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 抱きしめるのは、『マジャル』の役目だった。抱擁するのが、『マリア』の常だった。それなのに今はギルベルトがエリザベータを抱きしめ、エリザベータがギルベルトをそっと抱擁している。絶望的な逆転を思い知って、エリザベータの意識が揺れる。力を失ってもたれかかる体を、ギルベルトは大切そうに受け止めた。苦しげな表情はエリザベータの悲しみを知っていて、だからこそ、己の無力さをも理解しているものだった。
 謝罪は響かない。どちらからも、どんな意味であっても。どんな響きであっても、それだけを二人は紡がない。エリザベータは指先を震えさせながら持ち上げ、ギルベルトの腕を握り締めた。白く食い込む指先を悲しげに見つめ、ギルベルトはそぅっと囁いて願う。
「もうすこし、だけ」
 腕を掴む力を増しただけで、エリザベータはギルベルトの要求を受け入れてやった。視線は合わせず、心の中でゆっくり十秒を数え終わった頃、抱き寄せていた力が緩められる。腕が完全に引いて行き、ギルベルトはエリザベータに触れないように、てのひら一つ分の距離を開けた。もう行っていい、とその表情が語っていた。中途半端な『国』として存在しているギルベルトと違い、エリザベータはなにかと忙しい身だ。
 ソビエトに属する『国』の仕事は、基本的に全てイヴァンが行っている。ライナがそれを補佐し、さらにトーリスがサポート役として動きまわっていた。ナターリヤは国内外の細々とした用事をやっつけてイヴァンを屋敷に留める役目であり、エドヴァルドとライヴィスは少女の負担が大きくなり過ぎないよう、調整しながら手伝うのが常だった。エリザベータはその間を縫うようにして動き回り、各連携をスムーズにさせている。
 ギルベルトだけが、『国』としての仕事をほぼなにも課せられていない状態だった。体調が常に安定せず不安定な為と、『国』として託していい範囲をイヴァンが未だ計りかねているからだ。ドイツ民主共和国に関してのことも、ギルベルトは週に一度か二度、報告書を目にするだけで『国』らしい働きは全くしていない状態だった。屋敷の中でギルベルトだけが異質で、そして暇なのだ。だからもういい、とギルベルトは告げる。
 世話しなくていい。気にしなくていい。傍にいなくても、いい。大丈夫だから、心配しなくてもそのまま起きないとか、ないから。だからもう行っていい、と強くは響かない声で言うギルベルトに、エリザベータは目の前が白く染まるのを感じた。怒りの為だった。歯を食いしばって手を伸ばし、エリザベータはギルベルトの肩を掴む。ぎょっとして視線を向けてくるのもかまわず、頭のこぶも考慮に入れず、肩をベッドに向かって押した。
 あっけなく。あまりにあっけなく、ギルベルトの体がベッドに沈む。はっ、と息を吐き出し、エリザベータは笑った。
「なにが、大丈夫、だよ」
 怒りで意識が揺れていた。笑いだしたい気持ちと、泣きだしたい衝動が胸の中で渦をまく。ぐるぐると何処にも逃げられない大きなうねりは、涙の衝動となってエリザベータを襲った。
「なにが……なにが、なにがっ!」
「エ……リ、ザ」
「俺がっ、私がっ、どんな気持ちで……! どんな気持ちで、お前が起きないのを、ずっとっ……!」
 意識が直接なにかに揺さぶられているように、ぐらぐらとして気持ち悪い。自分が何者だったのかさえ、急には思い出せなくなる。分かるのはただ、目の前の存在が許せないということだけ。許すことの出来ない程、執着しているのだという事実だけ。
「……お前が居なくなるとしたら、その理由は俺だろう?」
 エリザベータは微笑んで、茫然と見上げてくるギルベルトと視線を合わせた。押さえ付けている手を片方だけ外して、青ざめた頬を撫でてやる。落ちた雫を拭って、雨でも降っているのかな、と場違いに思う。泣いている事実を、エリザベータは認識できなかった。ぼたぼたと、雨だれのように大粒の涙をギルベルトの頬に降らせて。そのたび丁寧に指で拭って、エリザベータは柔らかに笑う。
「許さないよ」
「……マジャル?」
 とうに失われた筈の呼称に、エリザベータは応えて唇をつり上げた。恐ろしい程あでやかに輝く草原色の瞳が、ギルベルトを見下ろしている。鏡は無かったが、それだけでもギルベルトには分かった。とっさに手をあげて目元を隠そうとするが、その動きはあえなく封じられてしまう。指を絡めるようにして繋ぎながらベッドに押さえ付け、エリザベータはこつ、とギルベルトと額を重ね合わせた。息を吸い込んで、そっと呼ぶ。
「こっち、見て。……マリア」
「違う……ちが、俺はっ!」
「違わない。お前はマリアだよ、ギルベルト。今でも、確かに……俺の、マリアだ」
 さあ、良い子だからこっちを向いて。くすくすと笑いながら求められるのに逆らいきれず、ギルベルトは視線を持ち上げ、至近距離からエリザベータの瞳を覗きこむ。傷ついて怒りに染まったエリザベータの瞳の奥、意識の閉じ込められた水底に、誰も知らず、誰も気が付かなかった『それ』が残っていた。深く、深く瞳を覗いてギルベルトはそれを知る。同じものが自分の中にもあることを。全く同じようにして、残っていたことを。
 喉が引くつく。泣くようにしゃくりあげれば、目元に唇が押し当てられた。
「お前は消えない。居なくならせない。だって……だって、俺がまだ居る」
 許さないよ、と切なく目を細めて笑うのは、少年の面影。浅く息を吸い、ギルベルトはその名を呼んだ。
「マジャル」
「……ああ」
 ようやく、俺を、見たね。穏やかに過ぎる安堵の満ち足りた声に、視線がそらせなくなる。照りつける日差しを抱くように輝いた、鮮やかな草原色の瞳。それを覗きこむ瞳は、晴れ渡った日の空色をしていた。互いに、意識が引きずられて戻れない。ギルベルトは、マリアは、苦しげに唇を噛んでゆるく息を吐き、肩を掴むマジャルの手に指先を触れさせる。押さえこんでくるてのひらは、切ないくらいに温かかった。息を吸い込む。
 言葉は出なかった。かなしかった。



 数時間に及ぶお説教を右から左に聞き流すことすらせず、一片たりとも記憶に留めず、ローデリヒは上司の部屋を出ると耳栓を外してそれをポケットにしまいこんだ。さすがにバイルシュミット家から持って来ただけあって性能がよく、上司のお説教は一音たりとも鼓膜を揺らすことがなかった。大変、満足である。ローデリヒは久しぶりに巡り合う音のある世界で、目を細めて大きく伸びをした。それにしても、無駄な時間だった。
 確かに数十年に及び国から出ていたのは悪かったと思うが、それにしても一年に何度かは帰っていたのだし、オーストリアに影響が出るような真似は『国』としてしなかったつもりだ。データにも、長期的な『国』の不在による悪影響はなんら反映されておらず、それを知っているからなお、ローデリヒは凝り固まった肩を嫌そうな顔つきでもってぐるぐると回す。『国』が国に居続けなければいけないなど、誰が決めたというのか。
 大戦終了直後の伊兄弟のように『逃げて』しまうのであればともかく、そうでなければ『国』が国土にその身を起き続けなければいけない理由はなにもない。その土地の上に『国』が存在しなければ国が立ち行かならないならば、彼らは視察にも、旅行にも行くことができないのである。国境線は彼らの牢獄ではなく、民衆は枷ではない。国内に監禁されてやるつもりなど音楽家にはなく、その必要があるとも思えなかった。
 もちろん、国に『国』が居て悪いことなど、なにもないのだが。
「まあ……しばらくは真面目に働いて差し上げますけれども」
 ローデリヒとて国を長期に渡って不在にしたことを悪いと思っていない訳ではなく、また国民を愛していない訳でもない。かつてなかった大戦の傷跡とその影響によって生まれた歪みを、今までどうしても無視して居られなかっただけで。ルートヴィヒはもう、ローデリヒが傍に居なくともギルベルトを取り戻せるだろう。それが分かったからローデリヒはオーストリアに帰国することを決め、『国』として動きだすのを決意したのだった。
 戻ってきたのはだから、働く為で、上司の説教を聞く為ではない。ああ本当に無駄な時間を過ごしました、と砂粒程も反省していない響きを廊下に響かせて、ローデリヒは自室に向かって早足に歩き出す。ローデリヒに読まれるのを待つ書類はそれこそ山のようにあったが、その中のどこにも、彼が望むものは無いと分かっていたからだ。一刻も早く積み上げられたものを終わらせ、ローデリヒは己の願いを反映させたい。
 国の政治に対して、『国』は殆ど影響力を持たない。『国』はただ決められた方向性に従って動くのみであり、自らが国の行く末を決めることは出来ないのだから。それでも影響は、ゼロではない。マイナスでもない。それに、ローデリヒがそうしたいと願った時点で、国民の中にも同じ想いを持つ者はいる筈だった。『国』は個人を識別する為の名を持ち、他の誰でもない自我を持っているが、それでいて国民の意思を受けている。
 彼らが感じた愛情は降り積もり、彼らの望みはローデリヒの祈りとなって『国』を突き動かし、国を変えていく。国民は、『国』のフィードバックを受けない。それらはいつも一方的で、川の流れのように決められている。だが、国民は国を愛し、『国』を愛すのだ。野に咲く花を愛おしいと思う、晴れた空の青さを心地良いと思う、誰かのことを大切だと思う、恋しい相手の笑顔を見て幸せだと思う、その当たり前の気持ちの一つとして、ひとは『国』を愛している。だからこそ、とローデリヒは思うのだ。だからこそローデリヒの願いは、叶う筈だ。強く信じて、信じ続けて動けば。
 人は必ず、『国』に応えるだろう。
「あれ? ……あれ、ローデリヒやん! おーい、なにしとるんー?」
 のんびりと響くその声をもちろんローデリヒは聞いていたが、立ち止まることなく早足に廊下を進んでいく。立ち止まるのが時間の無駄に思えたのと、そうしなくても相手は追って来るだろうと信じていたからだ。甘えの上に成り立つ些細な信頼に、その『国』は当たり前の顔をして応える。音楽家にしてみれば競歩にすら近い早歩きにあっさりと並走して、アントーニョは眉間にシワ寄せるとクセになるでー、と首を傾げた。
「急いどるん? てか久しぶりやんなぁ。ローデ、ずぅっとドイツに居たもんな?」
「急いでおりますとも。見て分かる質問はお控えなさい。それと」
 眼前に、ローデリヒの目指していた執務室が見えていた。扉がきちんと閉まっている所を見ると、部屋の主が不在の間、誰もその意思に反して中に入ろうとしなかったらしい。大変結構だ。耳栓を放りこんだポケットに手を突っ込んで鍵を取りだし、そこで初めてローデリヒはアントーニョを見た。『スペイン』である青年は、その国の日差しを受けて焼かれる肌を誇らしげに空気に晒している。つまりは、時期に反して半そでだった。
 今は確か冬だったと思うのですけれど、と半眼になるローデリヒに、アントーニョは知っとるよー、とのほほんと頷く。
「でもなあ、長袖だと袖口が汚れて仕事しにくいねん」
「またそのような、こどものようなことを……。『スペイン』? あなたそういえば、なぜ、我が国に?」
 特に『国』が出向かなければいけない用事は無かったと記憶しているのですが、と訝しみながら、ローデリヒは執務室の鍵穴に鍵を差し込んだ。回すとカチリと音が響き、指先にもその振動が伝わる。些細なことだったが、その感触がローデリヒはとても好きだった。鍵を引きぬき、それをまたポケットに滑り込ませながら、ローデリヒはアントーニョに視線を向けて答えを促す。アントーニョはやや苦笑して、扉を押し開いた。
 恭しく中へ促されたので、音楽家は呆れた気持ちになりながらも己の手では扉を押しもせず、己の執務室に足を踏み入れる。数歩中に入ると扉が閉められる音が響いたので振り向き、ローデリヒは口元にハッキリとした笑みを浮かべた。
「悪巧み、ということですか」
「人聞き悪いなぁ。俺はただ、昔のよしみでローデがなんかするなら手伝う気持ちがあるいうこと、伝えに来ただけやねん」
「誰の差し金で? 『フランス』ですか『イギリス』ですか、それとも『スペイン』?」
 最も可能性の高い男自身を最後にしたのは、アントーニョが自らそう動くとは考えにくかったからだ。アントーニョは思い切り苦笑して信頼ないねんなぁ、と言ったきり黙ってしまう。それは追及を誤魔化す為の沈黙だったが、ローデリヒに許してやるつもりなど毛頭ない。言いなさい、とばかり視線を鋭くすれば、アントーニョは苦く笑いながら口を開いた。
「俺がアーサーの為に動く訳ないやん。フランシスと、あとはギルちゃんの為や」
「彼を、取り戻すおつもりで?」
「そや。ローデがエリザちゃん取り戻したいのと同じやでー」
 にこぉ、と太陽そのもののように笑うアントーニョに対し、ローデリヒはやや警戒を抱きながらも脱力した。ローデリヒが『国』としてオーストリアに戻ったこのタイミングでの来訪は、端から望みを知っていたとしか思えない。感情の機微については呆れる程に鈍いのに、謀には時として、怖気が走る程に鋭いのだった。どうして分かったのですか、と息を吐くローデリヒに、アントーニョは簡単やでー、とのんびり目を細めて笑う。
「ローデ、ルートヴィヒの為にドイツに行っとったやんか。んで、ルートヴィヒがギルちゃんを取り戻す為に本格的に動き出したやんか。んで、ローデがエリザちゃんを引っ張ってくれば、それがソビエトの今の状態の均衡を崩せるやん? つまりルートヴィヒがギルちゃんを取り戻す突破口になるし、ローデもギルちゃんに会えるようになる。……結果的に、全部、ルートヴィヒの為やんな。その為に戻ってきたんやろ? ローデ」
「勘違いしないで頂きたいのが、一点」
 ないしょ、と暗に告げるように唇に人差し指を押し当てて、ローデリヒは微笑した。
「私とて、あくまで『国』です。個人の感情のみで動いている訳がなく、私の望みは確かに、私の抱く国民誰かの願いなのです」
「知っとるよ。俺もや」
 俺の国の誰かが、あの国の平和と幸せを願っとる。胸の鼓動を確かめるように手を押し当て、アントーニョはおかしくてたまらない、という風に笑う。面白いなぁ、とアントーニョは眩しさに目を細めているような表情で言った。
「アウシュヴィッツの虐殺をしよったのも、あの壁を作ったのも、おんなじ人間で、それなのに、全然関係ない国に住んどる全然関係ない誰かが、それを悲しいと思って、それを許せないと思って、誰かの苦しみを知って、それをないないしたい思うんや。……不思議やなあ。なんでこんなに人間は、残酷にも優しくもなれるんやろ」
「愚かだからですよ」
 そしてそれこそ、ひとという存在だからです、と。ひとと同じ形をした『国』が、笑う。
「だからこそ私たちは……国民を愛し、ひとを、いとしいと思うのです。そうでしょう?」
「せやな」
「さあ、忙しくなりますよ?」
 これから私たちは、国と人を動かして行かなければならないのですからね。口元だけで淡く微笑むローデリヒの瞳は、好戦的に輝いていて。アントーニョはそれを見つめながら、物騒やなぁ、と肩を震わせて笑った。二人のてのひらが持ちあがり、パンと音を立てて打ちあわされ、そしてかたく繋ぎあわされる。目的は一つだ。言葉にしなくとも、瞳に宿る意思の強さが二人の心を通じ合わせる。きっと、並大抵の苦労ではない。
 それでも人が夢を叶えて行くように、『国』だって己の望みを叶えるのだ。



 コン、と扉がノックされる。書類から視線をあげずにいいよ、と返事をして、イヴァンは思ったより早かったな、と思った。声をかけられずとも、扉を叩く音の微妙な差異で分かるくらいには、エリザベータもソビエトに来て時間が経っている。『国』は人より多くのものを見て、感じて、人とは違う時間の中で生きている。その中で積み上げられていく経験には果てがなく、どこまで覚えていられるのかは誰に分かるものでもなかった。
 永遠がもし存在するとしたら、それは消滅を得るまでの『国』の内側だ。ぼんやりとそう考えながら書類を整えて机の端に寄せ、イヴァンは扉が開いて閉じ、それきりなんの反応もないことに気がついて顔をあげる。エリザベータは扉を背に、俯き加減で立っていた。それ以上内側に踏み込む気配もなければ、出て行きたがる様子でもない。不審に首を傾げて視線を向け、イヴァンは静かな声でエリザベータの名を呼ぶ。
「どうしたの? ……ギル君になにかあった? 起きない?」
 目が覚めないということはないだろうな、と考えながらの問いかけに、エリザベータの頭がかすかに動く。ふるりと左右に振られた頭がなにを否定したがっていたのか考えて、イヴァンはそうだよね、と安堵に胸を撫で下ろす。『国』としての『ハンガリー』に用事があったのは確かだが、イヴァンは部屋に来るのはギルベルトが目を覚ましてからでいい、とちゃんと言ってあるのだ。優しさよりもそれは、切実な問題があったからだ。
 ギルベルトが不意の眠りに攫われている間、エリザベータが精神的に安定していた所など、イヴァンは一度たりとて見たことがない。必要に駆られて呼びだしたことは何回もあるが、半分は無視されたし、もう半分は意識が完全にギルベルトに向けられてしまっていて、話半分以上に受け止められたことがなかったからだ。もちろん、そんな状態が『国』として良い訳がなく、エリザベータもそれは自覚する所だっただろう。
 いつからは二人の間では取り決めが成されていて、それに従うのであれば、ギルベルトが覚醒するまで、エリザベータはなにがあってもイヴァンの執務室に姿を現さない。無理に連れてこられた様子もなく、自らの意思で扉を叩いたのであれば、それがギルベルトが起きたということだった。それにしては張り詰めた態度に、イヴァンは思い切り眉を寄せる。降り積もった雪の重みに耐えかね、軋む音を立てる木の枝のようだった。
 雪を振り落とすか、さもなくば折れてしまうか。ミシミシと不安な音を立てながら揺れる木を、枝を、見つめる気持ちでイヴァンは息を吸う。呼びかけたのは個人を表す女性の名ではなく、『国』の立場、『国』の意識を明確にする国名だった。
「ハンガリー」
 その途端、女性は頬を叩かれたようにハッと目を見開いて顔をあげ、顔の前で手を組みあわせて見つめてくるイヴァンを視界に捕らえた。夢からようやく覚めたような、劇的な意識の変化だった。恐ろしい夢から、ようやく逃れたような。生温くも深い白昼夢を、やっと振り払うことが出来たような。うん、おかしい、と思いながら追及することはせず、イヴァンはのんびりと首を傾げてみせる。起きた、と笑えば女性は息を吸い込んだ。
 視線が動かされ、じっくりと室内を見て回る。床から天井までを繋げる大きな本棚や、そこに収められた古書や書類の束、ほこり一つ落ちていない部屋の角。束ねられたカーテンのひだに、つららが垂れ下がっている窓硝子の向こう。冷えた空気は暖炉に燃える熱のせいで遠く、足元に敷かれた毛足の長い絨毯が、立ち上ってくる冷気を遮断していた。薪の爆ぜる音が、部屋に響いている。イヴァンは、書類を一枚持ち上げた。
「君を呼んだのは外でもない。知らせておきたいことと、意見を聞きたいことがあったからだよ」
 エリザベータはふらりと足を踏み出し、唇をきゅぅと噛み締めた。彷徨っていた視線がイヴァンに固定され、瞳に意思の輝きが戻ってくる。思わずイヴァンが微笑むのと、エリザベータがしっかりとした足取りで二歩目を踏み出すのが同時だった。いつも通り、隙の無い身のこなしで、エリザベータはイヴァンの待つ机の前まで歩んでくる。なに、とも問わず、女性の瞳が持ち上げられた書類に向けられた。目元が、微かに赤い。
 泣いて来たのかも知れなかった。書類の文面には視線すら向けず、イヴァンはエリザベータの目のあたりをじっと見ながら、その紙を女性へ差し出した。短く整えられた爪が乗る指先が、一枚の紙を受け取った。引きつった風に動く指先に、エリザベータの眉が寄る。強い力を入れ過ぎて痛めたような、ぎこちない動きだった。
「……読んで良いよ。僕のトコに来た報告書だけど、一番かかわりが深いのは君だ」
 乾いて切れ、血を滲ませた痕のある唇には、薄く透明な油脂が塗られていた。従順なふりをして警戒と敵意を失わない瞳の輝きが、すこしだけ鈍くなっている。エリザベータの心は深く隠されていたが、それでいて酷く無防備な風だった。普段とまるで違う点をひとつひとつ探し出すように観察し、イヴァンはエリザベータの瞳を下から覗き込むように見た。瞳は枯れ草のような、褪せてなお優しげな風合いを保つ色だった筈だ。
 『国』の感情はある程度国民に引きずられ、『国』の意思は時に、人の望みを代弁する。外見も同じことで、年齢や顔立ちも国の成長具合や状況によってゆるやかに変化していくもので、色彩も例外にはならなかった。それでもその変化はエリザベータのものだと、イヴァンは思う。決して『国』として国に引きずられたが故の変化では、ない筈だ。真剣に、それでいて無防備に書類を読む女性の瞳は、日差しを浴びた草色だった。
 文字を追いかけて動いていた瞳が、最後まで読み切ったのかくるりと円を描くように視線を持ち上げ、イヴァンへと戻される。無言でつき返された書類を受け取りながら、きちんと読んでいたのか確認も含め、イヴァンは紙に書かれた内容を一言でまとめた。
「『オーストリア』が国に戻ったんだって。彼、どう動くと思う?」
「これからきっと、忙しくなるわ」
 集中して読んでいた為に、目が疲れたのだろう。ぐっと瞼に力を込めて目元と鼻の間を指で押さえ、エリザベータは何度かまばたきをした。その数秒で、すぅ、と色が褪せていく。残念だな、と思って観察する間もなく、女性の瞳はイヴァンがよく知る色合いに戻ってしまった。エリザベータはふるっと頭を振り、もやを晴らすかのように大きく息を吸い込んだ。
「ルートヴィヒも、どうやらギルの不在から立ち直ったようだし、あの二人が本気になってかかってくるとなると手強いわよ?」
「彼らが、なにをしようとしてるのか、分かる?」
「まず間違いなく、ギルベルトの奪還。そして」
 胸の前で腕を組み、エリザベータは余裕を感じさせる表情で微笑みを浮かべた。それは誇らしげですらあり、動き始めた『国』の思惑を楽しんでいるようでもあった。
「私の、帰還。……ローデリヒさんがこのタイミングで国に、『国』として戻って動き始めたのならまず間違いはないわ。オーストリアはハンガリーとの国境を開放するつもりよ。そうなれば……私は、向こう側に戻れるもの」
「君は、それでいいの?」
「なにが? 良いも悪いも、私は『国』ですもの。人がそれを望んで動きだすのなら、止めることなんて出来ないわ」
 それはハンガリーが社会主義を脱却し、民主化することをも示している。ソビエトから出ていく、とはそういうことだ。その為に必要なのは、革命。地を揺るがす程の人の望みだけが、それを可能にするだろう。強気に笑う『ハンガリー』に、『ロシア』は溜息をついて問いかける。
「一緒には戻れないよ?」
「……元から、こっちでだって一緒に居る予定じゃなかったのよ」
 あの馬鹿が極めつけに馬鹿なことをしでかして、ついでにアンタが私に迎えに行かせたりしなければ。ぎろりと不機嫌な目で睨みつけられて、イヴァンはひょいを肩をすくめた。本当に嫌ならば、迎えに行って、と言われた時点で断っておけばよかったのだ。それを嫌々ながらも迎えた時点で、イヴァンだけが全て悪い訳でもないのである。置いていくことになるよ、と呟きに、エリザベータは歯で唇を噛み締める。血が滲んだ。
「イヴァン」
「なに?」
「ギルベルトは……ドイツ民主共和国の『国』は、どうしてもこちらに居なければいけない?」
 当たり前でしょう、と呆れさえ感じながらイヴァンが頷く。例えかりそめの『国』であっても、ギルベルトの背負う国はソビエトに属している。そこを抜け出しドイツが再統一でもするならばともかく、国境線が接している訳でもないハンガリーが連れだすなど、考えられないことだった。『ハンガリー』も、それは分かっている。個人的な感情が、納得出来ていないだけだった。時代が動きだしていた。なんとなく、そのことを感じ取る。
「まあ、今すぐって訳じゃないし、今日明日どうなることでもないから。ゆっくり考えれば?」
 ソビエト的にはオーストリアの動きが上手く行かずに停滞して、ハンガリーが留まってくれる方がありがたいしね。にっこり笑って革命の気配が挫折することを祈るイヴァンに、エリザベータは『国』として、親指を床に振り下ろした。心が焼けつくように痛い。どんな結果になるか、どんな風を吹かせるつもりなのかは分からないが、確かに国は動きだそうとしていて、人の心が駆けだしていた。転んで、傷つくこともかまわずに。
 人が、動いている。『国』も、動かなければならなかった。こみあげてくる感情がなんなのか分かろうとしないまま、エリザベータは身を翻す。イヴァンはひらりと手を振って、去っていく女性を見送った。やがて世界は誰の予想も追いつかない程、大きく動き出すのだろう。誰かがそれを望み、誰もがそれを望まないままで、誰も止められない歴史が刻まれて行く。扉を後ろ手に閉め、エリザベータはずるりとその場に座り込んだ。
 背中に当たる扉の感触はゴツゴツとして痛く、触れる絨毯の柔らかさにも心が安らがない。流れた涙の感情を、エリザベータさえ知らなかった。屋敷の外では、また雪が降り始める。それは全ての音を殺し、足跡に降り積もって消しながら、世界を白く染め上げていく。醜いものも、美しいものも、全てを白で覆い尽くして。冬が深まっていく。雪解けも、春も、まだ遠かった。



 ポーランドの古い街並みを、一人の少年が駆けていく。石畳に靴音を響かせながら、少年は踊るように足を進めていく。両手をいっぱいに広げて、冷えた空気を抱きしめるようにしながら歩んでいく。少年は笑っていた。しかし、誰もその声を聞かなかった。風景に溶け込むように存在する体は光の粒子が集まって出来たかのように眩く、そして不思議に半透明だった。ポーランドの石畳を鳴らして、少年の姿をした『国』が行く。
 誰も、まだそれに気がつかない。少年はよく響く声で、歌を歌っていた。ポーランドの国家だった。ぞくぞくとした喜びが少年の背を震わせ、指先から溢れるように音楽を奏でさせていく。それでも、もうすこし足りなかった。少年は人々の間をすり抜け、誰にも気がつかれないままに囁きを落とす。
「もうすこし……もうすこしで、また会えるし」
 少年が通り過ぎて立った風に花が揺れ、香りが立つ。飼い主に連れられていた犬がそれに気がつき、少年を引きとめるように鳴いた。小鳥が少年の肩に止まりたがるように下りてきて、生まれたばかりの赤ん坊は、無垢であるが故に『国』の姿に気がつく。それでも少年には、誰も触れられない。もうすこし、と囁いて、少年は道を行く。その道の先に、友の姿はないけれど。少年は目を細め、語りかけるように囁いた。
「待ってろよ、リト。……もうすこし、だしー!」
 ざぁっ、と強い風が吹く。一瞬の砂嵐にまぎれて少年は姿を消し、後には光の欠片が残されていた。ポーランドに、未だ『国』は戻らず。しかし『国』は確かに、そこに存在していた。

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