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 10 祈りで奏でる愛の歌

 まるで音の無い夜だった。草木も、虫さえ眠ってしまったようだった。たった今通話を終えたばかりの受話器からは、無機質な音だけが響いている。受話器を戻さなければ、と思うものの、手が震えて上手く握り締めることができない。品の無い罵倒を胸の中で響かせて、菊は深く、ゆっくりと肺にまで息を吸い込む。辺りを睨みつけるように体中に力を込めれば、廊下を照らし出す月の明るさが目についた。晴れ空だった。
 月が明るすぎて星がよく見えない、奇妙な夜だった。雲は月光に貫かれるのを嫌がったのかどこにもなく、ぽっかりとした空洞のような夜が、遥かに広がっていた。なんの遮蔽もされない光の帯が、まっすぐに下りてくる。それはただ、美しかった。上手く動かない喉を引くつかせながら、菊はぎこちなく息を吐き出して行く。胸元をかきむしるように手をやれば、幾分か呼吸が楽になるようだった。静止していた時間が、動きだす。
 頭をがんと殴られたような衝撃に、思考がまだ鈍っていた。頭をふって歯を食いしばれば、告げられたばかりの情報が鮮やかに蘇る。たった今、ドイツ民主共和国の国民に対し、国境を自由に超えることが許された。それは事実上の鎖国状態の解除であり、二つに分けられたドイツが一つに戻る先駆けに他ならない。今世紀中に取り除くことは無理だろう、と囁かれていたベルリンの壁の意味が、消えうせたことを意味していた。
 日本では深夜だったが、ドイツはまだ夕刻か、夜が迫っているくらいの時間だろう。黄昏の紅が街を染め抜き、人々の影を長く伸ばして地に描く。闇が忍び寄る時。カタカタと震える腕をなんとか動かして、菊は受話器を元に戻した。喜ばしいことである筈だった。身の内から歓喜が湧き上がってくるのは、菊と同じくその報を知った国民の感情であり、そして個人として感じる平和への祈りだろう。分断は、これできっと、終わる。
 それなのに、体の震えが止まらなかった。触れれば切れるような静寂に満ちた、ただ美しいだけの夜がおりてきている。不吉だとは思わない。けれど、その神聖さすら感じる夜闇の中で、菊はなぜイヴァンがギルベルトに会わせようとしなかったのか、それを唐突に理解していた。電話口で上司から、これでベルリンの壁は無くなるだろうと、高揚した声でそれを告げられた瞬間、背骨を貫くような恐怖と共に、理解してしまった。
 彼は『プロイセン』だった。今でもそうだろう。菊はギルベルトがルートヴィヒからドイツの『東側』をぶんどり、なんらかの事情があってイヴァンの元へ行き、それからドイツ民主共和国として独立してしまった時ですら、彼をそう思っていた。一度たりとも、『ドイツ民主共和国』だと思ったことはなかった。明治時代、憲法を学び、軍事を学び、医療を学び、戦いを学んだ師たる存在のことを、菊は一度も疑うことなく、考えることもなく。
 不思議と、盲信にも近い思いで『プロイセン』だと思っていたのだ。彼は菊に取って師匠であり、かけがえのない友であり、戦友でもあり、また憧れでもあった。ギルベルトが『プロイセン』以外の何者になるとは考えられず、それを示唆することが起きてもそれを改めないままだった。イヴァンが苦い口調で確認する筈だ。『プロイセン』の弟子なのだろう、と。菊はそれになんの疑いもなく頷き、不快感すら持って睨みつけた。
 イヴァンは告げていた。君に会えば、彼は間違いなく体調を崩す、と。なにを馬鹿な詭弁を、と思っていた過去の自分を、菊は殴りつけたい。すこし考えれば分かる筈だった。『国』として、己という存在を落ち着いて見つめれば理解できる筈だった。ギルベルトは『プロイセン』であり、そうでしかない以上は『ドイツ民主共和国』である筈がなかったのだ、と。くびきは彼を縛らず、だからこそイヴァンはギルベルトを隠していたのだ。
 ソビエトという大きな枠組みで固定している限り、ギルベルトの存在は『国』として許される。『プロイセン』のままで他国を背負っても、イヴァンがそれを承認し、本人が持ちこたえていれば形だけでも保たれるのだ。個人財産の概念を持たない、社会主義だからこその絶対的な守護。それが、たった今取り払われた。ギルベルトが持っていた国土や民は、いっせいに一つのドイツを目指して走り出すだろう。『ドイツ』を目指して。
 その危険、その恐怖に気が付いている者は、果たしてどれだけ居るのだろうか。少なくともギルベルト本人が知らない筈もなく、しかし片割れであるルートヴィヒは知らないことだろう。知っていればこんなに急激に、一つを目指す筈がない。ギルベルトはルートヴィヒの兄であり騎士であり、守護者であり、世界そのもの。存在する世界の根底を作り上げてくれた、かけがえのないたった一つの、大切で至宝で尊く失えないもの。
 菊は震える体に力を込めて立ち上がり、走り出そうとした。とりあえず政府庁舎、それから空港へ向かってドイツへ飛ばなければ。今の今までギルベルトの危機に気が付けもしなかった罪悪感と後悔、嫌悪すら抱く心は、菊に時間も立場すら忘れて走らせようとした。その腕を、唐突に誰かが掴む。一瞬で、意識が怒りに沸騰した。ここはまだ菊の家の中だ。玄関の引き戸がほんの僅か開いているのを、視界の端で確認する。
 侵入者。それはつまり敵だった。がむしゃらに腕をふりほどいて攻撃しようとする菊に、ふ、とまるで場違いな溜息がもらされる。え、と一瞬だけ意識を緩めた隙を見逃さず、侵入者はぱちん、と音を立てて菊の頬を両手で挟んだ。
「落ち着くあるよ、菊。ああ、もう、お前と来たら。心配して飛んで来てみれば、案の定ある……ったく、どーこーへー行こうとしてたあるか?」
 こんな夜間の外出、にーには許さないある、とごく真面目に告げて、菊の瞳を覗きこんでいたのは耀だった。明るすぎる月光の元で、菊と同じ漆黒の髪が、艶やかに背を流れている。白地に牡丹の絵が描かれた服はクラクラするほど鮮やかで、菊の意識を混乱させた。ここは、菊の家である。そして時間は、もう本当に遅い。耀がいる筈もなく、その理由も意味も分からなかった。混乱する菊に、耀はふふ、と楽しげに笑う。
 つい、と瞳が愛しげに細くなった。黒曜石を丹念に磨き上げたような瞳であるのに、そうすると何故か、朱金のあでやかさが耀の瞳には宿る。こつ、と額を重ねられて、優しい吐息が肌をくすぐった。ほら、落ち着いて体から力をお抜き。ぽんぽん、と背を手で叩かれて、菊はくたりと全身を脱力させた。板敷きの廊下にしゃがみこんでしまう体に付き合って、耀も脚を曲げてしゃがみこみながら微笑み、首を傾げて見つめてくる。
 なんとか普通に息をしながら、菊はゆらりと視線を彷徨わせた。
「なぜ、こんな時間に、ここに……いえ、日本に? あなたは中国に居たのでは」
「会議っつって若造に呼び出されてたあるよ。ちょうど、日本に居たある。お前は知らなかったようだけれど」
 だって日本のアイス美味しいんだっ、というくっだらねえ理由で会議場所を合衆国から日本に変更しやがったドアホな所業も、これで許してやる気がしてきたこともねえある、とぞっとするような麗しい笑みで言い放ち、耀は菊の頬を手で撫でてやった。
「ドイツのニュースを聞いて、お前が慌ててあの国へ行こうとするのではないかと……思って止めに来てみたら」
 本当に飛び出して行く寸前だったあるね、と溜息をつく耀の立ち位置は計算されたもので、即座に菊が立ち上がって走っても、また同じように腕を捕まえられるだけだろう。悔しく思いながら視線を水平にしてくれている耀を睨み、菊は静かな声で問いかける。なぜ、と心が波立った。
「なぜ止めるのです……! 私が、枢軸だからですかっ? だから、友の元に駆けつけるのを許してはくださらないのですかっ!」
「菊」
 ぱしん、と音を立てて頬が張られた。乾いて響く音ほどには痛みも感じない平手打ちだったが、なにより耀の冷たい声が恐ろしく、菊は視線を戻すことができない。目の前に居る『国』は、かつて世界から眠れる獅子と恐れられていた。獅子は爪をもがれ手足を叩き折られ、散々に蹂躙されて弱く痛めつけられたこともあったが、それでも彼は確かに獅子だった。今も、のんびりと寝そべる穏やかさの裏に、獰猛さを隠し持っている。
 喉元に食らいつく力を、耀は持っているのだった。
「誰が、そんなこと言ったか。落ち着けある。……我が止めてるのは、今から行っても間に合わないからね」
 空路を使ったとしても何時間かかると思っている、その間に全部終わってるあるよ、と呆れすら滲んだ声に、菊は浅い呼吸を繰り返してぎゅぅ、と目を閉ざしてしまった。そんなことは、すこし冷静になればすぐ分かることだった。恐怖に冷えた心は耀に指摘される前に答えを弾きだしており、反論できない強さで菊に訴えてくる。それでも、と掠れた声が喉からこぼれ落ちた。
「私は、行きたいのです……行かねば、ならないのですっ! だって彼らは!」
「仲間だから、かい? 菊」
 やあコンバンワ、と陽気に告げた不法侵入二人目を、菊は目を見開いて凝視してしまった。あなたそんな言葉知っていたんですねえ、と純粋にひどい驚きもあるにはあるが、なぜアルフレッドが居るのだろう、と思ったからだ。瞬きを忙しなく繰り返す菊に、耀は深々と溜息をつく。
「お前、我の言うコト聞いてなかったあるか? この若造と会議だったあるね」
「ヤオ。若造って言うのはやめてくれないかい? 俺にはアルフレッドって名前がちゃんとあるし、アメリカ合衆国って名前もちゃんとついてるんだからさ! それともアレかい? ボケとか痴呆とか物忘れとか」
「ひねりつぶすぞ小僧」
 にこやかに、ごく麗しく微笑みながらの耀の言葉に、アルフレッドはぱっと肩まで両手をあげた。『国』として対峙するならば圧倒的に『アメリカ』が強いが、個人として接する時、アルフレッドは耀に勝てる気がしたことがない。なにせ耀はアーサーと口喧嘩して五回に二回くらいは言い負かし、一回は武力行使で均衡する相手なのである。約半分の確立で育て親に勝てる存在に、そもそも勝負を挑むのが間違っているのだった。
 ごめんなさい、と幼少時はまさしく天使であった面影を漂わせる笑みで素直に謝れば、子育て経験国として、耀はそれ以上は強く出られないらしい。お前、甘い顔して笑えば誰も彼もが許してくれると思うんじゃねえあるよ、と特大の溜息を吐き出し、耀はぽふぽふとアルフレッドの頭を撫でてくる。口でどうこう言いつつ、結局子育て経験国は、育てられた国を甘やかすのである。くすくす笑って、アルフレッドははーい、と言った。
「悪かったよ、ごめんなさい。……で、菊はなんかひどいこと考えたりしなかったかい?」
「いえ、連合ってチームワークなにそれ美味しいの食べもの? くらいなアレさ加減でしたので、仲間という言葉の存在と意味と概念を知っていたことに驚いたりなどしておりませんよ?」
「言葉の存在と意味と概念は、知ってるあるよ」
 全く使おうとしなかっただけであって、と微笑む耀に、菊はなるほどと頷いた。本気泣き一歩手前くらいで踏みとどまっているアルフレッドも、ヘタになにか言ってもやぶへびだと分かってはいるのだろう。ひどい、ひどいけど、ひどいけどでも、とぐずぐず鼻を鳴らしながらちいさな文句を積み重ね、やがて気を取り直したように大きく息を吸い込む。
「ともかく……本当に、ありとあらゆる意味で、ともかく! 耀の言う通りなんだぞ、菊。今からじゃ、もう間に合わない。それに……君の出国に対して、許可が下りるかも分からない」
 君この間、書き置き一つでロシアまで単身乗り込んだそうだし、とため息交じりの咎めに、菊は視線を泳がせた。乗りこんだ、と言うのは大変人聞きが悪いのでぜひとも止めてもらいたかったが、いわゆる見解の相違や解釈の違いで、そう言えなくもないこともなかったからだ。違いますよあれは事後承諾というものであって、決して書き置き一つで行方をくらましたとか逃亡したとかそういうものではないのですよ、と菊は言う。
 全く信じていない表情で、『中国』と『アメリカ』は溜息をついた。
「君が行ってどうなるものじゃないだろう……? もう、国内で静かに待ってなよ」
「どうならないことであっても、せめて傍に」
「ダメ。……ねえ、菊。大丈夫だよ。安心して待っておいでよ。ギルベルト、だっけ。彼、絶対に消えたりしないからさ」
 菊が恐れていたことをあっさりと口にして、アルフレッドは満面の笑みで笑った。
「大丈夫! 今あっちには俺の兄弟が居る筈だし、それにヒーローの育ての親だって居るしね! 彼らが絶対、なんとかしてくれるんだぞっ」
「でも彼らは……お師匠さまとは、なんのっ」
「繋がりもない、かい? 馬鹿なことを言うんじゃないよ」
 めっ、とでこぴんして怒りながら、アルフレッドはぷくぅ、と頬を膨らませた。外見年齢十九歳の青年がやる仕草ではないと菊は呆れるが、やけに似合っているからこそ上手く注意できない。はあぁ、と脱力して息を吐けば、アルフレッドはぽこぽこ怒りながら唇を尖らせた。
「彼は、だって『国』じゃないかい! それで、アーサーの旧友? 数少ない実在する友達、でもあるようだし。あの人づきあいがドヘタで不器用で、性格がひねくれねじまがってて、エロくて変態でどうしようもないあの人が、俺の友達、って言うような相手をだよ? 失わせるわけないじゃないか。それは可能か不可能か、なんてことはこの際だ、置いといて。国が滅んで『国』が消えるなら、彼はとっくに居なくなるべきなんだから」
 だから、とアルフレッドは胸を張る。
「その枠組みをなんだか外れてるようなひとをだよ? アーサーが逃がすわけないじゃないか。それに、大丈夫。万一のことはあっても、あの人は天使にだってなれるしね! 捕まえて引きずって戻ってくるようなことでも、してくれるに違いないよ」
 途方もない夢物語のような希望を、はきはきと告げさせるのはアーサーに対する無比の信頼があるからだろう。口ではどう罵倒しようとも、アルフレッドの心はまっすぐ、アーサーを信じている。彼がやることを、その想いを、信じ切っている。ヒーローを信じる、幼子と同じように。目をキラキラと輝かせて楽しげに、アルフレッドはだから大丈夫なんだぞ、と菊に言う。耀はすこしだけ呆れた表情で、微笑ましく口を噤んでいた。
「待ってようよ、菊。俺たちと一緒に、さ。……今日はどうせ眠れない夜になるだろうし」
「『国』としても、この状況じゃなんのかのと起きてる必要があるだろうし、な。さ、菊。にーにと一緒においで」
 座り込んでいる姿に、立ち上がりなさいと手を差し出して。呆ける菊に、耀は穏やかに笑う。
「政府庁舎に行くあるよ。止めに来たあるが、我らは迎えにも来たある。……おいで、菊。日本がお前を呼んでるあるよ」
 この国が、この『国』を呼んでいる。だから他の地に飛び立ったりせず、この場所で立っておいで。静かに告げる耀の隣で、アルフレッドも笑いながら頷く。大丈夫さ、なにも心配することはない。菊の傍にはヒーローが居て、向こうにはヒーローの兄弟と育て親が居るんだから。そう思えば大丈夫って気にならないかい、とウインクしてくるアルフレッドに、菊は堪え切れずに小さく笑った。本当に、なんだか、そう思えてしまう。
 静かな夜だった。月明かりの、本当に美しい夜だった。菊は差し出された手を強く握り、音の無い仕草ですっと立ち上がる。背筋はまっすぐに伸びていた。凛とした微笑みと佇まいに、耀はよし、と満足げに頷く。菊の足が一歩を踏み出すが、それは駆け抜けていくものではなく、この国の大地を踏みしめて確認するような仕草だった。光に照らし出されて明るい夜に、菊はゆっくりと歩き出す。その背を、微笑んで二人が追った。



 ざわめきながら、戸惑いながら、人々が壁を目指して集まってくる。突然の発表に西も東も混乱しきっていて、誰もがそれを信じられない様子だった。東の民が国境を自由に越えられるということは、それを制限していた壁が存在理由を消すということだ。ルートヴィヒは壁に向かって出来る黒山の人だかりを、すこし恐れるように離れた場所から茫然と見ていた。傍らにはローデリヒとエリザベータ、ヴァルガス兄弟も立っている。
 まるで突然の報道だった。東側で政権に対する様々な不満が爆発し、デモがいくつも起こって不安定な情勢だとは分かっていたが、それにしても恐らく、誰もが予想しなかったことだった。これで、西と東は一つに繋がる。分断独立していた国も、やがて一つに戻るだろう。ああ、と誰かが感嘆の溜息をついた。人々は夢でも見ているかのように、熱に浮かされるかのように、暗い夜道を壁に向かって歩いて行く。もう夜だった。
 夕方に発表された情報が民衆に広がるのは驚くほど早く、陽が暮れる頃には、人々は壁に掴めかけていた。空気がざわざわと揺れている。十一月の寒い空気を、人々の吐く息が霧のように白く染める。それなのにまるで、熱帯夜のような夜だった。人々の熱気と、期待と不安が夜の闇も、不安も、寒さもどこかへ遠ざけてしまっている。耳を澄ませば壁の向こうも、同じような状況であるらしい。人のざわめきが、聞こえた。
「……壊すのか、壁」
 ぽつ、となんの感慨もなさそうに呟いたのはロヴィーノだった。地中海の純度の高い海水に眠るエメラルド、そのもののような美しい瞳が、つめかける群衆と壁に向けられていた。壊す、と思う、とルートヴィヒはぎこちなく呟く。言葉にならない程の胸の高揚感が、『国』の身に上手く言葉を紡がせなかった。喜び、喜び、喜び、かすかな不安。期待、歓喜、愛惜。髪の毛の先までじん、と痺れていくあまやかな喜びに、血が騒ぐ。
 なにも戸惑うことはない。もうあれは用済みで、いらないものだった。壊せ、と人ごみの中で誰かが叫ぶ。歓喜のあまり、涙を滲ませてひっくりかえった、おせじにも響くとは思えないかすれ声。しかしそれは爆発的に人に伝わって行き、やがて誰も彼もが腕をふりあげて叫んだ。そうだ、壊せ。壊してしまえ。もうこんなものは必要ない。もうこんなものを恐れることはない。向こう側も、こちら側も、みな、同じ。ひとつのドイツだ。
 わっと歓声があがる。それに背を押されたかのように、ルートヴィヒは一歩を踏み出した。
「兄さん……兄さん、聞こえてるか。もうすぐ、もうすこしで……」
 あなたに、会える。壁の向こう側。閉ざされたきり消息も満足に知ることが出来なかった存在に、あと少しで会えるのだ。それはルートヴィヒにとって、世界平和が訪れるのと同じくらいのことだった。なんでもない日常が、そこに住んでいた安らぎが、戻ってくるということだった。はやく、はやく、と心が急かす。その高揚と喜びは民衆のそれと混然一体となって、ルートヴィヒの頬を赤く染めた。『国』が望み、そしてひとが望んだ。
 壁を壊せ、と誰もが叫ぶ。不安げに眉を寄せたのは、ロヴィーノだった。夢の果てが向こう側にあるような顔つきをしている『国』たちから、ロヴィーノは静かに一歩離れる。宝石色の瞳が民衆を見て、壁を見て、ルートヴィヒを見て、エリザベータとローデリヒを見て、最後にフェリシアーノに定められる。フェリシアーノは冷静に過ぎる兄の視線に、なんらか胸騒ぎを感じたようだった。きゅぅ、と眉が寄せられ、首がことんと傾げられる。
「兄ちゃん……どうしたの?」
「……壁壊すの、アイツが戻ってくるまで待ってた方がいいんじゃねえの?」
「兄ちゃん?」
 そわそわと落ち着かない様子で持ち上げられたロヴィーノの指先が、跳ねる鼓動を静めたがるように胸元に押し付けられた。エリザベータもまたそれに気が付き、はっとして目を見開く。
「そう、よ。ギル、アイツが戻ってくるまで、壁壊すのはちょっと待った方が……!」
「エリザベータ、ロヴィーノ? それは、どういうことです」
「……ギル、もしかして、『ドイツ民主共和国』じゃないんじゃ、ない?」
 顔から血の気を引いたフェリシアーノが、混乱の中でその答えに辿りつく。は、と意味の分からない様子のルートヴィヒの傍らで、音楽家が一つの事実を思い出して息を飲む。向こう側に行く時、ギルベルトがなんと言っていたか。ギルベルトはあくまで『東側』であり、そして『国』の意識は『プロイセン』であった筈だ。もしも、向こう側に行ってドイツ民主共和国が建国された後も、意識がそのままであったのならば。それは。
 問いかける視線に、エリザベータはぎこちなく頷いた。
「ギルベルトは……今でも、『プロイセン』です」
「その状態で、壁が崩れれば……国の存在自体が揺らいで、一つの所を目指そうとする動きに」
 ローデリヒの言葉が終わるより早く、夜空と地上が一つの言葉で揺れ動いた。西からも東からも、壁を挟んで同じ言葉が叫ばれる。壊せ、壊せ壊せ壊してしまえ。この壁はもういらない、この壁はもういらない。だから、壊してしまえ、壊してしまおう。それは大軍が突撃していくような、獰猛な地響きと空気の振動だった。見る間にハンマーを持った男たちが、壁をよじ登って行く。人の波が割れ、建設機械が壁に向かった。
 壊せ、壊せ、とひとが言う。『国』が、引きつった声で悲鳴をあげた。
「だ……め、止めて。やめて……待って、待って、待ってっ!」
 お願いっ、とエリザベータが叫びながら、人ごみに走り込んで行こうとする。その腕を掴み、体を抱きこむようにして押し留めたのはローデリヒとルートヴィヒだった。二人は暴れる女性を抱きこんで、歓喜に酔う人々に近づかせない。気持ちは分かる。痛いほどに。けれど、今エリザベータが行ったとしても、女性の叫び声一つで人は止まらず、下手をすれば私刑に晒されてしまうことだろう。『国』の声はひとに届きはしないのだ。
 壊せ、と声が高まる。ハンマーを持った男が、壁の上に辿りつき、腕を大きく振りかぶった。
「待って、ま……ギル、ギルっ!」
 歓喜の渦が、熱帯夜のように空気を沸かす。
「……ギルベルトっ!」
 叫びはかき消され、どこにも響きはしなかった。

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