アーサーは上機嫌に笑いながら知ってるさと目を細め、優しげな表情で語りだす。
「まず、そうだな。アルフレッドから。アイツは今、合衆国に居る。つまり本国だ。離れられなかった理由は『だって新作のアイスが出たら当日に買って食べたいじゃないか!』ということなので、正々堂々と上司に許可を得た上、後で俺が殴りに行くから許してやってくれ。今回のことについては、今マシューが電話して聞いている所だから、そのうちあのドアホの意見だけはやってくる」
大変申し訳ない、と微笑むアーサーは冷静に上機嫌な風だからこそ、付き合いの長いローデリヒは頷いてから視線をそらした。軽くて全治二週間程度、だろう。アーサーが許可を取るべき上司は己とアメリカ合衆国のそれと二人分だが、やるといったらやる男である。アルフレッドに逃げ道はない。よろしい、許して差し上げましょう、とまたも招かれた本人を差し置いて言うローデリヒに、アーサーもだんだん慣れて来たらしい。
ルートヴィヒにはちらりと視線が向いただけで、よしじゃあ次、と会話を再開させた。
「ヤオ。『中国』な。アイツが不在の理由は……『国内仕事で忙しくてそっち行く暇などねえあるね』とのことだが。アイツは俺がどんな用事で呼んでも同じ理由で断ってくるか、さもなくば『我を呼びつけるとは百年早いね。お前が来い』かの二択だからな。ああ、ただ航空便でお前あての見舞品? だと思うんだが、小包が来てる。爆発物や危険物ではないことだけチェックしたから、帰って開けてみると良い」
美味しい食べ物か、手紙が入ってたらお前の現状に対するアドバイスの類である筈だ、というアーサーに頷いて、ルートヴィヒは表情に出さずに呆れてしまった。知っていたが、相変わらず連合は仲が悪い。結託する時は悪巧みを実行する時のみ、というのが清々しいくらい分かりやすかった。利害が一致しない限り、どうあっても手を組まないのだから。仇敵のアーサーと違い、耀本人がルートヴィヒに対して思うことはない。
小包が届いているのならアーサーが言う通りに食料の類か、思いやりの言葉などだろう。ありがたく受け取る、と頷いたルートヴィヒにやや複雑そうな面持ちで、アーサーはで、と言った。
「ヒゲだけど」
「貴方たちは……本当に仲が悪いな」
「お褒めの言葉としてありがたく頂戴しよう。で、ヒゲだけど、現在全身打撲の治療中だ。起き上がれて気が向くようならこっちに来ることもあるんじゃねぇの?」
キラキラ輝く笑顔で吐き捨てたアーサーの、手を思わず見てしまった二人に非はないだろう。島国紳士の手は白い手袋に覆われていて、その下にある皮膚の状態を確認することができなかった。しかし、確信を持って二人は思う。全身打撲になるほど、殴って蹴って来たのだな、と。疑惑に満ち満ちた二人に否定することなくあでやかに微笑み、アーサーは唇だけで微笑んだ。
「そういうことで、わざわざ呼び立てたのに俺一人ですまないな」
「いや、かまわない。それに俺は……大丈夫なつもりだが、お前たちがそうして心を砕いてくれたことが嬉しい」
だからその気持ちだけでも、すこしだけ元気にはなれたのだ、と微笑むルートヴィヒを微笑したまま見つめ、アーサーはんー、と首を傾げてみせた。良い子でしょう、と自慢げにローデリヒが胸を張る。ホントだな、と頷き、アーサーは不服そうに眉をしかめた。
「ギルベルトの奴、どうやって育てたんだ?」
「よく聞かれるが、育てられた当人にしてみれば特別なことはなにも、としか言いようがない。厳しい兄であったことは確かだ。時間や規則、約束事に厳しく、言いつけを破れば怒鳴られることも殴られることもあった。ただ暴力をふるわれることは本当に稀で、大体は悲しげな、苦しげな表情で押し黙って見つめられて、俺はそれが本当に嫌だったし、申し訳ないと思って猛省した記憶があるが……なにより愛を、くれたな」
久しぶりの兄語りに、多少饒舌になっている自覚がルートヴィヒにはあった。しかしローデリヒは苦笑するばかりで咎めず、アーサーも楽しげに瞳をきらめかせるばかりだったので、ルートヴィヒは胸に残る温かな輝きをひとつひとつ拾い上げるように、言葉を選んで告げていく。
「アーサーもそうしただろうが……たくさんのことを、俺は兄から教わった。あらゆる意味で、俺の世界の根源を作ってくれたひとだな。……だがな、アーサー。お前は確かにアルフレッドの兄だろうが、俺とアルフレッドでは随分違うと思うぞ? お前は『国』を、あるいは弟を育てたと思っているのかも知れないが、俺は兄に弟として育てられながら、なんというか……。兄はいつでも俺の騎士であり、俺のことを、王だと呼んだ」
恐らくそれが、決定的な違いとなったのだろう。ギルベルトは近世を経て現代に至るまで、ずっと王の騎士であり続けた。そして同時に弟を持つ兄として、広く深く、ルートヴィヒを慈しみ、愛し、見守り、叱咤し、激励し、共に戦いながら傍にあったのだ。幼い頃のルートヴィヒは、傷つきながらも戦い続けた兄の背を見続け、お前の王国を築くと囁く兄の言葉を信じ、騎士の忠誠を受け入れ、我が王と膝を折る騎士を慈しんだ。
その存在を、どうして疎むことが出来ようか。反抗することはあった。喧嘩することもあったが、心から剣を向けて傷つけたことは一度としてなく、そうしたいという暗い望みを胸に抱くこともなかった。それは鏡に映った己の姿に、拳を打ちつけることと同じ行為だ。己という存在を世界に根ざしてくれた、たった一人。愛しこそすれ、手を離すことは決してない。関係性からして違うと苦笑するルートヴィヒに、アーサーは肩を竦めた。
「よーく分かった。そりゃ、俺にはムリだな。……そういやお前、体調は?」
「大丈夫だ、と言っただろうに。強いていえば……今までもそう感じ取れていた訳ではないのだが、兄さんの気配というか。漠然とした温かさ、といえばいいのか。飛び地として存在しているベルリンの感覚が、完全に独立して切り離された感じはあるな。今まではかすかでも、向こうと繋がっている気はしていたんだが」
「まるで『他国』に接している国境線のよう、か?」
つう、とアーサーの指が空中に線を引く。その動きを目で追いかけながらルートヴィヒは頷き、言葉にローデリヒが溜息をついた。どうしてこんなことに、と言わんばかりの音楽家の仕草は、全ての『国』と、そしてドイツ国民の総意でもあるだろう。望まれて分断される国などなく、引き離される民族もない。この状況は正直アホだと思うが、とアーサーは溜息をつく。アホに対抗する為、国際的な大馬鹿になるのは避けなければ。
「いいか、ルートヴィヒ。こうなったら……というか確認しておくが、お前は最終的になにを望む?」
「決まっている。ドイツの再統一だ」
意気込むでもなく、叩きつけるでもなく、ひたと見据えた視線をそらさずに提示された答えに、アーサーは思わず破顔した。その意思があるなら、きっとやり遂げられるだろう。分かった、とアーサーは頷く。
「ならば、お前は『国』として立ち上がらなければいけない。この国を……分断し、独立し、壁によって阻まれてしまった両国をもう一度一つにしたいと望むなら。蘇れ、『ドイツ』。『日本』はもうとうに……あの勢いは正直おかしいと思わざるを得ないくらいの速度で国を回復させてるぞ?」
あと一応言っておくが、今の発言は『国』としてであっても『イギリス』としてではなく、どちらかといえばアーサー・カークランド個人が送る祝福と激励だ、とにこりと笑って言った島国に、ルートヴィヒは深い感謝を込めて頭を下げた。国際社会はまだ、ドイツを警戒している。一つの言葉では表せぬ程の大量虐殺、一つの民族を完全に抹消しようとした事実は永遠に消えず、人は、国は、世界は永遠にそれを覚えているだろう。
その国のしたことを。それによって生まれた悲しみを。忘れもしないうちに、ひとは新しい悲劇を生み出してしまうのだ。それでも。多くの罪を犯した国民を悔い呪い悲しみながらも、壁を作って分断しようと、されようと、ルートヴィヒは国民に対する愛情を止められなかった。吐き気がするほど、ルートヴィヒはドイツ国民を愛している。その名を持った大地に産まれ落ちた愛し子たち。なにがあろうとも、滅びの時までは傍らに。
茨の道すら、共に歩もう。
「成すべきことをせよ、ということか……。すまない。どうも最近、気分が落ち込み気味で」
「いや、俺の言葉で上向くならそれでいいさ。お前は……今まで救いあげてくれる存在が当たり前に傍に居すぎたからな。良い機会だと思って、一人立ち目指せ。ということで保護者、お前いい加減に国に帰れよ。オーストリア政府が諦めの境地に達してるぞ?」
「諦めがつく程度でどうにかなっているのですから、それはそれで良いではありませんか。それに、たまには国に帰ってもおります。私とて『国』ですから」
甚だ疑わしげなアーサーの視線を手で払って、保護者代表オーストリアは全く気にしていない表情で告げる。確かに、強制捕獲部隊がさし向けられていない以上、オーストリア政府はある意味『国』を野放しにして諦めてはいるのだろうが。まあ、ピアノの調律が気になり始めていましたし、近くきちんと帰りますよ、と言ったのでローデリヒも分かってはいるらしい。マイペースを極めて、あえて空気を読んでいないだけで。
不意に、部屋にノックの音が響き渡る。一瞬だけフランシスかと思った二人は、しかしアーサーの表情を見て考えを改めた。深い森色の瞳が、甘い喜びにとろりと溶けていた。いいぞ、と響く声すら、恥ずかしくなるくらいに甘い。果たして、失礼します、と声をかけて入ってきたのは予想通りの青年だった。動きやすそうな上下にジャケットをはおって、手には子機を持っている。電話を終えたので、戻ってきた風な姿だった。
扉を音もなく閉めたマシューは、二人に向かって微笑みながら会釈をすると、ほのかに綺麗さを感じさせる足取りでアーサーの前に歩み寄った。仕草が洗練されているのは、アーサーとフランシスの良い所だけが影響したからだろう。ほう、と感心したように音楽家が息を漏らすのに満足げに目を細め、アーサーはマシューに向かって右手を差し出した。マシューはアーサーの前に片膝をつくと、差し出された手にそっと触れる。
手袋越しに手の甲に口付けを送って、マシューは慈しみ溢れる視線をアーサーに送った。視線を柔らかく受け止め、アーサーは手を伸ばしてマシューの頬に触れ、指の動きだけで輪郭を辿るように撫でていく。
「おかえり、マシュー。あの馬鹿と連絡は取れたのか?」
「はい。ルートヴィヒさんには、『まあ待っていておくれよ! 今に俺がイヴァンをぼこぼこにしてやるんだぞっ』と伝えるようにと」
「その前に俺がお前をぼこぼこにするって分かってねえなアイツ……よく分かった。御苦労だったな、マシュー」
さっさと冷戦は終わりにするようにって言ってんのに、と頭が痛そうに吐き捨てて、アーサーはマシューに向かって身を屈めた。前髪を唇で軽く食むようにして愛で、アーサーはマシューの額にそっと口付ける。くすくすとくすぐったげに笑って肩をすくめるマシューの頭を、アーサーはとても楽しそうに撫でていた。ふわふわの、やや長めの髪を指で巻いて遊んでいるのを茫然として見つめ、ルートヴィヒは傍らに視線を送った。
保護者は適切にその視線を受け止め、アーサー、と呆れの強い声を響かせる。
「あなた、この場に私たちがいることを忘れてはいませんか?」
「……ああっ! す、すみません、ルートヴィヒさんっ!」
反応したのはアーサーではなく、マシューだった。マシューは白い頬にぱっと朱を散らして恥じらうと、それでもアーサーの傍から離れようとせず、なぜか手に持っていた電話の子機をルートヴィヒに差し出して来る。反射的に受け取ったルートヴィヒが、ある予感にまさか、と呟くと、マシューは力強く頷いた。
「申し訳ありません、忘れていました……! お電話です」
アーサーさんを目にしたらちょっと、嬉しくて用事が頭から抜けてしまってっ、と大慌てするマシューの反省ポイントは、どうもそこらしい。私情を優先して用事を忘れていたということは、確かに褒められたことではないのだが。もういいです、と諦めた風に息を吐くローデリヒをフォローする余裕もなく、ルートヴィヒは受話器を耳に押し当てた。通話は保留になっていなかったので、向こう側にもこちらの声は届いていた筈だった。
今変わった、すまない、と告げると電話口で深々と、苛立ちに満ちた息が吐き出される。それが誰なのか分からず、ルートヴィヒがすまないが、と言おうと口を開くのと同時だった。重々しい声が、言葉を告げる。
『お前の兄は、無事だ』
お前の兄を預かった、身代金を用意しろ、と告げられた方がしっくりくるような、低音のどろどろとした響きだった。思わず背筋を正してしまったルートヴィヒは、しかしすぐに息を吸い込んで電話口の存在を呼ぶ。
「ナター、リヤ……。ナターリヤ・アフロスカヤ嬢、か?」
『変な呼び方をするな、気持ち悪い。普通に呼べばそれで良い、というかそれくらいならいっそ呼ぶな』
少女の声は不機嫌に低くなっている上、背後が騒がしいので注意しないと聞き取りにくいものだった。しかしそれを苦とも思わず耳を澄ませて、ルートヴィヒはハッと息を飲む。そこに兄の存在を感じ取れないかと耳をそばだてた。そこで、少女の後ろでざわめきとなっている言語がなじみ深いものだと気が付いたからだ。ドイツ語。どこに居るんだ、とかすれた声で問いかけたルートヴィヒに、気が付いたか、とナターリヤは鼻で笑う。
『お前が今いる国の隣。壁の向こう側、だ。言っておくが、ギルベルトは傍にいないから電話に出られんぞ』
駅についた途端、お腹が空いたと飛び出して行ってエリザベータが店名を私に告げて追いかけて行ったからな、と淡々と吐き捨てるナターリヤに、ルートヴィヒはそぅっと額に手を押し当てた。あの人はなにをしているんだ、という呆れの気持ちと、心配して損をしたような、それでいて安心した気持ちと、壁を隔ててすぐ傍に居ることへの、震える程に焦がれる気持ちが一斉に胸に下りてくる。どんな言葉も、口から出なかった。
ただ、思う。もし今名を呼んで、兄の声で名を呼び返されることが叶うなら。
『……長く、こちらから連絡できなかったことを、お前の兄は申し訳ながっていた』
意識の海に落とされた呟きに、ルートヴィヒは思わず少女を怒鳴り付けそうになって腹に力を込める。情報をよこさなかったのは、そちらではないのかと。ギルベルトは申し訳なく思うことはなにもなく、悪いのは全て少女の兄や、あるいは少女たちだった。感情そのままに叩きつけなかったのは室内にはルートヴィヒを見守る存在が複数おり、そしてナターリヤの声に迷いがあったからだ。それは、言葉自体への迷いだった。
言葉を告げ、言葉を交わすことに対して、少女は声を揺らす程に悩んでいるようだった。
『兄さんも……事情があって、言わなかったことだけは、分かって欲しい』
「ナターリヤ、まさか……電話の許可を」
『取っていない。だから、もう切る』
盗聴は多分されているから、後でなにか言われたらまあ頑張れ、と熱の無い応援を残し、ナターリヤは電話を切ってしまった。着信終了を告げる無機質な音だけが耳に残り、ルートヴィヒはなんとも言えない気持ちで沈黙する。一体どんな風の吹き回しで、ナターリヤがルートヴィヒに当てて電話をかけて来たのかは分からない。慌てた風に切った訳ではなかったので、少女が伝えたかったことはあれが全てなのだろう。
元気で居る。傍に在るものがそう告げたのならば、その通り、ギルベルトは元気で笑っているのだろう。今頃はエリザベータに怒られながら、馴染みの店で懐かしい料理を食べているのかも知れない。大丈夫か、と声がかかる。なにか言われたのなら、と心配するアーサーに首を横に振って、ルートヴィヒは微笑んだ。心配することは、きっと、なにもない。ルートヴィヒには成すべきことがあり、その為に全力を尽くすべきだった。
今日はどうもありがとう、と握手の為に差し出された手を、アーサーは迷うそぶりもなく握り締める。負けるなよ、と強く響いたかつての覇者からの激励に、騎士を従えた王たる存在はしっかりと頷き。当たり前だ、と言った。
決してアーサーから逃げた訳ではなく、可愛い『セーシェル』が外に出たいというから付き合っているだけなんだよ、そう、そうなんだよ、お兄さんってばとっても優しいもんだからさ、と誰に聞かせるでもない言いわけを並べ立て、フランシスはドイツの街を散策していた。視線の先には白いワンピースを身に纏った少女、と、その傍らに赤い上着を着た少年がいる。少年はフランシスの視線にすぐ気が付いて、睨んで来た。
明らかに邪魔がっている表情にひょいと肩をすくめて答えれば、『香港』はぷいと視線をそらして歩き出す。それでいて傍らの少女の手すら自分からは握れない様子に、フランシスは肩を震わせて笑った。なんとも初々しく、可愛らしい。殴られて蹴られて荒れ果てた心が癒されて行くようだった。それがたとえ自分に向いた恋情ではなかろうと、フランシスは恋というものを見るだけで幸せな気持ちになってくるのである。
恋は良い。とても良い。とびきり素敵な砂糖菓子なのだ。若者よ、恋をせよ。存分に戸惑い、焦りながら恋を。
「……フランシスさん、気持ち悪いです」
若いっていいねえ、と年寄りじみたことを考えていると、すぐ間近から声が響いた。おやと視線を道の先ではなく傍に戻せば、そこにはやや膨れた顔つきをした『セーシェル』が居た。長く『セーシェル』そのものでありすぎた少女は、フランシスのように人の名前に馴染みが無い。英連邦の仲間たちが少女の名前を決めていたことは知っていても、それは仲間内の呼び名で、フランシスが口に乗せて良いのかためらいがあった。
名は知っている。たまには良いか、と思いながら、フランシスは息を吸い込んだ。
「ひどいねぇ、シェリ。お兄さんに向って気持ち悪い、だなんて。泣いちゃうよ?」
「泣けばいいじゃないですか?」
「セーちゃんや。いつからそんなドエスに育ったの? お兄さん本気で悲しくなって来た」
眉毛、やっぱりあの眉毛のせいなのねっ、とさめざめと泣くふりをするフランシスを、『セーシェル』である少女、シェリ・W・カークランドは『ダメだこの大人、はやくなんとかしないと』という目で数秒間眺めやった。それからシェリはくるりと振り向き、面白くなさげな表情でゆっくり歩み寄ってくる少年、『香港』である香に声をかけた。少年は存在の特殊性故に二つの人名を持っていたが、シェリが口にするのは舌に馴染む響きだ。
「カオル……。カオル・カークランド。そんな顔してると、眉毛そっくりっすよ?」
「シェリ。公衆の面前で」
「うい。分かってます。もう呼びません」
英連邦の宗主国、アーサーを軽々しく『眉毛』呼びすることに関して、カオルはあまり快く思っていないのだった。呼ぶのならば、身内の前だけで。本人を目の前にして呼ぶなら良いのだが、第三者がそこに居る場合はある程度の礼儀を持って呼ぶべきだ、というのがカオルの考え方らしかった。そっと咎める響きに軽く肩をすくめてくすくすと笑い、シェリは素直にごめんなさい、と言う。カオルは穏やかに笑って、頷いた。
「いいよ。……ところで、いつまでついて来るつもりですか」
「んー? お兄さんの気がすむまで、かな」
とびきりのウインクは、機嫌を損ねているカオルには通じないものらしい。アーサーそっくりの微笑みで気持ち悪いですと言い放たれ、フランシスは胸を押さえて僅かによろける。なんでこのコには愛が通じないんだろう。悲しい。しょげかえるフランシスの姿に、さすがに態度が悪いと思ったのか、カオルは視線をそらしぎみにしながらも唇を噛んだ。数秒、悩みながら視線が彷徨って、やがてそろそろとフランシスの姿を捕らえる。
うん、と問いかけに柔らかく上がった語尾に励まされたのか、カオルはぶっきらぼうな響きで声を響かせた。
「すみません。アンタのことは……嫌いでは、ないんですけど。最近すこし、だけ、イライラして」
「あー、あー。うん、いいよ。いいよ、分かってる。こんな状況じゃね、普通に増してストレスがかかるだろうし」
お兄さんもちょっと大人げなかったです、ごめんな、と笑いながらもたらされる手を、カオルは避けずに素直に撫でられた。カオルは『国』であるが、その実ものすごく特殊な存在だ。国家として確立した土地を持つでもなく、国民として得ているのは香港という一都市の民なのである。さらにその中国の土地でありながらも英国の支配下にあり、現在の『香港』が英連邦に属しているのだ。『国』よりも、ずっと不安定で稀な存在。
己の国土をしっかりと持つ『国』と違って、『香港』はあらゆる国の影響を、なんとなく受け取ってしまう。長じて本人の意識も成長してくればまた違うだろうが、『香港』は外見もそうである以上に、まだ『国』として年若い。国が分断された『ドイツ』の不安と緊張、保護者である『イギリス』の張り詰めた気持ちを受けて、己の気持ちまで不安定になってしまっているのだろう。加えて、今日はシェリとフランシスが傍に居る。
そのどちらかだけならば、カオルは何とか己を保てただろう。しかし淡い想いを向けている少女と、その元保護者の組み合わせである。シェリは無邪気にフランシスに懐き、男は喜んで少女を可愛がる。それはどちらも、互いにしか見せない表情で。そこにあるのが恋愛ではなく、深く途切れない親愛の絆だと分かっていても、カオルには嫌だったのだ。薄々分かっていてわざとやっていたフランシスにも、非はあるのだが。
よしよしと愛でるように頭を撫でるフランシスの手をカオルが避けないのは、互いに悪い所があったと分かっているからだろう。恥ずかしそうに唇を噛んで目元を染め、カオルはそっと体を斜めにしてフランシスの手を退けた。もうおしまい、ということだ。気位の高い猫に似て、その態度はいたくフランシスを満足させた。戯れに腰を屈めて頬に口付けてやれば、カオルは顔を真っ赤にして飛びのき、信じられないと目をまるくする。
思わず笑ってしまったフランシスの服の裾を、強めにシェリが引っ張った。
「フランシスさん。やめて。……カオルに、そんなことしちゃ、ダメです」
「うん?」
「カオルはっ……カオルは、そんなこと、ダメなんですから」
思い切り、泣いてむずがる寸前の幼子のように眉を寄せて、シェリはぐいぐいとフランシスの服をひっぱった。視線は俯き加減に道に落とされていて、表情を上手く読んでやることが出来ない。それでもフランシスはさすがに、女性の扱いや感情の機微については聡いものがあったので、ははぁ、と感心するような気分で納得する。本当に微妙で複雑な所だが、あながち少年の片想いでもないらしい。ダメ、とはそういうことだ。
触らないで、という淡い独占欲がにじみ出ている。大人になっちゃったなぁ、としみじみ思いながらも、フランシスはシェリの肩に手を置いてしゃがみこむ。そうすれば、視線は水平に見つめ合うことができた。分かったよ、と笑うとシェリは安心したように頷き、その己の心にこそ戸惑ったように眉を寄せ、指先を胸に押し当てる。シェリとカオルは、周囲から見ていてとても仲の良い兄妹であり、姉弟である。共に、英連邦だ。
その揺るがぬ絆が二人を結びつけ、だからこそ、ほんのすこし目隠しをして戸惑わせている。ええと、となにか言葉を探すシェリよりも、カオルの方が自覚はしているらしい。もう話は終わっただろうとばかり少女の腕をひっぱって、カオルは人気のない道をスタスタと歩き出す。目的地を決めて、三人は出てきた訳ではない。この様子だとアーサーの居るホテルに戻るコースかな、と考えていると、カオルがくるりと振り向いた。
「フランシス」
名が、呼ばれる。まっすぐな視線はかすかな苛立ちを伴っていたが、それでも親しい年上の男に向けるものを、逸脱している訳ではなく。あれ、と意外そうにするフランシスに、カオルは舌打ちしかねんばかりの様子で言い放った。
「散歩、するんですよね。……なら、ほら、行きますよ」
「行きましょう、フランシスさん」
カオルは、立ち止まって待っている。シェリはその傍らで、フランシスに向かって手を差し出した。二人はすこし道の先で、フランシスが歩んでくるのを待っている。そのことがなんだかすごく幸福に思えて、フランシスは微笑みながら足を踏み出した。三人の向かう道の先は、どこまでも続いているものではなく。やがて街並みが途切れ、恐ろしいほどの静寂の中、視線の先に壁が現れる。『国』たちはそれを、黙して見つめた。
フランシスはそっと目を細めて、壁の向こうの空を見上げる。流れていく雲は同じものなのに、今は人も、『国』も、向こう側には行けないのだった。人が通れないのなら、『国』もそれを規制される。向こうに言ったギルベルトがどうしているのかを、フランシスは知らなかった。戻っておいでよ、と言葉が零れる。古い祈りの言葉のように、それは、歩む者のない壁の向こう側に捧げられた。
「戻っておいでよ、ギルベルト。俺、待ってるからさ。……お前は、こんなことじゃくたばらないだろ?」
どんな窮地に叩きこまれても、『プロイセン』は周囲が呆れる程の粘り強さで立ち上がり、生き伸びて来たのだった。フランシスも苦笑しか浮かばないような思い出を辿るだけでも、こんなことで、こんな現実で、消えてしまうような『国』ではないと思える。それでも不安なのは、男がもう背負う国を持たないからだった。どんな手段を使ってそうしたのかは分からないが、フランシスはギルベルトが成した奇跡を弟から聞いていた。
奇跡は、二度は起こらない。フランシスは、それをどの『国』より知っていた。高くを流れる雲を見上げて、フランシスは切ない気持ちで呟く。お前は、こっちに戻っておいで。記憶の中で少女の面影が笑い、フランシスの手が誰かに掴まれる。ハッとして視線を向ければ、そこに居たのはシェリとカオルだった。二人はなんだか怒ったような、それでいて泣きそうな複雑な顔をして、それぞれにフランシスの手を握り締めている。
どういう状況なのか、フランシスにはよく分からない。どしたの、と首を傾げると、カオルは苛立ちが最高潮になったようだった。『このダメ大人がっ!』と絶叫するような鋭い睨みでもって、少年はフランシスを見やる。
「帰りますよ! アンタ、ダメだっ。こんなトコに長居させられないっす」
「え」
「え、じゃありません! 帰ったらアーサーに怒られないように、部屋か医務室にでも叩きこんでおかないと」
ぐいぐいフランシスの手を引っ張って歩き出すカオルとシェリは、全くの同意見のようだった。二人ともなにか、猛烈に怒った顔つきをして前を向き、フランシスの手を強く握って歩いて行く。心配させちゃったかな、と苦笑して、フランシスは素直に連行されることにした。その背を押すように、柔らかな風が吹く。思わず微笑んで、フランシスは無意識にある少女の名を唇に乗せる。風は柔らかく、フランシスの体を抱きしめた。
壁の向こうにも、優しい風は吹くのだろうか。そうであればいい、とフランシスは和やかに笑った。
西側へ抜けていく風が、ギルベルトの服をはためかせる。一歩離れた場所からその背を見つめ、エリザベータはギルベルトが振り向くのを待っていた。ギルベルトの視線の先には、壁がある。ほんの僅か軽食を口にしただけで、ギルベルトはすぐ壁の見える場所に向かった。それからずっと黙って、壁を見つめ続けている。どんな言葉も、どんな声も、ギルベルトの視線を引きはがせない。エリザベータは、それを知っていた。
頭の片隅で、ナターリヤのことを思い出す。ギルベルトが軽食を取るであろう店名を告げておいたから、今頃はそこに着いただろうか。あるいは慌ただしく出て行った二人のことを店主から聞いて、怒っているかも知れない。呆れているかも知れなかった。はやく戻ってやりたい気持ちもあるが、エリザベータはギルベルトの背から視線を外すことが出来なかった。男が壁を見ているように、気持ちを向こうに飛ばしているように。
きっとギルベルトが振り返るまで、エリザベータも視線を外せないのだ。二人の視線の先には、壁がある。それは地続きの筈であった国を分断し、人をせき止める為のものだった。風は流れて行けるのに、鳥は飛んで行けるのに、人はその向こう側に行けない。二人の前には、壁がある。それは紛れもなく、この世界の果てだった。