イギリスの気持ちが、未だ安定していないからだ。アメリカの秘めた想いを、知っていたからだ。思春期の反抗的な甘えや、屈折した感情をイギリスに上手く伝えられないまま、独立してしまったことも知っていた。好きだけど、だからこそ、この手を離して歩いて行くと。言葉にして伝えず、だからこそ伝わらないままに。絶対君に嫌われたとか憎まれてるとか思ってるよ、と心の中で兄弟に語りかけつつ、カナダは腕を持ち上げる。
そしていつの間にか、背も体格も追い抜いてしまった宗主国の背に腕を回す。華奢だとは思わない。頼りないとも、思わない。それでもカナダの腕の中にすっぽり包み込んでしまえる体だった。力を込めすぎないように注意して抱きしめて、カナダは大丈夫、と誇りを持って宣言した。
「英領カナダはアメリカに屈しない。……イギリス。僕が、戦うから」
「カナダ。でも、お前はアメリカの」
兄弟だろう、と。『国』という存在の中ではごく稀なことに、同じ大陸の中でも血を分けて存在した二人なのだろう、と。自身の兄弟仲の悪さがあるからこそ苦しげに、ためらいがちに告げてくるイギリスの唇に、カナダはそっと指先を押し当てた。そうして、黙って、と穏やかに笑う。
「ねえイギリス、戦わせて。こんな風に、僕をイギリスから奪わせないで。イギリス……イギリス、よく聞いて」
ねえお願い、とペールグリーンの目を真剣にイギリスに向けて、カナダは言う。
「いつか僕も、イギリスの手を離れる時が来るかも知れない。でもそれはこんな形でじゃないし、今でもないんです」
「……独立、したいのか?」
そっと指を離したとたんにもれた不安げな声に、カナダは思わず笑ってしまった。全く、カナダの気持ちなどなにも分かってくれていないひとなのだから。それでも、尋ねてくれたなら、カナダはそれに応えられる。言葉なら、千も万も持っていた。そしてそれを口にすることに、なんのためらいも無かった。歌を捧げるように、唇を開く。
「イギリス。……僕の、大好きなイギリス」
問いには答えずに甘えるように抱きついて、カナダは何度もそう繰り返した。イギリス、大好きなイギリス。なにより思いを込めて、受けた愛情をそのまま声にするように言い続ければ、イギリスの顔がどんどん赤く染まっていく。やがてぐったり脱力したイギリスは、顔を隠すように手を押し当て、お前質問にはちゃんと答えろよな、と甘く叱る声を響かせた。カナダは満面の笑みで頷き、大好きなイギリス、と笑う。
「イギリスを守るようになりたいです。守られるんじゃなくて、イギリスが大好きだから、イギリスがこんな風に怪我しないように守れるようになりたい。強くなりたい。隣に立って、背中を守りたいんです。でもそれが……それが、英領のままで無理なんだったら、独立したいってことになるんだと思います。……分かってください。僕はイギリスが大好きで、大切で、だからなんです。だから、だから……ええと、ええとだからっ!」
言葉が出てこない。想いに邪魔されて、喉がつまってしまった。気持ちは溢れそうなのに言葉にならなくて、カナダは悔しくて涙を浮かべる。心配性の妖精たちが、カナダとイギリスの周りを飛び回る。なんてこと、なんで泣かせてるのイギリスったら、と口うるさくされるのに苦笑して、イギリスはカナダの涙を拭ってやった。ぽろぽろと零れていく涙を指で拭い、唇をそっと押し当てて慰める。もう泣くのは止めなさい、と囁いて。
そして、分かったよ、と言葉を告げる。分かった、分かった、と歌うように告げて頭を撫でてやると、カナダの視線がゆっくりと上がった。
「……ほんとう?」
「ああ。分かったよ。だから泣くのはおよし、可愛いカナダ」
「うんっ。大好きです! イギリスっ!」
飛び跳ねるように笑って抱きついて来たカナダの背を撫でて、イギリスは優しく微笑した。まだまだこどもだ、と思いながら。それでも大人の考えを持つようになって来たのだと。嬉しくも寂しく、複雑な思いを持て余してイギリスは大きく息を吐き出した。けれど、虚脱状態が許される事態ではないのだ。カナ、と幼い頃の呼び名を口にすれば、カナダは明るく笑って顔をあげた。ん、とちいさく頷くのに、イギリスは告げる。
「英領カナダにイギリスが命じる。カナダを守れ。できるな?」
「もちろんっ!」
「こら、返事は『はい』だろう? ……いいか、カナ。無理はするなよ? 怪我には気をつけろよ?」
はい、とにこにこ笑顔で頷いたカナダを、イギリスは満面の笑みで抱きしめた。全身で好きだと伝えてくれるこの存在が、可愛らしくてならなかった。幼い頃を思い出して髪を撫でてやれば、カナダは恥ずかしげに肩をすくめただけで、甘えるように手に頭を持たれさせてくる。手放せない、と不意にイギリスは思った。この存在だけは、もうどうしても手放すことができない、と。不安のようにどす黒い気持ちで、衝動的にそう思う。
離れていくと言うなら、許せそうにもない、とも。ぎゅうぅ、と幼子が人形を抱くより強く腕に力を込めれば、カナダは苦しげな表情で息を詰めるが、けれどそれだけだった。大丈夫ですよ、とカナダは言わない。安心してくださいね、と囁きもしない。信じてください、と願いを口に出すことすらしなかった。ただてのひらが持ちあがり、ぬくもりと愛しさを分け与えるように、イギリスの強張った腕に触れる。とんとん、と指先が腕を叩く。
力を入れられすぎて強張った筋が痛まないようにと、穏やかな脱力を求めるだけの仕草だった。拘束を、カナダは完全に受け入れていた。ふっと全身から力を抜いたイギリスの胸にすりよって、カナダは大丈夫、と声に出さず己に言い聞かせる。大丈夫。信じてくれないなら、信じてくれるまで、信じられるようになるまで、いつまでだってカナダは待てる。カナダは視線をふわりと持ち上げて、混乱するイギリスと視線を合わせる。
「これからも、これまでも」
「……カナダ」
「あなたの傍に」
忠誠を誓いなおすように、カナダはイギリスの手を引き寄せ、穏やかな仕草で唇を落とした。その手を頬にくっつければ、イギリスは泣きだしそうな微笑みで、カナダの顔を撫でてくる。うん、とイギリスは言った。うん、としか言わなかった。それでも、カナダは十分だった。イギリスは、カナダの言葉を否定しなかった。頷くだけでも、たった一言の呟きであっても、意思を受け入れてくれた。そのことがたまらなく、嬉しかった。
どうしようもなく、愛しかった。
フランスによる『昔話』の為に日本が用意したのは、会議場として提供していた部屋よりは狭い、けれど集まった人数に対してはかなりの余裕を持った部屋だった。大体の『国』が興味はあるがわざわざ話を聞く程でもない、と散っていく中、残ったのは日本もよく知る者たちばかりである。フランス、日本、アメリカに加えて、恋の予感がするからとうきうきわくわくついて来たイタリアと、引っ張られてきたドイツは溜息をついている。
ロシアは、ただ単に妹から逃げたかっただけなのだろう。フランスの話に耳を傾けるでもなく、部屋の隅でなぜかあやとりをしていた。邪魔にならないようにこれで遊んでいてください、と日本が渡したものだった。その隣では眠たげに目を瞬かせるプロイセンと、呆れ顔で見守るハンガリーとオーストリアの姿もある。三人はやはりフランスの話を聞きに来たというよりは、引っ張られて行ったドイツの付き添いで、保護者だった。
日本はこくりこくりと船をこぐプロイセンの姿をそっと伺い、体調が悪い故の眠気ではないことだけを確認して、ひとまず言葉を終えたフランスに意識を戻した。もしプロイセンの体調が悪いようならドイツが大人しくイタリアに引っ張られていく訳もなかったし、ハンガリーとオーストリアが黙っている訳もない。あれは本当に、ただ単純に、眠いだけなのだろう。またどうせ夜更かししてブログでも書いていたに違いない、と苦笑する。
「……それで、まだ続きもあるんですよね?」
「もちろん。これからが本番さ」
ぱちん、と綺麗な印象のウインクを決め、フランスはとりあえず小休止ね、と唇を閉じて微笑んだ。フランスの話聞かせる『カナダとイギリスの関係と、ああなった理由』について絶対必要であるという過去は、それぞれの国が持つ歴史と同じ長さで、現代に辿りつくまではまだまだ時間がかかりそうだった。一気に話すとお兄さんも疲れちゃうのよ、と笑うフランスに、日本はひょいと肩をすくめただけで、深くは問わなかった。
話の途中から、だんだん、アメリカの表情がこわばって行ったのを二人とも気が付いていた。ひとまず、とフランスが言葉を区切ったのは、年若いこの『国』を気遣ってのことだ。目の前で『元親』が倒れ、『兄弟』に糾弾され、立ち去られてしまったことに対する精神的な衝撃は大きいだろう。それは自覚していなくとも、じわりと表面に浮き上がってくるものだ。加えてフランスの語る言葉は、決してアメリカに優しいものではない。
ただでさえ、独立を経て現在に至るまで、アメリカとイギリスの間にはブランクがある。親しく会話を交わすことなど決してなく、交わす視線は敵意と緊張ばかりだった日々が横たわっているのだ。今ですら、イギリスはアメリカの独立を『許した』訳ではないのだろう。ただゆるやかに、時の流れと、それでも捨てきれなかった愛しさに、『受け入れている』だけだ。独立おめでとう、の言葉を、アメリカは夢以外で聞いたことがない。
二人からのさりげない視線にちゃんと気が付いている表情で、アメリカは深々と息を吐きだしてみせた。離れていた間の『元親』と『兄弟』の話を、聞いたこと自体が初めてだった。その空白はアメリカに取って触れられないものであり、ちょっとした禁忌や、罪悪感すら持っているものだったからだ。それなのに、それを他人の居る前でずばずば話されたあげく、カナダに侵攻した黒歴史を白日の元に晒されてしまったのである。
笑って許してもらえる、とは思っていなかった。国が行ったことと、『国』が行うことは違う。国が他国に侵攻したからとて、『国』が、『国』を侵略する意思を持っていたとは限らない。けれど、それでも、その時に限って。その、時だけに限って、アメリカは確かに、乗り気ではあったのだ。手ひどく傷つけてしまったイギリスに対しては、もう後に引けないような気持ちを持っていた。カナダに対しては、言い知れぬ悔しさがあった。
だってその時もまだ、カナダがイギリスの傍にいたのだ。離れようとして居なかったのだ。やがて『英連邦の長女』として名を響かせることとなるカナダは、はじめからずっと、その時に至っても、イギリスの傍で守護者たりえたのである。それが、無性にはがゆく、悔しかったことを覚えている。ぎゅっと手を握って、アメリカは息を吐きだした。八つ当たりだ。単なる、八つ当たりなのだ。今ならばそう思える。今だから、そう思える。
「……フランスなんか、活弁士にでも転職しちゃえばいいんだぞ」
へしょり、と机に上半身を突っ伏して文句を言えば、フランスは眉をあげて苦笑いし、日本は口元に手を添えて肩を揺らした。フランスの語る言葉はその場に居なかったにも関わらず、まるで目の前のスクリーンに映像を映し出されているかのごとく、鮮やかにその情景を想像させたのだ。なぜフランスが、その時のことを知っていたのかと、アメリカは問いかけて口を噤む。そんなこと、聞かないでも分かる。カナダが言ったのだ。
恐らくは、フランスが倒れたカナダを落ち着かせるのに慣れていた理由に、それは繋がって行く。カナダは、フランスを頼ったのだろう。こういうことになりました、だからお願いしますと、最後のブレーキをフランスに手渡していたのだろう。その結果が出てしまった理由、過程を全て語り聞かせて。フランスは恐らく、それをもう一度己の口から語りなおしているだけに違いない。そういった再構成が、ひどく上手い存在なのだ。
だからこそなお、まっすぐにアメリカの胸に響く。フランスを通してアメリカは、ずっとカナダと向き合うような気持ちで話を聞いていた。鏡の向こう側で、カナダが笑いながらアメリカに手を差し伸べている。冷たい隔たりを壊すような気持ちで、手を重ねて繋ぎ合せるような気持ちで、アメリカは息を吸い込んだ。
「フランス」
「うん?」
「もう、いいよ。大丈夫。……聞けるから、話しておくれよ」
別に今だって、聞いてなかった訳じゃないんだからさ、と唇を尖らせて言ってくるアメリカを、フランスは観察するように見つめた。その視線に臆することもなく、アメリカはにこ、と太陽のひかりのように明るく笑う。雲を切り裂き、地上に朝を届ける眩いきらめき。その、強さ。フランスはまぶしげに目を細めて微笑し、分かったよ、と言ってやった。でも、その前に。にっこりと気を取り直した微笑みで、フランスは傍らに立つ日本を見た。
日本はすこし不思議そうに首を傾げ、フランスと目を合わす。はい、と語尾が問いの形に上がる日本の呟きに、フランスは大したことじゃないんだけどさぁ、と優しい声で問いかけた。
「お兄さんの話聞いて、どんな感じ?」
「どんな、とは」
「イギリスと、カナダ、だよ。二人の関係、どう思った? ……多分、今までの二人と比べて、印象変わったと思うんだけど」
日本は、特に考えるそぶりも見せず、蜜月ですね、と言い放った。アメリカからは恨めしげな視線が向けられるが、日本は綺麗な微笑みひとつで抗議を受け流し、黙っていなさいこのあんぽんたん、と言い放ってアメリカを撃沈させる。ことイギリスに関しては日本が標準装備している『本音と建前』や『オブラートに包む』が消え去る傾向にあった。いつものことである。さらに今日の日本は、すこし精神的に疲れているのだ。
すぱんっと本音で切りつけた日本とぐったりとしたアメリカを見つめ、フランスはあんま苛めんなよー、と注意して肩をすくめた。日本がそう答えるだろうな、と思っての問いだったとは、決して顔には出さない。一瞬でも半狂乱に陥ったカナダを見てしまったことへの、ささやかな復讐であり、簡単なオシオキだった。まあお兄さんもイギリスをあの状態に陥らせた事に対して、思う事がないわけではないのよ、とフランスは思って。
そのことを全く表情に出さず微笑み、再び唇を開いた。
「それで、話の続きだけどな? そのまま、アメリカとカナダは開戦に至った訳だ。その頃はお兄さんもイギリスと大陸で殴りあってたから、アメリカとカナダが実際問題、どういう風に戦ってたか、当時は詳しく知らなかったけど……まあ、ド派手な兄弟喧嘩みたいなもんだろ、あれは」
「ですねぇ。お母さんから勝手に一人立ちした長男が、未だべったりの次男に嫉妬してお前も離れろよばかー! って文句つけてるようにしか見えませんものね。弁解があるならお聞きしますよアメリカさん。聞くだけですが」
「ひどいや日本。フランスも」
机に倒れているのも飽きたのだろう。今度は椅子にぐったり身をもたれかけさせているアメリカは、しかしそれ以上言葉がないようだった。やぶへびだ、と分かっているのだろう。室内に集った者たちから、なんとなく呆れの視線を向けられて、アメリカは居心地悪く身じろぎをした。日本が息を吐いて視線を外したと同時に、はいはいはーいっ、とイタリアが元気よく手をあげる。恋に厳しいイタリア男は、何故かやけに楽しそうだ。
嫌な予感しかしない。でもそれがいい、と頷く日本の隣で、フランスは全面同意の頷きをみせた。この際だ。兄ちゃん、俺質問ーっ、と無邪気に笑うイタリアに、フランスはいいぞ、と言葉を促した。イタリア・ヴェネチアーノ。北イタリアの至宝。イタリアに宿るきらめきそのもののような存在は、きらきら輝く瞳で言い放った。
「つまりカナダは、イギリスとの愛の為に立ち上がったのでありますかっ!」
がたたたたっ、と派手な音を立ててアメリカが椅子から落ちた。しかし誰も目を向けないのは、それだけイタリアの発言が衝撃的だったからだろう。どこをどう解釈すればそうなった、とはフランスも思わない。確かに、それは正解ではあるからだ。しかしはきとした言葉にしてしまうと、カナダの想いとすこし食い違ってしまう気もする。違和感がある。たとえば愛、もしくは恋という言葉でくくれる程の想いではなかった筈なのだから。
どうしようもない硬直からいち早く解けた日本が、それでもネタにっ、となにやらメモしているのを横目で眺め、フランスはやる気を失った表情でてきとうに頷いた。違う、とは思う。なんとなくそれは違うとは思うのだが、さりとてフランスは、上手い説明の言葉を持たないのだった。
「……そういうことにしておくか」
「しないでおくれよっ! ちょっとフランスっ! イタリアもなに言ってるんだいっ!」
「ヴェー。愛の為に戦う、かぁ。カナダかっこいー。ひゅーっ!」
イタリアはすでに自分の世界に突入していた為、立ち上がって抗議するアメリカの声が聞こえないようである。隣に座っているドイツが後で言い聞かせておくから、と疲れた表情で頷くのでよしとして、アメリカはフランスを苛々と睨みつけた。恋に一直線に生きているイタリアを説得するのはもはや不可能だと知っているので諦めるが、差異をなんとなくでも分かっている筈のフランスが、訂正しなかったことが憎らしい。
今度、フランスの家の厨房でお菓子を作ってやる。誰ってイギリスが。硬く心に誓いながら、アメリカはまあまあ、と苦笑するフランスを許さず、睨みつけながら言った。
「それで、君はなにを知ってるんだい? フランス。そのあとなにがあって、イギリスは……カナダを」
俺と間違えるようになったんだい、と。言葉はどうしてか告げられなかった。アメリカは、イギリスがカナダを大切にしていたことを知っている。カナダをカナダとして、大切に育てていたことを知っている。アメリカとカナダの区別がついていたのも知っているし、覚えているのだ。フランスの話ではその時点まではもちろん、きちんと区別がついているようなので、問題はその後になる。その後のどこかで、判別が出来なくなったのだ。
知っているんだろう、と問い詰めるアメリカに、フランスは哀れみに良く似た表情で、静かに視線を投げかけた。
「お前は、言っても理解しないだろうよ。アメリカ」
「……なんでだい」
「お前には見えないからだ。そしてお前は、その存在を否定するからだ……分かるだろ?」
だからアメリカにだけは説明しきれる自信がお兄さんないのよ、と茶化した響きでため息をつくフランスに、日本が息を飲む。察しの良い国だから、すぐに分かったのだろう。古来の文化が廃れ、自国の妖怪を見ることも思い出すことも困難になっても、日本はイギリスのそれなら知っていた。見ることも可能だ。英国に降り立つ時に限って、視認できる。妖精、と呟いた日本に、フランスはしっかり頷いた。なによりの肯定だった。
「カナダは、妖精と契約した。契約内容はイギリスについて。詳しくはお兄さんも知らないよ、カナが教えてくれないからね。俺が知ってるのは、その契約に至る条件だ……妖精は契約において、残酷なまでに手厳しい一面を持っている。生半可な条件じゃ、提示した時点で怒りを買う。カナは賢いコだ。妖精との付き合い方も知っていた。妖精もカナをよく知っていたから、差し出すべきものは決まってただろうよ」
「……カナダさんは、なにを差し出したんです?」
それを、告げられなくとも誰もが理解していた。それでも日本はあえて問い、フランスは言葉に表した。
「イギリスの中の、カナダを……カナダの『認識』を代償にして、カナダはイギリスを助けたそうだ」
「認識、ですか」
「そうだ。記憶が無くなるわけじゃない。想いが消えるわけじゃない。今のイギリスに聞いても、カナダを育てたのは俺だって言うだろうし、でれでれした顔でいかに可愛かったか語ってくれると思うぜ? ウザいくらいに。……消えたのは認識だけだ。だからイギリスは、カナダを前にしても、それが誰なのか分からない。良く似た顔だから、アメリカと間違える。カナダだって言われればカナダだ、と思えるが、一時的で長くは続かない」
妖精の契約は絶対だ、とフランスは告げる。
「もしイギリスが、それでもカナダを『カナダ』だと認識してしまえば契約が崩れる。カナダがそこまでして守ろうとしたイギリスのなにかが」
「フランス」
これ以上は不機嫌になれないよ、とぶすくれた顔で言葉をさえぎったのはアメリカだった。椅子に座りなおして机に肘をつき、頬に手を押し付けて、指先の間から鋭い眼差しを投げつけてくる。坊やもうちょっとで終るから黙っててくれないかねぇ、と苦笑するフランスに、アメリカは超大国らしい威圧感を隠そうともせず、ハッキリと声を響かせた。
「嘘、つくのやめてくれないかな」
「なんのことだか。お兄さん、よく分からないな」
「フランス。知ってるんだろ? カナダがなにを守ろうとしたか……俺がらみの、イギリスの、傷だろうけど」
じっと、フランスはアメリカを見つめて口を開かなかった。アメリカもまた無言で、フランスをにらみ返している。やがて降参だとばかりに肩をすくめ、フランスは思い切り苦笑した。
「空気読めないままでいようや、坊や」
「ごまかさないでくれ。それで?」
それで、フランス、と。かつて希望に満ちた響きで物語の続きをねだった声を思い出し、フランスは随分成長しやがって、と苦笑した。できれば話さないままでいてやりたかったが、もう仕方がないだろう。ごめんなカナダ、と心の中で謝って、フランスは静かに口を開いた。思い出の中で鮮やかに、輝く色彩がある。紫と緑が入り混じった、不思議に揺れるカナダの瞳。ひとにも、『国』にも宿らないであろう、その色彩こそが。
代償を支払って『妖精』と契約した、その証だった。
体中を駆け抜ける痛みに、声も出なかった。恐らくそれは本当は、感覚的に『痛い』というものではなかったのかも知れないけれど、経験の足りないカナダにはどうしてもそうとしか受け取れず、悲鳴にならない震えで空気を染めてしまう。周囲に浮かぶ妖精たちや、なによりカナダの重鎮たちが悔しそうな、悲しそうな、辛そうな、申し訳なさそうな、心配そうな視線を向けるのを感じていて、大丈夫だと笑ってやりたいのに。
それが、どうしても出来なかった。微笑むことすら、呼吸することすら困難で、カナダはひゅっと喉がいやな音を立てるのを他人事のように耳にする。か細い息を吸う込むたびに、体中にしびれが走る。血が体中を巡るたび、炎を飲みこんだような熱が生み出された。侵略されている。国土が踏みにじられ、荒らされている。そのことに対する土の怒り、大気の悲しみ、人々の不安と憎しみが、『国』の体に跳ね返ってくるのだった。
ここにあるのは確かに自分の体であるというのに、やけに現実感と実感が遠い。かすむ視界で見つめた指先は意思の通りに動くのに、それすら糸を括られ、操られているようにも感じる。得体の知れない気持ちの悪さは一秒ごと、一分ごとにどんどん大きくなって行き、カナダの精神を暗闇に突き落として行く。それでも目を閉じて意識を逃がしてしまわなかったのは、すぐ傍に、カナダを見守る国民の存在があるからだった。
この国を愛し、この『国』を愛す国民の存在は、それだけでカナダの心を救い上げる。嵐の最中にふと見えた灯台の光にすがるような気持ちで、カナダはうずくまったベッドの脇に集う、この国を動かす者たちを見た。誰もが言葉にもできないような苦痛を堪え、もだえ苦しむ祖国を見守っている。見つめて、守ってくれている。ああ、大丈夫だ、とカナダは苦しい中で、不意に楽に息を吐きだした。大丈夫、大丈夫、とふと笑みを刻む。
こんなに守られている。こんなに、信じられている。ひとは誰も声をあげず、泣くことも嘆くこともせず、己の命運を託すような気持ちで『国』の傍にあった。微笑んだカナダの想いに奮い立ったように、天井の近くで怯えていた妖精たちが、ふわりと降りてくる。ひとに、それが視認できる筈もない。可能なのはごく僅かな存在や、濁らぬ瞳を持った幼子だけで、世界に挑みかかる為に時を重ねた者たちは、それを見ることができない。
それなのに、誰もが、舞い降りてくる光に目礼した。幾億もの感謝が降り注ぐのに力を得て、妖精たちがカナダの額に口付けを送る。その神聖な力は、苦痛を消し去る直接の力になることはできない。可能なのは、その助けとなること。カナダがそれを望めば、その背を押して手を取って、安らかな場所に導いて行くだけの、助け。カナダは大きく息を吸い込んで、痛みにかき消されてしまいそうな意思を、集中させていく。
シーツを大きく乱すばかりだった手を、離す。震える腕を持ち上げて強く己の体を抱きしめ、カナダは自分という存在に現実感と、実感を取り戻そうとした。ダメ、と己にこそ、強く言い聞かせる。この髪の一本、この爪の先まで、喜びに悲しみに落ちていく涙すら、すべてがカナダのもの。この国のもので、この、『国』のもの。侵略してくる者に明け渡す訳がなく、それを決して、許しはしない。だって守れ、とカナダは言われたのだ。
守れ、とイギリスがカナダにそれを命じたのだ。ならば、それを守らなければ。なんとしても、守らなければ。ぎゅうぅ、と腕に力を込めながら肺の奥にまで息を吸い込み、その瞬間、痛みの感覚が遠く引いたのを感じて、カナダはゆったりと微笑んだ。潮が引くように、荒れ狂っていた感覚が遠い。侵略が止まない限り『痛み』が消えることはないだろうが、それでももう、飲み込まれてしまうことはないだろう。ゆっくり、体を起こす。
ああ痛かった、とのんびり呟いて微笑み、カナダは集まった国の重鎮ひとりひとりの顔を見た。
「ありがとう。心配をかけました」
「いえ……いいえ、我が祖国」
歓喜の涙を胸いっぱいに満ちさせて、初老の男が『国』に対し、深々と安堵の礼を捧げる。ごめんなさい、ではなく、ありがとう、と言葉を選んで告げてくれたことが、なにより誇らしかった。初老の男の足元をすり抜けるように、クマ次郎さんがやってくる。『痛み』に飲み込まれる寸前、抱き頃してしまうかもしれないから、とカナダが自ら遠ざけていたのだった。クマ次郎さんは粛々と国民の間を歩き、ベッドによいしょとよじ登る。
そして満足そうに、安心したようにカナダの胸にもふりと身を寄せて来た。カナダはくすくすと笑いながらクマ次郎さんを柔らかく抱きしめ、おかえり、と囁く。もふもふの毛並みに頬ずりをしてうっとりと目を細め、カナダはゆるりと息を吐きだした。『痛み』から脱したので、カナダは国民に対して告げなければいけないことがあるのだった。彼らはいずれ、報告でそれを知るだろうけれど。この場で、『国』の口から言っておきたかった。
「エリー湖とオンタリオ湖。あの辺りまで、アメリカが来てる。……でも、川が。セント・ローレスが越されてない」
そこで食い止められている、とカナダは『国』として、その防衛を誇るような響きで言い放った。国を担う者たちは動揺に一瞬だけざわめき、しかし強い表情を崩さないカナダに、落ち着かされたように口を閉ざす。カナダは、全く慌てていなかった。それ以上は来させないと告げているようであり、それ以上は侵略させはしないと、前線の兵士たちを信頼しているようでもあった。大丈夫だよ、と言いたげに、穏やかに甘く微笑んでいる。