触れた肌は熱くしっとりとしていて、エリザベータの心を僅かに落ち着かせた。ギルベルトの瞼は閉ざされたままで目覚める気配もないが、すくなくとも呼吸は安定しているし、寝汗もかいている。乾いてひび割れた肌ならば死を連想させるが、指に張り付くもっちりとした肌は、幼子のそれを想わせて僅かばかり微笑ましかった。ベッドのすぐ傍に椅子を寄せて腰かけ、エリザベータは枕の隣に肘をつき、顔を覗き込んでいた。
熱で赤らんだ顔つきはそれなりに苦しげだったが、辛そうには見えなかった。なにか夢でもみているのか、時折瞼がぴくりと動く。唇も言葉を紡ぐように動きかけるが、エリザベータが知る限り、声がもれたことは一度として無かった。乾いてひび割れてしまう唇に、日に何度かリップクリームを塗ってやるのが最近のエリザベータの習慣で、かさついてもひび割れていないのは女性がケアしてやっている成果に他ならなかった。
指先でふにふにと突っつけば、ギルベルトの眉がごく僅かに寄せられる。それだけでやはり目覚めもしなければ、眠りが浅くなる様子も見られない。溜息をついて首筋に手のひらを押し当てると、早い鼓動を繰り返しているのが確認できた。エリザベータは眠る男の表情を見つめたまま、首筋に押し当てた手のひらに力を込めて行く。指が首に押し付けられ、じわじわと呼吸が圧迫されて行っても、瞼は持ちあがらなかった。
失望したような、無性に泣きだしたい気持ちになって指先から力を抜けば、ギルベルトの体は本能に従って大きく咳き込んだ。苦しげにむせ、大きく息を吸い込み、吐き出し、何回もそれを繰り返してだんだんと呼吸を落ち着かせていく。一分も経つ頃には、ギルベルトの呼吸は平常のものへと戻っていた。落ち着いた風に繰り返される寝息を耳にしながらも、エリザベータの胸から失望は去らない。裏切られたとすら、思う。
こんな風に、簡単に殺せてしまうような相手ではないのだ。本当ならば首に手を当てた時点で起きて欲しかったし、力を入れるのを振り払って欲しかった。ギルベルトは、そうあるべきだったのだ。例え高熱で寝込んでいようと、何年も目覚めることが無かろうと。エリザベータがそうしたならば、ギルベルトは必ず覚醒するべきなのだった。こんな、殺意すら滲まない戯れの害意を、はねのけてくれなくてはギルベルトではない。
瞳の色を見間違えたかも知れないあの日以来、ギルベルトはずっと眠っていた。もしかしたら短い間だけ覚醒し、すぐまた眠っているのかも知れなかったが、食事と生理現象以外で席をはずさないエリザベータが目撃していないのだから、もしその時を狙って目をさましているのなら悪質だ。すっかり定位置になってしまった椅子に座り直し、エリザベータは見飽きた寝顔を嫌そうに睨みつける。咎めるように、ぴよ、と声がした。
視線を移動させると枕の上の方、ギルベルトの頭のすぐ上辺りに、たんぽぽ色のことりがいる。屋敷に来た頃はまだひな鳥だったギルベルトの拾い鳥は、飼い主が眠っている間にことりくらいの大きさになったのだった。未だにエリザベータは、このことりが何鳥だか分からない。ことり、という漠然とした分類でしか見ることができないでいる。けれどエリザベータに限った話ではなく、屋敷に住む『国』は総じて同じだった。
たんぽぽ色のことりは、小鳥である。ひな鳥が育った結果としてのことりであり、鷲や鷹のちいさいのという訳でもなく、ひばりやすずめといった、体つきの小さな鳥であるということでもない。そもそも、本当に鳥類に分類していい存在なのかどうかも疑わしかった。ことりは殆どエサを食べず、水も飲まず、羽ばたくこともせず、ただじっとギルベルトの傍にうずくまって動かない。衰弱した様子もない代わり、飛び立つこともない。
かざきり羽が無い訳でもないのに、ことりはギルベルトの傍に居て、大空へ舞うことをしなかった。特に興味もないらしい。空を恋しがって鳴く所を一度も見たことがなく、時折鳴き声を響かせると思えば、それはエリザベータを慰める為であったり、ギルベルトに呼びかける風であったりした。今もエリザベータに呼びかけるよう鳴いたことりは、飼い主から険しい視線が外れたことで良しとしたのか、ひどく満足げな様子だった。
ふごーっ、と胸一杯に空気を吸い込んで丸い体をさらにまんまるくして、ころころとギルベルトの頭の上で遊んでいる。勢い余ってエリザベータの手元まで転がって来たことりを、ひょいとつまみあげる。しげしげと観察すれば、ことりは嫌がる様子もなく羽をぱたつかせ、ぴ、と鳴いた。
「……ことりちゃん、よねぇ」
得体が知れないとはいえど、ことりは何処までも小鳥である。ギルベルトを迎えに行ったあの日、空からまっさかさまに落ちて来た鳥。じーっと見つめて、エリザベータはなんとも言えない気持ちになって、ことりを枕の上に戻してやった。なんとなく懐かしいような、心が落ち着かないような気持ちになるが、その理由がどうしても分からない。誰かの飼っていたペットに似ているからかとも思うが、フランシスのピエールではない。
あれはもうすこしスマートというか、いかにも伝書鳩風の出で立ちなのである。ギルベルトの、まるっこくでころころしたそれと印象が重なることはなかった。エリザベータは目を細め、枕の上に腰を落ち着けることりを眺める。なぜか、風に派手に煽られた軍旗を思い出した。『プロイセン』はよく、勝ち誇った顔で胸を張り、馬鹿笑いをしながら自国の旗を掲げて立っていたものだ。あの旗に描かれていたのは、黒い鷲だった。
エリザベータはことりをじーっと見つめ、己の妄想に近い推理を投げ捨てた。どうしてあの黒鷲が、ころころしたたんぽぽ色のことりになるというのか。フェリちゃんが好きそうな色であることだけは確かね、となんとなく思い、エリザベータはベッドの端に頭を乗せて溜息をつく。疲れているのか、と誰かに問われたら即答できる自信があった。体がずしりと重くて、眠くてたまらない。それなのに瞼を下ろしても、眠りが訪れない。
いつものことだった。ギルベルトが昏睡状態に近い眠りに陥ってから、エリザベータは満足な眠りを体験した覚えが無かった。頭のどこかが常に覚醒していて、些細な変化も見逃すまいと神経をとがらせているからだった。落ち着け、と自分に言い聞かせても、落ち着くことができない。嫌な焦りがじわじわ広がり、もしかしたらこのまま、という最悪の想像に行きつきそうになる。ぐっと歯を食いしばり、エリザベータは頭を振った。
意識して息を吐き出し、エリザベータは体から力を抜いて行く。そうすると、夜風に揺れる窓の音がよく聞こえた。ガタガタと硝子がなっている。吹雪でも来ているらしかった。ぶ厚いカーテンに阻まれて外の様子は見えないが、朝になれば分かるだろう。眩さに目を焼かれることを想像しながら、エリザベータは口元だけで微笑んだ。寒さは好きになれないが、室内から見る雪景色の美しさは、別として気に入っていたからだ。
なんとなく、エリザベータはローデリヒのことを思い出した。二重帝国時代に、二人で見た雪景色を、部屋の中の温かさを思い出した。寒さを紛らわすよう奏でられた音楽の素晴らしさと、家に満ちていた笑い声は色褪せないで胸にある。目を開けないままでシーツを握り締め、エリザベータはこみあがってくる涙をどうにか堪えようとした。一度涙を流してしまえば、後は泣きじゃくるしか収める手がないと知っていたからだ。
泣いても叫んでも、エリザベータを抱き寄せて慰める腕は無い。大丈夫だと囁いてくれる声は、どこからも聞こえない。すがりつく熱は、幻のように遠かった。名前を呼びたいのに、嗚咽を堪えて歯を食いしばっている状態では息も満足にままならない。たすけて、さえ、言えなかった。ローデリヒさん、と胸の中に声を響かせる。オーストリアさん、ローデリヒさん。呼ぶ名はどちらであっても、大きな違いはないように思えた。
表す存在は、たった一人だからだ。どちらも舌に馴染み、心に焼きつけた名だったからだ。遥かな憧れを恋に代えて、それを花開かせてくれたひと。音楽に全てを捧げた身でありながら、一時、エリザベータの傍に想いを寄せてくれたひと。二人の結婚は人が決めた定めで政略結婚であり、正式な婚姻ではなく『国』同士の契約に等しかったが、それでも二人は確かに夫婦であり、それは恋によって結ばれたものだった。
二重帝国であったひととき、『ハンガリー』は確かに『オーストリア』を愛し、エリザベータはローデリヒを想っていた。ローデリヒはひととしてエリザベータを愛し、『国』として『ハンガリー』を慈しんでいた。二重帝国の解消と共に男の全ては音楽に帰依し、エリザベータの恋には幕がひかれた。それは失恋ではない。振られた訳でも振った訳でもなく、最初から恐らく、期間限定の恋だったのだ。お互いにそれを、知っていた。
始まりは気が付いた瞬間であったが、終わりは終わりとして決まっていて、二人は確かにそれを全うしたのだった。今エリザベータの胸にある想いは親愛であり、信頼であり、温かな想い全てであり、忠誠にすら近いものがあるだろう。エリザベータが本当の意味で甘えることができるのはローデリヒで、立つ為に手を貸して欲しいと願ってしまうのも、その男一人だった。それなのに、どうして、傍に居られないのだろう。
せめて声を聞くことさえ叶えば、エリザベータはこんな風に沈み込んでしまうことがなかった。ゆっくり息を吸い込むと、心まで解けかけてしまうのが分かった。しまった、と思った時にはもう遅く、エリザベータの瞼から涙があふれ出てしまう。嫌だ、と思った。泣いても、泣いても叫んでも悲しみを叩きつけても、ギルベルトが目覚めることはないのに。状況はなにも変わらないのに、泣く為だけに涙を流すなんて嫌だった。
それなのに荒れ狂う心は涙を流して処理したがっていて、呼吸の為の喉がひきつった。ああ、悲しみを叫んでしまう。震えながら開いた唇にエリザベータがそう思ったのと、ばさりと音を立て、頭の上からストールが投げかけられたのは同時だった。あたたかな手触りの肩かけは、エリザベータの視界を心地よい薄闇で遮ってくれる。驚いて一瞬涙が止まった隙をつくように、呆れと怒りが混じったような声が響き渡る。
「……手が滑った」
ぎこちない響きで迷いながら告げられた嘘は、きんと冷える氷のようだった。冴え冴えとしたつららを連想させる少女の声に、エリザベータはストールの端を握り締めて呼びかける。
「ナターリヤちゃん……?」
「話しかけるな」
差し出した手を打ち払うような硬質の響きは、苛立っているようにも聞こえた。反射的にむっとしかけるが、それが彼女なりの照れ隠しだということに気が付き、エリザベータは投げかけられたストールをぼんやりと見つめる。視界全体を覆うインディゴブルーのストールは、エリザベータと外側の世界を区切っていたが、それは誰からも顔が見られないということだ。涙も、泣き顔も、ナターリヤには見えない。その為の布だった。
驚いたせいか、会話を交わしたせいか、気分はすっかり落ち着いてしまっていた。しかし不意に気持ちが揺れないとも限らないので、エリザベータは頭から布をかぶったまま、しばらく無言で過ごしていた。ナターリヤは無言でその場に居続けているようで、立ち去る気配も、話しかける様子もない。視線を感じはしないので、少女はエリザベータ以外のなにかを眺めているようだった。やがて、視界の覆いを取り払う。
すぐにナターリヤと視線が合うが、少女はエリザベータになにも問いはしなかった。すこしばかり不機嫌そうな顔つきで腕を組み、ナターリヤはぼそりと呟く。気が付かなかっただけだろう、と。それが、いつ部屋に入ったのかという問いが放たれる前の、先手を打った回答だと気が付き、エリザベータは頷くことで己の不注意を恥じた。エリザベータは無言でストールをたたみ、椅子から立ち上がってナターリヤに差し出す。
冬国の、冴えた美しさを具現したような少女によく映えそうな、南の海の色をしたストールは、しかし他ならぬナターリヤによって拒否される。体の前に手を出して首を振ったナターリヤは、己の纏うストールを指先で引っ張ることで、それがエリザベータのものだと主張した。しかしエリザベータには、ナターリヤからそれを受け取る理由がない。戸惑っているうちに短気な少女はストールをさっと取り上げ、畳んだのを広げてしまう。
ばさ、と布が広がる音が響き、エリザベータの肩がストールに包まれる。手際良く布を巻きつけ、ナターリヤはきっぱりとした声でお前のだ、と言った。寒色なのに温かみを感じる不思議な色合いに、エリザベータは手を触れさせてありがとう、と言う。ナターリヤは視線をそらし、こくりと無言で頷いた。少女の視線は眠り続けるギルベルトに向かっていたが、興味や関心を持ってはいないようだった。寝ていることの確認だろう。
無感動に、足先から頭の上のことりまで視線を滑らせて、ナターリヤはどこか無機質な瞳をエリザベータに向ける。
「今日も、この部屋で寝るつもりか?」
問いかけの形を取った確認だった。ギルベルトが目覚めない限りエリザベータが傍を離れることはない、というのは誰が言い出したことでもない暗黙の了解であり、女性はそれを遠回しに肯定していたからだ。なぜわざわざ問われるのだろうと不思議に思いながら、エリザベータは素直に頷く。ナターリヤは呆れを瞳によぎらせ、無言でエリザベータの手首を掴む。少女の見かけに反し、その力は驚くほど強かった。痛い程だ。
「駄目だ」
反射的に振りほどこうとするエリザベータの動きを、その言葉が止めてしまう。エリザベータは聞こえた単語が信じられない、と告げる動きでナターリヤと視線を合わせ、表情を険しいものにして見つめ返した。ナターリヤは喧嘩を買うように視線を真っ向から受け止め、まるで言い聞かせるようにゆっくりと言葉を告げて行く。
「駄目だ。許さない。……部屋に戻れ」
「どうして? ……それが『ロシア』の命令かしら?」
「口を慎め。兄さんは、そんなくだらない命令をしない」
くだらなくない命令ならばする、ということで。実際エリザベータはそうされえたことが何度もあるのだが、怒りの籠ったナターリヤの言葉は断じて違うと告げていて、かえって不思議さを覚えてしまう。ナターリヤの偏愛するイヴァンの命令でもないのに、少女がわざわざ動くことが理解できなかったからだ。つい疑わしげな目を向けてしまうエリザベータに、ナターリヤは高慢な態度で鼻を鳴らし、手首を掴んだままで言う。
「なぜ、そんなに執着する。それは『腐れ縁』なのだろう」
かすかな嫌悪感すら感じさせる言葉に、エリザベータは驚いてナターリヤを見る。嫌悪感に驚いたのではない。ナターリヤがイヴァンのこと以外で、感情を滲ませることがあまりに珍しかった為だ。本人もそれは自覚しているらしく、ことさら苛立ちを感じたように荒々しい舌打ちがもれた。あまりに感情的な仕草だった。目を瞬かせてしまうエリザベータに、ナターリヤは思い切り眉を寄せながらもう一度繰り返す。腐れ縁。
「なのに……なんで、そんな風にするんだ」
「ナターリヤちゃん? その……ナターリヤちゃんにも、もしかして」
そういう関係に該当する相手がいるのか、と問いかけようとしたエリザベータに帰って来たのは、地獄の業火もかくやというナターリヤの、壮絶な感情の籠った瞳だった。それはすでに怒りですらない。思わず足を引くエリザベータの手首をますます力を込めて握り、ナターリヤは低く重々しい声で、吐き捨てるように言った。リトアニア。それは国名だったが、国ではなく『国』を表しているのだと、エリザベータには分かる。
なにか問いかける前に、ナターリヤはエリザベータの手首を解放した。己の身を守るように腕を回したナターリヤは、七ヶ月だ、と心底嫌そうに吐き捨てる。
「七ヶ月! ……私は兄さんと結婚したかったのに結婚したいのにどうしてリトアニアと結婚させられたの意味が分からないわ七ヶ月分の記憶を消し去りたい結婚とか結婚結婚結婚けっこ」
「り……リトベル共和国?」
壊れたラジオのように『結婚』を呪って単語を繰り返すナターリヤに、エリザベータはどん引きしながら問いかけた。ベラルーシはその国名を聞くだけでも、壮絶な悪寒が走り抜けたらしい。雪の中に叩きだされて埋められたような顔色をして、ぶんぶんと大きく首を振ってなかったことにした。そのあまりに激しいリアクションに、エリザベータはかえって気持ちが落ち着いてしまう。全力で嫌がる、ちいさなこどものようだと思った。
リトベル共和国。正式にはリトアニア=白ロシア・ソビエト社会主義共和国という、たった七ヶ月だけ存在した国家は、ソビエトにとっての黒歴史ともされていた。ナターリヤは現実に起こったそのことを全力で記憶から消し去りたいらしく、頭を抱えて憎々しげに涙ぐむ。その状態で呪詛のように吐きだされて行く単語を繋ぎ合せると、ナターリヤとトーリスは、不本意ながらも一応幼馴染と言えなくもない間柄であるらしかった。
ナターリヤいわく、トーリスは昔から一方的につきまとってきた幼馴染で、そうとも認めたくないのだが、世間でいう『腐れ縁』に該当する。その縁はまさしく『腐って』いるのであり、喜んだこともなければ尊んだこともなく消滅して欲しいと思っていたら俺が君を守ってあげるからねという妄言の元結婚させられたのでありそこに私の意思はなくあったとしても爆破して死ねとかそういうもので強いて言えば吐き気がするのであって。
「つまり。お前がそれを腐れ縁だとする以上、つきっきりで看病するその行為自体が私には理解できない」
それ、というのに合わせてびしりとギルベルトを指差した仕草は凛々しくもあり、エリザベータは思わず感動してしまった。なんとなく分かっていたし、知ってもいたが、こんなにも外見と中身にギャップがある『国』も珍しいだろう。人にしてみても、滅多にいないだろうが。キツめの顔立ちの、まさしく雪国の美少女と表すに相応しいナターリヤの口から流暢に吐き出される呪詛は見事で、見事すぎて感心するしかなかった。
感心しすぎて停止しかかる思考回路で唯一理解できたのは、他人事ながら、ナターリヤが『腐れ縁』である二人の間に親しさがあることに不快感と、戸惑いを持っているということで。どう言えばいいのかなあ、と溜息をつきながら、エリザベータはゆっくりと唇を開いた。腐れ縁、という言葉を当てはめないとしたら、ギルベルトとエリザベータの関係はどうなるのだろう。昔馴染み、幼馴染。元、天敵。それなりに言葉はある。
それでも、どれも相応しくない気がして、そうすると不思議に『腐れ縁』というのも違うような気がしてしまった。二人の関係は長い時の中でねじれて複雑になり過ぎていて、人の関係を表す為の言葉では到底説明しきれるものではなくなっていたのだ。
「……私と、ギル、は」
なにかを否定したいのか、肯定したいのかも分からず、エリザベータはぎこちなく唇を動かした。
「仲が、悪い訳でも……ないの、よ?」
自分で言っておいて、とてつもなく説得力に欠ける言葉だ、とエリザベータは思う。仲が悪い、としてしまえる程に悪くないのは正しいが、さりとて良い訳でもない。仲が良い訳ではないが、悪いとするには間違っていた。どちらでもない、と表すのが一番しっくりくる。お前がなにを言っているのか分からない、という視線を投げかけてくるナターリヤに、私もなにが言いたいのかよく分からない、と頷いて、言葉を続けて行く。
胸の中に留めるには感情が複雑に絡み過ぎていて、思考を整理するのには向いていなかった。言葉に表すことで、だんだんと形が見えてくる。指先が震える程なにかが恐ろしかったが、エリザベータはかまわず想いを言葉に直して行った。今、この場を引きはなされるくらいならば、意味の分からない恐怖を受け入れる方がいくらかましだったからだ。なるべくギルベルトを視界に入れず、エリザベータは淡々と告げる。
「私とギルベルトは、一番古い……幼馴染、で。ギルが、二番目に会った『国』が私なのよ。だからそれから、結構長く一緒に居て、気が付いたら天敵になってたから殺し合ったりしたけど、でもそれがギルがローデリヒさんにちょっかい出すから仕方なくというか、だってなんでローデリヒさんに難癖付けるのよ大人しくしてなさいと思ったし、昔はあんなに可愛かったのにどうやって育ったらあんな粗野なアホになるのよって話で」
「……エリザベータ」
「なによ」
思考の中断を余儀なくされ、エリザベータはやや不愉快げな視線を向けた。それを受けてもナターリヤは浮かべた表情を変えることなく、疑惑の眼差しで首を傾げる。言葉は、爆弾のように落とされた。
「つまり、好きなのか?」
一瞬記憶が途切れているのは、あまりの事態に意識が覚醒を拒否したからだろう、とエリザベータは気が付いてすぐにそう思った。言葉もないエリザベータの目の前で、ナターリヤはなにやら納得してしまったようだった。ややあって最初からじゃれていたしな、と恐ろしい結論に達してしまったナターリヤの肩を、エリザベータはがしりと掴む。痛い、と本気でイラついた声で言うナターリヤに、エリザベータは必至に言った。
「なに、それっ!」
「……嫌いなのか?」
まさかそんな筈はない、という少女の表情に、エリザベータは会話が通じなくて泣きそうになる、という貴重な体験をした。なんでそういう結論に達してしまったのか、説明してもらいたいが聞きたくはない。うっかり納得してしまったら目も当てられないからだった。問いかけに首を横に振ることで否定を表し、エリザベータは掠れる声でなんとか呟いた。そういうんじゃない。そういうんじゃなくて、好きとか嫌いとかでもなくて。
「お……お互いに、多分、一番の黒歴史をついウッカリ共有しちゃってるだけの相手というかっ」
そこまで言って、エリザベータは過去の自分が幼少時代のギルベルトを押し倒し、唇を奪って可愛いと囁き好きと言っていたことを鮮やかに思い出して、軽く死にたくなった。もしも過去に戻れる機械があるのならば、お願いだから考え直せ、と言いたい所である。考え直しても同じ行動に出そうな『マジャル』の気持ちが、本人だからこそ手に取るように分かり、エリザベータは唇を噛んだ。仕方ない。認めてしまうしかない。
好きだったのだ。愛おしかったのだ。独占して一人占めしてしまいたいくらい、マジャルはマリアが好きだった。恐らく、恋をしていた。エリザベータがローデリヒに恋をして、はじめてそれが『恋』だったと分かった。マジャルはマリアに恋をしていて、ひたむきに、悲しいくらい好きだった。いつから気持ちが反転したのか、エリザベータは覚えていなかった。気が付けば二人の道は別たれていて、傍らに誰も居なかったのだ。
本当に、本当に、ずっと一緒だと思っていたのに。駆け抜けて行く体は寄り添って離れることなく、腕の長さも太さも、身長も手足の大きさも、なにもかも同じように成長していけると思っていたのに。性別が二人を隔て、二人を引き裂いた。少年は男へ成長し、『少年』は少女から女性へと変化した。その差異が、あまりに傍に在り過ぎた相手に逆恨みのような形で向いてしまったのだ、とエリザベータは今になって思い知る。
あの頃に欲しかったのは女性らしい体つきではなく、ただひたすらに男という性別だった。それさえあれば、エリザベータは今でもギルベルトの傍らに立っていただろう。喧嘩はたくさんするだろう。ののしり合って殴り合うことも多いに違いない。それでもこんなに隔てられることだけは、絶対に在りえなかった。エリザベータは瞬間的に浮かんで来た嗚咽を噛み殺し、大きく息を吸い込んで顔をあげる。言葉は、宣言だった。
「そうよ、好き。……こんな……こんなくだらない言葉で表したくないくらいよ!」
好意と憎しみのどちらが大きいかと言われれば、それは後者だった。エリザベータはローデリヒを傷つけたギルベルトを許すことが無いだろうし、それに対する怒りや憎しみが消える日もやって来ないだろう。今も当時を思い返すだけで、心が焼けつきそうに痛む。その時から変わらず、なにより、誰より大切な人。本当に本当に大切にしたい珠玉の存在を、共に守ってくれなかったことが一番悔しかった。目の前が赤くなった。
怒りも、憎しみも、悔しさも、悲しさも、哀れみすら感じていた。相手に叩きつける負の感情全てで、全力で敵対していたのだ。許せなかった。決して、許せないままだった。エリザベータがローデリヒを、本当に大切に思うことくらい知っていただろうに。それなのに傷つけた。それなのに、敵対した。エリザベータとて、『国』が国の方針によって生きる存在だと分かっている。戦争は必ずしも『国』の意思ではなく、本意ではないと。
それでも、その上で、生き生きと攻め込んで来たギルベルトに対する感情を、表す言葉は今も持たない。血がざわめいた。確かにあった筈の大切な思い出を、二人はどこに置き去りにしてきたのだろう。エリザベータは息を吸い込む。
「好きだから傍に居たいだなんて、そんな甘い感情じゃないの。ただ、もし」
息が、鼓動が、止まるなら。そこまで考えて、エリザベータの全身を恐怖が貫いた。消えるだなんて、思わない。国の不況から来る不調で、『国』の命が途絶えてしまうなんてことはあり得ない。けれど在りえない『国』として、『プロイセン』は存在しているのだ。何年も目覚めない意識はゆるやかな死に向かっているようでもあり、その為の準備を整えているようでもあった。もし目覚めたとしても、体調は良くないままだろう。
『プロイセン』の国は人口の流出が止まらず、国力を減らし続けているのだから。現実から目をそらすように黙りこんだエリザベータに、ナターリヤは手を伸ばす。強い力で手首を握り、ナターリヤは冷たく響く声で言った。
「コイツは決して消させない。兄さんが居る限り、そんなことは起こらない」
「……そう、よね。って、心配してる訳じゃなくて!」
「だからお前は、風邪をひかないように温かくして眠るべきだ」
外がどれだけ吹雪いていると思っている、と不機嫌に言い放ったナターリヤに、エリザベータは初めて真剣に考えた。どうしてナターリヤは、わざわざエリザベータのストールを持って、ギルベルトの部屋に来たのだろう。夜はもう深く、普段ならば完全に眠っている時間である筈なのに。部屋は眠るギルベルトがちょうど良いように温度を調節してあるから、冷えてはいない。しかし、ベッドに入らず眠るにはこころもとなかった。
窓ガラスを叩いて、吹雪が荒れている。エリザベータはそっと、ナターリヤに問いかけた。
「心配、して……来てくれたの?」
「うぬぼれるな。兄さんの為だ。お前まで体調を崩せば、兄さんが……。姉さんが心配して、兄さんの負担になる」
イヴァンが心配する、という言葉はナターリヤも無いな、と思ったのだろう。途中で途切れた言葉は、もっともらしい響きで書きかえられて放たれた。確かに、エリザベータが体調を崩せばライナは心配するだろう。ライナが心を乱せば、イヴァンも平然としていられないに違いない。言葉を途中で不自然に途切れさせなければ、完璧な言い分だった。エリザベータは鼻の奥をツンとさせながら、少女を刺激しないように問いかける。
「この、ストールは」
「お前の部屋にあったものだ。私のじゃない」
わざわざ用意していない、ということをナターリヤは伝えたかったのだろうが、エリザベータは口元に手を当てて笑ってしまった。部屋にあったというならつまり、ナターリヤはエリザベータの所在を確認しに行ったことになる。なにがおかしい、と不機嫌な顔つきを崩さないままで言うナターリヤに、エリザベータはゆるく首を振った。お礼を言えば、少女は烈火のごとく怒るだろう。気持ちに報いる方法を、一つしか思いつかない。
「じゃあ……今日だけ、部屋に戻って寝ることにするわ」
自分の部屋に戻ってベッドで寝るなど、何年ぶりかも分からなかった。定期的にメイドが掃除してくれているのは知っていたが、主の無い部屋はどうしても荒れてしまう。埃っぽいベッドの中で眠って、果たして安眠できるかどうかは分からなかったが、付き添って眠りこむよりは幾分かマシだろう。ギルベルトが未だ起きないことを振り返って確認し、エリザベータは部屋を出ようと歩き出した。掴まれた手首が、引っ張られる。
ものすごく不機嫌そうなナターリヤが、そこに居た。
「ど……どうしたの?」
「お前の部屋で眠ったら、逆に体調を崩すに決まっているだろう。考えろ」
火も入れていない部屋で凍えるに決まっている、と言われてエリザベータは確かに、と納得する。では、どこで眠ればいいのか。混乱しかかったエリザベータに、ナターリヤの声が告げる。だから、と。
「来い」
「……え?」
「特別に、私が、一緒に寝てやろうと言っている」
それにエリザベータが疑問の声をあげかけるのと、吹雪によって一際窓が大きな音を出し、ナターリヤが体を震わせるのが同時だった。問いの形に開いた唇をぴたりと制止させ、エリザベータはまじまじとナターリヤを見つめる。少女はなにか憎々しいものを見つめるように、睨み返してきた。それでもよく見れば、そこにかすかな怯えと照れが混じっていることが分かる。エリザベータはえっと、と言葉を探しながら囁いた。
「ナターリヤちゃん、もしかして……雷とか、苦手?」
「兄さんが一緒に居てくれれば決してそんなことは思わないしいつもは姉さんが居るからそんなことは感じない」
「……イヴァンとライナさん、今日は居ないの?」
誰かが一緒に居さえすれば、平気なのだろう。そう言っていることも分かっていないようなナターリヤに問いかけると、少女はものすごく不本意そうな顔をして頷いた。中央に会議に行っていて、明日にならないと帰って来ない。この吹雪だからもうすこし、遅くなる可能性もある。つまりは屋敷の中に頼れる存在がいないということで、トーリスはそもそも範疇外にあるナターリヤが思いついたのが、エリザベータだったのだろう。
そう思うと不器用な言葉も、神経を逆なでされた発言も、なにもかもがどうでもよくなってしまって。エリザベータは苦笑しながら、ナターリヤの手を握り締めてやった。なんだかものすごく悔しそうな横顔が、素晴らしく可愛らしい。妹っていたらこんな感じなのかしら、とふわりと浮き立つ気持ちで、エリザベータは室内を振り返り、眠るギルベルトに言葉を送った。おやすみなさい、と告げる言葉に、返る言葉は無かったけれど。
廊下に出たナターリヤがすこしだけ素直に体を寄せて来たので、エリザベータはまあいいかな、と思って微笑んだ。