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 窓辺に座り込むその姿は、九割ほどが白いローブに覆われていた。僅かに露出しているのは指先と靴、そして前髪くらいのもので、フリードリヒからはギルベルトが膝を抱えた姿でしゃがみ込み、頭を力なく硝子に押し付けていることしか分からなかった。逆光になっているせいもあり、横顔はどうしても覗き込むことが出来なかった。まだ伸びしろを残した二十ちょうどくらいの青年の体が、やけに頼りなく見えて溜息をつく。
 普段はうるさすぎる程やかましいくらいだというのに、ギルベルトは昼過ぎにふらりと執務室に現れたきり、時計が午後の四時過ぎを指しても一言も発することが無かった。言葉を忘れてしまったかのように、唇はかたく閉ざされている。一瞬だけ見交わした赤い瞳がやけに落ち込んでいたのを思い出し、フリードリヒはどうしても本日中に仕上げなければいけなかった最後の書類に、流暢な動きで己の名を書きこんだ。
 しげしげと眺めて綴りの間違いも文字の乱れもないことを確認し、フリードリヒは机の上に置いてある陶器の呼び鈴を振る。いつだったかギルベルトが街で購入してきたそれは、王の手に持たれるにはやや質に問題があったが、滑らかで素朴な白い地に咲く蒼い花模様が美しく、フリードリヒは中々にそれを気にいっていた。音も、別に悪くはない。耳をくすぐる硬質な音はどこか目を覚ます響きで、そっと空気を揺らした。
 形式的なノックの音が響き渡り、文官が王の手から恭しく書類を受け取る。早口でそれをどこそこへ持って行き、その通りに指示するように、と伝え、フリードリヒは従順に頷きながらも窓辺を気にする文官に、お前の気持ちは十分分かる、とばかり苦笑した。部屋にノックの音が響いても、文官が足を踏み入れても、窓辺に腰かけるギルベルトはそちらに視線さえ向けなかった。ぼんやりと、眼差しは中庭に落とされている。
 そろそろ日暮れも近くなっていた。斜めに差し込む光はどことなく夕焼けの紅をはらむ気配を漂わせ、しっとりと空気に馴染みながら、肌を温めるように降り注いでいた。その、光の一筋を見つめるように、ギルベルトは動かない。あるいは中庭の見事に整えられた植木でも眺めているのかも知れないが、それにしては漂う気配が異質に過ぎた。『国』がなにを見つめているのかなど、王にも国民にも分かることではない。
 文官は唇を開きかけ、けれど溜息を漏らして首を振る。尊き御国になにかが起こっているのは確実だったが、王たる人がその異変に気が付いているのであれば、臣下がどうこう言うべきものではない。ただ、祖国への愛を『国』に捧げるような恭しい仕草で頭を下げて退室した文官に、フリードリヒは満足そうな笑みを唇に乗せる。プロイセンの民は、誰もが国を愛し、そして『国』を愛していた。心からの、それは愛情だった。
 親が子に対するような庇護の愛でもあり、子が親に捧げる無比の感謝に似た愛でもあった。恋人に送る甘やかなそれですらあり、血の繋がりのある者に送る家族愛でもある。人が抱ける愛情の種類は様々で、人はそれら全てで『国』を愛していた。思えばフリードリヒは幼少時代に『国』が苦手なこともあったが、振り返ればそれは恥ずかしくなるくらいの親への反抗めいた、ねじれた愛情であると認めざるを得なかった。
 この国で生まれた人々は、『国』を愛さずには居られなかった。それは本能的なすりこみのようでもあり、それでいて、自ら選択した愛情のようでもあった。なににせよフリードリヒは国も『国』も愛しているし、ギルベルト・バイルシュミットという年若い外見をした青年を大切にも思っていた。青年が入室してかれこれ三時間半が経過している。放っておいたのは目の前に仕事があり、それを放置することができなかったからだ。
 国に対する仕事は、全て国民の為であり、また『国』の為である。『国』を放置しておくことはいささか矛盾した行いであったが、それでも王として、フリードリヒはそれを蔑ろにできないのだった。ともあれ、どうしても終わらせなければいけないものはもう手元にない。今日これからは心おきなく『国』にかまうことを決め、フリードリヒはわざとらしく音を立てて椅子から立ち上がった。するとはじめて、ギルベルトに動きが見られる。
 窓硝子の向こうに投げ切りだった視線が室内に戻って来て、ゆるゆるとフリードリヒを見つめて来た。ようやく王は、『国』の顔を見る。思わずやんわりと苦笑してしまったのは、ある程度予想していたことが当たっていたからだった。一年か二年に一回、ギルベルトはとても静かに一日を過ごすことがある。体調が悪いとかそういうことではなく、それはただ単に気分の問題であり、国になにか起きたということではないらしい。
 どうしても気分が上向かない、そういう日はお前にもあるだろう、と言われたことをフリードリヒは思い出していた。なるほど、その日であるらしい。拗ねた迷子のこどものような目をしたギルベルトに笑いを響かせて、王は静かな声で問う。傍に寄っても良いかね、と許可を求める言葉に、ギルベルトは窓辺にしゃがみこんだまま、こくりを頷いた。立ち上がることさえしなかった。立ち上がる力さえ、なくしてしまったようだった。
 顔色は悪くない。怖がらせないようにゆっくり歩み寄りながらそれだけを確認して、フリードリヒはほっと胸を撫で下ろした。朝食は、昼食は食べて来たのだろうか。そんな他愛もないことを心配しながら、王は窓辺で立ち止まった。差し込む光が、床の上で二人の影を一つにする。身を屈めて顔を覗き込みながら、フリードリヒはギルベルトの名を呼んだ。のろのろと重ねられた視線を捕らえ、フリードリヒは静かに問いかける。
「お腹が空いてはいないね?」
 空腹ならば軽食を持って来させよう、という王の言葉に、ギルベルトは無言で首を横に振った。重傷だ、とフリードリヒは目を細める。言葉を話さなくなる状態はこれまでも見たことがあったが、問いかけに対して仕草で答える状態は、そうあることではなかったからだ。しばし考え、フリードリヒはそろそろと手を伸ばしてローブのフードを払い落した。ぱさりと音を立て、布が青年の肩に落ちる。ギルベルトは、きゅぅと目を細めた。
 直に顔にあたる光が、眩しいようだった。それでいて陽だまりで満足げにしている猫のようでもあったので、フリードリヒはそのまま青年の頭を撫でてやる。ごく幼い少年に対するような手つきを与えられても、ギルベルトはくすくすと笑うばかりで避けようともしない。しばらく撫でられてから大きく息を吸い込み、ギルベルトはふぅっと体から力を抜いた。落ち着いたかね、と穏やかに問いかける王に、『国』はこくりと頷いた。
「んー……すまねえ、親父。心配かけた、か?」
「すこしな。……なにか嫌な夢でもご覧になられましたか、国家殿?」
 笑いながら紡がれた気遣いの言葉に、ギルベルトは苦笑しながら見てねえし、と言った。そこで首を動かして撫でる手を避ける仕草を見せれば、フリードリヒはなにも言わずにてのひらを遠ざける。ギルベルトは離れて行く、歳相応に老いた指先を見つめていた。節くれだってやや肌が荒れ気味の手のひらは大きく、皮膚の一部がペンダコのように硬くなっているのが見て取れた。手が、赤子のそれであった時を知っている。
 フリードリヒが産まれた日のことをプロイセンは覚えているのに、目の前の王はいつの間にか老いていた。そのことがなんとなく不思議で、物悲しく、ギルベルトは無言で眉を寄せる。感傷的になっている自覚はあった。上機嫌とは言い難いギルベルトの表情を目の当たりにして、フリードリヒはしかし面白げに肩を震わせて笑っただけだった。心配しない訳ではないが、ギルベルトの真剣に落ち込み気味の表情は珍しい。
 それこそ一年に一度か、二年に一度。静かにしょんぼりとして過ごす日に、フリードリヒしか見ることができない表情なのだった。そう思えばかすかな優越感すら感じて、フリードリヒの笑みは温かになる。お前がそんな表情を見せてくれるのであれば、王になって本当に良かったと思えるよ、という軽口を今年こそ口にすべきか考えて、結局フリードリヒは唇に笑みだけを乗せる。まあ、それは特に伝えなくてもいいことだ。
 やや不審げに見てくるギルベルトの視線を軽くいなし、フリードリヒは首を傾げて尋ねる。
「なんでもないよ……それより、今日はなにをしていたのだね?」
「……兄上のトコ」
「ああ、御見舞か」
 母親を持たない『国』に、血の繋がりを問うことは難しいのだという。それでもギルベルトは兄と慕う存在を持ち、フリードリヒはそのことを知っていた。ギルベルトが『兄上』と呼ぶ『国』はたった一つしか存在しない。神聖ローマ。ヴェストファーレン条約の終結と共に意識を失った幼子の体を、ギルベルトは密かに連れ帰り、王宮の一室に寝かせているのだった。そのことを知るのはフリードリヒと、そしてギルベルトのみ。
 ギルベルトの他の『国』は、そもそも神聖ローマの行方すら分からないようだった。何度か問う手紙が『プロイセン』の元に届いたことを王は知っていたが、それに対してギルベルトが情報を外に出したとは考えられなかった。それを目当てにして、『他国』が王宮に来たことがないからである。生存も消滅も知らされず、神聖ローマは奥まった一室で瞼を閉じていた。他の『国』は、彼の行方不明を消滅と思っているに違いない。
 そう思わせる為にギルベルトが尽力したことも、フリードリヒは知っていた。体はまだ完全な形でそこに在り、ぬくもりも失われず鼓動も刻まれている。ただ、意識だけが戻らない状態で生命が繋がれているだけの状態で、希望を持たせることをしたくなかったのだろう。ギルベルトは兄の姿を完全に隠し、一年に一回、あるいは二年に一回の頻度で様子を見に行っては、こうしてふらりと王の執務室に現れるのだった。
 ローブ姿も、普段の粗野な言動からは考えられないが、ギルベルトが兄を見舞う時に好んで身につける服だったから、フリードリヒは特に珍しくも思わなかった。昔、よくしていた格好なのだと、いつかギルベルトが告げても居たからだ。それにしても不思議に似合うものだ、とフリードリヒはギルベルトの全身を見まわした。肩幅もそれなりに、腕も筋肉がしっかりと付いている長身の体なのに、ローブ姿に奇妙な違和感はない。
 あまやかにひるがえる布はギルベルトの体を柔らかに包み、俗世の煩わしさから遠ざけているようでもあった。光に照らされ、風の中に祈りをささげるのがよく似合いそうな姿だった。似合うものだな、とそれは口に出して告げれば、ギルベルトはケセセ、と普段通りの笑いを響かせる。
「だろ? 昔はこんな恰好ばっかしてたからな、俺。……さすがに体が成長してきてからは、時代の流れもあったし、そうそうローブはおって教会で祈る時間もなかったからあんま着てねえけど。でもこのローブは……兄上が仕立ててくださったものだから」
 だから今でも大切に着ているのだ、と告げられてよくよく見れば、確かに今のギルベルトに合わせて作られたものではなさそうだった。肩幅はぴったり合っているようなのに、袖がわずかばかり長かった。立ち上がらず座り込んでいる状態なので裾の長さは分からなかったが、この分だとすこし長いか短いかのどちらかに思える。フリードリヒがなにかを問う前に、ギルベルトは兄上が、と言った。お眠りになるすこし前に。
「この先も、俺が着られるようにって。大きめに仕立ててくださったんだ」
「……そうか。私も、お前の兄上にお会いすることが出来ればよかったのだが」
 心から、『国』に仕え、『国』が頭を垂れる存在としてそう言ったフリードリヒに、ギルベルトはきゅぅと目を細めて微笑んだ。それが叶えばいいのに、と思いながらも、半分諦めてしまっている笑顔だった。ギルベルトは視線を王から外し、またぼんやりと中庭を見る。視線を追えば、庭園の花が美しく咲いている様が見られた。戦う為にうまれた『プロイセン』でありながら、ギルベルトは庭いじりや農作業を好む一面も持っている。
 花やハーブを、植えたいと思っているのかも知れなかった。
「俺が……まだ、もっとずっと、ちいさかった頃」
 視線の先で、花が風に揺れている。花びらは天に巻き上げられ、何処かへ運ばれてしまった。視線では追い切れぬ彼方をそれでも見たがるように目を細め、ギルベルトは微笑む。
「俺が触れる人間の手って、血を失って冷たいのばっかでさ。俺はそれが……今考えると、嫌で仕方なかったんだよ。冷たい手が嫌だったっつーか、それに触れるのが嫌だって訳じゃないんだけど。俺に出来るのは、手を握って俺の体温を分け与えてやることだけで、俺はそいつらの命を留めることもできなかったし、温かくしてやることもできなかった。ただ、痛みを取ってやることは出来てたみたいで、奇跡って言われてた」
「それは……『プロイセン』ではなく、『ドイツ騎士団』だった頃に?」
 ギルベルトは『プロイセン』でありながら、その名を持って存在を確立させた『国』ではない。『プロイセン』の名を持つまでいくつもの段階を隔て、国土を背負い、国民を持つ『国』となったのだった。その、本元。一番最初の名を問うと、ギルベルトは柔らかに微笑した。ぎく、としてフリードリヒは思わず己の『国』を見つめてしまう。それはどこか性別を超越した感のある、綺麗な笑みだった。清らかな、敬遠な表情だった。
 俗世にあるなにとも違う、なににも例えられない。ただ、うつくしい笑み。
「その、もいっこ、まえ」
 たどたどしい言葉は、繊細に作られた砂糖菓子の脆さと、甘さを併せ持っていた。言葉を返せないフリードリヒに、ギルベルトはくすくすと笑って告げて行く。それは失われた儚い、神聖さを漂わせていた。
「俺が……温かい人の手に触れられる前のことだよ、フリードリヒ」
「……ドイツ騎士団の、前?」
「分からないなら、俺からは教えない。恥ずかしいからな」
 まあ、歴史書でも紐解いて行けばそれっぽいのにぶち当たるんじゃね、と首を傾げて笑うギルベルトの表情は、フリードリヒのよく知るものだった。そこにたどたどしく言葉を作った幼さは存在せず、脆さや甘さや儚さや、神聖さもすでに消えてしまっている。一瞬の白昼夢。夢幻や木の影のように、ざわざわと音を立てて変化していくようだった。ようやく、ギルベルトは窓辺から立ち上がる。床に足を付け、腕を上に伸ばした。
 数時間同じ姿勢で凝り固まった体を伸ばすさまは、見ていてなぜか心地よくなってくる。くっくと喉の奥で笑いを響かせれば、ギルベルトから嫌そうな視線が向けられた。それになんでもないよと誤魔化して、フリードリヒはごく自然にギルベルトに向かって手を差し出した。座り過ぎでややふらつく足元を心配したようでもあり、会話を聞いての仕草とも受け取れそうなそのてのひらを、ギルベルトは無表情で見つめている。
「……兄上殿の手には、触れて来たののだろう?」
 年齢による皺や、幾多の戦いでつけられた消えぬ傷跡がいくつもある、御世辞にもきれいとは言い難いてのひらを、ギルベルトは無言で見つめ続けた。その頭が問いに対して肯定に揺れるのを見て、フリードリヒはならば、と微笑む。
「私にも触れさせておくれ、『プロイセン』。私はお前の王であり、お前は私の『国』なのだから。……兄上殿が目覚めぬのは、お前の力が及ばないから、ではないよ。ギルベルト。お前も、それくらいは分かっているだろうに」
 そろりそろりと伸ばされてくる手に、フリードリヒはよわく苦笑した。向き合うギルベルトは泣きそうな顔つきになりながら王の手に触れ、それからぎゅっと握りしめる。温かな手だった。それでも、ギルベルトが覚えているフリードリヒの体温よりは、随分低い気がした。それがフリードリヒがまだごく幼い頃の体温だったからだと分かっていても無性に切なく、ギルベルトは触れた手を己の口元に持って行き、そっと唇を触れさせる。
 涙の無い瞳を見つめながら、フリードリヒは語り聞かせるように言った。
「泣くではないぞ、ギルベルト。……兄上殿の手は、冷たかったかね?」
 息を吸い込んで、吐き出すことが上手く出来ずに。ギルベルトはぐっと息を止め、首を横に振った。そうだろう、と穏やかに声は響く。繋いだ手の温度は二人ともどこか生温く、ぬくもりを分け合うことも、奪い合うこともなかった。手に力を込めて握り、フリードリヒが笑う。
「大丈夫だ、ギルベルト。信じていなさい」
「……はい」
「お前は、必ずまた、兄上殿にお会いできるよ。その時にお前が胸を張って笑って居られるようにも、私の命をこの国に捧げよう。この国の発展、そして国民の幸せの為、お前の笑顔の為に。……笑え、ギルベルト。そんな顔をしていては、兄上殿が起きた時に心配されてしまうだろう」
 老いた手だった。最盛期には握られれば痛みも与える程の力だったのに、今は顔をしかめるまででもないくらい、握力が弱い。もちろん、本気で握っているわけではないからだろう。それでも、それが分かっていても苦しくて、ギルベルトはぎこちない笑みを唇に乗せる。あとどれくらいの時間を、ギルベルトは王と共に歩めるのだろうか。すぐ傍に終わりはない。しかしだんだんと、それを感じるようになって来てしまった。
 フリッツ、とギルベルトは王の愛称を呼ぶ。フリードリヒは微笑んで、しっかりとした声でギルベルトの名を呼び返した。最後の瞬間も、きっとこうして名を呼び合うのだろう。誰にも言えない予感を胸におろして、ギルベルトは王に忠誠を誓いなおすように、その手の甲に口付けた。



 精神的に不安定なルートヴィヒを心配してなのか、ローデリヒは年の半分以上をバイルシュミット家で過ごしている。それにルートヴィヒが気が付いたのは、戦争が終結してギルベルトがロシアに行ってさらに数年後なので、口に出した時は『今更なにを』と呆れ果てた視線で睨まれてしまった。ギルベルトが居た時はローデリヒはオーストリアに帰ることもしなかったので、いつの間にか一緒に居るのが当たり前になっていたのだ。
 言い訳がましくそう口にしたルートヴィヒに返されたのは、ではこれからも細かいことなど気にせず居ればいいのです、という澄ました言葉で。『国』として、一国をその身に追う者として決してそれでいい筈もないのだが、上手く返す言葉もなく、ルートヴィヒはローデリヒの好きに出入りさせているのだった。支障が出ないように上手くやっているのだとは思っても不安が残るので、オーストリアは大丈夫なのか、と口にはしない。
 わりと天然で大切なことを放り投げることもある音楽家が、大丈夫な訳ないでしょうお馬鹿さん、と言わない可能性もなかったからだ。危うきには近寄らず、である。下手に突いて怒らせるのも嫌だったし、なによりルートヴィヒは家に一人で居ないことに慣れてしまっていた。ギルベルトが居なくなっても、ルートヴィヒは家に明りを灯す者がおり、共に食事を取る存在がいた。それはささやかで、とても大切な救いなのだった。
 それでもルートヴィヒの心から不安が晴れないのは、ロシアに行ったギルベルトの消息がまったく掴めない状態が続いているからだった。ロシアに行ってすぐに無事に到着したとの連絡があり、数日後にもう一度元気にしていると便りが来たきり、言葉はぶっつりと途切れてしまっている。『国』の持つ連絡網を使って『ロシア』に電話を繋ごうとも、イヴァンはさらりと追及をかわしてしまうだけで、なにも伝わってこないのだった。
 半年前からは、その連絡すら取れなくなっていた。ドイツ民主共和国の建国から、すでに十年以上。その『国』がギルベルトであるかどうかすら、ルートヴィヒには分からない。感じ取ることも、できない。ドイツ民主共和国に『国』が存在するのか否かすら、伝わって来なかった。居ないということは、無いと『国』としての感覚が訴える。されど居るとも断定的に思えないのは、向こう側にある『国』の感覚がやけに希薄だからだ。
 それは花の残り香や、ぬくもりを移した布の温かさに似ていた。そこに在りながら、やがて静かにそっと消えて行く。今は留まっているだけのような、吐き気がするほど不安定な感覚。『ドイツ』ではなく『イギリス』や『フランス』がいくら問い合せようとも、ギルベルトを預かっている筈の『ロシア』の答えはいつも一緒だった。『ないしょ』、あるいは『今は話せない』。話す気はあるのか、と皮肉げに問いかけたのはアーサーだった。
 今は、というのは先延ばしの言葉で、言うつもりはないのであれば使うべき言葉ではないと。窘めたアーサーに、イヴァンはくすりと笑ったと言う。それだけでアーサーはそのうち時期が巡れば話すだろうと追及を止めてしまい、ルートヴィヒは頭痛の種と胃痛の原因をそのまま放置されたのだった。兄が気になるのは分かるが、とりあえず分裂立国してしまった自分の国を、今は立て直すことだけ考えろ、という小言つきで。
 長年生きているだけあって、『イギリス』の言葉は全く正しく、ルートヴィヒは返す言葉を持たないままで日々を過ごしていた。
「……これで用件が茶会だったら、俺はすぐ自宅に帰る」
 糊のきいたスーツを身にまとい、髪をきちんと撫でつけて、ルートヴィヒはアーサーに呼び出されたホテルの廊下を大股で歩いて行く。不機嫌に呟いた通り、アーサーに呼び出されたからだ。それも『国』として呼び出されたのか『個人』として用件があるのかも定かではない状態で、ちょっと来い、という電話一本だけで。彼を紳士だと言いだしたのは、間違いなく英国民である筈だ。国民の『国』に対する想いは、恋に似ている。
 そして恋とは、盲目状態を生み出す魔物であるからだ。苛々とした足取りで音高く歩くルートヴィヒの眼光はするどく、眼つきはすこぶる悪かった。泣く子はさらに大泣きするだろう。呆れた様子で早足に並走しながら、ローデリヒは落ち着きなさいと言うでもなく、肩をすくめて口を開く。
「いくらアーサーでも、そんなくだらない用事で貴方を呼びだしたりしませんよ。それに、私も一緒に来ると良い、と言ったのでしょう? 強制ではなく。ならば、人数分の用意が必要な場ではないでしょう」
 時間があればローデリヒも一緒に来ると良い、と言い残して電話は切れたのだった。通話を終えたことを知らせる無機質な音を、ローデリヒは電話の隣に腰かけて編み物をしていたが故に聞き届けてしまった。ローデリヒもスーツを着ているが、二人ともにその格好なのはそれが一番無難だったからだ。まさか軍服を着ていく訳にも行かず、指定された場所がホテルであったが故にカジュアルな格好で出向くこともできない。
 無いとは思いつつ、万一『国』の立場で向き合うことが必要な用事だった場合、やはりスーツが適切だからだった。ローデリヒの佇まいは、それでも不思議に優雅である。ルートヴィヒと同じ店で仕立てたスーツを着ているというのに、仕事に赴く者というより、音楽祭にタクトを振りに行くのが正しいような雅やかな雰囲気があった。それはローデリヒが落ち着き払っている、ということだ。焦りも不安も、ローデリヒは抱いていない。
 ごく自然体で傍らに立つ様子を睨みつけるように見て、ようやくルートヴィヒの波だった心が落ち着いて行く。それは、穏やかに効いて行く薬のように。劇的な効果こそもたらさないものの、ルートヴィヒにとってローデリヒは鎮静剤にも似ていた。息を、吸い込んで。ゆる、と肩から力を抜いたルートヴィヒに、ローデリヒは生徒を褒める教師の笑みで誇らしく目を細める。それでこそ、とも。大丈夫ですよ、とも語りかける微笑み。
 すまない、と言葉短く苛立ちを謝罪して、ルートヴィヒは廊下の向こうに視線を投げかけた。指定された部屋は廊下の、一番奥にあるのだった。廊下に漂っている空気から、異変を感じ取ることは出来ない。苛立っていた記憶を探ってみると、ロビーとエレベーターホールにやけに警備が集中していた印象だが、二人の訪問はあらかじめ告げられていたのか、呼びとめられることさえなかった。場は、しんと静まり返っている。
 ワンフロアが貸し切りになっている可能性が高かった。
「ですが、茶会であれば、茶会でも良いではありませんか。安らぐ時間を持つというのは大切なことです」
「しかし」
「聞きませんよ、ルートヴィヒ。ここ数年、あなたの眉間にシワが刻まれていない時間の方が少ないのは……ご自分のことですから、当然自覚があると思いますけれど。決して良いことではなく、また、アーサーの言葉を実現できていない証でもありますからね」
 自分の背負う国のことで悩んでいるのであれば、見ていてなんとなく分かるものである。しかしルートヴィヒの悩みの大半は行方も知れない兄のことであり、ベルリンではなくボンを暫定的な首都としたドイツ連邦共和国のことではないのだった。冷やかな言葉にルートヴィヒは嘘をつくこともせず言葉につまり、その素直さと甘さにローデリヒは溜息をつく。そこでそんなことはない、と否定でもして見せれば楽だというのに。
 兄の庇護の元育った年若いこの国は、そういう所ばかり可愛さを残しているのだった。しかし、とまだ口ごもりながらなにか言おうとするルートヴィヒに、ローデリヒはとびきりの笑顔を向けて言ってやる。
「良い子ですから、お黙りなさい」
 最盛期の『プロイセン』を相手にして怯えさせたとっておきの笑顔の効果は、時代を経ても薄れないものであったらしい。若干青ざめた顔つきで一歩足を引き、こくこくと従順に頷きをみせたルートヴィヒを、ローデリヒはやけに満足げに眺めやった。上機嫌のままに軽く笑い声を響かせた音楽家は、舞踏会に踏み出すがごとき足取りで歩を進める、複雑そうな気配を漂わせて続いたルートヴィヒは、扉の前につくと前に出る。
 電話を受けたのも、直に呼び出されたのもルートヴィヒだからだ。その態度にますます満足げに頷く音楽家を見なかったことにして、ルートヴィヒは息を吸い込み、扉を数度ノックした。返事よりも早く、扉が内側から開かれる。アーサーの殺し切れていない笑い声がかすかに響く中、二人を出迎えたのは、歓喜の涙を浮かべた黒曜石の瞳。それは手を取り合い、そして手を離してしまった友の。戦友の、曇りの無い瞳。
「菊……っ!」
「ルートヴィヒさん……ああ、ローデリヒさんも! いらしてくださったのですね」
 喜びが、それ以上の言葉を封じ込めてしまったようだった。菊は胸いっぱいに息を吸い込んで部屋の入口に立ちつくしたまま、呆然とするルートヴィヒを見上げ、ローデリヒに微笑みかけている。アーサーは部屋の奥で椅子に座ったままティーカップを傾けていて、再会に水を差す真似はしないようだった。ただニヤニヤと意地悪く笑って見つめているので、明日にはヨーロッパ中が菊を見た二人の反応を知ることになるだろう。
 頭の片隅で冷静に判断していても、ルートヴィヒは中々動くことが出来なかった。息を吸い込んで、吐き出して、また吸い込んで。ゆっくり瞬きをして、目の前に立つ存在が消えないことを確かめる。夢でも幻でもないことを知る為に手を伸ばせば、温かな頬に触れることができた。菊はくすぐったけに首を傾げて笑い、手にそっと指先を添える。ルートヴィヒさん。控えめに、しっとりとした声で囁かれた名は記憶にあるそのままで。
 本物の『日本』だと、『ドイツ』はぼやける視界を持て余しながら思っていた。
「……もう、動けるように」
「ふふ。終戦から何年経ったと? もう、傷もすっかり塞がりました」
「ひとり、で」
 戦わせた、と悔しさや哀しさや、たくさんの感情を込めて。来たのか、と不思議さと戸惑いを込めて。言葉にならずに消えた語尾に、菊は全てを了解した微笑みでちいさく頷いた。とんとん、と手の甲に触れた指先があやすように動かされる。泣くものではありませんよ、と囁いて、菊はまっすぐに背を伸ばしながらルートヴィヒを見た。
「私たちは、共に手を携えて居たでしょう?」
「しかし!」
「今も、こうして手を重ねているでしょう? ……なにを勘違いしてらっしゃるかは分かりませんが、大切なことですので言っておきますよ、ルートヴィヒさん。私たちの手は、一度として離れなかった。ロヴィーノ君も、フェリシアーノ君も、ルートヴィヒさんも、そしてお師匠さまもそうです。私たちは最後の、最後の瞬間まで一緒でした。貴方たちの存在が、私に力をくださった。もちろんローデリヒさん。あなたも。……私たちは枢軸」
 そしてこれからも、負けたとて、終わったとて、そのきずなが途切れることはないのです。神聖な祈りの言葉のように、そっとそっと紡がれた声に、ルートヴィヒは菊の手を取り、強く握り締めながら頷いた。何度も、何度も。ああ、と絞り出した声はかすれていて、けれど確かに紡がれた。
「そうか……そうだな」
「ええ、そうですとも。ね、ローデリヒさん」
「全くです。あなた方が未来永劫連合の括りに縛られるのと同じで、ね」
 ちらりと投げかけられた視線を受け止め、アーサーはなんだかとてつもなく嫌そうな顔つきになった。付き合いの長さで、ローデリヒは悟る。あれはうっかり、本当についうっかり『フランス』と同じ陣営になってしまったことを個人的に悔いる表情であり、どうにか事実を葬り去れないかと考えている表情だ。紳士らしく潔くお諦めなさい、と呆れながら、ローデリヒは室内に入って行った。通り過ぎざま、菊の肩にぽん、と手を置く。

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