やけに明るい朝だった。夜の間にすこしばかり雪を降らせた雨雲は、朝日よりはやく何処かへ流れて行ったようだった。天気を確認する為にカーテンの隙間から覗き見た空は、薄く白い雲を透かして美しく、湖面に張った氷のような色をしていた。雪原が光を照り返すから、目が痛い程に光に満ち満ちている。瞼をぎゅぅと閉じて網膜に白く焼きついた光を振り払い、ギルベルトはカーテンを開けることなくクロゼットへ向かった。
寒さに慣れたとは言い難かったが、それに対処する術はすっかり身に付いていた。起きぬけの、布団の中から持って来たぬくもりが消えてしまう前に手早く着替えをすませ、ベッドの上で待っていたことりを頭の上に乗せてやる。それからそっと部屋を抜け出したのは、雪原に足跡を見つけたからだった。侵入者ではない。屋敷から中庭へと出ていった何者かの足跡は、ギルベルトの好奇心をいたく刺激したのだった。
部屋を出た先、廊下はまだ朝の静けさに満ち満ちていて、物音一つしなかった。足早に階段を下り、玄関へと向かう。静まり返った玄関ホールにはやはり誰もおらず、人の気配も声も響かず、重厚な木材で出来た扉が僅かに空いていて、外から雪が吹きこんでいた。誘われているようだと思う。あるいは、ごく穏やかな悪夢のようだとも。頭の上に居ることりに手をやって現実であることを確かめ、ギルベルトは外に出た。
外は、一面の銀世界だった。水に張った氷色の空と、綿雪で化粧をした黒い木々、それらが雪原に落とす影だけが黒く、あとは全てが純白だった。冷たい風は小さく結晶化した雪を巻き上げるばかりで、優しい花の香りすら運んでこない。ざぁ、と何処か遠くで、木から雪が揺り落とされ、降り積もっていく音がしていた。世界は広く、空は高く、音は深く、静かな光景だった。晴れ空には鳥さえ飛ばず、雪原に野兎は現れない。
静止した時を切り取って描いた絵画のような、動くもののない世界。息を吸い込んでいる動きさえ己のものではないようで、ギルベルトは暫くなにも考えられず、なにかを考えようともしないまま、眼前に広がる氷の世界を眺めていた。時間の流れを思い出したのは、頭の上でことりがぱたぱたと羽を動かしてからだ。ハッとして己を取り戻したギルベルトは、慌てて雪原に目を向け、屋敷からまっすぐ伸びていく足跡を追いかける。
足跡はちいさく、そして歩幅は狭かった。雪に付く跡も浅く、ギルベルトは足跡を上書きするようにして歩を進めていく。屋敷から見ただけでは分からなかったが、その足跡は確かにナターリヤのものだった。鋭いナイフの切り口のようにまっすぐ続いて行く足跡は、彼女の性格をそのまま表しているようだ。太陽も起きだして間もない早朝に、ナターリヤはなにをしようと言うのだろうか。靴の下で、新雪が軋んだ音を響かせる。
夜の間に振った雪は、数センチの厚さにしかならなかったようだ。靴底に感じるしまり雪の感触は踏み固められた土に似て、ギルベルトの体重でもそれ以上は沈んで行かない。この重たく硬い、氷のような雪の下にも確かに大地があり、その奥では花の種が春を待ちわびている筈だった。にわかには信じられないがこの国も春は巡り、そして花は咲き乱れるのだ。あと三ヶ月もすれば、この中庭の雪原は消えて無くなる。
全く信じられなかった。
「……あれ」
物思いにふけりながら歩いていたせいか、ギルベルトの視線の先から、いつの間にか足跡が消えていた。振り返ってみても、歩きつぶして来てしまったので、少女の足跡を見つけることはできなかった。残されているのは、ギルベルト本人のそれのみである。どこか途中で引き返していたのか、あるいはギルベルトが見落として歩いて来てしまったのか。どちらにしろ分からず、ギルベルトは溜息をついて屋敷に戻ろうとした。
その視界の端を、群青色がかすめる。それまで白一色だった世界に現れた色彩に、ギルベルトは注意を引きつけられた。遠くに、視線を送る。それは、ナターリヤの着ている服の色だった。イヴァンから送られたのだというエプロンドレスを身に纏ったナターリヤが、足跡の無い雪原の中心に立っていた。ギルベルトからは遠く、その表情が分からない。ただ確かなのは、その場所に辿りつく為に必要なものが無い、ということだ。
昨夜降り積もったばかりの淡雪は平坦なばかりで、向かう足跡を一つも残してはいなかった。それなのに、ナターリヤは広い雪原の中心に立っている。ぞっと背筋を凍らせるギルベルトの見ている前で、ナターリヤが動いた。その口元は、淡く微笑んでいるようだった。少女は穢れない雪原と、遊んでいるようにも見えた。動くものもなく、音が奏でられることもない空間を従えて。少女は氷色の空の元で一人、舞いを奉じていた。
足元で新雪が波打つように舞いあげられ、スカートにもブーツにも触れることなく落ちていく。例え雪がちらついていたとしても、ナターリヤの身にかすることすら無かっただろう。それは少女の髪飾り程度にしかならず、大地のかさを増した筈だった。スカートの裾が円を描くように広がり、少女の瞳に淡い喜びが灯る。ふわ、と空気が動いた。雪原に、もう一つ人影が現れる。少女とは違い、軍服に身を包んだ女性だった。
ライナだった。ライナはナターリヤの背に寄り添うように現れ、視線さえ交わさずに奉じられる舞いに溶け込んで行く。長い髪にエプロンドレスのナターリヤと、短い髪で軍服を着たライナはまるで正反対のように見え、それでいて捻じれた鏡合わせの一対のようだった。二人は音もなく、観客もなく、動く者は互いだけの空間の中で寄り添うように、溶けあうように、絡みあうように、競い合うように、見つめ合いながら動いて行く。
ふとナターリヤの視線が舞台からそれ、遠くで立ちつくすギルベルトを見つけ出した。その途端、ナターリヤは心底嫌そうな顔つきをして動くのを止め、ライナは少女の背に激突してしまう。そこでようやく、ナターリヤの足が新雪を踏みつけた。向けられる睨みは鋭いものだったが、ギルベルトは奇妙な安心感を持って胸を撫で下ろす。ナターリヤが幻ではなく、人の身を持った存在である、とようやく信じられたからだった。
片手をあげてよう、と声をかけながら、ギルベルトは二人に近寄っていく。出迎えた視線は極寒のそれと、春の陽だまりのようなそれ。真逆に過ぎる感情にくつりと喉を震わせて笑いながら、ギルベルトはナターリヤの頭にぽんと手を乗せた。
「睨むんじゃねえよ。美少女が睨むと怖いだろ?」
「黙れ。……いつから見ていた」
問いかける少女の声があまりに不機嫌であった為に、ギルベルトはまさか見られてはいけないものだったのか、とも思ったのだが。視線をライナに移すとごく柔らかに微笑まれたので、そうではないと知ることが出来る。なら、どうして機嫌がこんなに悪いのか。見られたくなかったか、悪い、と首を傾げるギルベルトに深々と息が吐き出される。ナターリヤは男の腕を手で払いのけ、剣呑な視線を頭から足先まで走らせた。
「外に出るのだから、コートくらい着て来い。病み上がり」
「病み……いや、俺様が起きたのってもう十年くらい前だぜ? もう元気なんだけど」
「だ・ま・れ。お前が体調崩すと、エリザベータが苛々するから嫌なんだ」
なんの前触れもなくばたばた倒れなくなってから元気だと言い張れ、と積もる雪より冷たい声に、ギルベルトはふよふよと視線を彷徨わせた。本人にしてみれば本当に元気なつもりなのだが、いかんせん、糸の上を目隠しで歩いているようなバランスの上で成り立っている状態なのである。不意に崩れてしまうことはどうしようもなく、それを怒られても改善のしようが無いのだった。気を付けはするけど、とギルベルトは口ごもる。
はきとしない返事に、さらにナターリヤの視線が険しくなった。息を吸い込んだ少女の唇が、重々しく罵声を吐き出そうとするのを、場に響く温かな笑いが留めてしまう。ナターリヤは、頬をすこしだけ赤く染めてライナを睨んだ。ライナはナターリヤの姉らしく、妹の睨みを包み込むようにごめんねと囁き、手を伸ばす。ゆっくりと髪を撫でてくる手のひらを見つめ、ナターリヤは抑揚に欠ける声でなに、と笑いの理由を問いかけた。
不器用に響くその声が、ナターリヤの照れ隠しだということを、ギルベルトはもう知っていた。そしてギルベルトが知っているのだから、幼少時から共にあるライナが分からない訳もない。可愛い、とばかりにうっとりと目を細め、ライナは春の喜びを宿す柔らかな声でささやいた。
「ナターリヤちゃん、イヴァンちゃん以外のひとも気にするようになったのね」
「……気にしてるとか、そういうんじゃない」
「お姉ちゃん、本当に嬉しいなぁ。エリちゃんとギル君がソビエトに来てくれてよかった」
ぶっきらぼうに吐き出された否定の言葉をまるでなかったことにして、ライナはにこにことナターリヤを見つめている。少女の視線は姉と重ねられたり、そらされたり、彷徨ったりと忙しく動き回っていたが、やがて八つ当たりの対象が居ることを思い出したのだろう。いつもの倍くらいの鋭さでぎろりと睨みつけられて、ギルベルトは身の危険を感じて後ずさった。両手をぱっと肩まであげる万国共通降参ポーズに、舌打ちが響く。
基本的にナターリヤは、降参した相手や無力な者に対して危害を加えることはしないのだった。それに自分で気が付いていない所が、外見の歳相応な素直さと可愛らしさを感じさせ、ギルベルトの口元を和ませる。基本的に『国』の精神は、ある程度外見年齢に引きずられる。気の遠くなる年月を生きていようとも、流れる時間に精神がすり切れない為になのか、外見に見合った精神状態でゆるやかに固定されるのだった。
二十代半ばで外見の成長が止まったギルベルトにしてみれば、二十になる前の美少女は、怖いと思いつつも可愛らしくて仕方がないのである。和んだ口元に思いっきり嫌そうな顔をするのも、感情表現が素直で可愛らしいとしか思えなかった。
「ナタ」
呼びかけられ、己に向かって伸ばされる手を、ナターリヤは感情の読みにくい硝子のような瞳でじっと見つめている。悪感情だけがないかどうかを確かめながら、ギルベルトは指の背でナターリヤの頬を擦るように撫でた。少女はじっとして、身綺麗で高貴な猫のようにギルベルトを見つめている。ふ、と笑って指を離すと、ようやくナターリヤはぱちりと瞬きをする。瞳にも、ふわりと感情が戻ってくる。青い炎のようだ。そう思った。
「……お前、本当に綺麗で、可愛いのな」
感嘆を溜息に乗せながら呟くと、ナターリヤは信じられないという風に目を見開き、慌てた仕草でライナの腕を胸元に抱き寄せる。それはまるで幼子が己の庇護者に対し、いじめられた、と助けを求めているような姿だった。警戒心いっぱいにギルベルトを睨んでくるナターリヤの目元が、うっすら赤く染まっているのは寒さのせいだけではないだろう。ニヤニヤと笑ってそれを眺め、ギルベルトはライナに向かって肩をすくめた。
睨まれてんだけど、俺が悪いのかよ、とでも言いたげな仕草にライナは肩を震わせて笑い、片腕でナターリヤをそっと抱き寄せる。ぽんぽん、と宥めるように背を撫でられ、ナターリヤは敵に向かって威嚇する猛獣のような目つきをギルベルトに向けた。
「お前にそんなこと言われても嬉しくなんてないんだから勘違いするなよ。というか兄さんに言って欲しいのになぜお前が言うんだ。兄さんが良い、兄さんを呼んで来い。そして兄さんと私は結婚するんだ結婚結婚結婚結婚」
「……あー、俺はそろそろ屋敷に戻るぜー」
やばい変なスイッチ入った、と思いながらじりじり距離を取り、ギルベルトは二人に背を向けて来た道を戻っていく。できれば全力で走り去りたかったのだが、降り積もったばかりの雪の上でそんなことをしようものなら転ぶしか選択肢が存在しないので、なるべく早足で慎重に距離を取って行く。背後で激烈に忌々しげな舌打ちが響き、足音が二つ、ゆっくりとついて来る。ライナの笑い声が響いているので、脅威は去ったらしい。
ナターリヤちゃんは本当にイヴァンちゃんが大好きなのねえ、とのんびりとした嬉しげな声が響くが、果たしてそれで片付けてしまって良いものなのだろうか。ソビエトに来た頃に見たイヴァンの怯え様をようやく理解してきたギルベルトは、他人事でよかった、と思いながら冷たい色の空を見上げる。あくまで完全に他人事なので軽く引くくらいで留まっているが、あれを直接向けられているイヴァンは、それは泣くくらい怖いだろう。
はじめて目撃した時のギルベルトはあまりの事態に盛大にどん引きしたのだが、少女に恋をしているトーリスは、やけにうっとりとした視線で行きすぎた兄妹愛を見つめていた。ナターリヤちゃんったら一生懸命で可愛いなぁ、という呟きもギルベルトの耳は拾い上げていた。あれを『ものすごく可愛らしくて綺麗でどうしようもないくらい美人』と言ったトーリスに、君の目がおかしい、と言ったイヴァンの気持ちが今なら理解できる。
おかしいのは目ではなく、感覚だとも思うのだが。数秒間考えて、ギルベルトはくるりと背後を振り返る。ライナの腕にしっかりと捕まったまま歩いていたナターリヤが、視線を向けるな、と言わんばかりの睨みを向けて来た。ギルベルトは思わず生温い笑みを浮かべ、ちいさく頷く。おかしいのはトーリスの目ではなく、精神構造の方だ。ナターリヤに関して、恐怖を感じる機能がついていないのだろう。痛みもないに違いない。
いくら人類とは異なる回復力を持つ『国』とて、指をばっきばきにされて痛くない筈がないのである。痛感は、感情と同じようにそこにある。ざくざくと雪を踏みしめて、ナターリヤはギルベルトの隣に並んだ。少女は、強い力でギルベルトの背を押す。たたらを踏んで前に出たギルベルトに、ナターリヤは鼻をふん、と鳴らして胸を張った。
「なにをぼーっと見てるんだ。早く家の中に入れ」
広大な庭に足跡をつけて歩き、三人は屋敷の玄関前まで戻って来ていた。もう数十歩行けば、扉に手が届く。ギルベルトが見つけた時と同じように、扉はほんのすこし開いていた。たてつけが悪くて、開いてしまうのかも知れなかった。それで吹雪の日とかは内側から板を打ち付けてあったのか、と納得するギルベルトが歩かないのに焦れたのか、ナターリヤはライナの腕を離す。そして両手で、ギルベルトの背を押した。
「ちょ、ま……歩ける! 俺様、一人で歩けるぜっ!」
「煩い黙って押されろ馬鹿男。私だって早く中に入りたいんだ」
背を押して来るナターリヤの手に力の加減は全くなく、ギルベルトは不安定に走りながら屋敷の扉に辿りつく。扉をくぐる瞬間、どんっ、と背を押されて前に倒れかけ、ギルベルトはひきつった表情で体を反転させる。さすがに雪の上でなければ、それくらいで転ぶことはない。しかし振り返ってみたナターリヤがやけに偉そうな、達成感に満ちた表情で薄く笑っていたので、ギルベルトは大人げもなく少女の頬に手を伸ばした。
先程とは違って遠慮なく、指先で頬を摘んで左右に引っ張る。少女の瞳に、劇的な混乱の色が浮かんだ。恐らくは今まで、そうした扱いを受けたことがなかったのだろう。反射的にギルベルトの腕を掴んだまま、それを引きはがすことも出来ずに目を見開いている。なにをされているか、上手く理解できないのだろう。う、え、と混乱しきった小さな呟きが唇からもれるのを聞いて、ギルベルトは頬を伸ばしながらクスリと笑う。
「おしおきだぜー、ナタ。転んじまうトコだったじゃねえか」
「は、離せ……! なに、お前、なにをして……!」
ようやく、ナターリヤの指先に力が込められる。しかし完全に混乱から脱し切れていないのか、その力はごく普通の少女のそれで、ギルベルトの腕を引きはがせるものではなかった。くすぐったげに目を細め、ギルベルトは少女の頬を指でつまむ。その瞬間、背筋を震わせる壮絶な殺気を感じて、ギルベルトはナターリヤから手を離しその場を即座に飛び退いた。腰に指先を当てたのは、そこに剣をさしていた頃の名残だった。
視線が殺気の主を探して彷徨うのと、空気を切る音を耳が拾い上げたのがほぼ同時のことだった。避けられないことだけを本能的に察知し、ギルベルトは頭と『それ』の間に腕を挟んで衝撃を緩和させる。中世、剣を持って戦っていた時代なら、腕は頭の代わりに犠牲となっていただろう。しかし腕を駆け抜け、肩にまで衝撃を与えた獲物は剣ではなく、殴られた覚えもありすぎる、エリザベータの愛用フライパンだった。
黒光りする鉄を忌々しげに見つめながらしゃがみこみ、ギルベルトは感覚を失った腕をどうにか頭の上から退かす。筋や関節は痛めなかったが、血管は何本か切れたに違いない。盛大に内出血しているに違いない腕から視線をそらし、ギルベルトは足を肩幅に開き、片手に軽々とフライパンを握り締めて立っているエリザベータを睨みつけた。エリザベータは宝物を隠すような仕草で、背後にナターリヤを庇っている。
殴られた理由など明白だった。フライパンが未だ握られているのをしっかりと確認し、ギルベルトは第二撃に備えて立ち上がる。しゃがみこんでいればよかったものを、とエリザベータがあざ笑うように表情を変えた。指先を動かして挑発してやりたい気持ちと戦いながら、ギルベルトはオイ、と思い切り不機嫌な声で呼びかける。最悪、無視されるであろう声に、エリザベータは芸術的なまでに美しい仕草で眉を寄せた。
「なによ。痴漢の言いわけは聞かないことにしてるんだけど?」
「やっぱりか。やっぱりそういう理由かよ……! ちょっと頬つまんで引っ張ってただけだろうが!」
「立派なセクシャルハラスメントよ、馬鹿っ!」
舞踏にすら似た身軽な踏み切りで身を躍らせ、エリザベータはフライパンを振りかぶる。体全体を使って放たれる一撃を、そう何度も受ける程ギルベルトも弱くはない。最小限の動きでフライパンの動線から逃れたギルベルトに、エリザベータの瞳が好戦的に輝いた。真剣な輝きを灯した草色の瞳が、ギルベルトの目だけを見つめている。怒りはない。純粋に狩りの獲物を追い求める、本能的な意思が宿った瞳だった。
ぞく、とギルベルトの背が震える。恐怖よりも喜びが強く、高揚感が男の口元を微笑ませた。逃れることなく、ギルベルトはエリザベータに向かって一歩を踏み込む。無防備に開いていた胴狙いで放たれる拳を、エリザベータはわざとバランスを崩すことでなんとか避けた。それでも、服を拳がかすめていく。体にはダメージを与えないかすかな接触だったが、エリザベータは舌打ちし、ギルベルトは獰猛に輝く瞳でにぃ、と笑う。
恋人たちが見つめ合うより親密な近さで、視線が交わされた。
「セクハラ」
「乱暴者」
はっ、と相手の発言を笑い飛ばすだけの吐息がもれ、エリザベータの手からフライパンが離される。がらん、と音を立てて床に落ちたそれを視線ですら追いかけることなく、二人はそのまま至近距離で睨みあった。エリザベータの手が男の軍服をねじり上げて首を圧迫し、ギルベルトの手は女性の腕を引きはがそうとする。完全に拮抗している二人は全身を震わせながらそれぞれに力を込め、肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
「無鉄砲、考えなし!」
「馬鹿力! 早とちり!」
「……ねえ、あれ、なにやってるの? 喧嘩?」
ぱたぱたとスリッパを鳴らして階段を下りてきたイヴァンは、朝食の温かな香りを漂わせながらナターリヤに歩み寄り、首を傾げる。一連の騒ぎを茫然と見守っていたナターリヤは、どう言って良いか分からずに困惑の視線を兄に返した。同じく見ていた筈のライナは笑いながら食事部屋に向かってしまっていて、説明をする気はないようだった。ライナは今日の朝食当番なので、戻って来て話してくれる可能性もないだろう。
つまり、イヴァンに説明できるのはナターリヤだけで、少女は兄に頼られているのである。そのささやかな喜びを胸に口を開いたナターリヤの頬に、ひんやりとした指先が触れた。びくんっ、と体を震わせ、ナターリヤは目を丸くしてイヴァンを見つめる。いつもならナターリヤが姿を見せただけで身を硬くし、唇を開けば怯え、結婚を求めれば泣き叫び、追いかければ全力で逃げる兄が、自らナターリヤに手を伸ばして触れていた。
普段はもこもこの手袋をはめているが、起きぬけのせいなのかそれもなく、イヴァンの大きな肉厚の手が、直接にナターリヤの頬を撫でていた。指でつままれたが故にうっすらと赤くなっている頬を、傷がないかどうかを確かめる慎重な手つきで撫でやり、イヴァンは冷たい瞳で口を開く。
「……痛い?」
怒りが滲みでる問いかけに、ナターリヤは震えるほどの喜びを感じて目を潤ませた。心配してくれているのだ。あまりの喜びに声がつまったナターリヤは、ふるふると控えめに首を動かすことでイヴァンの言葉を否定する。そのささやかな仕草が、さらにイヴァンの怒りを加速させた。そう、と呟き、慈しみ溢れる手つきでナターリヤの頬を撫でたイヴァンは、ゆっくりした仕草で低レベルな舌戦を繰り広げている二人を振りかえった。
やるとしたらギル君だね、と呟きが響く。どこに隠していたのか、イヴァンの手にはいつの間にか水道管が握り締められていた。
「大丈夫だからね、ナターリヤ」
イヴァンが一歩を踏み出す。ナターリヤの視線の先で、ギルベルトの身が危険を察知して強張った。ちょっ、と焦り一色に染め上げられた声が響き、ギルベルトはイヴァンに向かって口を開きかける。許さず、イヴァンは穏やかな声で水道管を振りかぶった。
「いたいのいたいの、とーんでけー!」
人体の骨を、硬いもので殴りつけた独特の音が響く。うめき声さえ上げずに倒れ込んだギルベルトを靴先で蹴飛ばしながら、イヴァンは柔和な笑みを崩さずにシベリアかなぁ、それともコルホーズかなぁ、と首を傾げた。ハッとしたナターリヤは、それを止める為、イヴァンに向かって小走りにかけて行く。ギルベルトが居なくなったら、もう誰もナターリヤの頬をつまんで引っ張る者はいなくなるだろう。それは、とても困るのだった。
ギルベルトがいくら殴られようと、そんなことは関係ない。イヴァンに心配してもらえるのだから、ギルベルトはこれからも、ナターリヤの頬をつまんで引っ張るべきなのだった。兄さん、と呼びかけたナターリヤに、イヴァンから柔らかな視線がおりてくる。なぁに、と甘やかな声で問いかけられるのにうっとりしながら、ナターリヤはなにもしなくて良い、と告げる為に唇を開いた。
頭のこぶに触れられた痛みで、ギルベルトは意識を取り戻した。うぅ、と呻きながら目を開けて、まず自分の体勢と現在位置を確認する。ぐらつく意識で視認するのは難しかったが、目を凝らせばそこが自室であることが分かり、ベッドにうつぶせて倒れこんでいることを理解した。イヴァンに殴られて意識を飛ばしたのは明白であり、痛みも腫れも殆ど引いているにも関わらず、頭に残ったこぶが衝撃の重さを物語っていた。
人間だったら、ウッカリ死んでもおかしくない一撃である。ギルベルトが意識を回復できたのは『国』だからであり、硬質のもので殴られ慣れているからだろう。体に受けるダメージが最小限になるように無意識でも防御できる程度には、ギルベルトはエリザベータのフライパンを受けているのだった。もしかしたら一回死んで復活したが故の意識回復である可能性を考えないようにしながら、ギルベルトはそっと視線を持ち上げた。
「エリザ?」
そっと触れ、離れていく指の感触に覚えがあったからこそ、問いかけは確認めいて響き渡った。溜息が空気を揺らし、ギルベルトの視界にエリザベータが現れる。ギルベルトが顔を向けている方向の逆側に腰を下ろしていたらしい女性は、ベットに腕をついて半ば乗りあげながら、起きぬけのぼんやりとした表情を覗きこんでいた。なにか告げようと開きかけた女性の唇は、しかし息を吸い込んだだけで動かす、閉ざされてしまう。
薄くリップクリームが引かれた唇を見つめながら、ギルベルトは息を吸い込んだ。
「俺、どれくらい寝てた?」
「……三時間半。アンタ、今日の朝食はナシね」
「マジかよ……。昼メシ、俺の分だけ早めに出てきたり……しねぇな」
それこそ、そんなサービスロシアにないよ、である。きらめきの笑顔で告げるイヴァンの声で脳内再生されてしまったので、ギルベルトは頭を抱えるように手を添えた。そこでハッと思い出し、勢いよく身を起こす。反射的な悲鳴を上げたエリザベータの肩を掴み、ギルベルトは必至の形相で言い放った。
「ことりちゃんっ!」
「……それだけで言いたいことを理解した私に、アンタは心底感謝すべきだわ」
よく見なさい、とエリザベータが指差した先に視線を向けると、頭を乗せていた枕の横に、もこもこしたたんぽぽ色のことりが眠っていた。ギルベルトは深く安堵した息を吐き出し、体の力を抜いてエリザベータの肩に額をくっつける。ちょっと、と眉を寄せたエリザベータは、しかしギルベルトの肩に手を乗せるだけで引きはがそうとしなかった。だってことりちゃん、俺様の頭の上に居たんだもん、と落ち込んだ声が響いたからだ。
いきなり頭を狙って強襲したのは、エリザベータだ。イヴァンも直接頭狙いで水道管を振りおろしたものの、最初に小さな命の存在を意識から消してしまう状況を作り上げたのはエリザベータなのである。ごめんね、とも、よかったわね、とも言い難い。無言で肩を撫でてやるエリザベータにすり寄って、ギルベルトはよかった、と呟いた。
「ぐちゃぐちゃになってなくて、本当、よかったぜー……」
「……アンタって地味にエグいこと言うわよね」
いくら私でも生き物が居たら避けて殴るわよ、となんとも言えない気分で呟くエリザベータの肩で、ギルベルトはもそもそと身動きをした。それが頷いたのだ、と分かるまでに数秒を要し、エリザベータは落ち着かない気分でギルベルトを撫でてやる。調子が狂う、と溜息をつきながら寝癖のついた髪を整えてやると、ギルベルトは気持ちよさそうに目を細め、深く息を吐き出した。まだ、完全に目覚めていないのかもしれない。
なんだか懐かしい気分で髪を撫で終え、エリザベータは身を屈めてギルベルトのつむじに口付ける。
「眠いの? ……起きなきゃダメよ、ギル」
「うー……。もうちょっと、だけ」
いつの間にか腰に回っていた腕が、強い力でエリザベータを抱き寄せる。苦しいくらい腕の中に閉じ込められてしまいながら、エリザベータは切ない気持ちで息を吸い込んだ。懐かしかったのに。昔を思い出して、優しく和んでいた気持ちがかすんでいく。いつの間に、抱きしめられるようになってしまったのだろう。腕の長さが、太さが、力強さが違う。外見は共に二十代半ばの、二人はそれぞれ男性であり、女性であった。