこの屋敷に居ればいいんだよ。仕事が忙しくなったら僕の秘書みたいな形で動いてもらうことになると思うけど、その時はまた、そう言うね」
「……お前、本当になんで俺を呼んだんだ」
 諦めの悪い、と言いたげにイヴァンの唇が弧を描く。相手に教えるつもりが無いとハッキリ分かっているのに、問い続けることになんの意味があるというのか。それ以上の質問は愚かだよ、と怒りの欠片をちらつかせて脅しにかかるイヴァンに、ギルベルトは好戦的に目を細めた。ちり、と心の中で火が燃える。けれど、それは一瞬のことで、ギルベルトの気分は不意に落ち着いてしまった。生温い湯に、心が浸されたように。
 好戦的な意思がすうと引き、後に残ったのはぶあつい布にくるまれたような、奇妙な穏やかさだけだった。ギルベルトの意思ではない。なにか強制的な働きが、ギルベルト個人の意思を沈ませてしまったのだ。気持ちの悪い感覚に、ギルベルトは無言で眉を寄せる。イヴァンは静かな眼差しで、ギルベルトを観察していた。距離を保ったままで、イヴァンは静かに呼びかける。ギル君。重ねられた視線に、微笑が向けられた。
「『国』に……戻って、今日で何日め?」
「多分、十日」
「そう。それでね、ギル君。君は……どこの『国』になったつもりなの?」
 ドイツ国内のロシア領、と皮肉げに言ってやろうとして、ギルベルトは息を吸い込み、中止した。向けられている視線が、あまりに真剣すぎたせいだ。どこって、と意図せず言葉が零れて行く。指先から、体温が失われた気がした。
「俺は『プロイセン』で、ドイツの……東側を背負った、『ドイツ』の片割れで。それで今はロシア領、だ」
「本当に?」
「……『ロシア』?」
 なんだよ、と訝しげにするギルベルトに溜息をついて、イヴァンは改めて呼び掛ける。じゃあ、『東ドイツ』君。自分で言っておいてどうもピンと来なかったのか、ギルベルトは渋い顔つきで首を傾げて沈黙した。最初に断ったように、あくまでギルベルトの意識は『プロイセン』なのである。それでもいいけど、とどうも納得していないギルベルトを軽く絶望的な目で眺め、イヴァンはもう一度呼びかけた。耳にも、舌に馴染んだ名だった。
「じゃあ、やっぱり『プロイセン』君?」
「おう! やっぱりそっちが良いぜ。つか、分かってると思うけど」
「うん。普段はちゃんとギル君とか、ギルベルト君って呼ぶよ。確かめてみただけ」
 意識の形が『東ドイツ』であるのか、『プロイセン』であるのか。なるべく前者であって欲しいという希望は打ち砕かれて儚く、イヴァンは心の底から重苦しい溜息を吐きだした。これが『ドイツ』本元であるルートヴィヒに気がつかれてしまう前に、深刻な状況であると理解される前に、呼び寄せることが出来て本当に良かったと思って。これから祖語はどんどん大きくなって行き、それは心身共にギルベルトを苦しめることだろう。
 イヴァンとギルベルトも、付き合いが深くないにしろ古なじみである。そんな存在が目に入れても痛くない程に可愛がって育てたルートヴィヒが、苦しむ所など、戦争以外で好き好んでみたいとは思わなかった。程なく、誰もが知る所にはなるだろうけれど。まあいいよ、と誤魔化す呟きを発して、イヴァンはお茶にでもしようね、と言って廊下を歩きだす。不審そうにしながらも問わず、ギルベルトはその背を追って歩き出した。
「ああ、そうだ」
 タイミングを慎重に見計らって、あくまで気まぐれに聞こえるように笑顔さえ気を付けながら、イヴァンは振り返って言う。
「体調悪くなったら、すぐ言うんだよ? 君は今、『ロシア領』なんだからね?」
 そうである以上、体調を管理してやるのがイヴァンの義務なのである。その認識を染み込ませるように囁けば、ギルベルトは嫌そうに眉を寄せながらも素直に頷いた。分かった、という言葉をお守りのように胸に抱き、イヴァンは再び廊下を歩きだした。言葉の通り、『ロシア領』でもあるのなら、イヴァンにも出来ることがある筈だと、祈るように強く信じて。けれどイヴァンの望みもむなしく、翌年『東側』に国が誕生する。
 ドイツ民主共和国。ギルベルトが受け持つ地域がそう国名を持ったと同時に、『プロイセン』はひどく体調を崩して、倒れ。高熱状態が続いたまま、ベッドから起き上がれないようになってしまった。

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