人波から守るように、彼らは円陣を組んでいた。守るべき存在に誰も近付かせず、けれどナターリヤはクソっ、と歯噛みしながら視線だけを振り向かせる。ようやくベルリンに辿りついたのは、夜も更けた頃だった。壁の前には民衆が詰めかけ、口々にゲートを開け、壁を壊せと叫んでいた。それを見たギルベルトは口元にほのかな笑みを浮かべて西側に歩き出し、数歩も行かないうちに倒れ、そのまま意識を戻さなかった。
イヴァンがギルベルトの体を抱き上げて、ずっと必死に呼びかけている。ナターリヤとトーリス、ライナ、エドヴァルド、ライヴィスは、二人がつめかけた民衆に跳ね飛ばされないよう、身を呈して守っているのだった。ギルベルトの意識は完全に喪失していないものの、弱く呻くばかりで回復しない。辺りには『国』の姿など目にも入っていない様子で人々が詰めかけ、壁に向かって熱狂的な『壊せ』コールを叫び続けている。
耳が痛い。それ以上に、体の奥が痛かった。ナターリヤはぐっと歯を噛み締めて、憎悪すらこもった瞳を民衆に向ける。嬉しいのは理解してやらんでもない。ドイツ国民は分断を望まず、統一を願い続けた。それが果たされようと言うのだ。今を喜ばずとして、なにを喜べというのだろう。それくらいは、ナターリヤにも分かる。それくらいは、理解してやる。それ以上は、なにも受け入れず、なにも許容しない。許せないことだった。
人々が喜びに叫ぶ声が、うるさくて耳触りで聞いていたくない。イヴァンの、悲鳴のような泣き声のような必死の呼びかけが、ギルベルトに届かなくなってしまう。『国』がこんなに集まって、彼らの祖国を守っているというのに、誰もそれに気がついていない様子なのも腹立たしかった。歓喜が地面と、空気を揺らす。クソ野郎どもがっ、とナターリヤは低くうねる声で吐き捨てた。
「お前らがなにをしようとしているのか、分かってるのかっ!」
全身がぶるりと震えるほど、感情を持て余した怒りの叫びだった。しかし、少女一人の叫び声は、民衆の歓喜には届かない。瞬く間にかき消されて響きもせず、振り向く者も、注意を向ける者も誰一人としていなかった。ひとは、気がつかない。ここに『国』があることを。誰も、知らない。
「……ナターリヤちゃん」
ううぅ、と獣のように歯をむき出しにして唸るナターリヤの手を、トーリスがそっと包みこんだ。労わるような優しい仕草だったが、それがナターリヤの神経を逆なでする。音高く手を振り払い、ナターリヤはトーリスに掴みかかった。エドヴァルトとライヴィスが反射的な悲鳴をあげるが、人々からギルベルトとイヴァンを守る為、彼らは立ち位置を一歩も動けなかった。人は、どんどん詰めかけてくる。『国』など、見えない様子で。
「お前はっ」
「悔しい。それに、とても、とても悲しいよ」
怒り狂うナターリヤに与えられたのは、とても静かな声だった。トーリスは茫然と見返して来るナターリヤの、服を掴みあげてくる手に指先を触れさせて、視線を合わせてごく穏やかに微笑む。安心して、と伝えるような笑みだった。あっ、と火にでも触れたかのような短い叫びで、ナターリヤが指から力を抜いた。それだけで、二人はごく至近距離で向き合ったまま、動きを凍りつかせていた。トーリスは、肺まで息を吸い込む。
「悲しいよ。……でも、ギルベルトの前でそんなこと言ったらダメだ」
どうして、とナターリヤが叫ぶ前に、トーリスは少女に向かって身を屈める。場違いなまでに美しい仕草で、トーリスは少女の頬に口付けた。
「彼らが、国民だからだよ。……それでもギルベルトの国民だからだ」
「な……に、をっ!」
「ナターリヤ。君も『国』なら、分かるよね? 俺たちがどれだけ、ひとを愛しているか。その土を踏み、その空の元で産まれて生きる国民を、どれほど愛してやまないか。分かるなら……言っちゃダメだ」
彼は、国民を、愛している。ひた、と視線を合わせて告げられた言葉に、ナターリヤは呼吸をするので精一杯だった。触れられた頬を、今すぐ拭ってしまいたいのに、全身が妙に熱くて動けない。蛇に睨まれたカエルは、まさかこんな気持ちなのだろうか。息さえ上手く出来ている気がしなくて、ナターリヤは不安げに視線を泳がせた。ライナはあらあら、と頬に手を押し当てておっとりと見守っているだけで、動いてくれない。
元より助けは期待していないが、ナターリヤは役立たずめ、と心の中で姉を罵倒した。
「……すこしは、落ち着けた?」
ナターリヤは緊張しきって動けないのに、トーリスは穏やかな、安心したとでも言いたげな微笑みで首を傾げてくる。どこをどう見れば、ナターリヤが落ち着いたように見えるのか。ぎっ、と視線を強くして睨みつければ、トーリスはまるで悪びれの無い笑顔で微笑み返す。そういえばコイツは天然で性質の悪い馬鹿だった、とナターリヤは思った。ぎりぎりと歯ぎしりをしながら睨んでいると、そっと、そっと溜息の気配が響く。
「お前ら……そういうのは……家で、やれ。家で」
全てを蹴散らす勢いで振り向いたナターリヤに、弱々しく揺れる赤の瞳でギルベルトが苦笑する。イヴァンに抱きかかえられたままでぜい、と嫌な息を繰り返し、ギルベルトはよう、と片手をあげた。
「ナタ。怖い、お兄さま、が、見てる、ぜ?」
「……ふふふふふ。うふふふふふ。トーリスは後で、僕の部屋においでねー?」
ちょぉっと色々話しあわなきゃいけないことがあるみたいだからねえ、と言うイヴァンの、目が全く笑っていない。一部始終を完全に見られていたことを悟り、ナターリヤは頬に手を当てて顔を赤く染めた。なにか上手い言いわけを、とも思うのだが、言葉がつっかえて出てこない。ようやく、違うんです私は兄さん一筋で今はちょっと油断していただけ、つまり兄さん私と結婚結婚、と言えば良いのだと思って、息を吸い込んで。
ナターリヤはそのまま、なにも言えずに動きを凍りつかせた。ギルベルトの視線が、すでにナターリヤを見ていなかったからだ。ぐったりと身をイヴァンに預けながら、ギルベルトは壁を見ていた。人々は壁の上によじ登り、手にハンマーを持って大きく振りかぶっていた。とたん、周囲の音と熱気が戻ってくる。壊せ。壁を壊せ、という声が、ナターリヤには違う風に聞こえた。殺せ、とひとが言っている。『国』を殺してしまえ、と。
怒りで視界が赤く染まった。もうなにも考えられずに太ももに装備していた投げナイフを取り出し、壁に登っているひとに向けて構える。標準を合わせるのも、手首を動かして投げるのも、ナターリヤには一瞬で出来た。ちょっ、と焦ったギルベルトの声が響くのと、トーリスが咄嗟にそれを叩き落とすのと、澄んだ声が響くのは全く同時だった。澄み切った声が、空気を容赦なく揺らしていた。意識を直接揺らすような歌だった。
護身用の銃の筒部分を使ってナイフを受け止めたトーリスは、冷や汗をかきながらナターリヤに駆け寄り、その体を強く抱きしめる。ナターリヤは抵抗することも忘れて、壁の向こうから聞こえてくる歌声に耳を傾けていた。
「なんだ……?」
「……これ、は」
不思議な歌だった。透き通って響くのに、全く弱くもなければ、無理に拡大された強さもない。機械などを通さず、肉声のみで広がっていく音の洪水だった。それなのに体が震えるほど、歌は空気を揺らしている。注意していなければ意識を持って行かれそうなのに、ひとは、誰もその音を聞いていないようだった。人々は変わらず熱狂するばかりで、空気を染め変えた歌を耳にすることがない。ナターリヤは、訝しんで眉を寄せた。
しかしギルベルトには、正体が分かっているらしい。今にも意識を途切れさせそうな表情で、それでも歌声にすこし救われたような、スッキリとした表情で。壁の向こうに目をやり、ギルベルトはすこし微笑んだ。
「ロヴィちゃん……」
ひとの耳をすり抜け、『国』の元にだけ届く歌声を奏でているのは、ロヴィーノ・ヴァルガス。『イタリア』の片割れ。音楽の天使だった。
人々の熱狂を静かに見据え、『国』の混乱すら穏やかに見つめながら、ロヴィーノは歌声を開放していた。夜空に向かって捧げているのはオラトリオ『メサイア』より、最も有名な曲。『ハレルヤ』だった。合唱曲だ。単音で歌うに適した曲ではないことなどロヴィーノも知っているだろうに、構う様子など全くなかった。ロヴィーノは歌劇の舞台に出ていくようにエリザベータたちから数歩離れ、壁の向こう側を睨みつけながら歌っている。
空気が音を立てて震えるようだった。夜の熱狂的な空気が、人知れず歓喜に打ち震えているようだった。ロヴィーノの歌声はどこまでも清浄に高く澄んで響き、壁の向こうに居るギルベルトに届けられる。神に向かって捧げられる祈り。それが純化して出来た音楽。全身全霊で紡ぎあげれば、それはギルベルトへの呼び声となる。戻って来い、とロヴィーノは言葉を叩きつけているのだ。意識の糸を、なんとか繋いでやるから。
ここに、お前を待ってるヤツが居る場所まで戻って来い、と。『国』に対して恐ろしいほどの威力で奏であげられる歌声は、不思議にひとの耳には届いていないようだった。人々のざわめきと興奮は高まるばかりで、歌声の威力を知りはしないようだ。ロヴィーノは『ハレルヤ』を繰り返し繰り返し、朗々と歌い上げていたが、やがて表情に焦りが生まれる。建設用の大型重機が、壁の前まで到着したからだった。壊されてしまう。
なんとかギルベルトの意識を繋いでいる状態で、そこまでの破壊は歌声をかき消してしまう。舌打ちせんばかりの表情で、ロヴィーノはぽかんと口を開いていたフェリシアーノを視線で呼んだ。来い、とてのひらが差し出される。迷わず駆けだそうとして、フェリシアーノはハッとルートヴィヒを振り返る。すこし前からルートヴィヒは、頭が痛むのか手を当ててうずくまったまま、その場を動けなくなっていた。顔が、苦しげに歪んでいる。
視線がゆっくりと、フェリシアーノの姿を捕らえた。もう一人の音楽の天使はあわく微笑み、身を屈めてルートヴィヒの額にキスをする。行ってくるね、とフェリシアーノは囁いた。
「待っててね、ルート。……俺たちが、絶対ギルを繋いでみせるよ」
だからエリザさんも、ローデリヒさんも、泣かないで待ってて、と強い表情で笑って。ぱっと身を翻し、フェリシアーノはロヴィーノの元へ走っていく。差し出されたてのひらは、指先を絡めるようにして繋ぎ合せて。ロヴィーノがぐいと引っ張るのに任せて兄の胸の中に飛び込み、フェリシアーノは大きく息を吸い込んだ。ぎゅぅ、と数秒だけ体を抱きしめあう。ロヴィーノの歌声は途切れることを知らず、ギルベルトを呼んでいた。
それに声を重ねるのは、本当は難しいことなのだろう。それなのにフェリシアーノは華やかに微笑み、初めから一つの歌声であったかのように、そこに自分の音を重ね合わせた。ロヴィーノもまた、嬉しげに笑う。二人は互いの瞳を覗き込むように視線を合わせて笑い、ぴったりと一つに重なった歌を紡ぎあげた。それは確かに、壁の向こう側に届いた。
歌声に意識を呼びもどされたギルベルトの調子は、傍から見ても良いものだった。さすがに飛びはねたりはしゃぎまわったりは出来ない様子だったが、一人で立ち上がるくらいの力は戻ったようである。息を吸い込んで、吐き出すだけの動きが、もう辛そうには見えない。ほっと胸を撫で下ろしたイヴァンに、ギルベルトは照れくさそうに笑った。
「悪いな……。にしても、いくら俺様でもヤバかったぜ……」
「もう大丈夫なのか? 本当に?」
嘘をついたら刺し殺す、とばかりナイフを握って尋ねてくるのはナターリヤである。お前、その物騒なモンしまいこめよ、とげっそり溜息をつきながら、ギルベルトは頷いた。先程まであった痛いくらいのだるさと、精神の混乱や眩暈がすっかり収まっている。体調が良いとは決して言い難かったが、意識はハッキリしていた。フェリシアーノとロヴィーノが、二人でギルベルトの手を強く握り、あるべき方向へ引っ張ってくれているのだ。
途切れず響く歌声に耳を傾けながらそう思って、ギルベルトはイヴァンの手を借りつつ、ゆっくりと立ち上がった。壁に押し寄せている人々を見たギルベルトは、仕方ねえなぁ、とばかり甘く苦笑する。先程までの絶望的な不調の原因がそれだと分かっているだろうに、それでも許す、愚かで優しい『国』の顔だった。ひとは、まだ『国』がそこに居ることに気がつかない。もしかしたら、気がつかないままで居るのかも知れなかった。
ギルベルトはうーんと伸びるように腕をあげ、息を吐きながら力を抜いて行く。その頭の上でことりがぴよぴよと羽を動かし、自己主張をした。お、ことりちゃんじゃねぇか、とやけに嬉しそうに呟き、ギルベルトは指先で己の頭の上をつっつく。
「よしよし、よーし。ちゃんと乗っかってたんだな。偉いぜー?」
「……ギル君」
「おう、分かってる。また動けなくなる前に、俺、向こう側帰るわ」
壁を指差しながらのあっさりした言葉が、ギルベルトの別れであるらしかった。もうちょっとしんみりしながらなにか言えないの、と苦笑するイヴァンに、ギルベルトは呆れ顔で肩をすくめる。今生の別れでもあるまいに、なにをひとのようなこと言うのだか、という仕草だった。それはそうなんだけどね、とイヴァンは苦笑し、そっとナターリヤに視線を向けてくる。いいの、と確認を取るような表情に、ナターリヤはなんとなく口を開く。
「ギルベルト」
「ん。なんだ、ナタ」
つーかお前なんか俺に言わなきゃいけねえことがある筈だな、と笑顔で遠回しに脅しをかけてくることが、民衆への投げナイフだということまで分かっていて、ナターリヤは知らんふりで腕組みをした。可愛くない態度に、ギルベルトの眉が寄せられる。ナタ、と叱りつけるような響きに、ナターリヤは胸を張り、きっぱりとした態度で宣言する。
「私は、悪く、ない」
「イヴァンお前妹のしつけはちゃんとやっとけって俺何回も言ったじゃねぇか……」
「諦めてよ無理なんだよだってナターリヤなんだもん……それに、ナターリヤの気持ちは分からなくもないし」
ぐったりとした兄たちの会話に、ナターリヤはますます頑なに視線を険しくした。謝ることなど、なに一つない。悪いことをしたと、思っていないからだ。そっぽを向いてしまったナターリヤに、ギルベルトは溜息をつきながら手を伸ばす。ぽんぽん、と軽く頭を撫でて、ギルベルトはいいか、と幼子にするように言い聞かせた。
「次に会う時までには、ちゃんと反省することも覚えとけよ? 返事は?」
「断る。お前こそ、次に会う時まで……ちゃんと」
「分かってる。元気で居るぜ? ……あとお前、トーリスを苛めすぎんなよ?」
トーリスに限って絶対ないとは思うが、愛想尽かされたりしたら困るだろ、と言ってくるギルベルトに、ナターリヤは鼻を鳴らして笑ってやった。全く、なにを勘違いしているのだか知らないが、ひどい誤解もあったものだ。トーリスがナターリヤに愛想を尽かすなど、天地がひっくりかえってもあり得ない。二人が幼馴染で腐れ縁である以上、その絆はどうしたって消えないのだ。ギルベルトとエリザベータが、ずっとそうであるように。
じゃあ元気でな、と手を振って離れて行こうとするギルベルトの背を、ナターリヤは軽く睨みながら見送った。壁の向こうで、エリザベータは待っている筈だった。早く行って、安心させてやればいいと思う。歌声は途切れず、人々の歓喜の声は高まって行く。ギルベルトは壁に向かってすたすたと歩いて行き、そしてナターリヤの見る前で体勢を崩し、膝を折るようにして倒れ込んだ。数秒、ナターリヤはその姿を見つめていた。
立ち上がる筈だった。立って、すぐ歩き出す筈だった。ギルベルトの頭の上で、ひよこがもがくように羽を動かし始める。ギルベルトは立ち上がらず、呻くような声をあげてその場に崩れる。ナターリヤは走り出し、ギルベルトに向かって手を伸ばした。ぱさ、と軽い音が響く。ことりが飛び立ち、空へと舞い上がった。ギルベルトはうっすらと瞼を開き、飛び立つことりに微笑みを向ける。ごく小さく、頷いた。行け、と告げるようだった。
ことりは体に似合わぬ声で高く鳴き、壁の向こうへと飛び去っていく。追いついたナターリヤがギルベルトの上半身を膝に抱き上げ、なにをしているんだ、と怒鳴った。立ち上がれ、と震える声が叱咤する。それに、本当に困ったように微笑んで、ギルベルトは口を開く。意識は、まだハッキリと保たれていた。
「無理……かも」
「どうしてだ!」
「俺の……預かった『東側』が、『ドイツ』に戻ろうとしてる」
満足したんだろうな、とどこか他人事めいた苦笑で、ギルベルトは目を閉じる。あの日、ルートヴィヒから奪った『ドイツ』が、壁の崩壊を前にして持ち主の所に戻ろうとしている。急激に、国が一つに還ろうとしている。元よりこの土地は、もうギルベルトのものではない。『プロイセン』は無くなってしまったし、ドイツ民主共和国は、最後まで厳密に言えば、ギルベルトのものではなかった。預かりものが、てのひらをすり抜けていく。
息を吸い込むと、大切なものが一つ、無くなるようだった。『国』として生きた記憶さえ、『ドイツ』に引きずられてしまっている。元より『プロイセン』は、与えられた全てを捧げる気持ちで『ドイツ』を育てていた。ドイツ帝国が成立する日に在る筈だった継承が、今行われているだけなのかも知れない。思い出、経験、記憶、感情。『プロイセン』として生きた体が、『国』として、『ドイツ』の中に消えたがっていた。金の光が、零れる。
頬をころりと伝ったそれは、まるで涙のようだった。
瞬間、ルートヴィヒは悲痛な叫びをあげて頭を抱えた。どうしました、と呼びかけるローデリヒの声も届かない様子で、ルートヴィヒは身を削られる苦しみを味わっているがごとく、苦しげに眉を寄せて叫び続ける。うわごとのように聞き取りにくい言葉は、ひたすら否定と、嫌だ、とそれだけを告げているようだった。エリザベータは青ざめた表情を壁の向こう側に向け、ロヴィーノとフェリシアーノもそれを感じ取り、歌を途切れさせた。
ギルベルトの、『国』の気配が急速に消えかかっている。繋ぎとめようと手を伸ばしても、霧をかき回しているような手ごたえの無さが残るばかりだった。絶句する誰を気遣うこともできず、ルートヴィヒは胸をかきむしるようにしながら壁の向こうを睨みつけた。
「兄……さん。兄さん、嫌だっ……嫌だ、いらない……! 『プロイセン』は、いらないっ!」
むずがって泣くこどもように、ルートヴィヒは流れ込んでくるなにもかもを否定したがって声を荒げた。それは『プロイセン』の持っていた記憶であり、培って来た経験であり、大切にして来た思い出であり、その時に抱いていた感情だった。映画のフィルムをむちゃくちゃに早回ししているように、ルートヴィヒの中にもう一人の人生、その全てが流れ込んでくる。あまりの情報量に吐きそうだった。あまりの事態に、吐きそうだった。
ルートヴィヒの中に宿ろうとしているのは兄だった。兄そのもの、と言って良い情報の集合体だった。それは『ドイツ』を求めていたかのように寄り添い、染み込み、同化していこうとする。神聖ローマから始まり、プロイセンに受け継がれた全てが、ドイツに受け渡されようとしている。『国』として、受け入れるべきものなのかも知れなかった。けれど『国』として、『ドイツ』は育て親そのものを拒絶する。一つにならない、と首を振る。
失っていた東側の感覚が、回復する。命と体温を得たかのように、鼓動が耳元で優しく響く。己の体の変化に、ルートヴィヒは頭を抱えて絶叫した。半身を失う喪失感と悲しみがあるのに、ルートヴィヒの中に『ドイツ』が戻ってくるのだ。その喜び、その幸福感が意識を乱す。受け入れたくないのに、兄は弟に向かって、預かっていたものを帰そうとしているのだ。それと一緒に、『プロイセン』も流れ込んでしまっているだけで。
フェリシアーノとロヴィーノが強い意思を交わし合い、再び歌声を響かせた。逆流、あるいはただ流れ込んでくる勢いは弱まったものの、それだけで止まることがなかった。
「……ったく」
カツ、と硬質な足音が場の空気を揺らした。ハッとして顔をあげたエリザベータとローデリヒが、現れた『国』の名を呼ぶ。
「い……イギリス?」
「アーサー・カークランドだ。現在の俺は個人行動中でな、国は関係ないことになってる」
まあ建前だからお前らがどう思おうと別にいいんだけど、と投げやりな発言を響かせ、アーサーは悠然と腕を組んで苦しむルートヴィヒを見下ろした。軍服に濃緑色のマントを纏ったアーサーは、それだけで怪しい魔法使いに見える。苦悶の表情を崩さないままで視線を持ち上げたルートヴィヒに、アーサーはにこ、と笑いかけた。悪魔が取引を持ちかけるような笑みだった。
「よう、ルートヴィヒ。お前の兄貴はホント馬鹿だな」
「お……俺も、同意は、するが、この状況で、それを」
「この状況だから言ってんだよ。なんだこの、最悪の事態を想定したと思ったらその斜め四十五度上をかっ飛んでる現状は」
俺にだって出来ることと出来ないことくらいあるんだがな、と額に指先を押し当てて溜息をつくアーサーの隣に、身軽く二つの人影が踊り出てくる。辺りに今も押し寄せてくる人々をかき分けるようにして走って来た香とシェリは、アーサーと揃いの濃緑色のマントをはおり、肩を大きく上下させて息をした。
「置いてくとか、置いてくとかマジ信じられねえ……!」
「迷ったらどうしてくれるつもりだったんですか! 香が手繋いで引っ張ってくれたから良いものをっ!」
「急ぐぞ、って言ったろ?」
俺について来られなかった時点でお前らが悪い、とでも言いたげなアーサーに、香とシェリは悔しげに顔を歪ませた。それを楽しげに一瞥して、アーサーはルートヴィヒに手を伸ばした。額の熱を計るようにてのひらを押し当てて、アーサーは難しげに目を細くする。人を踏みこませもしない、太古の神秘が息づいたままの森色をした瞳が、ルートヴィヒに起きている内側の変化を推し量るように、体をじろじろと見つめ回る。
居心地が悪く身じろぎをしようとして、ルートヴィヒはすこし、体に自由が戻っていることを知った。気持ち悪さに動かせもしなかったのに、気が付けば、呼吸も楽に吸い込むことができる。目を向ければアーサーは照れくさそうに笑い、ルートヴィヒの頭をぽん、と撫でてから立ち上がった。
「さて、時間が惜しいな……。マシュー、用意は?」
「出来ました。いつでも良いですよ」
振り返ることもでず囁かれた問いかけに、いつの間にかそこに居たマシューが穏やかな笑みでもって応える。マシューもまた、アーサーと同じデザイン・同じ色のマントで身を包んでいた。英連邦が四人ともそんな格好をしていると、そこだけフリーメーソンが引っ越してきたようだった。なにを、と問いかけるルートヴィヒに、アーサーはしっとりとした微笑みを浮かべる。すい、となにかを求めるように、空に手が差し出された。
「説明は後でしてやる。だから今は、とりあえず喜べ。ルートヴィヒ?」
「なに、を」
「ギルを引っ張ってくる為の、強力な援軍が到着した」
空からまっさかさまに落ちて来たそれは、アーサーのてのひらでぽよん、と跳ね、ころころと転がりながらも落ちることなく収まった。たんぽぽ色の、まあるいもこもこ。え、と見つめるエリザベータの視線の先で、やってきたことりは誇らしげに羽根を広げ。ぴよ、と可愛らしく鳴いた。
ぼんやりと、ギルベルトはまどろんでいた。すでに体の感覚は薄く、意識だけが眠る寸前のように温かなものに包まれている。遠くでナターリヤがギルベルトの名を罵倒混じりに呼んでいるのが聞こえたが、上手く反応できなかった。その名前が、己を表すという認識すら、薄く消えていく。温かなもの。大切だったもの。己の全てを、ルートヴィヒに渡すのだ。それがあの瞬間に決めた誓いであり、受け取った愛そのものの形。
ギルベルトは、幸せな気分で微笑んだ。もう、なにを誓ったのかすら、上手く思い出せない。意識がゆっくり沈み、金色の光が天に登っていく。蜜蝋の炎を見つめた、柔らかな気持ちが消えていく。うん、とギルベルトは微笑んだ。それも、お前にやるよ。全部全部、優しいもの、愛しいもの、見つめて来た世界の全てを。ゆるゆると、意識がまどろむ。暗闇の向こうに、草原が見えた。マリア、と『少年』が名を呼ぶ。
ああ、嫌だな、とギルベルトは笑う。その名だけは渡したくなかった。その名を呼ぶ声だけは、失いたくなかった。その名を囁いて愛しく細められた瞳の色を、覚えておきたかった。マリア、と『少年』が呼ぶ。大切なのに、愛おしいのに。それを呼ぶ名すら、遠くなっていく。ギルベルトは、ゆるりとまどろむように目を閉じた。『少年』が必死に、名を呼んでいる。その声だけが鮮明だった。その声だけが、意識を繋ぐ糸だった。