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 9 光の宿り

 背筋を駆け抜けていく言い知れない悪寒に、意識を支配されて書類を投げ出してしまう。紙束が机に叩きつけられて、その上を万年筆が転がって行った。アーサーの滅多にない態度に、室内に居た者たちはぎょっと目を見開く。香とシェリから向けられる視線は、驚愕と不安、心配を幾重にも織り込んだものだった。なにが起きたんですか、と二人のどちらかが問うよりも早く、室内を一陣の風が駆け抜ける。マシューだった。
 普段の穏やかさと落ち着きをかなぐり捨てた態度でアーサーに駆け寄ったマシューは、宗主国たる存在を庇うよう、机と椅子の間に体を滑り込ませた。まるで窓からの狙撃を警戒しているような、全身に緊張の糸を張り巡らせた態度だった。ぎゅぅ、と椅子ごと抱きしめてくるマシューの腕の中で、アーサーは苦しげに眉を寄せて呼吸をする。大丈夫だと言ってやりたいのに、感じた悪寒と衝撃が大きくて、中々上手く行かない。
 ようやく意識が安定を取り戻した時には、香とシェリも戦闘態勢を整えていた。シェリはアーサーの足元に身を低くして跪き、背は向けて居るものの、視線が油断なく執務室に向けられていた。どんな侵入者であっても、すぐさま飛びかかって倒し、触れさせはしないという意思を感じさせる姿だった。香は三人から一歩離れた所に立ち、懐から大量の爆竹を取り出して着火準備をしながら、隠し持っていた武器を組み立てている。
 アジアの、布をたっぷりと使った服だから見ただけでは分かりにくいだけで、香は全身に武器を仕込んでいるのだった。瞬く間にトンファーを組み立てて構え、香は指示を待つ視線をアーサーと、そしてマシューに向けた。マシューは満足げにふわりと微笑み、命令を求めてアーサーに視線を落とす。その時点で呼吸を平常まで戻していたアーサーは、英連邦たちの極めて優秀な忠誠心と戦闘態勢に、深々と息を吐き出した。
「大丈夫だ。警戒を解け」
 僅かな腕の動きだけで、香が服の下にトンファーを隠す。やれやれ、と言いたげにシェリは立ち上がり、大きく伸びをした。素直に動いた二人を眺め、アーサーは困ったようにマシューの腕を指先で叩く。こら、と咎めるように囁かれて、マシューはきゅぅと瞳を細くする。本当ですか、と疑いの色はなく、心配だけで確認する言葉が囁かれた。それに笑みを深めたアーサーは、腕を持ち上げてマシューの首筋に回し、抱き寄せる。
 額をそっと重ねれば、吐息がかかるほど距離が近くなった。
「俺の言葉が信じられないか? マシュー。……大丈夫だ。物理的な危機はない」
「そう、ですか。それじゃあ、『国』の?」
「かなり特殊な『共感覚』だな。感じ取れたとして俺と……フェリシアーノ、くらいか」
 もしかしたらルートヴィヒもなにかしら感じ取ったかも知れないが、とそれを望まない声と表情で呟き、アーサーは深々と溜息を吐きだした。『国』という存在に極端な異変が起こる時にのみ、同じ存在として感じることのできる『虫の知らせ』は、今回に限ってかなり特殊なものだった。発信源となった『国』が、偶然に奇跡を重ねて存在しているからだろう。マシューを抱き寄せて体温を味わい、アーサーはギルベルトだ、と言った。
 存在しない筈の『プロイセン』として『国』の輪に在るギルベルトは、ちょっとしたことでもバランスを崩しやすい。極端に不安定な存在なのだった。それが今、背を突き飛ばされたかのごとく急激に不調に陥った。乗り物酔いを起こしたかのような気持ち悪さを深呼吸で堪え、アーサーはマシューの胸を手で押して離す。マシューは不安な顔つきになりながらも素直に従い、アーサーの座る椅子の前に音もなく片膝をついた。
 何処となくもの言いたげな顔つきで、マシューはきゅっと唇を閉ざしていた。なにも聞かず、なにも問わず、マシューはアーサーの傍にいる。指先だけを伸ばして頬に触れながら、アーサーはくすりと喉を震わせた。
「マシュー。……大丈夫だ。お前が心配することは、なにもないよ」
 『国』が受け止める『共感覚』は音楽を耳で聞くのと同じで、身体的なダメージを与えるものではないのだ。それをお前も知っているだろう、とやんわり宥めるアーサーの言葉に、マシューは無言でそっと目を伏せた。いつもならば即答で分かりましたと言えるのに、今日に限って言葉が出てこないのは、アーサーの様子がおかしいからだった。『共感覚』によってダメージを受けた、という訳ではない。ただ、とても不安げだった。
 その不安がなにによってもたらされたのかは明白で、マシューはアーサーの指先を優しく握り締める。それでは、それでも。迷いながら開かれた唇が、言葉を探して彷徨いながら囁いていく。
「あなたの不安を……消したい、です。アーサー」
 心が怯えてしまうようなことなら、大丈夫だと安心させてあげたいです。しゅん、と落ち込んだ風に俯きながら告げられた言葉に、アーサーは目をうっとりと和ませた。握られた手の中で指先をくすぐるように動かせば、もう、と苦笑しながらマシューが顔をあげる。真剣なんですよ、と真面目に言って来るマシューに、アーサーはごく穏やかに頷いて。大丈夫、と再度囁こうとしたのだが、その口は横から伸びて来た手に塞がれた。
 突然のことにも慌てず騒がず、アーサーは視線だけを動かして二人の横に立っていたシェリを睨みつける。南国の少女。『セーシェル』たる小麦色の肌をした少女は、今日も白いワンピースを着こなして、アーサーの視線を受け止めた。手は、すぐに離される。なんだよ、とマシューに向けていた甘い声とは別物の、ぶっきらぼうな呟きが不機嫌に落とされた。態度の違いにシェリは呆れた目つきになり、香と一緒に肩をすくめる。
 しかし、いつものことである。英連邦の長女が宗主国に溺愛されていることも、態度が違うのも、二人きりで周囲が見えなくなるのも。本当にいつものことなので幼い嫉妬すら浮かばず、シェリはあのですね、とアーサーに人差し指を突き付けた。人を指でさすな、とすぐさま飛んで来る小言は、聞こえなかったふりをした。
「いいですか? この、ごんぶと眉毛」
「あのな、セー。いい加減、俺も、本気で怒ることくらいあるんだぞ?」
 紳士は女性に手をあげない。しかし『国』として、『イギリス』は『セーシェル』に必要なしつけくらいはするのである。現在室内に居るのが身内だけということもあり、香はシェリの失礼な物言いをいつものように注意しなかった。ごんぶとパネェ、と笑いに吹き出して肩を震わせているくらいだ。その態度がさらに神経を逆なでし、アーサーは口元を引くつかせて目を細くした。さすがに、マシューが咎めようと口を開きかける。
 しかしシェリは臆することなく、悪びれる様子もなく、アーサーに向かって眉を寄せた。
「いいですか、ちゃんと聞いてくださいね」
「あぁ?」
「地が出てますよ元ヤン。……あのですね、なんでそうやって一人で我慢しちゃうんですか」
 低く恫喝する声にもめげず、シェリはハッキリと相手を責める響きで言い放った。険しく強張った表情が、少女の不満を伝えてくる。告げられたアーサーはぽかんとした顔つきで瞬きをした後、なにを言われたのか分かっていない様子で首を傾げる。なんとなく、幼い仕草だった。それにさらにイラっと来たようで、シェリは手を伸ばしてアーサーの頬を挟み込む。ぐいっと顔を引き寄せて視線を合わせ、少女はもうっ、と声を荒げた。
「心配してんですよ! ばか! 分かりやがれ!」
「ちょっ……く、び! あと言葉使い!」
「ウィ、ムシュー!」
 厭味ったらしくフランス語で返事を返し、シェリはぺいっとばかりアーサーの顔を開放した。投げ捨てられるモーションで首をひねられ、アーサーは息をつめながら筋の痛みに耐える。コイツ、と瞬間的な苛立ちを覚えたアーサーと、対峙するシェリの間に緋色の布が差し込まれた。香の、服の袖だった。袖口の布をぱたぱた動かしてアーサーの注意を引き、シェリを庇うように腕を回して抱きこみながら、香は微笑みを浮かべる。
 少女を腕の中に抱きこむ動きは穏やかで、腕の一部、袖の布さえシェリの体には触れていない。腕を回しているだけの、柔らかな守護だった。ダメ、怒らせない、とばかり微笑みを浮かべて、香はアンタも悪いです、と冷静な口調で呟いた。可愛くない物言いに、しかしアーサーの怒りが霧散する。甘酸っぱいのかもどかしいのか、それ以前の問題なのか、そもそも自覚し合っていないのかも分からない二人は、面倒くさい。
 この二人に関しては違う意味で子育てミスった、と思いながら、アーサーは静かに控えていたマシューを目で呼んだ。す、とナイショ話をするように顔を寄せて来たマシューに、アーサーはにこりと満足げに笑う。
「カナ」
 呼びかけたのは国名ではなく、人名ではなく、そのどちらでもない中途半端な愛称だった。正式な命令を下すにはほど遠く、それでも個人的な頼みごとよりは忠誠心を呼び起こさせる。甘く響く、呼称。『カナダ』はうっとりと目を細めて微笑み、はい、とだけ口にする。はい、なんなりと。優しげに響きながらも、言葉は決して揺らがない。その瞳に宿る忠誠も、愛情も、ひたすらにアーサーだけに向けられた、一人だけのもの。
 視線を絡め取るように、アーサーはマシューの瞳を覗きこむ。
「お前は、なにがあっても俺を守れるか?」
「はい、アーサー。あなたがそれを望むなら」
 望まれなくとも、貴方の守護を譲るつもりなどないのだけれど。そう、言いたげに笑みを深くしたマシューに、アーサーは良いコだ、と囁いた。続いてアーサーは、視線を香とシェリに向ける。二人はアーサーがなにを考えているのか分からないまでも、問いかけが、シェリの不満に対する答えだということには気が付いていた。各々、神妙な顔つきで言葉を待つ。アーサーはくすりと笑い、すこし改まった響きで名を呼んだ。
「カオル、シェリ」
「はい」
「うい」
 ほんの僅か、まだふてくされた様子で返事をするシェリに苦笑して、アーサーは否定されることなど思っていない微笑で、一つの問いを唇に乗せた。ゆったりと、椅子に腰かけて足を組んで。
「お前ら、俺に命を預けられるか?」
「……死なないなら」
 人間臭いことを言う『香港』に、アーサーはそれはない、と頷いた。なら良いっす、と軽く受け入れた香の隣で、シェリは呆れかえった顔つきで沈黙している。なにを馬鹿なことを、という表情だった。そんなことを聞かなければ分からないのか、と情けなくも思う風に、シェリは大きく息を吸う。しかして響いた返事は『うぃ』で、アーサーは良い度胸だ、と肩を震わせて笑う。なにをするのかと好奇心に輝く瞳に、眉を寄せて考えて。
 アーサーは手首をひねるだけの動作でブリタニアエンジェルのステッキを召喚して握り、ぴこぴこと無意味に振りながら明後日の方角を向いた。香とシェリの顔つきが、返事をしたことを早くも後悔するもののそれになる。マシューは薄々分かっていたのか、横顔が諦めの境地だった。お前ら平等に失礼すぎんだろ、と思いつつ軽く唇を尖らせ、アーサーはなにも起きなければなにもしないで済むんだけどな、と言う。
「まあ人助けだ、人助け。この機会に、恩を売っとくのも悪くない」
「……そうやって変なトコで悪ぶるから、国際的一人ぼっちになったりするんスよ」
 半眼で呆れた風に言う香に向かって、アーサーは笑顔でステッキを振り下ろした。魔法的にはなんの力も込めていない状態であるので、香からはただ『ごちっ』という異常に痛そうな音が響いただけである。魔法でアレコレされた方がマシだったかも知れない、と思いつつ頭を手で押さえてしゃがみ込む香を、マシューは慰めるか窘めるか考えている表情で見下ろした。アーサーの指先が、慣れた仕草で天使のステッキを回す。
 やがて召喚した時と同じく、なんの前触れもない一動作でステッキを消し去り、アーサーは椅子から立ち上がった。視線は、窓の外に向けられている。雨が続いたせいでもやがかかってしまっているイングリッシュ・ガーデンは、それでもなお美しかった。窓を開ければ、ほのかに水と薔薇の香りが漂って来る。換気、と言いながら次々と窓を開けて部屋に風を呼びこみ、アーサーはぼんやりとした視線を空に投げかけた。
「……晴れねぇな」
 空に、ぶ厚い雲がかかっている。晴れ間は、見えそうにもなかった。



 指先を温める熱に安堵して、体が冷えてしまっていたことを知る。夏の陽気はエリザベータの体を包み込みながらも、疲れに冷え切った疲労を回復させはしないのだった。ふる、と震える指先を持て余しながら腕を持ち上げるようにして、エリザベータは温かなカフェオレで満たされたマグを口元に近づけ、ゆっくりと液体を喉に通して行く。かすかな甘みを残して、それは胃にすとん、と落ちて来た。どこかほっとする、懐かしい味。
「おいし……美味しいわ、どうもありがとう」
 ギルベルトがエリザベータの為に入れるのは紅茶ばかりで、そういえばコーヒーを飲むのは本当に久しぶりのことだった。そんなことも考えながら微笑むエリザベータに、ソファに座っていたルートヴィヒがふと笑う。口に合って良かった、と思っているに違いなかった。液体の熱さを思い出したかのようにふぅ、と息を吹きかけて、エリザベータはゆっくり、ゆっくりとカフェオレを飲んで行く。体の内側から、じわじわ熱が広がった。
 それだけで、無性に泣きたくなるのはなぜなのだろう。マグを取り落としそうになる程、安堵感に満ちて力が抜けて行ってしまう。中身を減らしているのに、陶器のマグがやけに重い。力の入らない指先がそれを落としてしまう前に、ソファの背側から伸びて来た指先が、ひょいと取り上げて行ってしまった。危ない、と咎めるでもなく耳元でささやかれ、エリザベータは視線だけを動かして振り返る。海に落とされたエメラルドの瞳。
 心配と不安、安堵と優しさをごちゃごちゃにして微笑む、ロヴィーノが立っていた。
「ロヴィちゃん……」
「ヴェ。俺も、俺もー!」
 ねえねえエリザさん、俺も居るの、俺も居るの、とうきうき弾んだ笑顔で、ロヴィーノの後ろからフェリシアーノが顔を出す。兄の腰に手を回してじゃれつきながら、フェリシアーノは上機嫌な様子で、ソファに座るエリザベータの姿を見つめていた。芸術家の視線が、女性の姿を確認していく。失礼にならない程度の熱と熱心さで頭の下から足の先までを眺められ、エリザベータはこそばゆい気持ちでかすかに身じろぎをした。
 フェリシアーノは一言、ごめんね、とだけ告げて非礼を詫び、ロヴィーノから離れて女性の正面へと回る。ソファとテーブルの狭い隙間に体を滑り込ませるようにしてしゃがみ、フェリシアーノはエリザベータの手をとって、そこに静かに口付けた。ちゅ、と軽いリップ音を響かせて楽しげに笑い、フェリシアーノはなんだか泣きそうな表情で笑った。
「怪我が、なくて……本当に、本当によかったよ」
「おかえりなさい、エリザベータ」
 ふわ、とエリザベータの肩を包み込むように、ストールがかけられる。それを探しに行っていたのだろう。視線を向ければすこしくたびれた様子のローデリヒが立っていて、驚いた様子のエリザベータに笑いかけてくる。体を冷やしてはいけませんよ、と囁いて来るローデリヒの言葉は優しく、エリザベータは唇を噛み、俯きながらも頷いた。ただいま、と言って良いのかが分からない。唇がぎこちなく息を吸い込み、吐き出していく。
 だってギルベルトが居ないのだ。この家はルートヴィヒと、そしてギルベルトのものなのに。主の片割れは欠けたままで、今もあの壁の向こう側に居る。あの草原から、屋敷まで戻ることが出来たのだろうか。エリザベータは手を握り締め、そこにある鎖の感触に歯を食いしばった。別れの、その瞬間に押し付けられた鉄十字。同じものがルートヴィヒの首を飾り、そしてフェリシアーノの宝石箱の中に眠っているのを知っていた。
 世界にたった一つしか存在しないものでは、ないのだ。それでも裏側に刻まれた黒鷲のシルエットは、確かにギルベルトの所有物であったことを示していて。人の目から隠されるような飾りは、その鉄十字にしか刻まれていないのだった。どんな想いを込めて、ギルベルトがそれを手渡したのかは分からない。ただ単に、あの場に集った国民の希望を絶やさぬ為にと、エリザベータのてのひらに託されただけなのかも知れない。
 簡単に、人の手に渡してしまえるものなのかも知れない。それでも、その鉄十字をギルベルトが大切にしていたのを、エリザベータは知っていた。毎日、当たり前のように身につけて、時々は柔らかな布で磨いていた。汚れが消えたのを満足げに見やり、目を細めて嬉しげに唇を押し当てる。『国』が国民を愛するように、自然な敬愛で鉄十字を見つめていたことを知っていた。エリザベータは、腕を顔の高さまで持ち上げた。
 そうすると手首に巻かれた鎖が滑り、目の高さで鉄十字が揺れる。目を細めてそれを見つめ、エリザベータはごく自然な気持ちで鉄十字に口付けた。愛情ではなく、祈りに似ていた。無事であるように。温かい場所に居るように。エリザベータが歓迎の意思に包まれて安らいでいるように、ギルベルトも穏やかな気持ちで時を過ごして居ればいい。ソビエトに居る『国』たちが、雪のように冷たいと、もうエリザベータは思わない。
 それでも信じるように目を伏せれば、感嘆に似た吐息がルートヴィヒからこぼれ落ちた。
「それは……兄さんの鉄十字、だな?」
「ええ、渡されたんだけど。やっぱりこれって、大切なものなのよね?」
 私、アイツがコレ外してるトコなんて滅多に見たことないし。溜息混じりに問いかけられ、ルートヴィヒは慎重に記憶を辿りながらも頷いた。ギルベルトは確かに、鉄十字をいつも身に付けていた。いついかなる時であっても、という訳でもないが、本当に特別な事情がない限りは外さないのだった。ギルベルトがそれを肌から外したのは、ルートヴィヒが知る限りでたった二回。ドイツ帝国が成立した日と、東を奪った日だけだ。
 その日だけ外していた意味を、知る者はギルベルトだけだった。
「大切かどうかは知らないが、兄さんがそれを外すのは異常事態だ」
「……なんで、それを私に」
 刻み込まれた黒鷲は、プロイセンを象徴するものだった。指先から広がる急激な不安感を、温かな熱が食い止める。手に目を落とせば、触れていたのはフェリシアーノだった。フェリシアーノはエリザベータの目を覗きこむようにして笑い、だーいじょうぶ、と歌うように言葉を告げる。
「怖がらないで、エリザさん。ギルなら、大丈夫。……が、守ってくれるよ」
「え?」
 言葉を、うまく聞き取れず。目を瞬かせて問い返したエリザベータに、フェリシアーノはふふふ、と笑う。幸福感を光に代えて、花を咲かせるような笑みだった。苦い笑みで視線を向けてくるロヴィーノにそんな顔しないでー、と笑い、フェリシアーノはもう一度、今度はハッキリと告げる。
「神聖ローマが、ギルを守ってくれるよ。だから、ね。大丈夫」
「……え?」
「あー、ごめん。ごめんな。コイツ、こないだからずーっとそう言ってんだよ。……ほら、こっち来い。馬鹿弟!」
 お前が妄想するのは止めないが、それを辺りにまき散らすなっ、と叱りながら、ロヴィーノはフェリシアーノから弟を引きはがす。口では悪く言いながらも、その手つきは案外優しい。やーんっ、兄ちゃんヤだばかぁーっ、と大騒ぎされるのをでこピン一撃で黙らせて、ロヴィーノは目を見開いて沈黙する者たちに、順繰りに視線を巡らせた。ルートヴィヒも、エリザベータも、ローデリヒも、沈黙を持って説明の言葉を待っている。
 それは亡国だからだ。プロイセンが歴史と地図より消えるよりもっと古く、もっと早くに居なくなってしまった『国』であり、国だからだ。『ドイツ』は、その存在を知らない。ただプロイセンの口から繰り返し語り聞かされていたから、その存在がどれ程であるかを知っていた。兄上、と柔らかな声でギルベルトは『神聖ローマ』を呼ぶ。もう居ないことを知っている響きで。それでも愛しく想い、慕う気持ちを失わずに持って、呼ぶのだ。
 しかしフェリシアーノの声は、それとは異なっていた。フェリシアーノはその名を、今そこに在る者、として告げたのだ。狂気に歪んだ奇妙な響きではなく、妄想にひずんだおかしな声ではなく。純粋に恋慕い、愛おしく信頼しているのだと、そう告げるように名を呼んだ。神聖ローマ。失われてしまった『国』の名を。こく、と誰かが喉を鳴らす音が響く。信じられない気持ちで軽く頭を振り、エリザベータは唇を開き、息を吸い込んだ。
「フェリちゃん……それ、どういう」
「俺にも分かんない。だけどね、そう思うんだ。俺たちはそれによりかかって、甘えちゃいけないと思うけど、でも」
 最後の最後。努力では手の届かない奇跡が必要になった時には、必ず。
「神聖ローマが助けてくれる。俺は、なんでかそう思うんだ」
「奇跡にすがらず努力しようぜってことだ。落ち込む前にな」
 無理に、そう言って会話と追及を遮断させ、ロヴィーノは呆れた風にフェリシアーノの背をキッチンに向かって押した。ほら、なんか食べものでも作って来い。ぐいぐいと弟の背を押しながら、二人はバイルシュミット家のキッチンへ消えていく。俺たちが呼ぶまで入ってくるなよ、とロヴィーノは最後に言い放ったので、この家のキッチンは現在イタリア領らしい。家主は呆れと疲れが半々になった態度で、深すぎる溜息をついた。
「分からん。アイツらの言動は……俺には理解できん」
「安心なさい、ルートヴィヒ。あの兄弟を百パーセント理解できる『国』など存在しません」
 というか半分くらい理解した所で、脳がそれ以上を拒否します、とさらりと言い放ち、ローデリヒはすっかり冷めてしまったカフェオレマグを持ち上げた。一応、人数分がテーブルに置かれていたのだが、口を付けられていたのはエリザベータと、ルートヴィヒの分のみだった。フェリシアーノとロヴィーノの分は並々と注がれたまま、角砂糖も置き去りにされており、マグカップの主に存在を思い出してもらえる日は遠そうだった。
 冷たくなってしまった液体を美味しそうなそぶりも見せず眉間にしわを寄せて飲み、ローデリヒはふぅ、と肩から力を抜き去った。キッチンからは騒がしい物音と二人分の声が響いて、やがて言葉は歌声に代わる。心からの祝福を家の中に呼び込むような二つの歌声は、ぴたりと重なって七色に響く。出てくるのがお菓子にしても軽食にしても、見ただけでとびきりの笑顔になれるようなものであることは、もう間違いがなかった。
 コトン、と音を立て、ローデリヒが空のマグカップを机に戻す。さて、と呟きを響かせる音楽家の瞳は、すでに不安の色を消し去っていた。宿るのは強い意思。口元に笑みを浮かべ、ローデリヒは宣戦を布告するかのように言う。
「あとはギルベルトだけですよ、ルートヴィヒ?」
 取り戻すのでしょう、とローデリヒの微笑みは問いかけていた。もちろんだ、と頷き、ルートヴィヒはエリザベータに手を伸ばす。ようやく温まってきた、それでもひんやりと冷たい指先を温めるように握り、ルートヴィヒは厳かに告げる。
「その鉄十字は、今は貴女のものだ。持っていてくれ」
「でも……!」
 エリザベータは、それをルートヴィヒに預けるつもりだったのだろう。同様に言葉が揺れ、指先が鉄十字を強く握り締めた。押し付けられた時と変わらず、鉄十字は冷たい。体温を宿して温かくなることなど、ないようだった。エリザベータは無意識に指で表面を擦り、鉄十字を温めようとする。ルートヴィヒは、それを見つめていた。
「そのまま持っているにしろ、叩き返すにしろ、貴女が持っていた方が都合がいいだろう? ……たくさん、怒ってやるといい。心配かけて、勝手ばかりをして、なにをしているんだ、と」
 その為にも、それは手元に置いておいた方がいいだろう、と。説得するようなルートヴィヒの言葉に、エリザベータは迷いながらも頷いた。ルートヴィヒは気が抜けた風にふと笑い、懐かしいものを語る眼差しになる。
「兄さんは、怒られるのが好きじゃない」
「……そうね」
「特に俺と、貴女に怒られるのは大嫌いだった筈だ」
 それとは別次元で、イタリア兄弟に怒られるのも、簡単には立ち直れないくらいの精神的ダメージをくらうらしいのだが。すっかり鼻歌を響かせながらキッチンを占領している兄弟は、ギルベルトに再会すれば、まず泣くだろう。嬉しくて、嬉しくて嬉しくてその感情を処理しきれなくて、あの兄弟は声をあげて泣く。それがなんだか羨ましいように感じて、ルートヴィヒは苦笑した。ざわざわと、胸が騒ぐ。それが、不安の予感だと。
 知っていても、深くは考えたくなかった。兄は、必ず戻ってくる。信じていれば叶う筈だ。幼子のようにルートヴィヒは思い、鉄十字を見つめながら息を吸い込む。兄さん、と呼びかけるように唇が動く。返る声がないことを知っていたから、まだ、声には出さなかった。

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