まるで人間のように、二人で長い旅をした。そうしたいと言いだしたのはギルベルトで、同意してやったのはエリザベータだったが、二人に許可を出したのはイヴァンだった。五月のある日、雪解けの甘い水が地下を流れていく新緑の季節に、二人はまるでひとのようにイヴァンの屋敷を出て、ハンガリーへと向かった。道を足で歩き、列車をいくつも乗り継ぎ、気まぐれに駅で降り、名も知らぬ街の宿に泊まり、また旅へ戻る。
それはエリザベータが『ハンガリー』として国に戻る道行きでありながらも、確かに二人の旅だった。長い夢の終わりのような、その途中のような、それでいて物語のような旅だった。二人は親しい友のように肩を並べて街を歩き、時には若い恋人同士のように手を繋いで歩いた。幼く抱きしめあうだけで眠る夜をいくつもこえ、けれど決して肌を触れ合せはしなかった。それは不必要であるように思え、また、恐れてもいたからだ。
一つの宿に、長い時は一週間も滞在したことがある。進むのが嫌になった訳ではない。戻ることから逃げた訳ではない。ただその宿は日当たりが良く、夜に眺める星空が本当に見事で、もうこの先こんな風に訪れることはできないと二人とも知っていたからこそ、なんとなく離れがたくなってしまったのだった。それだけだった。晴れた日にはよく散歩をし、時々は観光名所を巡ったり、評判の店に行って向い合せに食事をした。
滞在が一週間以上にならなかったのは、『国』が尋ねてきたからだ。二人は宿に書く名前を誤魔化すことをせず、また、監視をまくようなこともしなかったので、イヴァンの元まで報告は飛んでいたのだろう。現れたのはイヴァンではなく、二人が滞在していた宿のある国の化身で、『リトアニア』はたいそう困った顔つきで宿に現れ、二人を椅子に座らせて腕組みをした。まるで、言うことを聞かない生徒を叱る、教師のようだった。
「……あのですね」
それきり、トーリスは言葉に困ってしまったようだった。二人の進路は確かにハンガリーに向いており、イヴァンは二人に急いで向かえとも言わなかったし、ギルベルトにさっさと戻っておいでね、とも言わなかった。二人はソビエトの監視をまいて逃亡するような素振りを見せなかったし、二人でどこかへ居なくなってしまうような動きも見せず、計画を立てている様子でもなかった。ただ考えられない程、ゆっくり進んでいるだけだ。
二人が居るのはリトアニアでも、ラトビアとの国境に近いちいさな町だ。ここからハンガリーに辿りつくには、まだ三つ国境を越えなければならないのである。季節はすでに六月も半ばになっており、春というより初夏の兆しを見せ始めていた。屋敷を出て一月かかって、ハンガリーからはまだ遠い。ハンガリー政府は己の『国』の動向を知ってか知らずかどっしりと構えていて、矢のような催促がないのがソビエトの救いだった。
そもそも『ハンガリー』がソビエトに来るきっかけになったのは、ハンガリーが社会主義に組み込まれたから、である。つまり国が社会主義から脱すれば女性はハンガリーに帰れるのであり、その条件はすでに、五月の前に満たされていたのだった。ハンガリーは憲法の改正を経て、ハンガリー人民共和国から、ハンガリー共和国になっていた。それなのにエリザベータがソビエトに居たの理由を、トーリスは知らないままだった。
国政の変換が上手く行っていないから残っていた方がやりやすかったのかも知れないし、あるいはギルベルトという女性にとって重要な人質が残されたままだったからかも知れないが、一つだけ確かなのはハンガリー政府が『国』の帰還を強く望まなかった、とそれだけである。国内の状況が安定しきるまでは、いっそソビエトの屋敷に居た方が『国』が安全だと思ったからかも知れないが、呼ばれなかったのは確かだった。
今回、帰還することになったのはハンガリーとオーストリアとの国境が開放されからかで、それによって国内がひとまずは安定し、社会主義に逆戻りすることがなくなった、と政府関係者が安心したこともあったのだろう。戻って来て良いですよ、というハンガリー政府の物言いは決して緊急を要するものではなく、だからこそエリザベータはゆっくりと、まるで長旅を楽しむようにロシアから国に戻っているのかも知れなかった。
トーリスが現れてから、エリザベータはふてくされたように視線を外してしまっているので、感情を読むことは難しい。溜息をついてあれこれ言葉を探すトーリスに、苦笑しながら声をかけたのはギルベルトだった。どこにでもいる青年のような、簡素で粗末な服に身を包んだギルベルトは、頭の上にたんぽぽ色のことりを乗せたままで申し訳なさそうに笑う。体調は悪くないように思えた。すくなくとも、トーリスの目からは。
「明日んなったら、またハンガリーに向かうぜ。……悪かったな、トーリス」
ここの宿、ホント星が綺麗に見えてよ、と気安く、まるで旧友のように笑いかけてくるギルベルトに、トーリスはごく自然に微笑みを浮かべて頷いていた。『国』として、国を褒められることは嬉しい。それがどんなささいなことであれ、それは『国』の誇りであり、喜びに成りえる。しかしトーリスが笑ったのはそれだけではなく、すこし、憎しみや怒りを持ち続けることに疲れていたからだった。目の前の二人は、ひと、のように見える。
若い旅行者であるように、親しい友人同士であるように、幼い恋人同士であるようにも見えた。そんな二人を前にして、いつまでも怒っていることの方が難しい。怒りはとても疲れるし、辛いばかりで楽しくはないし、面白くもなんともないからだった。トーリスはごく穏やかに微笑んでいいえ、とだけ呟き、絶対に明日には出発してくださいね、と言い残して宿を出て行った。宿の外はもう薄暗く、空を仰げば確かに星空は美しかった。
二人は約束の通りに、次の日に宿を出たらしい。トーリスがそれを知ったのはイヴァンの屋敷に戻ってからで、誰もが彼らの行動に苦笑を浮かべて報告書を眺める。咎める気持ちを持つ者は、不思議に誰も居なかった。彼らは長い旅をしている。まるで人のように。それは『国』に生まれた者の果てない祈りのようにも思えて、止めることも触れることも、彼らには出来ないのだった。なぜだか、二人はゆっくりと、旅をしている。
国に心配をかけないように、エリザベータは週に一度、ハンガリーに手紙を送っているらしかった。それはきちんと便せんにしたためられた文章であることも、ポストカードに一言、二言であることもあった。必ず週に一度投函される言葉は、しかし途切れることがなかった。ハンガリー政府の人間はじりじり近付いて来る地名を眺め、仕方がない、と苦笑した。確かに向かってはいるのだから、到着を待ちわびるのも悪くはない。
元々『ハンガリー』は国の初期、かなり放任されていた。遠い先祖の放任主義が、現代の者たちに蘇ったのかも知れなかった。隣国だって、『国』は滅多に国内に居てくれないのだし、というのが彼らの心の慰めで、それを聞いた『オーストリア』は思いっきり苦笑して呟きを落とす。私は一応、所在地は明らかにして大移動など致しませんでしたよ、と。迎えに行くこともなく隣国にて待つ『国』は、そう言ってピアノを弾いていた。
月日が流れていく。二人は三つの国境を超え、その間に二ヶ月の時を消費していた。カレンダーはすでに八月を主張しており、ハンガリーに広がる空は眩いばかりの快晴だった。二人は人気のない草原を、幼い頃よくそうしたように手を繋いで、大人になってから身に付けたゆっくりとした足取りで歩いて行く。二人の視線の先には、国境があった。ハンガリーからオーストリアに続いて行く国境が、女性の戻るきっかけだった。
この場所は確かにハンガリーだったが、それでいて地図的に三方をオーストリアに囲まれていた。気持ちの上では、半分くらいオーストリアに居るようなものだった。さくさくと草を踏みならしながらエリザベータは笑い、ギルベルトはなんとも言い難い表情で女性の隣を歩いて行く。風が吹き、草を鳴らした。胸を切なくさせるほど穏やかで、懐かしい音だった。草原の日差しは強く、見上げる空は雲一つ浮かばない快晴だった。
ここが二人の、旅の終わり。長い夢から、覚める場所だった。あーあ、と笑いながらエリザベータは空を仰ぎ、唐突に草原に体を投げ出した。手を繋いでいたギルベルトは持ちこたえられず、引っ張られて草の上に倒れこんでしまう。背の高い草はそれなりにクッション代わりになって、二人の体を優しく受け止めてくれた。幼い頃にそうしたように、二人は風の抜けていく大地の上で寝転がり、想い想いに空を見上げる。
旅の間一度も、ギルベルトはその理由を話さなかった。なぜそうしたかったのかはギルベルトの胸の中だけに眠っていて、どこにも明かされることがなかった。旅の間一度も、エリザベータはその理由を聞かなかった。なぜそうしたかったのかなど、エリザベータが勝手に考えていればいいことで、答え合わせの必要などなかった。それでも、二人の手は重ねられている。屋敷を出てからずっと、離されたことのないような手だった。
今も、繋いだ手を離していれば、ギルベルトまで一緒に倒れこむことなどなかったのだ。くすくす笑いながら指に力を込めると、柔らかく握り締められて溜息がつかれる。視線は、合わせようと思わなくともすぐ重なった。鼻先が触れ合いそうな近くに顔を横にして、二人は手を繋いで寝転んでいた。風が吹いて、背の高い草を揺らす。昔はその音を、ゆりかごにして眠った。いくつもいくつも、数え切れない程の日々を過ごした。
いつまでも、どこまでも、一緒に居られると思っていた。
「……ねえ」
「なんだよ」
繋いだ手が白くなる程、力を込めて握り締める。確かに痛いだろうに、ギルベルトは眉を寄せることすらしなかった。同じくらいの力で握り返し、そんなそぶりも見せず、ただ瞳を覗きこんで笑う。夕陽色の瞳。その奥の奥まで見つめながら、エリザベータは泣きそうな気持ちで息を吸い込んだ。なんでもない、と呟く。なんでもない、本当に、ただ呼びかけてみたかっただけ。草原は二人の、長い長い夢の終わり。かつての永遠。
それが、終わった場所。
「ギルベルト」
「……エリザベータ」
呼びかけに意味などない。ただ、その音を口に乗せたかっただけ。二度目のそれは問いかけられず、ギルベルトは微笑むばかりで、女性の名を囁いた。風が吹いて行く。草が揺れた。繋いだ手が痛いのに、どうしても離せない。倒れ込んだ草原は、土と草の匂いがする。風は生温いばかりで、花の香りを運ばなかった。春さえ、もうとうに終わってしまっていた。目を閉じても、もう優しい夢は見られない。終わりが来たのだ。
ギルベルトはエリザベータと手をつないだまま、ゆっくりと起き上がって草原にしゃがみ込む。同じように体を起こしたエリザベータを、ギルベルトはそっと抱き寄せた。ぽんぽん、とごく軽く背を撫でる。エリザベータは泣かなかった。ギルベルトは、それを知っていた。首元に、女性の手がかかる。ゆるく首を覆うように伸ばされたエリザベータのてのひらは、ギルベルトの首元を飾る鉄十字に触れ、かすかな金属音を響かせた。
なにも言わず、ギルベルトは立ち上がる。後を追って、エリザベータも立ち上がった。当たり前に同じ仕草をしてしまうのがおかしくて、二人は顔を見合わせて笑う。また、風が吹いた。ふと風下に視線を向けたギルベルトの眉が、訝しげに寄る。すぐそれに気が付き、エリザベータも目を瞬かせた。草原に、人が集まっていた。一人や二人ではない。十人でも二十人でもなく、それは百人、千人すら超すであろう人の数だった。
素晴らしい天気だ。ピクニックに集まっていると言い聞かせるには、人々の表情がおかしかった。若者も幼子も、老人も居る。彼らは皆一様に大きな不安に立ち向かっていく強張った顔つきをし、それでいて瞳には隠せぬ希望を宿している。ざわざわと、草原が人の声で揺れた。エリザベータは無意識に、隣国に向かって開かれた国境を見つめる。ぞっとした。なにかが起きようとしている。とても、とても恐ろしいことだった。
背筋をつらぬく、恐ろしい歓喜だった。
「なに……?」
「……アイツら」
掠れた問いかけに返って来たのは答えではなく、ただの事実だった。ギルベルトは集まった百を超し、五百にも、千にも膨れ上がっていく人を見つめながら、強張った声で呟く。俺の民。俺の、国民。呟かれた事実に、エリザベータは思わず己の身をかき抱く。『国』は、己の民を間違えない。国民と『国』は繋がっていて、彼らの喜びこそ『国』の喜びであり、彼らの悲しみこそ『国』の苦しみなのだから。分からない筈がない。
集っていたのは、ドイツ民主共和国の民だった。『国』がそこに居るとも知らず、彼らは大いなる不安を抱いてざわめいている。視線の先には、国境があった。ハンガリーが、オーストリアに対して開いている国境。三方は隣国に囲まれ、すでに半分オーストリアに居るようなものだ。人々はそこに、集まっている。ピクニックに出かけるには最適の陽気。長い草を揺らして、強い風が吹く。背を押されたように、一人が走りだした。
その一人を追うように、またその一人を追うように、集まった千を超える程の人々が国境へと押し寄せていく。ソビエトに属する国の民が、旅行に出かけられるのはハンガリーまで。しかしハンガリーから開かれたオーストリアは、ソビエトに非ず。そこに行くことは、亡命を意味した。ドイツ国民は国を捨て、壁の向こうへと還ろうとしている。悲鳴にも似た声が人々からは上がっていた。若者も幼子も、年寄りも、誰もが走っていた。
「……行ってやって、くれないか」
長い旅の終わり。視線の先には、国境があった。
「行って、アイツらを通してやってくれないか。エリザ」
「な……ん、でっ」
「ハンガリーとオーストリアの国境が開放されているのは、ハンガリー国民にのみ。俺の国民は……誰ひとり、あそこを通れない。でも、お前が行って頼めば、兵士たちは門を開くだろ?」
通してやってくれ。隣国へ、逃がしてやってくれ、と。微笑むギルベルトは、『国』の顔をしていた。手は繋がれたままなのに。痛いくらい、重ねられたままなのに。もう、心が遠い。
「俺の国民を……逃がしてやってくれ、エリザベータ。『ハンガリー』。お前にしか、頼めない」
「アンタは……?」
「俺は」
分かってるくせに、とギルベルトは苦笑する。分からない、と頑なにエリザベータは首を振った。痛い程繋いでいた手が、解かれる。
「ここから先は、お前一人だ。俺は行けない」
「どうして……どうしてよ! なんでよっ!」
「俺たちが『国』だから。……国境を越えようとする国民の元に俺が行けば、それは国の総意となる。国全体が亡命を望むだなんてことになれば、それこそ、国は滅びるだろう。俺は『ドイツ』からの預かりものを、そんな風に扱えない。……行ってくれよ、エリザ。俺の国民を、どうか」
逃がしてくれ。お前にしか頼めない。甘くも響く言葉を、エリザベータは聞きたくなどなかった。それなのに、繋いだ手は離されてしまった。もう、二人の間には距離がある。たった一歩で消えてしまう距離。踏み出すことは、どちらにもできなかった。国境から響く声がエリザベータを呼び、ギルベルトを遠ざける。行ってくれ、とギルベルトは笑う。国を捨てて行こうとする国民を、それでも心から愛して。幸せを、ひたすらに願って。
「早くしないと、騒ぎを聞きつけて警官が来る。彼らにつかまったら、終わりだ」
「分かってるわ」
「だから、アイツらを」
逃がす。それができるのは、エリザベータだけだった。今それが可能なのは、エリザベータだけだった。そのことがなにより悲しく、なによりも嬉しい。気が狂いそうだった。結局、ギルベルトはエリザベータの手を離したのに。
「分かってるわよっ!」
悲鳴に近い声で叫んで、エリザベータはギルベルトを睨みつける。
「アンタの望みは、私が叶えてあげるわ。でもね、勘違いなんてしないで。アンタの為じゃないわ」
「……ん」
「私の為よ? アンタの民をここで救えるのは、私だけ。だから私が行くの。アンタに……」
激情に、喉がひきつる。それでも、最後まで言わなければならなかった。
「アンタに頼まれたから、行くんじゃないわ。これは私の望みよ!」
「エリザ」
ふわ、と空気が動く。一瞬だけ抱き寄せられて、てのひらに冷たいものが押し付けられる。それがなにかを確認する前に、ギルベルトはトン、とエリザベータの肩を押した。国境に向かって。走り出せ、と。
「……さよなら、だ」
足が、一歩を踏み出す。それが男との距離をつめるものなら、どれ程よかっただろうか。ただの人間のように、腕の中に飛び込んで抱きついて、泣きながら罵倒して、一緒に居られることができたら、どれ程に。けれどギルベルトは『国』で、エリザベータも『国』だった。踏み出した足はぐんと大地を蹴りつけて、女性の体を国境へと運んで行く。ほんの僅かな距離だった。エリザベータは、混乱する人の中に飛び込んでいく。
お願い、お願い。通して、行かせて、と悲鳴にしか聞こえないドイツ語がこだまする中で、エリザベータは、己が手の中に握り締めていたものを見た。別れの瞬間、押し付けられた冷たいもの。ギルベルトの鉄十字だった。泣き叫びたい気持ちを堪え、エリザベータは民衆の中を抜け出し、国境を守る兵士たちの前に立つ。髪は乱れ、息が上がり、服装も決して上等とは言えない女性の姿を、兵士たちは茫然と見つめる。
国民は『国』の姿を知らない。殆どの場合、姿は公表されない。その存在があるということだけを知らされ、戦場に共に立つものや、国の中枢で動くものだけが彼らの姿を知っている。兵士たちは、エリザベータを見てもそれが『国』だと分からなかった。それでも、無意識に口をついて出る言葉がある。それが答えだった。
「祖国……!」
エリザベータは彼らに応えるように一歩進み出て、兵士たち一人一人の顔を見つめた。彼らは跪かんばかりの面持ちで、エリザベータに頷きを返す。ご命令を。誰かが掠れた声で呟く。いつの間にか、集まった民衆には静寂が広がっていた。彼らを背に従え、兵士たちを真正面から見つめて、エリザベータは手を掲げる。鎖を指に引っ掛けて、鉄十字がエリザベータの腕を飾った。押しつぶされた民衆の希望が、息を吹き返す。
「開きなさい」
静かに、エリザベータは言った。門を守る己の国民に向かって、決して逆らえぬ命令の響きで。
「国境を開きなさい! 彼らを隣国へ!」
大地を揺るがす歓喜の叫びが、そのまま兵士たちの答えだった。一時を惜しむようにもどかしげな手つきで、国境を封鎖していた門が開かれて行く。人々が門に押し寄せ、体がぶつかってもみくちゃになっていく。人波の中でよろけてしまったエリザベータの腕を、強い力で掴む者がいる。ハッとして顔を向ければ、微笑んでいたのは懐かしい顔だった。『オーストリア』がそこに居た。国になだれ込む民を、微笑んで見ている。
「ローデリヒさん」
「よく、やってくださいました。エリザベータ」
人々に向けられていた視線が、エリザベータの元へ下ろされた。優しげに笑む薄藤色の瞳に、エリザベータの中でなにかが緩んで行く。ひっ、と喉が鳴った。顔を覆ってしまったエリザベータに腕を伸ばし、ローデリヒは女性の体を抱きしめる。
「よく……よく、頑張りましたね」
トントン、と背を叩いてやると、エリザベータは強い力でローデリヒに抱きついて来た。すっと喉が息を吸い込み、それが合図だったかのように、エリザベータの瞳から涙がこぼれ落ちていく。エリザベータは泣いていた。泣きながら、ローデリヒに強く抱きついていた。支えるように腕を回しながら、ローデリヒは草原の向こう側に視線を送る。しかしいくら探しても、そこにギルベルトの姿はなく。やがて再び、国境が閉ざされる。
ハンガリー国境を越えて、千名もの東ドイツ国民がオーストリアへと亡命した。この事実と人々の歓喜がやがて、ベルリンの壁崩壊を導いて行く。良く晴れた、八月のことだった。その事件は、『汎ヨーロッパ・ピクニック』と呼ばれた。
その感覚は、貧血が一番よく似ていた。ざぁと意識が音をたてて引いて行く。世界から切り離されるように、ゆっくりと、水面を見上げながら湖に沈んでいくように。意識が体から切り離されて行く。はっと浅い息を吐き出して、ギルベルトはかすむ視界で前を睨みつけた。足を、一歩踏み出す。帰らなければ。還らなければ。その想いだけが体を突き動かし、けれど、どうしてそう思うのかを、もう認識できなかった。意識が揺れる。
「ち……く、しょ……!」
がくんと体から力が抜け落ち、膝が折れて草原に倒れ込みそうになる。地面に叩きつけられる筈だったその体を、途中で受け止めたのは少女の腕だった。まるで、その地点にギルベルトが倒れこむことを知っていたかのように差し出された腕は、しっかりと男の体を支え、呆れかえった視線が落とされる。ぜい、と嫌な音を立てて息を繰り返すギルベルトは、もう少女の存在すらよく分からないのだろう。ゆら、と視線が揺れた。
「話すな」
ぴしゃりと叩き落とすように、あるいは鋭く切り捨てるように、少女の声が言葉を拒絶する。これ以上は意識を繋げておくことが苦痛だと、分かっていたのだろう。眠れ、と静かに告げる声は聞きなれたエリザベータのものではなかったが、ぎこちない優しさが見え隠れするその響きを、ギルベルトは確かに知っていた。全身を預けるように脱力しながら、ギルベルトはなんとか視線だけを持ち上げ、かすむ瞳で少女の名を呼ぶ。
「ナター……リヤ。お前、なん」
「……安心してください、ギルベルトさん。俺たちがちゃんと、屋敷まで連れて帰りますから」
だから、もう眠ってしまって良いのだと。微かなためらいを含みながらも優しく囁かれた声でもう一人の存在に気が付き、ギルベルトは目つきを悪くして少女の背後に視線を移した。立っていたのは、トーリスだった。リトアニアで別れた時と同じように、青年はどこか複雑な感情を編みこんだ微笑みで、ギルベルトを見ていた。青年は少女の腕からギルベルトをひょいと取り上げると、荷物のように担ぎあげてから苦笑する。
「俺たちは、お迎えです。……ね、ナターリヤちゃん」
「私に話しかけるな。兄さんに頼まれなければ、お前と一緒には来なかった」
苦々しい表情で言ったナターリヤはしゃがみ込み、ギルベルトの顔を下から覗き込む。すでに半分意識を飛ばしながら、ギルベルトはぼんやりと少女を見返した。なんだ、と唇が動く。ナターリヤは、己こそがギルベルトの意識を繋いでしまっていることに苛立った風に唇を噛み、それから手を伸ばして男の頬に触れる。ひやりとした、冷たい指先だった。指は頬のまるみを辿るように動き、やがてそっと離れていく。
「……帰るぞ」
「うん」
返事をしたのはトーリスだった。それでもナターリヤは、まるでギルベルトがそう言ったかのように立ち上がり、草原を横断するように歩いて行く。国境を背に、二人が向かうのは街だった。そこにある駅に向かって、列車に乗り、いくつもの国を超えてイヴァンの待つ屋敷へと戻るのだ。遠くから、まだ歓声が聞こえる。靴の下で踏まれる草の音が、やけに静かだった。トーリスはそっと、担ぎあげたギルベルトの顔を覗きこむ。
かすかな息をしているだけで、もう、意識は無かった。