ギルベルトを助けに来た、というアーサーの言葉を、エリザベータもローデリヒも上手く受け止められなかった。二人は確かに歴史的に手を組んで暴れ回っていたことがあるものの、個人的な仲はそこまで親しくなかった筈だからである。アーサーの、特に仲のいい友人、という存在を、にわかには信じられなかったのかも知れない。しかし二人の疑念をよそに、アーサーはてきぱきと『準備』を進めていた。横顔は真剣そのものだ。
驚くほど早く正確に指先が動き、ドイツの石畳の上に、凹凸など問題にならないような緻密さで魔法陣と、なにか古い言葉が書き込まれている。ラテン語とはまた違うようだった。幾何学的な、模様にも似た言葉はルーン文字かなにかかも知れなかったが、じっと見守るしかできないローデリヒにもエリザベータにも、それを解読するだけの知識はなかった。アーサーに付き従うマシューも、解説してくれるつもりがないらしい。
困惑した様子の二人に申し訳なさそうな視線が向くだけで、説明の言葉が響くことはなかった。マシューは時々、痛みや混乱に呻くルートヴィヒの元に歩み寄っては、励ますように肩をたたいたり、親しい友にするように手や肩を撫でてやっていた。優しい面差しの青年がすると、それは穏やかな慈愛すら滲み出る仕草だ。痛みや、流れ込んでくる情報に影響はないものの、そうされるとルートヴィヒは嬉しそうに口元をほころばせる。
ダンケ、と短く感謝の言葉を口にされるのが、マシューも嬉しいらしい。二人はごく穏やかに微笑みあい、視線を交わしあって、見守る保護者役たちの気持ちを和ませた。人々の歓喜の叫びは、時を増すごとに大きくなっっていく。フェリシアーノとロヴィーノの歌声は、神聖さと力強さを失うことがなかったが、本人たちの表情をみれば疲れが見え隠れしてきていた。ルートヴィヒの表情も、時を増すごとにこわばっていく。
時間の猶予は残されていない。あらゆる意味で、誰にも平等にそれはなかった。焦る気持ちを押し殺し、エリザベータはアーサーの作業が見えやすいように、てのひらに乗せてやっていることりに視線を落とした。ことりはたんぽぽ色の羽をぱたぱたと動かしながら、ぴっ、ぴょっ、と時折鳴き声を響かせ、応援しているようだ。アーサーは作業の手を止めてふっと穏やかに笑い、エリザベータに歩み寄ってくる。
「すまない、待たせた……もう少しで準備も終わる」
「……なんの、準備なの? なにを、してるの?」
「魔法の……召還に対する代償の準備って言うか、天秤の右側のものを左側に持ってくる時に、重さを一定にしないとバランスが崩れて大変だろう? その、調整準備。……ほら、香、シェリ! お前らぼーっとしてないで、早く横になって精神統一に移れ! 三分!」
アーサーが指で描いた魔法陣と文字は不思議に淡く発光していて、ひかりごけのような美しさだった。そこに臆することなく足を踏み入れ、マントの裾をさばきながら座り込み、香とシェリは不満そうな声で口々にはぁい、と言う。三分だって、とため息混じりに言葉を交わした青年と少女は、手を繋ぎ合わせてその場にころりと横になり、目を閉じて眠るように呼吸を安らがせていく。ちり、と音を立てて魔法陣の光が火の粉のように跳ねた。
「アイツらの集中が完成すれば、俺も魔法の準備に入る……その前に」
はい、と差し出された手を、エリザベータはまじまじと見つめてしまった。まさか、手を繋いでワルツでも踊れというのだろうか。訝しげな表情で沈黙するエリザベータに、アーサーは苦笑しながら指先を動かす。
「ことり、だよ。そのことり、俺に貸せ。なにせ最強の助っ人だからな、使わない手はねぇだろ」
お前もそのつもりで、ギルベルトの側から離れてここまで飛んで来たんだろうし。静かな断定を含んだその声に、ことりは羽根をぱたぱたさせて嬉しげに行程した。その通り、と言わんばかりにぴよりと鳴いたことりは、そのまま僅かに浮き上がり、アーサーの肩の上でバウンドした。留まったというより、ほよんと跳ねて止まったのでエリザベータにはそう見えたのだった。思わず呆れ顔になる女性に、紳士はクスリと口元だけで笑う。
「髭の国民の言葉を借りるのは癪だがな……エリザベータ、お前には分からないか? このことりがなんなのか」
「ギルのことり……でしょう?」
「エリザベータ。『大切なものは目に見えない』んだ。目に見える表面的な情報で、判断してしまうのは残念だと思わないか?」
ざわ、と空気が揺れていた。ざわざわと、人の歓喜に、恐ろしいほど空気が。それに飲み込まれないように息を吸い込み、エリザベータは視線に力を込めた。
「だから、どういう……意味?」
「そのままの。ギルからその鉄十字を受け取ったのなら、それが最大のヒントだろ? よく考えてみろよ。……つか、その鉄十字も貸してくれると嬉しいんだけどな? 『プロイセン』を象徴する鉄十字と、このひよこがいれば二人の召還がぐっとスムーズだ」
お前もそのつもりで来てくれたんだろう、と笑うアーサーに、ことりは誇らしげに羽根を動かして鳴く。アーサーは穏やかに微笑んで指先を伸ばし、ことりを撫でて愛でてやる。妖精に挨拶したりするのと全く同じ仕草だった。それに違和感を覚え、エリザベータは軽く唇を噛む。視線が自然に、ポケットから取り出した鉄十字を見つめた。その裏側に刻印された黒鷲こそ、『プロイセン』を象徴するものだろう。そう思った瞬間、背筋を壮絶な予感を駆け抜けた。
「……っ、ま……さ、か」
「その通りだ、エリザベータ。『大切なものは目に見えない』んだよ。コイツが、このことりこそが、かつてプロイセンを象徴したもの。そのもの、だ」
ざぁ、と強い風が吹く。アーサーの肩からころりと落ちてしまいそうなことりは、それを微風だとでも言わんばかりに受け流した。エリザベータはことりを凝視し、アーサーは全ての準備が整ったと合図するマシューに趣向し、魔法陣の淡く甘い光の中へ一歩を踏み出した。下から立ち上る光に、大地には木漏れ日を透かして出来たような、揺らめく影が映し出された。それを視界に納め、エリザベータは大きく息を吸い込む。
アーサーが肩に留まらせていたことりは、その影の形を変えていた。見れば丸くころころとした体つきをしているというのに、地面に映し出される影はしなやかで美しい成獣のもの。その翼で大空を自由に羽ばたくであろう、大鷲のシルエットだった。黒鷲だ。エリザベータはそれを知っていた。実体を持って現れたことは一度もなくとも、それは確かに『プロイセン』と共にあり、『国』と同じく、プロイセンを象徴するものだった。アーサーは魔法陣の中心で淡く微笑みながら振り返り、エリザベータに向かって手を差し出す。
それは今度こそ貴婦人をダンスに誘う仕草だったが、エリザベータは苦笑して鉄十字を握り、それをアーサーの元に投げてやる。魔法を使って描いたような綺麗な弧で、鉄十字はアーサーの手の中に収まる。ことりは鉄十字を懐かしいもののように眺めてから、アーサーの足下で横たわって眠るシェリの頭の上に、ぴょんと飛び乗った。アーサーはことりを信頼するような目の動きでそれを確認し、受け取った鉄十字を眠る香の手に握らせる。ふ、と口元で笑んで立ち直し、アーサーはなんの予備動作もなく手の中にエンジェルステッキを召還した。
ぎゅぅと握りしめると同時に、アーサーの背後にマシューが現れ、深々と頭を垂れた。全て終わるまでここから離れずアーサーと香、シェリの身を何者からも守ってみせる、という厳かな宣誓だった。立ち上がって傍らに並ぶマシューに、アーサーは愛おしげに微笑んで告げる。
「後は頼んだ」
「はい。頼まれました」
ふふふ、と笑みを交わして、マシューは魔法陣の外に出る。靴底が淡い光の線から離れたのを見た瞬間、張りつめた声でアーサーが声を響かせる。
「my neme is a green bired!」
ぱっと魔法陣を構成している線、複雑に書かれた文字のひとつひとつに、稲妻のように鮮やかな光が走った。それはアーサーの瞳と同じ色。太古の森の神秘と神聖さを失わない、恐ろしいほど美しい森の色。足下から立ち上っていく光の粒子はアーサーの体を取り巻くように集まり、やがてその背から背後に流れて消えていく。それは碧の、鳥の羽根のようだった。
「It is a miracle that I do not begun.Magic
without contract.The fairy knits his breath,
and a mystery door is opened」
『私が行うのは仕掛けのない奇跡である。それは契約のない魔法そのもの。妖精は息をひそめ、神秘の扉が開かれる』
香とシェリの体も、同じ光に包まれていく。少女を守護するように黒鷲の影は翼を広げ、少年の手の中で鉄十字が光に淡く照らし出される。アーサーは一瞬だけ目を閉じて、それから鋭い視線を壁の向こうに送った。
「さあ……ギルベルト! 寝ぼけてないで戻ってこい。俺の可愛い香とシェリが、わざわざお前のアレを迎えに行ってやったんだからなぁ!」
緑の光に力を与えられたかのように、ヴァルガス兄弟の歌声が輝きを増していく。息を吸い込む為の一拍の間をおいて、二人の紡ぐ曲が変わる。ハレルヤから、歓喜の歌へ。人の喜びに同調するように、二人の声が喜びを紡いで天に伸びていく。ローデリヒはルートヴィヒを守るように腕を伸ばし、その体を抱きしめるように壁の向こうをにらんでいた。戻ってくることをひたむきに信じ、疑ってすらいない音楽家の瞳はやがて輝きを取り戻し、唇が開かれる。天使の二重奏に、清廉な歌声が加わった。二人は顔を見合わせて笑い、音楽家の喜びに歌声を重ねていく。音楽の奔流が、夜の空気を震わせた。
エリザベータは、息を吸い込んだ。自分だけがこの場で、なにもできていないような気がした。できることはまさか、このままただ、ギルベルトの帰還を待つことなのだろうか。誰もがこんなにギルベルトに向かって手を伸ばし、出来るかぎりの努力をしているというのに。
「エリザベータ……! すまない。頼み、たい」
「ルートヴィヒ?」
兄の意識を強制的に混入される感覚にひたすら耐えながら、ルートヴィヒがエリザベータを呼ぶ。男は身の内側を荒らす感覚に、うまく身動きすら取れないようだった。気持ち悪さを耐えるように唇を噛み、ルートヴィヒはエリザベータに視線を合わせて言い放つ。
「兄さんを……迎えに行ってくれないか、エリザベータ」
「あなたしか、それが叶わないのです」
この状況では。あるいは、そうでなくとも。貴女だけがきっとそれを可能にする、と音楽家は歌声の合間にささやき、ルートヴィヒは悔しげに頷いた。本当は誰より、ルートヴィヒこそがギルベルトを迎えに行きたいに違いない。悔しげな表情はそれを物語っていて、しかしその思いを、エリザベータに託そうとしていた。
「お願いだ、兄さんを。あの壁の向こうから、連れて……帰って来て、くれ!」
「私で、いいの?」
残酷な問いだったに違いない。それを分かっていてあえてエリザベータは口にし、ルートヴィヒは獰猛な笑みでその想いに応えた。
「ああ……、行ってくれ。ただし、連れ帰ってこなければ許さない!」
「分かったわ……約束する。私が必ずあのバカを、ここまで連れて帰ってくるわ」
頷いて立ち上がったエリザベータに、仕方がない、というような視線が向けられる。振り向けば見ていたのはアーサーで、紳士は決意を込めて壁を越えていこうとする女性に、集中を途切れさせないようにしながら問いかける。どことなく、からかいたがる様子だった。
「行くのか? 俺だけでも十分だと思うけど」
「十分、不十分はこの際関係ないのよ。……それに私、待ってるだけのヒロインじゃないの。欲しいものは奪いに行くし、待てないなら迎えに行って殴ればいいだけの話だったわ。私としたことが、なにを迷ってたのかしら」
そうよ、ギルが来ないなら私が出向いて引っ張ってくればいいのよね、と笑うエリザベータに、アーサーはひょいと肩をすくめてみせた。
「そうか。なら、行けばいい……が、あの群衆をかき分けていくのは大変だと思うが?」
「……あの人混み、どうにかして二つに割れないかしら。モーセのアレみたいに」
目を半眼にして呟くエリザベータは残念なくらいに本気で、アーサーはくすくすと肩を震わせて笑う。その上でマシューに目配せをすれば、英連邦の長女は心得た顔で走り去り、そしてすぐに戻ってくる。手に手綱を持って、マシューは白い毛並みの馬を引いてきた。そして手綱を、そっとエリザベータの手に握らせる。
「どうぞ」
「ど、どうぞって言われても……ちょ、っと、アーサ!」
「いいじゃん、白馬の王子様」
ニヤニヤ笑いながら言うアーサーは、ある程度予想して馬を用意していたに違いなかった。見たところ馬はしっかりと訓練された競争馬であり、長距離を走り抜けるのに適した体つきをしていた。乗れるはずだろ騎馬民族、と挑発を受けて、エリザベータの心が燃え上がった。ここで乗れない、と言っては草原には二度と帰る気がしない。当たり前だ、と低く吐き捨てて、エリザベータはひらりと馬にまたがった。
「行ってやるわよ……! 壁だってバルコニーだって越えて迎えにね! シェイクスピアなんて冗談じゃないわ! 毒りんご食べてたら吐きださせてやる!」
「毒薬飲んで死ぬような仲でもないしな、お前ら」
どちらかと言えば二人はその毒薬の制作者の元まで行って、なんてものを作るんだ危ないじゃないかっ、と意味の分からない文句で罵倒したおすタイプだ。毒は人体に対して危ないから毒なのだが、二人はその存在意義さえ否定するだろう。間違っても心中はしてくれない。悲劇は喜劇に早変わり、そのまま強引に力づくで勝ち取った、ハッピーエンドの幕引きがよく似合う。行ってこい、と手を振って見送るアーサーに微笑み、エリザベータは手綱を握った。壁を睨みつける。そしてエリザベータは馬の腹を蹴り、壁に向かって走らせた。
太陽に照らされる鮮やかな緑だけが、ギルベルトの胸の中に残されている全てだった。後の全てはもう『ドイツ』の元に行ってしまって、ギルベルトの体はほとんど抜け殻だ。ゆるり、と金色の光が一粒、また体からこぼれては消えていく。『国』の体から金の光が立ち上る意味を知らずとも、ナターリヤには感じ取れるものがあったのだろう。少女は腕の中に男を閉じこめるように、必死に抱きしめて唇を噛んでいた。ずっと響いていた罵倒の声もすこし前からは消えていて、ギルベルトは苦笑をしながらナターリヤを見上げる。
「美人、台無しだぜ……? 笑え、よ」
ふ、と金の光がまた一つ消える。ギルベルトは絶望的な気持ちで瞳を閉じ、微笑んだ。もう、この温もりを持って守ってくれている少女の名すら分からない。バカ、と怒りをたたえた涙声が揺れる。
「消えるな……消えるなぁっ! ダメだ、そんなのは……弟が、お前、待ってるって。壁の向こうに待ってるって、言っただろう!」
泣きじゃくる一歩手前で踏みとどまるナターリヤを、離れた所から兄姉たちが見守っていた。イヴァンとライナはあまりの事態に声もで出ず見守ることしかできず、バルト三国はそれぞれに手を握って悲しい光景を耐えていた。誰も、少女と男から視線を逸らさなかった。『国』として、視線を逸らすことが許されていないかのようだった。冷たい色の瞳に涙をいっぱいに溜めて、ナターリヤが首を振る。
「ギルベルト……目を、開け」
ぎゅぅ、と頭を胸に抱き寄せる。ぐったりと目を閉じて血の気を失った顔の輪郭が、光に弱く崩れていく。悲鳴をこらえたのは、ナターリヤがソビエトに属する『国』であり、兄の前で醜態を晒したくなかったが故の矜持だった。誇り高く唇を噛んで血をにじませた少女の頬を、涙が伝い落ちる。
「開け……壁が……!」
ギルベルトの愛した国民が、彼の慈しんだ弟と隔てた換壁を崩していく。手に持ち降りおろすハンマーが、どこかから持ってきた重機が。そして歓喜と言葉の渦が、ベルリンの壁を崩壊させていく。
「壁が、崩れたぞ……! 起き……っ」
ぼろ、とついに音を立て、ギルベルトの輪郭が大きく崩れる。光に分解されてしまうよな姿でうっすら瞳を開け、ギルベルトは大きく息を吸い込んだ。手を伸ばす。指先を掴んで、ナターリヤは叫んだ。
「駄目だ! 駄目だ駄目だっ! ギルベルト!」
「……むら、さ、き?」
ひび割れた唇が、最後の吐息を吐き出した。ふっ、と残念そうに瞳が伏せられる。
「……み……じゃ、な……い」
緑、じゃない。絶望的な切なさに、ナターリヤの瞳が大きく見開かれる。どこにでもあるその色を、誰に求めているかなど聞かなくても分かった。ナターリヤは壁を見つめる。その向こうを。崩れていく、その壁の向こうを。その場所に居るであろう存在を。
「リ、ザ……」
ゆるゆると、瞳が閉じられる。
「エリザ……!」
光が崩れる。熱が、消えていく。
「エリザベータ……! ギルベルト、がっ!」
存在が。
「あ……あ、あ……ああああああっ!」
消える。その、寸前に。ふわ、と優しさをはらんで空気が動いた。ギルベルトから舞い上がり、消えてしまおうとする光の欠片が戸惑うように揺れる。その一粒を愛しむように、温かな声が囁いた。
『おやおや……困ったコだね、我が祖国殿は』
こんなに可愛い女の子を泣かせて、と。笑いさざめく声が、崩壊を引き留めた。散らばった光のかけらを救い集めるようにして、しわくちゃの年老いた手のひらが、形を失いかけているギルベルトの頬を撫でる。
『起きなさい。君はまだ、私の所に来てはいけないよ』
『……そうだぞ、マリア』
ちいさなてのひらが、崩れた体を再生させるように、ギルエルトの輪郭を撫でていく。黒い服、黒いマントに黒い帽子の、古めかしい出で立ちをしたほんの幼子だった。ナターリヤは目を見開いて、大きく息を吸い込む。幼子の姿を、遠目に見たことがあった。そして『国』に対して祖国と呼びかける存在など、その上司しかいない。ナターリヤが吐息に乗せてそれを囁くよりはやく、かすれた声が二人の名を告げる。
「フリッツ親父……に、兄、うえ?」
『女の子が、必死に走って迎えに来ましたというから、なにかと思えば……駄目だろう、マリア。アーサーがひどく心配していたぞ?』
『おや、神聖ローマ殿の所には女の子でしたか。私を呼びに来てくれたのは、東洋風の服を着た青年でしたが』
ここで身代わりをして留守番をしているから、早くギルベルトの所に行って現世にとどまらせてあげてください。超絶反則技ですけれど、と言った青年と少女の呼びかけに応え、二人は今ここにいる。国家としてのプロイセンを象徴する鉄十字に導かれ、『国』としての『プロイセン』を鮮やかに彩っていた黒鷲に導かれて。フリードリヒはやさしい手つきで、呆然とする息子を撫でた。
『お前があまりに心配で、様子を見に来てしまったよ……駄目だろう、ギルベルト。婦女子を泣かせて消えてしまおうとするだなんて、騎士道の風上にもおけないよ?』
パチン、と壮年の男がするには気持ち悪いはずのウインクをきざに決めて、フリードリヒ大王はギルベルトの手を取った。しわくちゃの、年老いたてのひらだった。とても、あたたかいてのひらだった。
「親父……親父っ!」
『全くお前は、誇り高く『生きろ』と言ったのに』
体中のほころびを全て消し去って、神聖ローマが微笑みながらギルベルトの顔をのぞき込む。
『生きなさい。お前は、こちらに来てはいけない』
「兄上……でも、でも兄上! 兄上だって、フェリちゃんはずっと……今でも、兄上のことをっ!」
『……知ってる。でも、俺たちは大丈夫だ』
ちゃんといつでも、今でもつながってる。ちいさな手を胸に押し当てて笑う神聖ローマは満面の笑みで、ギルベルトはそれ以上を言えなくなってしまった。口をつぐむギルベルトをフリードリヒは柔らかく抱きしめ、ナターリヤのことも立ち上がらせる。
『さあ、いきなさいギルベルト。君にはどうやら、お迎えが来たようだ』
「……え?」
『……相変わらず、なんというか……性別不明な奴だな、『ハンガリー』は』
馬のいななきと、ひとの悲鳴が響きわたる。なにかと思って振り返ったギルベルトは、ものすごい勢いで疾走してくる馬とそれを操る人を見て、なんだか意識を失いたくなった。ぐら、とよろけた体を支えたのはナターリヤだ。少女はすっかり元通りになったギルベルトの体にぺたぺたとさわり、その現実感とぬくもりに、なんだか気持ち悪そうな顔つきになる。
「……戻ってる。よかったな」
「あ、ああ。どうも……。いや、ありがとうな。ナタ」
お前が守ってくれたおかげで、きっと親父と兄上が間に合ったんだ、と苦笑したギルベルトに、ナターリヤは殺気全開のにらみを向ける。ギルベルトは忘れるべきだった。それもわりと、今すぐに。兄さんの水道管を借りてきて殴るべきだろうか、と思案するナターリヤから、ギルベルトは一歩離れる。その瞬間腕が強く引かれて、馬上に体が引きずりあげられた。
「……っ、重い!」
「肩っ! 俺様の肩が外れっ……!」
どさ、と荷物のように馬上に腹ばいにさせられて、ギルベルトはじたばたと脚を動かした。腕を一本釣りの要領で掴んで馬の上などに引き上げれば、ごく当たり前の動きとして、人体は肩が外れる。それが男の体なら、なお体重の負担が大きいのだった。自身も無理な動きで腕や筋を痛めてしまっているだろうに、エリザベータはそんなことをみじんも態度に表さなかった。ただ恐ろしいほど鮮やかな緑の瞳が、ギルベルトを強く見つめる。それは最後まで、最後の最後まで、ギルベルトが持っていた『緑』だった。
「肩が外れたくらいでわめくなはめ直せ! ああもう……私が、どれだけ心配したと思ってんのよこのバカギル! ギルベルト・バカデシュミット!」
「テメエええええっ! なんだやんのかこらぁっ!」
「ふん。そんな私の戦利品でしかない態度でぐだぐだわめいてもうるさいだけなのよ! いいから舌をかまないように口を閉じるか、さっさと座り直すかしなさい!」
帰るわよっ、と共の帰還を疑いもしない声で言い放ち、エリザベータはナターリヤと、ギルベルトを優しい瞳で見守っている二人に視線を向けた。ナターリヤは無言で馬から一歩離れ、フリードリヒと神聖ローマはなにも言わずに視線を逸らした。見なかったことにして欲しい、とその横顔が物語っている。二人が幻覚でも人違いでもないことだけを半眼で確かめ、エリザベータは深々とため息をついてから納得した。アーサーがやっていたことと、ことりと鉄十字の謎が解ける。これは確かに、あった方が二人を呼びやすいだろう。そしてこの二人がいれば、絶対にギルベルトは消滅を免れるであろうことも、疑うことなく信じられる。
アーサーが全く慌てない筈だった。召喚の準備と実行が間に会うかだけが勝負で、行ってしまえば勝率は百パーセントを優に超える勝負なのだから、取り乱す訳がないのだった。それを自分だけ知っていて、周囲に詳しく派告げない意地の悪さがアーサーだった。覚えておけ、と思いながら頭をふって骨折り損、という言葉を吹き飛ばし、エリザベータは微笑みを浮かべて二人に頭を下げた。ナターリヤにも同じようにして、それから遠巻きに見つめていた少女の姉兄と、バルト三国を見つける。
彼らは一様に苦笑して、馬上の二人に手を振った。もう大丈夫、連れて行け、ということだ。エリザベータは華やかに笑い、馬の腹を蹴り、壁に向かってかけだしていく。ギルベルトがなんだか慌てる声を出すのがおかしくて、エリザベータは声を上げて笑った。
「ねえ、ギルベルト!」
「なんだよ、エリザベータ」
「……呼んでみただけ」
ねえ、壁飛び越えてみようか、といたずらに囁いてみると、嘘だろうと言わんばかりギルベルトの顔つきがひきつる。それにごく穏やかに微笑んで、エリザベータは馬を駆けさせる速度を上げた。冷たい風が、頬を切って流れていく。エリザベータは、ぐっと手綱を強く握った。今なら、なんでも出来そうだった。
帰ってきたギルベルトはなぜか顔面蒼白のふらふらで、馬から下りるとすぐにルートヴィヒに抱きつき、離れようとしなかった。はじめこそ嬉しがっていたルートヴィヒは、十分もそのままだと怪訝に思ったのだろう。いぶかしみながら何でもないと首を振る様を、眺めるエリザベータはやけに満足げだった。三人からすこし離れた所では、二人の天使が伸びやかに、指揮者に会わせて音楽を紡ぎあげている。その歌声に背を押されるように、視線の先で大きく、壁が崩れた。
アーサーの足下では騒音に耐えきれなかったのか、香とシェリがもぞもぞと動く。深い眠りから、起きそうな様子だった。あの二人は無事に帰ったらしい。天秤の調整役は任務を終えたので、香とシェリは魔法的な強制の眠りから、疲労を回復させる通常の眠りに移行していた。二人とも呼吸は安定していて、見た所、精神が向こうに囚われていたり、迷って戻って来ないこともなさそうだった。二人は、疲れたので眠っているだけだ。
もっとも、完全に目を覚ますまで本当に安心はできないのだが、とりあえず、アーサーの魔法は無事役目を終えた。やれやれと安堵の息を吐き、アーサーは背後を振り返る。マシューは微笑んで、その視線を受け止めた。おつかれさまです、と囁く声が、アーサーの疲労を回復させる。ゆったりとした気持ちでマシューに向かって手を差しだし、アーサーは穏やかに微笑んだ。
「よし、帰るか」
「はい」
てのひらが、そっと繋ぎあわされる。二人が起きるまでの短い間、アーサーはその手をつないだままにするつもりだった。視線をもう一度、ギルベルトたちに向ける。ギルベルトはすこし切なげな表情で頭の上の定位置に戻ってきたことりを眺め、フェリシアーノに目を向けた。フェリシアーノはギルベルトの視線に、全て分かっているような瞳の色で、それでも満面の笑顔を向けた。歓声があがる。またどこかで、壁が壊されたようだった。
数々の情報が飛び交い、彼の国の騒ぎがとりあえず収まったと報告を受ける頃には、朝日が昇り終えていた。昼前に差し掛かるような時刻だった。じいさん徹夜はもう無理なんですよダメ死んじゃう、と机にぐったりと突っ伏す菊を気の毒そうに眺めるアルフレッドは、室内でただ一人元気な『国』だった。耀は菊のように動かなくなってはいないものの、帰り支度を整える手が止まり、唇を押さえてあくびを噛み殺しているのが見える。
そんな様子だから、耀の帰り支度は遅々として進んでいない。十五分前、アルフレッドが見た時と変わっているものと言えば、耀の感じているであろう眠気の量と、机に産していた書類が、鞄にしまい込まれたことくらいだ。外は寒いのに、コートもマフラーも手袋も取りに行く様子がない。恐らく、クロゼットまでの数歩を歩く気力がないのだろう。アルフレッドは自分のジャケットをはおりながら、クロゼットに歩み寄る。
「もう、俺が居なかったら君たち、家に帰れもしないんだぞ! 絶対に路上まで出られずに、その廊下で倒れて寝ちゃうに決まってるんだ!」
「……帰る。我、家、帰るあるよ」
「はいはいはいはい。起きてね、おじーちゃん。とりあえずコートとか取って来てあげたから、これ来て帰るんだよ? 俺は悪いけど、もう行くからね」
明らかに半分寝ている受け答えをする耀に防寒具一式を押しつけ、アルフレッドはやや投げやりに言い放った。心配する気持ちもあるのだが、アルフレッドはこの後やらなければいけないことがある。とりあえずアーサーに電話して直に詳細を聞くのもそうだったが、せっかく日本に来ているのだから、アルフレッドはアイスを食べなければいけないのだ。それはもはや、ヒーローの義務のひとつなのである。だって日本のアイスは美味しい。
なにを食べるか考えつつ、耀が防寒具をしっかり受け取ったのを見てとって、アルフレッドは早足に部屋の出口へと向かう。扉を開けて廊下に出て、あ、と気が付いたアルフレッドはひょこんと体を半分だけ部屋に戻した。
「ねえ、菊。耀も!」
「……なんですか?」
大丈夫ですなんとか動ける、光合成が出来ると思えば、と頭の中身が半分夢の世界に突入している発言でむくりと身を起こし、菊は緩慢な仕草で首を傾げた。その眠たげな顔を可哀想なものを見つめる表情でしばし眺め、アルフレッドはくす、と悪戯に口元を綻ばせる。
「ヒーローも馬鹿にしたもんじゃないだろ?」
ほら、大丈夫だった、と心から嬉しげに笑って言い残し、アルフレッドは足取りも軽く部屋を後にしていく。アイスアイス、日本のアイスー、と歌を歌いながら遠ざかっていくアルフレッドの言葉の意味を悟り、菊は思わず笑ってしまった。確かにその通りだ。彼の兄弟と育て親は、見事にヒーローの期待に応えてみせたのだから。
「……さて、と」
ぐぅっと身を伸ばして立ち上がり、菊は大きく溜息をついた。家に帰ろう。そして寝よう。眠いというか、眠すぎてもはや気持ち悪くなりかけている意識を叱咤して立ち上がり、菊はそーっと耀を見た。耀はあと数秒放置しておけば立ったまま寝てしまいそうな様子で、頭をふらふらさせては首を振っている。この後の耀は特に緊急の予定もなく、中国に帰るだけだという。言葉を考えながら、菊はそっと唇を開いた。
「耀さん」
「……なん、あるか。我、家、帰るあるよ」
「はい。それなんですが、明日の朝ではいけませんか?」
その状態では、車に乗って空港まで移動するのでもお辛く大変でしょうし、と苦笑して。菊はなるべく普通に、なんの気なしに聞こえるようにと祈りながら、言う。
「よろしければ、今日は、私の家にお泊りになりませんか? ここからなら車でそう遠くはありませんし……そういえば、昨夜は、とても月が綺麗で。幸い、ですね。美味しい日本酒も、ありますし、鍋なんて」
「……菊」
くす、といつの間にか眠気を飛ばしている声で笑われて、菊はかっと全身の血が熱くなる錯覚を覚えた。それ以上なにも告げられなくなり、菊はぎこちなく視線を外す。恥ずかしくて、なんとなく居たたまれない。ご迷惑でしたら、聞かなかったことにしてください、と呟けば、耀の手が菊に伸ばされた。す、と頬が撫でられる。視線をおあげ、という優しい求めの仕草。逆らいきれずに目を向ければ、耀はうっとりと微笑んでいた。
「菊」
「は……い」
「お前と共に見る月は、さぞ美しいことだろうよ」
泊めておくれ、とくすくす笑いながら囁く耀に、菊は深呼吸をしながら頷いた。笑う耀からぱっと離れ、菊は慌ただしく帰り支度をしてしまう。耀はのんびりと防寒具を身に付け、菊に手を差し出した。なにも言わずにひらつかせて誘うと、菊はううぅ、と恥ずかしげに呻く。けれどそれだけで、やがて手は繋がれた。これから冬が深くなる。触れ合う熱は、ことのほか温かい。だからですよ、と言ってくる菊に、耀はくすりと微笑んだ。
紅梅が咲く季節になっても、離すつもりはなかった。