瞳の奥、心の底に眠る過去を認識しあったからといって、二人の関係が変わることは無かった。言葉を交わす回数が特に増えることもなく、触れ合いが深くなるようなこともない。ただ変わったのは一日一回、数時間を二人きりで過ごすようになったということだけだ。色めいた、艶めいたことはなにもない。逢瀬というには余りにつたなく、静かで穏やかなそれは必ずどちらかの部屋で行われ、視線は交わさず言葉は少なかった。
二人は少女趣味めいた華奢なテーブルを挟み、向き合うように椅子に腰かけていた。テーブルの上にはライナが作った温かみのあるティーコージーに覆われたポットが置かれ、砂糖とミルク、ジャム、僅かな茶菓子が小皿に盛られている。お茶菓子は中央ではなく、エリザベータの手の届きやすい位置に置かれていた。ギルベルトは用意をするだけで、それを口にしない。たまに一口、二口食べるくらいで、興味もない様子だ。
繊細な陶磁器を口元で傾けながら、エリザベータはほぅと安堵の息を吐く。ソビエトに来て良かったと思うことは数えられるくらい少ないのだが、その僅かな一つが、紅茶の美味しさを身に染みで感じられることだった。僅かな甘みのある紅茶は花の豊潤な香りと共に口と鼻、喉を楽しませ、胃の中から体中を温めてくれる。ジャムを舐めながら紅茶をすする独特のスタイルにも、もう慣れた。イチゴのジャムを、ひとさじ舐める。
果肉も楽しめるように荒く潰された苺の味が、砂糖の甘みと共に口いっぱいに広がった。もうすこし酸味がある方が苺を楽しめるのだが、保存目的で砂糖が大量に入れられているジャムに、それを求める方が酷かも知れない。もう一口、紅茶で喉をうるおしながら、エリザベータはちらりと視線を上向かせた。紅茶の水面から、テーブルを越えて、対岸に座る男の元へ。ギルベルトは落ち着き払った様子で、窓の外を眺めていた。
今日も中庭は、白一色である。雪解けが訪れるのはまだ遠く、今しばらく、中庭に色が溢れることはないだろう。それを知っているからエリザベータは庭など見もしないのだが、ギルベルトはソビエトに来た当初から、雪しかない庭を好んで眺めていた。暇つぶしに、ぼんやりと眺めているのではない。好きで見ているのだという事実を、エリザベータだけが知っていた。ギルベルトは、その名を持つ前の存在は、白が好きだった。
白とは穢れなき色彩であり、旗となれば降伏を意味する守護の盾であり、空から降れば冷たく降り積もる欠片となる。視界を埋め尽くす白を、ギルベルトはどんな気持ちで眺めているのだろうか。不意にそれを問いかけたい気持ちになって口を開きかけ、しかし息を吸い込んだだけで、エリザベータはそっと目を伏せた。会話をしないことが暗黙の了解ではなかったが、穏やかな静寂を、無粋な質問で破りたくはなかった。
会いたい、と言ったのはどちらでもない。会うことにしよう、と決めたのもどちらからではなかった。ただ過去の残り香を互いに持つことを認識したあの日から、二人は確かに引きあい、惹かれあっていた。初めて部屋で茶会を開くことになったくだりは、恐らくただ、視線が合ったからだ。それ以上の理由も、それ以下の動機も二人には必要なく、重なり合ったそれを壊したくないだけで、二人は互いに手を伸ばし、繋ぎ合せた。
時間にして、一時間か、二時間。午後の二時過ぎか、三時前から始められる奇妙な習慣を、恐らくは誰もが気がついているのだろう。初めこそエリザベータが仕事を抜け出して来たのだが、ここ最近はイヴァンとトーリスがスケジュール調整を重ねたらしく、その時間帯になると自動的に女性の身柄が開くようになっていた。茶会を開くのは、二人の部屋のどちらか、だ。決まっていない会場を、エリザベータは迷わず感じ取る。
今日の逢瀬に選ばれたのは、ギルベルトの部屋だった。来た日と変わらず、ベッドと備え付けの棚以外は、テーブルセットが増えただけでがらんとした印象の空間である。ギルベルトは私物を増やそうとせず、それに苦も感じていないようだった。書きものをする為の机の上に、日記帳と万年筆が置かれているのが、ギルベルトが所望して増やした唯一だった。どこにでもある、誰のものにでもなる、無個性な部屋だった。
それでも不思議に落ち着くのは、部屋がギルベルト個人の所有する空間だからだろう。本来はコーヒーを好む筈なのに、茶会で用意されるのはエリザベータの好む茶葉で用意された紅茶だけで、お茶菓子もそれに見合ったものが小皿に並べられていた。なにを考えているのだろう、と思いながらエリザベータはギルベルトの横顔を眺める。最盛期、前線で命のやり取りをしていた時と比べて、その面差しはわずかに細い。
繊細な、というには及ばないが、軍人にしても作戦司令室にて地図を前に、頭を悩ませているのが相応しいような顔つきだった。この男が剣を持ち、銃を持ち、荒れ地であっても沼地であっても一切ひるまず、戦意に瞳をギラつかせながら無心に突撃してくるのだと言っても、十人のうち、五人も信じはしないだろう。直に命を奪うのではなく、遠くから味方の命を最大限守ろうと頭を働かせる顔だった。ゆるく、目を細めて息を吐く。
時間が止まってしまえばいいのに、と不意に想う。この瞬間、この想いの欠片を永遠に仕立て上げることが出来れば、どれ程の幸福だっただろうか。それがもし形にして取り出せるものなら、エリザベータはきらめきを洒落た小瓶に封じ込め、誰の目も届かない一室にそぅっと閉まっておくのだった。どう蹂躙し、どう屈服させるかを獰猛な笑みで考えているより、どう守ろうか、どう救おうかと顔つきを険しくさせながら考えている。
そのギルベルトの方が、エリザベータは好きだった。もちろん、敵意を全開にして向かって来るのであれば、同じ想いで持って迎撃するだけの覚悟は固めているし、事実、過去何度もそうしたのだけれど。守護を思案する方がギルベルトの存在としての本質に優しく、近く、似合うのだった。懐かしささえ感じる。マジャルとして向き合っていたマリアは、難しい顔つきをして黙りこんだかと思えば、そんなことばかり考えていた。
「……エリザベータ?」
男の、低く響く優しい声が女性の名を呼んだ。そんな声にも名の綴りにも馴染みが薄くて分からないような気持ちで、エリザベータはゆっくりとまばたきをして首を傾げ、それから深く溜息をついて認識する。明らかに男のものだと分かる声。それがギルベルトの喉が持つ声で、明らかに女性のものだと分かる名前。それが、エリザベータを表すものだった。過去に向けていた感傷から現実に引き戻され、面倒くさく口を開く。
「なによ、ギルベルト」
エリザベータの反応が緩慢だったように、ギルベルトのそれもまた、ひどく穏やかだった。小皿に取り分けられたイチゴジャムのような色をした瞳が、はたはたと繰り返される瞬きに隠れ、ゆるく首が傾げられる。息を吸い込む為に開かれた唇が動き、ああ、と声にもならず納得の呟きを零して行った。そういえばそうだった、とばかり己の名を存在を認識しなおし、ようやくギルベルトの意識が、白い中庭から室内に戻ってくる。
別にいいのに、と思いながらもエリザベータはギルベルトの視線を真正面から受け止めた。ギルベルトの顔を正面から見つめる機会は、実の所多かった。比べて、なにかに集中している横顔をじっくりと眺められる機会など対して恵まれるものではなく、エリザベータはなんだか残念な気持ちでティーカップをソーサーに戻した。二人は熱を交わし合うでもなく、想いに触れ合うでもなく視線を重ね合わせ、やがて解けていく。
向かい合って見たギルベルトの視線は、赤かった。当たり前のそれに安堵しながらも残念な気持ちで、エリザベータはねえ、と呼びかける。会話を多くは交わさない、という暗黙を振り払っての言葉に、ギルベルトの視線がそろりと戻った。
「なん、だよ……」
戸惑いに揺れる瞳に、エリザベータの心がぞくりと揺れる。強気で高慢な男にしては珍しいくらいの弱い意思だったが、エリザベータにしてみれば驚く程のものではない。あの頃はこれが普通で、いつもこんな風だった。カタン、と椅子を鳴らして腰をあげ、エリザベータはテーブルに手をついて思い切り身を乗り出した。ギルベルトは椅子の背に体を押し付け、やや仰け反るようにしながらも、立ちあがって逃げ出す様子はない。
そのことに、ひどく満足した。ふ、と口元だけで微笑む。
「なんで、時々変わるの? 目の色」
「し……知らない」
「嘘。お前は知ってる」
獲物を追い詰めて遊ぶ猫のような心地で言ってやれば、ギルベルトの瞳がきゅぅ、と細まって睨みつけて来た。本気の殺気と敵意を叩きつけられたこともあるからこそ、それくらいの怒りは殆ど無抵抗にすら感じてしまう。くすくすと喉を震わせて笑えば、ギルベルトの視線が怯えるように揺れた。ああ、やはり彼は理由を知っているのだ。なんらかの理由があって教えられないか、教えたくないだけで。彼は、答えを持っている。
無理に言わせたい訳でも聞きだしたい訳でもなかったので、エリザベータは乗り出していた体を戻し、ゆったりとした仕草で椅子に座りなおした。怯えるように見つめてくる表情には微笑み返し、別にいいよ、と告げてやる。
「誰かに……他の誰かに見せなければ、それでいい」
「……ん」
あの色は、エリザベータに残された『少年』のものであり、過去に取り残された青空そのものだった。それを、他の誰かが見上げることを許せない。エリザベータは少年めいた仕草で腕を組み、足も組んで椅子に体を預けた。すこし疲れた風に目を閉じて息を吐き出せば、ちらちらと心配そうな視線が寄こされる。苦笑しながら薄く目を開き、エリザベータはギルベルトに向かってごく軽く腕を広げると、首を傾げながら囁いた。
「おいで?」
がたん、と蹴り倒しかねない勢いで椅子が鳴り、ギルベルトがすぐさまかけてくる。椅子ごとエリザベータを抱きしめる体の大きさも、腕の力も男のものであるのに。胸に押し付けられた顔は、心臓の音を聞きたがる幼子のものでしかない。エリザベータはぎゅぅ、と目を閉じて息をひそめるギルベルトに手を伸ばし、指先で頭をなぞるように髪を撫でてやった。心臓の音は、穏やかに刻まれている。ギルベルトも、エリザベータも。
その音が一つに重ならないことが、かなしい。
「……大丈夫よ。別に、なんともないわ」
すこしだけ。ほんのすこし、心が疲れてしまっているだけだから。男の頭を胸に抱くようにしながら囁くエリザベータに、ギルベルトの指先に力がこもる。背に当てるだけの仕草だった指先が、服を引きつらせるようにくっと折り曲げられた。ギル、と不思議がって呼ぶ女性に、ギルベルトはすっと息を吸い込む。駄目なのか。溜息よりもかすかに響いた言葉の意味を、エリザベータは理解できなかった。なに、と焦る気持ちで問う。
ギルベルトの視線が持ち上がり、二人は互いに瞳を覗きこんだ。
「俺じゃお前のこと、安心とか……させられない、のか」
苦しげに紡がれるそれは、すでに確認の響きを帯びていた。とっさに否定も言い返すこともできず、エリザベータはハッと息を飲んで赤い瞳を見下ろした。視線は、すでに反らされている。ぴたりと寄り添った体はなにより近いのに、心がどうしても触れ合えなかった。待って、とエリザベータは息を吸い込み、その言葉を告げようとする。待って、そうじゃない。しかし告げるより早く指が離され、ギルベルトの腕は力を失った。
やがて、ギルベルトがかすかに微笑む。それに気が付いたのは、口元を見つめていたせいだった。口付けるような近さでギルベルトは女性に顔を近づけ、親しげに額を重ねて目を細めた。愛しさで隠した切ない悲しみが、いっぱいに広がった笑い方だった。
「ごめんな」
「な……に」
「俺が居なければお前、向こうに戻るのためらわないだろ? だから」
この場所に、繋ぎとめてごめん。泣きそうに細められた瞳とかすれた声は、世界の流れを正しく読み取る『国』のものだった。どくん、と鼓動が耳に痛いほど強く響く。こんなにも閉ざされた世界の中で、ギルベルトは確かに『国』だった。ぎこちなく、エリザベータは首を動かす。
「違うわ……アンタのせいじゃない。アンタのせいなんかじゃ、ない!」
「……おう」
「アンタなんか……上手に甘えもしない馬鹿のくせに」
全く信じていないギルベルトの相槌が、エリザベータの悲しみを深くさせた。同じ部屋に居ても、言葉を重ねても、零れる涙が頬を濡らす近くに顔を寄せても、二人の心はちっとも傍で触れ合えなかった。エリザベータは痛みに耐えるように拳を握り、ギルベルトの胸に振り下ろす。顔を歪めて痛みに打たれ、ギルベルトはそっと目を伏せた。胸に抱く気持ちが分からなかった。愛しいとしてしまうには、苦しみと痛みが強すぎた。
音を立てて、体の中で血が騒いでいる。『国』としての本能に、これ以上逆らうのは苦しかった。エリザベータは息を吸い込み、血を吐くような気持ちで告げる。私ね、と。ギルベルトは黙って、それを聞いていた。
「私……ハンガリーに、戻らなきゃ、いけないの。……分かる?」
握られたまま、胸に強く押し付けられる手に、ギルベルトはそっと触れた。両手で包みこむようにしてやるのが、返事の代わりだった。目を伏せて手を組み合わせる姿は、どこか祈りを捧げるのに似ている。
「ハンガリーは、オーストリアとの国境を開放し、国交を正常化させる為に動きだしてるわ。もう……もう、止められないのよ。春が……来るより、雪解けよりはやく、私は」
「うん」
「……私はまた、アンタを置いて行かなきゃいけない」
また、というのは繰り返しの言葉だが、一度目が何時かをギルベルトは問わなかった。言われずとも、忘れたことなどなかったからだ。震える唇を噛む女性を、ギルベルトは眩しく目を細くして見つめる。抱きしめても、胸にすがりついて泣きはしないだろう。エリザベータがそうするのはこの世でたった一人で、それはギルベルトではないのだった。代わりに頭を抱き寄せて、額と、涙の浮かぶ目尻に唇を落として胸まで息を吸う。
「大丈夫だ」
「嘘」
「嘘じゃない。大丈夫だ……俺は、ちゃんとここに居る」
否定する女性を抱き寄せれば、エリザベータはやはり頑なに首を振るばかりで、泣き叫ぶことをしなかった。だからこそ、なお強く愛しさを感じて、ギルベルトは胸元で震えていた手を取った。握られていた指先を解かせて、己の首元へと導く。そこに飾っている鉄十字は、勲章ではなくただのアクセサリーだったが、裏に精緻な黒鷲のシルエットが彫り込まれたギルベルトだけのものだった。プロイセン時代からのものだ。
ひんやりとした鉄飾りは指先からじわりと安堵を広げ、エリザベータの心に染み込んで行く。あ、と声をあげて体から力を抜いたエリザベータに身を寄せて、ギルベルトは女性の髪に口付ける。焼けた土色の髪を飾る、桃の花飾りが可愛らしい。
「俺は簡単に居なくなったりしねぇよ。知ってんだろ? ばぁか」
「……向こうで」
待っている、とエリザベータは言わなかった。それでも、その意思を読み取ったかのようにギルベルトは頷き、鉄十字ごと、己の喉に女性の手を押し付けて触れさせる。息をする動きを、覚えていろと言うように。
「なあ、エリザ。……知ってたか?」
「なにを」
「俺は、お前が笑ってるのが好きだ」
ひゅ、と音を立てて喉が息を吸い込む。どちらの喉がその音を立てたのか、エリザベータには分からなかった。気が付けば唇が重ねられていて、息も涙も、意思とは関係のない所で零れていく。好き、なんて。言われたことがない訳ではないのに、胸が震えた。
「……えーっと」
響いた声はどちらのものでもなく、屋敷の主、イヴァンのものだった。悲鳴すらあげず即座に離れた二人から視線をそらし、イヴァンは扉をすこしだけ開けて顔を覗かせた姿で、十回くらいノックしたんだけどね、と言う。
「ごめんね、もう五時だから、どうしたのかと思ってたんだけど……そういうことなら、ギル君、鍵くらい」
「かけねぇよ! 変な想像すんなよ! ば、ばばば……ばかっ! ばぁか!」
「はいはい。そうだね馬鹿だねー。ギル君はなんでそんなにシベリアに行きたいのか不思議で仕方ないんだけど、寒いトコが好きみたいだから遠慮なく飛ばしてあげるよー。それともコルコルする?」
好きな方選んでいいよ、と可愛らしく笑って首を傾げてくるのに、ギルベルトは全力で俺が悪かった、と謝った。その二択は、心底選びたくない。青ざめた顔で首を振るギルベルトから離れて、エリザベータは一生の不覚だ、と舌打ちをしながら立ち上がった。口元を手で押さえて頬を赤らめ、視線だけが険しいので、ギルベルトはそちらも直視できない。どうすることも出来ずに立ちつくしながら口を閉ざすと、溜息が場に響いた。
気を取り直した、エリザベータのものだった。なにもかもを吹き飛ばしたがるように息を吐き、エリザベータは肩から力を抜いて時計を見つめ、イヴァンに向き直って口を開く。
「わざわざ呼びに来たの?」
「うん。ちょっとね、時間が遅いのと……君に、緊急を要することがあったから」
もう分かってるかも知れないけど、とイヴァンは息を吸い込む。告げられる言葉がなんなのか、エリザベータはもう分かっていた。なんとなく、ギルベルトが居る場で良かったとも思う。もしかしたらイヴァンは、わざと知らしめるために足を運んだのかも知れない。
「来月には、ハンガリーとオーストリアの国境が開放される。……彼の勝ちだよ、エリザベータ」
「そうね」
「帰りなよ。『オーストリア』君ったらさっそく、君を国に、ハンガリーに返せって親書を送って来てる」
ひらりとイヴァンがかざして見せたのは、ハプスブルグの紋章が刻まれた一枚の紙だった。諦めたようにそれを見つめ、エリザベータは確かな仕草で頷いた。終わりの時が来たのだ。それだけのことだった。
ぱたん、と熱のない仕草で扉を閉め、イヴァンはやれやれと息を吐き出した。とりあえず言うべきことは言ったので、この部屋から早く立ち去りたい。あの二人が現在どういう関係にあるのか知る由もなかったが、幼馴染であれ腐れ縁であれ、それ以上であれ未満であれ、ソビエトを出ていくことで発生する愁嘆場など視界に収めたくもない。早足に執務室に戻ろうとして足を踏み出し、イヴァンは廊下の端を睨んで立ち止まる。
「……まだ居たの?」
駄目だって言ったじゃない、と吐き捨てた声など聞こえなかったかのように、足を踏み出したのは菊だった。菊は廊下に下りた暗闇にまぎれるようにして歩を進め、苦々しい顔つきで見てくるイヴァンの前で立ち止まる。視線は、たった今イヴァンが出て来た部屋に向けられていた。完全に閉ざされてはいない、しかし開かれる気配もない扉をじっと見つめ、菊は寒くも見える和装のままに目を細める。
「会えない訳ではないのでしょう?」
「そうだね。だから僕は、ただ駄目って言った。……駄目だよ、ギル君には会わせない」
「何故」
切り捨てるような鋭さで、菊の目がイヴァンを睨みあげてくる。長旅の疲れを全く感じさせない立ち姿に、イヴァンは深々と溜息をついた。駄目なものは駄目だと言い張っても良いのだが、こんな廊下で話こんでいたら、そのうちどちらかが部屋から出てきてしまう。舌打ちをし、イヴァンは首を振った。
「君の存在が、今のギル君には毒だからだよ。君は……『プロイセン』の弟子なんでしょう?」
「なんでそんなに嫌そうに仰るのか理解できませんが、ええ、確かに。私は彼に教えを仰ぎ、今もそうして敬っておりますが。それになにか問題でも?」
互いに、言葉に無暗やたらと棘を含んだ会話の応酬だった。ふふふ、と毒のように煌めく笑みを交わし合いながら、イヴァンはだからだよ、と言い切る。だからこそ、菊だけはギルベルトに会わせる訳にはいかなかった。
「今、彼の状態は本当に不安定だ。それなのに、その状態でエリザベータが傍から離れざるを得なくなった。……君は彼を『プロイセン』だと思ってる。だからこそ、会いたいと願ってる。君に会わせたらどうなると思う? 彼は間違いなく状態を崩すよ。けど、彼女が居ないんじゃ起きる保障がないじゃない。僕はそんな危ない橋を、ソビエトに属する『国』に渡らせるつもりはないんだ」
「……意味を、理解しかねます」
「君が理解できるように言ってないもの。分かったらビックリするよ」
不可解そうに眉を寄せる菊に、イヴァンはごくあっさりと言い放った。コノヤロウ陣痛にでもなれ、と言わんばかりの呪詛が菊の瞳によぎるが、イヴァンはすでに視線を外していたので、それを見ることがなかった。イヴァンは出て来た扉を苦しげに見やり、かすかな声で呟く。
「あの壁が消えたら、彼は」
続く言葉が、ある筈だった。しかし待てど暮らせど、イヴァンはそれ以上を口にしようとしない。焦れた菊が、良いから会わせろと叫びかけた瞬間だった。扉がかすかに内側から開きかけ、静止する。エリザベータが出て来ようとして、扉に手をかけながら挨拶でも交わしているのだろう。思い切り眉を寄せ、イヴァンは早口に告げる。
「とにかく、ダメ。後で、電話でちょっとなら教えてあげるから、今は帰って」
「……元気なんですね?」
「今は」
さあ、行って。イヴァンが菊を急き立てた声が完全に消えるより早く、部屋からエリザベータが出てくる。女性の視線が廊下の先に向けられ、一人で立つイヴァンの姿を見つけ出した。辺りを見回して誰も居ないことを確認し、エリザベータは不思議そうに駆け寄ってくる。
「なに……待ってた、の?」
「そういう訳じゃないよ。気にしないで」
そんなことより、別れは済ませて来たの、と微笑むイヴァンに、エリザベータは舌打ちを響かせて嫌そうな目を向けた。これからすぐに屋敷を発つ訳でもないのに、何故そんなことをしなければいけないのか。嫌なことは先延ばしにさせなさいよ、と溜息をつくエリザベータに、イヴァンはうん、と頷いた。そうだね、と囁く。本当に、そうだよね。深々とした溜息と共に告げられた言葉に、エリザベータは不可解そうに眉を寄せた。
しかしそれ以上を問いかけても無駄だと思ったのだろう。さっと身をひるがえし、エリザベータは早足で廊下を進んでいく。途中、目に入る光が眩しくて瞳を細めれば、イヴァンはごく自然に窓とエリザベータの間に体を滑り込ませた。眩しさに目を焼かれる様子もなく、イヴァンは中庭に目を落として囁く。
「ああ……雪解けだ」
「え……?」
「ごらんよ、エリザベータ。この国にも、遅い春が来る」
がんと頭を殴られたような気持ちで、エリザベータはイヴァンの影からそっと中庭を見下ろす。白一色の雪景色は、そうしてよくよく見るならば、強い日差しに溶けかけているようだった。ソビエトに来てもう何十年も経過していたのに、はじめてそれを目の当たりにする気持ちで、エリザベータは口元に手を押し当てる。この国にも、春は来るのだ。いつまでも冬に閉ざされているとばかり思っていた、この屋敷の中庭にも、春が。
光に満ちて、雪が溶けていく。ハンガリーとオーストリアの国境開放まで、残り一ヶ月。一九八九年、四月のことだった。