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 6 世界の果て

 己の身になにが起きていたのか、ということをギルベルトは誰に言われるまでもなく理解していた。一種の拒絶反応に近いものがあるだろう。『国』が国を背負おうとして拒絶されるというのもお笑い草だが、それだけプロイセンという国家に愛着があったのだろうな、と他人事のようにそう分析する。その上でドイツ民主共和国に意識を馴染ませようとすれば、ギルベルトの意識に現れたのは、己の国を愛すものではなかった。
 『プロイセン』の意識が、ドイツ民主共和国はあくまで『ドイツ』からの預かりものであると主張している。預かりものである以上、己のものとすべきではない、とも。自意識の混乱を上手く処理しきれないうちに分裂独立なんてしてしまったので、ギルベルトは倒れて寝込むハメになったのだが、それは最初から最後まで、どこからどこまでも自業自得だった。『ドイツ』から預かって、分裂独立まで時間が無かった訳ではない。
 数時間の猶予しか与えられていなかったのであればいた仕方ないことだが、数か月をギルベルトはイヴァンの邸宅で過ごしていた。その間、邸宅で食客として安穏と過ごしていたのは他ならぬギルベルトであり、『国』として持つ自意識の混乱に上手く気が付けず、放置していたのは『プロイセン』なのだ。最盛期の己が聞いたら鼻で笑い飛ばしそうな緊張感の無さだった。よってギルベルトは、イヴァンの処置を責めなかった。
 倒れてから目覚めるまで、実に約十二年。赤ん坊が可愛らしい少女に成長する程の年月を、イヴァンはひたすら誤魔化し続けたのだ。ソビエトに属する『国』達には厳しい緘口令をしき、内部にも外部にもギルベルトの状態が洩れないように細心の注意を払い、『国』からの問い合わせについては全てイヴァンが対応してのらりくらりと交わし続けた。イヴァンの屋敷に居ることだけは知らせて、他を全て封じ込ませたのだった。
 なぜそんなことをしたのかと問いかけたギルベルトに、イヴァンは困ったように微笑んでだって、と言った。そんな風に『他国』を背負おうとして眠った『国』の前例がないし、起きるか分からなかったし、外部に状態が露見したらものすごーく面倒くさいことになるのは目に見えてるし。だからだよ。それ以上でもそれ以下でもない、と言い切ったイヴァンの目は真実を告げていたが、ギルベルトは瞳を見つめながらそうか、と頷いた。
 その上で心配をかけたな、と言ったのは、冬の大国の瞳の奥に、かつて己が味わった薄ぼんやりとした恐怖を見出したからだった。眠っているだけ。身体的な異常は現れない。病気の兆候も見つけられない。本当に、ただ眠っているだけの『国』は、いつ目覚めるかも分からない。もしかしたら、目覚めることなどないのかも知れない。その不安から導きだされるのは、消滅の予感だ。消えてしまうのかも知れない、という恐怖。
 人の死を目の当たりにした『国』は多くあれど、『国』の死を見たことがあるのはギルベルトくらいだろう。長い眠りは容易くそれを連想させ、イヴァンの心を苛んだに違いない。なんのこと、と笑顔でとぼけたイヴァンの頭をぽんぽんと撫で、ギルベルトは病み上がりである己の身を全く考慮することなく、ドイツ民主共和国への視察を申し出た。視察といっても、仕事は特にない。ごく簡単に翻訳すれば、『俺の国見せろ』である。
 ギルベルトが目覚めた理由は、ドイツ民主共和国の首都、東ベルリンに現れた異常に他ならない。あまりの異常、あまりの恐慌、あまりの悲しみに『国』としての意識が混乱状態であっても眠りを維持出来ず、ギルベルトの意識を覚醒させたのだった。『国』としての意識混乱は、まだギルベルトの中にある。相変わらず男の『国』としての意識は『プロイセン』で、ドイツ民主共和国ではなかったからだ。これからも無理だろう。
 それなのに起きて居られるのは、ギルベルトが己の『国』としての意識齟齬を、ある意味洗脳したからだった。ギルベルトはあくまで『プロイセン』である。それ以外になれそうにもなく、またなる気持ちもないのだということを自覚した『プロイセン』は、けれどドイツ民主共和国の『国』としてやっていくにあたって、己にものすごく言い聞かせたのである。あれは孫。俺様の孫。孫のワガママを受け入れて処理する俺様はスゴイ。
 一連の台詞を二十回をワンセット。一日三回、朝に夕に寝る前に、と繰り返した結果、ギルベルトは『プロイセン』でありながら、そのままで『ドイツ民主共和国』のもろもろを請け負う『国』として成立するという、離れ業と奇跡の複合的な成果を成し遂げたのであった。今後、同じことをしようとする『国』は現れもしないだろうが、恐らく確実に『プロイセン』にしか出来ない筈だ、というのがソビエトに属する『国』の共通意見だった。
 非常に微妙なバランスの元で成り立っている平常状態であり、覚醒であることに間違いはないのに、ギルベルトはどうも慢心傾向にあるらしい。それくらいでなければ力技の自己暗示など成功するはずもないのだが、イヴァンは呆れ果てた目でギルベルトを眺めやった。十三年の眠りを病とするならば、ギルベルトは立派な病み上がりである。血色も良くて髪の毛がツヤツヤしているので、ものすごく分かりにくいのだが。
 気持ちは分かるけどさ、とイヴァンは魂さえ出そうな深さで溜息をつく。
「ここからドイツ民主共和国へ向かうとなると、それなりの長旅になる。君はどうせ、体調に合わせて数日かけて移動する、なんていうことは好まないだろうから、行くとしたらわりと強行軍でしょう? 倒れたらどうするの」
「俺様、そんなにヤワじゃないぜー!」
「ヤワじゃないけどアホだよね。片腕立て伏せ千回やって腹筋千回やって背筋千回やって、十キロランニングしようとしてエリザベータに張り倒されたからって、じゃあ五キロならいいだろって言って言い争いになって、君ら二人してきゃっきゃうふふ五キロ追いかけっこしてたもんね」
 それは実際には追いかけっこではなく、全力で逃げながら目的を達成しようとするギルベルトを、そのまま野放しにも出来ずにエリザベータが追いかけていただけなのだが。目覚めた次の日に中庭で展開されていた、その全力の追いかけっこを見た瞬間の気持ちは、一言で表せる。心配して損した、だ。しかし損をしても心配しなければいけないこと、というのはあるもので。不満そうなギルベルトに、イヴァンは再度言った。
「一人でなんて行かせられないよ。ダメ」
「……じゃ、エリザ連れてくから許可くれよ」
「君ら二人でそのまま逃避行しそうだからダメ。もしくは道中で殺人未遂事件が多発しそうだからダメ」
 そこでどうしてわざわざエリザベータなのか、と思うのはもう野暮なんだろうなぁ、とイヴァンは溜息をつきながら考える。二人が腐れ縁で幼馴染なのは嫌になるほど知っていたが、イヴァンはギルベルトがエリザベータに対して持つ複雑な心をなんとなく分かっていた。その上で、エリザベータの気持ちにも、複雑なものがあると知っている。ギルベルトの意識喪失を隠すと決めたイヴァンに対し、女性は即座に言い放ったのだ。
 看病は誰がするのか。ひとを使う訳にはいかないでしょう。だから私が全て行う、と。ギルベルトの意識が回復するまでの十三年間、エリザベータは全く言葉の通りにした。部屋から出てくるのは本当に稀で、食事と生理現象、あとはエリザベータの『国』としての立場がどうしても必要な仕事の時のみで、あとは絶対に体を外に出そうとしなかったのだ。一度だけ、冬の日にナターリヤの部屋で一緒に寝ていた時を除いて。
 可愛くも恐怖の妹との微笑ましかったエピソードを思い出し、イヴァンはぱんっと手を打ちあわせる。そうだ。その手があった。イヴァンが告げた言葉を否定したくも否定しきれず、苦い顔で沈黙するギルベルトの視線が、いぶかしげに持ち上がる。それを笑顔で見返して、イヴァンは猫なで声を出した。
「うん。ギル君、やっぱり行って良いよ。エリザベータも一緒にね」
「嫌な予感しかしない!」
「ただし、お目付け役としてナターリヤも同行するからそのつもりで」
 その瞬間、ギルベルトの瞳に激震が走る。お前それただの厄介払いだろっ、と絶叫する意思を笑顔で受け流して、イヴァンは嫌だなぁ、と首を傾げる。厄介払いだなんて、言葉が悪すぎる。積極的に否定はしないが、否定するほどイヴァンはナターリヤを嫌がっている訳ではなく、純粋にひたすらに妹として愛しているから困っているだけなのだ。結婚はできない。ナターリヤはイヴァンの可愛い可愛い、大切な大好きな『妹』だ。
 気分転換させると思って一緒にね、と笑うイヴァンに、ギルベルトは嫌そうな顔になる。
「その気分転換ってアレだろ? 俺とかエリザとかナタじゃなくて、お前の気分転換だろ?」
「もちろん。僕のに決まってるじゃない。他の人の気分を気遣うだなんてサービス、持ちあわせてないよ」
 ふふふ、と笑って顔の前で手を組み、ところで、とイヴァンは首を傾げた。
「ギル君。きみ、いつからナターリヤのこと、ナタ、だなんて親しげに呼んでるのかな?」
「……え」
「ちょっと、そこの所詳しく教えてくれると、僕すごく嬉しいな」
 語尾に音符が付きそうな弾む声で、可愛らしく、目は全く笑っていない状態でイヴァンは告げる。イヴァンはあくまで本当に純粋に、妹としてナターリヤを愛しているのである。そうであるからして、悪い虫は駆除しておくべきなのだった。たとえソビエトという身内であっても。身内であるからこそ、徹底的に。極めつけに怖い『お兄ちゃんは許しませんよ』に、ギルベルトは背を冷たい汗が流れていくのを感じる。本気で、怖かった。
 そしてどんな言葉を並べようと言いわけとしか受け取られないことを察し、ギルベルトはよし分かった、とナイフを飲みこむような気持ちで決意する。イヴァンは、満面の笑顔で答えを待っていた。ダイヤモンドダストの輝きって確かこんなんだった、と思いながらギルベルトは口を開く。
「よし、ナターリヤも連れて行く。それでいいなっ?」
「……うーん。じゃあ、まあ、そういうことなら」
 でも今回だけしか不問にしないよ、としっかり釘をおして、イヴァンは即座に電話を取った。ドイツ方面へ向かう列車のチケットを三枚、瞬く間に取得して電話を切ると、イヴァンはこれから自分が旅に出るかのような弾む笑顔で言い放つ。
「じゃ、出発は今日の正午ね。チケットは駅で受け取って」
「……今日の、正午?」
「うん。遅れたら列車行っちゃうから、ものすごく急いで頑張ってね?」
 イヴァンの邸宅から駅まで、普通に行けば一時間程度だ。それなのに置時計の針は、十一時ちょうどを指し示していた。今すぐ屋敷を飛び出してもギリギリ間に合うかどうかなのに、ギルベルトはまだ荷造りをしていなかったし、そもそもエリザベータにもナターリヤにも、同行許可など得ていない。二人の供はこの場での口約束であり、ある程度、出発までの猶予を得ている前提での話だったからだ。血が、音を立てて引く。
 即座に走って部屋を出て行こうとするギルベルトの背に手を振り、イヴァンはのんびりとした声でいう。
「遅刻したらコルコルだからねー」
 振り返ったギルベルトは、焦りのあまり罵倒の言葉すら出てこなかったらしい。もどかしげに口をぱくぱくと動かした後で親指を首の前で立てて横切らせ、床に捨て去るように動かしてから身をひるがえし、走り去って行った。ちくしょおおおおっ、という絶叫が響きながら遠ざかっていくのを確認して、イヴァンは置時計を手に取り、くるくるとゼンマイをまいてから時刻を十時五分前に合わせる。くすくす、と笑いがこぼれた。
 置時計の針が狂っていたのを、面倒くささを理由に放置しておいて本当によかった。時間が一時間以上も進んでしまっていることに気がつかない程、パニックを起こしたギルベルトを見られただけで、胸がすぅっと澄んで行く。これくらいは可愛い悪戯だよね、きっと、と呟いたイヴァンの元に、真実に気が付いたギルベルトが怒鳴りに戻って来てナターリヤに打ち取られ、そのまま駅に向かうまで、あと三十分だった。



 窓の外を、景色が流れていく。遠くにある美しい黒い森より、線路のすぐ傍に広がる枯れ草の色を眺め、ギルベルトは愛おしい、と思った。あんまり長く雪の白色にばかり囲まれていたからか、色の付いている景色、というものが無性に愛しくてたまらなかったのだ。その中でも特に、枯れ草のような色褪せた優しい風合いや、あるいは萌黄のように生まれたばかりの艶やかな緑に心惹かれる。いつまでも、見ていたくなる。
 イヴァンが用意した列車の席は個室で、大家族用の大きなスペースだった。大人でも六人は座って行けるであろう空間は、三人掛けが二つ、向い合せになっている。ペンキを塗る資金が尽きたのか、はたまた最初からその予定だったのか滑らかに磨かれただけの木肌はとても良い香りをさせて、ギルベルトの心をなお和ませた。辿りついた先は決して楽しいことばかりではなく、苦しみや辛さに向き合うことが分かっていた。
 ガタン、ゴトン、と列車は揺れ動く。乗り心地は良いとは言い難かったが、その振動はギルベルトの心をそっと揺らしていった。あまり乗り心地が良すぎると、落ち着けない気分になるのは軍生活が長かった弊害に違いない。平和な世界には生きにくい体質だ。溜息をつくと、不意に個室内の会話が途切れて居たことに気が付いて顔をあげる。話していたのは主にエリザベータだが、ナターリヤも相槌を打つのを止めなかった。
 顔をあげるとすぐに、軽く睨みつけてくるような二人分の視線と出会い、ギルベルトは身をすくませて椅子の背に体を押し付けた。十分に余裕のあるスペースとはいえど、邸宅の室内とは比べ物にならない空間なのである。フライパン常備の女性とコンバットナイフ通常装備の少女の機嫌を損ねたら、その先は怖くて考えたくもない。そういえばギルベルトだけが丸腰なのだった。窓から逃げたくなる衝動を堪えて、口を開く。
「な……なんだよお前ら……?」
 怯えているのが明らかな問いかけに、二人の視線は緩まなかった。それまでなんの会話をしていたのか思い出そうとしてみるものの、声が響いていたことは思い出せても、単語のひとつさえ記憶から拾い上げることが出来なかった。もうすこし身を入れて聞き耳を立てておけばよかったのかも知れないが、ギルベルトに女性同士の会話を盗み聞きする趣味はなく、また景色に意識を集中させていたので、どの道無駄だろう。
 武器は止めろよ、と引きつった表情でそろりと両手をあげるギルベルトに、エリザベータは嫌そうに眉をつりあげた。全く心外である、と表情で表すエリザベータに頷き、ナターリヤは凛々しい顔つきで口を開く。
「お前、体調は悪くならないのか?」
「眠っててもいいのよ? なにかあったら起こすけど、列車強盗くらいなら二人で十分制圧できるわ」
 とりあえず全員殴って昏倒させて手近な駅で蹴り落とせばいいのよね、と確認口調で呟くエリザベータに、失血させて意識を失わせる手もあるな、とナターリヤが重々しい声で同意した。このご時世で列車強盗がそう起こる訳もないのだが、身の安全の為に起きて居なければいけないかもしれない、とギルベルトは思う。もちろん、犯人の。俺様が歯止め役って珍しすぎるぜ、とげっそりしながら、ギルベルトは首を振る。
「や、ねえから。眠気も吐き気も、だるいとかも。熱とか咳とか、全部ねえから。俺様、いたって健康だぜ」
「それが逆におかしいのよね……」
「さすがに『国』ということか……回復力が強すぎて、いっそ気持ち悪い」
 しっし、と手を振る雪国美少女の顔は本気で気持ち悪がっていて、ギルベルトは微妙に視線を彷徨わせた。エリザベータの声も心配していないことはなかったが、訝しさが強いものだったからだ。会話から察するに、二人は延々と『ギルベルトの体調について』を話しあっていたらしい。それを憂慮してイヴァンは二人を同行させたので、すこぶる優秀な看護役であるのかも知れないが、それにしても言葉と態度と表情がひどい。
 お前ら知ってるか、俺にも傷つく心っていうのはあるんだぜ、と呟くと、二人から向けられた視線の意味は一つだった。なにを馬鹿なことを、である。それが心の存在それ自体についてなのか、それともなぜそんな事実を考慮しなければいけないのか、ということについては悲しすぎるから深くは考えないことにして、ギルベルトは溜息をつきつつ頭の上に手を伸ばした。ふかふか、つやつや、もこもこのことりを摘みあげる。
 ギルベルトの頭の上、髪の中を巣にしているらしいたんぽぽ色のことりは、飼い主の手のひらの中でぱたぱたと羽を動かし、愛らしい声で幾度か鳴いた。もしもインコのように言葉を話せるのであれば、飼い主の名をさえずっているような甘えた声だった。すくなくとも、ことりだけはギルベルトの味方だ。ことりちゃんっ、と感極まった声で喜んでいるギルベルトを、女性たちのなんとも言い難い視線が、呆れながら眺めやる。
 本当に、ありとあらゆる意味において、十三年間で一度しか目を覚まさず、眠りっぱなしだった『国』とは思えなかった。いくつもの奇跡を力技で成し遂げ、今も微妙なバランスの上で覚醒しているに違いない『プロイセン』は、ともすれば起きるのが面倒くさかったから眠っていたようにも見えてしまう。本人の申告を信じるのであれば体調の悪いこともないらしく、体つきが一回り小さくなったことを除き、全く代わりがなかった。
 そういえば、ギルベルトがソビエトに来たばかりの頃は勝手に屋敷の中を飛び回ることもあったことりが、眠りに落ちてからは常に傍にあり、目覚めてからも離れなくなった、とナターリヤは気がつき、目を細めて訝しむ。大体、ギルベルトの『ことり』は変なのだった。ほぼ飲まず食わずでも弱りはするが死にはしないし、鳥類であることだけが確かで種族の特定ができないし、なによりひな鳥からすこし成長しただけなのだ。
 ほわほわの毛並みは成鳥のそれではなく、幼年をわずかに脱したものでしかない。生まれたての産毛ではないにしろ、柔らかな羽根は長距離を飛ぶに適したものに生え変わる風でもなく、身一つをようやく温める程度にしか変わらなかった。てのひらの中であやされていたことりが、ナターリヤを向いて羽をぱたつかせた。そのうち分かるよ、とでも言いたげな仕草に、ナターリヤは目を険しく細め、指先を伸ばして突く。
 苛めるんじゃありませんっ、とまるで兄のように言い聞かせてことりを頭の上に戻したギルベルトを、ナターリヤは不思議がって見つめた。ことりが得体の知れない存在だということを、ギルベルトだけが知らないように思えた。いくら『国』とはいえ、頭を攻撃されたらひとたまりもない。人のように死に、人が産まれるのとは別のプロセスで再生する恐怖と苦痛は、そう味わいたいものではない。首を傾げて、ナターリヤは言う。
「お前、そのことりを危ないとは思わないのか?」
「思わないぜ? これ、俺様のことりちゃんだもん」
「だもんとか言うな、馬鹿ギル。もうね、いつもこうなの。いくら言っても聞かないから、諦めたわ」
 頭を守るっていう発想がないのかしら、と呆れるエリザベータに、ナターリヤは納得した風に頷いた。エリザベータが言ったというなら、それは相当回数言い聞かせたということで、それで駄目だというのなら、つまりこの男は馬鹿なのである。すっぱりとそう結論付けて忠告めいた発言を止めにしたナターリヤに、察したギルベルトが目つきを悪くして口を開きかけた。しかし少女の傍らで、微笑みを深くした女性に阻まれる。
 邸宅に居る時は違えど、この奇妙な三人旅行の間、エリザベータはナターリヤの姉役の気持ちであるらしい。私の可愛いナタちゃんになにを言う気だコノヤロウ、と雄弁に語る笑みに押されて、ギルベルトはぎこちなく首を振る。なんでもありません、と怯え気味に言い、ギルベルトはゆるく体から力を抜きつつ、ナターリヤに手を伸ばした。男の大きなてのひらが、ぽんとナターリヤの頭に乗せられる。そのまま、撫でられた。
 意味もなく、ただ単に愛でるだけの動きに、ナターリヤは奇妙な気持ちを感じて眉を寄せる。ナターリヤの兄はイヴァンであり、姉はライナだ。ギルベルトとエリザベータではなく、そもそも二人は己が背負う国の方針によってソビエトに属した存在であり、古くからの仲間、同胞とも言い難かった。それなのに、なんと無防備な心の開き方、触れ合い方であることか。つまりは二人とも警戒心の薄い馬鹿なのだ、と少女は思う。
 それでも、急所である頭に触れられているのに、ナターリヤは不思議とギルベルトの手を振り払おうとは思わなかった。微笑ましく眺めてくるエリザベータの視線も、奇妙なこそばゆさを感じるだけで不愉快ではない。むっつりと不機嫌そうに口をひきしぼって、ナターリヤは列車の窓に視線を送る。ちょうど牧草地帯が途切れ、建物がぽつぽつと見えるようになってきた。土地の名を告げる看板が、視線の先を流れていく。
 言葉はいつの間にか、なじみ深いものではなくなっていた。もう数時間で、ギルベルトがいびつな形で背負う国に到着するだろう。それまでだ、とナターリヤは思う。なまぬるいこの気持ちを受け入れてやるのは、それまでの戯れなのだ、と。そっと離れていくギルベルトの手を見つめ、ナターリヤは不意に、イヴァンとライナに会いたいと思った。怖がっていてもあの二人がナターリヤを大切に思い、愛してくれているのは確かだ。
 馴染みの薄いドイツ語ばかりになり始めた看板を見つめるだけで、ナターリヤはあえて問いかけなかった。ギルベルトが本当に慈しみたいのは、ナターリヤではない。ナターリヤの兄と姉が、今はロシアに居るように。ギルベルトの弟は、列車では辿りつけない場所にいる。そして目的地に到着したとて、ギルベルトはその姿を見ることが叶わないのだ。ナターリヤは眠たげに目を瞬かせるギルベルトの、頭の上のことりを見た。
 この存在だけが、壁を越えていく羽を持っている。



 壁が出来たことによってルートヴィヒに現れた影響は、周囲が心配する程に大きなものではなかった。元より、今その地を担っているのはルートヴィヒではなくギルベルトである。大元の『ドイツ』としては体の中に冷たい線を引かれたような感覚を覚えなくもなかったが、『ドイツ連邦共和国』としてのルートヴィヒは、肉体的な不調より、精神的に重くのしかかってくるものがあった。連邦共和国のベルリンは、飛び地である。
 ベルリンの西側は連邦共和国であるものの、その『国土』をぐるりと取り囲むようにして、ドイツ民主共和国はそこにあるのだ。ギルベルトがそれを表し、俺に抱きしめられているとでも思っておけ、と言っていたのはあながち間違いではないのだった。ルートヴィヒの精神に打撃を与えたのは、そのギルベルトのことである。ようやく、連絡が取れずに消息が不明になっていることに対して、前向きに思えるようになったというのに。
 その矢先に壁が建設され、人の行き来きが叶わなくなってしまったのだった。国民の不安と恐怖、怒りや、引き離された絶望は日を追うごとに大きくなり、ギルベルトの健康を蝕んで行くことだろう。ルートヴィヒ自身の体調は、そう悪いものではない。兄が国を奪って『国』として返り咲いたあの日から、寝込むような不調を感じることなく来ているのである。身体的に立ち上がることはできても、心が膝を屈してしまいそうだった。
 思い悩むルートヴィヒを、ベルリンを分割占領していた『国』たちは見るに見かねたのだろう。『国』として、むしろお前より年長の存在としてアドバイスなり対策なり考えてやるから、とりあえずちょっと出てこい、しかし拒否権はない、という有難迷惑一歩手前の招集令状がルートヴィヒの元に届いたのは先日のことで、差出人はもちろん、世界の元支配者『イギリス』だった。手紙では、室内には四カ国が揃っている筈である。
 しかし記された日、指定された時間ぴったりにドアを叩いて室内に足を踏み入れたルートヴィヒと、当たり前のような顔をしてついてきたローデリヒを出迎えたのは、椅子に腰かけて優雅にティーカップを傾けて居るアーサー一人きりだった。もしや、またなにか企んでいるか、あるいは騙されたのだろうか。疑念いっぱいの表情で立ち止まるルートヴィヒに、アーサーはティーカップを顔の前まで持ち上げ、ニヤリと笑って口を開く。
「よう、ルートヴィヒ。時間ぴったりだ。……で、やっぱり一緒なのか、ローデリヒ」
 今回はお前も、と書きくわえなかった筈なのだが。嫌味と優雅さを奇妙に併せ持つ声でつい、と首を傾げながら言い放ったアーサーに、ローデリヒは泰然自若とした余裕の笑みで顔をあげる。アーサーの優雅さが静的であるなら、ローデリヒのそれは動きある優美さだった。どちらにしろ、若干の棘がある。居心地が悪く視線を彷徨わせるルートヴィヒに気が付いていないふりをして、ローデリヒは唇に半月を宿して微笑んだ。
「当たり前でしょう。誰が可愛い息子を、猛禽と猛毒と変態の巣窟に一人で行かせるものですか」
「ローデリヒ」
「言葉のあやですよ」
 誰が息子だ、と言わんばかりに向けられた睨みに、ローデリヒはにこりと笑ってそう言い返す。化粧もしていないのに、唇の赤さがやけに艶やかだった。ものすごく怖い。ぎこちなく頷いたルートヴィヒに、まさしく聞き分けの良い息子を愛でる親のような笑みで頷き、ローデリヒはまあそういうことですから、とアーサーに向き直る。どうぞ、お気になさらずに。空気を揺らす妙なる旋律に似た声に、アーサーは微苦笑で目を細めた。
 まったく、自分の魅力を十分に分かった上で、的確に利用してくる相手ほどてのひらで転がしにくい相手はない。分かった、と同席を許可しながらティーカップをソーサーに戻して、アーサーは二人を部屋の中へと手招いた。二人とも、扉を開けた所で立ち止まっていたので、部屋の奥に座るアーサーは会話がしにくかったのである。それでは失礼します、と改めて告げたローデリヒは、開けた扉を閉めてすたすたと歩いて行く。
 後に付いて歩く形になりながら、ルートヴィヒは無意識に室内を見回していた。そう広い部屋ではないが、会議用に並べられた机があり、椅子も十分な数が揃っている。本来いるべき四カ国が揃っていたとしても、十分な空席があっただろう。アーサーは会議用の長机にティーセットを広げ、優雅にティータイムを楽しんでいた。二人の分も紅茶が注がれるのを眺めながら着席し、ルートヴィヒは思わず眉を寄せてしまう。
「どういうことだ? 手紙では、他の『国』も居るような話だったではないか」
「ちょっとした手違いが起きてな。説明するから、まあ飲めよ」
 ティーカップを二人の前に置き、砂糖壺とミルクピッチャーも押し出してお茶菓子を進めてくるアーサーの顔つきは、申し訳なさそうなものだった。謀をしてこの状態になったのではない、ということだろう。問いを重ねたい気分になりながらもひとまず紅茶を一口飲み込み、ルートヴィヒは珍しく成功しているように見える、アーサーのお茶菓子に目を止めた。黒くない。炭っぽくもない。そもそも、炭化しているようには見えなかった。
 それでいて藍色や紫といった奇抜な見かけということでもなく、レースペーパーが敷かれた小皿の上に置かれていたのは、優しい焼き色のついたスコーンと、薄くきつね色になった厚焼きのクッキーだった。しかし、ここで油断してはいけないのがアーサーのお茶菓子である。進められた礼儀上一言で切って捨てるわけにもいかないので手を伸ばし、生焼けである可能性を考慮して、ルートヴィヒはスコーンを二つに割った。
 ふわり。甘いメイプルの香りが漂う。はっと目を見開いたルートヴィヒの横で、ローデリヒは心底納得して安心した表情で、そういうことですか、と頷いた。これは確かに『アーサーのお茶菓子』である。彼の為だけに用意された、という点において。惨劇と食中毒回避に貢献した『国』の姿を脳裏に思い浮かべながら、ルートヴィヒはしみじみと感謝の言葉を口にした。
「マシュー・ウィリアムズ。貴君に心からの感謝を捧げよう」
「……それ、俺に対して酷過ぎないか?」
「ポイズン・クッキングスキルをどうにかしてから仰い。マシューが、来ていたのですか?」
 メイプルの香りがした時点で、製作者が英連邦の長女の名を頂く『国』、『カナダ』であるマシューであることは間違いが無かった。アーサーは訂正を入れない代わりに複雑そうな顔をして、ローデリヒの言葉の後半部分にだけ反応する。
「来てた、じゃねえよ。来てるんだよ」
「それにしては、あまり嬉しそうにも見えませんけれども?」
 ふふふ、と親しげに相手をからかおうとするローデリヒに、アーサーはぶすくれた表情で腕組みをする。『イギリス』と『カナダ』であるアーサーとマシューが、『国』同士の親密な付き合いのみならず、私的に恋人同士である、というのはそれなりに有名な事実だ。それを指し、恋人が来てくれているのに不機嫌になるものではありませんよ、と遠回しにたしなめるローデリヒに、アーサーは聞き分けのないこどものような顔をする。
「つーか……ああ、それも関連してるんだけどな。俺しか今ここに居ない理由」
「なにかあったのか?」
 あったとも、とアーサーは頷く。表情も仕草も重々しくなく、いつも通り相手を皮肉って茶化すものであったので、ルートヴィヒは緊張しかけていた体から力を抜いた。別に、深刻な話題ではないらしい。変化を見てとったアーサーが愉快げに笑いながら、お前は一々重く受け止め過ぎなんだよ、とからかうのを、本人ではなくローデリヒが言い返す。そこがこのコの良い所なのですよ。三者面談の気分だ、とルートヴィヒは思った。

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