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 5 マリア

 蜜蝋に灯された炎が、風もないのに揺れている。甘く空気に溶け滲むさまを、瞬きすら惜しんでじっと見つめていた。辺りは温かな暗闇に包まれていて音もなく、人の気配も感じられない。薄闇を照らし出すでもなくぼんやりと、まるく滲む光として炎はゆらりと揺れていた。座り込んだ脚と、床に付いた手のひらが感じ取るのは擦り切れそうな布の感触。ちいさなちいさな体を覆っているのは、ぶ厚い毛布一枚だけだった。
 寒くもない。温かくはなかった。適度な熱が毛布の中に籠っていたから、それで十分だったのだ。留まる事が苦にならない熱があるなら、それで良かったのだ。見つめる。見つめる。ゆらりゆらりと甘くくゆる炎が、最高にして唯一の娯楽だった。やがて空間に、微かな足音が忍び込む。美しく整えられた庭園を横目に渡る回廊を、誰かが渡ってくるのだった。振り返りはしない。扉が開いても、視線を炎から外さなかった。
 扉が軋む音を奏でながら開き、閉じられ、溜息がもれる。コツリ、コツリとゆっくり歩み寄ってきた足取りは悪く、穏やかで、人の身に過ぎた時の重さを感じさせた。ふと影が落ちる。身を屈めて横から顔を覗きこまれるようにして初めて、視線を炎から外した。朝に連れて来られ、日が落ちれば迎えに来られる。その時だけ見る老いた修道女の顔に、目をきゅぅと細めて焦点を合わせる。唇が息を吸い込んで、半日ぶりに動く。
 声は響いたのかも知れないし、響かなかったのかも知れなかった。すくなくとも耳が音として拾い上げるには弱すぎたそれに、修道女は穏やかに笑んで両手を伸ばして来る。壊れものを扱うように慎重に、それでいて赤子を抱き上げるしっかりとした手つきで体は持ち上げられ、腕の中に抱きしめられた。見上げるばかりだった炎を、ようやく見下ろせるようになる。朝と晩。一日二回だけ、火の揺らめきは上ではなく下に来る。
「……行きましょう」
 そっと囁かれた声にこくりと頷き、目を閉じて修道女の胸元にぬくもりを求めて身を寄せる。朝から感じることのなかった己以外の体温は、涙が出るほど愛おしく、そして温かいものだった。くすりと笑い、修道女の節くれた指先が額に散った前髪を整え、ふくふくとした頬を擦るように撫でて行く。しわくちゃの、老いた手指だった。薬草と花と、ほんのり死の香りがする指だ。失いたくなくて、指先をきゅぅと握りしめて囁く。
 彼女の名をなんと言ったか、その場所の名をどう呼んでいたのか。ギルベルトは、未だ思い出せないでいる。欠けて失われてしまった、一番最初の記憶だった。



 物音で目を覚ましたギルベルトは、まず自由に動かせぬ体に眉を寄せた。体中が痺れたように痛く熱く重たくて、重度の筋肉痛と火傷を同時に患ってしまったようだった。息を吸い込もうと喉を動かせば乾いた咳に代わり、意識がたちまち熱に飲み込まれてしまう。ぐら、と強い眩暈がして目を開けていることすら出来なかった。力なく下ろした瞼の裏側で、ギルベルトはぐらぐら揺れる意識に吐き気を覚えながら鈍く考えた。
 彼女の名前は、なんと言っただろう。土地の名は、あるいは歴史書を引っ張り出して片っ端から舐めるように見つめれば出会い、思い出すことが可能なのかも知れないが、彼女の名前は文献にすら残らないものだった。あんなに大切にしてくれていたのに。朝と夕。日の出と日の入り。老いた修道女は幼子を抱きあげて長い回廊を渡り、蜜蝋の灯る聖堂にギルベルトを連れて行ってくれた。あの腕に、幼子は重かったろうに。
「ギルっ? ……ギルベルト、ねえ、もしかして意識あるの?」
 必死の呼びかけに意識が引っ張り上げられるのを感じ、ギルベルトは瞼を持ち上げた。先程よりずっと楽に目にものを映せたのは、意識に感じるぐらつきも弱くなっていたからだろう。激しい嵐にさらわれて行く木の葉に手を伸ばし、掴みとるような荒々しさで、意識が包まれている。目に映った存在をエリザベータだと脳が認識するより早く、湯の沸く音が耳に引っかかった。お湯、と呟くと、唇が乾燥して痛いことに気がつく。
 亀裂が入った感覚に、ギルベルトはぎゅぅと唇を閉じて眉を寄せた。エリザベータはギルベルトに覆いかぶさるように身を寄せながら、アルミのちいさな入れ物を懐から取り出し、そっと蓋をあける。指先で中の油脂をすくいあげ、女性の指先が、油脂を切れた唇に引いてやる。エリザベータは熱で朦朧としているギルベルトの目を覗きこみ、囁くように告げた。
「部屋の湿気に、暖炉でお湯を沸かしてるのよ。うるさい?」
 油脂でべたついた指先を擦り合わせる仕草を、ギルベルトはなにも考えられずに見つめていた。忙しく動き回るエリザベータの指は、ちいさなアルミの入れ物に蓋をして懐にしまい、ベッドサイドに置いてあった濡れた布を取り上げる。よく絞ってから頬を拭い清める布に、ギルベルトはほっと息を吐き出した。なにも告げられないギルベルトから、うるさくて問いかけた訳ではない、ということだけをエリザベータは受け止める。
 首の後ろや耳のあたり、手は指の間までを丹念に拭って、布が離れて行く。拭われたのは服から露出している部分だけだったが、それだけでも随分と心地良い。熱でだるくとも落ち着いた息を吐き出して、ギルベルトは薄く唇を開いた。なにか話したがる様子を見てとって、エリザベータはちょっと待って、と制止する。座っていた椅子から立ち上がったエリザベータは離席し、すぐに戻ってきた。手にはマグが持たれている。
 湯気の立つ湯をくんできたエリザベータは、まず自分で一口飲んで熱さに顔をしかめると、水差しを取って半分くらい注ぎ入れた。それからもう一口飲み、温く飲み込みやすくなっていることを確かめてからいったんベッドサイドのテーブルに置き、椅子に座りなおしてギルベルトに手を伸ばした。一度肩に触れた手は確かめるようにすぐ離れ、もう一度触れた時にはエリザベータの体が屈みこんでくる。顔に影がかかった。
 かすめるだけの口付けは、一秒にも満たなかっただろう。すっと体から一次的にだるさが消えたのに気がつき、ギルベルトは腕を動かし、エリザベータの体を押しのけた。感謝すればいいのか謝罪すればいいのかも分からず、ギルベルトは口ごもる。その様子を見てとったエリザベータは、苦笑しながら身を起こし、ギルベルトにもそうするように告げるとマグに手を伸ばす。そして身を起こしたギルベルトに、マグを差し出した。
 ぼってりとした厚みのある無骨なマグは、重みを持ってギルベルトの手の中に収まる。枕を背当てのクッション代わりにしながらベッドの上に起き上がり、ギルベルトは生温い湯をすする。乾いた舌と口、喉に、水気がじわりと染み込んで行く。ゆっくり、ゆっくり時間をかけて一杯の湯を飲みほし、ギルベルトはマグをエリザベータに返した。エリザベータは空のマグを満足げに見やり、棚の上に無造作に置いてから首を傾げる。
「はい、もうしゃべっても良いわよ。なに? なにか言おうとしたでしょう?」
「……俺なんで寝てんだ? で、お前はなんで俺の看病してんだ?」
「アンタが寝てるから私が看病してるのよ。分かりきったことは聞かないでくれる?」
 ぺち、と全く力の入らない平手で額を叩かれて、ギルベルトは納得できない気持ちでゆらりと頭を揺らした。だから、その、なんで寝ているのか、を聞いているのだが。エリザベータの答えは問いかけに対してなんの答えにもなっておらず、ギルベルトはぷぅ、と頬を膨らませて抗議した。無言で不満を表す幼い仕草に、エリザベータは呆れながら目を細めて手を伸ばす。そして、空気の入った頬を両側から押しつぶした。
 ぶふっ、と吹き出されるのをものともせず頬をぐにぐにと手で押して遊ぶと、ギルベルトは昔となんら変わらない仕草で首を振り、ものすごく嫌そうな顔でエリザベータの手を押しのけようとする。ぐぐぐ、と手首を掴んで引きはがそうとする力はエリザベータが思っていたよりは強く、平常と比べればとても弱々しいものだった。だからこそ素直に引いてやらず好き勝手に頬をもて遊び、エリザベータは満ち足りた息を吐き出した。
「よし、満足。……なに、本当に分かってない訳? フィードバックに決まってるじゃない」
 それは、『国』として生まれた者の宿命。国の経済の不調、あるいは民衆の意識の不安や混乱が流れ込み、あるいは逆流して『国』の体調を崩してしまうのだった。告げられて、ギルベルトは初めて気がついたように胸に手を当てる。よくよく考えて感じて見れば、それは重すぎるだけであって、確かに覚えのある感覚だ。経済の不安定、国民の不安感、混乱、落ち着かない気持ちが胸をかき乱している独特の感覚。
 なんだ、と原因が知れたことの安堵に息を吐き出しかけ、ギルベルトの動きがぴたりと止まる。なにも安心できることではなかった。『国』にこれだけダメージが加わっているということは、国はどれ程の混乱状態にあるというのか。強い焦燥の視線を真正面から受け止めて、エリザベータは唇を開く。イヴァンがギルベルトが倒れてすぐ、ソビエトに属する『国』に告げていた言葉を思い出す。もしも、彼の意識がそのままならば。
「ねえ、ギル」
 呼びかけにギルベルトは、求める答えでなかった不満をありありと瞳に表してみせた。赤い、夕陽のような瞳。揺れる、炎のように鮮やかな瞳。流れる血と、同じ色をした。息を吸い込んで、エリザベータは問いかける。
「アンタ……『プロイセン』だと、思ってるのね?」
 現在の亡国の名を背負う『国』は、ぱちぱちと不思議そうにまばたきをした。問われるまでもないことを、問われてしまったからこその軽い混乱。もどかしい気持ちで待つエリザベータに、ギルベルトはさらりと告げる。なにを当たり前のことを、と言わんばかりの口調だった。
「そんなの、お前が一番よく知ってんだろうが。俺は『プロイセン』、ギルベルト・バイルシュミットだ」
「……あっそ」
「ちょ、テメっ! なんだ自分で聞いといてその気のない返事は!」
 アンタその体調で怒ると体がついていかなくて倒れるわよ、という言葉をエリザベータが告げるより早く、眩暈に負けたギルベルトはぱたりとベッドに横になってしまった。ぐらぐらする、と呻きと泣き声の中間の囁きが、情けなく空気を揺らしていく。起き上がれない頭を撫でてやりながら、エリザベータはじりじりと焦げるような想いを胸に抱いていた。やはり変わっていない。『プロイセン』は、『プロイセン』のままだった。
 背負う土地が新たな国名を名乗ってなお、ギルベルトの抱く国意識は『プロイセン』のまま、『ドイツ民主共和国』を弾いてしまっている。それでも彼が『国』として存在する国は、現在はドイツ民主共和国なのだ。その甚大な、重大な、あってはならない齟齬が、ギルベルトの異常な不調の原因だった。誰がどうしてやることも叶わない。イヴァンが必死に手を回そうと、ギルベルトに降り積もる負荷に変化は見られなかった。
 数年ぶりの目覚めであることすら、ギルベルトには分からないに違いない。もそもそと身動きをして眠る姿勢で横になり、ギルベルトはだるそうに目を閉じてしまった。外では雪が降っている。何度も繰り返した春を通り越して、眠り前の続き、変わらぬ季節であったかのよう、音を消し去りながら白く降り積もっている。乾いた咳をもらしながら、ギルベルトは意識がまどろむのを感じた。体が意思とは関係なく、眠りたがっている。
 急になにか不安を感じて、ギルベルトはうすく目を開いた。
「エリザ……」
「え? ……っ、えっ?」
「手、握ってろよ。……おやすみ」
 ぎくりと息を飲んだ狼狽を受け止めもせず流し、ギルベルトはエリザベータの指先を握り締めるようにして再び瞼を下ろしてしまう。とろとろと、弱火にかけられている土鍋のように熱を感じた気持ちで意識をまどろませ、ギルベルトは呼吸を深くして寝入ってしまった。指の自由を奪われながら、エリザベータは停止していた息をようやく吐き出し、信じられないものを見つめる視線をギルベルトに送る。その、隠れてしまった瞳に。
 赤い瞳である筈だった。すくなくとも誰もが知る『ギルベルトの瞳の色』は、赤でしかなかった。夕陽のような、炎のような、鮮烈に咲く花のような、身を流れて行く血のような。それをエリザベータは知っている。けれどもう一つ、かつて男が持っていた瞳の色を、エリザベータだけが知っていた。思い出と古い名と共に、消えてしまった色である筈だった。それは空の色。よく晴れて雲一つない清らかな空気の先にある、空の青。
 青い、瞳。泣きだしそうな気持ちで、エリザベータは唇を開く。
「ギル……ねえ、ちょっと。ちょっと、ギル。ギルったら。起きて。……起き、なさいよ」
 掴まれた指先を動かして手のひらを爪でひっかいてみるも、そんな些細な刺激は眠りの邪魔にすらならないようだった。高熱と全身の不調で寝込んでいるとは思えない穏やかな表情で、ギルベルトは呼吸を繰り返している。ねえ、とエリザベータは囁いた。掠れて裏返り、震えてしまった声だった。
「眠ったの? ……『マリア』」
 失われた筈の名だった。何百年も封印して、口に乗せさえしなかった名だった。それなのに唇も舌も戸惑うことなく動き、いとも慣れた風に呼びかけが響き渡る。応えるように、指先を掴んだ手に力がこもる。眠るギルベルトは、かすかに笑ったようだった。泣き出したい気持ちで、エリザベータはもう一度、おやすみを告げる。掴まれた指先を動かして、しっかりと繋ぎ合せた。男性の大きな手と、女性の華奢な手だった。
 大きさが違う。皮膚の固さも、指の節くれた感じも、癒えない傷跡も、重ならない鼓動も、ぬくもりも。なにもかもが二人が、ひとつのものではないと物語っている。それが悲しくて、一度は離してしまったてのひらだった。そっと目を伏せて、エリザベータは繋いだ手に力を込める。二度と、離してやるものか。もう、二度と。目を閉じれば思い出の中、幼子が笑う。修道服を着て、銀色の髪に青い目をしていた。草原をかけていた。
 手を繋いでいた。あの頃世界は二人きりで、二人だけのものだった。



 気がつけば、己の存在がなんであるかを知っていた。なんの為に生まれたかは知らず、いつからそうであったのかも分からず。ただいつの間にか、生まれていくばくかを過ごした修道院の日々は遠くなり、老いた修道女は会えぬ人となっていた。人は、五十年を待たずに死ぬのだ。そして死んでしまった人とは、もう永遠に会うことが出来ない。いつの間にかそれを知り、けれど本当は、最初から知っていたような気もした。
 あの修道院を出たのがいつ頃のことなのか、なぜ出ることになったのか、そもそもどうしてあの場所に居たのか、修道女はどうなったのか。疑問はいくつも心に浮かび、そのどれにも答えを持つことが出来なかった。気がつけば『外』に居て、気がつけば蜜蝋で作られたろうそくに灯る火を見つめるだけの日々は遠く、気がつけばそれが当たり前になっていた。座り込んでいた足を動かして、走り回るのが日常になっていた。
 アッコン野戦病院。その化身として白い看護服をまとい、幼い手足を必死に動かして怪我人の間を走って回る。白旗代わりの大きな布がはためくテントの下では、いくら空が晴れていても青さすら見ることはできない。快晴を告げるのは土の香を含んで強く吹いてくる風だけで、それもすぐに血の匂いやうめき声、消毒液と傷んだ傷口のすえた臭いにかき消されてしまった。死を待つだけの、助からない人々だけがここに居る。
 それでも諦めさせたくなくて、すこしでも痛みを取り除いてやりたくて、望まれるなら安らかに旅立てるように見送ってやりたくて、一時も休まずに幼子は人の間をかけずり回る。その足を止めたのは、掠れたひとの声だった。マリアさま、と幼子を呼ぶ声。いつしか幼子は『マリア』と呼ばれ、それを己の名であると認識するようになっていた。自分が『アッコン野戦病院』だということも知っている。ただ、人はその名で呼んでいた。
「御、手……を」
 途切れ途切れのその声すら、全身の力を振り絞って発されたものだった。その時まで手に持っていた薬草も包帯も全て場にばらまくようにして、幼子は声を発した青年の元へかけて行く。誰が見ても助からないことが明白であり、そして生きていることが不思議になるくらいひどい有様の青年だった。左目は既に無く、左腕は肩ごと落とされたのかどこにも見当たらない。脚は二本揃っていたが、右足首から先も欠けていた。
 腹部には大穴があいていて、臓器のいくつかが失われたようだった。体の形を保つように巻かれた包帯はどす黒い血で染まっていて、一秒ごとに血の量を増やしている。もう数分も、数十秒も生きられるか分からない青年の残った右腕を抱きしめるように、幼子は飛びついて手を握り締めた。全身ががくがくと震えているのは、ショックかあるいは大きすぎる感情が処理しきれない為なのか。血が溢れ、幼子の足を汚した。
 残った手に触れられて、青年の顔が泣きながらくしゃりと笑みに歪む。痛いよ。こどもが母親に訴えるような無垢な言葉に、幼子は歯を食いしばりながら大きく頷いた。嗚咽はもれなかった。見開かれた瞳は痛々しいほど乾いていて、涙を浮かべることを拒絶しているようだった。涙の幕を通さない鮮やかな世界で、幼子は死にゆく青年の手を取り、見つめる。青年の指先に力が込められ、幼子の手を痛いほど包み込んだ。
「……ど……か」
 もう、意味のある言葉すら響かない。伝えようとする言葉を必死にくみ取り、幼子は震える唇を無理矢理開いた。掠れた声が、安らかな眠りを祈る言葉を捧げて行く。視線は反らされること無く、青年に向けられたままだった。言葉の途中で、青年の手から力が抜け落ちて行く。待って、待ってもうすこしだからっ、と悲鳴のように思う幼子の前で、青年はああ、と深い溜息を吐きだした。もう痛くない、と青年の唇が囁いた。
 あたたかい。声にならない呟きを落として、青年の体から力が抜け落ちた。青年からあふれ出た血は幼子の着ていた看護服を足元からどす黒く染め、重たく冷たい戒めとなって白い服に染み込んで行く。幼子は青年の手を離し、醒めない眠りに落ちた頬をそぅっと撫でてやる。安らかな表情だった。痛みなど感じず、温かな場所で眠りについたような表情だった。幼子が看取る者は、皆そのような表情で息を引き取って行く。
 日が完全に暮れて足元が見えなくなるまで、幼子は痛みを訴える者たちの手を取り、見送ることを繰り返して。迎えの手によって教会に連れ戻されるまで、その場を離れようとしなかった。夜が明けた早朝になると、幼子は教会を抜け出して死を待つテントにやってくる。そしてまた日暮れまで、人々の死を見送り続けるのだった。それが当たり前の日常として、人も幼子も受け入れる程に時が過ぎた頃に、変化は訪れる。
 奇跡を起こす神の担い手。時を経ても姿が変わらぬ幼子が居る筈だと言って病院を訪れたのは、まだ幼い姿をした少年で。黒衣に身を包み、黒いマントに帽子をかぶった少年は、自らを『神聖ローマ』と名乗り。その存在は『アッコン野戦病院』であり、己の仲間なのだと告げた。その上で当たり前のように対面を望まれてしまったので、幼子は朝からとてつもなく不機嫌だった。テントに行かせて貰えなかったからである。
 病院を運営する者たちがなにを考えているか、己の身をどう扱いどう感じているのかということは、幼子にしてみれば重要なこととも思えなかったのだ。『国』という存在は未だ神に等しく、人の心に根ざしているということすら、分かっていてもどうでもいい。幼子はただ、人の為にある。人を救う為にそこに在り、それこそが存在を許された理由だと感じていた。だからこそ身を磨き上げられることも、対面も興味はないのだった。
 屋外テントを設置した方向に睨むような視線を向け、窓に張り付いたままの幼子は意地でも室内に意識を戻そうとしなかった。部屋に入って一時間しても窓に張り付いたままの幼子を、病院の者たちは無理にはがそうとしたのだが、それを止めたのは『神聖ローマ』だった。『アッコン野戦病院』を『国』だと断言した『神聖ローマ』は、これから成長していく少年の姿をしていた。線はどちらかと言えば細く、優美な印象を与える。
 手は剣を握る者のそれをしていたが、大きくはなく無骨でもなかった。楽器のほうが似合う手だ、と幼子は見た瞬間に思ったが、観察する間もなく窓に駆け寄ってしまったのでそれ以上のことは分からないままだった。あるいは指揮棒を持って動かす方が適任なのではないか、と一応は考えながらも、幼子はひらすらに見えぬテントを見ようとして窓の外に視線を向け続けていた。こうしている間にも、途絶えて行く命がある。
 ひとつ、ひとつ、火を吹き消すように無くなってしまう命があることを感じていた。一時間。そこが我慢の限界で、幼子は窓から体を離すと、身をひるがえして部屋をかけ出て行こうとした。それを許さなかったのが神聖ローマだ。少年はいともたやすく幼子の腕を掴んで引き留めると、じたばたと無言で暴れる頭にぽんと手を乗せ、気安い様子で額を重ね合わせてくる。こつん、と額が触れ合い、こら、と柔らかな声で制止される。
「暴れるんじゃない。……ああ、ようやくこちらを向いたな、『アッコン野戦病院』」
 普段は誰からも呼ばれることが無い『存在名』は、幼子の心をひどく静かにさせてしまった。荒れ果てた海が、奇跡のように凪いで行く。目を瞬かせて黙りこんでしまう幼子に、少年はお前のことだよ、と囁きかけた。『アッコン野戦病院』、その化身。石に染み込む水のように清涼な、それでいて穏やかな声に思わず頷きながら、幼子は自然に唇を開いていた。それは確かに自分のことだが、それはそれとして名前がある。
「マリア」
「……マリア? ああ、お前の呼び名か」
「知らない。でも、マリアって、呼ぶ」
 たどたどしく意思を伝えてくる言葉が、神に捧げる祈りは誰より流暢に歌い上げることを少年は知っていた。朝に、夕に。捧げられる祈りの言葉は聖堂に高らかに響き、しんとした空気を震わせるのを聞いていたからだ。そうか、と頷いてやりながら、少年は幼子を『保護』した騎士たちの話を思い出す。名前があるのか無いのかも分からない山奥のちいさな村の近くに、幼子はたった一人、道にうずくまっていたのだそうだ。
 迷子か捨て子か。どちらにしても保護してやろうと近付いた無骨な騎士たちを、幼子は怯えるでもなく見上げ、唇を開いて尋ねたという。『マリアは?』と。マリア。それだけが幼子の話せる言葉であり、知る言葉の全てであるかのように、それだけを繰り返して、返事がないと分かると泣きだして。この世の終わりのように悲しげに泣きじゃくる幼子をなぜだか放っても置けずに騎士たちは連れ帰り、病院に預けたのだという。
 その話を聞いた少年の感想は、言葉にしがたいものがあった。幼子は確かに『国』である。育たない奇跡の幼子がアッコン野戦病院に居るらしい、と聞いた時にもピンと来たのだが、姿を見て確信し、言葉を交わしてそれは確定となった。これは『国』だ。確かに『国』なのだ。それなのに幼子は、まるで人間のように人のぬくもりを知っていた。普通なら持たない筈の人としての呼び名すら、すでに胸に抱いているのだ。
 幼子が発した『マリア』は、己の名ではなく、それまで共に在った誰かの名であったに違いない。あるいは聖母の存在だけを教え込まれたが故に、それだけを覚えていたのかもしれない。幼子本人の記憶は時と共に薄れたのか、拾われた時のことを覚えていないという。今となってはその呼称が本当は誰のものであったのかを確かめる術がなく、唯一分かっているのは幼子がそれを自分の名だと認識していることだった。
 だからこそ『アッコン野戦病院』だと呼ぶのもしのびなく、少年は幼子の求めに従って『マリア』と呼んでやることにした。これでいいか、と確かめるように口にすれば、マリアの目がまあるく見開かれて瞬きをした後、じわりと喜びを広げて大きく頷かれる。晴れ渡る空の、濃い青を写し取った瞳だった。満足げに見返しながら、少年はマリアの髪を撫でてやる。中途半端に肩まで伸びた銀色の髪は、艶やかで柔らかかった。
「では、マリア。俺は『神聖ローマ』だ。……分かるな?」
「うん。……はい?」
「どちらでも、お前の思うように返事はすれば良い。だが……そうだな、はい、が望ましいかも知れないな」
 言いつつも、強制するつもりはないのだと眼差しで告げれば、マリアはくすぐったそうに笑いながら『はい』と言った。素直で、そして理解力もあるようだった。さてどうするか、と頭を撫でてやりながら考え、少年はとりあえずは落ち着いた様子にマリアを見ながら考える。マリアは今のところ『国』であって、『国』ではない。人ではない存在でありながらも背負うべき国土がなく、守護する人と場所があるばかりなのである。
 人が誇らしげに囁く奇跡というのも、『国』であればそう難しくはないことだ。それはあくまで国民限定ではあるものの、マリアの『国民』は、いわば野戦病院の患者に該当する。その幸せを願う意思、安らかであれと祈る想いが、人の体に影響し、触れることで痛みを取り除いているのだろう。人の果てない想いが具現して、『国』という存在を作りだした。すくなくとも少年はそう思っていたから、奇跡を不思議に思わなかった。
 だが、マリアのしていることを全て受け入れている訳もない。今も、己の『職務』を思い出してかそわそわするマリアに、少年は厳しい表情で問いかける。みとっていると聞いたが、それは事実か、と。問いに戸惑いながら頷いたマリアに、少年はさらに尋ねた。なぜ、そのようなことを。
 マリアには、少年の問いが信じられなかったようだ。裏切られたかのような悔しさを瞳に走らせ、睨みつけながら唇を開く。
「呼んでる」
「呼ばれるから、か? ……『国』はそんな風に、民に肩入れしていい存在ではない」
「じゃあ、マリアは『国』じゃなくていい!」
 止める、と衝動的に言い放ったであろう幼子の頬を、ごく冷静に少年は手で叩いた。パン、と冷たい音が響く。茫然として見返して来るマリアは、誰にもそういう扱いを受けたことがなかったのであろう。混乱と恐慌を引き起こした意思が瞳からはうかがい知れ、やがてぶわっと涙が浮かんで来る。派手に声をあげて泣くちいさな体を抱き上げて椅子に座り、少年は溜息をつきながら、力いっぱい抱きついてくる体を撫でてやった。
「それがお前の『国』としての存在意識の一つなら、俺はそれを受けいれよう。止めさせようって言うんじゃない。ただ……肩入れするな、と言っているんだ。人はいずれ必ず死ぬし、お前がみとる者たちは特に、炎のように命を燃やしつくして消えて行く。お前は死に向かう者を安らがせることはできても、引き留めることはできない。守護者ですらない。……『アッコン野戦病院』、お前は、なぜ人をみとり、死を見送っている」
「手を……」
 血の気を失って冷えてしまった手に触れて、体温を分け与えるだけしか、本当はできていないのかも知れないけれど。そのことだけでも喜びと感じ、繋いでいて欲しい、と願うひとがそこにいるから。名を呼ばれれば、マリアはその手を取らずには居られないのだった。きっと今も救いを求めて、誰かが『マリア』の名を呼んでいる。受け止められず、冷えたままで地に落ちた手のひらは、最後のぬくもりを知らぬままだっただろう。
「温めて、あげたいから」
 痛いよ、とこどものように泣き叫んでいた男の手に触れた瞬間、すっと声が静まって。しがみつくように手を握り締めて来た日のことを、マリアは忘れることが出来ないだろう。あたたかい、と言い残して人は死んでいく。その為だけに、マリアは人の死に触れに行くのだ。理由が必要ならば、それだけでいい。覚悟をしてしまった幼子の瞳を見つめ、少年は馬鹿、と言って溜息をつく。それは本来、『国』の仕事ではないのに。
 人と同じ形をとっている以上、『国』の手はふたつしかない。国民の数は多く、無数に伸ばされる手全てを握り締めてやることなど出来はしないのに。生まれてくる命全てに祝福が届かないのと一緒で、死んでいく命全てを包み込んでやることは出来ないのだ。叶わないのだ。どうしても。マリアもそれを知っている。その上で、出来る限りを行いたいと思っているのだろう。ひたむきな視線は反らされず、少年を睨んでいた。
 どうしてやることも出来ず溜息をつき、神聖ローマはマリアの頭をぽん、と撫でる。国土に縛り付けられた『国』と違って、マリアはもうすこしだけ自由だった。人の集団を母体とした『国』だから、時を経て行くごとに名や、意識もこれから変わって行くことだろう。姿の成長は、遅いものだろうが。分かった今はそれで良い、と頭を撫でながら呟いて、神聖ローマはマリアを見つめる。ただ、と言った唇が、艶やかに笑みを刻んだ。
「覚えておけ。お前は人ではなく、俺と同じ『国』だということを」
「……はい」
「二年か、三年くらいしたらまた来る。その時にもう一度会おう」
 その時まで、ひとの悲しみに囚われ過ぎるなよ、と言い残して出て行った少年の言葉の意味を、マリアが知るのはそれからすぐのことだった。一日に何人も死を見送っているのに、涙すら流さない。影口はひっそりと囁かれ、マリアの心を傷つけた。マリアは『アッコン野戦病院』だ。『国』だ。『国民』はすなわち『患者』であり、目の前で傷つき痛みを訴えている者全てだ。それなのに、その全てをみとることができない。
 その全てを、愛してやることができないのだった。人の体を持つが故の限界は、だからこそ涙を流さないという決意で現れていたのに。そこに在る一人一人に悲しんで泣いてやることができないから、マリアは決して人前で涙を流すことをしなかったのに。それでも、だからこそ、一人でも多くの手に触れたいという奇妙にねじれて矛盾した想いは届ききらず、生まれて間もない『国』の心を傷つけてしまった。そして、三年後。
 再び現れた神聖ローマに抱きついて、マリアは言葉にもならず泣きじゃくる。予想していた苦笑でもって迎えた神聖ローマは、幼子を抱きあげ、保護するようにそっと体を抱きしめた。それは、『奇跡を起こす者』としてマリアが認知されてから、約十年を経た頃。姿を成長させない幼子に、だんだんと不審の目が向けられていた頃だった。人は、人で在らざるものを心に受け入れることができない。崇拝か、拒絶以外では。
 それから神聖ローマはマリアのことを『家族』とし、マリアは少年を『兄上』と呼んだ。それは二人が人から離れ、『国』として存在を確立させる為の儀式めいた契約であり、マリアが『国』として受け入れられる為の準備でもあった。やがて、人は知る。幼子は紛れもなく『国』であり、人に非ず、守護神に等しい者なのだと。時は流れ、『アッコン野戦病院』は名を変えて行く。二つ目の名は、『ドイツ人の聖母マリア騎士修道会』。
 幼子の名を冠した騎士修道会に、神聖ローマは満足げに頷き。幼い姿であるからこそ荒くれたちに可愛がられるようになったマリアを、優しい目で見つめていた。人は『国』を受け入れ、『国』は人を限りなく愛して行く。病院時代、冷たい手しか触れなかったマリアを、抱き上げる男の手は温かかったのだろう。きょとんとした目は、やがて涙をあふれさせていく。泣き出した幼い『国』を、騎士たちは笑いながらあやしていた。
 人々は、確かに『国』を愛していた。『アッコン野戦病院』として生まれたマリアは、『ドイツ人の聖母マリア騎士修道会』にて『国』となり、ようやく己の民を得たのだった。
「兄上!」
 照れた風に呼ぶ声が響く。視線を向ければ、騎士の肩車から地上に降り立ったマリアが、神聖ローマに向かって一目散に駆け寄ってくる。ああ、そんなに足元を見ないで走れば転ぶだろうに、と頭の片隅で冷静に考えながら、神聖ローマもマリアに向かって駆けだした。僅かな地面の隆起にひっかかって、マリアの体がぐらりと揺れる。倒れてしまう直前で間に合って、神聖ローマはマリアの体を抱き上げ、ぎゅぅと抱きしめた。
 安堵のため息をつくと、首に腕を回してマリアがすり寄ってくる。下を向いて走れ、とため息交じりに注意すると、マリアはくすくすと甘い声で笑い、はい、と言った。はい、兄上。大切な宝物のように、マリアはその言葉を何度も囁く。神聖ローマはその度に心地よく耳を傾け、マリアの頭を撫でてやった。二人は同じ『国』という立場であり、そして確かに兄弟だった。大きくなれよ、と神聖ローマは囁き、マリアはしっかりと頷く。
 この後、マリアはある『国』の訪問を受け、面会を果たす。少年の格好をした『国』は、マジャルと名乗った。

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