紅梅の蕾が一つ、今日にも咲き綻ぶ筈だった。それを確かめに庭に出て行くと、靴が霜を踏まなくなったのに気がつき、耀(ヤオ)はごく自然に口元を綻ばせた。耳をくすぐり逃げていく北風はまだ身を凍らせる冷たさだったが、それでも一歩ずつ、温かな季節が近づいている。冬衣を纏った閑静な庭を愛でるように見つめ、耀は朝の散歩代わりに紅梅の木まで歩いて行った。堀の近くに植えた紅梅は、耀の背よりずっと高い。
それでも目線の高さや手を伸ばせば届く位置に、黒ずんだがくに守られた鮮やかな花冠がある。紅、桃色、あるいは石竹色の花はかたく結ばれていて、どれも深い眠りから覚めそうにない。はて、早咲きの一つはどの辺りだったろう。冬を超えた焦げ茶色の枝を、一本一本じっくりと見つめていけば、耀のすぐ傍にそれは隠れていた。花冠の先が、呼吸をしたがるように淡く綻んでいる。見つめていれば、もう解けそうだった。
顔を近づけて嗅いでみれば、もうほのかに梅の香りが漂っている。クスリと喉を震わせて笑い、耀は手を伸ばしてその蕾に触れた。
「なにか言うことがあるのではないか?」
「お久しぶりです。そして……先触れもなく訪れましたことを、どうぞお許しください」
「菊」
指先で蕾に触れながら、耀は咎めるように背後に立つ存在の名を呼んだ。はい、と答える声は悪戯っぽく笑っている。耀の求める言葉をきちんと知っていて、先延ばしにしているのだ。そのつもりならば、言うまで振り返るのはやめておこう。澄ました態度で背を伸ばすばかりの耀に、菊はもう一歩距離を近づけて、肩越しに紅梅を覗きこむようにした。すこし、爪先で立って背伸びをして。菊は、耀の耳元に唇を寄せる。
「お会いしたかったです……と言えば、貴方の目に私を映してくださいますか? 花ではなく」
「和歌の一つでも詠むよろし」
「では次からは、和紙に筆で詠んだ歌を枝に括りつけておきましょう。恋文の代わりに」
だから、今日はもうお許しください。そっと囁いて肩に乗せられた重みに、耀はまったく仕方がない、と溜息をついて菊の頭を撫でてやった。サラリ、と指を黒髪が抜けていく。絹糸のようにしっとりとした、さわり心地の良い髪だった。いいこ、いいこと撫でやって、耀は視線を花から菊へと移してやる。どちらにしろ、耀の『花』だ。くつりと喉を震わせて笑えば、肩に頭を乗せたまま、視線を持ち上げた菊が不思議そうな顔をする。
なんでもないよ、と誤魔化して、耀は体を反転させた。腕を持ち上げ、菊をそっと抱き寄せて、輪郭をなぞるように背を撫でる。服の下に包帯も、かさぶたもないことをそうして確かめてから、耀はぎゅぅと力を込めて菊を抱きしめた。ようやく、耀の腕の中で菊は深く息をする。この腕の中で生まれた訳でもないのに、無性にただいま、と言ってしまいたくなる。数秒間目を閉じて安らいで、菊は柔らかな力で耀の胸を押しやった。
二人の体が、そっと離れる。和やかに視線を交わして笑い、菊は改めて一礼をした。
「おはようございます、耀さん。お元気そうでなによりです」
「菊も、怪我の一つもないようで安心したある。……どうした?」
顔をあげるとすぐに優しく細められた瞳に見つめられ、頬を指がくすぐってくる。なにかあるなら隠さず兄に教えるあるよ、とごく幼い頃に過ごした日々と変わらない言葉に、菊はくすぐったく肩を震わせて笑う。もうそんな歳でないことなど、耀も知っているだろうに。その手を振り払ってひどく傷つけた記憶が、互いにまだ癒え切っていないのも分かっているだろうに。それでも見返りも考えず、耀はそう言って無防備に腕を開くのだ。
本当に身内には、甘すぎる程優しいひとだ。胸中で溜息をついてから、菊は首を左右に振った。別に、助けを求めることはなにもない。告げる仕草に、耀はおや、と穏やかに呟いた。ならばなぜ、こちらに来たのだろう、と表情が物語っている。耀と菊がいるのは、『中国』に与えられているいくつもの屋敷のうち、特に私的に使っているものだった。『国』の中でも、この屋敷の存在と位置を知る者はごく少数しか存在しない。
個人的な時間を過ごしたい時にだけ、耀が使っている屋敷だからだ。敷地内に人の気配はまるでなく、何者も立ち入らせて居ないのだろう。庭に住む生き物の気配があるだけで、人の形をしたものは、耀と菊しか存在しなかった。
「個人的な用事の途中で立ち寄っただけですから……本当は、顔だけでも見られれば良いと思って」
まさか入れるとは思っていませんでした、と苦笑する菊に、耀は無言で笑みを深めただけだった。屋敷には、耀の手によって結界が張ってある。徹底的に人の目を遠ざけたい時にだけ使う屋敷だからこそ、目くらましに加え、不意の侵入者を防ぐ目的もあった。人であれば、そこに屋敷があることすら認識できない。ある程度特殊な力のある存在、『国』の中でも『イギリス』であれば、耀の屋敷であると認識くらいは可能だろう。
しかし、絶対に中には入れない。耀が屋敷を覆うように張っている結界は、菊の病室に行く廊下に仕掛けてあった、空間のねじれと良く似た仕組みのもの。立ち入ろうとすれば迷うばかりで、耀の立つ庭に足を踏み入れることさえ叶わないのだ。菊は、それを知っている。だからこそ、驚きましたと言って苦笑するのだ。排斥されておかしくない存在なのに、どうして入れたのか。なぜ立ち入らせてしまったのか、と責めるように。
菊に耀を傷つける意思はなくとも、もう二度と同じことを繰り返さない保証は何処にもないのだった。日本は戦争を放棄し、『日本』もそれに従っている。しかしこの世に絶対がないことを、『国』は人より知っているのだ。もう私を入れるべきではないですよ、とため息交じりに言う菊に、耀は手を伸ばして額を指ではじく。とっさに額を押さえた菊に対し、耀はばぁか、と言って艶やかに微笑んだ。
「今度は、我もちゃんと警戒してやるね。なぁにを思い上がってるのか知らねえが、菊ごときに何度も切られてやるほど、我は弱くないあるよ。それこそ返り討ちにされるか、共倒れするくらいの覚悟で来るよろし。……お前のにーには強いあるよ、安心して、何度でもかかってくるある」
だからお前はなにも怖がらず、この庭の深くまで立ち入っておいで。心配性、とくすくすと笑う耀は恥ずかしげに、悔しげに、それでいて悲しげに目を伏せる菊の頭をぽんぽん、と撫でてやった。これ以上は、菊が自分で感情に決着をつけることだった。手助けはしてやれるが、菊の想いは菊だけのもので、耀がどうこうできるものでもない。大丈夫、大丈夫、とあやすように囁いてやれば、迷ったあげくに、菊はちいさく頷いた。
屋敷に入れると分かった瞬間の戸惑いと罪悪感は、まだ消えない。しかしその時点で、姿を現さずに帰ることも菊には出来たのだ。ここまで入って来たのも、言葉を交わしたのも、耀ならそう言ってくれると分かっていたからかも知れない。あさましい、と己に感じた想いに眉を寄せれば、耀の指先がシワを突っつく。そんな顔するもんじゃねえある、と笑って、耀は菊を強く抱きしめた。ぎゅぅ、と力いっぱい抱きしめる、幼い仕草。
「我は菊に会えて嬉しいあるよ。今までも、今日も、嬉しくなかったことなんて一度もねえある」
「……そうですよね。耀さん私のこと大好きですものね」
「そうある。そういう風にひねくれて、可愛くないところも可愛いと思えるくらい、愛しいあるよ」
結局、どうあがいても、菊は耀に勝てないのだった。がくりと脱力した菊を、人形を抱きしめるようにぎゅうぎゅうと力を込めで愛で、耀は輝かんばかりの笑顔で体を離してやる。菊は赤い顔を隠したがるように視線を彷徨わせ、やがて諦めたように息を吐き出した。
「本当に、お変わりなくてなによりです」
「ふふ。そう簡単に変わらねえあるよ……さ、ここは冷える。酒のつまみと菓子くらいしかないが、お茶淹れるあるよ。中へおあがり」
「……いえ、もう行きますので」
それはまた今度にさせてくださいな。そう言って微笑む菊を、耀は切なげに見つめてから頷いた。その腕を掴んで、強引に連れて行くのは簡単なことだった。それをしないのは、菊が自ら望んで来て欲しいからだ。そうか、と囁いて、耀は気にしていない風に首を傾げて問いかける。
「用事の途中と言っていたが、どこになにしに行くあるか?」
「ふふふふふ。ちょっとイヴァンさんの所まで」
「……なにを、しに行く、あるか」
わざとらしい笑い声に抑揚は全くなく、耀は思わず顔を引きつらせていた。菊とイヴァンは、耀とアーサーほど仲が悪くはないが、仲が良いこともない。出会い頭に水道管と日本刀を噛み合せて睨みあう、その程度の仲良しさんですよ、と微笑む菊の目が全く笑っていなかったのを見た瞬間、耀はその質問を後悔したことがある。未だ以て、仲は改善されていないらしい。二人が仲良くなるのは、耀とアーサーの和解より後だろう。
つまり、恐らくは永遠に来ない。なにをしに行くあるか、と再度の問いかけを呆れ果てて口にした耀に、菊はふふ、と今度は普通に楽しげに、口元に指を押し当てて笑う。
「別に、なにも襲撃に行く訳ではありませんよ。ちょっとお師匠さまの様子を見て来ようと思いまして」
「……ギルベルト、だったか」
「はい。シベリアに行くついでに足を伸ばすだけですが、どうせロシアに行くのなら直接に確かめて来ようと思いまして」
なにせヨーロッパと違い、こちらにはお師匠さまの情報が上手く流れて来ませんからね、と困った風に微笑む菊の表情からは、どちらが主な目的かを読み取ることができない。戦争が終わって数十年が経過し、シベリアに抑留された兵士たちで、生きている者のみが祖国の土を踏んだ。彼らの骨は冷たい土の下に埋まり、日本の懐へ還れない。菊が行っても連れ帰ることは叶わないだろう。出来るのは、触れることだけ。
日本の気配を運び、眠る魂を慰めることだけだった。改めて耀が菊の姿を見れば、『日本』は己の和を象徴するかのごとく、落ち着いた雰囲気の和服を身に纏っている。動きやすさを重視した洋服ではなく、他国を訪れる際の礼装として一般的になったスーツでもなく。見慣れた和服を着て、ゆったりと微笑んでいた。日本は未だ、戦後の混乱と急成長から脱していない。菊はそうそう、国外に出歩ける訳でもないのだった。
叶うことなら兵士たちが潰えた地の、ひとつひとつを回って行きたいに違いない。それが出来ないからこそ、せめて機会を逃さずに、菊はシベリアを通ってイヴァンの元まで行くのだ。かすかな傷跡すら残さず癒えた頬を撫で、耀は行っていで、とその背を押した。菊は様々な感情を含んだ微笑みで頷き、耀に向かって深々と頭を下げる。相手を想う気持ちだけで繋がりあえた時間はとうに失われ、もう戻ることがないだろう。
それでも、二人はこれからを生きていける。それでは、と場を辞そうとする菊に、耀はひらりと手を振りながら言った。楽しみにしているあるよ、と。は、と意味の分からない風に見開いて振り返った瞳に笑みをやり、耀は風にまぎれてしまうような声で囁いた。
「月見酒。……まあ、まだまだ先の話になりそうあるが」
約束を結んでから、もう二十年以上の時が経過している。二十年待ったのだから、もう二十年も同じようにして待てるだろう。ゆっくりで構わないから、またこの屋敷に立ち寄って羽を休め、菊の屋敷に招いて一時を過ごすことを、許せるようになっておいで、と。手を振って見送る耀に、菊は敵わないな、と苦笑して。もう一度しっかりと頭を下げ、微笑みながら歩き去っていった。さてと、と耀は大きく伸びをして、屋敷へと向かう。
これから身支度を整えて、仕事に出かけなければいけないのだ。今日もまた、耀を待つ書類が山となっているに違いない。国を取り巻く状況はめまぐるしく変化し、『国』に休息を与えてはくれなかった。それでも安らいだ気持ちで仕事着に袖を通し、耀は綻びはじめた紅梅を想って微笑む。あと数日もすれば、庭は芳しい花の香りで満ち溢れていくだろう。あと何年すれば、その香りを菊と共に愛でることが叶うのだろうか。
春には花を愛で、夏の夜には月を仰ぎ、秋の山で紅葉を狩り、冬に雪を見ながらまた酒を飲む。四季は繰り返し巡り、流れていく。毎年必ず、ほんのわずかな変化を伴って。耀は菊が立ち去った方角を眺め、目を和ませて笑う。その道の先から菊が歩んでくる日は、きっと必ず来るだろう。時が流れるように。四季が巡って行くように。頑なな蕾が綻んで、光の中で咲くように。耀は目を細め、太陽が昇るよく晴れた空を見上げた。
「……月が綺麗ある」
さて今日もお仕事頑張るあるよ、と呟いて、耀は屋敷を出て行った。
午後四時のすこし前。陽が陰りはじめる頃に、フェリシアーノはシエスタから目を覚ました。ふぁあとあくびをしてから体を起こし、腕を上に持ち上げておおきく伸びをする。今日も、本当によく眠った。頭の中はスッキリしていて、心はなんだかぽかぽかしている。詳しくを思い出せなかったが、とても素敵で幸せな夢を見ていたことだけを、覚えていた。ヴェ、と嬉しく鳴いたフェリシアーノのくるんが、ハートマークになっている。
幸せの余韻を感じながら畳んで置いてある服に着替えて、フェリシアーノはちょっと首を傾げた。もちろん、服を脱いで畳んでシエスタに入った記憶はない。いつものように適当に脱ぎ散らかして、用意しておいた肌触りの良いシーツにもぐりこんだ筈なのだが。あれ、俺寝ぼけて畳んだのかなぁ、と思いながら寝室の扉に手をかけ、フェリシアーノはよし、と気合を入れ直す。午後の仕事もがんばるぞ、と思えたからだ。
良い睡眠は、良い仕事への第一歩だ。もちろん、食事も綺麗な女性も欠かせないのだけれど。鼻歌を歌いながら寝室の扉を閉めたところで、フェリシアーノは家中に漂う甘い香りに気が付いた。小麦粉と卵と砂糖とミルクの混ざり合った、素敵でとびきり幸せな甘い香りだ。ぱぁっと顔を輝かせたフェリシアーノは、仕事部屋を通り過ぎてキッチンへ向かう。兄ちゃん、と叫びながら飛び込めば、エメラルドに煌めく瞳が振り向いた。
やけに可愛らしい花モチーフのピンで前髪を止めたロヴィーノは、両手に耐熱のミトンをはめてオーブンの前にしゃがみ込んでいる。なに作ってるのーっ、と叫びながら抱きつけば、ロヴィーノは溜息混じりにフェリシアーノの腕を叩く。
「フェリ……オーブンの前で抱きつくと危ないから止めろって、俺は何回も言ったよな?」
「言った言った! ごめんね兄ちゃん! それでなに作ってるの? あ、それとねあとね! 久しぶり兄ちゃんっ!」
会いたかったんだよーっ、とすりすり背中に頬ずりをすれば、それだけでロヴィーノは怒る気を無くしたらしい。ああもう、コイツに甘いのはジャガイモ兄弟だけで十分だってのに、と不機嫌な呟きを漏らしたロヴィーノは、しかし両膝をついた中途半端な姿勢で器用に反転すると、じゃれつくフェリシアーノをハグしてやった。きゃあきゃあ子犬のように歓声をあげて喜ぶフェリシアーノは、しかしロヴィーノの不調にすぐ気が付いた。
肌が荒れている。よく見れば、目の下にうっすらとクマがあった。ぴたりと動きを止めたフェリシアーノを面倒くさそうに眺め、ロヴィーノはミトンをはめた手でオーブンを指し示す。
「ピスタチオのカントゥチーニだよ。もう切り分けて二度焼きしてる最中だから、あとは時間通りに出して冷ませば食えるぜ? そっちに置いてあんのはオレンジのカントゥチーニ。グランマニエにひたしたオレンジの砂糖漬け使って焼いたから、かなり香りがよくて上手いと思うぜ?」
まあ食え、とばかりに口元にオレンジのカントゥチーニを差し出されたので、フェリシアーノは不満げな目つきをしながらもぱくりとかぶりつく。ワインやエスプレッソに浸して食べることも多い硬焼きのビスケットは歯触りがよく、口の中で噛み砕くとオレンジの香りと甘さ、アーモンドの風味が混ざり合って広がっていく。これなら売れるな、と冷静に評価を下しながらもぐもぐと口を動かし、ごくん、と飲み込んで差し出された水も飲む。
どうだ、と尋ねてくるロヴィーノに兄ちゃんこれ売ればもうかるよ、と最高の評価を与え、フェリシアーノはにこりと微笑んだ。ぎく、とばかりロヴィーノの体に緊張が走るが、逃げようにもハグをしたままな上、背後はオーブンという最悪の立ち位置である。逃げられないねえ、と笑顔で囁くフェリシアーノが、怖い。ロヴィーノはいやあのな、と弟と視線を合わせないままで口を開いた。
「別に、シエスタをサボった訳ではなく」
「ねえねえ兄ちゃん。お花ちゃんのヘアピン、どうしたの? 可愛いねえ」
「え、これか? これはアントーニョがナンパしてた女の子が……。……なんでもない」
俺はなにも言わなかった、と青ざめた顔で首を振るロヴィーノを、フェリシアーノは柔らかな微笑みで見つめる。兄ちゃんは本当にこういうトコ素直で可愛いなあ、と思いながらフェリシアーノは手を伸ばし、前髪を止めているヘアピンに触れた。びくびくと怯えるように体を震わせながら、ロヴィーノはフェリシアーノをそろりと見上げる。しゃがみ込んでいる兄を覗き込むようにして、フェリシアーノはゆっくり、可愛らしく首を傾げた。
「アントーニョ兄ちゃんがナンパしてた女の子が、お花ちゃんのヘアピンしてたの? だから? そんなことしなくても、兄ちゃんはすごぉく可愛いよ? 似合うけど」
「ち、違う……誤解だ! 誤解なんだからな! 俺は別に、別にそんなっ……!」
ロヴィーノの必死の言いわけを右から左に聞き流しつつ、フェリシアーノは考えた。ここ数日兄が不在だった理由は、アントーニョに会いに行っていたから、でまず間違いないだろう。それについて不満はないし、仕事をフェリシアーノのみが行っているのもいつものことで、役割分担の話し合いの上、納得してやっているので構わない。構わない、のだが。ロヴィーノの肌荒れ状態から推測するに、三日はシエスタをしていない。
夜もあまり眠れていないに違いなかった。アントーニョに会いに行って、笑顔で帰って来てくれるならそれでいい。しかし、疲れさせてストレスを逆に溜めこませての帰宅なら、フェリシアーノにも考えがある。イタリア男は恋に厳しいのだ。ふふふん、といやに楽しげにフェリシアーノが笑ったと同時、ヴァルガス家の電話が鳴る。着信音で使い分けているので、『国』の仕事用ではなく、個人で使っている家の電話のものだった。
タイミングからして、まず間違いない。アントーニョだった。ざぁっと顔から血の気を引かせたロヴィーノが、フェリシアーノを振り払って電話を取るより早く。全力で子機に駆け寄って通話を勝ち取ったフェリシアーノは、はーい、と普段通りの声で電話に出た。フェリシアーノの視線の先では、手を受話器に伸ばした姿勢のまま、ロヴィーノが凍りついている。大丈夫だよぉ、とにこにこ笑うフェリシアーノの耳に、言葉が届いた。
『あー、フェリちゃん? 親分やでー。あんな、ロヴィに用事あんねんけど』
「あのねえ、アントーニョ兄ちゃん」
ゆっくり、言い聞かせるように。フェリシアーノは、アントーニョの言葉を待たずに告げた。
「しばらく兄ちゃんは俺のお仕事手伝ってもらうから、会えないし電話にも出られないと思ってね?」
じゃあまたね、チャオ。底冷えのするような笑顔で言って、フェリシアーノは相手の返事を待たずに電話を切ってしまった。それから素早い仕草で電話線を引っこ抜き、満足げに一度頷く。これで、滅多なことが無い限りはアントーニョからの電話はかかって来ない筈だった。この家で『国』の電話を鳴らすのであれば一度上司を通す必要がある。事情を説明しておけば、そこで食い止められるだろう。イタリア男は、恋に厳しいのだ。
お前なんてことを、とぐったりと床に倒れているロヴィーノの前にちょこんとしゃがみ込み、フェリシアーノは唇を尖らせた。
「だってー。兄ちゃんがせーっかく会いに行ったのに、女の子ナンパしてるだなんてさ。いくら俺でも怒るよ」
「ナンパなんて挨拶だろチクショウ。俺は別に……それでこんな可愛いヘアピン付けてる訳じゃねえぞ」
ただ前髪切るのが面倒くさくて、買い物ついでに目に付いたから買って来ただけで。ぼそぼそと呟かれる言葉にふんふんと頷き、フェリシアーノはロヴィーノの頭を撫でてやった。そこで目に付くこと自体が気になっている証なのだが、ひねくれた兄はそれを認めようとしないだろう。確かに綺麗な女性がいるのであれば声をかけるのが礼儀でマナーで常識だが、なにもロヴィーノが会いに行く日にやらないでも良いだろうに。
フェリシアーノは、二人がどうやって会っているかを知っている。時間感覚にゆるいアントーニョの為に、たいていの場合は街中で待ち合わせをしているのだ。繁華街であれば適当に時間をつぶせるし、急な予定変更にもある程度対応できる。つまり、その待ちあわせの途中に、アントーニョは通りすがりの女性でも口説いていたのだろう。考えると苛々してきたのでまあいいや、と推測を切り上げ、フェリシアーノは笑う。
「いいから、しばらく兄ちゃんはお家の中に居て俺の仕事手伝ってよー。俺、すごく忙しいんだよー」
「はいはい。……じゃあ、これ焼きあがったら書類整理でもしてやろうか?」
「ううん。それはいい」
オーブンの中のカントゥチーニが焼きあがるまで、まだ時間があった。だからそれが終わったら、と問うロヴィーノに、フェリシアーノはもうひとつ、オレンジのカントゥチーニを摘みながら首を振る。
「俺ねー、兄ちゃんのご飯が食べたいな。夜も仕事しなきゃいけないからお酒はいらないんだけど、アンティパストからドルチェまで。兄ちゃんの作りたいものでいいからさ」
菓子を焼くのは、ロヴィーノなりのストレス解消方法なのだ。誰かが美味しいと言って笑顔で食べてくれることが、荒れた心を癒してくれるらしい。料理も、同じことだった。お願い、とにこにこ笑ってねだってくるフェリシアーノに、ロヴィーノは手を伸ばして頭を撫でた。
「……夜食のリクエストも、今のうちに聞いといてやるよ」
それは、遠回しのイエスだった。お前の好きなもんなんでも作ってやるよ、と苦笑しながら言って来るロヴィーノに、フェリシアーノはティラミスっ、と弾んだ声でリクエストをする。分かった、と頷いて、ロヴィーノはふと不思議そうに首を傾げた。
「つーか、お前なんでそんな忙しいんだよ。あんまり遅くまでかかるようなら、俺だって仕事してやるぜ?」
「んー、なんかよく分からないんだけどねー。ローデリヒさんがすごく……色んなものを動かそうとしてるみたいで、直接イタリアに反映されてくるものじゃないんだけど、その影響で色々やることが増えててね。……どしたの? 兄ちゃん」
「いや、アントーニョもなんか、ローデリヒが……んん?」
忙しいとか、人使いが荒いとか、大変でもうくたくただとか、そんなグチを言っていたような。思い出しながら呟くロヴィーノに、フェリシアーノも不思議そうに首を傾げる。二人が個人的な用事で忙しいならともかく、このタイミングでそれはないだろう、となんとなく思った。同時に忙しいのであれば『国』としてのなにかで、『スペイン』と『オーストリア』が共謀してなにかをしようとしているとしか思えなかった。しかし、である。
スペインと違ってオーストリアは、すこし前に永世中立である宣言をしていた。謀が須く軍事だとは思わないが、『国』同士で手を組んで動いている以上、きな臭いことだけは確かだった。あるいは二人が『国』の立場を利用して、逆に国を動かそうとしているのか。二人に共通するものを考える。片方にとって、それは天敵。もう片方にとっては悪友だったが、答えはすぐに導き出された。ギルベルト。そしてエリザベータだ。
フェリシアーノは、最近処理している書類の中から諸国の動きに関するものを思い出しつつ、ロヴィーノの名を呼ぶ。弟と同じく難しい顔をしていたロヴィーノは、半分聞いていないような声でおー、と声をあげた。
「なんだよ」
「やっぱり仕事、ちょっと手伝って? それで、ちょっと一緒に考えて?」
「悪巧みか?」
お前も悪くなったもんだな、とわざとらしくニヤつくロヴィーノに、フェリシアーノは胸いっぱいに空気を吸い込み、笑顔になった。
「違うよ、ヒーローだよ!」
「アルフレッドのマネじゃねえか」
「えへへ、似てたー?」
中々のもんでしょっ、と胸を張って楽しげにするフェリシアーノの額を指先で押し、ロヴィーノは肩を震わせて笑う。似てない、全然似てない。それなのに言葉に呼び起されて、世界中に希望が満ちていく気がした。なにかが動きだそうとしている。その予兆を、二人もようやく感じ取った。やがて、カントゥチーニが焼きあがる。熱々のそれを二つオーブンペーパーで包んで持ち、ロヴィーノはジャケットを引っ掛けて立ち上がった。
「よし、フェリ。買い物行くぞ」
「えー、俺も行くのー? どこまで行くのー?」
俺忙しいから兄ちゃんにご飯頼んだのにー、と言いつつ、フェリシアーノもジャケットを手にとって着込んでいた。手を差し出せば、ためらわずに繋ぎあわされる。火傷すんなよ、と言いながらカントゥチーニを差し出してくわえさせ、自分も口に運びながら、ロヴィーノは市場、と言った。お前の好きなもん買って俺の好きなもん買って、お前の好きなもん作って俺の好きなもん作って、腹いっぱい食べて飲んで、それで今日は寝る。
考えるのは、全部明日から。
「明日から。イタリア男の本気を見せてやろうぜ、フェリ」
「今日は?」
「サボり」
お前はちょっと根つめて仕事しすぎ、と笑いながら、ロヴィーノの指先がフェリシアーノの目の下をなぞって行く。ロヴィーノの目の下にクマがあるように、フェリシアーノの顔つきも寝不足のそれなのだった。シエスタはするものの、真夜中まで終わらない仕事が全体的な睡眠時間を削っていたのだった。寝て大丈夫になったと思うんだけどなぁ、と唇を尖らせるフェリシアーノに笑って、ロヴィーノは活気溢れる街へと歩きだして行く。
二人の手は、どんな人ごみの中でも離されることがなかった。