それまで八人揃っていた朝食の席が、六人になると人数は居るのにもの寂しいから不思議だった。一人は寝込んでいることも多かったので基本的には七人であったのだが、それでも八人が揃って取る朝食の席は賑やかだった。エリザベータが戻ることは、もうないだろう。ハンガリーは急速に安定しており、ソビエトの影響は完全に脱していた。残るはギルベルトだが、草原から戻って以来、男の体調は常に不安定だった。
一時期のような目を覚まさない昏睡状態ではないものの、日の半分以上は眠って過ごし、起きていても体調が悪そうにぐったりしている。時々は安定を取り戻すのか、馬鹿のように笑って『俺様復活だぜー!』と騒いで咳き込んで、ナターリヤに刺し殺すような呆れの目を向けられるものの、それも長くは続かず、また数日でベッドの中に逆戻りしてしまうのだった。国民の大規模な亡命が、『国』から体調の安定を奪っていた。
今日も人数の少ないであろう食卓を見まわし、イヴァンは溜息をつく。昨夜から体調の良くないギルベルトの元に一人が交代で看病についている為、食卓に揃う数は五人なのだった。もちろん『国』である以上、どんなに体調が悪くとも死ぬことはない。たとえ昏睡していても、それは昏睡しているだけで、人のような死には絶対繋がらないのだった。『国』の命は、定めの摂理を超えて強制的に繋げられる。国が滅ばない限りは。
国家としてのドイツ民主共和国は経済的に低迷しているものの、崩壊しているとする程ではない。ソビエトの中では豊かな方だった。それがギルベルトの体調にフィードバックされないのは、民衆の国を愛す心が逆に邪魔をしてしまっているからだった。彼らは国を愛している。ドイツを愛し、その心は壁の向こうに向けられているのだった。社会主義から民主主義へ。壁に閉ざされた東から、鳥と風だけが渡って行ける西へ。
「……そんなに皆、僕のことキライ?」
考えていたらとても残念で悲しい気持ちになってきたので、イヴァンはへしょりと机に身を伏せて呟いた。大男がしょげかえっている姿は威圧感よりも可愛らしさが大きいのだが、真正面に座っていたライヴィスは怯えたように身を震わせ、傍らのエドヴァルドの腕を掴む。はいはい、怯えない震えない、と溜息をつきながら頭を撫でて、エドヴァルドは眼鏡のつるを指先で押し上げた。朝食の配膳が終わるまで、まだ時間がある。
キッチンではナターリヤが奮闘する音が響いているし、手伝いに行ったライナの悲鳴交じりの応援も途切れない。大丈夫、過去の経験から考えても十分に食べられるものはちゃんと出てくる、と己に言い聞かせ、エドヴァルドはイヴァンの名を唇に乗せた。
「何度も言わせないでください。別に僕たちは、あなたのことが嫌いなんじゃないですから」
「よく言うよ。エストニアだって、国では独立したいって動きが高まってるくせに。ラトビアも。そうでしょ?」
「それと、個人の好き嫌いをごっちゃにして考えないでください。それに、支配されたら独立したい、と願いを抱くのは人間としてある意味正しい反応ですよ。押さえ付けられて、反発しないものはこの世にありません。重力だって、なんだって」
トン、と指先で机の上を叩き、『エストニア』は理知的な微笑みで言い放った。
「それとこれと、国民と願いと僕の感情は、また全てバラバラのものです。国民が独立を望めば、『国』として僕はそれに応えますよ。国民がロシアを嫌えば、それは僕も好きで居続けられるものではありません。でも、国民が『ロシア』という『国』を嫌いだとしても」
音に反応して視線をあげ、恨めしげな目を向けてくるイヴァンに、エドヴァルドはにっこりと笑った。
「僕はエドヴァルド・フォンヴォックとして、あなたを忌み嫌っている訳ではありません。君だってそうでしょ? ライヴィス・ガランテ」
「……体が大きいのが、個人的にちょっと怖いだけです」
でもそれは、イヴァンさん個人に向ける怖さとかそういうんじゃないです、と。言葉をふられたライヴィスはびくぶる震えながらもおどおどと視線を向けて、ちいさな声で呟いていく。それはまあ、『国』として『ロシア』さんが怖いと思うこともたくさんありますし、嫌なことだってありますけど。
「個人的に嫌いじゃないですから、そんな悲しいこと言わないでください……僕たちは『国』ですけど、人みたいに、家族みたいにずーっと一緒に暮らしてれば、気持ちだって変わりますし、慣れることも、ありますよ。慣れないことも、多いですけど。……イヴァンさんのこと、好きで」
「だが兄さんと結婚するのは私だ」
「ひっ!」
がっと音を立てて背後から肩を掴まれ、ライヴィスの体が恐怖に跳ねた。そのままくらりと意識を失いかけるちいさな体を、エドヴァルドはライヴィスの名を叫びながら抱き寄せてやった。もちろん、ナターリヤから引きはがす為である。怖いんですよおおぉ、と半泣きになりながらしがみついて来る弟分の背を撫でながら、エドヴァルドは心の底から同意の頷きをしてやった。ナターリヤは、怖い。なにが怖いって本能的にとても怖い。
怖い理由など、ナターリヤだから、で十分なくらいに怖いのだ。がくがく震えるバルトの二国を眺めやり、ナターリヤはすっと立ち直してイヴァンを見た。イヴァンもまた青ざめた表情で視線をそらし気味にしていたが、熱視線が突き刺さるのに耐えきれなかったのだろう。そーっと、そーっと視線を戻し、イヴァンはぎこちない表情で笑った。
「な、なにかな? ナターリヤ」
「兄さん。朝食が出来ました。運んでも?」
「う、うん。よろしく」
愛情を込めて作りました、と告げる頬はうっすらと赤く染まっていて、小走りにキッチンに戻っていく後ろ姿はなんだかとても可愛らしい。しかし、ナターリヤである。ナターリヤなのである。結婚結婚結婚、と幾分かふわふわした声で呪詛のように響いて来る声を遠ざけたくて、イヴァンはそーっと耳を両手で塞いだ。本当、あれさえばければとっても良いコで可愛い筈なのに、いつからあんな風になってしまったのだっけ。
思い出そうと遠い目をするイヴァンに、恐怖からやや立ち直ったバルトの二ヶ国が、控えめな応援の眼差しを向けて来た。応援するなら助けてよ、と思いつつ、心配されているのはそういえば嫌われてはいない証ではないか、ということにイヴァンは気がついて。心にほっこりとしたものを抱き、えへへ、と嬉しく微笑んだ。
自分の体重すら支えきれず、倒れかける体を壁に押し付けることでなんとか堪える。がたんっ、と派手な音が立つが、ギルベルトは救いに差し出された手を眼差し一つで拒絶した。ぜい、と嫌な音を立てる呼吸の合間の掠れた声は、ギルベルトからしても説得力に欠けていたが、大丈夫、という囁きをトーリスは受け入れてくれた。そっと視線をよこして伺って来るのを、ギルベルトは苦笑しながら感じて、大きく息を吸い込む。
「大丈夫だ。それより」
部屋の鍵はかけたか、と問いかけてくるギルベルトの顔色は、発熱の為かやけに赤かった。繰り返される呼吸は浅く、早く、眩暈もしているのか視線は揺れていて安定しない。それなのに、瞳の色だけがやけに鮮やかだった。熱を持っているからこその高揚感もあるのだろう。しかし体調不良故だと、トーリスは思わない。向けられる視線は不安定だが、その瞳の奥に恐ろしいほどの炎が燃えていた。決意や、覚悟の炎だった。
なにを決めてしまったのか、トーリスにはいまいちよく分からない。朝から昼の看病当番がトーリスだと知るやいなや、ギルベルトはちょうど良いと言って人払いと、部屋の鍵をかけてしまうことを望んだからだ。分からないまでも何故か逆らえず、トーリスは言われるままに人を遠ざけ、部屋の鍵を閉めた。その間にギルベルトは起き上がり、クロゼットを探って新品のシーツを一枚取ってくると、それを頭の上からかぶってしまう。
器用に端々が結ばれて服のようになったシーツは、白い色のせいなのか、粗末なローブに見えた。人の気配が近づいてくる様子もなく、不意の侵入者もないことも確認して、ギルベルトは顔を隠すように布を下げ、こくりと頷いて壁から手を離す。よろけながら立ち上がって、ギルベルトが向かったのは部屋の隅に置いてある大きな姿見の前だった。ほとんど倒れこむように膝を折り、ギルベルトはやや不機嫌に青年を呼ぶ。
「トーリス。……こっち来い」
「……なんなんですか? ギルベルトさん」
言っておきますけど、俺はあなたを安静にさせておくようにと、イヴァンさんからきつく言いつけられているんですけれど。ため息交じりに告げながら、トーリスはゆっくりとギルベルトと、大きな姿見の前まで足を進めていく。トーリスの全身が映し出せるほど大きい鏡は、本来なら女性の部屋に置かれているもので、ギルベルトの部屋にはない筈だった。こんなもの、いつの間に移動させてきたのだろう、とトーリスは呆れてしまう。
恐らくは起きて元気で居られる僅かな時間を使ってのことだろうが、トーリスには全くよく分からなかった。ナルシストでもあるまいに、こんな大きな姿見を覗かせてなにをするつもりなのだろうか。説明を求める冷やかな視線に、ギルベルトはしゃがみこんだままでくぅっと口元をつり上げる。自慢げな、満足げな笑い方だった。とりあえずそこに居てくれることを、喜ぶ仕草だった。訳が分からない、とトーリスは僅かに眉を寄せる。
「ギルベルトさん。なにを」
「お礼」
お前に、俺からお礼、と。どこかたどたどしい発音で、ギルベルトは笑いながら言った。それにトーリスが戸惑いを覚えたのは、言葉の内容ではなく、ギルベルトの雰囲気が普段と異なっていたからだ。普段の、良い意味で男らしい活発さや荒々しさはなりを潜め、表面に浮かんでいるのは磨き上げられた玉のように輝かしい、穏やかな、なにか別のものだった。静謐さによって閉ざされた、神聖な祭壇があるような気持ち。
それを不意に覚えて、トーリスは思わずギルベルトを凝視した。口の中がカラカラに乾いていた。鏡の前に立っているトーリスからでは、しゃがみ込んで顔の半ばまでを布で隠しているギルベルトの、浮かべている表情が分からない。ただなんとなく、笑っていることだけを察した。
「お礼、だなんて……俺は、貴方になにも」
「見逃してくれただろ? あの時。お前の国で」
強引に腕を引いて、駅まで連れて列車に乗せてしまうことも出来たのに。トーリスはそれをせず、一言、二言を呟いただけで、ハンガリーへ戻るエリザベータと、それを送るギルベルトの旅行めいた道行きを、咎めもせずに見逃した。それが嬉しかったから、そのお礼だというギルベルトに、トーリスは眉を寄せて首を振る。あれは、たまたま場所がリトアニアだったからトーリスが出向いただけで、他の『国』でも同じことをした。
あの時の二人の姿を見た『国』なら、誰でもきっと、なにも言えなかった。邪魔することも、引き裂くことも。忠告めいた言葉も告げることはできず、誰であってもそっと背を押し、それだけで見送っただろう。トーリスだからそうしたのではなく、他のどの『国』でも同じだった。だからお礼など気にしなくて良いし、受け取れない。首を振るトーリスに、ギルベルトは困ったような微笑みを浮かべてそれでも、と言った。頑なな響きだった。
それでも、嬉しかったから。あと、今でなければきっと出来ないから、という言葉にトーリスは不安を覚えたのだが、それを問うより早く、ギルベルトは己の指先を鏡の表面に押し当てた。
「トーリス。鏡に……両手、ついて」
「……はい?」
「いいから、ほら」
立ち上がることが辛いのだろう。ギルベルトは上半身だけを持ち上げてトーリスの腰を姿見に向かって突き飛ばし、強制的に鏡の表面に両手を触れさせる。なにするんですか、という抗議の声を、トーリスは喉の奥で殺した。指先が触れた箇所から、波紋が奥に広がっていく。水面に小石を投げ込んだように、鏡の奥で世界が揺れていた。やがて鏡の向こうから、硝子越しに少年の手が重ねられる。トーリスの手ではなかった。
そこにあるのは、ただの鏡だ。映っているのはトーリス自身でなければいけない筈なのに、ゆらゆらと揺れる硝子の向こう側、立っていたのは自分ではなく。悪戯っぽく笑って、硝子越しに視線を合わせてくるその存在は。
「ポー、ランド……?」
小麦畑の向こう側に広がる、金色の夢の化身。姿を消したまま戻らない『国』、『ポーランド』がそこに居た。『ポーランド』は鏡につかれたトーリスの手に、重ねるように手を置きながら、ほんの僅か不満げに唇を尖らせる。
『えー、なんで疑問形なんー? ちゃんと俺は俺だしー! つーかリト、お前なにしとんの?』
「えええ……いや、こっちの台詞なんだけど。フェリクス、君、今どこでなにしてるの……」
『つーかなに、夢? 夢なん? いえーい! 久しぶりー!』
ばんばん、遠慮なく向こう側から硝子を手で叩いて来るフェリクスは、こちら側がどんな状況であるのか分からないらしい。戸惑いながら視線を足元にうずくまっているギルベルトに落とすと、男は唇に指を押し当て、しぃ、とばかりに沈黙を要求した。どんな魔法を使ったのだか、この現象がギルベルトが故意に起こしているものであり、それをどうやらフェリクスには知られたくないことが分かる。その理由にまで、検討がついた。
馬鹿だなぁ、とトーリスは脱力気味に思う。本当に、ギルベルトは馬鹿だった。こんなことをしておいて、フェリクスが、そしてトーリスが怒る筈もないのに。アウシュヴィッツのホロコーストが、その罪悪感が、ギルベルトに行動を起こさせたのだ。視線を下に向けても、フェリクスにトーリスと同じ景色は見られないらしい。足元になんかあるん、と不思議そうに問いかけてくるのに、トーリスはギルベルトを無視し、笑顔で言い放った。
「うん。ギルベルトさんがね、しゃがみ込んでる」
『……なにしとんの? アイツ』
「俺とフェリクスが会えるように、繋いでくれたんだよ。どういう風にしたかは知らないけど、ね」
気遣い無駄にしやがったーっ、とばかり頭を抱えてうずくまっているギルベルトを、トーリスは笑いを堪えながら見下ろした。あまり、侮って欲しくはないものだ。かつて半身であったトーリスの片割れは、国の行いと『国』に向ける感情を、一緒にして怒りに染まることはない。もちろん、トーリスがそうであるように複雑なものも、怒りも憎しみも当然のように持ち、感じているのだろうけれど。感謝を伝えられない心では、ないのだ。
トーリスの予想通り、フェリクスは苦虫を十匹まとめて噛み潰したような壮絶な表情で沈黙した後、頭を抱えてしゃがみこみ、うー、と唸って動かなくなった。しばらく眺めていると、フェリクスは口元を引きつらせながらも立ち上がり、トーリスをまっすぐに見つめながら足元を指差す。
『なあ、そこに居るん? 俺からは見えんけど』
「うん。居るよ。声も聞こえてるんじゃないかな」
動けないのか、動かないのかは分からないが、ギルベルトはもそもそと身動きするばかりで、二つの『国』から逃げようとはしていなかった。それは裁きを待っているようでもあり、全てを受け入れる態度にも見えた。面白くない気持ちで睨んでいると、フェリクスは脱力気味に溜息をつく。
『ふぅん……あんな、ギルベルト。俺はお前らが俺の国でしたことを絶対許さんし、正直顔見たらポーランドルール発動でお前ん家ワルシャワにするくらい腹立ってるってゆーか、マジお前んちの国土ピンクに塗りたくりたいってゆーか、交通機関全部ポニーにしたら良いってゆーか、良いと思わん? リト。ポニーマジ可愛いしー!』
「良くない。あとね、ポー。話題ずれてるよ?」
『でもトーリスに会わせてくれたことは、嬉しいんよ。だから、悔しいけど言ってやるしー! ありがとだしー!』
でもそれ以外でお前に感謝することなんて一個もないしっ、と胸を張ってまで言い切ったフェリクスに、その通りだよねえ、と和やかな笑みでトーリスは同意した。その一つの感謝も出来ないなら、トーリスはフェリクスと長く友人などやっていないのである。恥ずかしいのか、複雑なのか、なにも言えない様子でシーツをかぶり直すギルベルトを見やり、トーリスはわくわくしながら反応を待つフェリクスに、にっこりと笑いかけた。
「うん。ちゃんと伝わったよ。照れてるみたい」
『気持ち悪いしー! なんで照れたりするん? 意味分からんしー!』
「ああもう、フェリクスは本当、心配してたことを泣きながら後悔したくなるくらい元気なんだから……元気なんだよね?」
そういえば、先程の質問になにも答えてもらっていないことに気がついて、トーリスはゆるく首を傾げた。初めに視線を合わせた時、フェリクスはこれを夢かと言った。つまり、どこかで眠っていたということなのだろうか。眉を寄せて考え込むトーリスに、フェリクスは気軽に笑う。
『俺は、俺の国に居るに決まってるし。国がそこにあるのに、俺がどっか行く訳ないじゃん?』
「でも! でも、じゃあ、何処に居るの? ポーランドの国民は、だって誰も『国』を見てないって」
そう、言ってるのに。引っかかりながらも喉から出て行った言葉に、フェリクスはほろ苦く笑った。光に透ける金色の髪が、サラサラと揺れ動く。フェリクスは綺麗だった。不思議なくらい純粋に、トーリスはそう思った。
『……もうちょっと、なんよ』
誰も見ていないその理由を、フェリクスは自分でちゃんと理解しているようだった。それでいて、その理由はひどく感覚的なもので、言葉に直して伝えにくいものなのだろう。何度も心を見つめて言葉をすくい上げようとしては形にならず、諦めて、また口を開いては閉ざして、フェリクスはやがて、微笑みを浮かべてトーリスの目を見つめた。鏡越し、硝子越し、二人の瞳の距離は近く、ごく深くで視線が絡み合い、奥まで覗かれる。
それでいて吐息も、熱も、存在も、なにひとつ感じ取ることが出来なかった。鏡越しに、手を繋ぐことさえ出来ない。伸ばした指先が冷たい硝子に阻まれて、フェリクスの服を掴むことさえ出来なかった。フェリクス、と血を吐くような響きで名を呼ぶトーリスに、青年はぷっと吹き出して笑う。
『変な顔ー!』
「ちょ……もー、ポーはすぐそうやって」
『心配することなんてなんもないし。それより俺、パルシュキ食べたいんよ。パルシュキパルシュキー!』
全然食べてないから、もうホント食べたくて仕方ないんよー、と唇を尖らせるフェリクスに、トーリスはうん、と頷いて笑った。
「分かった。じゃあ、いーっぱいパルシュキ用意して、フェリクスのこと待ってるからね」
『マジでっ? 約束だしー。リト、約束、約束っ!』
ほら、と手を出して小指を絡ませようとして、フェリクスも硝子の嫌な存在感に気が付いたらしい。ちょっとコイツマジ邪魔だしっ、と手でばんばん叩いて、フェリクスは頬をぷーっと膨らませる。
『ま、いいや。もうちょっとで戻るから、パルシュキいーっぱい用意しといてな!』
「うん。約束、ね」
もう食べられないで、嫌になるくらいたくさん用意しておいてあげる、と微笑んで。トーリスは、視線をギルベルトに向けた。それが、もう良い、という合図だと分かったのだろう。ギルベルトが鏡に触れさせていた手を離すと、一瞬で鏡にトーリスの姿が戻ってくる。あとは眺めても、表面を手でなぞってみても、どこにでもある鏡でしかなかった。ふー、と長く息を吐いてしゃがみこみ、トーリスはギルベルトと視線の高さを同じにした。
なんと、言葉を紡げばいいのか分からない。それでも本当に、伝えるべきことは一つだった。トーリスは、目元を押さえて俯いているギルベルトの名を、心からの感謝を込めて呼ぶ。
「ギルベルト」
「……なんだよ」
「ありがとう。フェリクスに会えて、嬉しかった」
ベッドに戻って寝ますか、とトーリスは問いかける。ギルベルトは疲れ果てた様子で、こくりと素直に頷いた。分かりました、と囁いて、トーリスはギルベルトに向かって手を差し出す。掴まってくださいとも、立ち上がってくださいとも言わず、てのひらを差し出す。ギルベルトはトーリスの手をじっと見つめ、やがて怖々と手を差し出し、握り締める。あったかいんだな、と呟きが落とされた。初めて知ったような、嬉しそうな声だった。
ぐい、と体を引っ張りあげて立ち上がらせながら、トーリスはええ、と微笑んで頷く。あったかいんです。くすくすと笑いさざめいたトーリスの声に、ギルベルトはごく穏やかに目を細めた。
街を行く人々の装いは、もうすっかり冬のものだった。マフラーを解きながらカレンダーに目をやり、フランシスはなるほどなぁ、と苦笑した。自分でマフラーを巻いて出かけておいてなんだが、カレンダーはもう十一月を示している。夏も通り過ぎ、秋も終わって確かに冬だ。寒かった、と思いながら居間に入って行くと、とてとてと可愛らしい足音が奥から響いて来る。思わずしゃがんで出迎えると、子猫はにぁ、と甘い声で鳴いた。
おかえりなさい、寂しかったです、と言いたげにぱたりと揺れた尻尾が可愛らしくて、フランシスはエアコンのスイッチを押しながら、片手で子猫を抱き上げた。つい先日拾ったばかりの子猫は、生まれたての柔らかな体をフランシスに擦りつけ、精一杯の愛情表現をしてくる。ああもう、本当に可愛い。溜息をつきながら抱きしめると、子猫はにぁあ、とまた鳴いてフランシスの頬を舐めてくる。可愛い。ありえないくらい可愛い。
「……もうちょっと大きくなったら、一緒に仕事行こうなー」
子猫は、産まれて一月くらいだろう、と獣医師に言われていた。一月経って捨てられてしまったのか、それとも産まれて一月を生き延びたのか分からないが、子猫はある日、フランシスの家の前で寝転んでいたのである。二ヶ月前に、ちょうど同じようにして拾った犬を喪ったばかりのフランシスは、だから気まぐれに猫に問いかけたのだ。お前、ウチのコになりに来たの、と。子猫はぱっちりとした金の瞳で、にぁ、と甘く鳴いた。
フランシスは、ずっとそうして動物を飼っている。拾うことが大半で、時々は買ったり貰ったりもしていたが、ペットの居ない期間は長く生きて来た時間の、ほんのわずかだった。昔からずっとそうしていた訳ではない。フランシスが初めてペットを飼ったのは、救国の聖女を失ってしばらくした頃だった。窓から羽を傷つけた鳥が飛び込んできて、手当をしたら懐いてしまったので食べるのもしのびなく、飼い始めたのが始まりだ。
それからと言うものの、フランシスは動物吸引体質にでもなったように、生き物に巡り合うようになった。時には観賞魚だったり、リスやイタチなど小動物であったこともあったが、たいがいは鳥や犬で、中でも猫が一番多かった。そのたびにフランシスは、ある程度大きくなるとペットを職場に連れて行くので、すでに『国』や、フランス上層部の人間は慣れている。今度もまた猫を連れて行ったとて、誰も咎めやしないだろう。
またですか、と多少呆れられるくらいだ。その中でもとびきり呆れ果てた視線を送って溜息をつき、一度は言葉に出してまで『お前、馬鹿だな?』と言って来た隣国のことをふと思い出し、フランシスは眉を寄せる。最近、アーサーはあまり騒ぎを起こしていない。パブったりしないし、天使にもならない。眉毛が静かなのはとても素敵で素晴らしく良いことなのだが、それはそれ、なにを企んでいるのか不安になってくるのだった。
電話でもして、『で、坊ちゃん今度はなにをお企み?』と聞くべきなのだろうか。返ってくるのは恐らく、『とりあえずドーバーに沈みそして死ね』という、可愛くもなんともない返事なのだろうけれど。煌めかんばかりの笑顔と、親指を下に振り抜かれる仕草まで克明に想像して、フランシスは子猫をぎゅぅと抱きしめる。アーサーには、愛が足りない。正確にいえばマシュー以外に向ける愛が、微塵も感じ取れないのは問題だった。
俺の可愛い娘も息子も、ぜぇんぶアイツがかっさらってくんだからさぁ、とフランシスは溜息をついた。カナダを見つけたのも、セーシェルを見つけたのもフランスが先なのに、二人とも、今や立派な英領だ。その忠誠心も敬愛も、マシューはともかくシェリはとてもひねくれてはいるが本物で、眉毛眉毛と呼ばわりながらも慕っているのだ、ということをフランシスは知っていた。可愛らしい笑みで、シェリが教えてくれたからである。
あの眉毛野郎にはナイショっすよ、とこっそり耳元で囁かれた声だけは可愛かったのに、内容はとんでもなく可愛くなくてフランシスは泣いた。今も、思い出すだけでちょっと泣きそうになる。あの隣人はとにかくフランシス苛めにだけは徹底的に手を抜かない性格をしていて、『国』としても個人の付き合いにしてもそうなのだった。俺はなんでアイツと友人付き合いなんかしちゃってるんだろう、と遠い目でしばし考え、溜息をつく。
まさしく腐れ縁、だ。それ以外に理由が思いつかなかった。もう一度深々と溜息をついてから子猫を床に下ろし、フランシスはテレビのスイッチを入れる。チャンネルは国営放送に合わせておいたので、すぐにニュースが流れ始めた。それを見るでもなく立ち上がり、フランシスはキッチンに向かって足を進める。今日の献立を考えながら冷蔵庫を開けようとする手を止めたのは、尋常ではない様子で鳴く子猫の声がしたからだ。
子猫が威嚇するように叫んでいたのは、テレビの画面に対してだった。なんだ、とほっと肩の力を抜いたフランシスは、しかしすぐに流れるニュースがなにかに気が付き、ぎくりと体を硬直させる。人々が暴動を起こし、口々になにかを訴えていた。大規模デモ、とキャスターが告げる。ドイツ民主共和国の、国家元首の失脚を求めるデモだった。フランシスはとっさに視線を走らせ、カレンダーの日付を確認する。十一月四日。
先月も確か、同じように大きなデモが起こっていた筈だ、とフランシスは思う。八月に千名もの亡命者を出した国の中、夏を超えて冬に差し掛かっても不満は高まるばかりで、とぐろを巻いてうねり、行き場をなくしてしまっている。ニュース画面の中、国が国民の怒号に揺れていた。フランシスは、『国』を思う。『プロイセン』、壁の向こう側に行った、あの国を背負う者。彼は、無事でいるのだろうか。とてもそうは思えなかった。
起きていられる状態ではないだろうに、ギルベルトを動かしているものはなんなのか。それは人の言葉にすれば、執念や決意といったものになるだろう。あるいは、譲れない誇りなのかも知れなかった。高熱に、意識も朦朧としている状態で起きて来たギルベルトを、左右からトーリスとナターリヤが怒っている。要約すれば『起きるな。寝てろこの大馬鹿!』と言われるのに、ギルベルトは思い切り眉を寄せ、首を横に振る。
「……イヴァン」
「うん。なぁに?」
呆れ果てた様子のイヴァンに、ギルベルトはにぃ、と笑う。なにも諦めていない、勝気な笑みだった。
「ベルリンに、行く。……俺を一人で行かせるか、誰かについてこさせるか、二択だ」
「君って馬鹿だとホントに思う」
額に指先を押し当てて溜息をつくイヴァンに、ギルベルトはただおかしげに笑った。男の頭の上には、今日もことりが乗っている。ことりは主人の体調を案ずるように静かにしていたが、それだけで、周囲の意をくみ取って騒ぎだすことはしなかった。ことりも、分かっているのだろう。『国』が、国に呼ばれた。国としての大きな転換を前に、国民が『国』を求めている。それならば、ギルベルトはそこに行かなければならないのだ。
そこが銃弾飛び交う戦場であっても、呼吸さえままならない程の大嵐の最中であっても。壁の前まで、行かなければいけない。お前らが止めるなら、振り切って俺は一人で行く、というギルベルトに、イヴァンはもう一度溜息をついた。
「君は、もう、ほんとー……に、馬鹿。行かせるわけないでしょう」
「だが断る!」
「それを断る。姉さん、支度して。ライヴィスとエドヴァルドは戸閉まりの確認、ナターリヤは緊急で旅券の手配、トーリスはギル君の身支度を手伝ってあげて。嫌がったらぶん殴って良いから、完全防寒にしてあげてね?」
ライナは心得たように微笑んで、部屋をかけだして行き、ライヴィスとエドヴァルドは二手に分かれて飛び出して行った。ナターリヤは無表情で頷くと電話を取って駅までの車と列車の旅券の確保をはじめ、トーリスは溜息をついてギルベルトの手を引っ張った。イヴァンはのんびりと、持って行く水道管の品定めをしている。これにしようかなぁ、と素振りしているのを引っ張られながら振り返り、ギルベルトはちょっと待て、と叫んだ。
「全員で行く気かよ!」
「君を一人で行かせるなんて、そんなサービスロシアにないよ」
というか途中で野垂れ死にしそうだし。そうするとソビエトとドイツ、オーストリア、ハンガリーが全面戦争になりそうな気がするし、とのんびりした口調で怖い予想を言い放ち、イヴァンはトーリスに引きずられて行くギルベルトに、笑顔でひらりと手を振った。
「皆で行こう。ベルリンまで」
そして君の、その強い想いの果てを僕に見せてね、と。言葉にしなかった囁きに、ギルベルトは笑った。望む所だ、と言いたげだった。ナターリヤが電話を切って頷く。
「一時間半で車が来ます。列車は一等車を確保しました」
「そう。ありがとう、ナターリヤ」
ずりずり引っ張られて行くギルベルトが、廊下の端に消えた。にぎやかに言い争いしながら階段を上って行く二人の声に遠慮はなく、互いに打ち解けているようだった。いつの間にわだかまりを溶かしたんだか、と溜息をつくイヴァンの隣で、ナターリヤは面白くなさそうな顔つきをしている。気がついて、イヴァンはそっと問いかけた。
「ナターリヤ」
「はい」
「……お兄ちゃん取られて面白くない?」
ぐ、とナターリヤが言葉につまる。ほぼ冗談のつもりだったイヴァンが驚きに目を見開くと、ナターリヤは慌てた様子で呟いた。
「私の兄さんは、兄さんだけです」
「そ、そう」
だから結婚結婚、といつものように呪詛めいた呟きが響くのを警戒して、イヴァンはさっとナターリヤから離れた。じゃあ僕も支度してくるから、ナターリヤもちゃんと温かい格好しておでかけ準備するんだよ、と言い残し、イヴァンは脱兎のごとく廊下をかけていく。いつもならば狩人めいた動きで後を追うのだが、なぜかそんな気にもなれず、ナターリヤはぎゅぅ、と手を握りしめた。
「……トーリスの野郎、あとで折る」
ギルベルトに御咎めがないのは、体調不良のせいである。決してひいきや差別などではない、と頷いて、ナターリヤは部屋に戻る為歩き出した。