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 すぐに離れていく手を追って向けられた視線に微笑み返し、ローデリヒはそのままアーサーに歩み寄った。菊に伝えたいことは万とあるが、言葉よりも目を見交わすことで伝わることもあるのである。それより、不意の再会を計画したアーサーに物申したいことがあるのだった。よう、とばかりティーカップを持ち上げて挨拶するアーサーの足を、ローデリヒはなんの気なしに踏みつける。ぎりぎりと体重をかけ、にっこりと笑った。
「さて、アーサー。これはどういうこと、ですか?」
「足を退けろ。話はまずそれからだ。……っ、痛い、ん、だ、がっ?」
「痛いように踏みつけておりますので、痛いのは当然のことですよお馬鹿さん」
 にこりと冷たい笑みで反論を跳ね返すローデリヒの足癖が実は相当に悪いのを、知る『国』はすくないだろう。痛みを与え、しかし痛すぎることはなく、それでいて足を逃がさない絶妙の力加減と体重移動はなにかを踏むことに慣れきっていて、アーサーは口元を引くつかせる。そのカンを会得するまでなにをどれだけ踏んだのかと思うが、その答えを知る者は白旗を振って全力で逃げそうなので、回答は得られないままだろう。
 お前サドだよな、とぼそりと呟くアーサーに、ローデリヒの笑みが深まった。
「それがなにか」
「いたっ! ちょ……分かった。分かった事情説明してやる!」
 だから退けっ、と悲鳴交じりの声に、ローデリヒは驚くほど優雅な仕草で足を持ち上げてみせた。騒ぎに気が付いたルートヴィヒと菊が、扉を閉めて呆れた様子で歩み寄るのに目を止め、アーサーはローデリヒをぴしりと指差す。
「いや、コイツのせいだから」
「ローデリヒが率先して騒ぎを起こす筈がないだろう」
 断定的なルートヴィヒの言葉は、暗にアーサーが悪い筈だと告げていた。菊は空気を呼んで苦笑するばかりでなにも言わず、ローデリヒは勝ち誇った表情で目を細める。日頃の行いです、とでかでかと書いた横顔を思うまま殴りたい衝動としばし戦って、アーサーは椅子の背もたれに体重を預ける。ぎしっと抗議めいた音を立てる椅子さえ、アーサーの味方にはなってくれないようだった。栄誉ある孤立は、今日も嬉しくない。
 お前ら全員棚の角とかに足の小指ぶつけて涙目になれ、と胸の中だけでそっと呪いの言葉を呟き、アーサーは深々と溜息をついてから口を開く。
「菊が……お前らに会いたいっていうから、直に連絡入れるのもちょっとどうかと思って俺から呼びだしただけなんだが?」
 『日本』と『ドイツ』が直に連絡を取り合うことは、まだ警戒されているのだった。『国』同士が面会して話し合ったからと言って国がなにをたくらむ訳ではなく、その影響も出ないのだが、さりとて人はまだ戦争の脅威を忘れてはいない。『国』は、国である。その具現である存在同士が会うだけで、目の色を変える人間も存在しているのだった。『イギリス』が橋渡し役なのは、ただ単に『日本』から連絡を取りやすかったからだ。
 菊とアーサーが普段から親交の深い友であったこともあり、頼みやすくもあったのだろう。会いたかった。ただそれだけの理由で日本を離れ、ドイツまで来た『日本』に、『ドイツ』は訝しげな眼差しを送る。それほどまでする理由が、思い当たらなかったからだ。久しぶり、と言葉を交わして再会を喜ぶには、まだ両国ともに戦争の爪後を拭いされていないのである。痛みはまだすぐそこにあり、苦しみは続いている状態だ。
 いったい、なぜ。問う視線に、菊は凛とした笑みを形作って言った。
「いえ、ただ単に……こちらに来れば、お師匠さまの消息が知れるかと思っただけなのですけれど。やはり、なにも分からないようで。お師匠さまにも、困ったものですね。一体全体、あちらでなにをしておられるのだか」
 心配しているにしては、不安感を微塵も感じさせない強い声だった。かえって戸惑った顔つきになるルートヴィヒを笑みを崩さないままに見つめ、菊はねえ、と言う。
「ねえ、ルートヴィヒさん。なにも不安がることなんか、ないと思いませんか」
「……菊?」
「お師匠さまの素行を思い出してみてください。連絡がつかない、居場所が分からない、そもそも何をしているのか誰も知らない、なんて当たり前だったではないですか。数日ふらりと居なくなって、けろりとした顔つきでなにもなかったかのように帰ってくる。そんな日も、あったでしょう?」
 だから大丈夫ですよ、と囁く菊の声は水に似て、飲み込んだようにルートヴィヒの体に染み込んで行く。常に傍にあったローデリヒの言葉とも、勝者の側から観察しつつ冷静に告げたアーサーの言葉とも違う。遠く離れた場所から案じて、飛んできてまで告げてくれた菊の、荒れた心をそっと撫でるささやきだった。それはルートヴィヒの記憶を呼び起こし、確かにその通りのひとだった、とごく自然な気持ちで頷かせる。
 よく言えば自由奔放、悪く言えば無責任な程、ふらりと居なくなってしまうひとだったのだ。その存在は風に似て、留まることはあっても吹き抜けて舞いあがってしまう。いつからかそんな風に、ギルベルトは生きていた。それは『ドイツ』が生まれてからのことで、空に登りたがる風船のようだ、と感じたことも思い出す。大切な役目を終えて、抜けがらのようになってしまった兄がそれでも生きていたのは、きっと弟の為だった。
 ルートヴィヒが兄の存在を望み、ギルベルトは弟の願いに応えたのだ。それは昔から繰り返されてきたことで、今もきっと、そうなのだ。ギルベルトはルートヴィヒを不安にさせても、苛立たせても怒らせても、決してその望みを、心からの願いを裏切らない。そのことを思い出して、ルートヴィヒは苦笑した。
「そうだな……確かに、兄貴はそういう人だった」
「でしょう? ですから……そろそろ消息が途絶えて十二年にもなりますが、そう心配することでもありませんよ。イヴァンさんがなにやら隠してらっしゃることは私にも分かりますけれど、それだってもしかしたら、お師匠さまが隠れんぼでもして見当たらないだけかも知れませんし」
 お師匠さまはそういう、人をからかうことに関しては天下一品の才を御持ちでいらっしゃる、としみじみ呟く菊に、確かにその通りだ、とルートヴィヒは笑って。それから恥ずかしげに目を伏せ、ありがとう、と言った。きっと、たったそれだけの言葉を告げる為、ルートヴィヒの心に安らぎを取り戻させる為だけに、菊はドイツに来たに違いないのだ。アーサーはそれを分かっていて手を貸し、二人を再会させたに違いないのだった。
 もう、大丈夫だ。視線をあげたルートヴィヒは言葉に出さず力強く頷き、菊を見てアーサーを見て、ローデリヒを見つめて微笑んだ。もう、大丈夫。不安は超えて行ける。この不安を絶望にさせないことがルートヴィヒの望みである以上、ギルベルトは必ずそれを叶えるだろうから。願いは、果たされる。いつでも。何度でも。その為の信頼を、いま、取り戻した。ようやく復活した『ドイツ』から視線を外し、菊はそっと窓の外を見る。
 東に向かって憎々しげに向けられた視線の意味を、菊だけが知っていた。



 七月十二日。ライン同盟が結ばれることによって、神聖ローマが完全に解体されてしまう日。その日の朝に目を覚ました兄を連れて、ギルベルトは王宮を飛び出した。向かったのは何処でもない。強いて言えばイタリアの方角を目指していたことだけは覚えているのだが、ギルベルトがどうにか己を取り戻した時にはすでに方角を見失い、またがっていた筈の馬もなく、ただ幼い姿の兄を抱き上げて林の中をかけていた。
 靴は泥に汚れ、全身は転んでしたたかに打ちつけでもしたのか所々が熱を持っていて痛く、頬にも手足にも無数の切り傷があった。その全てがどうして生まれたものか全く思い出せない辺り、ギルベルトは相当混乱していたらしい。今も冷静に頭の片隅でそう思いながら、ギルベルトは血の香りを漂わせる息をぜいぜいと繰り返しながら、一時も足を止めることなく雑木林を走り続ける。追手から逃げているようでもあった。
 もしギルベルトの姿を誰かが見たならば、幼い弟を連れての逃避行だと思っただろう。神聖ローマはギルベルトの腕に抱きあげられていたがぐったりとしていて意識は弱く、身に纏う衣服だけが在りし日のそれだった。黒い衣装に黒いマント、黒い帽子。漆黒の一揃いは顔色の悪い神聖ローマの青白さをさらに引き立たせ、ギルベルトの胸を焦りと悲しみでいっぱいにした。ぐ、と奥歯を噛み締めて涙を嗚咽を封じ込める。
 泣いている暇はない。暴れている時間もない。ギルベルトの感情が道行きを邪魔するのなら、今はその全てが不要だった。げほげほと時折せき込みながらも足を進めるギルベルトの意識はぼんやりとしていて、自分がどこへ向かいたいのか、どこへ向かっているのかも定かではない。前へ、胸がじりじりと焼けつくようにして感じる方角へと足を進めているだけで、それは操られているようにも、呼ばれている風でもあった。
 体力を削ぎ落しながら駆け抜けるギルベルトは、白いローブを身にまとっていた。その中に着ているのは機動性を重視したが故に軍服だが、ローブは教会で祈りをささげる時の為、兄である神聖ローマが仕立てあげてくれたものだ。長い時を経て布が弱ってしまったからか、はたまたどこかで派手に転んでしまったせいなのか、破れて切れて汚れてしまっている。肩幅はやや短く、袖だけがぴったりの長さで裾は短い。
 薄汚れたローブは、藪の中を突っ切って行くには邪魔なだけだろうに、ギルベルトは頑なにそれを脱ごうとはしなかった。それはギルベルトに送られた兄の心であり、そして二人を結びつける絆でもあったからだ。決して寝心地が良いとは言えないギルベルトの腕の中、ぼんやりと目を開いて神聖ローマはローブの端を手で握る。なにも言わずに首を横に振られたのを見て、ギルベルトは歯を食いしばって嫌だ、と吐き捨てる。
 それがローブを脱げということであっても、走るのを止めて立ち止まれという意味であっても、あるいはもう良いという諦めや、無駄な抵抗だという窘めであっても、ギルベルトはその全てを否定して受け入れなかった。ギルベルトとて、理解している。その終焉がライン同盟という名を持ってついに襲いかかって来ただけで、いつかはこの日が来るのだと、ギルベルトはちゃんと知っていた。分かっていた。理解していた。
 神聖ローマは復活が叶わず、歴史の海に消えてしまうのだ。ついにその日が来てしまっただけで、王宮から逃げ出そうと、たとえイタリアに向かおうとも、その終わりに歯止めをかけることは出来ない。国の終焉と共に命を終えるのが、『国』として生まれた者の定め。永遠に近い眠りの中で、神聖ローマはとうに覚悟を決めていて、朝焼けと共に開かれた瞳は恐ろしい程に美しい諦めと決意を灯し、己が定めを受け入れていた。
 許せなかったのはギルベルトだけだ。信じたくなかったのはギルベルトだけだった。神聖ローマは弟と呼んだ『国』の抵抗を悲しく見つめているだけで、胸に終わりを宿らせている。それを否定することは、できなかった。ギルベルトは、あくまで『プロイセン』だ。神聖ローマの内側にあった一国であるから、『プロイセン』は『神聖ローマ』に干渉できない。守りたいのに。こんなにも傍に居たいのに。腕の中は、今も温かいのに。
 もうすぐ、それはすり抜けて消えてなくなる。ぞっとする悪寒を振り払い、ギルベルトはひたすら走り続けた。かろうじて国内であることだけが分かる土地を、どこだと感じ取る余裕もない。それなのに木々の隙間から覗き見た青空が綺麗で、ギルベルトは鼻の奥が痛くなった。ギルベルトという存在に、青空の美しさを指差し示してくれたのは『神聖ローマ』だった。野に咲く花の名前を、ひとつひとつ、笑いながら教えてくれた。
 草原を抜けていく風の音の心地よさや、満天の星空を見上げる喜び。暖炉の前の熱と温かさ、危険なことも安らぐことも。名を呼ばれるこそばゆさも、繋いだ手が温かいことすら、みんなみんな、神聖ローマが教えてくれた。ギルベルトの、今の世界を形作る発端。その全ては、神聖ローマが開いてくれた。彼はギルベルトにとっての兄であり、保護者であり、そして母ですらあった。尊敬していた。愛していた。愛している。
 不意に、森が途切れる。肩で息をしながら足を止めたそこは、不思議に開かれた場所だった。大地は小石や無数に生えた草花でひどく荒れていたが平坦にならされていて、よく見れば素朴な色合いのレンガが道の輪郭を残している。蛇行しながら続いて行く小道の先に、教会があった。雨風に朽ちて廃墟めいた風であっても、不思議に美しく保存されている教会だった。壁は蔦をはいあがらせるだけで、壊れてはいない。
 その教会につけられた名をギルベルトは知らなかったが、柔らかく吹く風に背を押されるように建物に近づき、重たい木の扉を開いて中に入る。ステンドグラスから七色の光が零れ、朽ち果てた内部を明るく照らし出していた。木の椅子には苔が生え、殆どが黒く腐ってしまっている。石はひび割れて草を生やし、細長い木が光を目指して背を伸ばしていた。風の通り道になっているからか、空気は新鮮で透きとおるものだった。
 ギルベルトは教会の奥へ足を踏み入れる。腕の中で神聖ローマがなにか問いかけるように身じろぎをしたが、やがて少年は納得した風に、穏やかに目を細めて沈黙した。進んで行くギルベルトの足取りに迷いはなく、そのことに疑問を感じてもいない。それは無意識で、ギルベルトが分かっているからだろう。『国』は故郷を持たない。彼らは国から生まれ、そして国と共に消えていく。けれど、ギルベルトの生まれは違う。
 彼は祈りと信仰の交わる所で生まれ、人のぬくもりを知って国土を得て、ようやく『国』となった存在だ。意思を持った日のことを、ギルベルトは覚えていないという。己が人ではない存在として生まれたのがいつであったか、どこであったか、分からないという。だからギルベルトは、その場所に経ってもそこがなんなのか分からない。弟から聞いている神聖ローマだけが、ゆりかごのような腕の中で確信する。それは、ここだ。
 朽ち果てた教会。名も知らぬ場所に残されたこの建物こそ、『マリア』の故郷。存在が、生まれ落ちた場所だった。一歩奥に進んで行くたびに、ギルベルトから荒んだ気配が抜け落ちて行くのを感じる。研ぎ澄まされて行くように、男の心が、無垢な祈りに還って行く。神聖ローマを抱き上げ、抱きしめて歩きながら、ギルベルトは喉を震わせてしゃくりあげた。瞳に涙は無かったが、泣く寸前のように顔が歪んでしまっている。
 体を起して頭を撫でてやれば、ギルベルトは神聖ローマの体を隠すように身を屈めた。時が静止するような優しい静寂の中、ギルベルトは中庭に面した渡り廊下を歩き終え、最奥の部屋の扉をあける。そこは、祭壇が置いてあるだけの簡素な祈りの場だった。天井の近くに丸い明りとりの窓があるだけで、部屋はしっとりとした闇に包まれている。祭壇の前にはぐずぐずと溶けて崩れた蜜蝋が一つ、火を灯して揺れていた。
 今にも消えそうな炎の前にふらりと歩み寄り、ギルベルトは膝から倒れこむようにその場に座る。己を見失う恐慌状態で走り続けて、いい加減体力が限界になっていたのだろう。神聖ローマの体が床に叩きつけられるのだけを阻止して、ギルベルトはしたたかに体全体を打ちつけて、荒い息を繰り返した。教会に人の気配はなかった。薄暗い、狭い部屋の中に居るのは二人だけで、儚く揺れる炎が『国』を見守っている。
 倒れたギルベルトを申し訳なさそうに見つめ、神聖ローマは立ち上がらせようと手を差し出した。記憶にあるのとほぼ変わらない、僅かに大きくなった程度のてのひらが、その瞬間にぶれる。二重写しに存在が揺れる神聖ローマは己の体にハッと息を飲み、ギルベルトは目を見開いて涙をこぼした。立ち上がる力もなく、腕だけを伸ばして抱き寄せた体が、恐ろしいほど頼りない。ぬくもりは、残り香のように遠くにあった。
「兄上……兄上、兄上! 嫌だっ!」
「同盟の……手続きも、終わったらしいな」
 祭壇の前の炎も、大きく揺れる。風もないのに吹き消されそうなそれは、神聖ローマの終焉と重なっているかのようだった。悲鳴に似た声で叫ぶギルベルトとは対照的に、神聖ローマの声は落ち着き払っていた。痛いほど体を抱いてくる腕の中から手を伸ばし、神聖ローマはぽんぽん、とギルベルトの頭を撫でてくる。幼い頃受けた手と、全く同じ仕草だった。悲しい程、なにも変わらない。
「生きて……。兄上、お願い、します……! 生きて、くださ」
「駄目だ。『国』は、国と共にしか生きられない。……すまないな、お前を置いて行く」
「嫌だっ! 兄上、駄目ですっ! ……フェリちゃんと約束、したんでしょう? 迎えに行くと。行かなければ……フェリシアーノちゃん、今でも待ってます。兄上がお眠りになって消息が絶えてからも、フェリシアーノちゃんはずっと、ずっと兄上のことを待って……!」
 一緒に連れて行って欲しい、だなんて。ひとのような悲しみは、ギルベルトには叫べない。『国』として生まれた本能がそれを拒否し、『国』として存在している体が、口がその動きをさせなかった。想うことすら許されず、悲しみに狂うことすらできず、ギルベルトは全く正常なままの心で引き裂かれるような痛みに耐えていた。神聖ローマの体はだんだんと色を失い、存在が儚くなっていく。半透明の手が、頬をすっと撫でた。
「待っているのは……知っている」
「ならっ!」
「でも、会いに行けないんだ。帝国となり、イタリアが戦わずとも良い平和な世界を作ってから迎えに行きたかった。……迎えに、行きたかった。だが『国』として俺にそれは許されず、もう、時間もない」
 頬に触れる指のかたちが、消えていく。先端から砂の城が吹き飛ばされるように、音もなく形が崩れていく。金の光だった。神聖ローマの体が崩れるように、壊れて行くように、光の粒となって天へ登って行こうとする。
「兄上っ!」
「ギルベルト。……マリア」
 微笑みの輪郭すら、薄く、うすく消えていく。その中で神聖ローマは、かつて自分が庇護した存在の名を呼んだ。
「強くあれ、我が弟」
「兄上……!」
「誇り高く」
 世界に、在れ。
「あ……っ!」
 腕の中をするりと抜け出し、神聖ローマは背を正して柔らかく微笑んだ。両手が、走り込んでくる幼子を抱きとめるように広げられる。ギルベルトは身を起こし、兄の腕へ還ろうとした。蜜蝋の炎が音高く燃え上がる。一瞬だった。四散するように神聖ローマの体は光に崩れて消え、爆発的な光源が部屋を眩く照らし出す。太陽が散らばったような明るさ。ギルベルトは体を起して腕を伸ばし、その光をかき集めようとした。
 光の粒はふわりふわりと漂いながら登っていくばかりで、そのひとつたりとも指先に引っかからない。行ってしまう。消えてしまう。髪の一筋、かぶっていた帽子すら後には残さずに。すっと部屋に暗闇が戻り始める。光を押しのけてやってくるそれに、ギルベルトは貫かれるような恐怖を覚えた。喉がひきつる。精一杯伸ばした指先から、最後の光がゆるりと離れた。届かない。届かない。頬を幾筋も涙が伝い、視界がぼやける。
 言葉が出ない。なにもかも、消えてしまう。ギルベルトは混乱の中で息を吸い込んで、離れていく光に向かって叫んだ。人の願いと祈りの果て、生まれ落ちた存在が、最初に知った言葉だった。
「――神様っ!」
 ごう、と音を立てて。溶け落ちた蜜蝋の残骸から炎が上がった。赤々と部屋を照らし出された炎に呼びこまれたように、光の欠片が振ってくる。目の眩むような光の欠片は、ギルベルトの腕の中へ収束して行った。形の無いそれをぎゅぅと抱くように、ギルベルトは原初の祈りを口にする。神様、神様、神様。どうか、どうかどうかどうか。失わせないで。消してしまわないで。この存在は、私を育んでくれたぬくもりなのです。
 喉の潤いが消える程に祈りを口にし続けて、気が付けば、部屋には静寂と暗闇が戻っていた。高くにある明りとりの丸い窓から差し込んでくるのは、月明かりのようだった。青く清浄な一筋の光が、ギルベルトの体を部屋から浮かび上がらせるように降り注いでいる。蜜蝋は燃えて消え、光の欠片も還ってしまった。ギルベルトは泣きだしそうな気持ちで顔をあげ、己をかき抱くように回していた腕を、ゆるゆると解いて行く。
 その瞬間だった。ずしりと腕に重みが生まれたのを感じ、ギルベルトは慌てて『それ』を抱くように腕に力を込める。皮膚の下で、予感がざわめいた。そろそろと下ろした視線を出迎えたのは、生まれたばかりの赤子の無垢な瞳。まだ世界の美しさも醜さも、喜びも悲しみもなにも知らぬ、あるものをあるがままに映し出すことしかできない瞳。深い意思の眠る、澄んだアイス・ブルーの瞳だった。同じ色の、瞳だった。
 それでも、それは神聖ローマではない。ギルベルトの兄の瞳は同じ色をしていても、もっと凛として冴えていた。澄み切った、曇りのない強さで見返して来るそれとは、別物だ。それなのにギルベルトは、兄を失わなかった喜びで赤ん坊を抱きしめる。これは『神聖ローマ』だった。その名を持って存在していたものだった。四散した光が祈りに引き寄せられて戻ったが故の、新しい『国』だった。兄とは、全く別の存在だった。
 認められずに消えてしまった『国』が、一度途切れ、もう一度繋ぎあわされて産まれて来たのだった。じっと見つめてくる瞳を覗きこんで笑い、ギルベルトは息を吸い込む。悲しみは、もう覚えなかった。喪失感は胸に在っても、それに支配されることはないだろう。ギルベルトはこれから、この『国』を育てるのだ。兄の代わりではなく、それでいて、兄が『マリア』を導いてくれた遠い日のように。教わったことを、全て還そう。
 知識も国も民も、ぬくもりも愛情も優しさも、この世の美しさを全て教えて回ろう。
「……俺のことが、分かるか?」
 向けられる瞳はなにもかもを知らぬ、生まれたての真っ白なものだった。分かっていて語りかけたギルベルトに、赤子はちいさな手をぐっと伸ばして来る。ぺち、と手が頬に触れた。触れ方が違う。指の形も、大きさも違う。それでもギルベルトは、くしゃりと顔をゆがめて笑った。ああ、同じ体温だ。嬉しくなって、ギルベルトは赤ん坊を抱きしめる。
「俺は……俺はこれから、これまでに増して誰より強くあろう。お前の為に、誰より誇り高くあろう。兄上の残した最後の願いの通りに、俺はその通りに生きていく。そして俺はお前を、なにがあっても大切に思う。帝国を継ぐ者、俺の弟よ。今日この時より、お前は俺の弟だ。いいな?」
 そしていつかお前に、俺の持つなにもかもをやるよ。囁いた言葉は赤子以外の誰も聞かず、けれどやがて、世界の全てが知ることになる。ライン同盟にて神聖ローマが消滅してから、約六十五年あまり後。『プロイセン』は一人の『王』の戴冠を迎える。ヴェルサイユで華やかに行われた戴冠式にて、誕生した『国』の名を『ドイツ』。その傍らで満足げに笑っていた『プロイセン』は彼を弟と呼び、『ドイツ』は男を兄と呼び慕った。
 この世界のなにもかもを、教えてくれたひとのことを。ルートヴィヒは『兄さん』と呼び、ギルベルトはそれに、満足げに笑った。



 心臓が早鐘を打っている。フェリシアーノは、普段ならば目を覚まさない早朝にベッドの上で体を起こした。耳元で気持ち悪くなるくらい鼓動の音が鳴り、視界がぐらぐらと揺れ動く。吐きそうになって口元に手を押し当てれば、早朝のトマトの水やりから戻ってきたロヴィーノが寝室の扉を開けて、作業服に手をやった姿でぴたりと動きを止める。にいちゃん、と掠れた声で呼べば、ロヴィーノは即座にベッドに乗り上げて来た。
 青く若いトマトの香りと、土の匂いが間近に漂う。素朴な安心感を誘うそれをなんとか吸い込みながら、フェリシアーノは肩を掴んで引き寄せ、額を重ねて熱を計ろうとするロヴィーノを見つめた。ぼんやりと定まらない視線に、ロヴィーノが舌打ちをする。どうした、と苛立った声で問いかけられるのに、フェリシアーノは唇を動かすだけで声を出せない。ヴェ、と弱々しく響いた鳴き声に、起こしておくのを無理だと判断したのだろう。
 フェリシアーノの肩はベッドに逆戻りさせられ、手が強く握りしめられた。視線をあげると、眉を寄せた顔つきのロヴィーノと目が合う。部屋は明りをはらんだ薄闇に包まれていて、時刻がよく分からない。ぐらつく視界で時計を探せば、なんとか朝の六時くらいであることを確かめられた。今日の日付を思い出す。八月十三日。国に急激な不況の前兆はなく、それによる不調ではないことを理解した。これは恐らく、『共鳴』だ。
 日本に原爆が落とされた時も、フェリシアーノはその『国』の不調を間接的に感じ取って体調を崩した。それと同じことが起きている。歯を食いしばって浅い呼吸を繰り返す弟を見て、ロヴィーノはなんとなくを察したのだろう。ひとまず安心した風に息を吐き、ロヴィーノは身を屈めてフェリシアーノの額に軽く口付けた。ちゅう、とわざとらしい音を立てて唇が離れていく。ばぁか、と呆れ果てた呟きが、早朝の空気を揺らした。
「本当にお前は……共通感覚強えな」
「俺は確かに強いけど、兄ちゃんが鈍いからきっと二人分なんだよー……」
 正鵠を得ているフェリシアーノの言葉を、ロヴィーノは鮮やかな笑顔を浮かべて黙殺した。確かにロヴィーノは『国』が滅ぶ、あるいは産まれるくらい激しい変化が起こらない限り察知もできないが、それがなんだというのか。他の『国』ならば落ち着かず、いわゆる虫の知らせとして胸をざわめかせる『国』同士の共通感覚で、起き上がれない程体調を崩すよりはマシだった。ぐったりと動けない弟を、溜息をつきながら撫でてやる。
「ほら、深呼吸。目は閉じてて良いから、探ってみろよ。どこの『国』だ?」
「ヴェー……スパイみたいでヤだよー。にいちゃん、俺イヤだよー」
「お前は嫌だが俺には関係ない。俺はお前の体調を崩す原因になったアレコレを知っておく義務があるだけだ」
 さっさと探れバカヤロウ、と言葉に似合わない綺麗な笑みで言ったロヴィーノからそっと視線を外して目を閉じ、フェリシアーノは深々と息を吐き出した。兄の愛情は不器用この上ないが、本物なのだ。フェリシアーノの『共鳴』による不調を快く思ったことが一度としてない兄は、今日もまたどう報復するかで胸をときめかせているに違いない。兄ちゃんだからマフィア気質って言われるんだよ、とフェリシアーノは諦め半分に思って。
 脳裏に浮かんだイメージに、びくんと体を震わせた。
「え……? っ、な……えっ?」
「……フェリ?」
「嘘っ、や……やだ、やだ! 嫌だっ、そんなの駄目だっ!」
 それは鉄格子に似て、張り巡らされる有刺鉄線のイメージだった。有刺鉄線は壁のように高く築かれ、西と東を不自然に区切っていた。場所は、ドイツ。分断されたのは、ベルリンだった。そう告げて意識を失ったフェリシアーノに薄布をかけて眠らせ、ロヴィーノは険しい視線を空へ向けた。手を繋いだまま手を伸ばし、寝室に置いてある小さなテレビの電源を入れる。音を絞って起こさないようにして、ロヴィーノは唇を噛んだ。
 ニュースは、まだなにも報道していない。恐らくは起きたばかりの他国の事件を流すには、まだ時間が必要だった。政府庁舎に行けば、なにか分かるかも知れない。どうするべきか、フェリシアーノと繋いだ手を見つめて考えるロヴィーノの耳に、電話の鳴る音が聞こえた。数度のコールで切れてしまった電話は、またすぐにかかっては数回鳴らして切れてしまう。急ぎの用事である、という分かりやすい合図の一つだった。
 本当に仕方がなく溜息をついて、ロヴィーノはフェリシアーノと手を離し、八度目にかかってきた電話をワンコールで取る。
「なんだよ、アントーニョ」
『壁が……! ロヴィ、ロヴィ、壁がなぁっ!』
 ロヴィーノがそもそも相手を問わなかったように、アントーニョも出た相手を誰とも尋ねなかった。興奮した口調でわめかれるのに顔をゆがめながら、ロヴィーノはアントーニョの背後のざわめきがスペイン語ではないことに気が付いて背を震わせる。ドイツ語だった。フェリシアーノが懐いているむきむきも、その兄も話す言語だったから、耳が自然に覚えてしまっていた。電話をするアントーニョの背後で、人々が泣き叫んでいる。
 壁が。その言葉しか言えない様子で動揺するアントーニョに、ロヴィーノはどくりと跳ねあがった鼓動を自覚しながら問いかけた。
「お前……ドイツに、居るのか」
『フランシスと飲んでたんや! いや今はそないなこと良いねん。ちがくてロヴィ、壁が……! ベルリンに、壁がっ……! ギルちゃんトコに行けなくなってしもうたんや! ちくしょう……ちくしょう、封鎖しよったっ!』
 つけっぱなしにしていたテレビが、臨時ニュースに切り替わる。砂嵐の走る荒い画像が、ベルリンに作られた『壁』を映し出していた。有刺鉄線が組み上げられ、地図上にひかれた線の他はなにも区切りの無かった筈の大地を分断している。ロヴィーノの手から、受話器がすり抜けて落ちた。ゴトンと鈍い音が響いても、ロヴィーノは視線をテレビから外せない。人々の悲鳴が、恐ろしいほど木霊している。空は曇っていた。
 一九六一年八月十三日。突如として現れたそれを、人は『ベルリンの壁』と呼んだ。



 繋いでいた指先に、きゅぅと力が込められる。そうなるだろうと予想していたので、エリザベータは不思議に穏やかな気持ちで顔をあげることが出来た。
「おはよう、ギルベルト」
 気分はどう、と尋ねるエリザベータの視線の先で、ギルベルトはのたのたとまばたきを繰り返す。現れた瞳は、朝焼けのように透明な赤だった。視線を合わせて苦笑して、ギルベルトは尋ねる。
「今、何時だ? 西暦で」
「一九六一年の、八月十三日。午後一時過ぎ、よ。ねぼすけ」
「……俺様、ちょっと寝すぎじゃねえ?」
 くぁ、とあくびをかみ殺して眉を寄せるギルベルトに、エリザベータは全くだわ、と笑って。温かな男の指先を包むように、てのひらに力を込めて囁いた。
「おかえり」
「おう」
「……残念だけど、アンタはまだ消えないわよ。すごく大変なことが起こったもの」
 これで『国』がふんばらなかったら、国民は大パニックね、と悪戯っぽい口調で笑うエリザベータに、ギルベルトはそうだな、と同意して。己の指先をじっと見つめ、握り締めて頷いた。

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