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 ゆるりと落ちてくる木漏れ日のような光を灯し、ペールグリーンの瞳が微笑んでいた。それでも、全く平気な訳ではない。アッパー・カナダ。そう呼ばれる地域の感覚が、カナダから奪い取られていた。それは冷たい氷の塊が体の中にあるようで気持ち悪く、ひどく落ち着かない。困った、と言いたげに苦笑して己の感覚を持て余す『国』に、舌打ちをこらえた重鎮たちは苦い顔をし、一人はカナダに手を伸ばしてぽん、と頭を叩く。
「痛みは? 親愛なる我が祖国」
「今は……今は、大丈夫。ええと、すみません。見苦しいところを、見せて。こんなんじゃ……」
 ここで嘘をついても、なにも良いことはない。己の状態を慎重に探りながら告げたカナダに、重鎮たちは一様にほっとした表情で胸を撫で下ろし、言葉を途切れさせた『国』を見つめた。こんなんじゃ、とその言葉を何度か口の中でころがした後、カナダは溜息に乗せるように囁いた。イギリスに、笑われてしまうかも知れない。失望されてしまったらどうしよう、と真剣にしょんぼりとしているカナダの腕の中で、クマ次郎さんが動く。
 まだ成長の伸びしろを残した白いクマは、大きめの人形程度の大きさである。大型犬の腕の方が太いであろうと思わせる手は、だからこそ硬く大きな爪を持っていても、どことなく可愛らしく見えた。ひとの皮膚なら簡単に切り裂いてしまうその手がもふもふと動くのを、重鎮たちはどこか安心した様子で見守る。いつからか『国』の傍にあったこの白クマは、ペットのようであり、パートナーのようであり、そして精霊のようでもある。
 『国』とは違う、それでいて自然に生まれたいきものとも違う。『国』の傍に寄り添って生きるいきもの。体をぐーっと伸びあがらせ、もふもふ、と手で頭を撫でてくるクマ次郎さんに、悲しげな色をよぎらせていたカナダの瞳がふうわりと和む。なあに、どうしたの、と囁く声は柔らかで、国民の心をも落ち着かせるようだった。『国』の声は、得意な力を持つものではない。それでも愛す祖国の声は、国民の心を癒して行くのだった。
『頼レ』
「……え?」
『俺タチヲ、頼レ。オ前ヲ支エル、俺タチヲ頼レ。一人ジャナイ』
 なにもできないかも知れない。それでも、一人にだけはさせない。その意思を乗せた訴えを、たどたどしくクマ次郎さんは口にして、カナダの胸に顔を擦りつけた。半ば反射的な動きで頭を撫でてやりながら、カナダは想いが胸に満ちていくのを感じた。唇を噛む。目を伏せて頷いたのは、涙がこぼれてしまいそうだったからだった。嬉しい。愛しい。温かい。うん、と呟く動きにさえ涙がこぼれていきそうで、カナダは息を吸い込んだ。
「うん。……そうだね。そうだよね」
 ありがとう。そして、ひとりで頑張ろうとしてしまってごめんなさい。やがて顔をあげた祖国に穏やかな口調で囁かれ、その場に集った重鎮たちは、一様に『国』に対して頭を下げた。カナダがくすぐったそうな表情で笑い、クマ次郎さんをぎゅぅ、と抱きしめながら呟いた。顔をあげて、普通にしていてください。僕の国民。僕が愛するひとたち。ね、と囁かれ、重鎮たちはそれぞれに穏やかな表情を浮かべ、『国』の望みに応えた。
 カナダは嬉しそうに、満足そうにベッドの上でクマ次郎さんを抱きしめ、ふわふわの毛並みを撫でながら溜息をつく。さて、困ったなぁ、と言いたげに目を細めたあと、カナダはぼそりと呟いた。
「それにしても、本当にアメリカには困ったなぁ……どうして侵攻なんかしてくるんだろう」
 おかげで体も痛いし、皆には心配かけちゃうし、国民は不安になるし、良いことなんてひとつもないのに。ふてくされた言葉は青年の十代後半に見える外見を鑑みてもどこか幼く、重鎮たちの笑いを誘った。さわりと空気が笑みに揺れるのに眉を寄せ、カナダは溜息をつきながら言う。話し合い、できればいいんだけど。話し合いじゃなくても、普通に会話とか。だってどうしても、カナダには分からないのだ。攻め込まれる理由が。
 宣戦布告にあたって、それらしき言葉が下されたのをカナダだって知っている。ただそれは直接叩きつけられたものではなく、カナダはそれを、イギリスの口から聞いたのだった。当たり障りのない、カナダの心を傷つけないように加工された言葉は、だからこそ上手く受け入れられるものではなかったのだ。そして『国』がそうである以上に、国民が隣国からの侵略を、戦争を納得していない。理由が、理解できていないのだ。
 国民がその状態である以上、彼らの想いを胸に受けて生きる『国』が、どうして納得することができようか。受け入れることができようか。話がしたいよ、とカナダは言った。真剣に望む表情に応えてやりたいと思いながらも、重鎮の眉が思い切り寄せられた。
「祖国」
「だって。……だって、アメリカと僕は兄弟だし、話くらいならしてくれるんじゃない、かな……。もちろん、『国』同士じゃなくて、個人的な話し合いであることは間違いないだろうけど。……話が、したいよ。アルフレッドと、話が」
 マシューとして。そうすれば、この暗雲立ち込める情勢に一筋の光を射すことができるのではないか、と。言葉にせずともそう信じているようなカナダに、重鎮たちはそっと視線を外して黙りこんでしまう。呆れたのではない。どう説得すれば祖国を納得させ、諦めさせることができるのか、と真剣に考える為だった。じわりと滲むような希望を胸に灯している『国』を見ながらそれを考えるのは、ひとには、ひどく困難な作業だ。
 はきと言葉にされずとも、雰囲気で賛成されていないことは理解したのだろう。複雑な表情で苦笑するカナダに、言葉を叩きつけたのは妖精たちだった。そして妖精たちは、遠回しな言葉を選んで止めようとする人間と違い、感情をそのまま言葉に代えて叩きつける。宝石の輝きのように目に眩い光を纏い、妖精たちはカナダの顔を取り囲むように移動すると、腰に手を当ててずいと身を乗り出した。ダメ、と一人が口火を切った。
『ダメ、ダメダメダメ! 絶対、ぜーったいダメー!』
『そうよそうよ! ダメに決まってるじゃない! だってアメリカは、私たちのイギリスにだって銃を向けたのよっ?』
『しかもイギリス泣かせたのよっ? カナダなら簡単に泣かされちゃうに決まってるじゃないっ!』
 十分だって会話してみなさい、絶対泣いちゃうに決まってるんだから、と主張する妖精たちの言葉に、カナダは不安定に視線を彷徨わせた。それはいったい、外見年齢がいつ頃の話をしているのか、と言いたい。すくなくとも、カナダの身長が大人の膝の高さくらいであった時期の喧嘩であり、現在には決して当てはまらないことは明白だった。それでも強い言葉で否定しきれないのは、泣いたことがない、と言えなかったからだ。
 もちろん、どんな言葉であってもすぐに泣く、ということではない。感情が降り積もって、降り積もっていっぱいになって、満ちて、胸の中に満ちてどうしようもなくなってしまった時だけ、カナダはころりと涙をこぼす。泣く、という言葉を当てはめるよりも、それは涙をこぼす行為だ。しかし、見守る妖精たちにとって、その違いは関係ないのだろう。絶対にダメですからね、と言い聞かせられるのに反抗して、カナダはそっと口を開いた。
「大丈夫、だよ。泣かないよ。……頑張れば」
 頑張らなければいけない時点でもうダメだと思う、という重鎮たちの視線に、カナダは気が付いていないらしかった。重鎮たちはカナダの発言で妖精たちの援護射撃、その内容をなんとなく伺い知り、なんと優秀なお目付け役であることか、と安堵に胸を撫で下ろす。だってアメリカはあれで優しいところもあるし、話し合いしたいって言えばきっと、と妖精たちに向かって続けられるのを制して、先程カナダの頭を撫でた重鎮が口を開く。よろしいですか祖国、と。
「宗主国……イギリス様に、くれぐれもカナダに無理をさせないように、と私たちはきつく言いつけられているのです」
 きつくです。本当に、本当にきつく言いつけられているのです。繰り返し、言葉が染みいるように言った重鎮に、カナダは戸惑った風に首を傾げ、うん、となんとか頷いた。ぎこちない仕草に心から息を吐きだしたくなりつつ、重鎮は続ける。その上で、対個人であっても話し合いを望まれるのであれば。
「まず、イギリス様に連絡を」
 あちらはあちらで大変お忙しいでしょうが、折り入っての相談であることを告げればどうにでもなるでしょう。微笑みながら一息に告げた重鎮に対して、カナダは顔色を悪くしなら横に首を振った。それは怖い。とても怖い。イギリスはカナダに対しては優しい。その優しさはいついかなる時であっても発揮されるものだが、さりとて怒らないということではないのである。アメリカと話をしたい、とイギリスに求めるというだけで、怖い。
 独立戦争。そのことは、イギリスにしてみれば今も耐えがたいことであるらしい。カナダが悲しみを感じる程に厳しい態度は和らぐ気配もなく、今回の戦争においても、イギリスはアメリカに対して苛烈な怒りを見え隠れさせている。フランスと繰り広げている戦争の八つ当たりも十分含まれているとは思うのだが、それにしても、導火線にわざわざ火をつけに行くことなどしたくないのだった。口ごもるカナダの脳裏に、声が響く。
『いいか、カナ?』
 にっこり微笑んで告げる、イギリスが目に浮かぶようだった。
『俺は、俺の可愛いアメリカのみならず、カナ、お前も『アメリカ』に奪われるようなこと、絶対に許さないからな』
 それを知った上で行動するように、と微笑むイギリスを振り払ってまで、カナダがアメリカとの会話を望める訳がない。なににせよ怖いし、それ以上に、カナダがイギリスの望みを裏切るということは不可能に近い。諦めるしかないのかな、とカナダはしょんぼりとクマ次郎さんに顔をうずめた。落ち込みながらも頭を動かし、独立戦争、そのことを想う。重大にして決定的なアメリカとイギリスの離別は、まだ終わっていなかった。
 イギリスの混乱が、正常に戻らないからだ。イギリスの意識混乱は深く、それでいて表面的には落ち着いてしまっているからこそ、恐らくはカナダ以外に誰もそれを正確に把握していないだろう。イギリス自身も、分かっていないに違いない。己の内側に潜む重大な齟齬は、自分のものだからこそ、見つけることができないのだった。イギリスは、アメリカを知らない。イギリスの手を振り払って去った者を、アメリカだと認めない。
 己の愛し育てたアメリカと、独立して立ち去ったアメリカ。二つの存在はひとつの線上に存在する同一のものであるというのに、イギリスの中でそれが、完全に切り離されているのだ。そのことについて、カナダが詳しく聞けたことはない。けれど言葉の端々から、どうもイギリスはアメリカが『俺の可愛いアメリカ』を奪い、永遠に会えなくなってしまった、と思っているらしかった。殺された、とまでは思っていないことが救いだった。
 その辺りの事実も踏まえ、カナダは一度じっくりと、アメリカと話をしておきたいのだが。その機会は今まで巡らず、そして今回も、どうすることもできないらしい。もう一度だけダメかなぁ、と溜息をついて呟くカナダの腕の中で、クマ次郎さんがもそもそと動く。モチロンダメニ決マッテンダロ、ときっぱり言われてしまったので、カナダは無言でクマ次郎さんの毛皮に鼻先をつっこみ、もふもふとした気持ちいい感触を思うまま堪能した。
 気分は、晴れないままだった。



 星の明るい夜だった。静けさに満ちた夜だった。戦況は落ち着き、カナダの体から遠ざかった痛みを喜ぶかのように、空には満天の星が瞬いていた。通りを行く者はなく、生き物は穏やかなまどろみの中に居る。国の重鎮たちは今日も、殆ど眠らずに夜を過ごしているに違いない。彼らの頑張りあってこそ、街の空気は穏やかな安定を取り戻しているのだった。それを考えれば、『国』であるカナダは休んで居られない筈だった。
 母国『イギリス』はこうした時、軍人に混じって前線にも立てば、官僚の元について議論を交わしたり、言葉を与えたりしているという。だからこそ当たり前のように、カナダも休んでなんていられないと言ったのだが。その要求は、あえなく却下された。清々しいほどの満場一致を得た、反論の余地さえないような却下具合だった。彼らは一様にイギリスさまの真似をすることはないとカナダに言い、口を揃えて同じように言った。
 あなたはあなたなりのやり方で、私たちを想ってくださればそれでいいのだ、と。もしも前線に立ってくださるというのならば、それは兵士たちの誇りとなり、誉れとなることでしょう。けれど私たちは国民として、あなたが傷つくさまを見たくはない。政治の中枢で思考を巡らせ、言葉を武器にして世界に立ち向かうというのなら喜びと輝きが胸に満ちるでしょう。けれど私たちは国民として、あなたが無理をするさまを見たくはない。
 武器を手に取り戦うことも、言葉を操り戦うことも、結果として誰かを、なにかを傷つけてしまう。争いとはそういうことだ。国を守るとは、そういうことだ。攻め込んでくる外敵に対して抵抗するということは、そういうことなのだ。カナダは『国』である。『国』としては、国民を守る行為は誇らしく、呼吸と同じように自然に出来ることなのだった。しかし『国』として、カナダの心はあまりに穏やかで柔らかい。それは尊き守護の心だった。
 守ることと、攻撃することは違う。けれど攻撃に対しての反撃は、己とそれに類するもの達への守護でありながら、やはり攻撃でしかないのだった。そのことは、カナダの心を酷く傷つける。武器であっても、言葉であっても、同じことだった。だからこそカナダ国民は、胸を張って祖国に告げたのだった。あなたはどうか、私たちを愛していてください。優しい場所で傷を癒しながら、戦う者、守る者全ての幸福を祈っていてください。
 あなたの意思はこの国の大地、この国の大気を伝わって隅々まで広がり、前線に立つ兵士たちの胸にも、家で父の帰りを待つ幼子の寝顔にも、不安を振り払いながら明るく笑う乙女たちにも、等しく愛を伝えていくでしょう。この『国』に愛されているという実感。それこそが私たちを守り、私たちを強くするのです。ですからどうぞお休みを。有無を言わせない笑顔で告げられた言葉は喜びに満ちていて、カナダは反論できなかった。
 この国のどこかで、今も誰かが戦っている。胸をざわつかせる感覚にそれを確信しながら、カナダは溜息をついてベッドにもぐりこんだ。愛する国民にそこまで言われて、望まれてしまえば、『国』としては決して逆らうことができないのである。カナダの現在の最重要使命は国民を愛することで、そして躊躇いなく休むことだった。イギリスが知ったら呆れないかなぁ、と溜息をつきつつ、カナダはクマ次郎さんを胸元に抱き寄せた。
 先にベッドにもぐりこんで眠っていたクマ次郎さんは、もごもごと眠たげな身動きをした後、不満そうにカナダの胸に顔を擦りつけてくる。起こすな、ということだろう。ごめんねー、と歌うような囁きでクマ次郎さんを撫でていると、やがてくうくうと可愛らしい寝息が聞こえてくる。また、眠ってしまったのだろう。可愛いなあ可愛いなあ、とうっとり笑ってクマ次郎さんを見つめ、カナダはベッドサイドの明りを落とし、枕に頭を乗せた。
 眠る為に目を閉じると、室内のかすかな音が耳に飛び込んでくる。時計の針が規則正しく進む音と、胸元から響いて来る、クマ次郎さんの寝息。布団もクマ次郎さんの体も嬉しくなるくらい幸せな温かさで、カナダはとろり、と意識をまどろませた。眠りは、すぐにやってくる筈だった。コトン、と外側から内に向かって響く、ごくかすかな音さえしなければ。意識はすでに眠りたがっている。けれどその音が、カナダの意識を繋いだ。
 なんだろう。半分夢の中に居る意識でそう思い、カナダはうっすらと目を開く。ぼんやりとした薄闇は、満天の星空のせいだろう。眩いほどに明るい夜は、漆黒の闇を遠ざけていった。コトン、と物音が響く。家の外からのようだった。窓の辺りから、それは響いていた。やがてコン、と窓が鳴る。コンコン、と扉をノックするように、窓ガラスが外から叩かれている。カナダを呼ぶ声はしない。ただ、ノックの音だけがちいさく響いている。
 呼び声のようだった。か細く、それは途切れずに続いていた。ほぼ無音のなめらかな仕草で体を起こし、カナダはクマ次郎さんを起こさないように寝かしつけ直した。ぽんぽん、とシーツの上からクマ次郎さんに触れてからベッドサイドを離れ、カナダは音のする窓へ向かう。薄いカーテンを一息にひらき、窓にかかっていた鍵を開けた。その音が、外にも聞こえたのだろう。待ち望んでいた喜びで、窓は外側から開かれた。
「やあ! おはよう、カナダ!」
「おはようじゃないよ。こんばんはでしょう……? ……って、えっ? アメリカっ?」
「あはは、寝ぼけてるね? 驚いたのは分かるけど、声は控えめに頼むよ」
 見つかっちゃったら大変だろう、と笑いながら唇に人差し指を当てて首を傾げる青年は、たしかに『アメリカ』である存在に他ならなかった。満天の星明かりを受けてきらめく金の髪はまばゆく、朝焼けの尊い美しさを秘めた瞳はくもりのないスカイ・ブルーで眠気の欠片すら宿してはいない。長袖の薄手のコートの下は茶褐色の軍服で、それはごく当たり前のことながら、アメリカ合衆国の陸軍のものだった。カナダのものではない。
 あえぐように息を吸い込み、カナダはアメリカの名を呼んだ。掠れて、悲しく響く呼び声だった。室内の暖められていた空気が、開け放たれた窓から逃げていく。冷えた空気が、カナダの頬に冷たく触れた。どうして、と万の意味を込めてささやいたカナダに対する返答は、言葉ではなかった。双子のようによく似た兄弟。血を分けた片割れを求め、アメリカの腕が伸ばされる。家の外に立つ者が、家の中に居る者を不自然に求める。
 その腕に捕らえられて、カナダはくっと唇をかみしめた。突き飛ばして窓を閉めるのが、『国』としての最良の選択だ。カナダは『国』であり、そしてアメリカもまた『国』で、両国は戦争中なのだから。それでも、それなのに、ふたりは兄弟だった。幼い頃を共に過ごした。そして最愛の存在から、ひととしての名前をも、授かっているのだった。マシュー・ウィリアムズと、アルフレッド・F・ジョーンズ。ひととして存在する為の、その名前。
 マシュー、と万の想いを込めた囁きが送られる。マシューは下げていた腕を持ち上げて、アフルレッドの背中をぎゅぅと抱きしめた。アルフ、とたどたどしくマシューは名を呼ぶ。アルフレッド。僕の兄弟。
「あい、たかった……会いたかったよ、アルフレッド」
「うん。俺も。……俺も、君に会いたかったんだぞ。マシュー。俺の兄弟」
 君に、君という存在に、とても会いたかった。互いに同じ想いを抱いて、二人がぎゅぅ、と腕に力を込めて抱きしめ合った。それでも、家という守護の区切りが二人の抱擁を不自然なものにしている。窓枠の、向こう側とこちら側。外側と、内側。その絶対的な隔たりが、二人をひとつにはしなかった。それでも抱擁を解かないまま、やがてアメリカはカナダの肩から顔をあげ、兄弟の瞳をそっと覗いて来た。視線が、すぐ近くで重なる。
「……体、痛い所は、ないかい?」
「今はね。でもこの間、すっごく痛かったよ。……もう! どうして侵攻なんてしてくるの? 帰ってよ」
 僕の国民に、君と戦って欲しくないよ。告げれば、アメリカはカナダを抱きしめたままでうん、と頷いた。サラサラの髪が首を撫でてくすぐったい。思わずくすりと笑いながら咎めるようにアメリカの名を呼ぶと、カナダの兄弟は苦しげな声で一言だけを告げる。ごめんね、と。弱い言葉に、カナダは思わず目を見開いた。それはあまりに、彼に似つかわしくない言葉だった。いつもまっすぐ言葉を届ける者とは、思えない揺れた声だ。
 アメリカ、と呼びかけるカナダに、青年は一瞬口ごもり、やがて感情が爆発したような勢いで叫ぶ。
「俺だって! 俺だって君が、痛がるようなことしたくなかったよ! でも上司と、国民の一部が騒ぐんだっ! ……それに」
「それに? ……それに、イギリスに対する反抗?」
 かんしゃくを起こした幼子を宥めるように、カナダはアメリカの髪を手で梳いていた。そうしながらごく冷静に囁かれ、問いかけられて、アメリカは言葉が出せなくなる。困ったように細められるカナダのフローラルグリーンの瞳も、温かく響く声も言葉も、なにもかもがアメリカを責め立ててはいなかったからだ。カナダは、ただ辛そうだった。痛そうに、呟いていた。苦痛を堪えるそのさまに、アメリカは息を飲み、言葉を出せないでいる。
 黙りこんでしまったアメリカの頬を、カナダは全く困り切った仕草で撫でてやった。ふふ、と愛おしげに笑い、カナダは目を細めて笑う。吐息が夜の空気を揺らし、沈黙の鋭さをわずかに和らげた。
「ねえ、アメリカ。イギリス、泣いてたよ。……苦しんでたよ」
「イギ、リスは……そんなこと、くらいで」
「独立戦争の時っ!」
 そんなこと、と告げたのがなにを差していたにせよ、それはカナダには許容できない言葉だった。滅多に叫ぶことさえしないカナダの荒々しい声に、アメリカはびくりと体を震わせる。抱擁が、無意識に解かれた。一歩退いてしまおうとするアメリカを許さず、カナダは手を伸ばして兄弟の腕を捕まえた。二人は家の中と外にいて、窓と壁が体を隔てている。それが、たまらなく邪魔だった。乗り越えてしまいたいとも、思った。
 それでも、カナダは家の中に立ち続ける。アメリカは、外に立っている。激情に震える体を叱咤するように息を吸い込み、カナダは淡々とした声で知ってるんだよ、と言った。知っているでしょう、とアメリカにも問いかけた。
「あの雨の日。イギリス、泣いたじゃないか。君も見ていた筈だ」
「……それはっ」
「あの、誇り高いひとが」
 君を失いたくないって、泣いたんだよ。眉を寄せて切なげに囁くカナダこそ、泣きだしそうだった。世界はしんと静まり返っている。音もなく瞬く星だけが、夜の中の二人を見守っていた。
「あんなにボロボロになるまで戦って、抵抗して。あの一瞬、引き金を引いていれば全て違っていただろうに……それが分かっていても、あのひとは、君を撃たなかったんだよ? 撃てなかったんだよ。君を……君を、あんなに愛していたあのひとに、どうして……どうして君は、苦しめてしまうことばかりするの。どうして僕まで、あのひとから奪おうとしてしまうの」
「カナダ、それは」
「……ねえ、なにしに来たの? アメリカ」
 ここはカナダだよ、とその『国』は笑った。静まり返ったまばゆい夜の中、唯一、英国から受け告いだ緑の色彩を宿す瞳を、うっとりとまどろませて。彼の国を苦しめる『国』を、穏やかに見つめた。
「ここはカナダ。英領カナダだよ、アメリカ合衆国」
 ざっと風が吹いて、カナダの髪を揺らしていく。ふわりと微笑むカナダの表情は普段のものであるのに、それはぞっとするような、狂喜に近い誇りに満ちた宣言だった。英領であることを、誰にも侵されるものかという気迫さえ感じさせる言葉だった。突き放されたように響く呼称にアメリカは苦しげに顔を歪め、意味が分からないと首を振る。カナダ、と片割れを呼ぶ声は、困惑に満ちていた。その誇りは、理解できないものだった。
 自由を求め、自由の旗本に勝鬨をあげた『国』にとって、全く受け入れられないものだった。
「英領……。君は、それでいいのかい? 自由が欲しくないのかい? ……俺みたいに、自由に」
「うん。イギリスを傷つけてまで得る自由なんて、僕には必要ないんだよ。アメリカ。……それにね」
 にっこり、と音が聞こえてきそうな意図的な表情だった。それは幼い頃に花のかんばせ、とからかわれた印象そのままの、柔らかい笑み。それでいて作り物めいた、精巧な笑みだった。カナダ、と唇だけで片割れを呼ぶアメリカに、フローラルグリーンがあでやかに笑う。もう決めてしまったことを告げる、それは宣言で、宣誓だった。
「僕は、イギリスを守り、イギリスを愛するその為に君と戦う。もう、そう、決めたんだ。……決めているんだ。ごめんね、アメリカ。イギリスの傍にいられなくなるなら、このままがいい。イギリスから勝ち取る自由なんていらない。イギリスを傷つけた……君みたいに、僕はならないよ」
 窓という仕切りを隔てて、家の中と、外に立って。いびつな左右対称として、カナダとアメリカはお互いをじっと見つめていた。永遠の可能性すら秘めた静寂を、カナダの柔らかな笑みが打ち破る。ふふ、と華やかな笑い声で夜を揺らし、カナダはアメリカにそっと告白した。
「イギリスのことが、好きなんだ」
 父であり、母であり、兄でもあった誇り高いひと。優しい微笑みを浮かべるひと。美しい声で言葉を紡ぐひと。朝には額におはようのキスを、夜には頬におやすみのキスをくれたひと。宗主国。イギリス。その存在をカナダは、なにより、誰より、いつしか自然に愛していた。恋をしたきっかけは思い出せない。共に時を重ねていく中で光のように芽生え、そして育った恋だった。それはもう諦められないものだった。どうしても。
 手放せない、恋だった。
「だから僕は、アメリカ合衆国には屈さない。僕は、英領カナダだから。分かる? アメリカ。イギリスのもの、ってことだ」
 君の目の前にある、この、と。カナダは手を動かして、己という存在を見せ付けた。はちみつ色の髪を指で巻き、頬を上から下に撫でて、イギリスと似た色をした瞳を細めて笑う。胸に手を押し当てて、呼吸に上下する動きさえ誇らしげに、鼓動を感じて目を細めた。
「この、僕のすべてが今はイギリスのものだ。君が手放した権利で、僕が持つ絆」
「カナダっ……君はっ!」
「どうして来たのさ、アメリカ」
 君にこんなこと言いたくなかったよ、と目を細めて柔らかく笑い、カナダは問いを繰り返す。
「どうしたの? アメリカ。そんなに、イギリスを独り占めしたかった?」
「そんな……つもりじゃ。ただ俺は、イギリスを」
「……対等になりたくて、弟じゃ嫌で、守りたくて。イギリスの、ヒーローになりたくて」
 溜息と共に言葉を並べ、カナダは絶句したアメリカに向かって悲しげな表情で問いかけた。確認の響きだった。
「それを、イギリスに、言葉にして伝えなかっただろう?」
 だから伝わらなかったんだよ、と今も傍にある者から教えられ、アメリカは目を大きく見開いた。間違えてしまったことは知っていた。気がついた時にはもう後戻りもできなくて、こうして話をすることさえ出来ない状況で、伝えられる機会がなくなってしまったことも分かっていた。けれど心のどこかで、ほんのすこし期待していたのだ。分かっていてくれることを。かすかにでも良いから、伝わっていてくれることを。それが、崩された。
 大きく息を吸い込んで口を閉ざしたアメリカに、カナダはしょうがないな、と苦笑する。
「カナダから、出て行ってよアメリカ。そうしたら、僕がイギリスを説得してあげる。君と、ちゃんと話を、って」
「それは……」
「うん。国民と上司の意思に、『国』が逆らうのは難しいって知ってるよ。でも、僕もこのままじゃ嫌なんだ」
 お願い、返してあげて、とカナダは泣き出しそうな目でアメリカに懇願する。あまりに弱い響きだった。それ故に、アメリカは意味することを理解できず、首を傾げて問い返す。なにをだい、と響いた言葉にカナダはしばらく口を開けなかった。告げれば、先程の非ではなくアメリカを打ちのめすことが分かっていたからだ。しかしここまで来たら、言わなければいけない。それにいずれ、分かることだ。カナダは、顔をあげて息を吸う。

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